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銀河鉄道の夜
宮沢賢治
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一 午後の授業
﹁ではみなさんは、そういうふうに川だと言(い)われたり、乳(ちち)の流(なが)れたあとだと言(い)われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承(しょ)知(うち)ですか﹂先生は、黒(こく)板(ばん)につるした大きな黒い星(せい)座(ざ)の図の、上から下へ白くけぶった銀(ぎん)河(がた)帯(い)のようなところを指(さ)しながら、みんなに問(と)いをかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急(いそ)いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑(ざっ)誌(し)で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気(き)持(も)ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。
﹁ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう﹂
ジョバンニは勢(いきお)いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席(せき)からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた言(い)いました。
﹁大きな望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)で銀(ぎん)河(が)をよっく調(しら)べると銀(ぎん)河(が)はだいたい何でしょう﹂
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困(こま)ったようすでしたが、眼(め)をカムパネルラの方へ向(む)けて、
﹁ではカムパネルラさん﹂と名(な)指(ざ)しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
先生は意(いが)外(い)なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急(いそ)いで、
﹁では、よし﹂と言(い)いながら、自分で星図を指(さ)しました。
﹁このぼんやりと白い銀(ぎん)河(が)を大きないい望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう﹂
ジョバンニはまっ赤(か)になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼(め)のなかには涙(なみだ)がいっぱいになりました。そうだ僕(ぼく)は知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博(はか)士(せ)のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑(ざっ)誌(し)のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑(ざっ)誌(し)を読むと、すぐお父さんの書(しょ)斎(さい)から巨(おお)きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁(ページ)いっぱいに白に点(てん)々(てん)のある美(うつく)しい写(しゃ)真(しん)を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘(わす)れるはずもなかったのに、すぐに返(へん)事(じ)をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕(しご)事(と)がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊(あそ)ばず、カムパネルラともあんまり物を言(い)わないようになったので、カムパネルラがそれを知ってきのどくがってわざと返(へん)事(じ)をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
先生はまた言(い)いました。
﹁ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂(すな)や砂(じゃ)利(り)の粒(つぶ)にもあたるわけです。またこれを巨(おお)きな乳(ちち)の流(なが)れと考えるなら、もっと天の川とよく似(に)ています。つまりその星はみな、乳(ちち)のなかにまるで細(こま)かにうかんでいる脂(あぶ)油(ら)の球(たま)にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言(い)いますと、それは真(しん)空(くう)という光をある速(はや)さで伝(つた)えるもので、太(たい)陽(よう)や地(ちき)球(ゅう)もやっぱりそのなかに浮(う)かんでいるのです。つまりは私(わたし)どもも天の川の水のなかに棲(す)んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底(そこ)の深(ふか)く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模(もけ)型(い)をごらんなさい﹂
先生は中にたくさん光る砂(すな)のつぶのはいった大きな両(りょ)面(うめん)の凸(とつ)レンズを指(さ)しました。
﹁天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私(わたし)どもの太(たい)陽(よう)と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太(たい)陽(よう)がこのほぼ中ごろにあって地(ちき)球(ゅう)がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄(うす)いのでわずかの光る粒(つぶ)すなわち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚(あつ)いので、光る粒(つぶ)すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀(ぎん)河(が)の説(せつ)なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次(つぎ)の理科の時間にお話します。では今日はその銀(ぎん)河(が)のお祭(まつ)りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい﹂
そして教室じゅうはしばらく机(つくえ)の蓋(ふた)をあけたりしめたり本を重(かさ)ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立って礼(れい)をすると教室を出ました。
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二 活(かっ)版(ぱん)所(じょ)
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校(こう)庭(てい)の隅(すみ)の桜(さくら)の木のところに集(あつ)まっていました。それはこんやの星(ほし)祭(まつ)りに青いあかりをこしらえて川へ流(なが)す烏(から)瓜(すうり)を取(と)りに行く相(そう)談(だん)らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく振(ふ)ってどしどし学校の門(もん)を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀(ぎん)河(が)の祭(まつ)りにいちいの葉(は)の玉(たま)をつるしたり、ひのきの枝(えだ)にあかりをつけたり、いろいろしたくをしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲(ま)がってある大きな活(かっ)版(ぱん)所(じょ)にはいって靴(くつ)をぬいで上がりますと、突(つ)き当たりの大きな扉(とびら)をあけました。中にはまだ昼(ひる)なのに電(でん)燈(とう)がついて、たくさんの輪(りん)転(てん)機(き)がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働(はたら)いておりました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓(テー)子(ブル)にすわった人の所(ところ)へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚(たな)をさがしてから、
﹁これだけ拾(ひろ)って行けるかね﹂と言(い)いながら、一枚の紙切れを渡(わた)しました。ジョバンニはその人の卓(テー)子(ブル)の足もとから一つの小さな平(ひら)たい函(はこ)をとりだして向(む)こうの電(でん)燈(とう)のたくさんついた、たてかけてある壁(かべ)の隅(すみ)の所(ところ)へしゃがみ込(こ)むと、小さなピンセットでまるで粟(あわ)粒(つぶ)ぐらいの活(かつ)字(じ)を次(つぎ)から次(つぎ)へと拾(ひろ)いはじめました。青い胸(むね)あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
﹁よう、虫めがね君(くん)、お早う﹂と言(い)いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてずこっちも向(む)かずに冷(つめ)たくわらいました。
ジョバンニは何べんも眼(め)をぬぐいながら活(かつ)字(じ)をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾(ひろ)った活(かつ)字(じ)をいっぱいに入れた平(ひら)たい箱(はこ)をもういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの卓(テー)子(ブル)の人へ持(も)って来ました。その人は黙(だま)ってそれを受(う)け取(と)ってかすかにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると扉(とびら)をあけて計算台のところに来ました。すると白(しろ)服(ふく)を着(き)た人がやっぱりだまって小さな銀(ぎん)貨(か)を一つジョバンニに渡(わた)しました。ジョバンニはにわかに顔いろがよくなって威(いせ)勢(い)よくおじぎをすると、台の下に置(お)いた鞄(かばん)をもっておもてへ飛(と)びだしました。それから元気よく口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きながらパン屋(や)へ寄(よ)ってパンの塊(かたまり)を一つと角(かく)砂(ざと)糖(う)を一袋(ふくろ)買いますといちもくさんに走りだしました。
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三 家
ジョバンニが勢(いきお)いよく帰って来たのは、ある裏(うら)町(まち)の小さな家でした。その三つならんだ入口のいちばん左(ひだ)側(りがわ)には空(あき)箱(ばこ)に紫(むらさき)いろのケールやアスパラガスが植(う)えてあって小さな二つの窓(まど)には日(ひお)覆(お)いがおりたままになっていました。
﹁お母さん、いま帰ったよ。ぐあい悪(わる)くなかったの﹂ジョバンニは靴(くつ)をぬぎながら言いました。
﹁ああ、ジョバンニ、お仕(しご)事(と)がひどかったろう。今(きょ)日(う)は涼(すず)しくてね。わたしはずうっとぐあいがいいよ﹂
ジョバンニは玄(げん)関(かん)を上がって行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室(へや)に白い巾(きれ)をかぶって寝(やす)んでいたのでした。ジョバンニは窓(まど)をあけました。
﹁お母さん、今日は角(かく)砂(ざと)糖(う)を買ってきたよ。牛(ぎゅ)乳(うにゅう)に入れてあげようと思って﹂
﹁ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから﹂
﹁お母さん。姉(ねえ)さんはいつ帰ったの﹂
﹁ああ、三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね﹂
﹁お母さんの牛(ぎゅ)乳(うにゅう)は来ていないんだろうか﹂
﹁来なかったろうかねえ﹂
﹁ぼく行ってとって来よう﹂
﹁ああ、あたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉(ねえ)さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置(お)いて行ったよ﹂
﹁ではぼくたべよう﹂
ジョバンニは﹇#﹁ ジョバンニは﹂は底本では﹁﹁ジョバンニは﹂﹈窓(まど)のところからトマトの皿(さら)をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
﹁ねえお母さん。ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ﹂
﹁ああ、あたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの﹂
﹁だって今(け)朝(さ)の新聞に今年は北の方の漁(りょう)はたいへんよかったと書いてあったよ﹂
﹁ああだけどねえ、お父さんは漁(りょう)へ出ていないかもしれない﹂
﹁きっと出ているよ。お父さんが監(かん)獄(ごく)へはいるようなそんな悪(わる)いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄(きぞ)贈(う)した巨(おお)きな蟹(かに)の甲(こう)らだのとなかいの角(つの)だの今だってみんな標(ひょ)本(うほ)室(んしつ)にあるんだ。六年生なんか授(じゅ)業(ぎょう)のとき先生がかわるがわる教室へ持(も)って行くよ﹂
﹁お父さんはこの次(つぎ)はおまえにラッコの上(うわ)着(ぎ)をもってくるといったねえ﹂
﹁みんながぼくにあうとそれを言(い)うよ。ひやかすように言(い)うんだ﹂
﹁おまえに悪(わる)口(くち)を言(い)うの﹂
﹁うん、けれどもカムパネルラなんか決(けっ)して言(い)わない。カムパネルラはみんながそんなことを言(い)うときはきのどくそうにしているよ﹂
﹁カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお友(とも)達(だち)だったそうだよ﹂
﹁ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途(とち)中(ゅう)たびたびカムパネルラのうちに寄(よ)った。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに電(でん)柱(ちゅう)や信(しん)号(ごう)標(ひょう)もついていて信(しん)号(ごう)標(ひょう)のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石(せき)油(ゆ)をつかったら、缶(かん)がすっかりすすけたよ﹂
﹁そうかねえ﹂
﹁いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな﹂
﹁早いからねえ﹂
﹁ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒(ほうき)のようだ。ぼくが行くと鼻(はな)を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角(かど)までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏(から)瓜(すうり)のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ﹂
﹁そうだ。今(こん)晩(ばん)は銀(ぎん)河(が)のお祭(まつ)りだねえ﹂
﹁うん。ぼく牛(ぎゅ)乳(うにゅう)をとりながら見てくるよ﹂
﹁ああ行っておいで。川へははいらないでね﹂
﹁ああぼく岸(きし)から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ﹂
﹁もっと遊(あそ)んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心(しん)配(ぱい)はないから﹂
﹁ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか﹂
﹁ああ、どうか。もう涼(すず)しいからね﹂
ジョバンニは立って窓(まど)をしめ、お皿(さら)やパンの袋(ふくろ)をかたづけると勢(いきお)いよく靴(くつ)をはいて、
﹁では一時間半(はん)で帰ってくるよ﹂と言(い)いながら暗(くら)い戸(とぐ)口(ち)を出ました。
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四 ケンタウル祭(さい)の夜
ジョバンニは、口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いているようなさびしい口つきで、檜(ひのき)のまっ黒にならんだ町の坂(さか)をおりて来たのでした。
坂(さか)の下に大きな一つの街(がい)燈(とう)が、青白く立(りっ)派(ぱ)に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電(でん)燈(とう)の方へおりて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影(かげ)ぼうしは、だんだん濃(こ)く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振(ふ)ったり、ジョバンニの横(よこ)の方へまわって来るのでした。
︵ぼくは立(りっ)派(ぱ)な機(きか)関(んし)車(ゃ)だ。ここは勾(こう)配(ばい)だから速(はや)いぞ。ぼくはいまその電(でん)燈(とう)を通り越(こ)す。そうら、こんどはぼくの影(かげ)法(ぼう)師(し)はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た︶
とジョバンニが思いながら、大(おお)股(また)にその街(がい)燈(とう)の下を通り過(す)ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツを着(き)て、電(でん)燈(とう)の向(む)こう側(がわ)の暗(くら)い小(こう)路(じ)から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
﹁ザネリ、烏(から)瓜(すうり)ながしに行くの﹂ジョバンニがまだそう言(い)ってしまわないうちに、
﹁ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂その子が投(な)げつけるようにうしろから叫(さけ)びました。
ジョバンニは、ばっと胸(むね)がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。
﹁なんだい、ザネリ﹂とジョバンニは高く叫(さけ)び返(かえ)しましたが、もうザネリは向(む)こうのひばの植(う)わった家の中へはいっていました。
︵ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのだろう。走るときはまるで鼠(ねずみ)のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを言(い)うのはザネリがばかなからだ︶
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯(あかり)や木の枝(えだ)で、すっかりきれいに飾(かざ)られた街(まち)を通って行きました。時(とけ)計(い)屋(や)の店には明るくネオン燈(とう)がついて、一秒(びょう)ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼(め)が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝(ほう)石(せき)が海のような色をした厚(あつ)い硝(ガラ)子(ス)の盤(ばん)に載(の)って、星のようにゆっくり循(めぐ)ったり、また向(む)こう側(がわ)から、銅(どう)の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い星(せい)座(ざは)早(や)見(み)が青いアスパラガスの葉(は)で飾(かざ)ってありました。
ジョバンニはわれを忘(わす)れて、その星(せい)座(ざ)の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせて盤(ばん)をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕(だえ)円(んけ)形(い)のなかにめぐってあらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて銀(ぎん)河(が)がぼうとけむったような帯(おび)になって、その下の方ではかすかに爆(ばく)発(はつ)して湯(ゆ)げでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の脚(あし)のついた小さな望(ぼう)遠(えん)鏡(きょう)が黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろの壁(かべ)には空じゅうの星(せい)座(ざ)をふしぎな獣(けもの)や蛇(へび)や魚や瓶(びん)の形に書いた大きな図(ず)がかかっていました。ほんとうにこんなような蠍(さそり)だの勇(ゆう)士(し)だのそらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。
それからにわかにお母さんの牛(ぎゅ)乳(うにゅう)のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。
そしてきゅうくつな上(うわ)着(ぎ)の肩(かた)を気にしながら、それでもわざと胸(むね)を張(は)って大きく手を振(ふ)って町を通って行きました。
空気は澄(す)みきって、まるで水のように通りや店の中を流(なが)れましたし、街(がい)燈(とう)はみなまっ青なもみや楢(なら)の枝(えだ)で包(つつ)まれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの豆(まめ)電(でん)燈(とう)がついて、ほんとうにそこらは人魚の都(みやこ)のように見えるのでした。子どもらは、みんな新しい折(おり)のついた着(きも)物(の)を着(き)て、星めぐりの口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いたり、
﹁ケンタウルス、露(つゆ)をふらせ﹂と叫(さけ)んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃(も)したりして、たのしそうに遊(あそ)んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深(ふか)く首(くび)をたれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、牛(ぎゅ)乳(うに)屋(ゅうや)の方へ急(いそ)ぐのでした。
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾(いく)本(ほん)も幾(いく)本(ほん)も、高く星ぞらに浮(う)かんでいるところに来ていました。その牛(ぎゅ)乳(うに)屋(ゅうや)の黒い門(もん)をはいり、牛のにおいのするうすくらい台(だい)所(どころ)の前に立って、ジョバンニは帽(ぼう)子(し)をぬいで、
﹁今(こん)晩(ばん)は﹂と言(い)いましたら、家の中はしいんとして誰(だれ)もいたようではありませんでした。
﹁今(こん)晩(ばん)は、ごめんなさい﹂ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫(さけ)びました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいが悪(わる)いようにそろそろと出て来て、何か用かと口の中で言(い)いました。
﹁あの、今日、牛(ぎゅ)乳(うにゅう)が僕(ぼく)※﹇#小書き平仮名ん、183-7﹈とこへ来なかったので、もらいにあがったんです﹂ジョバンニが一生けん命(めい)勢(いきお)いよく言(い)いました。
﹁いま誰(だれ)もいないでわかりません。あしたにしてください﹂その人は赤い眼(め)の下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして言(い)いました。
﹁おっかさんが病(びょ)気(うき)なんですから今(こん)晩(ばん)でないと困(こま)るんです﹂
﹁ではもう少したってから来てください﹂その人はもう行ってしまいそうでした。
﹁そうですか。ではありがとう﹂ジョバンニは、お辞(じ)儀(ぎ)をして台(だい)所(どころ)から出ました。
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、向(む)こうの橋(はし)へ行く方の雑(ざっ)貨(かて)店(ん)の前で、黒い影(かげ)やぼんやり白いシャツが入り乱(みだ)れて、六、七人の生徒らが、口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いたり笑(わら)ったりして、めいめい烏(から)瓜(すうり)の燈(あか)火(り)を持(も)ってやって来(く)るのを見(み)ました。その笑(わら)い声も口(くち)笛(ぶえ)も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同(どう)級(きゅう)の子(こど)供(も)らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして戻(もど)ろうとしましたが、思い直(なお)して、いっそう勢(いきお)いよくそっちへ歩いて行きました。
﹁川へ行くの﹂ジョバンニが言(い)おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
﹁ジョバンニ、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂さっきのザネリがまた叫(さけ)びました。
﹁ジョバンニ、ラッコの上(うわ)着(ぎ)が来るよ﹂すぐみんなが、続(つづ)いて叫(さけ)びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、急(いそ)いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
ジョバンニは、にげるようにその眼(め)を避(さ)け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過(す)ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きました。町かどを曲(ま)がるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)いて向(む)こうにぼんやり見える橋(はし)の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも言(い)えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと言(い)いながら片(かた)足(あし)でぴょんぴょん跳(と)んでいた小さな子(こど)供(も)らは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいと叫(さけ)びました。
まもなくジョバンニは走りだして黒い丘(おか)の方へ急(いそ)ぎました。
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五 天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)
牧(ぼく)場(じょう)のうしろはゆるい丘(おか)になって、その黒い平(たい)らな頂(ちょ)上(うじょう)は、北の大(おお)熊(くま)星(ぼし)の下に、ぼんやりふだんよりも低(ひく)く、連(つら)なって見えました。
ジョバンニは、もう露(つゆ)の降(お)りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照(て)らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある葉(は)は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持(も)って行った烏(から)瓜(すうり)のあかりのようだとも思いました。
そのまっ黒な、松(まつ)や楢(なら)の林を越(こ)えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙(わた)っているのが見え、また頂(いただき)の、天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢(ゆめ)の中からでもかおりだしたというように咲(さ)き、鳥が一疋(ぴき)、丘(おか)の上を鳴き続(つづ)けながら通って行きました。
ジョバンニは、頂(いただき)の天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投(な)げました。
町の灯(あかり)は、暗(やみ)の中をまるで海の底(そこ)のお宮(みや)のけしきのようにともり、子(こど)供(も)らの歌う声や口(くち)笛(ぶえ)、きれぎれの叫(さけ)び声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘(おか)の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗(あせ)でぬれたシャツもつめたく冷(ひ)やされました。
野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな列(れっ)車(しゃ)の窓(まど)は一(いち)列(れつ)小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅(たび)人(びと)が、苹(りん)果(ご)をむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも言(い)えずかなしくなって、また眼(め)をそらに挙(あ)げました。
︵五枚(まい)分(ぶん)なし︶
ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言(い)ったような、がらんとした冷(つめ)たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧(ぼく)場(じょう)やらある野(のは)原(ら)のように考えられてしかたなかったのです。そしてジョバンニは青い琴(こと)の星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、脚(あし)が何べんも出たり引っ込(こ)んだりして、とうとう蕈(きのこ)のように長く延(の)びるのを見ました。またすぐ眼(め)の下のまちまでが、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の集(あつ)まりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。
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六 銀(ぎん)河(が)ステーション
そしてジョバンニはすぐうしろの天(てん)気(きり)輪(ん)の柱(はしら)がいつかぼんやりした三(さん)角(かく)標(ひょう)の形になって、しばらく蛍(ほたる)のように、ぺかぺか消(き)えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃(こ)い鋼(はが)青(ね)のそらの野原にたちました。いま新しく灼(や)いたばかりの青い鋼(はがね)の板(いた)のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、銀(ぎん)河(が)ステーション、銀(ぎん)河(が)ステーションと言(い)う声がしたと思うと、いきなり眼(め)の前が、ぱっと明るくなって、まるで億(おく)万(まん)の蛍(ほた)烏(るい)賊(か)の火を一ぺんに化(かせ)石(き)させて、そらじゅうに沈(しず)めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくしておいた金(こん)剛(ごう)石(せき)を、誰(だれ)かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼(め)の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼(め)をこすってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗(の)っている小さな列(れっ)車(しゃ)が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽(けい)便(べん)鉄(てつ)道(どう)の、小さな黄いろの電(でん)燈(とう)のならんだ車室に、窓(まど)から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天(ビロ)鵞(ー)絨(ド)を張(は)った腰(こし)掛(か)けが、まるでがらあきで、向(む)こうの鼠(ねずみ)いろのワニスを塗(ぬ)った壁(かべ)には、真(しん)鍮(ちゅう)の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の席(せき)に、ぬれたようにまっ黒な上(うわ)着(ぎ)を着た、せいの高い子(こど)供(も)が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。そしてそのこどもの肩(かた)のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても誰(だれ)だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも窓(まど)から顔を出そうとしたとき、にわかにその子(こど)供(も)が頭を引っ込(こ)めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、
カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と言(い)おうと思ったとき、カムパネルラが、
﹁みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅(おく)れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追(お)いつかなかった﹂と言(い)いました。
ジョバンニは、
︵そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出かけたのだ︶とおもいながら、
﹁どこかで待(ま)っていようか﹂と言(い)いました。するとカムパネルラは、
﹁ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎(むか)いにきたんだ﹂
カムパネルラは、なぜかそう言(い)いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦(くる)しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘(わす)れたものがあるというような、おかしな気(き)持(も)ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、窓(まど)から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直(なお)って、勢(いきお)いよく言(い)いました。
﹁ああしまった。ぼく、水(すい)筒(とう)を忘(わす)れてきた。スケッチ帳(ちょう)も忘(わす)れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停(てい)車(しゃ)場(ば)だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛(と)んでいたって、ぼくはきっと見える﹂
そして、カムパネルラは、まるい板(いた)のようになった地(ち)図(ず)を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の岸(きし)に沿(そ)って一条(じょう)の鉄(てつ)道(どう)線(せん)路(ろ)が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立(りっ)派(ぱ)なことは、夜のようにまっ黒な盤(ばん)の上に、一々の停(てい)車(しゃ)場(ば)や三(さん)角(かく)標(ひょう)、泉(せん)水(すい)や森が、青や橙(だいだい)や緑(みどり)や、うつくしい光でちりばめられてありました。
ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
﹁この地(ち)図(ず)はどこで買ったの。黒(こく)曜(よう)石(せき)でできてるねえ﹂
ジョバンニが言(い)いました。
﹁銀(ぎん)河(が)ステーションで、もらったんだ。君(きみ)もらわなかったの﹂
﹁ああ、ぼく銀(ぎん)河(が)ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう﹂
ジョバンニは、白鳥と書いてある停(てい)車(しゃ)場(ば)のしるしの、すぐ北を指(さ)しました。
﹁そうだ。おや、あの河(かわ)原(ら)は月夜だろうか﹂そっちを見ますと、青白く光る銀(ぎん)河(が)の岸(きし)に、銀(ぎん)いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波(なみ)を立てているのでした。
﹁月夜でないよ。銀(ぎん)河(が)だから光るんだよ﹂ジョバンニは言(い)いながら、まるではね上がりたいくらい愉(ゆか)快(い)になって、足をこつこつ鳴らし、窓(まど)から顔を出して、高く高く星めぐりの口(くち)笛(ぶえ)を吹(ふ)きながら一生けん命(めい)延(の)びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水(すい)素(そ)よりもすきとおって、ときどき眼(め)のかげんか、ちらちら紫(むらさき)いろのこまかな波(なみ)をたてたり、虹(にじ)のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流(なが)れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐(りん)光(こう)の三(さん)角(かく)標(ひょう)が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙(だいだい)や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三(さん)角(かく)形(けい)、あるいは四(しへ)辺(んけ)形(い)、あるいは電(いなずま)や鎖(くさり)の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振(ふ)りました。するとほんとうに、そのきれいな野(のは)原(ら)じゅうの青や橙(だいだい)や、いろいろかがやく三(さん)角(かく)標(ひょう)も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫(ふる)えたりしました。
﹁ぼくはもう、すっかり天の野原に来た﹂ジョバンニは言(い)いました。
﹁それに、この汽車石(せき)炭(たん)をたいていないねえ﹂ジョバンニが左手をつき出して窓(まど)から前の方を見ながら言(い)いました。
﹁アルコールか電気だろう﹂カムパネルラが言(い)いました。
するとちょうど、それに返(へん)事(じ)するように、どこか遠くの遠くのもやのもやの中から、セロのようなごうごうした声がきこえて来ました。
﹁ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ﹂
﹁あの声、ぼくなんべんもどこかできいた﹂
﹁ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた﹂
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三(さん)角(かく)点(てん)の青じろい微(びこ)光(う)の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
﹁ああ、りんどうの花が咲(さ)いている。もうすっかり秋だねえ﹂カムパネルラが、窓(まど)の外を指(ゆび)さして言(い)いました。
線(せん)路(ろ)のへりになったみじかい芝(しば)草(くさ)の中に、月(げっ)長(ちょ)石(うせき)ででも刻(きざ)まれたような、すばらしい紫(むらさき)のりんどうの花が咲(さ)いていました。
﹁ぼく飛(と)びおりて、あいつをとって、また飛(と)び乗(の)ってみせようか﹂ジョバンニは胸(むね)をおどらせて言(い)いました。
﹁もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから﹂
カムパネルラが、そう言(い)ってしまうかしまわないうち、次(つぎ)のりんどうの花が、いっぱいに光って過(す)ぎて行きました。
と思ったら、もう次(つぎ)から次(つぎ)から、たくさんのきいろな底(そこ)をもったりんどうの花のコップが、湧(わ)くように、雨のように、眼(め)の前を通り、三(さん)角(かく)標(ひょう)の列(れつ)は、けむるように燃(も)えるように、いよいよ光って立ったのです。
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七 北(きた)十(じゅ)字(うじ)とプリオシン海(かい)岸(がん)
﹁おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか﹂
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言(い)いました。
ジョバンニは、
︵ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙(だいだい)いろの三(さん)角(かく)標(ひょう)のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった︶と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
﹁ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸(さいわい)なんだろう﹂カムパネルラは、なんだか、泣(な)きだしたいのを、一生けん命(めい)こらえているようでした。
﹁きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの﹂ジョバンニはびっくりして叫(さけ)びました。
﹁ぼくわからない。けれども、誰(だれ)だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う﹂カムパネルラは、なにかほんとうに決(けっ)心(しん)しているように見えました。
にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金(こん)剛(ごう)石(せき)や草の露(つゆ)やあらゆる立(りっ)派(ぱ)さをあつめたような、きらびやかな銀(ぎん)河(が)の河(かわ)床(どこ)の上を、水は声もなくかたちもなく流(なが)れ、その流(なが)れのまん中に、ぼうっと青白く後(ごこ)光(う)の射(さ)した一つの島(しま)が見えるのでした。その島(しま)の平(たい)らないただきに、立(りっ)派(ぱ)な眼(め)もさめるような、白い十(じゅ)字(うじ)架(か)がたって、それはもう、凍(こお)った北(ほっ)極(きょく)の雲で鋳(い)たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永(えい)久(きゅう)に立っているのでした。
﹁ハレルヤ、ハレルヤ﹂前からもうしろからも声が起(お)こりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅(たび)人(びと)たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂(た)れ、黒いバイブルを胸(むね)にあてたり、水(すい)晶(しょう)の数(じゅ)珠(ず)をかけたり、どの人もつつましく指(ゆび)を組み合わせて、そっちに祈(いの)っているのでした。思わず二(ふた)人(り)ともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬(ほお)は、まるで熟(じゅく)した苹(りん)果(ご)のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして島(しま)と十(じゅ)字(うじ)架(か)とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向(む)こう岸(ぎし)も、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀(ぎん)いろがけむって、息(いき)でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐(きつ)火(ねび)のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列(れつ)でさえぎられ、白鳥の島(しま)は、二度(ど)ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、絵(え)のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから乗(の)っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリックふうの尼(あま)さんが、まんまるな緑(みどり)の瞳(ひとみ)を、じっとまっすぐに落(お)として、まだ何かことばか声かが、そっちから伝(つた)わって来るのを、虔(つつし)んで聞いているというように見えました。旅(たび)人(びと)たちはしずかに席(せき)に戻(もど)り、二(ふた)人(り)も胸(むね)いっぱいのかなしみに似(に)た新しい気(き)持(も)ちを、何気なくちがった語(ことば)で、そっと談(はな)し合ったのです。
﹁もうじき白鳥の停(てい)車(しゃ)場(ば)だねえ﹂
﹁ああ、十一時かっきりには着(つ)くんだよ﹂
早くも、シグナルの緑(みどり)の燈と、ぼんやり白い柱(はしら)とが、ちらっと窓(まど)のそとを過(す)ぎ、それから硫(いお)黄(う)のほのおのようなくらいぼんやりした転(てん)てつ機(き)の前のあかりが窓(まど)の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、まもなくプラットホームの一列(れつ)の電(でん)燈(とう)が、うつくしく規(きそ)則(く)正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥停(てい)車(しゃ)場(じょう)の、大きな時(とけ)計(い)の前に来てとまりました。
さわやかな秋の時(とけ)計(い)の盤(ばん)面(めん)には、青く灼(や)かれたはがねの二本の針(はり)が、くっきり十一時を指(さ)しました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。
︹二十分停(てい)車(しゃ)︺と時(とけ)計(い)の下に書いてありました。
﹁ぼくたちも降(お)りて見ようか﹂ジョバンニが言(い)いました。
﹁降(お)りよう﹂二(ふた)人(り)は一度(ど)にはねあがってドアを飛(と)び出して改(かい)札(さつ)口(ぐち)へかけて行きました。ところが改(かい)札(さつ)口(ぐち)には、明るい紫(むらさき)がかった電(でん)燈(とう)が、一つ点(つ)いているばかり、誰(だれ)もいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅(えき)長(ちょう)や赤(あか)帽(ぼう)らしい人の、影(かげ)もなかったのです。
二(ふた)人(り)は、停(てい)車(しゃ)場(ば)の前の、水(すい)晶(しょ)細(うざ)工(いく)のように見える銀(いち)杏(ょう)の木に囲(かこ)まれた、小さな広場に出ました。
そこから幅(はば)の広いみちが、まっすぐに銀(ぎん)河(が)の青(あお)光(びかり)の中へ通っていました。
さきに降(お)りた人たちは、もうどこへ行ったか一(ひと)人(り)も見えませんでした。二(ふた)人(り)がその白い道を、肩(かた)をならべて行きますと、二(ふた)人(り)の影(かげ)は、ちょうど四方に窓(まど)のある室(へや)の中の、二本の柱(はしら)の影(かげ)のように、また二つの車(しゃ)輪(りん)の輻(や)のように幾(いく)本(ほん)も幾(いく)本(ほん)も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河(かわ)原(ら)に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな砂(すな)を一つまみ、掌(てのひら)にひろげ、指(ゆび)できしきしさせながら、夢(ゆめ)のように言(い)っているのでした。
﹁この砂(すな)はみんな水(すい)晶(しょう)だ。中で小さな火が燃(も)えている﹂
﹁そうだ﹂どこでぼくは、そんなことを習(なら)ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河(かわ)原(ら)の礫(こいし)は、みんなすきとおって、たしかに水(すい)晶(しょう)や黄(トパ)玉(ーズ)や、またくしゃくしゃの皺(しゅ)曲(うきょく)をあらわしたのや、また稜(かど)から霧(きり)のような青白い光を出す鋼(コラ)玉(ンダム)やらでした。ジョバンニは、走ってその渚(なぎさ)に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀(ぎん)河(が)の水は、水(すい)素(そ)よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流(なが)れていたことは、二(ふた)人(り)の手(てく)首(び)の、水にひたったとこが、少し水(すい)銀(ぎん)いろに浮(う)いたように見え、その手(てく)首(び)にぶっつかってできた波(なみ)は、うつくしい燐(りん)光(こう)をあげて、ちらちらと燃(も)えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいにはえている崖(がけ)の下に、白い岩(いわ)が、まるで運(うん)動(どう)場(じょう)のように平(たい)らに川に沿(そ)って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か掘(ほ)り出すか埋(う)めるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道(どう)具(ぐ)が、ピカッと光ったりしました。
﹁行ってみよう﹂二(ふた)人(り)は、まるで一度(ど)に叫(さけ)んで、そっちの方へ走りました。その白い岩(いわ)になったところの入口に、︹プリオシン海(かい)岸(がん)︺という、瀬(せと)戸(も)物(の)のつるつるした標(ひょ)札(うさつ)が立って、向こうの渚(なぎさ)には、ところどころ、細(ほそ)い鉄(てつ)の欄(らん)干(かん)も植(う)えられ、木(もく)製(せい)のきれいなベンチも置(お)いてありました。
﹁おや、変(へん)なものがあるよ﹂カムパネルラが、不(ふ)思(し)議(ぎ)そうに立ちどまって、岩(いわ)から黒い細(ほそ)長(なが)いさきのとがったくるみの実(み)のようなものをひろいました。
﹁くるみの実(み)だよ。そら、たくさんある。流(なが)れて来たんじゃない。岩(いわ)の中にはいってるんだ﹂
﹁大きいね、このくるみ、倍(ばい)あるね。こいつはすこしもいたんでない﹂
﹁早くあすこへ行って見よう。きっと何か掘(ほ)ってるから﹂
二(ふた)人(り)は、ぎざぎざの黒いくるみの実(み)を持(も)ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚(なぎさ)には、波(なみ)がやさしい稲(いな)妻(ずま)のように燃(も)えて寄(よ)せ、右手の崖(がけ)には、いちめん銀(ぎん)や貝(かい)殻(がら)でこさえたようなすすきの穂(ほ)がゆれたのです。
だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近(きん)眼(がん)鏡(きょう)をかけ、長(なが)靴(ぐつ)をはいた学(がく)者(しゃ)らしい人が、手(てち)帳(ょう)に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助(じょ)手(しゅ)らしい人たちに夢(むち)中(ゅう)でいろいろ指(さし)図(ず)をしていました。
﹁そこのその突(とっ)起(き)をこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから掘(ほ)って。いけない、いけない、なぜそんな乱(らん)暴(ぼう)をするんだ﹂
見ると、その白い柔(やわ)らかな岩(いわ)の中から、大きな大きな青じろい獣(けもの)の骨(ほね)が、横に倒(たお)れてつぶれたというふうになって、半(はん)分(ぶん)以(いじ)上(ょう)掘(ほ)り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄(ひづめ)の二つある足(あし)跡(あと)のついた岩(いわ)が、四(しか)角(く)に十ばかり、きれいに切り取られて番(ばん)号(ごう)がつけられてありました。
﹁君たちは参(さん)観(かん)かね﹂その大(だい)学(がく)士(し)らしい人が、眼(めが)鏡(ね)をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
﹁くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万(まん)年(ねん)ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万(まん)年(ねん)前(まえ)、第(だい)三(さん)紀(き)のあとのころは海(かい)岸(がん)でね、この下からは貝(かい)がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩(しお)水(みず)が寄(よ)せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに鑿(のみ)でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛(うし)の先(せん)祖(ぞ)で、昔(むかし)はたくさんいたのさ﹂
﹁標(ひょ)本(うほん)にするんですか﹂
﹁いや、証(しょ)明(うめい)するに要(い)るんだ。ぼくらからみると、ここは厚(あつ)い立(りっ)派(ぱ)な地(ちそ)層(う)で、百二十万(まん)年(ねん)ぐらい前にできたという証(しょ)拠(うこ)もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地(ちそ)層(う)に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋(ろっ)骨(こつ)が埋(う)もれてるはずじゃないか﹂
大(だい)学(がく)士(し)はあわてて走って行きました。
﹁もう時間だよ。行こう﹂カムパネルラが地図と腕(うで)時(どけ)計(い)とをくらべながら言(い)いました。
﹁ああ、ではわたくしどもは失(しつ)礼(れい)いたします﹂ジョバンニは、ていねいに大(だい)学(がく)士(し)におじぎしました。
﹁そうですか。いや、さよなら﹂大(だい)学(がく)士(し)は、また忙(いそが)しそうに、あちこち歩きまわって監(かん)督(とく)をはじめました。
二(ふた)人(り)は、その白い岩(いわ)の上を、一生けん命(めい)汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息(いき)も切れず膝(ひざ)もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世(せか)界(い)じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
そして二(ふた)人(り)は、前のあの河(かわ)原(ら)を通り、改(かい)札(さつ)口(ぐち)の電(でん)燈(とう)がだんだん大きくなって、まもなく二(ふた)人(り)は、もとの車室の席(せき)にすわっていま行って来た方を、窓(まど)から見ていました。
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八 鳥を捕(と)る人
﹁ここへかけてもようございますか﹂
がさがさした、けれども親切そうな、大(おと)人(な)の声が、二(ふた)人(り)のうしろで聞こえました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの外(がい)套(とう)を着(き)て、白い巾(きれ)でつつんだ荷(にも)物(つ)を、二つに分けて肩(かた)に掛(か)けた、赤(あか)髯(ひげ)のせなかのかがんだ人でした。
﹁ええ、いいんです﹂ジョバンニは、少し肩(かた)をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微(わ)笑(ら)いながら荷(にも)物(つ)をゆっくり網(あみ)棚(だな)にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正(しょ)面(うめん)の時(とけ)計(い)を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝(ガラ)子