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八
ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬(けい)太(たろ)郎(う)はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階(はし)段(ごだん)を上(あが)って、彼の部屋の前まで来ると、障(しょ)子(うじ)を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに転(ころ)がっているものがすなわち彼であった。﹁森本さん、森本さん﹂と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり室(へや)に這(は)入(い)り込むや否や、森本の首筋を攫(つか)んで強く揺(ゆす)振(ぶ)った。森本は不意に蜂(はち)にでも螫(さ)されたように、あっと云って半(なか)ば跳(は)ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢(ゆめ)現(うつつ)のたるい眼つきに戻って、
﹁やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって﹂と弁解する様子に、これといって他(ひと)を愚(ぐろ)弄(う)する体(てい)もないので、敬太郎もつい怒(おこ)れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一(いち)頓(とん)挫(ざ)を来(きた)したも同然なので、一人自分の室(へや)に引取ろうとすると、森本は﹁どうもすみません、御苦労様でした﹂と云いながら、また後(あと)から敬太郎について来た。そうして先(さっ)刻(き)まで自分の坐(すわ)っていた座(ざぶ)蒲(と)団(ん)の上に、きちんと膝(ひざ)を折って、
﹁じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな﹂と云った。
森本の呑気生活というのは、今から十五六年前(ぜん)彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。固(もと)より人間のいない所に天(テン)幕(ト)を張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕を担(かつ)いで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っ気(け)のありようはずはなかった。
﹁何しろ高さ二丈もある熊(くま)笹(ざさ)を切り開いて途(みち)をつけるんですからね﹂と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、蝮(まむ)蛇(し)がとぐろを巻いて日光を鱗(うろこ)の上に受けている。それを遠くから棒で抑(おさ)えておいて、傍(そば)へ寄って打(ぶ)ち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも魚(さか)肉(な)と獣(に)肉(く)の間ぐらいだろうと答えた。
天(テン)幕(ト)の中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた身(から)体(だ)を埋(うず)めぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て焚(たき)火(び)をして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので蚊(か)帳(や)は始(しじ)終(ゅう)釣っていた。ある時その蚊帳を担(かつ)いで谷川へ下りて、何とかいう川魚を掬(すく)って帰ったら、その晩から蚊帳が急に腥(なまぐ)さくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
彼はまた山であらゆる茸(たけ)を採(と)って食ったそうである。ます茸(だけ)というのは広(ひろ)葢(ぶた)ほどの大きさで、切って味(みそ)噌(し)汁(る)の中へ入れて煮るとまるで蒲(かま)鉾(ぼこ)のようだとか、月(つき)見(みだ)茸(け)というのは一(ひと)抱(かかえ)もあるけれども、これは残念だが食えないとか、鼠(ねず)茸(みだけ)というのは三つ葉の根のようで可(かわ)愛(い)らしいとか、なかなか精(くわ)しい説明をした。大きな笠(かさ)の中へ、野(のぶ)葡(ど)萄(う)をいっぱい採って来て、そればかり貪(むさ)ぼっていたものだから、しまいに舌(した)が荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという悲(ひさ)酸(ん)な物語もあった。それはみんなの糧(かて)が尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、沢(さわ)辺(べ)まで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、俄(にわ)雨(かあめ)で谷が急にいっぱいになったが最後、米など背(し)負(ょ)って帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと仰(あお)向(むけ)に寝て、ただ空を眺(なが)めていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
﹁そう長い間飲まず食わずじゃ、両(りょ)便(うべん)とも留(と)まるでしょう﹂と敬太郎が聞くと、﹁いえ何、やっぱりありますよ﹂と森本はすこぶる気楽そうに答えた。
九
敬(けい)太(たろ)郎(う)は微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次茫(ぼう)々(ぼう)たる芒(すす)原(きはら)の中で、突然面(おもて)も向けられないほどの風に出会った時、彼らは四(よ)つ這(ばい)になって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、一(ひと)抱(かかえ)も二(ふた)抱(かかえ)もある大木の枝も幹も凄(すさ)まじい音を立てて、一度に風から痛(いた)振(ぶ)られるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
﹁それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう﹂と敬太郎が聞くと、﹁無論突伏していました﹂という答であったが、いくら非(ひ)道(ど)い風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどの勢(いきおい)があろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで他(ひと)事(ごと)のように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に真(ま)面(じ)目(め)になって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
﹁おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、不(や)中(く)用(ざ)にゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く嘘(うそ)のような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御(おい)出(で)なさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の敵(かた)討(きうち)じゃなしね、そう真剣に自分の位(い)地(ち)を棄(す)てて漂(ひょ)浪(うろう)するほどの物(もの)数(ず)奇(き)も今の世にはありませんからね。第一傍(はた)がそうさせないから大丈夫です﹂
敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど常(じょ)調(うちょう)以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえ抑(おさ)えたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
﹁だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭(あき)々(あき)してしまった﹂と投げ出すように云った。すると森本は比較的厳(げん)粛(しゅく)な顔をして、
﹁あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです﹂と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの御(おみ)籤(くじ)めいた言葉がさほどの意義を齎(もたら)さなかった。二人は少しの間煙(たば)草(こ)を吹かして黙っていた。
﹁僕もね﹂とやがて森本が口を開いた。﹁僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もう厭(いや)になったから近(きん)々(きん)罷(や)めようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ﹂
敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、他(ひと)の進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子を易(か)えて、世間話を快活に十分ほどした後(あと)で、﹁いやどうも御(ごち)馳(そ)走(う)でした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも﹂と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会を有(も)たなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんど稀(まれ)であった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒(くろ)襟(えり)の掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟(えり)開(あき)の広い新調の背(せび)広(ろ)を着て、妙な洋(ステ)杖(ッキ)を突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘(かさ)入(いれ)に入れてあると、ははあ先生今日は宅(うち)にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の門(かど)を出(でい)入(り)した。するとその洋(ステ)杖(ッキ)がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。
十
一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬(けい)太(たろ)郎(う)はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。固(もと)より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を相(そう)して、何でも停(ステ)車(ーシ)場(ョン)の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌(あし)日(た)は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
しまいに宿の神(かみ)さんが来て、森本さんから何か御(おた)音(よ)信(り)がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を梟(ふくろ)のような丸い眼の中(うち)に漂(ただ)よわせて出て行った。それから一週間ほど経(た)っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を抱(いだ)き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出(でば)花(な)なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の計(はかりごと)のために、好奇家の権利を放棄したのである。
すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障(しょ)子(うじ)を開けて這(は)入(い)って来た。彼は腰から古めかしい煙(たば)草(こい)入(れ)を取り出して、その筒(つつ)を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙(きせ)管(る)に刻(きざ)草(み)を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から迸(ほとば)しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判(はっ)然(きり)向うからそうと切り出されるまで覚(さと)らずに、どうも変だとばかり考えていた。
﹁実は少し御願があって上ったんですが﹂と云った主人はやや小声になって、﹁森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから﹂と藪(やぶ)から棒につけ加えた。
敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨(あい)拶(さつ)も口へ出なかったが、ようやく、﹁いったいどう云う訳なんです﹂と主人の顔を覗(のぞ)き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火(ひば)箸(し)で雁(がん)首(くび)を掘っていた。それが済んでから羅(ら)宇(う)の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
主人の云うところによると、森本は下宿代が此(こ)家(こ)に六カ月ばかり滞(とどこお)っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此(こと)年(し)の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家(うち)のものは固(もと)より出張とばかり信じていたが、その日(にち)限(げん)が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音(たよ)信(り)も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室(へや)を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷(や)められていたそうである。
﹁それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御(おい)出(で)か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか﹂
敬太郎はこの失(しっ)踪(そう)者(しゃ)の友人として、彼の香(かん)ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆(たん)賞(しょう)を懐(ふところ)にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見(み)做(な)されては、未来を有(も)つ青年として大いなる不面目だと感じた。
十一
正直な彼は主人の疳(かん)違(ちがい)を腹の中で怒(おこ)った。けれども怒る前にまず冷たい青(あお)大(だい)将(しょう)でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙(たば)草(こい)入(れ)から刻(きざ)みを撮(つま)み出しては雁(がん)首(くび)へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬(けい)太(たろ)郎(う)に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙(きせ)管(る)を扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらく眺(なが)めていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を退(たい)治(じ)てやりたいような気がし出した。
﹁僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の徒(と)といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや後(うし)暗(ろぐら)い関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても執(しつ)濃(こ)く疑っているのは怪(け)しからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも料(りょ)簡(うけん)がある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも宿(しゅ)料(くりょう)を滞(とどこ)おらした事があるかい﹂
主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭抱(いだ)いていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えて貰(もら)いたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気に障(さわ)ったら、いくらでも詫(あや)まるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の煙(たば)草(こい)入(れ)を早く腰に差させようと思って、単に宜(よろ)しいと答えた。主人はようやく談判の道具を角(かく)帯(おび)の後へしまい込んだ。室(へや)を出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気(けし)色(き)も見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が這(は)入(い)った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱(いだ)いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上(うわ)部(べ)は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦(あ)燥(せ)らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩(か)り歩(あ)るいていた。
或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食(く)ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄(きは)八(ちじ)丈(ょう)の袢(はん)天(てん)で赤ん坊を負(おぶ)った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉(まゆ)毛(げ)の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋(いき)な部類に属する型だったが、どうしても袢天負(おんぶ)をするという柄(がら)ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前(まえ)垂(だれ)の下から格(こう)子(しじ)縞(ま)か何かの御(おめ)召(し)が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外(そ)面(と)は雨なので、五六人の乗客は皆傘(かさ)をつぼめて杖(つえ)にしていた。女のは黒(くろ)蛇(じゃ)目(のめ)であったが、冷たいものを手に持つのが厭(いや)だと見えて、彼女はそれを自分の側(わき)に立て掛けておいた。その畳んだ蛇(じゃ)の目(め)の先に赤い漆(うるし)で加(か)留(る)多(た)と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
この黒(くろ)人(うと)だか素(しろ)人(うと)だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉(まゆ)を心持八の字に寄せて俯(ふし)目(めが)勝(ち)な白い顔と、御(おめ)召(し)の着物と、黒蛇の目に鮮(あざや)かな加留多という文字とが互(たが)違(いちがい)に敬太郎の神経を刺(しげ)戟(き)した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、﹁こういうと未練があるようでおかしいが、顔(かお)質(だち)は悪い方じゃありませんでした。眉(まみ)毛(え)の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある﹂といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶(おも)い起しながら、加留多と書いた傘の所(もち)有(ぬ)主(し)を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。
十二
好奇心に駆(か)られた敬(けい)太(たろ)郎(う)は破るようにこの無名氏の書信を披(ひら)いて見た。すると西(せい)洋(よう)罫(けい)紙(し)の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力(つと)めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
﹁突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷(らい)獣(じゅう)とそうしてズク︵森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である︶彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞(とどこ)おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室(へや)に置いてある荷物を始末したら――行(こ)李(り)の中には衣類その他がすっかり這(は)入(い)っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲(くせ)者(もの)故(ゆえ)僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏(おん)便(びん)に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣輩(はい)が食(くい)物(もの)にしたがるものですから、その辺(へん)はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善(よ)くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺(いか)憾(ん)の至(いたり)だから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います﹂
森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由(よし)を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽(たのしみ)にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後(あと)へ自分が旅行した満(まん)洲(しゅう)地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹(ふい)聴(ちょう)していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長(ちょ)春(うしゅん)とかにある博(ばく)打(ち)場(ば)の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血(ちま)眼(なこ)になりながら、一種の臭(しゅ)気(うき)を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰(なぐさ)み半分わざと垢(あか)だらけな着物を着て、こっそりここへ出(しゅ)入(つにゅう)するというんだから、森本だってどんな真(ま)似(ね)をしたか分らないと敬太郎は考えた。
手紙の末段には盆(ぼん)栽(さい)の事が書いてあった。﹁あの梅の鉢は動(どう)坂(ざか)の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載(の)せておいて朝(あさ)夕(ゆう)眺(なが)めるにはちょうど手頃のものです。あれを献(けん)上(じょう)するからあなたの室(へや)へ持っていらっしゃい。もっとも雷(らい)獣(じゅう)とそうしてズクは両人共極(きわ)めて不風流故(ゆえ)、床の間の上へ据(す)えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘(かさ)入(いれ)に、僕の洋(ステ)杖(ッキ)が差さっているはずです。あれも価(ねだ)格(ん)から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら﹂
敬太郎は手紙を畳んで机の抽(ひき)出(だし)へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出(でい)入(り)の都(つ)度(ど)、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。