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二十一
穏(おだ)やかな冬の日がまた二三日続いた。敬(けい)太(たろ)郎(う)は三階の室(へや)から、窓に入る空と樹と屋(やね)根(がわ)瓦(ら)を眺(なが)めて、自然を橙(だい)色(だいいろ)に暖ためるおとなしいこの日光が、あたかも自分のために世の中を照らしているような愉快を覚えた。彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を装(よそお)って、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。彼が田口に依頼した仕事のうちには、普通の依頼者の申(もう)し出(いで)以上のものまで含んでいた。彼は一定の職業から生ずる義務を希望したばかりでなく、刺(しげ)戟(き)に充(み)ちた一時性の用事をも田口から期待した。彼の性質として、もし成効の影が彼を掠(かす)めて閃(ひら)めくならば、おそらく尋常の雑務とは切り離された特別の精彩を帯びたものが、卒然彼の前に投げ出されるのだろうぐらいに考えた。そんな望を抱いて、彼は毎日美くしい日光に浴していたのである。
すると四日ばかりして、また田口から電話がかかった。少し頼みたい事ができたが、わざわざ呼び寄せるのも気の毒だし、電話では手間が要(い)ってかえって面倒になるし、仕方がないから、速達便で手紙を出す事にしたから、委(いさ)細(い)はそれを見て承知してくれ。もし分らない事があったら、また電話で聞き合わしてもいいという通知であった。敬太郎はぼんやり見えていた遠(とお)眼(めが)鏡(ね)の度がぴたりと合った時のように愉快な心持がした。
彼は机の前を一(いっ)寸(すん)も離れずに、速達便の届くのを待っていた。そうしてその間絶ず例の想像を逞(たく)ましくしながら、田口のいわゆる用事なるものを胸の中で組み立てて見た。そこにはいつか須(すな)永(が)の門前で見た後姿の女が、ややともすると断わりなしに入り込んで来た。ふと気がついて、もっと実際的のものであるべきはずだと思うと、その時だけは自分で自分の空想を叱るようにしては、彼はもどかしい時を過ごした。
やがて待ち焦(こが)れた状袋が彼の手に落ちた。彼はすっと音をさせて、封を裂いた。息も継(つ)がずに巻紙の端(はし)から端までを一気に読み通して、思わずあっという微(かす)かな声を揚げた。与えられた彼の用事は待ち設けた空想よりもなお浪(ロマ)漫(ンチ)的(ック)であったからである。手紙の文句は固(もと)より簡単で用事以外の言葉はいっさい書いてなかった。今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰(かっ)好(こう)の男がある。それは黒の中(なか)折(おれ)に霜(しも)降(ふり)の外(がい)套(とう)を着て、顔の面(おも)長(なが)い背の高い、瘠(や)せぎすの紳士で、眉(まゆ)と眉の間に大きな黒(ほく)子(ろ)があるからその特徴を目(めじ)標(るし)に、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。敬太郎は始めて自分が危険なる探偵小説中に主要の役割を演ずる一個の主人公のような心持がし出した。同時に田口が自己の社会的利害を護(まも)るために、こんな暗がりの所(しょ)作(さ)をあえてして、他日の用に、他(ひと)の弱点を握っておくのではなかろうかと云う疑(うたがい)を起した。そう思った時、彼は人の狗(いぬ)に使われる不名誉と不徳義を感じて、一種苦(くも)悶(ん)の膏(あぶ)汗(らあせ)を腋(わき)の下に流した。彼は手紙を手にしたまま、じっと眸(ひとみ)を据(す)えたなり固くなった。しかし須永の母から聞いた田口の性格と、自分が直(じか)に彼に会った時の印象とを纏(まと)めて考えて見ると、けっしてそんな人の悪そうな男とも思われないので、たとい他人の内(ない)行(こう)に探(さぐ)りを入れるにしたところで、必ずしもそれほど下品な料(りょ)簡(うけん)から出るとは限らないという推断もついて見ると、いったん硬(こう)直(ちょく)になった筋肉の底に、また温(あた)たかい血が通(かよ)い始めて、徳義に逆らう吐(むか)気(つき)なしに、ただ興味という一点からこの問題を面白く眺(なが)める余(よゆ)裕(う)もできてきた。それで世の中に接触する経験の第一着手として、ともかくも田口から依頼された通りにこの仕事をやり終(おお)せて見ようという気になった。彼はもう一度とくと田口の手紙を読み直した。そうしてそこに書いてある特徴と条件だけで、はたして満足な結果が実際に得られるだろうかどうかを確かめた。
二十二
田口から知らせて来た特徴のうちで、本当にその人の身を離れないものは、眉(まゆ)と眉の間の黒(ほく)子(ろ)だけであるが、この日の短かい昨今の、四時とか五時とかいう薄暗い光線の下(もと)で、乗(のり)降(おり)に忙がしい多数の客の中(うち)から、指定された局部の一点を目(めじ)標(るし)に、これだと思う男を過(あやま)ちなく見つけ出そうとするのは容易の事ではない。ことに四時と五時の間と云えば、ちょうど役所の退(ひ)ける刻限なので、丸の内からただ一筋の電車を利用して、神田橋を出る役人の数(かず)だけでも大したものである。それにほかと違って停留所が小川町だから、年の暮に間もない左右の見(みせ)世(さ)先(き)に、幕だの楽隊だの、蓄音機だのを飾るやら具(そな)えるやらして、電灯以外の景気を点(つ)けて、不時の客を呼び寄せる混雑も勘(かん)定(じょう)に入れなければなるまい。それを想像して事の成否を考えて見ると、とうてい一人の手(てぎ)際(わ)ではという覚(おぼ)束(つか)ない心持が起って来る。けれどもまた尋ね出そうとするその人が、霜(しも)降(ふり)の外(がい)套(とう)に黒の中(なか)折(おれ)という服(いで)装(たち)で電車を降りるときまって見れば、そこにまだ一(いち)縷(る)の望があるようにも思われる。無論霜降の外套だけでは、どんな恰(かっ)好(こう)にしろ手がかりになり様(よう)はずがないが、黒の中折を被(かぶ)っているなら、色変りよりほかに用いる人のない今(こん)日(にち)だから、すぐ眼につくだろう。それを目(めあ)宛(て)に注意したらあるいは成功しないとも限るまい。
こう考えた敬太郎は、ともかくも停留所まで行って見る事だという気になった。時計を眺(なが)めると、まだ一時を打ったばかりである。四時より三十分前に向(むこう)へ着くとしたところで、三時頃から宅(うち)を出ればたくさんなのだから、まだ二時間の猶(ゆう)予(よ)がある。彼はこの二時間を最も有益に利用するつもりで、じっとしたまま坐っていた。けれどもただ眼の前に、美(みと)土(しろ)代(ちょ)町(う)と小川町が、丁(てい)字(じ)になって交叉している三つ角の雑(ざっ)沓(とう)が入り乱れて映るだけで、これと云って成功を誘(いざな)うに足る上(じょ)分(うふ)別(んべつ)は浮ばなかった。彼の頭は考えれば考えるほど、同じ場所に吸いついたなりまるで動くことを知らなかった。そこへ、どうしても目指す人には会えまいという掛(けね)念(ん)が、不安を伴って胸の中をざわつかせた。敬太郎はいっその事時間が来るまで外を歩きつづけに歩いて見ようかと思った。そう決心をして、両手を机の縁(ふち)に掛けて、勢よく立ち上がろうとする途(とた)端(ん)に、この間浅草で占(うら)ないの婆さんから聞いた、﹁近い内に何か事があるから、その時にはこうこういうものを忘れないようにしろ﹂という注意を思い出した。彼は婆さんのその時の言葉を、解すべからざる謎(なぞ)として、ほとんど頭の外へ落してしまったにもかかわらず、参考のためわざわざ書きつけにして机の抽(ひき)出(だし)に入れておいた。でまたその紙(かみ)片(ぎれ)を取り出して、自分のようで他(ひ)人(と)のような、長いようで短かいような、出るようで這(は)入(い)るようなという句を飽(あ)かず眺(なが)めた。初めのうちは今まで通りとうてい意味のあるはずがないとしか見えなかったが、だんだん繰り返して読むうちに、辛抱強く考えさえすれば、こういう妙な特性を有(も)ったものがあるいは出て来るかも知れないという気になった。その上敬太郎は婆さんに、自分が持っているんだから、いざという場合に忘れないようになさいと注意されたのを覚えていたので、何でも好い、ただ身の周(まわ)囲(り)の物から、自分のようで他(ひ)人(と)のような、長いようで短かいような、出るようで這(は)入(い)るようなものを探(さが)しあてさえすれば、比較的狭い範囲内で、この問題を解決する事ができる訳になって、存外早く片がつくかも知れないと思い出した。そこでわが自由になるこれから先の二時間を、全くこの謎(なぞ)を解くための二時間として大切に利用しようと決心した。
ところがまず眼の前の机、書物、手(てぬ)拭(ぐい)、座(ざぶ)蒲(と)団(ん)から順々に進行して行(こう)李(り)鞄(かばん)靴(くつ)下(した)までいったが、いっこうそれらしい物に出合わないうちに、とうとう一時間経ってしまった。彼の頭は焦(いら)燥(だ)つと共に乱れて来た。彼の観念は彼の室(へや)の中を駆(か)け廻(めぐ)って落ちつけないので、制するのも聞かずに、戸外へ出て縦横に走った。やがて彼の前に、霜(しも)降(ふり)の外(がい)套(とう)を着た黒の中折を被(かぶ)った背の高い瘠(やせ)ぎすの紳士が、彼のこれから探そうというその人の権威を具(そな)えて、ありありと現われた。するとその顔がたちまち大連にいる森本の顔になった。彼はだらしのない髯(ひげ)を生(は)やした森本の容(よう)貌(ぼう)を想像の眼で眺(なが)めた時、突然電流に感じた人のようにあっと云った。
二十三
森本の二字はとうから敬(けい)太(たろ)郎(う)の耳に変な響を伝える媒(なか)介(だち)となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符(ふち)徴(ょう)に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋(ステ)杖(ッキ)を聯(れん)想(そう)したものだが、洋杖が二人を繋(つな)ぐ縁に立っていると解釈しても、あるいは二人の中を割(さ)く邪魔に挟(はさ)まっていると見(み)傚(な)しても、とにかく森本とこの竹の棒の間にはある距(へだ)離(たり)があって、そう一(いっ)足(そく)飛(とび)に片方から片方へ移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本というくらい劇(はげ)しく敬太郎の頭を刺(しげ)戟(き)するのである。その刺戟を受けた彼の頭に、自分の所有のようなまた森本の所有のような、持主のどっちとも片づかないという観念が、熱(ほて)った血に流されながら偶然浮び上った時、彼はああこれだと叫んで、乱れ逃げる黒い影の内から、その洋杖だけをうんと捕(つか)まえたのである。
﹁自分のような他(ひ)人(と)のような﹂と云った婆さんの謎(なぞ)はこれで解けたものと信じて、敬太郎は一人嬉しがった。けれどもまだ﹁長いような短かいような、出るような這(は)入(い)るような﹂というところまでは考えて見ないので、彼はあまる二カ条の特性をも等しくこの洋杖の中(うち)から探(さが)し出そうという料(りょ)簡(うけん)で、さらに新たな努力を鼓(こ)舞(ぶ)してかかった。
始めは見方一つで長くもなり短かくもなるくらいの意味かも知れないと思って、先へ進んで見たが、それでは余り平凡過ぎて、解釈がついたもつかないも同じ事のような心持がした。そこでまた後戻りをして、﹁長いような短かいような﹂という言葉を幾(いく)度(たび)か口の内でくり返しながら思案した。が、容易に解決のできる見込は立たなかった。時計を見ると、自由に使っていい二時間のうちで、もう三十分しか残っていない。彼は抜(ぬけ)裏(うら)と間違えて袋の口へ這(は)入(い)り込んだ結果、好んで行き悩みの状態に悶(もだ)えているのでは無かろうかと、自分で自分の判断を危ぶみ出した。出(で)端(は)のない行きどまりに立つくらいなら、もう一遍引き返して、新らしい途(みち)を探す方がましだとも考えた。しかしこう時間が逼(せま)っているのに、初(しょ)手(て)から出直しては、とても間に合うはずがない、すでにここまで来られたという一部分の成功を縁(えん)喜(ぎ)にして、是非先へ突き抜ける方が順当だとも考えた。これがよかろうあれがよかろうと右左に思い乱れている中に、彼の想像はふと全体としての杖(つえ)を離れて、握りに刻まれた蛇(へび)の頭に移った。その瞬間に、鱗(うろこ)のぎらぎらした細長い胴と、匙(さじ)の先に似た短かい頭とを我知らず比較して、胴のない鎌(かま)首(くび)だから、長くなければならないはずだのに短かく切られている、そこがすなわち長いような短かいような物であると悟った。彼はこの答案を稲(いな)妻(ずま)のごとく頭の奥に閃(ひら)めかして、得意の余り踴(こお)躍(どり)した。あとに残った﹁出るような這(は)入(い)るような﹂ものは、大した苦労もなく約五分の間に解けた。彼は鶏(たま)卵(ご)とも蛙(かえる)とも何とも名状しがたい或物が、半(なか)ば蛇の口に隠れ、半ば蛇の口から現われて、呑(の)み尽されもせず、逃(のが)れ切りもせず、出るとも這入るとも片のつかない状態を思い浮かべて、すぐこれだと判断したのである。
これで万事が綺(きれ)麗(い)に解決されたものと考えた敬太郎は、躍(おど)り上るように机の前を離れて、時計の鎖を帯に絡(から)んだ。帽子は手に持ったまま、袴(はかま)も穿(は)かずに室(へや)を出ようとしたが、あの洋(ステ)杖(ッキ)をどうして持って出たものだろうかという問題がちょっと彼を躊(ちゅ)躇(うちょ)さした。あれに手を触れるのは無論、たとい傘(かさ)入(いれ)から引き出したところで、森本が置き去りにして行ってからすでに久しい今(こん)日(にち)となって見れば、主人に断わらないにしろ、咎(とが)められたり怪しまれたりする気(きづ)遣(かい)はないにきまっているが、さて彼らが傍(そば)にいない時、またおるにしても見ないうちに、それを提(さ)げて出ようとするには相当の思慮か準備が必要になる。迷信のはびこる家庭に成長した敬太郎は、呪(まじ)禁(ない)に使う品物を︵これからその目的に使うんだという料(りょ)簡(うけん)があって︶手に入れる時には、きっと人の見ていない機会を偸(ぬす)んでやらなければ利(き)かないという言い伝えを、郷(く)里(に)にいた頃、よく母から聞かされていたのである。敬太郎は宿の上り口の正面にかけてある時計を見るふりをして、二階の梯(はし)子(ごだ)段(ん)の中途まで降りて下の様子を窺(うか)がった。
二十四
主人は六畳の居間に、例の通り大きな瀬戸物の丸(まる)火(ひば)鉢(ち)を抱(かか)え込んでいた。細君の姿はどこにも見えなかった。敬(けい)太(たろ)郎(う)が梯子段の中途で、及び腰をして、硝(ガラ)子(スご)越(し)に障(しょ)子(うじ)の中を覗(のぞ)いていると、主人の頭の上で忽(こつ)然(ぜん)呼(ベ)鈴(ル)が烈(はげ)しく鳴り出した。主人は仰(あお)向(む)いて番号を見ながら、おい誰かいないかねと次(つぎ)の間(ま)へ声をかけた。敬太郎はまたそろそろ三階の自分の室(へや)へ帰って来た。
彼はわざわざ戸(とだ)棚(な)を開けて、行(こ)李(り)の上に投げ出してあるセルの袴(はかま)を取り出した。彼はそれを穿(は)くとき、腰(こし)板(いた)を後(うしろ)に引き摺(ず)って、室(へや)の中を歩き廻った。それから足(た)袋(び)を脱(ぬ)いで、靴下に更(か)えた。これだけ身(みな)装(り)を改めた上、彼はまた三階を下りた。居間を覗(のぞ)くと細君の姿は依然として見えなかった。下女もそこらにはいなかった。呼(ベ)鈴(ル)も今度は鳴らなかった。家中ひっそり閑(かん)としていた。ただ主人だけは前の通り大きな丸火鉢に靠(もた)れて、上り口の方を向いたなりじっと坐っていた。敬太郎は段々を下まで降り切らない先に、高い所から斜(はす)に主人の丸くなった背中を見て、これはまだ都合が悪いと考えたが、ついに思い切って上り口へ出た。主人は案(あん)の上(じょう)、﹁御出かけで﹂と挨(あい)拶(さつ)した。そうして例(いつも)の通り下女を呼んで下(げた)駄(ば)箱(こ)にしまってある履(はき)物(もの)を出させようとした。敬太郎は主人一人の眼を掠(か)すめるのにさえ苦心していたところだから、この上下女に出られては敵(かな)わないと思って、いや宜(よろ)しいと云いながら、自分で下駄箱の垂(たれ)を上げて、早速靴を取りおろした。旨(うま)い具合に下女は彼が土間へ降り立つまで出て来なかった。けれども、亭主は依然としてこっちを向いていた。
﹁ちょっと御願ですがね。室の机の上に今月の法学協会雑誌があるはずだが、ちょっと取って来てくれませんか。靴を穿(は)いてしまったんで、また上(あが)るのが面倒だから﹂
敬太郎はこの主人に多少法律の心得があるのを知って、わざとこう頼んだのである。主人は自分よりほかのものでは到(とて)底(も)弁じない用事なので、﹁はあようがす﹂と云って気(き)さくに立って梯(はし)子(ごだ)段(ん)を上(のぼ)って行った。敬太郎はそのひまに例の洋(ステ)杖(ッキ)を傘(かさ)入(いれ)から抽(ぬ)き取ったなり、抱(だ)き込むように羽織の下へ入れて、主人の座に帰らないうちにそっと表へ出た。彼は洋杖の頭の曲った角(かど)を、右の腋(わき)の下に感じつつ急ぎ足に本郷の通まで来た。そこでいったん羽織の下から杖(つえ)を出して蛇(へび)の首をじっと眺(なが)めた。そうして袂(たもと)の手(ハン)帛(ケチ)で上から下まで綺(きれ)麗(い)に埃(ほこり)を拭いた。それから後は普通の杖のように右の手に持って、力任せに振り振り歩いた。電車の上では、蛇の頭へ両手を重ねて、その上に顋(あご)を載(の)せた。そうしてやっと今一段落ついた自分の努力を顧(かえり)みて、ほっと一息吐(つ)いた。同時にこれから先指定された停留所へ行ってからの成否がまた気にかかり出した。考えて見ると、これほど骨を折って、偸(ぬす)むように持ち出した洋杖が、どうすれば眉(まゆ)と眉の間の黒(ほく)子(ろ)を見分ける必要品になるのか、全く彼の思量のほかにあった。彼はただ婆さんに云われた通り、自分のような他(ひ)人(と)のような、長いような短かいような、出るような這(は)入(い)るようなものを、一生懸命に探し当てて、それを忘れないで携(たず)さえているというまでであった。この怪しげに見えて平凡な、しかもむやみに軽い竹の棒が、寝かそうと起こそうと、手に持とうと袖(そで)に隠そうと、未知の人を探す上に、はたして何の役に立つか知らんと疑ぐった時、彼はちょっとの間(ま)、瘧(ぎゃく)を振い落した人のようにけろりとして、車内を見廻わした。そうして頭の毛穴から湯気の立つほど業(ごう)を煮やした先(さっ)刻(き)の努力を気恥かしくも感じた。彼は自分で自分の所(しょ)作(さ)を紛(まぎ)らす為(ため)に、わざと洋杖を取り直して、電車の床(ゆか)をとんとんと軽く叩(たた)いた。
やがて目的の場所へ来た時、彼はとりあえず青年会館の手前から引き返して、小川町の通へ出たが、四時にはまだ十五分ほど間(ま)があるので、彼は人通りと電車の響きを横切って向う側へ渡った。そこには交番があった。彼は派出所の前に立っている巡査と同じ態度で、赤いポストの傍(そば)から、真(まっ)直(すぐ)に南へ走る大通りと、緩(ゆる)い弧線を描いて左右に廻り込む広い往来とを眺(なが)めた。これから自分の活躍すべき舞台面を一応こういう風に検分した後で、彼はすぐ停留所の所在を確かめにかかった。
二十五
赤い郵(ポ)便(ス)函(ト)から五六間東へ下(くだ)ると、白いペンキで小川町停留所と書いた鉄の柱がすぐ彼の眼に入(い)った。ここにさえ待っていれば、たとい混雑に取り紛(まぎ)れて注意人物を見失うまでも、刻限に自分の部署に着いたという強味はあると考えた彼は、これだけの安心を胸に握った上、また目(めじ)標(るし)の鉄の柱を離れて、四(あた)辺(り)の光景を見廻した。彼のすぐ後には蔵(くら)造(づくり)の瀬戸物屋があった。小さい盃(さかずき)のたくさん並んだのを箱入にして額のように仕立てたのがその軒下にかかっていた。大きな鉄(かね)製(せい)の鳥(とり)籠(かご)に、陶器でできた餌(えつ)壺(ぼ)をいくつとなく外から括(くく)りつけたのも、そこにぶら下がっていた。その隣りは皮屋であった。眼も爪も全く生きた時のままに残した大きな虎の皮に、緋(ひら)羅(し)紗(ゃ)の縁(へり)を取ったのがこの店の重(おも)な装飾であった。敬(けい)太(たろ)郎(う)は琥(こは)珀(く)に似たその虎の眼を深く見つめて立った。細長くって真白な皮でできた襟(えり)巻(まき)らしいものの先に、豆(まめ)狸(だぬき)のような顔が付着しているのも滑(こっ)稽(けい)に見えた。彼は時計を出して時間を計りながら、また次の店に移った。そうして瑪(めの)瑙(う)で刻(ほ)った透明な兎(うさぎ)だの、紫(むら)水(さき)晶(ずいしょう)でできた角(かく)形(がた)の印材だの、翡(ひす)翠(い)の根(ねが)懸(け)だの孔(くじ)雀(ゃく)石(せき)の緒(おじ)締(め)だのの、金の指輪やリンクスと共に、美くしく並んでいる宝石商の硝(ガラ)子(スま)窓(ど)を覗(のぞ)いた。
敬太郎はこうして店から店を順々に見ながら、つい天下堂の前を通り越して唐(から)木(きざ)細(い)工(く)の店先まで来た。その時後(うしろ)から来た電車が、突然自分の歩いている往来の向う側でとまったので、もしやという心から、筋(すじ)違(かい)に通を横切って細い横町の角にある唐(とう)物(ぶつ)屋(や)の傍(そば)へ近寄ると、そこにも一本の鉄の柱に、先(さっ)刻(き)のと同じような、小川町停留所という文字が白く書いてあった。彼は念のためこの角(かど)に立って、二三台の電車を待ち合わせた。すると最初には青山というのが来た。次には九段新宿というのが来た。が、いずれも万(まん)世(せい)橋(ばし)の方から真(まっ)直(すぐ)に進んで来るので彼はようやく安心した。これでよもやの懸(けね)念(ん)もなくなったから、そろそろ元の位地に帰ろうというつもりで、彼は足の向(むき)を更(か)えにかかった途(とた)端(ん)に、南から来た一台がぐるりと美(みと)土(しろ)代(ちょ)町(う)の角を回転して、また敬太郎の立っている傍でとまった。彼はその電車の運転手の頭の上に黒く掲げられた巣(すが)鴨(も)の二字を読んだ時、始めて自分の不注意に気がついた。三田方面から丸の内を抜けて小川町で降りるには、神田橋の大通りを真(まっ)直(すぐ)に突き当って、左へ曲っても今敬太郎の立っている停留所で降りられるし、また右へ曲っても先(さっ)刻(き)彼の検分しておいた瀬戸物屋の前で降りられるのである。そうして両方とも同じ小川町停留所と白いペンキで書いてある以上は、自分がこれから後(あと)を跟(つ)けようという黒い中折の男は、どっちへ降りるのだか、彼にはまるで見(けん)当(とう)がつかない事になるのである。眼を走らせて、二本の赤い鉄柱の距(みち)離(のり)を目分量で測って見ると、一町には足りないくらいだが、いくら眼と鼻の間だからと云って、一方だけを専門にしてさえ覚(おぼ)束(つか)ない彼の監視力に対して、両方共手落なく見張り終(おお)せる手(てぎ)際(わ)を要求するのは、どれほど自分の敏腕を高く見積りたい今の敬太郎にも絶対の不可能であった。彼は自分の住(す)居(ま)っている地理上の関係から、常に本郷三田間を連絡する電車にばかり乗っていたため、巣鴨方面から水道橋を通って同じく三田に続く線路の存在に、今が今まで気がつかずにいた自己の迂(うか)闊(つ)を深く後悔した。
彼は困却の余りふと思いついた窮(きゅ)策(うさく)として、須(すな)永(が)の助力でも借りに行こうかと考えた。しかし時計はもう四時七分前に逼(せま)っていた。ついこの裏通に住んでいる須永だけれども、門前まで駈けつける時間と、かい摘(つま)んで用事を呑(の)み込ます時間を勘定に入れればとても間に合いそうにない。よしそのくらいの間(ま)は取れるとしたところで、須永に一方の見張りを頼む以上は、もし例の紳士が彼のいる方へ降りるならば、何かの手段で敬太郎に合図をしなければならない。それもこの人込の中だから、手を挙げたり手(ハン)帛(ケチ)を振るぐらいではちょっと通じかねる。紛(まぎ)れもなく敬太郎に分らせようとするには、往来を驚ろかすほどな大きな声で叫ぶに限ると云ってもいいくらいなものだが、そう云う突(とっ)飛(ぴ)なよほどな場合でも体(てい)裁(さい)を重んずる須永のような男にできるはずがない。万一我慢してやってくれたところで、こっちから駆(か)けて行く間には、肝(かん)心(じん)の黒の中(なか)折(おれ)帽(ぼう)を被(かぶ)った男の姿は見えなくなってしまわないとも云えない。――こう考えた敬太郎はやむを得ないから運を天に任せてどっちか一方の停留所だけ守ろうと決心した。
二十六
決心はしたようなものの、それでは今立っている所を動かないための横着と同じ事になるので、わざと成(せい)効(こう)を度外に置いて仕事にかかった不安を感ぜずにはいられなかった。彼は首を延ばすようにして、また東の停留所を望んだ。位地のせいか、向(むき)の具合か、それとも自分が始終乗(のり)降(おり)に慣れている訳か、どうもそちらの方が陽気に見えた。尋ねる人も何だか向(むこう)で降りそうな心持がした。彼はもう一度見張るステーションを移そうかと思いながら、なおかつ決しかねてしばらく躊(ちゅ)躇(うちょ)していた。するとそこへ江戸川行の電車が一台来てずるずるととまった。誰も降(おり)者(て)がないのを確かめた車掌は、一分と立たないうちにまた車を出そうとした。敬(けい)太(たろ)郎(う)は錦町へ抜ける細い横町を背にして、眼の前の車台にはほとんど気のつかないほど、ここにいようかあっちへ行こうかと迷っていた。ところへ後の横町から突然馳(か)け出して来た一人の男が、敬太郎を突き除(の)けるようにして、ハンドルへ手をかけた運転手の台へ飛び上った。敬太郎の驚ろきがまだ回復しないうちに、電車はがたりと云う音を出してすでに動き始めた。飛び上がった男は硝(ガラ)子(ス)戸(ど)の内へ半分身(から)体(だ)を入れながら失敬しましたと云った。敬太郎はその男と顔を見合せた時、彼の最後の視線が、自分の足の下に落ちたのを注意した。彼は敬太郎に当った拍(ひょ)子(うし)に、敬太郎の持っていた洋(ステ)杖(ッキ)を蹴(け)飛(と)ばして、それを持主の手から地面の上へ振り落さしたのである。敬太郎は直(すぐ)曲(こご)んで洋杖を拾い上げようとした。彼はその時蛇(へび)の頭が偶然東(ひが)向(しむき)に倒れているのに気がついた。そうしてその頭の恰(かっ)好(こう)を何となしに、方角を教える指(フィ)標(ンガーポスト)のように感じた。
﹁やっぱり東が好かろう﹂
彼は早足に瀬戸物屋の前まで帰って来た。そこで本郷三丁目と書いた電車から降りる客を、一人残らず物色する気で立った。彼は最初の二三台を親の敵(かたき)でも覘(ねら)うように怖(こわ)い眼つきで吟(ぎん)味(み)した後(あと)、少し心に余(よゆ)裕(う)ができるに連れて、腹の中がだんだん気(きじ)丈(ょう)になって来た。彼は自分の眼の届く広場を、一面の舞台と見(み)傚(な)して、その上に自分と同じ態度の男が三人いる事を発見した。その一人は派出所の巡査で、これは自分と同じ方を向いて同じように立っていた。もう一人は天下堂の前にいるポイントマンであった。最後の一(いち)人(にん)は広場の真中に青と赤の旗を神聖な象(シン)徴(ボル)のごとく振り分ける分(ふん)別(べつ)盛(ざか)りの中(ちゅ)年(うね)者(んもの)であった。そのうちでいつ出て来るか知れない用事を期待しながら、人目にはさも退屈そうに立っているものは巡査と自分だろうと敬太郎は考えた。
電車は入れ代り立ち代り彼の前にとまった。乗るものは無理にも窮屈な箱の中に押し込もうとする、降りるものは権(けん)柄(ぺい)ずくで上から伸(の)しかかって来る。敬太郎はどこの何物とも知れない男(なん)女(にょ)が聚(あつ)まったり散ったりするために、自分の前で無作法に演じ出す一(いっ)分(ぷん)時(じ)の争を何度となく見た。けれども彼の目的とする黒の中折の男はいくら待っても出て来なかった。ことに依ると、もうとうに西の停留所から降りてしまったものではなかろうかと思うと、こうして役にも立たない人の顔ばかり見つめて、眼のちらちらするほど一つ所に立っているのは、随分馬鹿気た所(しょ)作(さ)に見えて来る。敬太郎は下宿の机の前で熱に浮かされた人のように夢中で費やした先(さっ)刻(き)の二時間を、充分須(すな)永(が)と打ち合せをして彼の援助を得るために利用した方が、遥(はる)かに常識に適(かな)った遣(やり)口(くち)だと考え出した。彼がこの苦(にが)い気分を痛切に甞(な)めさせられる頃から空はだんだん光を失なって、眼に映る物の色が一面に蒼(あお)く沈んで来た。陰(いん)鬱(うつ)な冬の夕暮を補なう瓦(ガ)斯(ス)と電気の光がぽつぽつそこらの店(みせ)硝(ガラ)子(ス)を彩(いろ)どり始めた。ふと気がついて見ると、敬太郎から一間ばかりの所に、廂(ひさ)髪(しがみ)に結(い)った一人の若い女が立っていた。電車の乗(のり)降(おり)が始まるたびに、彼は注意の余(なご)波(り)を自分の左右に払っていたつもりなので、いつどっちから歩き寄ったか分らない婦人を思わぬ近くに見た時は、何より先にまずその存在に驚ろかされた。
二十七
女は年に合わして地味なコートを引き摺(ず)るように長く着ていた。敬(けい)太(たろ)郎(う)は若い人の肉を飾る華(はな)麗(やか)な色をその裏に想像した。女はまたわざとそれを世間から押し包むようにして立っていた。襦(じゅ)袢(ばん)の襟(えり)さえ羽(はぶ)二(た)重(え)の襟(えり)巻(まき)で隠していた。その羽二重の白いのが、夕暮の逼(せま)るに連れて、空気から浮き出して来るほかに、女は身の周(まわ)囲(り)に何といって他(ひと)の注意を惹(ひ)くものを着けていなかった。けれども時(じせ)節(つが)柄(ら)に頓(とん)着(じゃく)なく、当人の好(この)尚(み)を示したこの一(ひと)色(いろ)が、敬太郎には何よりも際(きわ)立(だ)って見えた。彼は光の抜けて行く寒い空の下で、不調和な異(い)な物に出逢った感じよりも、煤(すす)けた往来に冴(さえ)々(ざえ)しい一点を認めた気分になって女の頸(くび)の辺(あたり)を注意した。女は敬太郎の視線を正(まと)面(も)に受けた時、心持身(から)体(だ)の向(むき)を変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、鬢(びん)から洩(も)れた毛を後(うしろ)へ掻きやる風をした。固(もと)より女の髪は綺(きれ)麗(い)に揃(そろ)っていたのだから、敬太郎にはこの挙動が実(み)のない科(しな)としてのみ映ったのだが、その手を見た時彼はまた新たな注意を女から強いられた。
女は普通の日本の女(にょ)性(しょう)のように絹の手袋を穿(は)めていなかった。きちりと合う山(や)羊(ぎ)の革製ので、華(きゃ)奢(しゃ)な指をつつましやかに包んでいた。それが色の着いた蝋(ろう)を薄く手の甲に流したと見えるほど、肉と革がしっくりくっついたなり、一筋の皺(しわ)も一(いち)分(ぶ)の弛(たる)みも余していなかった。敬太郎は女の手を上げた時、この手袋が女の白い手(てく)頸(び)を三寸も深く隠しているのに気がついた。彼はそれぎり眼を転じてまた電車に向った。けれども乗(のり)降(おり)の一混雑が済んで、思う人が出て来ないと、また心に二三分の余(よゆ)裕(う)ができるので、それを利用しようと待ち構えるほどの執着はなかったにせよ、電車の通り越した相(あい)間(ま)相間には覚(さと)られないくらいの視力を使って常に女の方を注意していた。
始め彼はこの女を﹁本郷行﹂か﹁亀沢町行﹂に乗るのだろうと考えていた。ところが両方の電車が一順廻って来て、自分の前に留っても、いっこう乗る様子がないので、彼は少々変に思った。あるいは無理に込み合っている車台に乗って、押し潰(つぶ)されそうな窮屈を我慢するよりも、少し時間の浪費を怺(こら)えた方が差引得(とく)になるという主義の人かとも考えて見たが、満員という札もかけず、一つや二つの空席は充分ありそうなのが廻って来ても、女は少しも乗る素(そぶ)振(り)を見せないので、敬太郎はいよいよ変に思った。女は敬太郎から普通以上の注意を受けていると覚ったらしく、彼が少しでも手足の態度を改ためると、雨の降らないうちに傘(かさ)を広げる人のように、わざと彼の観察を避(よ)ける準備をした。そうして故意に反対の方を見たり、あるいは向うへ二三歩あるき出したりした。それがため、妙に遠慮深いところのできた敬太郎はなるべく露(むき)骨(だし)に女の方を見るのを慎(つつ)しんでいた。がしまいにふと気がついて、この女は不案内のため、自分の勝手で好い加減にきめた停留所の前に来て、乗れもしない電車をいつまでも待っているのではなかろうかと思った。それなら親切に教えてやるべきだという勇気が急に起ったので、彼は逡(しゅ)巡(んじゅん)する気(けし)色(き)もなく、真正面に女の方を向いた。すると女はふいと歩き出して、二三間先の宝石商の窓際まで行ったなり、あたかも敬太郎の存在を認めぬもののごとくに、そこで額を窓(まど)硝(ガラ)子(ス)に着けるように、中に並べた指環だの、帯留だの枝(えだ)珊(さん)瑚(ご)の置物だのを眺(なが)め始めた。敬太郎は見ず知らずの他人に入らざる好(こう)意(いだ)立(て)をして、かえって自分と自分の品位を落したのを馬鹿らしく感じた。
女の容(よう)貌(ぼう)は始めから大したものではなかった。真(まむ)向(き)に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴(はれ)々(ばれ)しい心持のする眸(ひとみ)を有(も)っていた。宝石商の電灯は今硝(ガラ)子(スご)越(し)に彼(かの)女(おんな)の鼻と、豊(ふっ)くらした頬の一部分と額とを照らして、斜(はす)かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪(りん)廓(かく)を与えた。彼はその輪廓と、長いコートに包まれた恰(かっ)好(こう)のいい彼女の姿とを胸に収めて、また電車の方に向った。
二十八
電車がまた二三台来た。そうして二三台共また敬(けい)太(たろ)郎(う)の失望をくり返さして東へ去った。彼は成功を思い切った人のごとくに帯の下から時計を出して眺めた。五時はもうとうに過ぎていた。彼は今(いま)更(さら)気がついたように、頭の上に被(かぶ)さる黒い空を仰いで、苦(にが)々(にが)しく舌(した)打(うち)をした。これほど骨を折って網を張った中へかからない鳥は、西の停留所から平気で逃げたんだと思うと、他(ひと)を騙(だま)すためにわざわざ拵(こし)らえた婆さんの予言も、大事そうに持って出た竹の洋(ステ)杖(ッキ)も、その洋杖が与えてくれた方角の暗示も、ことごとく忌(いま)々(いま)しさの種になった。彼は暗い夜を欺(あざ)むいて眼先にちらちらする電灯の光を見廻して、自分をその中心に見出した時、この明るい輝きも必(ひっ)竟(きょう)自分の見残した夢の影なんだろうと考えた。彼はそのくらい興を覚(さ)ましながらまだそのくらい寝(ね)惚(ぼ)けた心持を失わずに立っていたが、やがて早く下宿へ帰って正気の人間になろうという覚悟をした。洋杖は自分の馬鹿を嘲(あざ)ける記(かた)念(み)だから、帰りがけに人の見ていない所で二つに折って、蛇の頭も鉄の輪の突がねもめちゃめちゃに、万世橋から御茶の水へ放り込んでやろうと決心した。
彼はすでに動こうとして一歩足を移しかけた時、また先(さっ)刻(き)の若い女の存在に気がついた。女はいつの間にか宝石商の窓を離れて、元の通り彼から一間ばかりの所に立っていた。背が高いので、手足も人(ひと)尋(な)常(み)より恰(かっ)好(こう)よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めたのだが、今度はことにその右の手が彼の心を惹(ひ)いた。女は自然のままにそれをすらりと垂れたなり、まるで他の注意を予期しないでいたのである。彼は素直に調子の揃(そろ)った五本の指と、しなやかな革(かわ)で堅く括(くく)られた手(てく)頸(び)と、手頸の袖(そで)口(くち)の間から微(かす)かに現われる肉の色を夜の光で認めた。風の少ない晩であったが、動かないで長く一(ひと)所(ところ)に立ち尽すものに、寒さは辛(つら)く当った。女は心持ち顋(あご)を襟(えり)巻(まき)の中に埋(うず)めて、俯(ふし)目(めが)勝(ち)にじっとしていた。敬太郎は自分の存在をわざと眼中に置かないようなこの眼(めづ)遣(かい)の底に、かえって自分が気にかかっているらしい反証を得たと信じた。彼が先刻から蚤(のみ)取(とり)眼(まなこ)で、黒の中折帽を被(かぶ)った紳士を探している間、この女は彼と同じ鋭どい注意を集めて、観察の矢を絶えずこっちに射(い)がけていたのではなかろうか。彼はある男を探偵しつつ、またある女に探偵されつつ、一時間余(あまり)をここに過ごしたのではなかろうか。けれどもどこの何物とも知れない男の、何をするか分らない行動を、何のために探るのだか、彼には何らの考(かんがえ)がなかったごとく、どこの何物とも知れない女から何を仕(し)出(で)かすか分らない人として何のために自分が覘(ねら)われるのだか、そこへ行くとやはりまるで要領を得なかった。敬太郎はこっちで少し歩き出して見せたら向うの様子がもっと鮮明に分るだろうという気になって、そろりそろりと派出所の後(うしろ)を西の方へ動いて行った。もちろん女に勘づかれないために、彼は振向いて後を見る動作を固く憚(はば)かった。けれどもいつまでも前ばかり見て先へ行っては、肝(かん)心(じん)の目的を達する機会がないので、彼は十間ほど来たと思う時分に、わざと見たくもない硝(ガラ)子(スま)窓(ど)を覗(のぞ)いて、そこに飾ってある天(びろ)鵞(う)絨(ど)の襟(えり)の着いた女の子のマントを眺(なが)める風をしながら、そっと後(うしろ)を振り向いた。すると女は自分の背後にいるどころではなかった。延び上ってもいろいろな人が自分を追越すように後(あと)から後から来る陰になって、白い襟(えり)巻(まき)も長いコートもさらに彼の眼に入らなかった。彼はそのまま前へ進む勇気があるかを自分に疑ぐった。黒い中折の帽子を被った人の事なら、定刻の五時を過ぎた今だから、断念してもそれほどの遺憾はないが、女の方はどんなつまらない結果に終ろうとも、最(もう)少(すこ)し観察していたかった。彼は女から自分が探偵されていると云う疑念を逆に投げ返して、こっちから女の行動を今しばらく注意して見ようという物(もの)数(ず)奇(き)を起した。彼は落し物を拾いに帰る人の急ぎ足で、また元の派出所近く来た。そこの暗い陰に身を寄せるようにして窺(うかが)うと、女は依然としてじっと通りの方を向いて立っていた。敬太郎の戻った事にはまるで気がついていない風に見えた。
二十九
その時敬(けい)太(たろ)郎(う)の頭に、この女は処女だろうか細君だろうかという疑が起った。女は現代多数の日本婦人にあまねく行われる廂(ひさ)髪(しがみ)に結(い)っているので、その辺の区別は始めから不(ふぶ)分(んみ)明(ょう)だったのである。が、いよいよ物陰に来て、半(なかば)後(うしろ)になったその姿を眺めた時は、第一番にどっちの階級に属する人だろうという問題が、新たに彼を襲(おそ)って来た。
見かけからいうとあるいは人に嫁(とつ)いだ経験がありそうにも思われる。しかし身(から)体(だ)の発育が尋常より遥(はる)かに好いからことによれば年は存外取っていないのかも知れない。それならなぜあんな地味な服(つく)装(り)をしているのだろう。敬太郎は婦人の着る着物の色や縞(しま)柄(がら)について、何をいう権利も有(も)たない男だが、若い女ならこの陰(いん)鬱(うつ)な師(しわ)走(す)の空気を跳(は)ね返すように、派(は)出(で)な色を肉の上に重ねるものだぐらいの漠(ばっ)とした観察はあったのである。彼はこの女が若々しい自分の血に高い熱を与える刺(しげ)戟(きせ)性(い)の文(あや)をどこにも見せていないのを不思議に思った。女の身に着けたものの内で、わずかに人の注意を惹(ひ)くのは頸(くび)の周(まわ)囲(り)を包む羽(はぶ)二(た)重(え)の襟巻だけであるが、それはただ清いと云う感じを起す寒い色に過ぎなかった。あとは冬枯の空と似合った長いコートですぽりと隠していた。
敬太郎は年に合わして余りに媚(こ)びる気分を失い過ぎたこの衣(な)服(り)を再び後(うしろ)から見て、どうしてもすでに男を知った結果だと判じた。その上この女の態度にはどこか大(おと)人(な)びた落ちつきがあった。彼はその落ちつきを品性と教育からのみ来た所得とは見(み)傚(な)し得なかった。家庭以外の空気に触れたため、初(うい)々(うい)しい羞(はに)恥(かみ)が、手(ハン)帛(ケチ)に振りかけた香水の香(か)のように自然と抜けてしまったのではなかろうかと疑ぐった。そればかりではない、この女の落ちつきの中には、落ちつかない筋肉の作用が、身(から)体(だ)全体の運動となったり、眉(まゆ)や口の運動となって、ちょいちょい出て来るのを彼は先(さっ)刻(き)目撃した。最も鋭敏に動くものはその眼であろうと彼は疾(と)くに認めていた。けれどもその鋭敏に動こうとする眼を、強(し)いて動かすまいと力(つと)める女の態度もまた同時に認めない訳に行かなかった。だからこの女の落ちつきは、自分で自分の神経を殺しているという自覚に伴(とも)なったものだと彼は勘(かん)定(てい)していた。
ところが今後(うしろ)から見た女は身体といい気分といい比較的沈静して両方の間に旨(うま)く調子が取れているように思われた。彼(かの)女(おんな)は先刻と違って、別段姿勢を改ためるでもなく、そろそろ歩き出すでもなく、宝石商の窓へ寄り添うでもなく、寒さを凌(しの)ぎかねる風(ふぜ)情(い)もなく、ほとんど閑(かん)雅(が)とでも形容したい様子をして、一段高くなった人道の端(はじ)に立っていた。傍(そば)には次の電車を待ち合せる人が二三散らばっていた。彼らは皆向うから来る車台を見つめて、早く自分の傍(そば)へ招き寄せたい風に見えた。敬太郎が立ち退(の)いたので大いに安心したらしい彼女は、その中(うち)で最も熱心に何かを待ち受ける一(いち)人(にん)となって、筋向うの曲り角をじっと注意し始めた。敬太郎は派出所の陰を上(かみ)へ廻って車道へ降りた。そうしてペンキ塗の交番を楯(たて)に、巡査の立っている横から女の顔を覘(ねら)うように見た。そうしてその表情の変化にまた驚ろかされた。今まで後(うし)姿(ろすがた)を眺(なが)めて物陰にいた時は、彼女を包む一(ひと)色(いろ)の目立たないコートと、その背の高さと、大きな廂(ひさ)髪(しがみ)とを材料に、想像の国でむしろ自由過ぎる結論を弄(もて)あそんだのだが、こうして彼女の知らない間に、その顔を遠慮なく眺めて見ると、全く新らしい人に始めて出逢ったような気がしない訳に行かなかった。要するに女は先刻より大変若く見えたのである。切に何物かを待ち受けているその眼もその口も、ただ生(いき)々(いき)した一種華(はな)やかな気(きし)色(ょく)に充(み)ちて、それよりほかの表情は毫(ごう)も見当らなかった。敬太郎はそのうちに処女の無邪気ささえ認めた。
やがて女の見つめている方角から一台の電車が弓なりに曲った線路を、ぐるりと緩(ゆる)く廻転して来た。それが女のいる前で滑(すべ)るようにとまった時、中から二人の男が出た。一人は紙で包んだボール箱のようなものを提(さ)げて、すたすた巡査の前を通り越して人道へ飛び上がったが、一人は降りると直(すぐ)に女の前に行って、そこに立ちどまった。
三十
敬(けい)太(たろ)郎(う)は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺(なが)めていたが、美くしい歯を露(む)き出しに現わして、潤(うる)沢(おい)の饒(ゆた)かな黒い大きな眼を、上(うえ)下(した)の睫(まつげ)の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。敬太郎は女の笑い顔に見(み)惚(と)れると云うよりもむしろ驚ろいて相手の男に視線を移した。するとその男の頭の上に黒い中(なか)折(おれ)が乗っているのに気がついた。外(がい)套(とう)は判(はっ)切(きり)霜(しも)降(ふり)とは見分けられなかったが、帽子と同じ暗い光を敬太郎の眸(ひとみ)に投げた。その上背は高かった。瘠(やせ)ぎすでもあった。ただ年(と)齢(し)の点に至ると、敬太郎にはとかくの判断を下しかねた。けれどもその人が寿命の度(ども)盛(り)の上において、自分とは遥(はる)か隔(へだ)たった向うにいる事だけはたしかなので、彼はこの男を躊(ちゅ)躇(うちょ)なく四十恰(がっ)好(こう)と認めた。これだけの特点を前後なくほとんど同時に胸に入れ得た時、彼は自分が先(さっ)刻(き)から馬鹿を尽してつけ覘(ねら)った本人がやっと今電車を降りたのだと断定しない訳に行かなかった。彼は例刻の五時がとうの昔(むか)しに過ぎたのに、妙な酔(すい)興(きょう)を起して、やはり同じ所にぶらついていた自分を仕合せだと思った。その酔興を起させるため、自分の好奇心を釣りに若い女が偶然出て来てくれたのをありがたく思った。さらにその若い女が自分の探す人を、自分よりも倍以上の自信と忍耐をもって、待ち終(おお)せたのを幸運の一つに数えた。彼はこのX(エックス)という男について、田口のために、ある知識を供給する事ができると共に、同じ知識がY(ワイ)という女に関する自分の好奇心を幾分か満足させ得るだろうと信じたからである。
男と女はまるで敬太郎の存在に気がつかなかったと見えて、前後左右に遠慮する気(けし)色(き)もなく、なお立ちながら話していた。女は始終微笑を洩(も)らす事をやめなかった。男も時々声を出して笑った。二人が始めて顔を合わした時の挨(あい)拶(さつ)の様子から見ても彼らはけっして疎遠な間柄ではなかった。異性を繋(つな)ぎ合わせるようで、その実両方の仲を堰(せ)く、慇(いん)懃(ぎん)な男(なん)女(にょ)間(かん)の礼義は彼らのどちらにも見出す事ができなかった。男は帽子の縁(ふち)に手をかける面倒さえあえてしなかった。敬太郎はその鍔(つば)の下にあるべきはずの大きな黒(ほく)子(ろ)を面と向って是非突き留めたかった。もし女がいなかったならば肉の上に取り残されたこの異様な一点を確かめるために、彼はつかつかと男の前へ進んで行って、何でも好いから、ただ口から出(でま)任(か)せの質問をかけたかも知れない。それでなくても、直(ただ)ちに彼の傍(そば)へ近寄って、満足の行くまでその顔を覗(のぞ)き込んだろう。この際そう云う大胆な行動を妨たげるものは、男の前に立っている例の女であった。女が敬太郎の態度を悪く疑ぐったかどうかは問題として、彼の挙動に不審を抱(いだ)いた様子は、同じ場所に長く立ち並んだ彼の目に親しく映じたところである。それを承知しながら、再びその視線の内に、自分の顔を無遠慮に突き出すのは、多少紳士的でない上に、嫌(けん)疑(ぎ)の火の手をわざと強くして、自分の目的を自分で打(う)ち毀(こわ)すと同じ結果になる。
こう考えた敬太郎は、自然の順序として相応の機会が廻(めぐ)って来るまでは、黒子の有る無しを見届けるだけは差し控えた方が得策だろうと判断した。その代り見え隠れに二人の後(あと)を跟(つ)けて、でき得るならば断片的でもいいから、彼らの談話を小耳に挟(はさ)もうと覚悟した。彼は先方の許諾を待たないで、彼らの言動を、ひそかに我胸に畳み込む事の徳義的価値について、別に良心の相談を受ける必要を認めなかった。そうして自分の骨折から出る結果は、世(せ)故(こ)に通じた田口によって、必ず善意に利用されるものとただ淡(たん)泊(ぱく)に信じていた。
やがて男は女を誘(いざ)なう風をした。女は笑いながらそれを拒(こば)むように見えた。しまいに半(なか)ば向き合っていた二人が、肩と肩を揃(そろ)えて瀬戸物屋の軒(のき)端(ば)近く歩き寄った。そこから手を組み合わせないばかりに並んで東の方へ歩き出した。敬太郎は二三間早足に進んで、すぐ彼らの背後まで来た。そうして自分の歩調を彼らと同じ速度に改ためた。万一女に振り向かれても、疑惑を免(まぬ)かれるために、彼はけっして彼らの後姿には眼を注がなかった。偶然前後して天下の往来を同じ方角に行くもののごとくに、故(わ)意(ざ)とあらぬ方(かた)を見て歩いた。
三十一
﹁だって余(あん)まりだわ。こんなに人を待たしておいて﹂
敬(けい)太(たろ)郎(う)の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞(ふさ)がりそうにした。敬太郎の方でも、後(うしろ)から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋(ばつ)が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍(そば)にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝(ガラ)子(スつ)壺(ぼ)の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外(がい)套(とう)の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身(から)体(だ)を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯(ひ)に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
﹁まだ六時だよ。そんなに遅かあない﹂
﹁遅いわあなた、六時なら。妾(あたし)もう少しで帰(かい)るところよ﹂
﹁どうも御気の毒さま﹂
二人はまた歩き出した。敬太郎も壺(つぼ)入(いり)のビスケットを見棄ててその後(あと)に従がった。二人は淡(あわ)路(じち)町(ょう)まで来てそこから駿(する)河(がだ)台(いし)下(た)へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門(かど)口(ぐち)から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家(うち)へ入(は)いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝(たか)亭(らてい)と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出(でい)入(り)をする家(うち)であった。近頃普(ふし)請(ん)をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝(さら)して、斜(はす)かけに立ち切られたような棟(むね)を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦(ビー)酒(ル)の広告写真を仰ぎながら、肉(ナイ)刀(フ)と肉(フォ)叉(ーク)を凄(すさ)まじく闘かわした数(す)度(ど)の記憶さえ有(も)っていた。
二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫(むらさき)がかった空気の匂う迷(メー)路(ズ)の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗(あん)に働らいてこれまで後を跟(つ)けて来た敬太郎には、馬(じゃ)鈴(がい)薯(も)や牛肉を揚げる油の臭(におい)が、台所からぷんぷん往来へ溢(あふ)れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥(はる)かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚(さと)った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺(しげ)戟(き)された食慾を充(み)たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後(あと)を追ってそこの二階へ上(のぼ)ろうとしたが、電灯の強く往来へ射(さ)す門(かど)口(ぐち)まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不(ま)味(ず)い。ひょっとするとこの人は自分を跟(つ)けて来たのだという疑惑を故(こと)意(さら)先方に与える訳になる。
敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小(こう)路(じ)を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身(から)体(だ)の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその門(かど)を潜(くぐ)った。時々来た事があるので、彼はこの家(うち)の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上(あが)って右の奥か、左の横にある広間を覗(のぞ)けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室(へや)まで開(あ)けてやろうぐらいの考で、階(はし)段(ごだん)を上りかけると、白服の