.
報告
一
眼が覚(さ)めると、自分の住み慣(な)れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬(けい)太(たろ)郎(う)には全く変に思われた。昨(きの)日(う)の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏(まと)まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、﹁本当の夢﹂のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充(み)ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革(かわ)屋(や)も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉(まゆ)の間に黒(ほく)子(ろ)のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊(さん)瑚(ご)の珠(たま)も、みんな陶(とう)然(ぜん)とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充(み)ちて活躍したものは竹の洋(ステ)杖(ッキ)であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌(ほろ)を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一(ひと)区(くぎ)切(り)として、ほとんど狐から取り憑(つ)かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯(ひ)で佗(わ)びしく照らされたびしょ濡(ぬ)れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶(かじ)棒(ぼう)を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
彼は寝ながら天(てん)井(じょう)を眺(なが)めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二(ふつ)日(かよ)酔(い)の眼と頭をもって、蚕(かいこ)の糸を吐(は)くようにそれからそれへと出てくるこの記(かた)念(み)の画(え)を飽(あ)かず見つめていたが、しまいには眼先に漂(ただ)ようふわふわした夢の蒼(うる)蠅(さ)さに堪(た)えなくなった。それでも後(あと)から後からと向うで独(ひと)り勝(がっ)手(て)に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関(かん)聯(れん)して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容(よう)貌(ぼう)は固(もと)より服(な)装(り)から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判(はっ)切(き)りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮(あざ)やかな色と形を備えて眸(ひとみ)を侵(おか)して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨(ゆう)夕(べ)法外な車賃を貪ぼられて、宿の門(かど)口(ぐち)を潜(くぐ)った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室(へや)まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸(とだ)棚(な)の奥の行(こう)李(り)の後(うしろ)へ投げ込んでしまったのである。
今(け)朝(さ)は蛇(へび)の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵(よい)へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏(まと)める段になると、自分の引き受けた仕事は成(せい)効(こう)しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋(ステ)杖(ッキ)の御(おか)蔭(げ)を蒙(こうむ)っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜(よ)着(ぎ)を剥(は)ぐって跳(は)ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨(きの)日(う)の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室(へや)に上(のぼ)った。そこの窓を潔(いさ)ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺(しげ)戟(き)した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力(つと)めて実際的に思慮を回(めぐ)らした。
二
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬(けい)太(たろ)郎(う)は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急(せ)くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直(すぐ)行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後(あと)で、差(さし)支(つかえ)ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶(ゆう)予(よ)なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下(げ)駄(た)が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸(かけ)物(もの)が二幅掛かっていた。湯(ゆの)呑(み)のような深い茶(ちゃ)碗(わん)に、書生が番茶を一杯汲(く)んで出した。桐(きり)を刳(く)った手(てあ)焙(ぶり)も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座(ざぶ)蒲(と)団(ん)も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏(かしこ)まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸(かけ)物(もの)の価(ねだ)額(ん)を想像したり、手焙の縁(ふち)を撫(な)で廻したり、あるいは袴(はかま)の膝(ひざ)へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周(まわ)囲(り)があまり綺(きれ)麗(い)に調(ととの)っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違(ちが)棚(いだな)の上にある画(がじ)帖(ょう)らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断(ことわ)るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後(あと)で、ようやく応接間から出て来た。
﹁どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから﹂
敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨(あい)拶(さつ)を一と口と、それに添えた叮(てい)嚀(ねい)な御(お)辞(じ)儀(ぎ)を一つした。それからすぐ昨(きの)日(う)の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身(から)体(だ)も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余(よゆ)裕(う)の貯蔵庫でもあるように、けっして周(あわ)章(て)て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至(しご)極(く)面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗(あん)に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳(わけ)はまるで解らなかった。すると、
﹁どうです昨(きの)日(う)は。旨(うま)く行きましたか﹂と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、﹁どうですか﹂という他(ひと)を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口(くち)籠(ごも)った後(あと)、
﹁そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました﹂と答えた。
﹁眉(みけ)間(ん)に黒(ほく)子(ろ)がありましたか﹂
敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
﹁衣(な)服(り)もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中(なか)折(おれ)に、霜(しも)降(ふり)の外(がい)套(とう)を着て﹂
﹁そうです﹂
﹁それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね﹂
﹁時間は少し後(おく)れたようです﹂
﹁何分ぐらい﹂
﹁何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過(すぎ)のようでした﹂
﹁よっぽど過(すぎ)。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです﹂
今まで穏(おだ)やかに機(きげ)嫌(ん)よく話していた長(ちょ)者(うしゃ)から突然こう手(てき)厳(び)しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
三
敬(けい)太(たろ)郎(う)は今まで下(した)町(まち)出(で)の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る﹁君のためだから﹂という言葉も挨(あい)拶(さつ)も有(も)っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
﹁ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです﹂
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩(くず)して、
﹁そりゃ私(わたし)のために大変都合が好かった﹂と機(きげ)嫌(ん)の好い調子で受けたが、﹁しかしあなたの勝手と云うのは何です﹂と聞き返した。敬太郎は少し逡(しゅ)巡(んじゅん)した。
﹁なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差(さし)支(つかえ)ない﹂
田口はこう云って、自分の前に引きつけた手(てさ)提(げた)煙(ばこ)草(ぼ)盆(ん)の抽(ひき)出(だし)を開けると、その中から角(つの)でできた細長い耳(みみ)掻(かき)を捜(さが)し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒(か)ゆそうに掻(か)き廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙(しか)面(めつら)を薄気味悪く感じた。
﹁実は停留所に女が一人立っていたのです﹂と彼はとうとう自白してしまった。
﹁年寄ですか、若い女ですか﹂
﹁若い女です﹂
﹁なるほど﹂
田口はただ一口こう云っただけで、何とも後を継(つ)いでくれなかった。敬太郎も頓(とん)挫(ざ)したなり言葉を途(と)切(ぎ)らした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
﹁いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒(ほく)子(ろ)のある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから﹂
﹁しかしその女が黒子のある人の行動に始(しじ)終(ゅう)入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから﹂
﹁はあ﹂
田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、﹁じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね﹂と聞いた。敬太郎は固(もと)より知合だと答える勇気を有(も)たなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口を利(き)いた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、穏(おだや)かに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気(けし)色(き)を見せなかったが、急に摧(くだ)けた調子になって、
﹁どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと﹂と興味に充(み)ちた顔を提(さげ)煙(たば)草(こぼ)盆(ん)の上に出した。
﹁いえ、なに、つまらない女なんです﹂と敬太郎は前後の行(い)きがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は﹁つまらない女﹂という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大(おお)濤(なみ)が崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
﹁よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て﹂
田口はまた普通の調子に戻って、真(ま)面(じ)目(め)に事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛(てん)末(まつ)を、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷(ふえ)衍(ん)して、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議な謎(なぞ)の活(い)きて働らく洋(ステ)杖(ッキ)を、どう抱(かか)え出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手(てが)柄(ら)のなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うや否(いな)や四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不(ま)味(ず)いところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡(あっ)泊(さ)り話して見ると、宅(うち)を出る時自分が心配していた通り、少しも捕(つら)まえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。
四
それでも田口は別段厭(いや)な顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云う繋(つな)ぎの言葉を、時々敬(けい)太(たろ)郎(う)のために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、﹁それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です﹂と言訳をつけ加えた。
﹁いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう﹂
田口のこの挨(あい)拶(さつ)の中(うち)に、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛(あい)嬌(きょう)が充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥を掻(か)かずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂(たる)味(み)のできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
﹁いったいあの人は何なんですか﹂
﹁さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました﹂
敬太郎の前には黒の中(なか)折(おれ)を被(かぶ)って、襟(えり)開(あき)の広い霜(しも)降(ふり)の外(がい)套(とう)を着た﹇#﹁着た﹂は底本では﹁来た﹂﹈男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言(こと)葉(ばづ)遣(か)いといい歩きつきといい、何から何まで判(はっ)切(きり)見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
﹁どうも分りません﹂
﹁じゃ性質はどんな性質でしょう﹂
性質なら敬太郎にもほぼ見(けん)当(とう)がついていた。﹁穏(おだ)やかな人らしく思いました﹂と観察の通りを答えた。
﹁若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか﹂
こう云った時、田口の唇(くちびる)の角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまた塞(ふさ)いでしまった。
﹁若い女には誰でも優(やさ)しいものですよ。あなただって満(まん)更(ざら)経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから﹂と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎は傍(はた)で自分を見たらさぞ気の利(き)かない愚(ぐぶ)物(つ)になっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
﹁じゃ女は何物なんでしょう﹂
田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に﹁女の方は男よりもなお分り悪(にく)いです﹂と答えてしまった。
﹁素(しろ)人(うと)だか黒(くろ)人(うと)だか、大体の区別さえつきませんか﹂
﹁さよう﹂と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。革(かわ)の手袋だの、白い襟(えり)巻(まき)だの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜(すべ)括(くく)ったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
﹁割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿(は)めていましたが……﹂
女の身に着けた品物の中(うち)で、特に敬太郎の注意を惹(ひ)いたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真(ま)面(じ)目(め)な顔をして、﹁じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか﹂と聞き出した。
敬太郎は先(さっ)刻(き)自分の報告が滞(とどこお)りなく済んだ証(しょ)拠(うこ)に、御苦労さまと云う謝辞さえ受けた後(あと)で、こう難問が続発しようとは毫(ごう)も思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へ競(せ)り上(あが)って行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
﹁例えば夫婦だとか、兄(きょ)弟(うだい)だとか、またはただの友達だとか、情(い)婦(ろ)だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか﹂
﹁私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います﹂
﹁夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか﹂
五
敬(けい)太(たろ)郎(う)の胸にもこの疑(うたがい)は最初から多少萌(きざ)さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操(あやつ)って、それがために偵(てい)察(さつ)の興味が一段と鋭どく研(と)ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男(なん)女(にょ)の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有(も)った青年の常として、この観察点から男(なん)女(にょ)を眺(なが)めるときに、始めて男女らしい心持が湧(わ)いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判(はっ)切(きり)分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮(あざ)やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一(いっ)対(つい)の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱(いだ)くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一(いち)人(にん)であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年(と)齢(し)の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる﹁男女の世界﹂なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛(ゆる)んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、纏(まと)まった形となって頭の中には現われ悪(にく)かった。それでこう云った。――
﹁肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません﹂
田口はただ微笑した。そこへ例の袴(はかま)を穿(は)いた書生が、一枚の名刺を盆に載(の)せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、﹁まあ分らないところが本当でしょう﹂と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、﹁応接間へ通しておいて……﹂と命令した。先(さっ)刻(き)からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機(しお)に、もうここで切り上げようと思って身(みづ)繕(くろ)いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮(さえ)ぎった。そうして敬太郎の辟(へき)易(えき)するのに頓(とん)着(じゃく)なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明(めい)瞭(りょう)に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛(つら)い思いをした。
﹁じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう﹂
田口の最後と断(ことわ)ったこの問に対しても、敬太郎は固(もと)より満足な返事を有(も)っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御(おな)何(に)とかいう言葉がきっとどこかへ交(まじ)って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
﹁名前も全く分りません﹂
田口はこの答を聞いて、手(てあ)焙(ぶり)の胴に当てた手を動かしながら、拍(ひょ)子(うし)を取るように、指先で桐(きり)の縁(ふち)を敲(たた)き始めた。それをしばらくくり返した後(あと)で、﹁どうしたんだか余(あん)まり要領を得ませんね﹂と云ったが、直(すぐ)言葉を継(つ)いで、﹁しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね﹂と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂(うか)闊(つ)に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直と賞(ほ)められた事も大した嬉(うれ)しさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
六
敬(けい)太(たろ)郎(う)は先(さっ)刻(き)から頭の上らない田口の前で、たった一(ひと)言(こと)で好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふと萌(きざ)した。
﹁要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂(うか)闊(つ)なものに見(みき)極(わ)められる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をして後(あと)なんか跟(つ)けるより、直(じか)に会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手(てか)数(ず)が省(はぶ)けて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです﹂
これだけ云った敬太郎は、定めて世(せ)故(こ)に長(た)けた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真(ま)面(じ)目(め)な態度で﹁あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ﹂と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
﹁あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです﹂と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
﹁それほどの考(かんがえ)がちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御(おた)頼(のみ)申したのは私(わたし)が悪かった。人物を見(みそ)損(く)なったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味を有(も)っておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。止(よ)しゃあよかった……﹂
﹁いえ須(すな)永(が)君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります﹂と敬太郎は苦しい思(おもい)をして答えた。
﹁そうでしたか﹂
田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切り棄(す)てたなり、それ以上に追窮する愚(ぐ)をあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
﹁じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか﹂
﹁無い事もありません﹂
﹁あんなに跟け廻した後で﹂
﹁あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです﹂
﹁ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから﹂
田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万(まん)更(ざら)の冗(じょ)談(うだん)とも思えなかったので、彼は紹介状を携(たずさ)えて本当に眉(みけ)間(ん)の黒(ほく)子(ろ)と向き合って話して見ようかという料(りょ)簡(うけん)を起した。
﹁会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから﹂
﹁宜(い)いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直(じか)に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩後(あと)を跟(つ)けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜(よ)うござんす。私(わたし)に遠慮は要(い)らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか﹂
田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
﹁だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴(やつ)だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分会(あ)い悪(にく)い方(ほう)なんだから、そんな事をむやみに喋(しゃ)べろうものなら、直(すぐ)帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……﹂
敬太郎は固(もと)より畏(かしこ)まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中(なか)折(おれ)の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
七
田口は硯(すず)箱(りばこ)と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名(なあ)宛(て)を認(したた)め終ると、﹁ただ通り一遍の文(もん)言(ごん)だけ並べておいたらそれで好いでしょう﹂と云いながら、手(てあ)焙(ぶり)の前に翳(かざ)した手紙を敬(けい)太(たろ)郎(う)に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価(あたい)する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松(まつ)本(もと)恒(つね)三(ぞう)様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真(ま)面(じ)目(め)になって松本恒三様の五字を眺(なが)めたが、肥(ふと)った締(しま)りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙(せつ)らしくできていた。
﹁そう感心していつまでも眺(なが)めていちゃあいけない﹂
﹁番地が書いてないようですが﹂
﹁ああそうか。そいつは私(わたし)の失念だ﹂
田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
﹁さあこれなら好いでしょう。不(ま)味(ず)くって大きなところは土(どば)橋(し)の大(おお)寿(ずし)司(りゅ)流(う)とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい﹂
﹁いえ結構です﹂
﹁ついでに女の方へも一通書きましょうか﹂
﹁女も御存じなのですか﹂
﹁ことによると知ってるかも知れません﹂と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
﹁御(おさ)差(しつ)支(かえ)さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜(よろ)しゅうございます﹂と敬太郎も冗(じょ)談(うだん)半分に頼んだ。
﹁まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪(ロー)漫(マン)―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私(わたし)ゃ学問がないから、今頃流(は)行(や)るハイカラな言葉を直(すぐ)忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……﹂
敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非(ひ)道(ど)く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐(ふところ)に収めて、﹁では二三日内(うち)にこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから﹂と云いながら、柔(やわら)かい座(ざぶ)蒲(と)団(ん)の上を滑(すべ)り下りた。田口は﹁どうも御苦労でした﹂と叮(てい)嚀(ねい)に挨(あい)拶(さつ)しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰(かっ)好(こう)のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷(メー)宮(ズ)の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今(きょ)日(う)田口での獲(えも)物(の)は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯(さく)綜(そう)した事実を自分のために締(し)め括(くく)っている妙な嚢(ふくろ)のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄悪(にく)い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆(たん)美(び)の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐(すわ)っている間、彼は始(しじ)終(ゅう)何物にか縛(しば)られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下(もと)に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐(なつ)かし味の籠(こも)ったような松本を想像してやまなかった。
八
翌(よく)朝(あさ)さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡(ぬ)れていた。屋(やね)根(がわ)瓦(ら)に徹(とお)るような佗(わ)びしい色をしばらく眺(なが)めていた敬(けい)太(たろ)郎(う)は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇(らっ)叭(ぱ)が、陰気な空気を割(さ)いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の家(うち)は矢(やら)来(い)なので、敬太郎はこの間の晩狐(きつね)につままれたと同じ思いをした交番下の景(けし)色(き)を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二(ふた)股(また)に割れて、勾(こう)配(ばい)のついた真中だけがいびつに膨(ふく)れているのを発見した。彼は寒い雨の袴(はかま)の裾(すそ)に吹きかけるのも厭(いと)わずに足を留めて、あの晩車夫が梶(かじ)棒(ぼう)を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣(おもむき)が違っていた。敬太郎は後(うしろ)の方に高く黒ずんでいる目(めじ)白(ろだ)台(い)の森と、右手の奥に朦(もう)朧(ろう)と重なり合った水(みず)稲(いな)荷(り)の木(こだ)立(ち)を見て坂を上(あが)った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちは小(ち)さい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳(から)殻(たち)の垣を覗(のぞ)いたり、古い椿(つばき)の生(お)い被(かぶ)さっている墓地らしい構(かまえ)の前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
松本の家はこの車屋の筋向うを這(は)入(い)った突き当りの、竹垣に囲われた綺(きれ)麗(い)な住(すま)居(い)であった。門を潜(くぐ)ると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音は毫(ごう)もやまなかった。その代り四(あた)辺(り)は森(しん)閑(かん)として人の住んでいる臭(におい)さえしなかった。雨に鎖(とざ)された家(いえ)の奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、﹁はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか﹂と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差(さし)支(つか)えるのか直(すぐ)反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、﹁じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね﹂と念(ねん)晴(ばら)しに聞き直して見た。下女はただ﹁はい﹂と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急に烈(はげ)しく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂を下(お)りながら変な男があったものだという観念を数(す)度(ど)くり返した。田口がただでさえ会(あ)い悪(にく)いと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日は家(うち)へ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なく据(す)えつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須(すな)永(が)の家(うち)へでも行って、この間からの顛(てん)末(まつ)を茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見(けん)当(とう)の立った筋を吹(ふい)聴(ちょう)するのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
翌(あく)日(るひ)は昨(きの)日(う)と打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆる濁(にごり)を雨の力で洗い落したように綺(きれ)麗(い)に輝やく蒼(あお)空(ぞら)を、眩(まば)ゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今(きょ)日(う)こそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行(こう)李(り)の後(うしろ)に隠しておいた例の洋(ステ)杖(ッキ)を取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢(やら)来(い)の坂を上(あが)りながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、も少(すこ)し曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。