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九
ところが昨日と違って、門を潜(くぐ)っても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝(つい)立(たて)が立っていた。その衝立には淡(たん)彩(さい)の鶴がたった一羽佇(たた)ずんでいるだけで、姿見のように細長いその格(かっ)好(こう)が、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意を促(うな)がした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、その後(あと)から遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎を眺(なが)めた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝(ガラ)子(ス)戸(ど)の締(し)まっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火(ひば)鉢(ち)の両側に、下女は座(ざぶ)蒲(と)団(ん)を一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更(さら)紗(さ)の模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へ坐(すわ)った。床(とこ)の間(ま)には刷(は)毛(け)でがしがしと粗(ぞん)末(ざい)に書いたような山(さん)水(すい)の軸(じく)がかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこが巌(いわ)だか見分のつかない画を、軽(けい)蔑(べつ)に値する装飾品のごとく眺(なが)めた。するとその隣りに銅(ど)鑼(ら)が下(さが)っていて、それを叩(たた)く棒まで添えてあるので、ますます変った室(へや)だと思った。
すると間(あい)の襖(ふすま)を開けて隣座敷から黒(ほく)子(ろ)のある主人が出て来た。﹁よくおいでです﹂と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛(あい)嬌(きょう)のある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素(そぶ)振(り)は、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気(きが)兼(ね)の必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一(ひと)言(こと)も述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。﹁あなたはこれから田口に使って貰(もら)おうというのでしたね﹂というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世に著(あら)われない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理(りく)窟(つ)をちらちらと閃(ひら)めかされた。そればかりでなく、松本は田口を捕(つら)まえて、役には立つが頭のなっていない男だと罵(のの)しった。
﹁第(だい)一(ち)ああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立った考(かんがえ)のできる閑(ひま)がないから駄目です。あいつの脳と来たら、年(ねん)が年(ねん)中(じゅう)摺(すり)鉢(ばち)の中で、擂(すり)木(こぎ)に攪(か)き廻されてる味(み)噌(そ)見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない﹂
敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪(あく)体(たい)を吐(つ)くのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、毫(ごう)も毒々しいところだの、小(こに)悪(く)らしい点だのの見えない事であった。彼の罵(のの)しる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきを具(そな)えた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺(しげ)戟(き)を受けるだけであった。
﹁それでいて、碁(ご)を打つ、謡(うたい)を謡(うた)う。いろいろな事をやる。もっともいずれも下(へた)手(く)糞(そ)なんですが﹂
﹁それが余(よゆ)裕(う)のある証(しょ)拠(うこ)じゃないでしょうか﹂
﹁余裕って君。――僕は昨(きの)日(う)雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高(こう)等(とう)遊(ゆう)民(みん)でないからです。いくら他(ひと)の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです﹂
十
﹁実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか﹂
﹁文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ﹂
松本は大きな火(ひば)鉢(ち)の縁(ふち)へ両(りょ)肱(うひじ)を掛けて、その一方の先にある拳(げん)骨(こつ)を顎(あご)の支えにしながら敬(けい)太(たろ)郎(う)を見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本(ほん)色(しょく)があるらしくも思った。彼は煙(たば)草(こ)道楽と見えて、今日は大きな丸い雁(がん)首(くび)のついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼(のろ)煙(し)のごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔の傍(そば)でいつの間にか消えて行く具合が、どこにも締(しま)りを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上(うわ)足(た)袋(び)を白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法(ころ)衣(も)を聯(れん)想(そう)させるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風(ふう)采(さい)なり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
﹁失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか﹂
敬太郎は自(みず)から高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は﹁ええ子供がたくさんいます﹂と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
﹁奥さんは……﹂
﹁妻(さい)は無論います。なぜですか﹂
敬太郎は取り返しのつかない愚(ぐ)な問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
﹁あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです﹂
﹁僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか﹂
﹁そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです﹂
﹁高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ﹂
敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒(いと)口(くち)に、革(かわ)の手袋を穿(は)めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気に眺(なが)めていた。もしこれが田口であったなら手(てぎ)際(わ)よく相手を打ち据(す)える代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせない鮮(あざ)やかな腕を有(も)っているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全く冴(さ)えた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎は図(はか)らず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然﹁あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね﹂と聞いてくれた。
﹁ええまるで考えていません﹂
﹁考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう﹂
﹁考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります﹂
十一
二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年(と)歯(し)の違だか段の違だか、松本の云う事は肝(かん)心(じん)の肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬(けい)太(たろ)郎(う)の血の中まで這(は)入(い)り込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実な勢(いきおい)をまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸に徹(とお)らないらしかった。
こんな縁遠い話をしている中(うち)で、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露(ロ)西(シ)亜(ヤ)の文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調(ちょ)達(うたつ)のため細君同伴で亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)へ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩(かん)迎(げい)やらに忙(ぼう)殺(さつ)されるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国から伴(つ)れて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝(ばく)露(ろ)した。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
﹁露西亜と亜米利加ではこれだけ男(なん)女(にょ)関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些(ささ)細(い)な事件なんでしょうがね。下らない﹂と松本は全く下らなそうな顔をした。
﹁日本はどっちでしょう﹂と敬太郎は聞いて見た。
﹁まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ﹂と云って、松本はまた狼(のろ)煙(し)のような濃い煙をぱっと口から吐いた。
ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
﹁せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが﹂
﹁ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう﹂
松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹(おう)揚(よう)な彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
﹁御(おつ)伴(れ)がおありのようでしたが﹂
﹁ええ別(べっ)嬪(ぴん)を一人伴(つ)れていました。あなたはたしか一人でしたね﹂
﹁一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか﹂
﹁そうです﹂
ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、﹁あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか﹂とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
﹁本郷です﹂
松本は腑(ふ)に落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もし怒(おこ)られたら、詫(あや)まるだけで、詫まって聞かれなければ、御(お)辞(じ)儀(ぎ)を叮(てい)嚀(ねい)にして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
﹁実はあなたの後(あと)を跟(つ)けてわざわざ江戸川まで来たのです﹂と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
﹁何のために﹂と松本はほとんどいつものような緩(ゆる)い口調で聞き返した。
﹁人から頼まれたのです﹂
﹁頼まれた? 誰に﹂
松本は始めて、少し驚いた声の中(うち)に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
十二
﹁実は田口さんに頼まれたのです﹂
﹁田口とは。田口要(よう)作(さく)ですか﹂
﹁そうです﹂
﹁だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか﹂
こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬(けい)太(たろ)郎(う)は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見(みは)張(り)に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛(てん)末(まつ)を包まず打ち明けた。固(もと)よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布(ふえ)衍(ん)の煩(わずら)わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮(さえ)ぎらなかった。話が済んでからも、直(すぐ)とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫(あや)まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利(き)き始めた。
﹁どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね﹂
こういった主人の顔を見ると、呆(あき)れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
﹁どうも悪い事をしました﹂
﹁詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて﹂
﹁それほど悪い人なんですか﹂
﹁いったい何の必要があって、そんな愚(ぐ)な事を引き受けたのです﹂
物(もの)数(ず)奇(き)から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
﹁衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後(あと)を跟(つ)けるなんて﹂
﹁私も少し懲(こ)りました。これからはもうやらないつもりです﹂
この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦(にが)笑(わら)いをしていた。それが敬太郎には軽(けい)蔑(べつ)の意味にも憐(れん)愍(みん)の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
﹁あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか﹂
根本義に溯(さかの)ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
﹁じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴(つ)れていた若い女は高(こう)等(とう)淫(いん)売(ばい)だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ﹂
﹁本当にそういう種類の女なんですか﹂
敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
﹁まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ﹂
﹁はあ﹂
﹁はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君﹂
敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚(はば)かるほどの男ではなかった。けれども松本が強(し)いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜(ひそ)んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨(あい)拶(さつ)に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、﹁何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの﹂と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、﹁君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね﹂と聞いた。敬太郎は﹁まだ何にも知りません﹂と答えた。
十三
﹁その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高(こう)等(とう)淫(いん)売(ばい)だと云う勇気が出(でに)悪(く)くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう﹂
こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬(けい)太(たろ)郎(う)を驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須(すな)永(が)の母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めて呑(の)み込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間を極(きわ)めて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入った文(あや)でも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽(かげ)炎(ろう)を散らつかせながら、後(あと)を追(おっ)かけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
﹁御嬢さんは何でまたあすこまで出(で)張(ば)っていたんですか。ただ私を釣るためなんですか﹂
﹁何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今(け)朝(さ)御父さんから聞いたら、叔父さんが御(おせ)歳(い)暮(ぼ)に指(ゆび)環(わ)を買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、逃(にが)さないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先(さっ)刻(き)からここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆(べら)棒(ぼう)だね。わざわざそれほどの手(てか)数(ず)をかけて、何もそんな下らない真(ま)似(ね)をするにも当らないじゃないか。騙(だま)された君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ﹂
敬太郎には騙された自分の方が遥(はる)かに愚(ぐぶ)物(つ)に思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、自(おのず)から赧(あか)い顔もしなければならなかった。
﹁あなたはまるで御承知ない事なんですね﹂
﹁知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか﹂
﹁御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが﹂
﹁そうさ﹂と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判(はっ)切(きり)した口調で、﹁いや知るまい﹂と断言した。﹁あの箆棒の田口に、一つ取(とり)柄(え)があると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪(いた)戯(ずら)をしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥を掻(か)きそうな際(きわ)どい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺(きれ)麗(い)に始末をつける。そこへ行くと箆(べら)棒(ぼう)には違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪(あく)辣(らつ)でも、結末には妙に温(あたた)かい情(なさけ)の籠(こも)った人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人で呑(の)み込んでいるだけでしょう。君が僕の家(うち)へ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策(さく)略(りゃく)を、始めから吹(ふい)聴(ちょう)するほど無(む)慈(じ)悲(ひ)な男じゃない。だからついでに悪(いた)戯(ずら)も止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です﹂
田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振(ふる)舞(まい)を顧(かえり)みる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者を怨(うら)むよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸の裏(うち)で一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審も自(おの)ずと萌(きざ)さない訳に行かなかった。
﹁あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあの方(かた)の前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです﹂
﹁そりゃ向うでも君に気を許さないからさ﹂
十四
こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼(めづ)遣(かい)やら言葉つきやらがありありと敬(けい)太(たろ)郎(う)の胸に、疑(うたがい)もない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青(あお)臭(くさ)い自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合(がて)点(ん)が行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固く己(おの)れを信じていたのである。彼はただかような青年として、他(ひと)に憚(はば)かられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見(みく)縊(び)っていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分の思(おも)わくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
﹁私はそんな裏表のある人間と見えますかね﹂
﹁どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか﹂
﹁けれども田口さんからそう思われちゃ……﹂
﹁田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶ騙(だま)されなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因(いん)果(が)だと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけを重(おも)に眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女に惚(ほ)れられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから﹂
敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判(はっ)切(きり)呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼を肯(うけが)わせるほどの判断を、彼の頭に鉄(てっ)椎(つい)で叩(たた)き込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫(ぼう)漠(ばく)たる雲に対する思があった。批評に上(のぼ)らない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊(さん)瑚(ごじ)樹(ゅ)の珠(たま)がどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前に坐(すわ)っているのは、大きなパイプを銜(くわ)えた木像の霊が、口を利(き)くと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣(ほう)髴(ふつ)するに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明(めい)瞭(りょう)な松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠(ばく)然(ぜん)たる松本がまた口を開いた。
﹁それでも田口が箆(べら)棒(ぼう)をやってくれたため、君はかえって仕(しあ)合(わせ)をしたようなものですね﹂
﹁なぜですか﹂
﹁きっと何か位置を拵(こし)らえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げても宜(い)い。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから﹂
二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更(さら)紗(さ)の座(ざぶ)蒲(と)団(ん)の上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝(つい)立(たて)の前に、瘠(や)せた高い身(から)体(だ)をしばらく佇(たた)ずまして、靴を穿(は)く敬太郎の後(うし)姿(ろすがた)を眺(なが)めていたが、﹁妙な洋(ステ)杖(ッキ)を持っていますね。ちょっと拝見﹂と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、﹁へえ、蛇(へび)の頭だね。なかなか旨(うま)く刻(ほ)ってある。買ったんですか﹂と聞いた。﹁いえ素(しろ)人(うと)が刻ったのを貰ったんです﹂と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢(やら)来(い)の坂を江戸川の方へ下(くだ)った。