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ハイネ詩集
生田春月 訳
新しい春
十
なま温かい春の夜気が
いろんな花を咲かせる時だもの
気を附けないでゐたならば
わたしの心はまたもや恋に陥るだらう
けれどそのいろんな花のうちどの花が
わたしの心をとらへるだらう?
かたはらに歌ふ夜(うぐ)鶯(ひす)たちは
百合さんがあぶないとわたしをいましめる
十一
そら大変だ、鐘が鳴る
そしてあゝ!わたしは頭を失つた!
春と、ふたつの美しい眼が
わたしの心に陰(むほ)謀(ん)を企てたのだ
春とふたつの美しい眼が
わたしの心をまたもやだまさうとする!
きとこれはあの薔薇も夜(うぐ)鶯(ひす)も
この陰(むほ)謀(ん)に加担してゐるにちがひない
十二
あゝ、わたしは涙にあこがれる
悩みをなだめる恋の涙に
さうしてしまひにこのあこがれが
満たされてしまふのを恐れてゐる
あゝ、恋のたのしい苦しみが
恋の苦く悲しい楽しみが
またもはげしく心を傷けようと
つい癒されたばかりの胸へ忍び込む
十三
空色をした春の眼が
草のなかからのぞいてゐる
それはいとしいかはいゝ菫
それをわたしは花輪につみとらう
摘んでわたしは考へる
するとわたしの胸で嘆息する
その考へをのこりなく
夜(うぐ)鶯(ひす)は高音を張つて鳴く
わたしのおもつたとほりを夜(うぐ)鶯(ひす)は
歌つた、そして四(あた)辺(り)へ木(こだ)精(ま)した
わたしのやさしい秘密はみんな
はや森中で知つてゐる
十四
おまへがわたしの傍を通るとき
そつと着物のはしが触れたばかりでも
わたしの心は躍り出して
おまへの美しい姿を追つかける
そのときおまへは振り向いて
その大きな眼でわたしをぢつと見る
するとわたしの心は吃(びつ)驚(くり)して
もうおまへについて行けなくなつてしまふ
底本‥﹁ハイネ詩集﹂︵新潮文庫、第三十五編︶
新潮社出版、昭和八年五月十八日印刷、昭和八年五月廿八日發行、
昭和十年三月二十日廿四版。
生田春月(1892-1930年)
﹁ハイネ詩集﹂(Heinrich Heine, 1797-1856年)
入力‥osawa
編集‥明かりの本
2017年7月7日作成
物語倶楽部作成ファイル‥
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