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国語と子ども
年をとった者に子どもの話をさせると、どうしても懐旧味ばかりが多くなる。もう全体を説き尽くせないことがわかったから、手(てみ)短(じか)に私の要点と思うことを述べよう。
いわゆる児童文化は孤立した別個の文化ではない。国にそのような離れ離れのものが、並び存するわけがないとすると、単に一国一時代の文化相が児童を通して視(み)ればまたちがった印象を与えるというまでの意味しかない。そういう心(ここ)持(ろもち)をもって皆さんと自分は、この児童文化を少しばかり見なおした。児童は私が無く、また多感である故に、その能力の許す限りにおいて時代時代の文化を受け入れる。古く与えられたものでも印象の深さによって、これを千年・五百年の後に持ち伝えるとともに、いつでも新鮮なる感化には従順であった。そうして常に幾分か親たちよりも遅く、無用になったものを棄てることにしていたらしい。ことに国語のうるわしい匂(にお)い・艶(つや)・うるおいなどは、かつて我々の親たちの感じたものを、今もまだ彼らだけは感じているように思う。こういうところに歴史を学ぼうとする者の反省の種(たね)が潜(ひそ)んでいる。
どうしてこのように無心な者の言葉が、聴けば身に沁(し)むのかということを考えて見るのもよい。風のない晩秋の黄(たそ)昏(がれ)に町をあるいて、
大わた来い〳〵まゝ食わしょ
まアまがいやなら餅(もち)食わしょ
という歌を聴(き)いて、涙がこぼれたことも私にはあった。或いは白髪の翁(おきな)が囲(い)炉(ろ)裏(り)の脇で、膝(ひざ)の子の小さい手をおさえながら、
ひいひいたもれ
火が無い無いと
この山越して
この田へおりて
などと歌ってきかせているのも、単なる昔なつかしの情を超(こ)えて、我々を教訓しまた考えさせる。火もらいは燧(ひう)石(ちいし)の普及よりも、もう一つ以前の世相であった。それが奥(おう)州(しゅう)の昔話や信(しな)濃(の)の山村の子守歌だけには残っている。老人の記憶にはまた一つもとの子どもがある。言葉が面白いために消えてしまうことができなかったのである。霞(かすみ)ヶ浦(うら)の湖岸の村にも、
ひいころ火ころ
火は無い無いぞ
おばたの下で云(うん)々(ぬん)
というような歌がある。東京では年少の者を罵(ののし)るのに、ヒイヒイタモレという語があった。すなわち元(もと)はこの土地にも同じ歌が、幼い人々に口ずさまれていたのである。
︹つづく︺
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