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第一編
十一
公爵は、客間を出て自分の部屋に閉じこもった。ところへすぐにコォリャが慰めに来た。この哀れな少年はもう今では彼から離れることができないといったように思われた。
﹁あなたは出てしまわれてよかったですよ﹂と彼は言った。﹁さっきあすこの騒ぎは、もっともっとひどくなるところでしたよ。ここじゃ毎日こんなぐあいなんですよ、それというのもみんなナスターシャ・フィリッポヴナさんのせいなんです﹂
﹁あなたのところでいろんな違った苦痛が高じてひどくなったんですね、コォリャ君﹂と公爵は言い含めるように言った。
﹁え、苦痛が高じたんです、僕たちのことは何も言うがものはありません。みんなそろって悪いんですから。あ、そうそう、僕に大の親友がいるんです、この人は僕らよりはもっともっと不幸なんです。お近づきになってやってくださいませんか?﹂
﹁え、どうぞどうぞ。君のお仲間ですか?﹂
﹁え、もう仲間と言ってもいいくらいです。このことはすっかりあとでお話ししましょう……あのナスターシャ・フィリッポヴナさんは美人ですねえ、あなたはどうお思いですか? 僕はね、今まで一度もあの人を見たことがなかったので、とても骨折っちゃいましたよ。もう本当に目がくらむようでした。もしガーニカが好きになって結婚するっていうんなら、僕すっかり許してやるんだけど……だけど、なんだって兄さんはお金なんかもらうんでしょう、それが困るんですよ﹂
﹁そうです、僕も君の兄さんはあんまり好きじゃありません﹂
﹁え、そりゃもちろんのことですよ。あなたはあんなことがあってから……ねえ、僕はなんのかのと威張ったことを言うのがやりきれないんですよ。どこかの気ちがいか、でなければばかか、それとも気ちがいのふりをする悪党が人の頬っぺたを打つとしますねえ、するともうその人間は一生のあいだ恥をかかされて、血で洗い落とすか、相手に膝をついてあやまらせるよりほかに道はないでしょう。僕の考えるところでは、こんなことは実にばからしい専制主義です。レルモントフの﹃仮(マス)面(カ)舞(ラ)踏(ー)会(ド)﹄って戯曲はここのところを言ってるんですが……、実にくだらないと、僕は思うんです。つまり、僕は不自然だと言いたいんですよ。もっともレルモントフがまだほんの少年時代に書いたもんですけれど﹂
﹁僕は君の姉さんがすっかり気にいりました﹂
﹁実際、痛快なほどガーニカに唾をひっかけたもんですねえ! ワーリヤは勇敢ですよ! だけど、あなたは唾なんかかけなかったですね、それだって僕はよく知ってます、あなたに勇気がなかったからじゃなくって。おや、やって来ましたよ、噂をすれば影がさすって。やって来るだろうとは思っていました。姉さんはいろんな欠点はありますけど、気高い人です﹂
﹁おまえなんか、ここに用はありませんよ﹂とまずワーリヤはコォリャに浴びせかけた。﹁お父さまのところへいらっしゃい。この子がさぞお邪魔することでしょうね、公爵?﹂
﹁いや、けっして。それどころじゃありません﹂
﹁ふん、また姉さん風を吹かせてら! ここのところが姉さんの悪いところですよ! あ、そうだ。僕はお父さんがロゴージンといっしょにきっと行っちまうかと思いました。今ではきっと後悔してるでしょう。実際、お父さんはどうしているか見て来よう﹂コォリャは部屋を出るとき付けたりを言った。
﹁え、まあいいぐあいに、私がお母さんをつれて行って寝かしつけてあげましたから、もうけっしてぶり返すようなことはなくなりましたわ。ガーニャはすっかりしょげきって考え込んでいますの。それがあたりまえですわ。いい見せしめでしたわ!……私あなたに御礼を申し上げ、そのついでに、ちょっとお伺いしたいと思って、またお邪魔にあがりましたの。あなた、今までナスターシャ・フィリッポヴナを御存じなかったんですの?﹂
﹁いいえ、存じませんでした﹂
﹁じゃ、どうしてあのひとに面と向かって、﹃そんな人じゃない﹄なんて、おっしゃったんでしょう。しかも、それが当たっているようですわ。実のところは、もしかしたらあんな人じゃないかもしれませんわ。だけど、それもどうやら知れたもんじゃありませんね。もちろん、人に恥をかかせに来たんですわ。それはわかりきっています! わたし、前にもあのひとのこと、ずいぶん変なこと聞きましたわ。でももしあのひとが本当に私たちを招待に来たのなら、なぜ、はじめにお母さんにあんな仕打ちをしたんでしょう? プチーツィンさんはあの人のことをずいぶんよく知っているんですけれど、さっきのあの人のことばかりはわからないって言ってましたわ。それにロゴージンと、あの様子ったらどうでしょう? もし自分を尊重する気があるのなら、あんな風に話をすることはできませんわね、しかも自分の……家じゃありませんか。お母さんもあなたのことをひどく心配していますの﹂
﹁なんでもありませんよ!﹂公爵はこう言って手を振った。
﹁それにどうしてあのひとはあなたの言うことを聞いたんでしょう……﹂
﹁私の言うこと聞いたって?﹂
﹁あなたがあのひとによくもはずかしくないですねとおっしゃったら、あの人は急に様子がすっかり変わりましたわ。あなたはあのひとを感化することができるんですわ、ねえ、公爵﹂ワーリヤはほんのわずかばかりほほえみを浮かべてこう言い添えた。
戸があいて、全く思いがけなく、ガーニャがはいって来た。
彼はワーリヤを見ても、ほんの少しもたじろぎはしなかった。ちょっとのあいだ、閾の上にたたずんでいたが、にわかに思いきって公爵に近づいた。
﹁公爵、私は実に卑劣なことをしました。どうぞ私を許してやってください。お願いですから﹂彼は一時に強い熱情をこめてこう言った。彼の顔の筋肉の一つ一つが激しい苦悩を漂わせていた。公爵はあっけにとられて見ていたが、すぐには返事ができなかった。
﹁どうぞ許してください、どうぞ許してください!﹂ガーニャはじっとしてはいられないといったように、しきりにくり返すのであった。﹁ね、許していただけるようでしたら、私は今すぐあなたの手に接吻します!﹂
公爵はひどく心を打たれていたが、無言のまま両手でガーニャを抱きしめた。二人は心の底から接吻したのであった。
﹁私はけっしてけっしてあなたがこんな人だとは思いませんでした!﹂公爵はやっとため息をつきながら、やっと言いだした。﹁僕は思っていましたよ、あなたは……できる人じゃないって﹂
﹁あやまることでしょう? ……僕またなんだって、さっきあんたを白(ば)痴(か)だなんて思ったんでしょう! あなたは他の人たちの気づかないことによく気のつく人です、あなたは共に語るに足る人です、しかしお話ししないほうがいいでしょう﹂
﹁ここにあなたがあやまらなければならない人がいます﹂公爵はワーリヤを指してこう言った。
﹁いいえ、それはみな私の敵です。公爵、本当に、いろいろやってみましたが、この家では心から人を許すことはしません!﹂とガーニャは一時に興奮して、ワーリヤから顔をそむけた。
﹁いいえ、私は許しますわ!﹂突然ワーリヤがこう言った。
﹁そんなら今晩、ナスターシャ・フィリッポヴナさんのところへ行くか!﹂
﹁行けと言うのなら、行きます。だけど、あなたは自分でよく考えたほうがいいと思うわ。今になって私があのひとのところにどうして行けるの?﹂
﹁しかし、あのひとはあんな女じゃない。あのひとは何かしらさまざまに謎をかけているんだよ! 手品をつかっているのさ!﹂と言ってガーニャは憎々しげに笑いだした。
﹁わたし自分で知っていますわ、あんな女でなく、手品をつかっていることも、それからいろんな手を使っていることも自分でよく知っていますわ。だけど、ガーニャ、あのひとがあなたをどんな風に見ているかを考えてごらんなさい。なるほど、あのひとはお母さんの手に接吻しました。それは何かの手品としても、しかし、あのひとはなんといってもあなたをはずかしめたじゃありませんか! こんなことじゃ七万五千ルーブルの値打ちなんかありませんわ、そうですとも、ね! あんたはもっと立派な感情をもてる人なんですわ、それだからこそ私はこんなことを言うんです、ね、行くのはおよしなさい! ね、気をつけなさいよ! うまく行きっこはありませんから!﹂
これだけ言ってしまうと、非常に興奮してワーリヤはさっと部屋を出てしまった。
﹁いつでもあんな調子ですよ!﹂かすかに苦笑を浮かべて、ガーニャは言った。﹁いったいみんなはそれくらいのことを知らないと思ってるのかしら? 僕はみんなよりはずっとよく知ってますよ﹂
これだけ言うと、ガーニャはしばらくここにいたそうな様子で、長椅子に腰をおろした。
﹁自分で御存じなら﹂と公爵はかなりびくびくしながら聞いた、﹁あのひとが実際のところ七万五千ルーブルの値打ちがないことを知っていながら、どうしてまたこんな苦しみを担おうとなさるのです?﹂
﹁私はそのことを言ってるのじゃありません﹂とガーニャはつぶやいた。﹁ところで、ちょっとお伺いしたいんですが、あなたはどうお考えです、私ははっきりあなたの御意見を伺いたいんです。この苦痛は七万五千ルーブルの値打ちがあるのでしょうか、いかがでしょう?﹂
﹁僕の考えるところでは、ありませんね﹂
﹁まあ、そうだろうと思っていました。で、この結婚はそんなに恥ずべきことでしょうか?﹂
﹁非常に恥ずべきことです﹂
﹁じゃ、御承知願いましょう、僕は結婚します、もう今はどうあろうとも結婚します。さっきまでは、ぐらついていましたが、今となってはけっしてそんなことはありません! もう結構です! あなたのおっしゃろうとすることはわかっています……﹂
﹁僕の思っていることは、あなたの考えておられるようなことじゃありません。が、あなたの並みはずれな自信には実に驚き入りますね……﹂
﹁どんなことで? どんな自信です?﹂
﹁え、ナスターシャ・フィリッポヴナさんがきっとあなたのところへ来るのも、いっさいの事はもう片がついてしまったものと思っていらっしゃるでしょう、それから第二には、あの人が来る以上は、七万五千ルーブルの金がまっすぐにあなたのポケットへはいって来るものと思っておられるでしょう。つまり、このことなんです。と言ってももちろん、僕はいろんなことを知りませんがね﹂
ガーニャは少しずつ、公爵のほうに迫って行った。
﹁もちろん、あなたはいっさいのことを知っておられない﹂と彼は言った。﹁それに何か目あてがなければ僕もこんな重荷を背負いこみませんよ﹂
﹁だって、世間によくあることだと思うんですが、金を目あてに結婚はしたが、金は細君の物になってしまうなんてことがね﹂
﹁い、いいえ、僕たちの間にそんなことはありません……そこには……そこには事情があるんです……﹂ガーニャは不安げな物思いにふけってつぶやいた。﹁あのひとの返答についてはもう疑いはありません﹂と彼は早口にこう言い足した。﹁あなたはあのひとが拒絶するなんてどこから考えつかれたんです?﹂
﹁僕は見たこと以外には何も知りません、それに、それ、ワルワーラ・アルダリオノヴナさんが今おっしゃったでしょう……﹂
﹁いやあ! あの連中はもう何を言ったらいいかわからないからです。あのひとはロゴージンをからかっていました。それはもう確かです、私がこの眼で見たんですから。それはもうすぐとわかることです。私は以前は恐れていましたが、今ではもうすっかりわかりました。それとも父や母やワーリヤにあんな態度をしたからですか?﹂
﹁それからあなたにも﹂
﹁たぶんそうかもしれません。しかし、それはありきたりの女の復讐ってやつですよ。それだけのことです。あのひとは恐ろしく癇癪もちの、疑い深い、おまけに自尊心の強い女です。昇進の遅れた役人みたいなもんですよ! 自分の意地を張って見せたいのです、だから家の連中に向かって……いや、僕に向かっても軽蔑してるって気持を見せたかったんです。それは本当です、僕も否定はしません……が、とにかく僕のところへは間違いなく来るはずです。人間の自尊心がどんな手品をするか、あなたなんかてんでおわかりないでしょう。あのひとはね、僕が公然と金のために、人の思っている女と結婚するのを理由にして、僕のことを卑劣な人間だと言ってはいますが、他の者ならもっと卑劣な方法であのひとを欺くかもしれないってことは少しも気がつかないんです。あのひとに誰か、しつこく付きまとってリベラルな進歩思想を頭からふりかけて、それにまた婦人問題でも二、三、持ち出してくれば、あのひとは、糸が針の耳を通るようにやすやすとその男の思いどおりになってしまいますよ。﹃自分があなたと結婚するのは、あなたの気高い心と不幸のためだ﹄と言って自尊心の強いばかな女をたぶらかして︵これは至極容易なことです︶やっぱり実のところは金を目あてに結婚するんですよ。僕があのひとの気に入らないのも、僕がそういった、いんちきをしないからです。それは必要なんですがね。ところであのひと自身だって何をしているでしょう? 同じようなものじゃありませんか? 何のために私を侮辱してあんなお芝居を打つんでしょう? わたしが兜(かぶと)を脱がずに、誇りを持っているためなんです。まあ、そのうちわかるでしょう!﹂
﹁ところであなたはこれまであのひとを愛したことがあるんですか?﹂
﹁最初のうちは愛しました。え、それもかなり熱烈に……恋人にはあつらえ向きで、それ以外には何の用にも立たない女ってものがあるものです。と言ったってあの女がなにも私の恋人だったっていうわけじゃありませんが。それはともかく、あの女がおとなしく暮らしたいって言うんなら、僕だっておとなしく暮らしますよ。しかし謀叛でも起こそうものなら、さっそくおっぽり出して、金は僕のほうへまきあげてしまいますよ。僕は人の笑い者にはなりたくないのです。何よりも笑い者にはなりたくないです﹂
﹁僕にはどうもこう思われるんですがね﹂と、公爵は慎重な態度で注意した。﹁ナスターシャ・フィリッポヴナは利口な人です。そんな苦痛を感づいていながら、わざわざ罠(わな)にかかりに来るはずはないでしょうよ。他の人と結婚することができるんですからね。ここが僕にはわからないんです﹂
﹁つまり、そこですよ、そこに打算があるんです! あなたはまだいっさいのことを御存じないから……そこに……またそれ以外に、あのひとは私が気ちがいになるほど自分を恋しているものとすっかり思い込んでいるのです。それは誓ってもいいことです。それからね、あのひとはあのひとらしい愛し方で僕をきっと愛していると思います。御存じでしょうね、﹃愛するがゆえにたたく﹄ってことわざを? あのひとは生涯、私をダイヤのジャックのように考えるでしょうよ︵もしかしたら、これがあのひとに必要なのかもしれませんがね︶、まあ、それにしても、とにかくあのひとらしい愛し方で愛してくれるでしょう。あのひとは今その用意をしているのです。性質なんだからもうしかたがありませんね。あのひとは極端にロシア型の女です。これはあなたに断言できます。わたしのほうでも贈物の方法はちゃんと用意しています。さっきのワーリヤとの一件は全く偶然の結果なんですが、これはかえって好都合でした。あのひとはあれを見て、きっと、私があのひとのためには肉親のきずなさえ断ち切ってしまうものと信じたに相違ありません。つまりなんですね、僕だってそんな間抜けじゃないってことです。これは確かな話です。ところで、公爵、あなたは私をたいへんなおしゃべりだと思っていらっしゃるんでしょう? ねえ公爵、僕がすっかりこんなことを打ち明けるのは実際、ばかげたことかもしれません。しかし、これというのも、ただ、あなたみたいな気高いかたにはじめて会ったので、いきなりあなたに﹃飛びついた﹄のです、といっても、この﹃飛びついた﹄ってことばは地(じぐ)口(ち)だとお考えになられては困ります。あなたはさっきのことではもう怒ってはいらっしゃらないでしょう、ね? この二年間というもの、僕は胸襟をひらいて話をするなんて、これがはじめてです。ここには正直な人が非常に少ないからです。プチーツィンより以上に正直な人間がいないんですからね。おや、あなたは笑っていらっしゃるようですね? そうじゃないんですか? 卑劣な人間は潔白な人間を好むって事実をあなたは御存じじゃないんですか? 僕なんかはもう……しかしどういう点で僕は卑劣な人間なのでしょう、どうか正直に聞かしてください。あのひとやみんなが僕のことを卑劣だというのはなぜでしょうね? ところが僕自身もまたそのまねをして自分のことを卑劣漢といっているんです! これこそ卑劣です。このうえもなく卑劣なことです!﹂
﹁僕はもう今後はあなたのことを卑劣だなんて思いません﹂と公爵が言った。﹁僕はさっきあなたを悪人だとまで考えましたが、今あなたは意外にも僕を喜ばしてくれました。全く立派なことでした。試してもみないで判断するなんて、いけないことですね。今やっとわかりました。あなたは悪人でないばかりか、そんなにひねくれた人とさえも言うことができないほどです。あなたは僕の考えるところでは、いたって平凡な人間です、いたって弱い人だというだけのことで少しも独創的なところがありません﹂
ガーニャは心の中で毒々しく薄ら笑いをもらしたが、口ではなんとも言わなかった。公爵は自分の批評が相手の気に入らないのを知ると、まごついて、そのままことばを切った。
﹁お父さんがあなたに金の無心をしませんでしたか?﹂と不意にガーニャが尋ねた。
﹁いいえ﹂
﹁今にしますよ。だけどけっして貸しちゃいけませんよ。僕はよく覚えていますが、あれでも昔はなかなか品のいい人間だったんですよ。身分のある人のところにも出入りしていた。あんな昔の品のいい人たちがみんな次から次へと滅んでゆくありさまはどうでしょう! 世間の様子がほんの少し変わってくると、もう昔の面影なんかなくなってしまうんですからね。火薬に火がついたようなものです、父は昔はあれほど嘘をつく男じゃなかったんです。昔はただ極端に感激しやすい人間だったのです。ところが今ではあのざまですからね! もちろん、酒のためです。父に妾(めかけ)があるのを御存じですか。今ではもうとりとめもない嘘をついているだけじゃないんです。母がじっと堪え忍んでいるのが不思議なほどです。父はカルス包囲の話をしませんでしたか? それとも灰色の側馬が口をきいたって話を? 父もそんなにまでひどくなってしまったのです﹂
やがてガーニャはにわかに腹をかかえて笑いだした。
﹁なんだって私の顔ばかり見ていらっしゃるんです?﹂とガーニャは不意に公爵に聞いた。
﹁僕にはねえ、あなたが腹の底から笑ったのが不思議なんです。あなたには本当に子供っぽい笑いが残っています。さっきも仲なおりにはいって来られておっしゃいましたね、﹃よろしかったら、僕はあなたの手に接吻します﹄って、あれは子供が仲なおりするときのにそっくりです。してみると、あなたはまだそういうことばを言ったり、そんなことをやったりすることができるんですね。しかもそうかと思うといきなりあんなうしろめたいことや、七万五千ルーブルの金のことなんかを講釈なさるんですからね。実際、あんなことはみんななんだかばかげていて真にうけられませんね﹂
﹁そんなことを言っていったいあなたは何をなさろうっていうんです?﹂
﹁ええ、それはあなたのなさることはあまり軽率じゃないかっていうんです。もっと注意して周囲を見なければならないと思うんですよ。ワルワーラ・アルダリオノヴナさんのおっしゃったことは、ことによったら本当のことかもしれませんね﹂
﹁身持ちのことなんですか! そりゃ僕がまだ小僧っ子だってことは自分でも知っています﹂熱心にガーニャはさえぎった。﹁あなたにこんな打ち明けた話をしたっていうことだけでも、僕はね、公爵、欲得ずくでこの結婚をしようっていうんじゃありません﹂自尊心をそこなわれた若者のように彼もまたよけいなことまでしゃべり出しながら続けるのであった。﹁欲得のほうではきっと失敗するでしょう。頭脳の点でも、人格の点でも僕はまだ未熟ですから。僕は情熱にうごかされ、執着にうごかされて歩いているのです、それというのも、私には大きな目的があるのです。あなたはおそらく、僕が七万五千ルーブルを手に入れると、箱馬車でも買うだろうと思ってるでしょう。そんなことはありませんです。僕はその金を手に入れても三年も着古したフロックコートを着て、クラブの連中なんか振りすててしまいます。いったいわが国には忍耐づよい人間が少ない。それなのにロシアの人間ってのはどいつもこいつも高利貸しばかりなんですけど。僕は忍耐しぬいてみたいんです。ここで大事なのは最後まで頑張り通すってことです。これが大事な問題です。プチーツィンは十七年の間、往来に寝て、ナイフなんか売って一カペイカから貯めてきたのです。あの男は今では六万ルーブルも財産をもっていますが、それもひどい試練を経た結果です。ところで、僕はあれの経て来たような試練はいっさい抜きにして、最初から資本家として活動します。十五年さきになったら、みんなから﹃そら、ユダヤ王イヴォルギンだ﹄と言われるようになってお目にかけましょう。あなたは、今、僕のことを力のない人間だとおっしゃいましたね。ねえ、公爵、よく考えて御覧なさい。現代の人間にとって、おまえは独創力もない、性格も弱い、これという才能もないって言われるほどの侮辱はありませんからねえ。あなたは僕を一人前の悪党の数へも入れてくださらなかったのです。実のところ僕はそのために、さっきあなたを取って食いたいような気がしました。あなたはエパンチンよりもひどく僕を侮辱しました。エパンチンは僕を︵別にたくらみも、考えもない、ただ単純な気持から言ったまでのことですが︶自分の女房をさえあの男に売ることのできる人間だなどと考えています。このことが前々から癪にさわっていたので、金でも取ってやれという気になったのです。金でももうけたら、僕もうんと独創的な人間になるでしょうよ。金が何よりも醜悪で汚らわしいのは人間に才能さえも与えるからです。この世の末まで与えてくれましょうよ。あなたはそんなことは子供じみたことだとか、歌みたいなものだっておっしゃるでしょうが——それにしたって僕にはいっそう楽しいんですからね。しかし、いずれにしても事は成就されるでしょうよ。しんぼうして最後まで頑張るんです。Rira bien qui rira le de nier︵最後に笑うのがもっともじょうずな笑い方だ︶です! エパンチンがなぜ僕を侮辱するか御存じですか? 悪意があってのことだとお思いになりますか? けっしてそんなことはありませんよ! ただ私があまりにろくでなしだからなんです。それでも、その時は……いや、もういいです。それにもう遅いですから、コォリャがさっきからもう二度も顔を出しましたよ。あなたに食事を知らせに来たんですよ。僕はちょっと外へ出ます。ときどきお邪魔に伺います。あなたは私どもの所へ来ても、たいしていやな気はなさらないでしょう。みんなでこれから親身のつもりでお世話いたしますから。裏切ったりなんかしちゃいけませんよ。私たち二人は親友でなければかたき同志になるような気がしますよ。もし、さっき僕があなたの手に接吻したら︵心の底からあの時言ったように︶、そのために僕はあなたの敵になったでしょうか、あなたはどうお考えですか?﹂
﹁きっとなったでしょうよ、それにしたって永久にではありません。間もなくたまらなくなって許してくださるでしょう﹂ちょっと考えていたが、ほほえみを浮かべて公爵は、はっきりこう言った。
﹁おやおや! これじゃあなたには油断がならない。こんなところにまで毒を注ぐのですから、驚きますよ! しかし、もしかするとあなたは僕の敵かもしれませんよ! ほんとにそうかもわかりませんよ! かえってそのほうがいいでしょうね。は、は、は! それに忘れていましたが、ナスターシャ・フィリッポヴナはずいぶんお気に召したようですね、そうじゃないですか、え?﹂
﹁ええ……気に入りました﹂
﹁惚れちゃったんじゃないんですか?﹂
﹁い、いいえ﹂
﹁でもまっかになって困っておいでですね。いや、なんでもありません、なんでもありません。もう笑いませんよ。さよなら。あ、そうだ、あの人はあれでなかなか品行の正しい女ですよ。本気にしませんか? あの人がトーツキイと暮らしているとお考えになりますか? とても、とても! それもずっと前からです。あの人はずいぶん、てれていたようじゃありませんか、さっき、ときどきあわててまごついていたでしょう、お気づきになりましたか? 本当ですよ。それ、あんな女がよく威張りたがるものですよ。じゃさよなら﹂
ガーニャははいって来た時よりはずっと打ちとけて、機嫌よく出て行った。公爵はじっとそのまま身じろぎもせずに十分間ばかり物思いにふけっていた。
コォリャが再び戸の間から顔を出した。
﹁コォリャ君、僕は何も食べたくありません、さっきエパンチンさんのお宅でどっさりいただいて来ましたから﹂
コォリャは中へはいって来て、手紙を公爵に渡した。それは将軍から来たもので、折り畳んで封がしてあった。コォリャの顔つきから、この紙片を渡すのが彼にとって非常に心苦しいものであることがわかるのであった。公爵は読み終わると、立ち上がって帽子を取った。
﹁すぐ近くですよ﹂とコォリャはてれくさそうに言いだした。﹁お父さんは今お酒をのんでいるんですよ。しかしどうして掛けで借りられたか誰にもわからないんですよ。ねえ、公爵、お願いですから、僕がこの手紙を取り次いだなんて、あとになって家の人に言わないでくださいね! もうこんな手紙は持ってなんか行かないって、何べんも言ったんですけれど、つい、可哀そうになるんですよ。あ、そうだ、それから、お父さんに遠慮なんかしないでください。ほんのちょっぴりやってくだすったらそれでかたがつくんです﹂
﹁コォリャ、僕は考えていることがあったんです。実は……ちょっとしたことで……お父さんにお会いしたかったんです。さあ、行きましょう……﹂
︵つづく︶