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第一編
十四
﹁機知がないから、よけいな口もたたくんですよ。フィリッポヴナさん!﹂とフェルデシチェンコは自分の物語をするにあたってまず叫んだ。﹁僕にアファナシイ・イワーノヴィッチさんやイワン・ペトローヴィッチさんと同じように機知があったら、僕だってアファナシイ・イワーノヴィッチさんやイワン・ペトローヴィッチさんと同じように、今日もずっと黙って坐っていたでしょう。公爵、失礼ながら、お尋ねしますが、どうお考えですか、この世の中には泥棒のほうが泥棒でない人間よりはるかに多い、いやむしろ、一生の間に一度も何かしら盗みをしないような、そんな立派な正直な人間はいないと思うんですが。これが僕の考えなんです、もっとも、そうかといって、一人が一人残らず泥棒であるなんて結論をしようとは思いません、え、そりゃあ、時によりますと、どうしても、そんな風に結論したくなることがあるにはありますがね。あなたはどうお考えですか?﹂
﹁ふん、あなたはなんてばかなことをおっしゃるのです﹂と元気のいい夫人が応じた。﹁なんてくだらないことです、誰でもみんなが何か盗むなんてそんなことはありません、わたし、これまでに何一つ盗んだことなんかありませんよ﹂
﹁あなたは何一つ盗みをされたことなんかありませんよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナさん。しかしにわかに顔を赤くされた公爵はどうおっしゃるでしょうか?﹂
﹁僕はあなたのおっしゃることは本当だとは思いますが、でも、あまり誇張し過ぎているようです﹂どうしたことか本当に顔を赤くして公爵はこう言った。
﹁ところで公爵、あなた自身は何も盗みをなさったことはございませんか?﹂
﹁ふん、なんてばかなこった、気をつけたまえ、フェルデシチェンコ君﹂と将軍が注意した。
﹁ええ、もう眼に見えていますわ、自分が言わなくてはならないとなるとはずかしくなって公爵に言いがかりをつけるんです、公爵がおとなしくって、おやさしいもんだから﹂とダーリヤ・アレクサンドロヴナは遠慮なくこう言った。
﹁フェルデシチェンコ、お話しになるか、でなきゃ黙っててちょうだい。人のことなんか、どうでもいいじゃないの。わたしもうあなたに我慢ができなくなりました﹂ナスターシャ・フィリッポヴナは怒りだしてことば鋭くこう言った。
﹁今すぐ、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、しかしですね、僕はどうしても公爵が告白されるものと思います。公爵がもし告白されたら、それにならって誰か他の人がいつかは本当のことを話そうっていう気になって、まあ、とてもすばらしいことを話してくださるでしょうよ。それに僕のことについては、もうこのうえ話すことなんかありませんよ、皆さん。至極あっけなくて、愚にもつかない、汚らわしいことです。しかし、僕はね、けっして泥棒じゃありませんよ。盗みはしましたけれど、どうしてそんなことをしたかわからないんです。これは三年前のある日曜日、セミョーン・イワーノヴィッチ・イシチェンコの別荘でのことです。客はこの家でお午(ひる)の御馳走になりました。食事が終わってから、男の人たちは酒を飲むので、席に残りました。僕はふと、この家のお嬢さんのマリヤ・イワーノヴナにひとつピアノで何か弾いてもらう気になりましたので、離れのほうの部屋を通りぬけようとしましたら、マリヤ・イワーノヴナの仕事テーブルの上に緑色の三ルーブルの紙幣がのっかっているんです。何かお勝手元の支払いでもするつもりで置いてあったのでしょう。部屋には誰もいないんです。僕は紙幣をとって、そのままポケットへしまい込みました。どうするつもりだったのか、自分でもわからないんです。ただ大急ぎに、僕は後へ戻って椅子に腰をおろしました。そして、じっと腰をかけたまま、かなりはげしく胸をはずませて、ひっきりなしにしゃべったり世間話をしたり笑ったりしていたのです。また婦人たちのほうへ行って、腰をおろしたりしました。三十分もたったころ、どうやら気がついたらしく、女中たちに聞き始めました。そして、ダーリヤという女中に疑いがかかりました。で、ダーリヤがすっかり途方に暮れてしまった時、今でもよく覚えていますが、僕はひとかたならぬ好奇心と同情をあらわして、マリヤ・イワーノヴナは情深い人だから大丈夫だよと首をかけて保証しながら、ダーリヤに自白するように諭(さと)しました。それも声をあげて、万座の中で言ったんですよ。みんな僕を見ていましたっけ、僕はこうやってしかつめらしく説教しているのに、紙幣はちゃんとポケットの中にはいっているんだと思うと、ただもう、すっかり満足してしまいました。その三ルーブルはその晩すぐに料理屋で飲み果たしてしまいました。はいってゆくと、すぐにラフィートを注文しました。僕はそれまでは、ほかに何もとらずに酒だけつけさしたことはなかったんです。つまり一刻も早く金を使ってしまいたかったんです。特に良心の苛責ってものはその時もその後も感じてはいません。しかしもう二度とこれから先そんなことはしません。皆さんが本当になさろうとなさるまいと、お勝手ですがね。さあ、これでおしまいです﹂
﹁しかし、むろん、それがあなたのなすったいちばん悪いことじゃありますまいよ﹂とダーリヤ・アレクサンドロヴナはいまいましそうな調子で言った。
﹁これは心理的偶然で、行為じゃない﹂とアファナシイ・イワーノヴィッチが指摘した。
﹁で、女中は?﹂と強い嫌悪の情を隠そうともせず、ナスターシャ・フィリッポヴナは尋ねた。
﹁もちろん女中は翌日ひまを出されました。なかなか厳格な家庭なんですから﹂
﹁それにあなたは手をこまぬいていたんですね!﹂
﹁これはどうでしょう! じゃ、僕がのこのこ出かけて行って僕がしましたって言わなくてはならないのですか?﹂とこう言ってフェルデシチェンコは卑屈な笑いをもらしたが、自分の話が人々にあまりに不快な感銘を与えたのにはかなり驚いていた。
﹁なんて汚らわしいことでしょう!﹂とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んだ。
﹁ああ! ナスターシャ・フィリッポヴナさん、あなたは人から最も悪い行為を聞きたがっているくせに、それに華やかさを要求していらっしゃる! 最も悪い行為はいつでも非常にきたないものです、今に将軍のお話を聞けばわかります。それにうわべから見たら華々しく、見事に見えるものも世に少なくはありません、しかしこれはただ自家用の馬車を乗り回しているからにすぎないのです。自家用の馬車をもっている人間はざらにあります……それにどういうわけで……﹂
要するに、フェルデシチェンコはもう全く我慢ができなくなって、にわかにわれを忘れるまでに怒りだし、前後の見さかいもなくなったのである。彼の顔までがゆがんでいた。これは実に奇妙なことではある、とはいえ自分の物語が別種の成功をかちうると予期していた彼としては、また当然のことであった。こうした下劣な感情の﹃失錯﹄やトーツキイも言ったような﹃一種独特の自負心﹄はフェルデシチェンコのしばしば経験するところのものであり、いかにも彼の性格に似つかわしいものであった。
ナスターシャ・フィリッポヴナは忿(ふん)怒(ぬ)のあまりからだまでぶるぶると震わせて、ものすごいほどフェルデシチェンコをにらみつけていた。こちらはたちまちおじけづいて、驚きのあまり慄(りつ)然(ぜん)として口をつぐんだ。あまり言い過ぎたからである。
﹁もうよしてしまったらどうでしょう?﹂とアファナシイ・イワーノヴィッチは抜け目なくこう尋ねた。
﹁僕の番ですが、与えられた権利に従って話はごめんをこうむります﹂とプチーツィンは思いきって言った。
﹁あなたは、おいやなんですか?﹂
﹁できないんです、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、それに全体から見てもこのペチジョーは不可能であると思います﹂
﹁将軍、今度はあなたの番ですわね﹂ナスターシャ・フィリッポヴナは将軍のほうを向いてこう言った。﹁もしあなたが拒絶なされば、すっかりだめになってしまいますわ。だってわたしもいちばんおしまいに﹃私の一生﹄のある行為をお話ししようと心待ちしていたんですもの。もっとも、それはあなたとアファナシイ・イワーノヴィッチさんのお話のあとですけれど。なぜってお二人に勇気づけていただきたいって思ったからですわ﹂彼女はこう言い終わって笑った。
﹁おお、もしあなたがお約束なさるのなら﹂と将軍は熱した口調で叫んだ。﹁あなたに、僕の一生涯のことでも快くお話しいたしましょう。ところが、僕は順番を待っている間に、一つの逸話を用意しましたよ……﹂
﹁いやもう、それは閣下の御様子を拝見すれば、閣下がどれほどの文学的心血を注いで鏤(るし)心(んち)彫(ょう)骨(こつ)の苦心をされたかがうかがわれますよ﹂まだいくぶんどぎまぎしていたフェルデシチェンコは毒々しい笑いを浮かべて思いきってこう言った。
ナスターシャ・フィリッポヴナはちらと将軍を見やって、自分もまた胸の中でほほえんだ。しかし彼女の胸の哀傷と焦燥の念はいよいよ募ってゆくように思われた。アファナシイ・イワーノヴィッチは彼女が物語をするという約束を聞いてまたもや愕(がく)然(ぜん)としてしまった。
﹁皆さん、僕もみんなと同じように、僕の生涯においてきわめて下劣な行為をしたことがあるのです﹂と将軍が語りだした。﹁しかし、何よりも奇妙なのは、僕がこれからお話しする短い逸話を、一生涯の中で最も悪い行為と考えていることです。それも、かれこれ三十五年も昔のことです。僕はそれを回想するごとに、一種の、つまり、胸を掻きむしられるような気持をいかんともなし得ないのです。もっともばかげたくだらない事件ですがね。それは士官候補になりはじめで、毎日こつこつとおもしろくもない仕事を隊でやっていた時分のことです。ところで、御存じでもありましょうが、士官候補といえば、若い血は燃え立つけれど、ふところぐあいときたらぴいぴいです。そのとき私にはニキーロフという従卒がいましたが、これがまたとても細(こま)々(ごま)と私の身のまわりいっさいのことに気をつけ、縫物から拭き掃除までしてくれ、それに所かまわず機会さえあれば泥棒までしてくるのです。つまり家の物が何でも多くなりさえすればいいというあんばいでしたよ。実直で正直なやつでした。もちろん、僕は厳格で不正なことなんかしませんでした。あるとき私は地方の小さな町に駐屯したことがありました。僕は町はずれに住んでいる退職中尉夫人の、しかも後家さんの家に宿舎を割り当てられました。その後家さんは年のころ八十か、少なく見ても八十に近い婆さんでした。その家というのが古いこわれかかった木造の家で、貧乏で女中もおけない始末なのです。しかしまあいちばんその中で変わっているのは、この婆さんに昔は大人数の家族や身内のものがあったということです。それが長い一生のうちに、ある者は亡くなり、ある者はゆくえ知れずになり、またある者はお婆さんのことなんか忘れてしまったのです。それから、夫が死んだのが四十五年も昔のことなんだそうです。四、五年前まではこの家に婆さんの姪(めい)が住んでいたってことでした。この姪というのがせむしで鬼婆のように悪いやつで、あるときなどは婆さんの指を噛(か)んだということです、その姪も死んでしまって、婆さんはもう三年ばかりの間、全くひとりぽっちで暮らしていたのです。私は家にいるのが退屈でしかたがなかったのです。それに婆さんが実にぽかんとして、実につまらないのです。気の紛れるようなことは何一つないのです。ついに、婆さんが私の鶏を盗みました。これは今もってはっきりしないんですが、しかし婆さんよりほかに盗むものはないのですからね。鶏のことから私たちはずいぶん猛烈に喧嘩をしました。するとそこへちょうど、ぐあいよく私はたった一度願い出たばかりだったのですけれど、別の宿舎に移転するように命ぜられたのです。今度の宿舎というのは、今までの宿舎の反対の側にあたる町はずれにありました。非常に大人数の家族をかかえた商人の家なのです。その商人は今でもよく記憶に残っていますが大きな髯を生やした男でした。私とニキーロフは婆さんを残してゆくのが痛快でたまらなかったのです。喜び勇んで引越しをしました。それから三日ばかりたって教練から帰って来ると、ニキーロフが﹃上官殿、われわれのところの皿を以前の家の婆さんのところへ残して来て損なことをなさいました。スープを入れて差し上げるものがないのであります﹄とこう報告するのです。もちろん、私は驚きました、﹃なんだと、どうしてわれわれのとこの皿を婆あのところに残して来たんじゃ?﹄と尋ねると、ニキーロフは驚いて報告を続けました。引越しのとき婆さんがどうしても皿を渡さずに、私が婆さんの皿をこわしたので、その代わり皿をとっているのだと言ったそうです。つまり婆さんの言うことでは私がこれを提議したことになっているんですね。この卑劣なやり方を聞いて、私はかっとなりました。士官候補の血はたぎって、飛び上がると、一散に駆け出しました。もう、そのすっかりわれを忘れてしまって婆さんのところへ駆けつけると、婆さんは玄関の片隅にしょんぼりと坐って、まるで太陽から姿をかくそうとしているようなぐあいに小さくなって坐っているんです。片手で頬杖をついて。私は、その、雷様のようなやつを頭からぶちまけたんです。﹃貴様はああ言った、こう言った﹄って、つまりロシア式にやってしまったんです。けれど、様子がどうも変なんです。婆さんはじっと坐ったまま、顔を私のほうに向けて眼をむき出し、ひと言も返事をしないんです。その眼つきといったら実に妙なんです。またからだはふらふら揺れているようなぐあいです。ついに私は気が落ち着いて、じっと様子を見ながら聞いてみるんですが、やっぱりうんともすんともないんです。こちらは途方に暮れてたたずんでいました。蠅(はえ)がそのあたりをぶんぶんうなりながら飛んでいましたし、陽はまさに沈もうとして、あたりはひそまりかえっているのです。私は内心、非常な不安を感じながら、そこを離れました。まだ家まで帰らないうちに、少佐のところに呼ばれ、それからまた中隊に行かねばならないことになって、家に帰ったのはすっかり暗くなった時分でした。帰ってゆくとニキーロフがまず最初に言うんです、﹃あのう、上官殿、あの婆さんが死にましたよ﹄﹃いつ?﹄﹃今日の夕方、一時間半ほど前であります﹄すると、ちょうど私が婆さんを責めている時分、死にかかっていたわけなのですよ。私はもうすっかり驚いてしまって、今にも気を失いそうになりました。それから後というものは、このことばかり思い出して、夜は夢にさえ見るようになったのです。もちろん、私は、迷信に囚われたわけじゃありませんが、三日後には葬式に列するために教会へ行きましたよ。つまり、時がたつにつれて思い出すことがひどくなったのです。別にとりとめて、これというのではないが、ときどき考えていると、いやな気分になるのです。ついに私は、そこで起こった重要なことは何であるかと考えるようになったのです。第一に女性——人間的な現代に人間的存在と称するところの一人の女が長い生活を続けて、あまりに長生きしすぎたということなんです。ひところは子供たち、夫、家族、親戚、こうしたものがすべて彼女を取り巻いていた、つまり、ぴったり身近くくっつき合って笑っていた、——ところが、にわかにそうしたものが消え失せて! 残ったのは彼女ただひとり、生まれ落ちるときから神の呪(のろ)いを負った蠅みたいに生き残った。そしてついに神様の許に呼び返されたわけですね。ものしずかな夏の夕方、日没と共に婆さんの魂も飛び去ったのです。もちろん、そこになんらか教訓的なものも考えられなくはありません。つまりその瞬間にですねえ、若い向こう見ずな士官候補が別れの涙をそそぎもしないで、両手を腰へあてて偉そうな格好をして、一方の腰をつき出し、ただ一枚の皿がなくなったということだけで、ロシア人特有の乱暴な罵(ばと)倒(う)のことばをあびせかけ、地上からこのお婆さんを追い払ったわけです。疑いもなく私に罪があるのです、今では遠い昔のことではあるし、私の性格も変わってきましたので、もうだいぶ前からこの私の行為が自分のしたことではないような気もしていはしますが、それでもやっぱり、可哀そうなことをしたものと哀れな気がするのです。だから、もう一度くり返して申しますが、かえって不思議な気さえするのです。なぜってそれは私にも罪があるにしても、何から何まで私が悪いわけじゃありませんからね。いったいどうしてお婆さんはちょうどそのとき死のうなんかと考えついたのでしょう? もちろん、そこに弁解の道があります。これがいくぶん心理的性質を帯びた行為であるということです。と言って私の気はやすまらないのです、それで十五年ほど前に、二人の始終病気になやまされている老婆を私は自分から費用を出して、人並みの暮らしをさして、地上における最後の日をいくぶんなりとも、なごやかに過ごさしてやりたいと思って、養老院に入れてやったのです。今でも私は財産の一部を永久に残る仕事にささげるよう遺言するつもりです。さあ、これでおしまいです。くり返して言いますが、おそらく私は一生の間、多くのことで罪を犯していることでしょう。しかし私は良心に照らして、この事件こそ一生における最も下劣な行為だと考えているのです﹂
﹁閣下は最も下劣な行為の代わりに、御自分の生涯における立派な行為の一つをお話しになられました。フェルデシチェンコは見事に、してやられたのであります!﹂とフェルデシチェンコはこう結論した。
﹁将軍、ほんとのところ、あなたにも、やはりそんなやさしい心がおありだと思いがけませんでしたわ。口惜しい気さえいたしますわ﹂とナスターシャ・フィリッポヴナがうつろな調子で言いだした。
﹁口惜しいですって? いったいどうしてです?﹂と将軍は愛想のいい笑いを浮かべて聞き返し、シャンパンを飲み乾したが、いくぶん満足げな様子であった。
さて、今度の順番は同じく用意のできていたアファナシイ・イワーノヴィッチに回ってきた。一座の人々は、彼もイワン・ペトローヴィッチと同じように拒絶はしないだろうと思っていた。しかも彼の話はある理由のために特別の好奇心をもって期待されていたのであった。それで人々はナスターシャ・フィリッポヴナの様子をそっとうかがった。アファナシイ・イワーノヴィッチは堂々たる風貌に似つかわしいなみなみならぬ威厳を示しながら、低くはあるが愛想のいい声で得意の﹃愛すべき物語﹄を語り始めた︵この機会に言っておくが、彼は人の目をひくほど堂々たる外貌を備えて、身丈も高かった。頭は少しばかり禿げて、いくらか胡麻塩で、かなり肥っていた。頬は柔らかそうで、紅味を帯びて、いくぶんたるみぎみであった。口には入れ歯をして、ゆっくりした優雅な服装をしており、驚くほど立派な襯(シャ)衣(ツ)をつけていた。彼のふっくらした白い手は、いつまでもほれぼれと見ていたくなるほどであった。右の薬指にはダイヤ入りの高価な指環をはめていた︶。ナスターシャ・フィリッポヴナは彼の話の間、ずっと袖口についたレースをじっと見つめ、左手の二本指でもてあそびながら、一度も話し手の顔を見なかった。
﹁この場合、何が私に課せられた問題を軽くしてくれるかというと﹂アファナシイ・イワーノヴィッチは話しだした、﹁僕の生涯中でいちばん悪い行為を、皆さんにお話しするということであります。もう今となっては逡(しゅ)巡(んじゅん)することはないのです。私の良心と記憶とが、何を話すべきか助言してくれるのであります。悲痛な感情をいだいて私は告白しなければならない。私の生涯の無知であり、またおそらくは軽率な……浮薄な行為の中で、私の追憶にあまりにも重くのしかかってくる一つの事件があります。もうかれこれ二十年前のことであります。私はそのとき田(いな)舎(か)にいたプラトン・オルデンツェフのもとに出かけました。その男は地方の貴族団長に選挙されたばかりのときで、冬の祭日を過ごすために若い細君と共に田舎におもむいたのです。その時、ちょうど、アンフィーサ・アレクセーヴナの誕生日も近づいたので舞踏会が二つ催されることになりました。そのころデュマの美しい小説 La dame aux Camelias︵椿姫︶が上流社会にすばらしく流行していました。この叙事詩は私の考えるところでは、永(えい)劫(ごう)不(ふめ)滅(つ)のものと思われるのです。少なくともこれを一度読んだ地方の婦人たちはみな、もうすっかり夢中になっていました。物語の美しいこと、主人公の境遇が奇抜なこと、微細な部分まで神経の行きわたったあの魅力に富んだ世界、そして、巻中随所にあふれる魅惑的な描写︵たとえば白と薔(ば)薇(ら)色の椿の花束をつぎつぎに出して来る場面の描写︶、一言にして言うならば、こうしたすべての美わしい詳細な描写がいっしょになって、ほとんど天下を震(しん)撼(かん)せしめたものでした。椿の花はすばらしい流行となりました。誰も彼もが椿を求め、誰も彼もが椿を捜しました。しかしいったいどうでしょう、ある地方であらゆる人が舞踏会のために椿を求めているとき、やすやすとそれを得ることができるでしょうか? と言っても舞踏会がそう多くあったわけではありませんが。ペーチヤ・ウォルコフスコイは哀れにもアンフィーサ・アレクセーヴナを慕っていました。実のところ、私は二人の間に何かあったのか、それは知りません。その、つまり、男のほうに何か確かな希望があったかということをです。この可哀そうな男はアンフィーサ・アレクセーヴナのために夜会までに椿を手に入れようと気ちがいのようになっていました。それも県知事夫人のところのお客として、ペテルブルグから来る伯爵夫人のソーツカヤだの、ソフィヤ・ベスパーロワだのという人が、白の花束をもってやって来ることが、はっきりわかっていたからです。アンフィーサ・アレクセーヴナは、ある独特な効果を収めようと思って、赤い椿を欲しがっていたのです。それで可哀そうなプラトン氏を追い立てるようにして頼むのでした。そうなるとやっぱり——夫ですね。花束は手に入れてやると請け合ったのです。しかしそれがどうでしょう? 万事につけてアンフィーサ・アレクセーヴナの手強い競争者であり、斬り合いもしかねないようなただならぬ間柄にあるムィチシチェワ・カテリーナ・アレクサンドロヴナという女がその前夜になって椿をすっかり買い占めてしまったんですよ。もちろん、夫人はヒステリーを起こすやら、卒倒するような騒ぎになりました。プラトン氏はすっかり面目をつぶしたわけです。このきわどい際に、もしペーチヤが、どこからか花束を手に入れることができたら、彼の恋も大いに進展しただろうとは容易に考えられることです。こうした場合における女の感謝の情ってやつは、限りないものですからね。ペーチヤは燃えるような気持で駆けずり回りました。もともと不可能なことですから、なんともしようがありません。誕生日の前の晩、明日はオルデンツェフの近くにいるマリヤ・ペトローヴナ・ズブコーワの所で舞踏会があるというその前の晩の十一時ごろ、思いがけなくペーチヤに会いました。彼はうれしそうにしているので私は尋ねてみました。﹃君どうしたんだね?﹄﹃見つけましたぜ! エウリーカ︵見つけました︵ギリシア語︶︶﹄﹃え、君、びっくりさせるね! どこで? どうしてさ?﹄﹃エクシャイスクに︵そんな町が郡は別になってはいますが、二十露(エル)里(スター)ほど離れたところにあったのです︶トレパーロフって商人がいるんです、髯のたくさんある金持の爺さんで、婆さんと二人で暮らしているんです、子供はいないがカナリヤをどっさり飼っていましてね。その二人ともそろいもそろって花に夢中になっているんですよ、そこに椿もあるんです﹄﹃冗談じゃない、そんなことがあるもんか、またそれにしてもくれなかったら、どうするつもりだ?﹄﹃両膝ついて、地面をはいまわる、それまではけっして帰らない﹄﹃じゃいつ行くんだね?﹄﹃明日の夜明けの五時にゆく﹄﹃じゃうまくいくように﹄と言って私はペーチヤのために喜んでオルデンツェフのところへ帰りました。しかしどうしたことか、そのことがしきりに頭に浮かんで、とうとう二時過ぎまで寝られないのでした。それからいよいよ寝ようと思って床につこうとしたとき、ひょいと、とても変わったおもしろい考えが浮かんできました! それですぐさま台所へこっそり行って、御者のサヴェリヤを起こして、﹃三十分以内に馬車の用意をしてくれ!﹄と言って十五ルーブルやりました。もちろん、三十分の後には、馬車は門の傍に止まっていました。その晩、アンフィーサ・アレクセーヴナは、頭痛を起こすやら、熱を出すやら、うわごとを言うやら、たいへんな騒ぎだったそうです。私は馬車に乗って出発しました。そして四時過ぎには、エクシャイスクの旅館について、夜明けを待っていました。夜明けといっても、ほんの白みかけてくるころまでのことで、六時過ぎには早くもトレパーロフのところへ行っていたのです。﹃実はこういうわけですが、椿はございませんか? どうぞおじいさん、お助けください、救ってください、伏してお願い申し上げます﹄と言ったわけです。老人ってのは、身丈の高い、白髪の、厳めしい人——つまりおっかない様子をした老人だったのです。﹃いかん、いかん、承知するわけにはゆかん!﹄私はその足もとに身を投げ出しました! こんなぐあいにからだを伸ばして……﹃どうぞ、おじいさん、どうぞ、おじいさん!﹄ところが相手は驚いちまったらしいのです。﹃人間一人の生命にかかることです……﹄と爺さんに向かってどなりつけてやると、﹃そういうわけなら差し上げましょう、どうもいたし方がない﹄と言ってくれました。そこで私はすぐに赤い椿を切りました。そこの小さな温室の中に一面に咲き乱れて実に見事なものでした。老人はため息をついていました。私は百ルーブル出しました。﹃いや、あんた、そんなことをして、わしに恥をかかせるものじゃない﹄と言って老人は受け取らないのです。それで私は﹃じゃ、この土地の病院へ施設や食糧の改善費として寄付してください﹄と言ったのです。﹃そういうわけなら、話は別です。奇特なことだ、神様の御心にかなうことじゃの。あなたの、健康のために寄進しましょう﹄と言って金を納めてくれました。それで私はこのロシア風の老人がすっかり好きになりました。このロシア風の老人はつまりきっすいのロシア人なのですよ、de la vraie souche︵まぎれもないきっすいの︶ってわけでね。私は首尾よくいったので夢中になって、いま来た道を引き返しました。ペーチヤに途中で会わないように回り道をして、家に帰りつくとすぐにアンフィーサ・アレクセーヴナのお目ざめに花束を贈りました。夫人の喜び、感謝の情、感謝の涙がいかばかり大きなものであったかは、皆さんの御想像におまかせします! 昨夜いじめられ抜いたプラトンはすっかり死人のようになっていましたが、私の胸に顔をうずめて、うれし泣きに泣くのでした。悲しいかな、すべての夫というものは天地開(かい)闢(びゃく)以来、こうしたものです……晴れの結婚式以来! これ以上あえて何も付け加えますまい。可哀そうなペーチヤの恋はこの插話と共にすっかりくずれてしまいました。私ははじめのうち、事情を知ってペーチヤが私を殺すに相違ないと考えていましたので、その時に対する覚悟をもきめていました。ところがです、信じられないようなことが起こったのです。彼は気を失って、夕方になると、うわごとを言い、朝になると熱が出て、そしてからだじゅうをぴくぴくと引きつらせて、子供のように泣くのでありました。ひと月たってどうにか健康が回復すると無理に願い出てコーカサスに遣ってもらったのです。とんだ小説が出来上がったものですよ! そしてその最後はクリミヤで殺されることになったのです。そのころは、彼の兄ステパン・ウォルコフスコイが連隊の指揮官として勲功を顕わしたのはその時分のことです。正直のところ、私はその後、長いこと良心の苛責に苦しめられたのです。私はいったい、何のために彼をそのように苦しめることをしたのでしょう? 私もそのとき夫人に恋していたというのなら、いくぶん救われもしましょうが? ところが、ただほんのふざけ半分にくだらない悪戯をしたのにすぎないのです。それ以外に何もわけはないのです。私がペーチヤから花束を横取りするようなことがなかったら、彼はずっと幸福に暮らし、輝かしい成功をとげて、トルコ人の手にかかって倒れようなどとは夢にも思わなかったでしょうに﹂
アファナシイ・イワーノヴィッチは話し始めた時と同じように、落ち着き払った威厳を示して、口をつぐんだ。一同はアファナシイ・イワーノヴィッチの話が終わったとき、ナスターシャ・フィリッポヴナの眼が異様に輝き、唇さえも震わせているのに気がついた。
﹁フェルデシチェンコをだましなすった! あんなだまし方をなさる! いいえ、だましなすったのに違いありません!﹂もう口を出してもいい、出さなければいけないと考えて、フェルデシチェンコは泣くような声で叫んだ。
﹁誰もあなたにそうはずかしがるように言いつけたわけじゃあるまいし。少しは賢い人を見習いなさるがよろしいですよ!﹂と、ほとんど勝ち誇ったような調子で、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ︵トーツキイの古くからの親友でありその同類である︶がこう言ってさえぎった。
﹁アファナシイ・イワーノヴィッチさんとあなたのおっしゃるとおりですわ、ペチジョーは退屈ですわ、早くおしまいにしましょう﹂とむとんじゃくな調子でナスターシャ・フィリッポヴナが口を出した。﹁さっきお約束したことは自分で話しますわ、それから皆さんとカルタをいたしましょう﹂
﹁しかし、お約束の逸話はまず一番に?﹂と将軍は言って熱心に賛成した。
﹁公爵﹂とナスターシャ・フィリッポヴナは身動きもせず、鋭い声で公爵に呼びかけた。﹁ここにいらっしゃる古いお友だち、将軍とアファナシイ・イワーノヴィッチは、しょっちゅう結婚せよとお勧めになるんですの。ねえ、公爵、あなた、どうお考えになります。わたし、結婚したものでしょうか、いかがでしょう? あなたのおっしゃるようにいたしますわ﹂
アファナシイ・イワーノヴィッチの顔はまっ青になり、将軍は棒立ちになった。一同は目をすえて首を前へ突き出した。ガーニャはからだを硬ばらせたまま、その場にたたずんでいた。
﹁だ……だれと?﹂公爵はうつろな声でこう尋ねた。
﹁ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギン﹂とナスターシャ・フィリッポヴナは依然として鋭く強いはっきりとした声で言った。
沈黙の何秒かが過ぎた。公爵は何か言おうとしたが、あたかも重荷が胸を圧しているかのように、それを言いだすことができなかった。
﹁い、いけません……しちゃいけません!﹂やっとの思いでこうささやくと、彼は苦しげに息をついた。
﹁じゃ、そういたしましょう! ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさん!﹂と彼女は厳かに勝ち誇ったようにガーニャに呼びかけた。﹁あなた、公爵のおっしゃったことをお聞きになったでしょう? では、それが私の返事ですの。これでこの事は永久におしまいにいたしましょう!﹂
﹁ナスターシャ・フィリッポヴナさん!﹂とアファナシイ・イワーノヴィッチは震え声で言った。
﹁ナスターシャ・フィリッポヴナさん!﹂言いきかせるような、それでも不安のかくしきれないような声で将軍が呼びかけた。
一座の人々は心配して、ざわめき始めた。
﹁どうしたんです、皆さん?﹂彼女はびっくりしたように客を眺めながらことばを続けた。﹁何をそんなにびっくりなさいますの! 皆さん、なんて顔をなすっていらっしゃるんですの!﹂
﹁しかし……思い出してください、ナスターシャ・フィリッポヴナさん﹂とトーツキイがどもりながらつぶやいた。﹁あなたは……好意に満ちた約束をなさった、それに少しは可哀そうと思ってもいいでしょう……僕は困っています……それにもちろん、途方に暮れています、しかし……まあ、つまり今、こんな時に、それに……皆さんの前で、この良心と潔白を必要とするまじめな事件を。こんなペチジョーで決まるなんて……この事件の結果によって……﹂
﹁おっしゃることがわかりませんね、アファナシイ・イワーノヴィッチさん、あなたすっかりあわてていらっしゃいますね。第一に﹃皆さんの前﹄とはなんですの? 私たちは麗わしい親密なお友だちの間じゃありませんか? そしてまたなんでペチジョーなんかっておっしゃるんです? わたしはほんとに逸話を話したいと思ったから、え、それでこうして話したんですよ。おもしろくございませんの? これがなぜまじめでないのでしょう? あなたは私が公爵に言ったことをお聞きになられたでしょうね?﹃あなたのおっしゃるようにいたします﹄って言いましたんですのよ。あのかたが﹃諾(ダー)﹄とおっしゃれば私はすぐに承諾したことでしょう、しかしあのかたが﹃否(ニエト)﹄とおっしゃったから、私はお断わりしたんです。これがまじめじゃないんですの? 私の一生は一筋の髪の毛にかかっていたんです。これ以上まじめなことがありますか?﹂
﹁公爵が公爵がって言われるが、なんで公爵がそれほどいいんです? 公爵がいったい、なんです?﹂癪(しゃく)にさわる公爵の権威に対する憤懣を堪えかねて将軍はついにこうつぶやいた。
﹁公爵は衷心から私に服した人として私が今までにはじめて信用した、ただ一人のかたです。あのかたは一目わたしを見ただけでわたしを信用してくださいました。それでわたしも公爵を信用するのです﹂
﹁私に残されているのは、ナスターシャ・フィリッポヴナの私に示されたたいそう細やかなお心づくしに対して、ただただ感謝いたすことばかりです﹂とまっさおになったガーニャが唇をゆがめ、震える声でついにこう言いだした。﹁それはもちろんそうあるのが当然のことだったのです……しかし……公爵が……公爵がこの事件に……﹂
﹁それで、七万五千ルーブルを横取りするとでもおっしゃるんですか?﹂と不意にナスターシャ・フィリッポヴナがさえぎった。﹁あなたはそう言おうと思ってらしたんでしょう? ごまかさなくってもよござんすよ、きっとそう言おうとしていらしったんですわ! アファナシイ・イワーノヴィッチさん、わたし、申し忘れていましたわ、あの七万五千ルーブルはあなたお持ちくださいな、よござんすか、私あなたをただで自由にしてあげますから。もうたくさん! あなただって息をつかなきゃなりませんからね! 九年と三か月の間ですもの、明日から——やりなおし、今日はまだ私の誕生日ですから私の好きなことをしますわ、一生にただ一度です、将軍あなたもあの真珠を持ってお帰りになって、奥様に差し上げてください。はい、これです。明日は私もここを出て行きますから、もう夜会はありませんよ。皆さん!﹂
これだけ言ってしまうと、彼女は不意に立ち上がった、今にもすぐ出て行きそうな様子であった。
﹁ナスターシャ・フィリッポヴナさん! ナスターシャ・フィリッポヴナさん!﹂と四方からこう言う声が聞こえた。一同の人々は胸をはずませながら、席を立って彼女の周囲を取り囲んだ。人々は不安の念をいだいて、このとぎれとぎれの熱にうなされたような興奮したことばを聞いた。何かしら混乱したある物を感じたが、誰もその意味を理解することはできなかった。すべての人々がみな途方に暮れていたのである。この瞬間はげしくベルの鳴る音が響いてきた。それは今日ガーネチカの家で聞いた響きによく似ていた。
﹁あ! あ! これで幕だわ! とうとうこれでおしまい! ちょうど十一時半だわ!﹂とナスターシャ・フィリッポヴナが叫んだ。﹁皆さん、どうぞおかけください、これでおしまいですから!﹂
こう言って彼女は自分がまず腰をおろした。奇妙なほほえみが唇のうえに震えていた。彼女は熱のこもった期待をいだいて、ことばもなく腰をおろして戸口の方を見つめていた。
﹁ロゴージンだ、十万ルーブルだ、確かに﹂プチーツィンは口の中でつぶやいた。
︵つづく︶