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第二編
二
六月もまだ初めのころであった。ペテルブルグには珍しく、もう一週間もずっと美しい天気が続いていた。エパンチン家ではパヴロフスクに豪奢な別荘をもっていた。リザヴェータ・プロコフィエヴナはにわかに思い出して、そわそわしながら、二日の間あれこれと騒ぎまわったあげく、パヴロフスクへ移って行った。
エパンチン家の人々が移って行ってから二、三日たって、モスクワ発の一番列車でレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵がやって来た。彼を停車場に出迎えるものは誰もいなかったが、公爵が車を出たとき、その列車で到着した人々をとり囲む群衆の中で、思いがけなく誰かの焼けつくような異様な双の眸(ひとみ)がひらめいたように思われた。彼が注意を凝らして見つめたときには、もはやそこに何ものをも見つけ出すことができなかった。もちろん、ただちらりとひらめいただけではあるが、それは不愉快な印象となって残った。そんなことがなくても公爵は物悲しく考えこんで、何かしら心がかりな様子であった。
辻馬車は、リティナヤ通りからほど遠からぬ一軒の宿屋に彼を運んだ。宿屋は見すぼらしいものであった。公爵は粗末な道具のある、うすぐらい、さして大きくない部屋を二つ借りて、手水を使い、身じまいをととのえて何も注文せずに、あたかも時間をむだにするのが惜しいのか、あるいはたずねる先の人が不在になりはしないかと心配しているような様子で、大急ぎで表へ出た。
半年まえ公爵がはじめてペテルブルグにやって来たころの知り合いの人が誰か、公爵をいま見たならばあるいは彼の風采がずっと立派になったと言うであろう。しかし、それもどうだかはっきりしたところは疑わしいのである。ただ服装だけはすっかり変わっていた。服はモスクワの立派な洋服屋の仕立てたものであったが、やはり服にも欠点があった。というのはあまり流行にかない過ぎた仕立てなのである︵律気ではあるが、あまりじょうずでない洋服屋のやりそうなことであるが︶。それに服を着ける人が、流行などには少しも関心を持たない人なのであるから、よほどの物好きな人がよくよく公爵を眺めたら、あるいはどこかに笑いたくなるようなところを見つけ出すかもしれない。それにしても、世の中には滑稽なことというものはけっして少なくはないのである。
公爵は辻馬車を雇って、ペスキイへ走らせた。彼はまもなくロジェストヴェンスカヤ通りの一地点で、一軒のさして大きからぬ木造の家を捜し出した。公爵が驚いたことには、この家は見つきがきれいで、小ざっぱりしていて、草花を植えた小さな庭園がついており、なかなかきちんとしていた。通りに面した窓はあけ放たれて、その中からはなんだか大声で演説でもしているように、ほとんど叫ばんばかりの声が鋭く耳に聞こえてきた。その声は時おり幾たりかの人の高い笑い声にさえぎられた。公爵は庭へはいって階段を上り、レーベジェフ氏に面会を求めた。
﹁あれなんでございますよ﹂と袖(そで)を肘(ひじ)のあたりまでまくりあげた女中が戸をあけてから﹃客間﹄を指さした。
この﹃客間﹄は暗緑色の壁紙を張りめぐらし、小ざっぱりしてはいるが、装飾がいくぶんごたごたし過ぎていた。丸いテーブルや長椅子、鐘形のガラスでおおわれた青銅の置き時計、窓と窓との間の壁にかけられた細長い鏡や、天井から青銅の鎖で吊るされた、幾つものガラス玉で象(ぞう)嵌(がん)の施された、さして大きからぬ古風なシャンデリアなどが置かれていたのである。
その部屋の中央に、夏らしく上着なしで胴衣一枚のレーベジェフその人が、はいってくる公爵のほうに背中を向けて立っていた。そして自分の胸をたたきながら、どんな題目かはわからないが、声をはりあげて雄弁をふるっているのであった。聴き手は、書物を手にしている、快活で、かしこそうな十三歳ばかりの少年と、両腕に乳飲み児をかかえ、喪服につつまれた二十歳くらいの若い女と、やはり喪服を着て、口を大きくあけてしきりに笑っている十三くらいの女の子であった、ところが最後にいま一人、かなり奇妙な聴き手がいた、濃く長い髪をし、黒い大きな眼をして、ほんのおしるしばかりの頤(あご)髯(ひげ)頬髯を生やした、顔色は浅黒くはあるが、かなり美しい二十歳前後の青年である。この青年は長椅子の上に寝そべっていた。この聴き手はレーベジェフの演説をしょっちゅうさえぎったりやじったりしているらしかった。きっと他の者たちが笑っていたのはこれがためであろう。
﹁ルキヤン・チモフェーヴィッチ、ルキヤン・チモフェーヴィッチ! まあ、なんてんでしょう! ちょっと、こっちをごらんなさい! ふん、つまらないったらありゃしない﹂
そう叫ぶと、女中は両手を一振りして、怒ってまっかになりながらその場を立ち去った。
レーベジェフは後を振り返って、公爵に気づくと雷に打たれたように、しばしの間、突っ立っていた。やがて卑屈な微笑を浮かべると、彼のほうに駆け出したが、感覚を失ったように閾(しきい)の上に立ち止まって、
﹁公爵、さ、さ、さま!﹂とだけかろうじて言った。
しかし、まだ落ち着いていることができなかったらしく、なんというわけもないのに、突然、喪服を着て両腕に乳飲み児を抱いている娘に飛びかかった。娘は不意をくらって、よろよろとよろめいた。すると、彼はもうそのほうはよして、すぐに今度は隣の部屋の閾の上に立ったまま、さっきの笑いの名残りをとどめている十三ばかりの女の子に襲いかかった。女の子は思わず悲鳴をあげて、そのまま台所へ逃げこんだ。レーベジェフはまだ脅かしてやろうと、逃げてゆく女の子の後ろで足を踏みならした。が、公爵の困りきったような視線に出会うと言いわけを始めた。
﹁敬意を……表するためで、へへへ!﹂
﹁あなた、そんなことをしたって……﹂と公爵がはじめてことばを出した。
﹁ほんのちょっと、ちょっとです、すぐです……竜巻のように!﹂
レーベジェフはこう言ってすばやく部屋から姿を消した。
公爵はびっくりして、娘や少年や、長椅子の上に寝そべっている青年を眺めた。すると誰もが笑いだしたので、公爵も笑った。
﹁燕尾服を着に行ったんです﹂と少年が言った。
﹁なんていまいましいことなんでしょう﹂と公爵が言いかけた。﹁僕はあの……ねえ、あの人は……﹂
﹁酔っ払っていると思われたんですか?﹂と長椅子から叫び声がした。﹁少しも! そうですなあ、杯に三つか四つくらい、まあ五つくらいですかな、だけど、そんなのあ、なんでもありませんよ——いつものことですよ﹂
公爵は長椅子の声の方を振り向こうとした。が、そのとき娘が可愛い顔にすなおな表情を浮かべて言いだした。
﹁あの人はあまりたくさんはいただきませんの。あなた、何か御用件でしたら、今おっしゃってください。いいおりですわ。夕方帰ってまいりますと、もう酔っ払っていますから。それに近ごろではたいてい夜は泣きながら寝る前に私たちに聖書を読んで聞かせますの。五週間前に母がなくなりましたので﹂
﹁あの人が逃げ出したのは、きっとあなたに返答するのがむずかしいと思ったからに違いありませんよ﹂と言って長椅子の上の青年は笑いだした。﹁あの人はあなたをごまかそうとして、今その計画を考えているのですよ、けっして間違いありません﹂
﹁まだ五週間にしかなりません! 五週間にしかなりません!﹂燕尾服を着込んで、眼をしょぼしょぼさせ、涙をふくためにポケットからハンカチを出しながら、レーベジェフは部屋に帰って来た。﹁親なし児です!﹂
﹁なんだってあなたはそんな穴だらけの服を着て来たんです﹂と娘が言った。﹁だって、あすこの戸の向こうに新しい燕尾服があるじゃありませんか、見えないんですか?﹂
﹁だまれ、せっかち!﹂レーベジェフはどなりつけた。﹁貴様というやつは!﹂彼は床を踏み鳴らしそうにした。だが娘はただ笑っているばかりであった。
﹁まあ何を威かしていらっしゃるの、私、ターニャじゃないから、逃げ出したりなんかしなくてよ。そら、リューボチカが眼を覚ますわよ、それに虫でも起こったらどうなさるのよ……大きな声なんか出したりして?﹂
﹁と、と、とんでもない! 舌が腫(は)れちゃうぞ……ばかな!﹂とレーベジェフは恐ろしく狼(ろう)狽(ばい)して、娘の腕に抱かれて睡っている乳飲み児のそばに走りより、あわてた格好をして二、三度十字を切った。﹁神よ、守りたまえ。神よ守護をたれたまえ。これは私の実の赤ん坊でリューボーフィという娘でございます﹂と言ってから公爵のほうを向いて、﹁この間亡くなった——難産で死んだ妻のエレーナと法律上の正当な結婚で産まれた児でございます、この餓鬼は私の娘のヴェーラで、喪服を着せとくんです……ところで、これは、これは、お、こいつは……﹂
﹁どうしてしまいまで言わないんです?﹂と青年が叫んだ。﹁さあ次を、もじもじすることはない﹂
﹁旦那!﹂と何かしらにわかに胸をつかれたようにレーベジェフが叫んだ。﹁ジェマーリン一家の殺人事件を新聞でお読みになりましたか?﹂
﹁読みました﹂公爵はいささか驚いて言った。
﹁ところで、こいつがその下手人です、こいつなんです!﹂
﹁あなたは何を言うんです?﹂と公爵は言った。
﹁まあ譬(アレ)喩(ゴリ)的(カル)に言えば、来たるべきジェマーリン家のその下手人です、この先こんなことがもう一度あるとすればですがね、こいつはそれを待ちかねているんですよ……﹂
一座の者はみな笑いだした。ことによったら、レーベジェフは公爵にいろんなことを聞かれはしないかと思って、それになんと答えたらいいかわからないものだから、どうして時を過ごそうかと、そのためにしかたなく変なことばかり言っているのではあるまいかと公爵はふとそんなことを考えた。
﹁謀反してるのです! たくらみを持っているのです!﹂とレーベジェフは、もう我慢してはいられないといったように叫んだ。﹁私はいったいこんな悪態つきを、こんな放蕩者のろくでなしを、肉親の甥(おい)と思わねばならんのでしょうか、死んだ妹アニーシヤのたった一人の息子と思わなけりゃならんのでしょうか?﹂
﹁もうよしなさい、おまえさんは酔っ払っているんだから! 公爵、まあ考えてごらんなさい、この男はねえ、弁護士稼業を始めて、訴訟事件をあさり歩こうと思い立ったんですよ。それで、もう美辞麗句に夢中になって、家の中で子供たちをつかまえては、しょっちゅうしかつめらしいことばばかり使っているんです。五日前に裁判官の前に立ってしゃべったんですが、いったい誰を弁護したと思いますか。身代かぎりの五百ルーブルの金を畜生みたいな高利貸しに奪い取られた婆さんが、この先生に拝んだり祝福したりして頼んだのですが、それには耳も藉(か)さず、報酬の五十ルーブルに眼がくらんで、相手のザイドレルとかなんとかいうユダヤ人の高利貸しのために、弁護したんですよ……﹂
﹁勝ったら五十ルーブルというんでして、負けたら、たった五ルーブルです﹂と今までわめいたことなんかないといったような、うって変わった声でこう説明した。
﹁いや、もちろん、とんだ恥さらしでしたよ、なにしろ法式ってのが昔とは違うんですからね。ただもう皆さんのお笑いを買ったばかりです。ところがこの人はすっかり満足している始末なんですよ。﹃一点の私心なき裁判官諸賢よ、高潔なる労働に基づいて生活せる足なしの同情すべき老人が、一片の最後のパンをまさに失わんとしつつある事実を思い出していただきたい。立法者の聰明なる一語﹁法廷ニ於テハ懇情ヲ旨トスベシ﹂を思い出していただきたい﹄ってやらかしたですよ。それに、どうでしょう。この人は毎朝この演説を法廷でやったときそのまま、わたしたちに聞かせるんですよ。今日で五度目です。あなたのいらっしゃった時までやっていたんです。それほど気に入っているんですよ。自分がやって自分で感心しているんですからね。それにまた誰だかを弁護しようとしているんです。あなたはムイシュキン公爵のようでございますね? コォリャがあなたのことを言っていましたよ、世界じゅうであなたより賢い人には今まで出会ったことがないって……﹂
﹁ないとも! ないとも! 世界じゅうでこれより賢い人があるものか!﹂とレーベジェフが、すかさずそのことばじりをとって言った。
﹁だが、こいつは嘘だとしましょう。ある者はあなたが好きだし、またある者はあなたに取り入ろうとしているでしょう。だが私はけっして、あなたにおべっかを使おうなんて思いませんからね、これはとくと御承知おき願います。だが、あなたもまんざら分別のないかたじゃございません。ところでぜひ、この人と私を裁いていただきたいのですがね。そら、どうだい、公爵が私たちを裁いてくださろうとおっしゃるんだがな?﹂と彼は叔父に向かって言った。﹁公爵、あなたが都合よく来合わしてくだすったので、たいへん喜んでいますよ﹂
﹁賛成!﹂とレーベジェフはぎょうぎょうしく叫んだが、またつめかけて来た人々を思わずふり返って見た。
﹁あなたがたはいったいどうしたんです!﹂公爵は苦々しい顔をして言った。
彼は本当に頭痛がしてきた、それにレーベジェフが自分をだまそうとしており、事件に遠ざかってゆくのを喜んでいることがだんだんはっきりわかってきた。
﹁まず様子をはっきり述べておきますが、僕はこの人の甥です。この人はしょっちゅう嘘ばかり言っているんですが、これだけは本当のことを言っていますよ。僕は学校は卒業しなかったけれど、卒業したいと思っています、意地にだってこの一念を通すつもりです。しかし、生活のために当分の間二十五ルーブルで鉄道のある仕事をすることにしています。本当のことを言いますと、このほかに二、三度僕に補助してくれました。僕は金を二十ルーブル持っていましたが、カルタですっかり取られてしまいました! 公爵、なんということでしょう、僕はカルタですっかり取られてしまったような、やくざなろくでなしなんですよ﹂
﹁ごろつきにやられたんです、金を払ってやらなくともかまわないごろつきですよ﹂とレーベジェフが叫んだ。
﹁そうだ、ごろつきではあったが、払ってやらなきゃならなかった﹂と若者はことばを続けた。﹁あいつがごろつきだってことは僕が証明するよ。しかし、なにもおまえさんをなぐりつけたからっていうんじゃないよ。公爵、そいつは古手の士官、以前ロゴージンの一党に加わっていた退職中尉です、今は拳闘の教授をしています。ロゴージンに追っ払われてから、今じゃあの連中はみんなぶらぶらしていますよ。何よりもいちばんいけないことは、あいつがごろつきで悪党で、こそ泥だってことを万々承知していながら、あいつを相手にカルタをしたことです。それに最後の一ルーブルまで、賭けようって段になって︵僕らはパルキイをやったんです︶、負けちまえばルキヤン叔父貴のところへ行って泣きつこうと腹の中で考えたことですよ。これは実際下劣なことです、恐ろしく下劣なことです! これは全く意識的な卑屈な根性です!﹂
﹁これは全くひどい意識的な卑屈な根性です!﹂とレーベジェフが同じようにくり返した。
﹁ふう、そう喜びなさんな、ちょっと待って﹂と甥はいまいましげに叫んだ。﹁あいつめ、喜んでいる。公爵、僕はここへ来て、すっかりぶちまけてしまったんですよ。僕ははずかしいような態度はとらなかったんです、僕は自分を容赦しなかったんです。僕はこの男の前でできるだけ自分で自分を罵倒しました。ここにいる者がみな証人です。鉄道の仕事に出るについてはどうしてもなんとか身なりをととのえなきゃなりません。なんたって、こんな襤(ぼ)褸(ろ)ですからね、まあ、この長靴を見てごらんなさいよ! これじゃ仕事になんか出られませんよ、それに決められた時までに行かないと他のやつに仕事を取られちまいますからね。そうなると僕はまた一文なしで、当分の間、他の仕事を捜し回らなくちゃなりません。いまこの男に僕が無心しているのは、たったの十五ルーブルなんですよ。それに、今後はもう絶対に無心もしないし、この借金も三か月以内に一カペイカ残さずきれいに耳をそろえて返すと約束しているんですよ。僕だって約束は守ります。僕だって意地ってものがありますから、二、三か月そこいらぐらいはパンとクワスでやってゆきます。三か月の間には俸給が七十五ルーブルもらえるでしょう。以前の分と合わせて僕が借りる金は三十五ルーブルなんだから、返すのはわけはありませんよ。利息はいくらだって取るがいい、この野郎! この人にゃ僕ってものがわからないのかしらん? 公爵、この人に聞いてみてください、以前僕に都合した金を返さなかったかどうかって? いったいどうして今度はいやなのかといえば、僕があの中尉に払ったのをおもしろく思っていないんです。ほかに理由なんかありゃしないんです! こんな野郎なんですよ、とても手に負えない!﹂
﹁出て行こうともしないんです!﹂とレーベジェフが叫んだ。﹁ここに寝たっきりで出て行かないんです﹂
﹁それだから、僕がそう言ったじゃないかよ、貸してくれるまでは出て行かないって。公爵、何を笑っていらっしゃるんです? おおかた、僕が間違っているって言うんでしょう?﹂
﹁僕は笑ってなんかいませんが、僕には、ほんとのところ、あなたが少々まちがっているような気がします﹂公爵はしかたなくこう答えた。
﹁それじゃ、僕が全然まちがっていると、はっきり言ってください、ごまかしはよしてください。﹃少々﹄とは、なんのことです!﹂
﹁そう言われるんでしたら、全然まちがっています﹂
﹁そう言われるんでしたらって! とんだお笑いぐさですなあ! こんなことをするのは気がひける、それに金はこの男のものだし、意志もこの男のものだ、だから、僕のほうから言えばゆすりみたいなことをしているのだと僕が自分で知らないとでも、お考えなんですかね。しかし、ねえ、公爵、あなたは……世間ってものを知っていられないんですよ。こんなやつらは、うんとたたきこまなければ、何もわからないんです。教えてやらなくてはならんのです。僕の良心はきれいなもんです。僕は良心に誓って、この男に損はかけません。利子を添えて返してやります。この男はまた精神的賠償をうけているんです。なぜってこの男は自分の前で卑下した僕の姿を見ているんですからね。このうえいったい何が入用なんです? この男がどんな役に立ったことをしています、どんな利益をもたらしています? まあ、考えてもごらんなさい、この男がしていることは何ですか? この男が他人にどんな仕打ちをしているか、どんなだまし方をしているか、何で暮らし向きを立てているか聞いてごらんなさいよ。もしこの男があなたをだましたり、今後もどんな風にだまそうかと工夫をめぐらしていなかったら、僕は首を切ってあげますよ! あなたは笑っていますね、本気になさらないのですか?﹂
﹁やっぱり、僕、あなたのおっしゃることが全然あなたの柄に合わないような気がするんですがね!﹂と公爵が言った。
﹁僕はもう三日ここに寝ていますから何もかもよく見ているんです﹂と若者は公爵のことばには耳もかさずこう叫んだ。﹁まあ、どうでしょう、この男は、そら、この天使のような親なし娘の僕の従妹、自分の娘のところに、いい男(ひと)でもやって来はしないかって疑ぐって毎晩監視してるんです! それに、僕のいるところへもこっそりやって来てはこの長椅子の下まで探り始めるんです。疑いのあまり気ちがいにでもなったんでしょう、どこにもここにも、泥棒がいるような気がしているんですね。一晩じゅう、ひっきりなしに飛び起きちゃ窓がよく閉まっているかどうか見たり、戸口の閂(かんぬき)を調べたり、煖炉の中をのぞいて見たりするんです、一晩に七へんくらいずつこんなことをやるんですよ。法廷じゃ、い(ヽ)ん(ヽ)ち(ヽ)き(ヽ)な弁護をやったくせに、夜になると三べんも起きてお祈りをやらかすんですよ。そらこの広間にひざまずいて三十分も額を床にすりつけ、相手かまわず思いつき次第に祈りをあげてやって、思いつき次第のお断わりを読んでやるんです。酔っ払った勢いでやるんでしょうね? また、デュバルリ伯爵夫人の魂の安息を祈ってるのを、僕はちゃんと、この耳で聞いたことがありますよ。コォリャも聞いたんです。全く気ちがいざたですよ!﹂
﹁見てください、聞いてやってください、こいつがわたしに恥をかかしています!﹂とレーベジェフは赤くなって、夢中になって叫んだ。﹁わたしはたぶん、酔っ払いで、ごろつきで、泥棒で悪党には違いござんすまい、しかしですね、人に恥をかかしているこいつをまだ小っちゃな赤ん坊の時分、わたしがお襁(む)褓(つ)でくるんだり盥(たらい)で洗ってやったり、乞食みたいな見すぼらしいやもめ暮らしをしていた妹のアニーシヤの所へ、これもまた乞食みたいな私が行って、毎晩、夜っぴてまんじりともせず、こいつら母子二人のために看病してやり、下の門番のところから薪を盗んで来たり、こいつに歌を唄って聞かせたり、指を鳴らしてみせたり、そんなぐあいにして空き腹をかかえて守(もり)をしてやったものです。それをこいつは忘れやがって、いまこの私をばかにしているのです。それにいつか、おれがデュバルリ伯爵夫人の魂の安息を額をついて祈ったからっておまえにそれが何のかかわりがあるんだ? 公爵、私は四日前にはじめてこの伯爵夫人の伝記を辞典で読んだのです。それじゃ貴様はこの御夫人が、デュバルリがどんなかただか知っていやがるのか? 知っているかどうか言ってみろ!﹂
﹁ふん、そりゃ、そんなことを知っているのはおまえさんきりだろうよ!﹂嘲笑的な態度ではあったが、あまり気のりしない声で青年はこう言った。
﹁このかたは卑しい家から出なすったかただが女王様に代わって政治をなすったような立派なかたなんだぞ。それからなあ、あるお偉い皇后様がこのかたにお送りになった御親(しん)翰(かん)にはma cousine︵私のいとこよ︶って書かれてあるんだぞ。ローマ法皇の使節、カルディナールが御自分のほうから申し出て、レヴェ・デュ・ラアのために︵貴様、このレヴェ・デュ・ラアってのが何だか知ってるかえ?︶このかたの素足に絹の靴下をはかせたということだぞ。しかも使節はそれを非常な名誉と思ってなされたのだぞ。こんな風に気高い御威光のあられるおかたなんだ! 貴様はそれを知っているか? 貴様の面(つら)つきじゃ知っていそうもない! それに、夫人のお亡くなりなすったときの様子を知ってるか? 知ってるなら答えてみろ!﹂
﹁引っこんでろ! うるさい!﹂
﹁おかくれなすったのはこうなんだ。こうした名誉なことのあったあとで、一時は一国の政治までなすったこのおかたを何の罪もないのに、ただパリの弥(やじ)次(う)馬(ま)の気晴らしのためにサムソンという死刑執行人がギロチンに引っぱり出したんだ。このおかたは恐怖のあまり御自分がどうなっているのかもわからない。夫人は死刑執行人が自分の頸をつかまえて刃の方に押しながら足蹴りにしているのに気づかれると——これを見て他の見物人はどっと笑ったのだぞ—— Encore un moment, monsieur le bourreau, encore un moment!と叫ばれたんだ。つまり、このことばの意味は、﹃もう一分間お待ちください、首切りさん、ほんの一分間だけ!﹄というんだ。それはこの一分間の間に神様が御夫人を許してくださるからだぞ、なぜって人間の魂をそれ以上も残酷な目にあわせるなんて想像もできないことじゃないか。貴様は残酷ってことばの意味を知っているか? うん、こんな事こそ残酷というものなんだぞ。このもう一分間って言う夫人の叫びを本で読んだ時、おれの心臓はまるで火(ひば)箸(し)でさされたような気がした。それなのに、やい、蛆(うじ)虫(むし)め、おれが夜、寝しなにこのおかた、この御立派な罪びとのことをお祈りをしたからって、それが貴様になんのかかりあいがあるんだ。それにおれがこのおかたのためお祈りしたのはなあ、おそらく今日までこのおかたのために誰ひとり十字を切った人間がないからなんだぞ。それに誰ひとりこんなことを考えてみたこともないだろう。あの世にいられる御夫人も、御自分と同じような罪びとが、ほんの一度だけでも自分のために地べたにぬかずいてお祈りしてくれたと知られたら、うれしく思ってくださるに違いないぞ。貴様、何を笑っていやがるんだ? 貴様にゃ信じられないんだな、不信仰ものめ。貴様にわかってたまるもんか! それに本当にぬすみ聞きしたのなら、貴様は嘘をついている。おれはな、デュバルリ伯爵夫人ひとりのためにお祈りをあげたんじゃないんだ、﹃気高き罪びと、デュバルリ伯爵夫人と、それに同じきあまたの罪びとの魂に安息を垂れたまえ﹄と言ってお祈りしたんだぞ。これとあれじゃ、すっかり事情が違うからなあ。なぜって、そんな風なえらい罪びとや、運命の手ひどい変化に会った人や、不幸に苦しみぬいてきた人などが数多くあの世で、いまうめいたりして安息を待ちのぞんでいるんだぞ。それに貴様は、おれがお祈りをしている時に、ぬすみ聞きしたのなら、おれは貴様にも貴様と同じようなろくでなしのためにも、また……﹂
﹁もうたくさんだ、結構だ、誰だろうと好きなやつのために祈るがいいや、この野郎、大きな声を立てやがって!﹂と甥はいまいましそうにさえぎった。﹁この男はわれわれの中じゃいちばんの物知りなんですよ、公爵、あなた、御存じなかったんですかい?﹂となんだかぎごちない冷笑を浮かべて言い添えた。﹁今でもしょっちゅう、いろんな本や記録を読んでいますよ﹂
﹁あなたの叔(お)父(じ)さんはけっして……思いやりのない人じゃありませんよ﹂と公爵は気のないような調子でこう言った。
公爵にはこの青年が非常にいやらしくなってきた。
﹁あなたは、なんだか家のこの男をいやに褒(ほ)めますね! よござんすか、こいつはねえ、胸に手を当てて口を一文字に結んでいるが、すぐに欲望が頭をもたげてくるんですよ。おそらく思いやりのない男じゃないでしょう、しかしぺてん師でしょうなあ、それが遺憾ですよ。それに飲んだくれでしてね、もう幾年も酒をくらっているやつにはよくあるんですが、この男もからだじゅうの螺(ね)旋(じ)がゆるんじまって、そのためどこもかしこも、ぎいぎい軋(きし)っている始末ですよ。この人は亡くなった叔母を本当に尊敬していたらしいんですが……僕までも愛してくれましてね、それにちゃんと遺言状に、本当です、僕に財産の一部を譲ると言っていますよ﹂
﹁な、なにを譲るもんか!﹂とレーベジェフはものすごい調子で叫んだ。
﹁いいですか、レーベジェフ﹂公爵は青年から顔をそらして、心に固く決するところがあるように言いだした。﹁僕は経験して知っていますが、あなたは実際的な人間です、ただその気になりさえすれば……僕はいま非常に忙しいのです、それで、もしあなたが……失礼ですが、あなたの名と父称はなんと言いますか? 僕、忘れたもんで﹂
﹁チ、チ、チモフェイ﹂
﹁そして?﹂
﹁ルキヤノヴィッチ﹂
部屋にいたものたちが、また大きな声で笑いだした。
﹁嘘つけ!﹂と甥がどなった。﹁また嘘つきやがった、——公爵、この男はけっしてチモフェイ・ルキヤノヴィッチというんじゃありません、ルキヤン・チモフェーヴィッチですよ。ふん、なんだっておまえは嘘をつくんだい? おい、ルキヤンだろうがチモフェイだろうが、おまえにはどっちだっていいじゃないかよ? そんなことをしたって、公爵になんのかかりあいもないじゃないか。嘘をつくのが、もうすっかり習慣になっているんですよ、ねえ、ほんとですよ!﹂
﹁いったい、本当なんですか?﹂たまらなくなって公爵はこう尋ねた。
﹁ルキヤン・チモフェーヴィッチです、ほんとのところ﹂とレーベジェフは本当のことを言って、きまり悪そうにして、おとなしく眼を伏せて再び手を胸の上に置いた。
﹁ほんとにあなたはなんだってそんなことを言うのです、なんてくだらないことを言う人でしょう!﹂
﹁自分を卑下しようと考えましたもので﹂だんだんおとなしく頭をたれながらレーベジェフがつぶやいた。
﹁ええ、いったいそれでどんな卑下ができようっていうのです! 僕はただコォリャがどこにいるか、ただもうそれがわかれば!﹂と公爵は言って、くるりと後ろ向きになると、そのまま出て行きそうにした。
﹁コォリャがどこにいるか、僕が教えてあげましょう﹂と青年が口を出した。
﹁と、と、とんでもない!﹂と言ってレーベジェフは飛び上がって急にあわてだした。
﹁コォリャは昨晩ここに泊ったんですが、朝になると、親父の将軍を捜しに出かけましたよ。公爵、いったいなんだって金なんか出して将軍を﹃監獄﹄からもらい下げたんです。将軍は昨晩ここに泊りに来ると言っていたのに、やって来ないんです。きっとここからたいして遠くない﹃は(ウ)か(エ)り(ス)や(イ)﹄って宿屋に泊ったんでしょう。だから、コォリャはそこか、パヴロフスクのエパンチン家ですよ。あいつ少々ばかり金を持っていましたから、ゆうべも行きたいって言いましたよ。だから、どうしても﹃は(ウ)か(エ)り(ス)や(イ)﹄でなければパヴロフスクですな﹂
﹁パヴロフスクですよ、パヴロフスクですよ!……だが一つ、われわれはあちらの庭へ行って……コーヒーでもやろうじゃありませんか﹂
こう言ってレーベジェフは公爵の手をとって誘いだした。二人は部屋を出て、小さなあき地を通って耳門の中へはいった。そこにはいたってささやかな可愛い庭があって、快晴続きのために、木立がもうすっかり青葉を見せていた。レーベジェフは地面に打ちこまれた緑色のテーブルに向かった緑色の木のベンチに公爵をかけさせた。レーベジェフはその向かいに席をとった。まもなくコーヒーも本当に運ばれて来た。公爵は辞退もしなかった。レーベジェフは卑屈な表情を浮かべてじっとむさぼるように公爵の眼の色をうかがっていた。
﹁あなたがこんな世帯を持っているとは僕は思いもかけなかったんですよ﹂公爵は全く他のことを考えている人のような調子でこう言った。
﹁み、みなし児が﹂とレーベジェフはからだを反らせながら言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。公爵はぼんやりと自分の前のほうを眺めたが、もちろんもう自分が今し方、尋ねたことを忘れていた。また一分ほどたった。レーベジェフはやはりじっと公爵を見つめながら待っていた。
﹁ええと、なんでしたっけ?﹂ふいに気づいたように公爵はこう言った。﹁ああ、そうだ! ねえ、レーベジェフさん、あなたは僕の用件がなんだかよくわかっているでしょう。僕はあなたの手紙でやって来たんですよ。話してください﹂
レーベジェフはどぎまぎして何か言いそうにしたが、ちょっとどもるような声を出しただけで、ことばはひと言も出なかった。公爵はしばらく待っていたが、そのあとで愁わしげにほほえみをもらした。
﹁ルキヤン・チモフェーヴィッチさん、僕にはあなたの気持がよくわかるような気がします。きっと僕が来ようなどとは思いがけなかったでしょう。一度ぐらい知らせたってあんな辺(へん)鄙(ぴ)なところから僕がのこのこ出向いて来るなどとは考えなかったでしょう。そして良心に対する言いわけのために手紙をくれたのでしょう。ところが、僕はこのとおりやって来ましたよ。さあ、もうたくさんですよ、だますのはおよしなさい。二君に仕えるのはもうたくさんですよ。ロゴージンがこの土地へ来て二週間になるってことは、僕も知っています。あなたはこの前のときのようにあのひとをロゴージンに売ったんですか、そうじゃないんですか? 本当のことを言ってください﹂
﹁あのごろつきめが自分で捜し出したんです、自分で﹂
﹁あの人の悪口はおよしなさい。そりゃ、もちろん、あの人もあなたに対してよくないことはしたでしょうが……﹂
﹁どやしつけやがったんです、どやしつけたんです!﹂と恐ろしく興奮してレーベジェフは公爵のことばじりをついだ。﹁モスクワじゅうの街という街には至る所に犬を放しやがったんです。牝の猟犬を。ものすごい犬でしたよ﹂
﹁レーベジェフさん、あなたは僕を子供扱いにするんですね。あのひとは今度もロゴージンをモスクワで棄てたんですね? まじめに話してください﹂
﹁まじめですよ、まじめですよ、やっぱり婚礼のまぎわだったんです。こっちじゃ一刻も早くと待ちかねているのに、あのひとはこのペテルブルグに、わたしの所にまっすぐにやって来たんです。﹃助けてちょうだい、かくまってください、ルキヤン。公爵にも言わないで﹄とこうおっしゃるもんで。公爵、あの人はあの男よりもあなたのほうをずっと恐れていますよ。それにここが……実にすばらしいひとでしてねえ!﹂
こう言って、レーベジェフはずるそうな様子をして指を額に当てて見せた。
﹁で、あなたは今度もまた二人を引き合わせたんですね?﹂
﹁公爵様、どうして……どうしてそうせずにいられますか!﹂
﹁いや、もうたくさんです、僕は自分ですべてのことを捜し出します、しかし、ただこれだけは言ってください、あのひとは今どこにいます? あの男の所にですか?﹂
﹁お、どういたしまして、いいや、いいや、あのひとはまだひとり身でいられます。わたしは自由だってあのひとはおっしゃっているんですよ、公爵、本当にあのひとはわたしは全く自由の身だって、しきりと言っていられるんですよ。手紙でお知らせしたとおり、ペテルブルグ区のうちの女房の妹ん所にいらっしゃいますよ﹂
﹁今でもそこですか?﹂
﹁そこでございます。そこにいらっしゃらないとしますと、こう天気がいいから、パヴロフスクのダーリヤ・アレクセーヴナの別荘でございましょう。あのひとは、わたしは全く自由だって申されるんでございますよ。きのうもまたニコライ・アルダリオノヴィッチをつかまえて御自分の自由なことをずいぶん御自慢なすっていられました。なんだか起こりそうな前兆ですよ!﹂
こう言ってレーベジェフは変な笑いを浮かべた。
﹁コォリャはよくあのひとのところに行くんですか?﹂
﹁どうも軽はずみで口の軽い、秘密の守れない人です﹂
﹁あなたはそこへ長らく行かないんですか?﹂
﹁毎日行きます、毎日﹂
﹁じゃ、昨日も行ったんですね!﹂
﹁い、いえ、先おとついです﹂
﹁レーベジェフさん、あなたは少しきこしめしているから、どうも残念ですね! でなければ、あなたにお尋ねしたいことがあるんですけれども﹂
﹁ちょっ、ちょっ、ちょっとも、これっぱかしもそんなことは!﹂
こう言ってレーベジェフは反り身になった。
﹁どうしてあのひとを見すてて来たんですか?﹂
﹁あなたが別れてくるとき、あの人はどんな様子でしたか聞かしてください﹂
﹁さ、さがしてる風で……﹂
﹁捜すって?﹂
﹁いつも何か捜していられるようなんです、何かなくなったという様子で。結婚が間近に迫っているって考えるだけでも気持が悪くなって腹が立つらしいのです。あの男なんか蜜(みか)柑(ん)の皮ぐらいにしか思っていられんのです、ほんとに、それっきりのことですよ。いや、それっきりじゃない、恐ろしい恐ろしいという気はなかなか強うござんして、あの男の話をすることは禁ぜられています、どうしてもこうしても避けるわけにゃいかんという場合には、まあ話すこともありますがね……それにあの男もこれによくよく気がついています! 一騒動は免れんですよ……落ち着きのない、人をばかにしたような、二枚舌を使う、人に突っかかって行くような女ですからね……﹂
﹁二枚舌を使って飛びかかって行く女ですって?﹂
﹁突っかかって行くんですよ、この間もある話のことから危うくわたしの髪の毛を引っつかまないばかりのけんまくでしたよ。わたしは黙示録を読んで、なんとかその場をつくろいましたがね﹂
﹁なんでしたっけ?﹂聞き違えたと思って公爵はこう聞き返した。
﹁黙示録を読んだんですよ。あの御婦人は落ち着きのないことを空想するかたでしてね、へ、へ! それにまじめなわけあいのことなら、御自分に関係のないことにだってずいぶん熱心になられるってことは、ちゃんとこの眼で見ましたよ。好きなんですねえ、好きなんですよ、そして御自分じゃそれをずいぶん偉いもののように考えておられます。全くです。わたしも黙示録の講義にかけちゃ相当なもので、十五年も講義していますよ。われわれ人間ってものは第三の生物たる黒馬と、その上に秤(はかり)を持ってまたがった騎者といっしょに生活しているのですと、わたしが申しますと、あのひともこれに賛成してくれましてね。なぜって現代の世の中では、いっさいのものが秤と取引とで持ちきり、人間という人間がただもう権利を要求するのに血(ちま)眼(なこ)ではございませんか。﹃一ディナーリィ︹古ローマの銀貨︺に小麦一升、一ディナーリィに大麦三升﹄ってわけですよ……おまけに自由の精神だの、純潔な真心だの、健康な肉体だの、神様のありったけの賜物を保存しておこうっていうのだからたいへんなんですよ。しかし権利ばかりで、それをしまっておくわけにはいきませんので、そのあとからその名を死という青ざめた馬がやってくる、またそのあとから地獄……まあ、とにかくこんな風のことに意見が一致したのです、それに——かなりききめがありましたよ﹂
﹁あなた、自分でそう信じているんですか?﹂いぶかしげな眼をしてレーベジェフを見ながら公爵はこう尋ねた。
﹁信じていますからこそ講義もするのです。なぜって、わたしは無一物で赤裸で、人間輪(りん)廻(ね)の一元素にすぎないですからね。それに誰がレーベジェフなどを尊敬してくれますかい? どいつもこいつもわたしにきつくあたり、この男を足(あし)蹴(げ)にしかねないのです。だが、この講義によりますと、わたしも貴族も同じものです。なぜって知恵のおかげです! それにある貴族は叡智でもってそれを感じ……長椅子の上にかけられたまま震えだされたってことです。わたしが、まだ役所に勤めておりましたころ、あのニール・アレクセーヴィッチ閣下は三年前の復活祭の前週にわたしのことをお聞きになって、ピョートル・ザハリッチを通じて、当直室からわざわざ御自分の書斎にお呼びになって、二人きりになったとき差し向かいで﹃おまえは反キリストの教授だっていうが本当のことか?﹄とこう問われました。それで私はかくし立てもせずに﹃いかにもさようでございます﹄とお答え申し、事細かに子細を申し述べ、臆しもせずに意見を披(ひれ)瀝(き)しました、またそのうえわざわざ諷刺画の巻物や数字まで出して見せたものです。すると閣下はほほえんで聞いておられましたが、諷刺画やなんかをごらんになると、身震いされて、もう本を閉じてあっちへ行けと申されましたよ。そして復活祭週間には私に褒美をやるって申されてはいましたが、そのすぐ前に魂を神様に返してしまわれました﹂
﹁レーベジェフ、あなた何を言っているんです?﹂
﹁ありのままをでございます。御飯をいただかれたそのあとで幌馬車からおっこちなされて……踏み台でこ(ヽ)め(ヽ)か(ヽ)み(ヽ)を打たれて、そのまま子供のように、まるで子供のように、おかくれなすったんです。履歴書によりますと、このかたは七十三歳としてありますが、赤ら顔をされ、白髪で、からだじゅうに香水をふりまかれていらっしゃって、いつも微笑なされて、もうまるで子供みたいなかたでした。その当時、ピョートル・ザハリッチが思い出されては﹃おまえの予言のとおりじゃった﹄とよく言われていたものでしたよ﹂
公爵は立ち上がろうとした。レーベジェフは公爵が立ち上がっているのを見ると、驚いてあわて始めた。
﹁ばかに冷淡におなんなさいましたね、へ、へ!﹂と彼はあてつけらしく卑屈な調子で言った。
﹁本当に、僕、なんだかからだが変なんです。頭が重くって、旅の疲れかもしれませんが﹂公爵は渋い顔をしてこう答えた。
﹁別荘にでもいらしってはいかがでしょう?﹂とレーベジェフはおずおずと遠まわしにこう言った。
公爵はじっと考えこんだままたたずんでいた。
﹁その、私も三日ばかりたったら、家の者みんなをつれて別荘へ行こうと思っています。今度生まれた雛っ子のからだのためにもいいし、その間にこの家の手入れもできますから。私の別荘もやっぱりパヴロフスクにあるんですよ﹂
﹁あなたもやはりパヴロフスクへ?﹂と公爵はいきなり尋ねた。﹁いったいそれはどうしたんです、ここの人はみんなパヴロフスクへ行くんですか? それに、あなたも今言っていられましたね、御自分の別荘があるって?﹂
﹁みんながみんなパヴロフスクへ行くのじゃござんせんが、イワン・ペトローヴィッチ・プチーツィンが安い値段で手に入れた別荘の中の一つを私に譲ってくださいましたんで。それにあすこは気持のいいところですよ、高台にあって青葉につつまれ、物価は安くって、土地柄は上品で音楽的です、だもんですから誰も彼もパヴロフスクへと押しかけるんです。もっとも、私は離れのほうにはいって、別荘の母屋のほうは……﹂
﹁貸したんですか?﹂
﹁い、いいえ、全く貸して……しまったってわけじゃございません﹂
﹁僕に貸してください﹂突然、公爵はこう申し出た。
レーベジェフはただこれを目あてにして、こうしたほのめかすような態度に出たものらしい。この考えは三分ばかり前にちらと彼の頭の中に浮かんだものである。しかし、彼はどうしても借り手を求めなければならないというわけではなかった。もうすでに別荘を借りうけようという人がいて、﹁おそらく﹂別荘を借りるだろうと通知をよこしていたのである。レーベジェフは﹁おそらく﹂ではなく、きっと借りるだろうと確信していた。ところが今、以前の貸借希望者との約束がまだはっきり決まっているわけでないのを利用して、自分の計算から見て、非常に利益があると思われる公爵に別荘を貸してしまおうという考えがふと浮かんだのである。﹃いろんな衝突や局面展開があるぞ﹄と彼は心の中にふと想像してみた。公爵の申込みを彼は有頂天にならんばかりに喜んで承諾し、家賃に関する公爵のあけすけな問いには両手を振って耳もかさなかった。
﹁いや、それはもうあなたのお好きなように。私がすることです、けっして御損をかけるようなことはいたしません﹂
二人はもう庭を出かかっていた。
﹁私はあなたに……私はあなたに……お望みでしたら、公爵様、あなたに非常に興味のあることをお知らせ申しますが、あの一件に関することでございますが﹂うれしさに堪えかねて公爵の傍に身を擦り寄せるようにして、レーベジェフはささやいた。
公爵は立ち止まった。
﹁ダーリヤ・アレクセーヴナもパヴロフスクに別荘をもっておられますよ﹂
﹁で?﹂
﹁例のあのかたがこのひとと親友なのですから、どうやら、しょっちゅうパヴロフスクにいらっしゃる考えらしいですよ。何か目的があって﹂
﹁それで?﹂
﹁アグラーヤ・イワーノヴナさんは……﹂
﹁おお、もうたくさんです、レーベジェフさん!﹂公爵はまるで痛いところへさわられたように、不快な気持をあらわしてこうさえぎった。﹁そんなことはみんな……違っています。それよりか、いつ引越しするのです? 僕は少しでも早いほうがいいんです。なにしろ旅館に泊っているんですからね……﹂
話を交えながら、二人は庭を出て部屋にははいらずに、小さなあき地を横切って耳門に近づいた。
﹁じゃ、こうなすったほうがいいでしょう﹂ついにレーベジェフが考えついた、﹁あなたは今日すぐに宿屋からここに引き移っていらっしゃい、そうすれば明後日、私たちはいっしょにパヴロフスクにまいります﹂
﹁まあ、考えときましょう﹂公爵はちょっと考え込みながらこう言って、そのまま門から出て行った。
レーベジェフは公爵の後ろ姿を見送った。公爵が急に気が抜けたようになったのに驚いた。公爵は立ち去るにあたって﹃さよなら﹄を言うことも忘れ、首を振って会釈することさえしなかったので、公爵が日ごろ丁寧で注意深いことを知っているだけに、レーベジェフには不思議なことに思われた。
︵つづく︶