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第二編
三
もう十一時をまわっていた。今はもう市内のエパンチン家へ出向いたところで、ただ仕事に忙殺されている将軍に会えるだけで、それさえどうやら疑わしいということは公爵もよく知っていた。また、将軍ならたぶんすぐに自分に会ってくれて、パヴロフスクにつれて行ってくれるだろうとも考えたが、それまでにぜひ訪れたいと思っていた家が一軒あった。エパンチン家を訪問するのがおくれて、パヴロフスクに行くのが明日になってもしかたないというつもりで、公爵は行ってみたくなったある一軒の家を捜し出そうと決心した。
もっとも、この訪問は彼にとっては危険を帯びたものであったので、決心がつかずにしばらく躊(ちゅ)躇(うちょ)した。この家については、ただサドーワヤ通りからほど遠からぬゴロホーワヤ通りにあるということを知っているだけであった。それで彼はその近くまで行けば、結局、なんとかはっきりした決心がつくであろうと思って、そのほうに向かって歩きだした。
ゴロホーワヤ通りとサドーワヤ通りの交叉点に近づいたとき、彼は非常に高まって来た胸の鼓動に自分ながらも驚いた。彼は心臓がこんなにはげしく打ち出そうとは思いもかけなかったのである。たぶん、ひときわ変わった外形のせいであろう、まだ遠くのほうから、一軒の家が注意をひき始めた。このことを公爵は後になってから思い出して、﹃これがきっと、その家に違いない﹄とひとり言のように言った。そして自分の予想が当たったかどうか確かめるため、なみなみならぬ強い好奇心をいだいて近づいて行った。彼は自分の予想が的中していたら、なぜか知らないが非常にいやな気持を覚えるであろうという気がした。この家は陰鬱な感じのする大きな三階建てで、いっさいの装飾というものがなく、一面くろずんだ緑色に塗られてあった。もっとも、前世紀の終りごろに建てられた、この種の家の数はあまり多くはなかったが、まだ何軒かはほとんど昔の姿を変えずにそのままペテルブルグの︵変遷のはげしい︶こうした街々に残っていた。これらの家の建て方は堅固なもので、壁は厚く、窓はきわめて少なく、一階の窓は時とすると格(こう)子(し)がはまっていた。それにいちばん下の階にはたいてい両替屋が住んでいて、その上には両替屋の世話になっているスコペッツ︹去勢禁欲をむねとする一派の人々︺が借りていた。外から見ても、内から見ても、なんだか荒(こう)寥(りょう)とした感じで、少しも潤いがなく、いっさいのものがなんだか姿を隠そうとしているような気がした。ただ家の外形を見ただけで、なぜそんな気がするのか、それは説明が困難である。もちろん、建築上の線の配合が独自の秘密を持っているからであろう。こうした家々に住んでいるのはもっぱら商人であった。門に近よって門標を見た公爵は、﹃世襲名誉市民ロゴージンの家﹄と読んだ。
胸の動悸を押ししずめて、ガラス戸をあけた。戸は彼の背後で騒がしい音を立ててぱたりと閉まった。彼は正面の階段を二階へ昇って行った。階段は暗く粗雑に石で組み立てられ、両側の壁は赤い染料で塗ってあった。ロゴージンは母と弟といっしょにこの人気のない、ひっそりした家の二階を全部使って暮らしていることを公爵は以前から知っていた。公爵のために扉を開いた下僕は取次ぎをせず、すぐそのまま先に立って、長いこと彼を導いて行った。二人は、壁は﹃大理石に似せて﹄塗られ、床は樫(かし)の嵌(はめ)木(きざ)細(い)工(く)になっており、二十年代風の荒削りな重そうな家具の配置されてあるものものしい客間を通り抜け、それから曲がりくねりながら小さな何とも知れない部屋を過ぎて、二段か三段の階段を幾たびか上がったりおりたりして、最後にある部屋の戸をたたいた。戸を開いたのはパルフェン・セミョーヌヴィッチその人であった。公爵の姿を眼にとめると彼はまっさおになって、その場に棒のようにたたずんだ。じっと身動きもせず、びっくりしたように視線をこらし、何かしら極度の疑惑にとらわれたように口もとをゆがめて微笑し、石の彫像のようにしばらくたたずんでいた。——まるで、公爵がたずねて来ようなどとは全く不可能なことであり、ほとんど奇跡といってもいいことだと思っているような様子であった。公爵はこれに類したことを何かしら前もって心の中に考えてはいたが、あまりに意外なこの様子には驚いた。
﹁パルフェン、僕はもしか悪い時に来たんじゃないかしら、僕帰るよ﹂と公爵はおどおどしながら、ついにこう言った。
﹁ちょうど好い時だ! ちょうどいいんだ﹂パルフェンは、はじめてわれに返ってこう言った。
二人はおれ、おまえと打ちとけたことばで語り合った。二人はモスクワではしばしば出会って、ときには長いこと語り合って、お互いの胸と胸の中に忘れることのできない印象を深く刻みこまれた瞬間も幾たびかあった。しかし、今はもう三か月以上も相会うことがなかったのである。
青白い顔の色と、あたかも細かく走るように起こる痙(けい)攣(れん)は、まだロゴージンの顔から消え去らなかった。彼は客を招き入れはしたが、激しく混乱した気持はまだ収まってはいなかった。彼が公爵を安楽椅子に導き、テーブルに向かってかけさせようとした時、こちらはなにげなく彼を見返って、なみなみならぬ奇妙な重苦しい視線に出会い胸をつかれてたたずんだ。何かしらあるものが公爵の胸を突き刺したかのようであったが、それと同時にまた何かしらあることが公爵の胸に思い浮かんだようであった。——それはさっきの重苦しい陰鬱な印象である。坐ろうともせずにじっと立ったまま、彼はしばらくの間ロゴージンの眼を食い入るように見つめていた。その両眼は最初の一瞬にひとしおはげしく輝いていたようであった。ついに、ロゴージンはほほえみを漏らした。しかし、まだいくぶん狼狽のあとが残っていて、なんだか落ち着かないような様子であった。
﹁なんだっておまえは、そんなにじろじろと見るんだい?﹂と、彼はつぶやいた。﹁掛けろよ!﹂
公爵は腰をおろした。
﹁パルフェン﹂と、彼は口を切った。﹁君、すなおな気持で言ってくれたまえ、僕が今日ペテルブルグに来ることを君は知っていたんだろう、そうだろう?﹂
﹁おまえが来るだろうとは考えていたさ、どうだい、間違いっこなかったろう﹂と、相手は毒々しい笑いを浮かべながら付け足した。﹁だが、おまえが今日来るってことが、どうしてわかるものか?﹂
この答えの中に含まれた鋭い発作的な調子と変にいらいらした疑問の調子は公爵をひとしお驚かした。
﹁だが、今日だと知っていたにしろ、なにもそんなに怒ることはないじゃないか?﹂公爵はどぎまぎしてこうつぶやいた。
﹁じゃ、おまえはなんだってあんなことを聞いたりなんぞするんだい?﹂
﹁さっき、汽車から降りたとき、今、君が後ろから僕を見ていた眼そっくりの二つの眼を見たんだよ﹂
﹁へえ! 誰のだろう、その眼ってのは?﹂と、ロゴージンはうさんくさそうにこう聞いた。公爵はロゴージンがこの時ぶるぶると身震いしたように思った。
﹁しかし、どうだかわからないよ。人ごみの中だったから。僕はただぼんやりとそんな気がしたのかもしれないよ。僕はなんだかよくぼんやりした気持になるんでね。ねえ、パルフェン、僕はね、このごろ発作の起こっていた五年前によくあったとほとんど同じような気持になるんだよ﹂
﹁なんだい、じゃ、ぼんやり、そんな気がしただけかもしれないな、おれは知らんよ……﹂と、パルフェンはつぶやいた。
彼は愛想のいいほほえみを浮かべたが、そのほほえみにはなんだかこわれたようなところがあって、パルフェンがどんなに一生懸命になって苦心しても貼り合わすことができないもののように、この場合の彼には全く似てもつかないものであった。
﹁どうだい、また外国に行くんじゃないか?﹂と、彼は尋ねたが、不意にまた付け足した。﹁おまえ覚えているかい。去年の秋、二人がいっしょにプスコフから汽車に乗って来たことを。おれはここに来るし、おまえは……マントにくるまって、ゲートルをはいていたっけな?﹂
こう言ってロゴージンは不意に笑いだしたが、今度はある憎悪の念をむき出しにして、あたかもそれをやっとのことで表に現わすことができたのを喜んでいるような様子であった。
﹁君はここにすっかり腰を据えることにしたんだね?﹂公爵は書斎を見まわしながらこうたずねた。
﹁うん、おれは自分の家にいるよ。ほかにおれのいるところがどこにあるんだ?﹂
﹁二人は長いこと会わなかったんだねえ。君のことについちゃ、まさか君がとは思えそうもないような噂をいろいろと聞いたよ﹂
﹁噂なんていろいろたつものさ﹂と、ロゴージンはぶっきらぼうにこう答えた。
﹁しかし、一党の連中を追っ払って、こうして親御さんの家に引きこもってるんだから、いたずらもできないね。だが、それも結構だよ。この家ってのは君のもの、それとも君たち共同のものなの?﹂
﹁おっ母さんの家だよ。廊下を越してこっちにいるよ、おっ母さんは﹂
﹁君の弟さんはどこにいるの?﹂
﹁弟のセミョーン・セミョーヌヴィッチは離れにいる﹂
﹁家族はあるの?﹂
﹁独身だ。おまえはなんの必要あってそんなことを聞くんだい?﹂
公爵はちらりと彼を眺めたが、何も答えなかった。彼は突然、考え込んでしまって相手の問いも聞こえないようであった。ロゴージンはそれ以上、問いただそうとはせずに、公爵の様子をうかがっていた。しばらく沈黙が続いた。
﹁僕はここに来る途中、百歩も向こうから君の家がわかったよ﹂と公爵が言いだした。
﹁どうしてそんなことが?﹂
﹁僕もさっぱりわからないんだよ。君の家が君の家族全体とロゴージン家の生活全体の外貌を持っているんだ。なぜそんな結論が下せるかって尋ねられても、僕にはなんとも説明ができないんだ。むろんこれはたわごとさ。僕はこんなことに自分が気をつかうなんて恐ろしいくらいだよ。以前は、君がこんな家に住んでいるなんて考えもしなかった、ところがこの家を見るとすぐに﹃あの男の家はこんなのに違いない!﹄と思ったんだよ﹂
﹁ちぇっ!﹂と言って公爵の漠然とした考えが少しも納得できなかったので、ロゴージンは当惑したような微笑を浮かべた。﹁この家は祖父の時代に建てたものだ﹂と彼は言った。﹁いつもスコペッツのフルジャーコフの一家が住んでいたんだ。それに今だって間借りしてるよ﹂
﹁なんて暗いんだろうねえ。君も陰気な様子をしているよ﹂公爵は書斎を見まわしてこう言った。
それは天井の高い薄暗い大きな部屋で、さまざまな家具類がごたごたと、あたり一面に並べてあった。大部分は大形の事務用のテーブルや仕事机や事務用の書箱や何かしら書類などのはいった戸棚であった。幅の広い赤いモロッコ革の長椅子は明らかにロゴージンの寝台に使われているものらしかった。公爵はロゴージンにすすめられて腰をおろした椅子の向かいのテーブルの上に二、三冊の本が置いてあるのに気がついた。その一冊はソロヴィヨフの歴史で、広げられた個所に栞(しおり)がはさんであった。周囲の壁にはくすんだ金縁の額の中に黒くすすけた油絵が幾つか掛かっていたが、その絵の形を見分けるのはきわめて困難であった。しかし、その中で全身の肖像画が一点、公爵の注意をひいた。肖像の主は五十歳ばかりの男で、ドイツ風のではあるが、裾の長い燕尾服を着こんで、首にはメダルを二つぶら下げ、白髪まじりの短い頤(あご)鬚(ひげ)を生やし、顔は黄色くて皺が多く、疑り深そうな秘密をつつんだ眼はもの悲しく光っていた。
﹁これは君のお父さんじゃないかね?﹂と、公爵は尋ねた。
﹁そうなんだ﹂亡くなった父親についてすぐさま、何か無遠慮な冗談を口に出してやろうといった態度で、ロゴージンは不愉快な微笑を浮かべた。
﹁この人は旧教派じゃなかったのかね?﹂
﹁いいや、教会へ通っていたよ。実際には旧教派のほうが正しいとは言っていたがね。スコペッツ派もずいぶん尊敬していたよ。これは親父の書斎だったんだ。君、なんだってそんなことを聞くんだい、旧教派なのかい?﹂
﹁結婚はここでするつもり?﹂
﹁こ、ここさ﹂思いがけぬ質問にロゴージンは身震いせんばかりになってこう答えた。
﹁もう近々?﹂
﹁自分で知っているじゃないか、おれの一存でいくことじゃあるまいし﹂
﹁パルフェン、僕は君の敵じゃないから、何も君を邪魔しようとは思っていないよ。このことは以前ほとんどこれと同じような場合に一度はっきり言っておいたことだが、今またここでくり返して言っとくよ。モスクワで君の結婚の話が進んでいるとき、僕は何も邪魔などしなかったのは君も知っているじゃないか。最初あのひとは結婚のせとぎわになって、君から﹃救ってくれ﹄と言って僕の所に飛び込んできたんだ。僕はあのひとの言ったことばをそのままくり返しているんだよ、いいかね。そのあとで僕の所から逃げ出し、それからまた君が捜し出し結婚の話を進めていったんだろう、ところがまたしても君の所から逃げ出してここに来ているって言うことじゃないかね。こりゃ本当のことなんだね? レーベジェフが僕に知らせて寄越したんで、やって来たわけだがね。しかしここで君らの話はまたうまくいっているんだってねえ、これはつい昨(きの)日(う)、汽車の中で君の以前の友だちからはじめて聞いて知ったわけなんだよ。よけりゃ言うがね、ザリョージェフから聞いたのさ。僕がここに来たことについちゃ考えていることがあったからなんだよ。それってのはねえ、僕はどうしてもあのひとを説き伏せて保養のために外国へ行くようにしようと思ったのさ。あのひとはからだも精神も、とりわけ頭がとても乱れているからねえ。それで僕の考えでは、あのひとを非常に親切に介抱してやらなければならないと思うんだよ。僕は自分があのひとを外国につれて行こうなどとは思っていないよ、万事は僕が表に立たずに進めたいと思っている。僕は君に心の中から本当のことを言っているんだよ。もし君らの間がまたうまく運んでいるってのがすっかり本当のことなら、僕はあのひとの前に出やしない、また君の所にも今後けっして来やしないよ。君自身でよく知っているはずじゃないかね、僕はいつだって君に対して隠しだてなんかしないんだから、君をだますようなことはないって。この件について僕の考えていることを君に隠しだてなんかしやしないのだから、しょっちゅう言っているだろう、君といっしょになるのはあの人の破滅だって。君にとってもまた破滅なんだよ……もしかすると、あの人よりもっとひどいかもしれないんだ。もしまた君たちが別れるようになったら、僕はとてもうれしいんだ。しかし、君たちの話に邪魔を入れようの、掻き乱してやろうの、そんなことは毛頭考えてはいないんだよ。安心して、僕を疑うのはよしたまえ。それに君は、自分でよく知っているじゃないかね。僕はいつだって君の本当の競争相手になったことがあるかね、あのひとが僕の所へ逃げて来たときでさえ。おや、今君は笑ったね? なんで笑ったか知っているよ。それにあのとき二人は別々な町に別れて暮らしたんだ、そのことは君がはっきりしているはずだ。以前に君によく説明していたとおり、僕はあのひとを﹃恋で愛しているんじゃなくて憐(れん)憫(びん)の情から愛している﹄んだよ。僕はこのことばが実に適切に言い現わしていると思うんだ。あのとき君は僕のこのことばの意味が実によくわかるって言ったねえ、本当だったんだろう? わかったんだろう? おお、なんて憎々しそうな眼をしているんだろう。君は僕にとっては愛すべき人なんだから、僕は君を安心させようと思って来たんだよ。パルフェン、僕は君がとても好きなんだ。しかし、もう行こう、そしてもうけっして来ないよ。さようなら﹂
公爵は立ち上がった。
﹁ちょっと待ってくれ﹂パルフェンはその場を立たずに右手の掌で頭をささえながら、低い声でこう言った。﹁ずいぶん、おまえに会わなかったなあ﹂
公爵は腰をおろした。またしても二人は無言であった。
﹁レフ・ニコラエヴィチ、おれはな、おまえが目の前にいなくなるとすぐにおまえに憎悪を感じるんだ。おまえに別れてからのこの三か月というものは、しょっちゅうおまえが憎くってたまらなかった。本当のことだ。おまえを引っつかまえ何か毒でもくらわして殺してやりたかったんだ! そんなぐあいだったんだ。しかし、今はものの十五分とはいっしょにいないんだが、もう憎悪も何もすっかり、けし飛んじゃって、以前のようにやっぱりおまえが好きんなっちまったんだ。もう少しいっしょにいてくれ……﹂
﹁僕といっしょにいると、君は僕を信じてくれるんだが、僕がいなくなるとすぐさま信じられなくなって、また疑いだすんだねえ。君のお父さんに似ているんだねえ!﹂やさしい微笑を浮かべ、自分の感情を押しかくすようにしながら、公爵はこう答えた。
﹁おまえと向かい合っていると、おまえの声を信じてしまうんだ。おまえとおれとを一様に見るわけにゃゆかないってことはおれだってよくわきまえてはいるんだが……﹂
﹁なんだってそんなことまで言うの? また腹が立ってきたね﹂公爵はロゴージンの態度に驚いて、こう言った。
﹁だっておまえ、誰もおれたちの意見を聞いているわけじゃないじゃないか﹂とこちらは答えた。﹁おれたちのことはそっちのけでいっさい決めっちまうんだよ。そら、おれたちが惚れるんだって惚れ方が全然違うだろう、つまり何につけても相違ってもんがあるんだよ﹂彼はこう言ってちょっと口をつぐんだが、また続けて語りだした。﹁それ、おまえは憐憫の情から愛してるって言うだろう。ところがおれはあの女に憐憫なんて少しも感じないんだ。それにあの女は何よりもひどくおれを憎んでいるんだ。あの女は今じゃ毎晩おれの夢に出てくるんだよ。そしていつもあの女が他の男といっしょにおれを嘲笑しているんだ。なあおまえ、そりゃ実際のことだものなあ。おれと結婚すると言っておきながら、おれのことは念頭にないんだからなあ。まるで沓(くつ)でも取りかえるようなあんばいだ。おまえは本気にするかどうかは知らないが、おれは思いきって行く勇気が出ないんで、もう五日というものあの女に会わないんだよ。﹃何のご用でいらっしゃったの?﹄とやられると思うとなあ。あの女にはちょいちょい恥をかかされたからなあ……﹂
﹁恥をかかされたなんて? 何を君は言うんだい?﹂
﹁しらっばくれていやがる!﹃婚礼のまぎわ﹄になって、おれんところからおまえといっしょに逃げ出したって、たった今自分で言ったじゃないか﹂
﹁君は自分では……なんてことは本当に信じられないだろう﹂
﹁じゃ、あの女はモスクワでゼムチュージニコフって将校といっしょにおれに恥をかかせなかったかい? 恥をかかせやがったことはよくわかっているんだ。それも自分で婚礼の日どりを決めたすぐあとなんだぞ﹂
﹁そんなことはないよ!﹂と公爵は叫んだ。
﹁いやたしかにそうだ﹂と確信しているようにロゴージンは強く言った。﹁じゃなにかい、そんな女じゃないとでも言うのか? そりゃおまえ、そんな女でないことは言うまでもないさ。今言ったことはつまらない愚痴だよ。おまえといっしょにいるときはそんな女じゃないさ、むしろ自分じゃそんなことを見たら恐ろしがるだろう、ところがおれといっしょにいるときには徹頭徹尾そんな女なんだ。全くそうなんだぜ。おれを底なしの悪党だと思っているんだ。ケルレルのことだって、それ、あの拳闘をやらかす先生のことだって、おれにはよくわかっているんだ——ただおれを嘲弄したいためにばっかりあの女のこしらえたことなんだよ……まあおまえはあの女がモスクワでおれにどんな仕打ちをしたかまだ知らないんだよ! それから金だって、金はずいぶんつぎこんだものだぞ……﹂
﹁それに……君は今でもやっぱり結婚しようって言うんだねえ! いったいこの先はどんなことになるんだろう?﹂公爵は恐れながらこう尋ねた。
ロゴージンは重苦しい恐ろしい眼つきで公爵をながめたが、何も返事をしなかった。
﹁おれはもう五日というもの、あの女のところに行かない﹂しばらく口をつぐんでいたロゴージンはやがて話を続けた。﹁いつだっておれは恐れているんだ、追い立てられはしないかと思って。わたしはまだ自分の魂の主人だから、しようと思えば、どんなにしてでもおまえさんなんか追っ払って、自分で外国へ行くことができるんですよ、とこう言うのだぜ︵外国へ行くんだってことは、あの女がおれに言ったんだよ、——と、彼は公爵を意味ありげな眼つきでながめながら、ちょうど、括(かっ)弧(こ)にでも入れるような調子で言ったのである︶。そうかと思えば、人をさんざんおどしつけて、しょっちゅう何かしら、おれをからかっているんだ。そしてまたどうかすると実際眉をしかめていやな顔をしてひと言もものを言わないんだ。おれはこいつがこわいんだ。で、近ごろふっと思いついたんだが、いつも手ぶらで来るからいけないんだとねえ、ところが初めのうち、あの女はただ笑ってばかりいたが、しまいには、そんなことされるのをひどく憎みだしたもんだ。それからなあ、あの女は以前はぜいたくな暮らしはしていたが、それにしてもこれまで見たことはあるまいと思われるようなすばらしい首巻を持っていた、ところがそいつを小間使のカーチヤにくれてやってしまったんだぜ。いつ結婚するかってことは、これっぱかしも言わないんだ。相手の女んところに出かけて行くのにただもうびくびくしているような、こんな許(いい)婚(なずけ)の男なんていつどこの世界にあっただろうか。こんな風にじっと坐っていても、たまらなくなると飛び出して行って、こっそりとあの女の家の近くを往ったり来たりするか、それでなきゃ物陰に隠れているんだよ。ひょっと気がつくと夜明け近くまで、門の近くで見はりしているんだ。そのときなんだかちらっと目にとまったものがあるんだ。するとあの女が窓から見ているんだ。そして﹃もしわたしがおまえさんをだましていることがわかったらいったい私をどうするつもり?﹄って聞くのさ。で、おれはたまりかねて﹃おまえさんが自分で知ってるはずだ﹄と言ってやった﹂
﹁何を知ってるって?﹂
﹁おれだってなんだか知るものか?﹂とロゴージンは憎々しげな微笑をもらした。﹁おれはあのときモスクワであの女の相手の男ってのを、ずいぶん長いこと捜したんだが、ついに見つけ出すことができなかった。で、おれはあのとき一度あの女をつかまえて尋ねたことがあるんだ。﹃おまえはもうじきおれと結婚してまじめな家庭にはいることになっているのに、今のざまはなんとしたことだ? おまえはなんていう女だ!﹄とこう言ってやったんだ﹂
﹁君、あの女(ひと)にそんなことを言ったの?﹂
﹁言ったさ﹂
﹁そしたら?﹂
﹁﹃わたしは今おまえさんを召使にだって使いたくない、ましておまえさんの奥さんになんかなるなんてとんでもないことだ﹄って言いやがるのさ。それでおれは言ってやった。﹃おれは出てゆきゃしない、落ち着く先はわかっているんだ﹄すると今度は﹃じゃ、わたし今すぐにケルレルを呼んでおまえさんを門の外へ放り出させてやるからいいよ﹄ってほざきやがるんだ。それであの女に飛びかかって血のむくむほど引っぱたいてやった﹂
﹁そんなことをするってあるものか!﹂と公爵が叫んだ。
﹁それがあったのさ﹂低い声ではあったがロゴージンは、眼をぎらぎらさせてこう言い放った。﹁それからまる一昼夜と半日っていうものは寝もせず、飲まず食わず部屋から一歩も外へ出ず、あいつの前にひざまずいて、﹃許してくれない間は一歩もここを出ないで、死んでしまう、人を呼んで引きずり出すようだったら水ん中へ飛びこんじまう。おまえと添えなきゃ生きているかいがないんだから﹄と言ったんだ。あいつはその日一日というものはまるで狂(きち)人(がい)のようだった、今泣いているかと思うと、今度は小刀でおれをさし殺そうとしたり、悪態をついたりするんだ。そして、ザリョージェフとかケルレルとかゼムチュージニコフとかいうやつらを呼んで、おれの方を指さしやがって嘲弄するんだぜ。﹃みなさん、今日はいっしょに芝居に行きましょう。この人はここから出たくないって言うんだからこのまま放っておくがいいわ。わたしこの人にひっぱられている訳はないんだから。パルフェン・セミョーヌヴィッチ、わたしがいなくてもお茶を出すように言っておきますよ。あんたはきっと今日はお腹(なか)がすいているでしょうからね﹄芝居からは一人で帰って来たが、﹃あの連中は臆病者で意気地なしだから、おまえさんを恐れているんだよ。そのくせ、あの様子じゃロゴージンは帰って行きそうもないし、もしかするとあなたを切り殺すかもしれないと言って私を脅かすのよ。わたしこれから寝室へ行くけれど、わざと戸締りなんかしませんよ。そらわたしは非常におまえさんを恐れているんですよ! これでよくわかるがいい! おまえさん、お茶は飲んだの?﹄って言うのだ。それでおれは﹃いいや、飲むものか﹄と答えた。すると﹃それはお立派なことかもしれないが、ちっともおまえさんに似つかわしくないわねえ﹄ってぬかしやがるのさ。そして言ったとおりに部屋の戸を閉めずに寝ちまったよ。あくる朝になったら、﹃おまえさん、気でも狂ったんじゃないの? そんなにしていたら飢え死にしてしまうじゃないの?﹄と言って笑うのだ。それでおれが﹃許してくれ﹄と言うと、﹃わたし許すのはいや、おまえさんとはいっしょにならないって言ったじゃないの。それにしても本当におまえさんはこの肘つき椅子にかけたまま一晩じゅうねむらなかったの﹄﹃ふん、寝なかったよ﹄とおれは言った。﹃まあ、なんて利口な人だろう? じゃ、やっぱりお茶ものみたくなきゃ御飯もたべたくないの?﹄﹃ほしくないって言ったじゃないか。——許してくれよう!﹄﹃おまえさんにそんなのは全く似つかわしくないわよ。まるで牝牛に靴を置いたようじゃなくって? それがわからないの、おまえさん、わたしを脅かそうって考えついたんじゃないの? おまえさんがそんな風にお腹(なか)をすかせて坐っているのを見て、わたしがなんて可哀そうなんだろうなんて言うと思ったの? とんでもない、人を驚かせるわねえ!﹄そう言って憤っているのだよ、しかし、それも長く続きはしないんだ、すぐにおれをからかいだすんだよ。が、そのとき、あの女がこれっぱかしもおれを憎んでいないってことには驚かされたよ。ところがあの女は執念深く憎悪をいだいている人間なんだ、長いこと執念深く人に憎悪をいだいている女なんだ! それでそのとき、ふと念頭に浮かんだことがあるよ、あの女は強い憎悪をおれに感ずることができないほどおれを甘く見ているんだ。これは間違いないことだよ。﹃おまえさん、ローマ法皇ってどんな人だか知っている?﹄と、あの女が言った。それで﹃聞いたことはある﹄っておれは言った。するとあの女は﹃パルフェン・セミョーヌヴィッチ、おまえさん万国史をちっとも習ったことないの?﹄って聞くんだ。で﹃おれは何も習ったことはない﹄と答えると、﹃じゃ、ここでわたしが教えてあげよう。一人の法皇がいて、ある皇帝に腹を立てたのよ。するとこちらはお許しがでるまで三日の間、法皇さんの門前に飲まず食わずにひざまずいて待っていたのよ。この皇帝が三日の間、ひざまずいて待っていた間に心の中でどんなことを考え、どんな誓いを立てていたか、おまえさんわかる? ……あ、ちょっと待ってちょうだい、これはわたしが自分でおまえさんに読んで聞かして上げるわ﹄とこう言って立ち上がって本を持って来た。﹃これは詩なのよ﹄と前おきして、この皇帝が三日間のうちにこの法皇に復讐せずにはおかぬと誓った詩を読んで聞かせてくれた。そして﹃パルフェン・セミョーヌヴィッチ、これはおまえさんの気に入って?﹄と聞いた。それでおれは﹃おまえさんの読んでくれたことは全く本当だ﹄と返事をした。﹃まあ、おまえさんが本当だなんて言うところを見ると、おまえさんもきっと、あいつがおれのところへ来たらその時こそいっさいのことを思い起こして、あいつに思う存分のことをしなくては、とかなんとか誓いを立てたんだわねえ﹄﹃わからない、もしかすればそんなことを考えているかもしれぬ﹄﹃どうしてわからないの?﹄﹃そんなことはわからない。今そんなことを考えようとは思わない﹄﹃じゃ、おまえさん、今何を考えているの?﹄﹃そらおまえさんが席を立って、おれの傍を通る、するとおれはおまえさんをながめ、後姿を見送る。おまえさんの衣(きぬ)触(ずれ)の音がすると、おれの心臓は下のほうに落ちてゆくような気がする。おまえさんが部屋を出てゆく、するとおれはおまえさんの言ったことばのひと言ひと言を心の中によび返してみ、またどんな声だったか、どんなことを言ったかを心の中で考えてみる。それに昨晩は何ごとも考えずに、ただおまえさんの寝息に耳をすまして聞き入り、また二度ばかり寝返りをした音も聞いた……﹄するとあの女は笑いだしながら言った、﹃じゃおまえさん、わたしをなぐったことなんか考え出しも思い出しもしなかったんだね?﹄﹃もしかすると考えているのかしれん、わからない﹄﹃じゃ、わたしがおまえさんを許さないで、いっしょにはどうしてもならないって言ったら?﹄﹃さきにもう言ったよ、水にはいって死ぬのだ﹄﹃たぶんその前に殺すだろうね﹄と、こうあの女は言って考えこんでいたが、しばらくするとぷりぷりして部屋を出て行った。それから一時間ほどたつと恐ろしく陰気な顔をしておれのところへやって来て、﹃パルフェン・セミョーヌヴィッチ、わたしは、おまえさんといっしょになります。こう言ったからっておまえさんがこわいからじゃないのよ、どっちみちわたしは滅びるからだなんだもの。どこへ行ったっていいことはあるものか? おかけなさい、おまえさんに今すぐご飯をあげるわよ。え、おまえさんといっしょになると言ったからには、わたしはおまえさんの貞淑な奥さんですよ。だからもうこのことは疑ったり心配したりしないでちょうだい﹄と言ったんだよ。そしてしばらく無言でいたが、また言いだした、﹃どうしたっておまえさんは召使じゃないんだものねえ。わたし以前、おまえさんをもってこいの下男だと考えていたの﹄まあこうしてとにかく式の日どりが決まったのだ。ところが一週間たつと、おれのところから、このレーベジェフのところに逃げ出して来たんだ。おれがここに来ると、あの女は﹃あたしはどうあってもおまえさんがいやだというんじゃないわ。だけど、わたしが心ゆくまで待っていてもらいたいのよ。だってわたしはまだ自分の心の主人なんですもの。わたしがおのぞみならおまえさんもお待ちなさいな﹄まあ、つまりこれが今の二人の状態なのさ……ところでレフ・ニコラエヴィチさん、おまえはこのことをどう考えるかい?﹂
﹁自分では君はどう考えているの?﹂公爵は、ロゴージンを愁わしげなまなざしでながめながら、こう問い返した。
﹁おれがいったい何を考えるっていうんだ?﹂こちらは、ひったくるような調子でこう言った。彼はまだ何か言い添えたいような様子であったが、口には出し得ない哀愁にとらわれて口をつぐんだ。
﹁僕はどうしたって君の邪魔はしないよ﹂あたかも自分の心の奥深く秘めた思いに答えるようにうち沈んだ調子で、小声に彼はこう言った。
﹁ところでねえ、おまえに言いたいことがあるんだ!﹂不意にロゴージンは活気づいてこう言った。彼のまなざしは輝きだした。﹁おまえはなんだってそんなにおれの下手に出ようってするんだい? おれには合点がいかん。すっかり恋がさめたとでもいうのかい? 以前おまえなんといったってさびしそうにしていたからなあ、おれはちゃんと見ていたよ。それじゃ今度なんのためにしゃにむにここへ駆けつけて来たんだい? 憐憫の情のためかえ?︵こう言っている彼の顔は兇猛な嘲笑のためにゆがんで見えた︶へ! へ!﹂
﹁僕が君をだましていると思っているのかね?﹂と、公爵は聞いた。
﹁いいや、おれはおまえを信じているんだ、しかし、それにしても少しも腑(ふ)に落ちないんだ。おまえの同情の心ってのは何よりもたしかだ。あるいはおれの恋よりも強いだろう!﹂
兇猛なそして今にも口をついて出さずにはいられないといった風のある表情が彼の顔にぱっと燃え上がった。
﹁だって、君の恋は憎悪と見分けがつかないんだものね﹂と、言って公爵はほほえんだ。﹁その恋が消えてしまったら、もっと不幸なことが起こるに違いないよ。ねえ、パルフェンさん、僕はこのことを君に言っておくよ……﹂
﹁おれが切り殺すとでもいうのだな?﹂
公爵はぶるぶると震えた。
﹁君は現在の恋のために、現在なめているいっさいの苦痛のために、あの女をひどく憎むようになるだろう。あの女が君といっしょになろうとまたしても考えるようになったのが、僕にとっては何よりも奇異に思われてならない。昨日そのことを聞いた時、僕はほとんど信ずることができなかった、そして非常に重苦しい気分になった。あのひとが二度も君を拒んで、式のまぎわに逃げ出したことは、つまり予感があったからなんだ!……いったいあの女はいま君の何を期待しているのだろう? 君の金だろうか? それは取るに足らぬばかげたことだ! それに金は君もおそらくずいぶんかけたことだろうからね。するとただ夫がほしいからだろうか? それならあの女は君以外に男を見いだすことができるはずだ。君以外の誰であろうとあの女にとっては君よりはましだからねえ。なぜなら、君はすぐにあの女を切り殺してしまうからだ。あの女も今ではおそらくこのことはよくよく感づいているに違いない。君はそんなに強くあの女を、どうして愛するのだろう? 実際、こうしたことは、全く……こうした恋を捜し求めている女があるってことは、僕も聞いている……しかしただ……﹂
公爵は口をつぐんでもの思いにふけった。
﹁なんだ、また親父の写真を見て笑ってるな?﹂公爵の顔にあらわれるあらゆる変化、あらゆる筋肉の動きを一つのがさずに異常な注意を集めて観察していたロゴージンはこう尋ねた。
﹁僕が何か笑ったって? もしもこうした不幸が君を見舞わなかったら、このような恋が起こらなかったら、君はおそらく、君のお父さんそっくりの人になっただろう。それもごく最近のうちに、と、こう僕は考えていただけなのさ。ここのこの家でおとなしい口数の少ない奥さんと二人で坐って、ときどき口を出ることばも紋切り型で、だれ一人信用せず、またその必要を少しも感ぜずに、無言のまま、陰気な顔をして、ただひたすら金を貯(た)めていることだろうね。そして時たま古い本を取り出してはしきりと感心し、また二本指で十字を切ることに興味をいだくようになるんだ。といってもこれはずっと年を取ってからだがね……﹂
﹁せいぜいからかうがいいさ。しかし、それ、全く同じことをあの女も近ごろ言ったよ、やっぱりこの肖像を眺めながらね。おまえたちは何もかもすっかり一致するなんて不思議だなあ﹂
﹁じゃ、あのひとは君のところへ来たことがあるの?﹂公爵は好奇心に誘われてこう聞いた。
﹁来たよ。長いあいだ肖像をながめ、亡くなった人のことをいろいろ聞いていた。そして﹃おまえさんはこの人そっくりになるはずだったわねえ﹄としまいにはおれにかすかに笑いかけながら言ったよ。﹃パルフェン・セミョーヌヴィッチさん、おまえさんには優れた謙譲の心があるからよかったようなものの、それがなかったら、おまえさんは激しい欲情を持っているのだから、きっとシベリアに流刑されたに違いないわ﹄とこう言ったんだよ︵あの女がこう言ったんだよ、おまえに信じられるかどうか知らないが? あいつがこんなことを言うのははじめて聞いたよ!︶。それから﹃おまえさんが今してるような悪ふざけをいっさいよしてしまったら、おまえさんみたいにちっとも教育のない人間はすぐにお金を貯め始め、お父さんのようにスコペッツ派の連中に取り巻かれてこの家の中に坐っていることでしょうねえ。それからもしかしたら、しまいにはあの連中のほうへ宗旨変えしたかもしれないわ。お金はとても好きになって二百万はおろか、どうかすると千万くらいは貯めこんで、その金袋に取り巻かれて飢え死にするでしょうよ。なぜって、おまえさんは万事につけて欲情が激しくって、どんづまりまで行かなきゃおさまらないんだから﹄と、こうも言った。実際これそっくりの話し振りだった、ことばだってそのままと言ってもいいくらいだ。それまで一度だっておれにこんなことを話したことはなかった! あの女はいつでも取るにも足らないばかげたことを言っているか、でなければ人をからかってばかりいたんだ。それにその時だってはじめは笑っていたんだが、後になると恐ろしく気むずかしくなってきた。それからこの家をずっと見て回ったんだが、何かにおどおどしているような様子だった。﹃この家をすっかり改築して気持よくしよう、でなければ、式に間に合うように他の家を買おう﹄とおれが言うと、あの女は﹃いえ、いえ。何も改めることなんかないわ。このままで暮らしましょう、あんたの奥さんになったら、わたしあんたのお母さんの傍で暮らしたいのよ﹄と言ってくれたぜ。それからあの女をおふくろのところへつれて行ってやったが、おふくろに対して肉親の娘がするように親切なんだよ。おふくろは以前から、もう二年というもの半分ばかみたいになってじっと坐っているんだ︵病気なんだよ︶、そして親父が死んでからこっちはすっかり赤ん坊みたいになって話もできず足も立たず坐ったまんまで人さえ見れば誰かまわずにその場からお辞儀ばっかりしている始末なのさ。飯をたべさせなくったって三日ぐらいは気がつかないでいるそうだよ。おれはおふくろの右手を取ってあの女の手にのっけてやった。﹃祝福しておくれ、お母さんおれのお嫁さんになる人だよ﹄とおれが言うと、あの女は情をこめておふくろの手に接吻してから言ったよ、﹃きっと、おまえさんのお母さんはいろいろな苦しみを堪え通して来たかただわ﹄そこらの本をなあ、あの女が目にとめて、﹃これはどうしたの、ロシア歴史を読み始めたの?﹄と言った︵モスクワにいるとき、いつだったか一度あの女が言ったことがあるんだよ。﹃おまえさん、ソロヴィョーフのロシア歴史を読むなりなんなりして自分を教育するといいわ。おまえさんたら何一つ知らないんだから﹄︶。﹃これはいいことだわ、こうしてお読みなさいよ。わたしはおまえさんが初歩にどんな本を読まなきゃならないか、目録をこしらえてあげるわ。ほしい? ほしくない?﹄あの女がおれにこんなことばをかけたことはそれまでに一度もなかったので、おれはむしろ驚いた。それでその時はじめて人間らしい気持になってほっと息をついたよ﹂
﹁僕は、それを聞いてとても嬉しいよ、パルフェンさん﹂と、公爵は心の底からこう言った。﹁たいへんうれしいよ、もしかしたら神様が二人の間をうまくまとめてくださるかもしれないよ﹂
﹁断然そんなことはない!﹂とロゴージンは性急に叫んだ。
﹁いいかい、パルフェンさん、もし君があの女(ひと)を愛しているのなら、いったいどうしてあのひとに尊敬されたいとは思わないのかい? もしそう思っているのなら、そんなにやけを起こすことはないよ。そら、さっき僕が言ったろう、あの女(ひと)がどうして君と結婚しようとしているかということが僕には驚くべき問題なんだ。僕にはそれを解くことはできない、しかし、そこにはきっと十分に考えぬかれた、ある理由があるに違いないということはどうしても疑い得ない。あのひとは君の愛を十分信じているし、また君のもっている美点も間違いなく認めている。これは確かなことだ! 君が今言ったことがそれを裏書きしている。あの女がそれまでの態度や話しぶりと打って変わったことばで君に語ったということを君が自分でちゃんと言ったじゃないか。君は猜(さい)疑(ぎし)心(ん)が強く、嫉(しっ)妬(と)深いから、何事でも悪いほうのことばかりに気がついてそれを誇張するのだよ。それにもちろんあのひとは君が言うほど君のことを悪く思っちゃいないよ。だって、それでなかったら、あの女が君といっしょになろうとするのは意識的に水に飛びこむのか、刃の下にもぐりこむのと同じことじゃないか。そんなことがどうしてあるものか。誰がいったい、好きこのんで水の中に飛びこんだり刃の下をかいくぐったりするものか?﹂
パルフェンは苦っぽいほほえみを浮かべながら、公爵の熱しきったことばを最後まで聞き終えた。彼の信念はもはや微動だにしないほどしっかりと決まったもののようであった。
﹁なんだって君はそんな不愉快な眼つきをして人を見るの?﹂と公爵は圧迫されるような感じをうけてかろうじてこう言った。
﹁水の中か刃の下か!﹂と、こちらはやっとのことでことばを吐いた。﹁へえ! だから、あの女がおれんところへ来るのは、まぎれもなくおれの後に刃が控えているからだ! 公爵、本当かい、おまえ、今まで事の経(いき)緯(さつ)を知らなかったのかい?﹂
﹁僕は君の言うことがわからないよ﹂
﹁それもそうかなあ、だが本当にわからないとは、へへ! おまえのことを他人があ(ヽ)れ(ヽ)だって言うが……あの女は他のやつに惚れているんだよ。そら、どうだい! おれが今あの女に惚れているのと全く同じくらいあの女は今ほかのやつに惚れているのだ。ほかのやつってのを、おまえ誰だか知っているかい? それは、おまえなんだ! なあんだ、知らなかったのかい?﹂
﹁僕?﹂
﹁おまえさ。あの女はあの誕生日のあの時からおまえにまいっちまったんだ。しかし、あの女はおまえといっしょになることはできないことだと思いこんでいるんだ。なぜって、そうなりゃ、あの女がおまえを汚し、おまえの一生を不幸にすることになるからな。﹃わたしがどんな女だかわかりきっているじゃないの﹄ってよく言ったよ。このことは今までくり返し言っている。このことはみんなあの女が自分の口からおれに面と向かって言ったんだ。おまえを汚し不幸にすることはどうしても許されないが、おれなんぞは、どうだっていい、だからいっしょになってやれ——と、こんな風におれを見ているのさ、こいつも承知しといてもらおうぜ!﹂
﹁じゃなんだってあの女(ひと)は君の所から僕の所へ逃げて来たんだろう、また……僕のもとから……﹂
﹁おまえのところからおれのところへ! へえ! 不意にあの女がそんなことを思いつくのは珍しいことじゃないや! あの女は今はまるっきりもう熱病みたいになっているんだ。ともすると﹃水の中へ飛びこむ覚悟でおまえさんといっしょになるんだよ。一刻も早く結婚しましょう!﹄って叫び立てるんだ。そして自分からせき立てて、式の日取りを決めるんだ、ところがその日が近づくと——こわくなるのか、違った考えでも浮かぶのか、そこんとこはなんともわからないが、おまえも知っているように、泣くは、笑うは、熱病みたいに暴れ回るって始末さ。だから、おまえの所から逃げ出したなんてことは少しも不思議じゃないや。あの女があの時おまえの所から逃げ出したのは、どんなに強くおまえを愛しているかってことを自分で気がついたからなんだよ。おまえのところにいたたまらなくなったんだ。おれがモスクワで捜し出したって、おまえはさっき言ったねえ。ところが嘘なのさ——自分でおまえの所からおれの所へ駆けつけて、﹃日取りを決めてちょうだい、わたし覚悟をしたのよ! シャンパンをお出し! ジプシイ女のところへ行きましょう!﹄と叫び立てたんだ!……だから、おれがいなかったら、あの女はとっくに水ん中に飛びこんでいるよ。こりゃ確かなことだ。身を投げないのは、たぶんおれが水よりもっとこわいからなんだろう。意地からおれといっしょになろうっていうんだよ……いっしょになるようにでもなったら。それこそ、意地からすることなんだ﹂
﹁君はまたなんていうことを……なんてことを……﹂と公爵は叫びはしたが、ことばが続かなかった。彼は恐ろしそうにロゴージンを見まもった。
﹁なんだって終(しま)いまで言わないんだ﹂とこちらは笑いながら口を出した。﹁おのぞみなら言ってやろうか、おまえは今心の中で﹃そうだ、今となっちゃ、どうしてあのひとをこいつといっしょにさせられよう? どうしてあの女(ひと)にそんなことがさせられよう?﹄と考えているんだ。わかりきってらあ、おまえの考えていることなんか……﹂
﹁僕はそんなことでここへ来たんじゃない、パルフェンさん、嘘じゃないよ、そんなことは考えてもいなかった……﹂
﹁たぶん、そんなことで来たんでもなければ、考えもしなかっただろうさ、ところが、たった今、間違いもなく、そうなったのだよ、へ、へ! いや、もう結構だよ! なんだってそんなにびっくりするんだい? だが、本当に少しもそれを知らなかったのかい? 驚かせるなよ!﹂
﹁それはみな嫉妬のせいだよ。パルフェンさん、全く病気のためだよ、それはみな君が途方もなく誇張して考えるからなのだよ……﹂公爵は心中に激しい動揺を覚えながら、低い声でこう言った。﹁どうしたの、君は?﹂
﹁捨てろよ﹂とロゴージンは、こう言って、卓上の本の脇から公爵がなにげなく取り上げたナイフをひったくって元の場所へ置いた。
﹁僕は、ペテルブルグにいるころから、なんだかわかっていたようだし、なんだか予感があるようだった……﹂と公爵は語り続けた。﹁僕はここへ来たくなかったんだよ! 僕はここであったことをすっかり忘れてしまいたかった、心臓から引き抜いてしまいたかった! じゃ、さようなら……どうしたんだい、君は!﹂
こう言いながら、公爵は放心したように、またしても例のナイフを卓上から取り上げた。すると再びロゴージンがそれを取り上げて卓上に放り出した。それは至極ありふれた形の鹿の角の柄がついた折りたたみのできないナイフで、刃渡りは五寸足らず、幅もそれにふさわしいものであった。
このナイフを二度までも、ひったくられたことに、公爵が特別の注意を払っているのに気がついたロゴージンは、憎々しげな憤りの色を浮かべて、ナイフを引っつかむと本の間にはさんで、本といっしょに他のテーブルに投げ出した。
﹁君はそれで本のページでも切るのかね?﹂と公爵は尋ねたが、その様子はどことなくぼんやりしていて、まだもの思いから十分にさめきらないもののようであった。
﹁そうだ、ページを……﹂
﹁それは庭園用のナイフなんだろう?﹂
﹁うん、庭園用のだ。庭園用のナイフでページを切っちゃいけないというのかい?﹂
﹁だけど、それは……真(まっ)新(さら)らしいんだよ﹂
﹁うん、真新らしいのがどうしたっていうんだい? おれが現在、新しいナイフを買える御身分じゃないっていうのかい?﹂ついに、どうしたことかわれを忘れて、一語ごとに疳(かん)癪(しゃく)を募らせながらロゴージンはこう叫んだ。
公爵はぶるぶるっと身震いして、眼をすえてロゴージンをみつめた。
﹁おれたちは、まあ!﹂すっかりわれに返った公爵は、こう言ってにわかに笑いだした。﹁君、ごめんよ、おれひどく頭が重くなると、今みたいになるんだよ。そしてあの病気が……おれはまるっきり、まるっきりあんなぼんやりしたばかげた気持になるんだよ。おれは全くあんなことを聞こうって気はなかったんだ……何もおぼえていないのだよ。さようなら……﹂
﹁こっちじゃない﹂とロゴージンが言った。
﹁忘れちゃった﹂
﹁こっちだ、こっちだ、おれが連れて行ってやろう﹂
︵つづく︶