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第二編
八
﹁皆さん、僕は一人もおいでになるとは思っていませんでした﹂と公爵は話しだした、﹁今日の日まで僕は病気をしていたんですけれど、お話のことは︵と彼はアンチープ・ブルドフスキイのほうを向いて︶もう一か月もガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ・イヴォルギンさんに委任しておきました。そのことについては、あなたのほうへも御通知申し上げておいたはずです。もっとも、僕はけっして僕個人としての弁明を避けるわけではありませんが、ただお含みをいただきたいのは、時刻が時刻ですから……もしそんなにお暇をとらないのでしたら、いっしょに別の部屋へいらしていただきたいのです……。なにしろこちらにはただいま、僕の友人諸君がおられるものですから、どうかその辺は……﹂
﹁友人諸君……それは幾たりでも……お好きなだけ……しかし、失礼ですが﹂と、まだそれほど大きな声は立てなかったが、不意にレーベジェフの甥が、まるで訓戒でも与えるような調子でさえぎった、﹁失礼ですけれど、こっちには文句があるんです、あなたはもっと丁寧に扱ってくれてもよかりそうなもんですね、二時間も下男の部屋に待たせるなんてことをしないで……﹂
﹁そして、もちろん、……僕だって……でもこれは公爵流っていうもんですよ! そして、これは……あなたは、してみると、将軍なんですね! でも僕はあんたの下男じゃありませんよ! そして僕は、僕は……﹂と、アンチープ・ブルドフスキイは極度に興奮して、いきなり早口で言いだしたが、唇を震わし、非常な屈辱を受けたかのように声を震わし、口角泡を飛ばして、まるで自分が破裂したか、あるいは八つ裂きにでもされたかのようであった。しかし、あまり不意にあせりだしたので、十言(こと)目くらいからは、もう何が何やらわけがわからなかった。
﹁あれが公爵流ってやつさ!﹂とかん高い、われ鐘のような声でイッポリットが叫んだ。
﹁もしおれがこんな扱いを受けたのなら﹂と拳闘家がぶつぶつ言いだした、﹁つまり、直接に相当の地位にあるおれ自身に関したことであったのなら、またブルドフスキイの位置に置かれていたのなら……おれは……﹂
﹁皆さん、たった今、僕はあなたたちのいらしたことを知ったんです、本当に﹂公爵はまたもやくり返した。
﹁僕らは、公爵、あんたのお友だちが誰だろうと、そんなことは平気ですよ、僕らは当然の権利があるんだから﹂またもやレーベジェフの甥が言い放った。
﹁しかし、失礼ながら、お尋ねしますが、あなたいかなる権利があって﹂とイッポリットはまた金切り声を出したが、今度はひどく憤慨していた、﹁ブルドフスキイの事件をあなたの友だち連中に審判させようっていうんですか? けれども、僕たちはあんたの友だちに審判してもらおうってつもりはないんですよ。あんたの友だちの審判なんか、どの程度のものかくらいは、わかりすぎるくらいわかっていますからね﹂
﹁けども、ブルドフスキイさん、ここでお話しするのがいやでしたら﹂と、相手のこういった切り出し方に非常に驚かされていた公爵は、やっとのことで口を入れることができた、﹁さっきも申し上げたことですが、すぐに別の部屋へまいろうじゃありませんか。あんたたちのことは、もう一度くり返して申し上げますが、たった今、聞いたばかりで……﹂
﹁だって、あんたにそんな権利はありませんよ、そんな権利は、そんな権利はありませんよ! ……あんたの友だちの……全く!﹂と、粗野な、用心深い眼で、あたりを見回しながら、いきなりブルドフスキイはつぶやきだしたが、他人を信用せず忌避すればするほど、いよいよ疳癪が起きるのであった、﹁あなたにそんな権利はないんだ!﹂こう言ったかと思うと、ぷっつり断ち切ったように口をつぐんで、黙々として、赤いきわ立った血筋の見える、ひどく飛び出た近視眼を突き出し、全身を前にかがめて、いぶかしげに公爵のほうを見おろした。これには公爵もすっかり驚いてしまって、自分も口をつぐんで、眼を丸くして、ひと言も物を言わずに、相手を眺めていた。
﹁レフ・ニコラエヴィチさん!﹂と、にわかにリザヴェータ・プロコフィエヴナが呼びかけた、﹁さあ、これをいますぐ読んでごらん、これは直接にあんたの事件に触れていますよ﹂
彼女はあわててある週刊のユーモア新聞を差し出して記事のところを指さした。レーベジェフはお客がはいって来たときに横のほうから駆け出して来て、ひと言も物を言わずにこの新聞をわきのポケットから引っぱり出し、しるしのしてある段のところを指さしながら夫人の眼の前へ突き出したのであった。レーベジェフは、前から将軍夫人の御機嫌とりに奔走していたのである。リザヴェータ・プロコフィエヴナはざっと眼を通して見て、少なからず驚き、ひどく心をかき乱された。
﹁けども、声を出して読まないほうがよかありませんか﹂と公爵はかなりどぎまぎして、つぶやいた、﹁僕は一人で読みましょう……あとで……﹂
﹁じゃ、いっそ、おまえが読んでごらん、じきに、声を出して! 声を出してね!﹂リザヴェータ・プロコフィエヴナはたまりかねて、公爵がやっと手をかけたばかりの新聞を引ったくって、コォリャのほうを向いた、﹁大きな声で、誰にもようく聞こえるように﹂
リザヴェータ・プロコフィエヴナは熱しやすく、夢中になる婦人であったから、ときには、ゆっくり考えもしないうちに、いきなり、空もようを調べもしないで、錨(いかり)を全部ひき上げ、外(そと)海(うみ)へ乗り出すようなこともするのであった。イワン・フョードロヴィッチは不安げにもじもじしていた。しかし、誰も彼も一分間ほどの間は、ゆくりなくも口をつぐんだまま、けげんそうに待ち設けていた。コォリャは新聞をひろげて、駆けつけて来たレーベジェフが教えてくれたところから、声を立てて読み始めた。
無産者と貴族の末(まつ)裔(えい)、白昼日ごとに行なわれる強盗のエピソード! 進歩! 改革! 正義! 奇怪なる事件はわが、いわゆる神聖なるロシアに勃(ぼっ)発(ぱつ)しつつある。しかも改革と会社経営の盛んなる時代、民族性を云(うん)々(ぬん)し、年々数億の正貨が外国に流出する時代、工業を奨励し、労働者が手を空しゅうするこの時代、等々、枚挙にいとまなき現代においてである。諸君、まず当問題の核心にはいろう。
ここに生ぜる奇々怪々なるアネクドートなるものは、すでに哀微せるところのわが国の地主階級︵de Profundis! どん底から出てきた!︶の末裔の一人に関するものである。しかも、かかる末裔なるものは、すでに祖父たちは、ルーレットによって身代を磨(す)り、父たちはやむなく軍隊にはいって、見習士官ないしは中尉となり、例によって罪なき官金費消のごときものによって、軍法会議に付せられて獄死し、その子に至っては、この物語の主人公のごとく白痴として成長し、あるいは刑事上の問題にさえも関係しながら、かかる事件に対しては教訓または矯(きょ)正(うせい)に重きを置いて、陪審員が大いに弁明するのであるが、さもなくば、結局、民衆をして唖(あぜ)然(ん)たらしめ、たださえも悪化せる現代をさらに汚辱するごとき醜行をあえてして身を終わる始末である。
ときにこの物語の主人公たる末裔氏は半年ほど前に、外国風のゲートルをつけ裏も付かざる外套をまとって震えながら白(イデ)痴(オチズム)の治療を受けていたスイスより冬のロシアに帰って来たものである。ここに正直にいえば、この男は幸運児であった。されば彼は、すでにスイスにおいて治療せし興味ある病気︵それにしても白痴は治療しうるものであろうか、想像してみたまえ!︶については言わずもがな、﹃ある階級の人種は——幸福なり!﹄とのロシアのことわざの真理たることを身をもって証明し得るであろう。静かに考えてもみたまえ、父の死せる際には、——噂によれば父は陸軍中尉であり、全中隊の金をたちまちのうちにカルタによって費消したためか、あるいは部下に対して極度の体罰を与えたためか︵諸君、昔日を思い起こされよ!︶、軍法会議に回されているうちに死んだのである——この公爵は未だ乳飲み児であったために、さるロシアのきわめて富裕なる地主の好意によって引き取られ養育されることになった。このロシアの地主は——かりにP︽ベー︾と呼ぶことにしよう——以前の黄金時代には四千人の農奴隷の所有者であったが︵農奴隷! 諸君かような言い方がおわかりだろうか? 僕にはわからない。大辞典ででも調べなければならぬ。﹃この口(はな)碑(し)はなま新しいが、なかなか本気にはいたしかねる!﹄というたぐいのものだ︶、察するに外国に閑日月を送り、夏は温泉に暮らし冬はパリの花(シャ)屋(トー)敷(・ド・フレール)に暮らして、そんなところに莫大な金をおとすというようなロシアののらくら者や油虫の一人であったらしい。少なくとも昔の農奴からあがって来る小作料の三分の一はパリの花(シャ)屋(トー)敷(・ド・フレール)の経営者のポケットへ収まったということだけは明言できるのである︵かの経営者こそはなんという果報者であったろう!︶。それはさておき、何不自由のないP︽ベー︾氏は親のない男爵様をまるで公爵のように育てて、自分がついでにパリから連れて来た男女の家庭教師︵むろん、相当の︶をつけておいた。しかし、一門のうちの最後の、華族の末裔は白痴であった、花(シャ)屋(トー)敷(・ド・フレール)から連れて来た家庭教師はなんの役にも立たなかった。この教え子は二(は)十(た)歳(ち)になるまで、ロシア語をも含めて、どこの国のことばをもただ単に話すことさえも習わなかった。もっとも、ロシア語は恕(ゆる)すべきである。やがてついに、ロシアの農奴所有者の脳裡にスイスへやれば白痴に知恵をつけることができるという一つの空想が浮かんできた——もっとも、この空想は論理的なものであった。のらくら者の大地主が、金さえ出せば、市場で知恵が買えるのだ、ましてやスイスへ行けば……と想像したのは無理もない話である。スイスへ行ってある教授のところで療養しているうちに五年は過ぎた。何千という金が費やされた。もとより白痴は利口にはならなかった、しかし、人の話では、むろん、やくざ者には相違なかったが、どうやら人間らしくなってきたとのことであった。ところが、忽(こつ)然(ぜん)とP氏が亡くなった。もとより遺言はなかった。あとのことは、例によってちょっとも整頓されてはいなかった。欲にからまる相続人は山ほどいたが、こんな手合いには、お情けで生まれつきの白(ば)痴(か)をなおしてもらいにスイス三界まで行っている一門中の最後の末裔のことなどは、ちょっともかまってはいられなかった。この末裔は白痴には相違ないが、聞くところによれば、それでも教授をだまかして、二年の間、恩人の亡くなったことを押しかくして、うまく無(た)料(だ)で治療をしてもらったという。しかるに、この教授その者がかなりの食わせ者で、やがてついには金のないのに恐れをなし、というよりも、二十五歳の油虫の食い意地に恐れをなして自分の古いゲートルをはかせ、着古しの外套を与え、お情けに三等車に乗せて nach Russland︵ロシアへ向けて︶——スイスから追い出してしまったのだ。さて、ここでこの主人公は運が尽きたように見えるかもしれぬ。ところが、それは全く見当違いなのだ。飢(きき)饉(ん)によって、いくつかの県の人たちを全く餓死せしめた運命の女神は、乾ききった野原の上を駛(はし)り過ぎて、大洋の上にこぼれ落ちたクルィロフの﹁黒雲﹂のように、あらゆる贈り物を一時にこの貴族にふりかけた。ほとんど、彼がスイスからペテルブルグへ姿を現わしたのと時を同じゅうして、モスクワでは、彼の母方︵もちろん、商家である︶の身うちの者が死んでしまった。この人は年をとった、子供のないひとり暮らしの商人で、髯だらけの分離派の教徒であったが、まぎれもない、手の切れるような現金で、何百万という遺産を︵諸君、これがわれわれに残されたのだったら申し分がないんだが!︶、これを全部、末裔氏に、スイスで白(ば)痴(か)の治療をしてもらっていたこの公爵の手へやすやすと遺(のこ)して行ったのだ。さあ、こうなると、もう万事の調子が変わってしまった。ある美人の妾の尻を追いまわそうとしていた公爵の周囲には、たちまちにして友人や知己が雲のごとくに集まって、親戚でさえも顔を見せたが、何よりもはなはだしいのは名家の令嬢たちが、正式結婚を渇望して、蟻のごとくに群がって来たことである。何が結構だといって、こんなに結構なことはあるまい。貴族、百万長者、白痴——こんな立派な資格をことごとく一身にそなえている御亭主は、提(ちょ)灯(うちん)をつけて捜しまわっても見当たらないであろう。注文されてもできないであろう……
﹁それは……それはもう呑み込めない、僕には!﹂とイワン・フョードロヴィッチは極度に憤慨して、不意に叫んだ。
﹁よしなさい、コォリャ!﹂と公爵は哀願するような声で叫んだ。わめき声が四方から聞こえる。
﹁読むんですよ、どんなことがあっても読みなさい!﹂とリザヴェータ・プロコフィエヴナがさえぎったが、明らかに自分自身を一生懸命に押さえようとするけはいが見えていた。
こう言われては二(にっ)進(ち)も三(さっ)進(ち)も行かなかった。コォリャは熱くなって、顔を赤くし、興奮しながら、困ったような声を出して読み続け始めた。
ところがにわか成金が、いわゆる最(エム)高(パイ)天(リ)上(ア)界(ン)に昇ったように有頂天になっている間に、一方には全く思いもよらぬ出来事が起こったのである。あるうららかな朝、彼のところへ一人の訪問客がやって来た。この人は落ち着き払った厳めしい顔をして、話しぶりは、いかにも丁寧で、しかも威厳があり、服装は質素であるが気品があり、どことなく進歩的な思想の持主らしい感じであった。やがて彼は手短かに来意を告げた。聞いてみると彼は有名な弁護士で、ある青年に一つの事件を委任され、その代理としてやって来たとのことである。この青年というのは名字こそ違っていたが今は亡きP氏の息(むすこ)にほかならなかった。道楽者のP氏は、家に使っている女の中で、正直な、貧しい一人の娘で、しかもヨーロッパ風の教育をうけた︵もっとも、それはもちろん、農奴制が栄えていたころの旦那様の権利に乗じたものであるが︶、女の子を誘惑して、やがてこの関係が近き将来において避くべからざる結果を生むことを知って、大急ぎで、この娘をある職人で、勤めをさえ持っている男にかたづけてしまった。この男はすでに久しい前からこの娘に思いをかけていた者で、高潔な性質の持主であった。初めのうちはP氏も新婚の夫婦を援助していたが、彼の亭主は高潔な性質の持主として、これをいさぎよしとせず、間もなく彼の援助を拒絶してしまった。しばらくするうちに、P氏はしだいしだいにその娘のことも、娘に産ませた息のことも、すっかり忘れ果てて、やがて御承知のようにわが子に対するあと始末もせずに死んで行った。そのうちに、正式結婚をした夫婦の間に生まれた息は、他姓を名乗って成長し、生母の夫にあたる人の高潔な性質によって、養子ということにしてもらったが、しかもこの養父は壮年にしてあの世の人となったので、ささやかな財産と、足腰のたたない病身の母をかかえて、都離れた遠い田舎に寂しく残されてしまった。やがてみずから都に出て、商人の家に教師をして、高潔なる日ごとの労苦によって金をもうけ、それによって最初は中学に入り、やがて、遠大なる志望をもって、さらに有用な講義の聴講生となり、とにかく生計を立てて行ったのである。しかるに、ロシアの商人に一時間十カペイカくらいで物を教えたところで、そんなにたくさんの金がはいるものではあるまい? それに足腰のたたない病身の母をかかえているのである︵結局、遠い田舎で死んでくれても、ほとんど彼には肩の重荷をおろしてくれたことにはならないのである︶。ここにおいて問題が起きる。かの末裔氏は正義公道のうえからいかなる判断を下すべきであったか? 読者諸君、諸君はもとより彼氏が次のごときひとり言を言ったとお考えになるであろう。
おれは一生の間、P氏から賦与されたものを厚く享(う)けたのだ。おれの教育費、家庭教師の給料、白痴の治療費に何万という金がスイスでなくなった。ところで今、おれは数百万の資産を擁(よう)しているが、P氏の息は、軽薄にも、自分を忘れ去った父親のふるまいに対して、自身は何の罪と(ヽ)が(ヽ)もないのに、人に物を教えたりして高潔な性質をだいなしにしている。おれのために費消されたものはことごとく正義公道のうえからいって、当然あの息の手に行かなければならない。おれのために浪費されたあの莫大な金は事実おれのものではないのだ。これはひとえに運命の女神の盲目的過失であって、あの金は息が受くべきものであった。この息のために用いらるべきものであって、断じておれのために使われるべきものではなかった、——それがこんなことになったのは、軽薄な、忘れっぽいP氏の空想的な所産にほかならないのだ。もしも、おれが、全く高潔で、デリケートで、公平な人間だったら、おれは彼の息に全財産の半分をやるべきだろう。しかし、おれは何よりもまず勘定高いし、あまりにもよくこの問題が法律的な問題でないことを知り過ぎているので、おれの何百万の財産を二等分してやるようなことはしないのだ。けれどもP氏が、おのれの白痴の治療代に出してくれた何万という金をこの息に返してやらないとなれば、これは少なくとも、おれにとってはあまりにも卑怯な、破廉恥ということになるだろう︵末裔氏は﹁あまりに勘定高いということにもなるだろう﹂と付け足すのを忘れていた︶。ここにはただ良心と正義公道なるものがあるばかりだ。もしもP氏がおれを引き取って養育してくれずに、おれの代わりに自分の息のことを心配したとしたら、おれはどうなったかわからないからである。
ところが、話はまるで別なのだ! わが末裔氏は、そういう物の考え方はしないのだ。この青年の弁護士が、実はこの人は単に友誼のために、青年のほうではほとんど気が進まないのに、無理押しつけに、みずから進んで彼のために奔走するに至ったのであるが、この弁護士がどんなに彼の前で、名誉、廉潔、正義公道、さらに単なる利害関係のうえからも、彼がいかなる義務を負うべきかを言い聞かせても、スイス仕込みの彼氏はちょっともなびかないのである、なんたることであろうぞ? まずこれまでのところはまずやむを得ないとしても、ここに、実に許しがたく、またいかなる奇妙きてれつなる病気を口実としても許しがたい事実があるのだ。すなわち、やっと自分の教授にもらったゲートルをぬいだばかりの百万長者は教師をしてみずから刻苦勉励しつつある高潔なる青年がけっして施しや補助金をくれというのではなく、たとえ法律的ではないにしても、自己の当然の権利を要求し、しかも自分が頼んでいるわけではなく、友人が代わって斡(あっ)旋(せん)の労をとりつつあるにすぎぬという事実をさえも了解し得なかったことである。実におうような顔をして、幾百万かの金によって無(む)辜(こ)の民を屈服せしむることができるようになったことに陶酔して、この末裔氏はわずか五十ルーブルの紙幣をとり出して、ぶしつけにも施しをしてくれるような顔をして、かの高潔なる青年に送ったのである。諸君よ、諸君はま(ヽ)さ(ヽ)か(ヽ)と思われるであろう? 諸君は憤慨し、諸君は恥辱を感じ、忿(ふん)怒(ぬ)の叫びをあげられることであろう、しかるに彼はかかることをあえてしたのである。金をただちに返したのはもちろんである。いわゆる、﹁竹(しっ)箆(ぺい)返(がえ)し﹂に顔へたたきつけたのである。さて、この問題はもはやいかなる方法をもって解決されるであろうか! 問題は法律的なものではなく、ただ単に公開して世に問うあるのみである。われわれはこのアネクドートを、その正確なるを保証し、もって世論へ訴えようとしている。聞くところによれば、さる錚(そう)々(そう)たるユーモリストは、この問題を一読三嘆すべき寸(エピ)鉄(ーグ)詩(ラム)に詠じたる由にて、こは単に地方のみならず、都会新聞の三面においても特種となすべき価値があるとのことである。すなわち、
レフ︹末裔氏の名︺はシネイデルの外套を
五年の間、もてあそび
寝ても覚めても、ひたすらに
いつもつまらぬ長談議、
巻いたゲートル窮屈に
帰れば形見の百万両。
やれ嬉しやとロシア語で
神に祈りをしたものを、
書生の金を巻き上げて。
コォリャは読み終えると、大急ぎで公爵に新聞を渡し、一言も物を言わずに、隅の方へ駆けて行って、隅のところへぴったりと身をおしつけて、両手で顔を隠した。彼にはこんなことがたまらなくはずかしかったのである。未だ初(うい)々(うい)しく、こうした濁ったことに慣れきらない彼の感じやすい心は、極度にといってもよいほどかき乱されていた。彼には何かしら異常な、たちまちにしてあらゆるものを破壊してしまうようなことが起こったような気がし、しかも声をあげて、これを朗読したという、ただそれだけのことによって、自分がその原因となっているような気がするのであった。
が、誰も彼もが、やはりそういったようなことを感じたようにも思われた。
令嬢たちにとっては、実にこそばゆいはずかしいことであった。リザヴェータ・プロコフィエヴナは極度の忿激を押さえていたが、やはり、おそらくはこの問題に容(よう)喙(かい)したことを、痛々しく後悔していたことであろう。もうすっかり黙ってしまっていた。公爵はどうかといえば、こういう場合に内気過ぎる人々がよくこういう場合に受けるのと同じような気持を感じていた。彼は他人のふるまいをわがことのように恥じ、自分の客たちに気恥ずかしい思いをして、最初はその人たちの顔を見るのさえも恐れたほどであった。プチーツィン、ワーリヤ、ガーニャそれにレーベジェフさえもが——皆なんとはなしに困りきったような様子をしていた。最も奇妙なのはイッポリットと﹃パヴリシチェフの息﹄が、やはり何かにあきれたような風をし、レーベジェフの甥がまた何やら不足そうにしていたことである。ただひとり拳闘家だけは全く落ち着き払って、口髭などをひねりながら、もっともらしい顔をして坐りこんでいた。いくらか伏し目がちであったが、それも、どぎまぎしたからではなく、かえって品(ひん)のいいつつしみ深さや、こちらが勝つということがあまりにもよく見透しがついていたためらしかった。この記事が極度に彼の気に入っているということは、あらゆる点から見てきわめて明瞭であった。
﹁いったい、これはなんだっていうんだ﹂とイワン・フョードロヴィッチは声低くつぶやいた、﹁まるで五十人もの下男が集まって作ったようなもんだ﹂
﹁閣下、失礼ですが、ちょっとお伺いします、あなたはそんなつもりでいて、われわれを侮辱しようっていうんですか?﹂イッポリットはそう言ったかと思うと、からだじゅうを震わした。
﹁それは、それは、それは立派な紳士として……ね、そうでしょう、閣下、かりそめにも立派な紳士たる以上は、こんなことは無礼じゃありませんか!﹂と拳闘家は不意になぜかしら身震いして、口髭をひねって、肩から胴まで伸ばしながら、がみがみ言いだした。
﹁第一、僕は君に﹃閣下﹄なんて言われる覚えはない。第二に、僕は君なんかになんら弁明するつもりはない﹂と恐ろしく憤慨したイワン・フョードロヴィッチは辛(しん)辣(らつ)に答え、席を立って、一言も物を言わずに、露台の出口まで引き退がったが、やがて一同に背を向けて階段のいちばん上のところに立ち止まった、——彼はリザヴェータ・プロコフィエヴナが席を立とうとさえも考えていないのを少なからず腹立たしく思っていた。
﹁皆さん、皆さん、失礼ですが、皆さん、どうか僕にひと言言わしてください﹂と心悲しく興奮して公爵が叫びだした、﹁そして、どうぞ、ですからお互いに、了解のいくように話をしたいものです。僕はね、皆さん、新聞記事のことはなんでもありません、平気です。ですけれども、ただね、皆さん、記事の中に書いてあることは、まるで根も葉もないことです。これは皆さん御自身、よく御存じのことですから申し上げることです。はずかしいくらいですよ。ですから、これが貴方たちのうちのどなたかお書きになったのだとしたら、僕はただ驚くばかりです﹂
﹁僕は今の今までこんな記事のことはちょっとも知らなかった﹂とイッポリットは明言した、﹁僕はこの記事をあたりまえだとは思いません﹂
﹁僕あ、書いてあったのは知ってましたが、しかし……やはり発表しろとは勧めませんでしたよ。なにせ時期が早いんだし﹂とレーベジェフの甥が付け足した。
﹁僕も知ってたんですが、僕には権利があります……僕には……﹂と﹃パヴリシチェフの息﹄が含み声で言いだした。
﹁なんですって! じゃ、あんたが御自分で作ったんですか?﹂と公爵は好奇心をもって、ブルドフスキイを見ながら尋ねた、﹁いったい、そんな記事ってあるもんでしょうか!﹂
﹁だって、そんなことを聞く権利があなたにあるとは思いませんね!﹂レーベジェフの甥が口を出した。
﹁だって、ブルドフスキイさんに、こんな芸当ができるなんて、驚くほかはないじゃありませんか。……いや……僕が言いたいのは、あなたたちがこの問題を世論に訴えたというのに、なぜさっき僕が友人たちのいる前でこの問題のことを言いだした時に、あんなにすぐに腹を立てたのかということです?﹂
﹁結局そこですよ!﹂とリザヴェータ・プロコフィエヴナは腹立たしげに言いだした。
﹁ねえ、公爵、お忘れなすったんですね﹂見るに見かねたレーベジェフは、まるで熱病にでもかかったように、いきなり椅子と椅子の間を分けて前へやって来た。﹁ようく呑み込んでてくださいよ。あいつらをここへ通して、話を聞いておやりになったのは、ただあなた様のお優しいお気性と、全く御立派なお情けによることです、そしてこんなことをしていただく権利なんて、あいつらにはちょっともあるもんじゃござんせん。おまけに、この一件はガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんにお任せになったものですし、しかも、こうなすったのはあなた様のなみなみならぬ御好意によることなんでございますもの。それにただいまねえ、公爵様、せっかくいいお客様がいらしっているのに、あなた様はこんな連中のためにせっかくのお集まりのかたを犠牲になすって、つまり、こいつらをさっさと通りへつまみ出さないって法はありませんよ。ですから私はこの家の主として、それこそ大喜びで……﹂
﹁全く、それに相違ないぞ!﹂と部屋の奥のほうからイヴォルギン将軍の雷のような声が聞こえて来た。
﹁もうたくさんですよ、レーベジェフさん、結構、結構!﹂と公爵はやりだしかかっていたが、憤激の叫びが彼のことばを押し消してしまった。
﹁いや、公爵、失礼ですが、今はこれぐらいでたくさんじゃありませんよ﹂とレーベジェフの甥の声はほとんど一座の者を圧倒してしまった、﹁この際に、この問題をはっきりと、たしかめておかなくちゃならん、どうもまだ、よくわかってもらえないようですからね。この問題には法律的なごまかし方(かた)はないのです、それをいいことにして、僕たちをたたき出そうと脅かしなさる! 公爵、いったいあなたは、この問題が法律的なものではなく、もしも法律的に調べたら、合法的にあなたにただの一ルーブルでも請求する権利はないというくらいのことが呑み込めないほどの頓馬だと思ってるんですか? ところがね、ちゃあんと、呑み込んでいますよ。法律的な権利がないにしても、その代わりには、人道的な、自然の権利があるんですからね、常識の権利と良心の声っていうやつがあるんですからね。この権利は人間のつくった腐った法典なんかには、どこを捜したって載っちゃいないでしょうが、清廉潔白な人、言い換えると、常識のある人は法典に載っていないような点にまでも、常に常に清廉潔白な人であることを義務としているのです。僕たちが通りへつまみ出されるのも︵ただいま、そう言って脅かされましたが︶、それも恐れずに、また、こんなに遅くなってからおたずねするのはぶしつけなことだとは承知しながら︵もっとも遅くなってから来たわけではありません、あなたが下男の部屋に待たしておいたから遅くなったのです︶、こちらへまいったのは、ただお(ヽ)ね(ヽ)だ(ヽ)り(ヽ)をしているのではなくって、当然のことを要求しているだけのことだからです。もう一度申しますが、何も恐れずにまいったのは、あなたを常識のある人、つまり、節操と良心のある人だと思ったからなのです。全く、これは本当のことです、だからこそ、あなたんところにいる居候だの、無心をする連中なんかのように、腰を低くしてはいっては来なかったのです。全く束縛されない自由の人として、昂然と、おねだりに来たのではなくって、自由な、どこへ出してもはずかしくない要求を持って来たのです︵いいですか、お願いではなくって、要求をもって来たのですよ、ようく覚えててください!︶。僕たちは威厳をもって明らさまに質問を提出しますよ。あなたはブルドフスキイのことについて、御自分を正当だと思いますか、不当だと思いますか? あなたはパヴリシチェフ氏に恩を受けた、あるいはおそらく、死ぬところを助けてもらった、とお思いになりますか? もしそうお思いになるとすれば︵わかりきったことですが︶、何百万という財産をもらった手前、今はブルドフスキイと名乗ってはいるが、その実はパヴリシチェフの息たる者が困っていると聞いて御恩返しをしようというつもりはありませんか、ないしは良心に照らして当然のことだとは思いませんか。承知か、不承知か? もし承知ならば——すなわち、別のことばで言うと、あなたがたのことばで節操といい、良心といい、僕たちが常識といういっそう正確な名称を充(あ)てているものを、あなたがもっておいでだったら、僕たちの言い分を聞いてください。そうすれば問題はけりがつくことです。こちらから頼まれたり、お礼を言われたりして承知するようなことはしないこと、そんなものは当てにしないでください。というのは、あなたがそうするのはけっして僕たちのためではなくって、正義公道のためなのですからね。もしも不承知だというのなら、つまりだ(ヽ)め(ヽ)だ(ヽ)とおっしゃるのでしたら、じきに僕たちは帰りますし、もう文句はありません。ただ、面と向かって、みんなのいる前で、あなたという人は粗(そほ)笨(ん)な頭脳をもち、低級な発達をした人だと言ってやるだけです。そうしてこれから先、あなたは節操と良心のある人間だとみずから名乗ることもできないし、言う権利もないと言ってやりましょう。それから、あなたっていう人は、この権利をあまりにも安(あん)直(ちょく)に買い入れようとしているのだと言ってやりますよ。僕の言うことはこれでおしまいです。質問を出しましたからね。もしできたら、さっさと今のうちに追い出しなさい。あなたには、これくらいのことはできるはずです、あなたは勢力家ですもの。ただし、僕たちはとにもかくにも要求をしているのであって、おねだりをしているのではないということを、ようく覚えててください。要求はする、しかし、ねだってはいませんよ!﹂
レーベジェフの甥はかなりに熱くなって、ことばを切ってしまった。
﹁要求する、要求する、要求するんです、おねだりじゃありません……﹂とブルドフスキイはぶうぶう言って、蝦(えび)のようにまっかになった。
レーベジェフの甥がひとくさりやってしまうと、一同はなんとはなしに動揺してきて、ぶつぶつ言う声さえも聞こえてきた。もっとも、一座の者は誰も彼もが、明らかにこの問題にかかわり合うのを避けていた。避けないものはただ一人、熱病にかかっているようなレーベジェフだけであったろう︵妙な話ではあるが、レーベジェフは明らかに公爵の味方なのにもかかわらず、自分の甥の話を聞くと、同族の楽しい誇りといったようなものを感じていたらしかった。少なくとも、彼は満足そうな一種特別な顔をして、一同を見回したのであった︶。
﹁僕の考えでは﹂と公爵はきわめて静かに語りだした、﹁ドクトレンコさん、僕の考えでは、あなたが今おっしゃったことの半分くらいは全く本当のことです、いや、大半は事実だと認めてもいいくらいです。そこで、もしあんたのお話に何か言い抜かしたことがなかったら、僕は全く同感なのでした。さて、いったい、何を言い抜かしたのかということになると、はっきり口に出して言い表わすことができません。しかし、あなたのことばがあくまでも真実だというには、もちろん、何かが欠けています。けども、いっそ例の問題にとりかかるほうがいいでしょう。皆さんにお尋ねしたいのですが、なんのいわれがあって、こんな記事を発表なすったのですか? だって、この記事の片言隻句に至るまで、誹(ひぼ)謗(う)ならぬはないじゃありませんか。だから、僕に言わせると、あんたたちは卑劣なことをしたということになるのです﹂
﹁ちょっと待って下さい!……﹂
﹁旦那様!﹂
﹁それは……それは……それは……﹂興奮している客のほうから一時にそんな声が聞こえてきた。
﹁その記事については﹂とイッポリットがかん高い声で口を入れた、﹁その記事については僕もほかの者も賛成しないって、さっき申し上げたはずです! それを書いたのは、この男ですよ︵と、並んで坐っている拳闘家を指さした︶。それはぶしつけな書き方で、無学らしく、いかにもこの男と同じ程度の退職軍人が書きそうな文句をいれて書いてあります。この男がばかでおまけに職人風情だったことは、僕も本当だと思います。これは毎日、面(つら)をつかんで言ってやることですけれども、しかしとにかく、この男にも半分は権利があるのです。世論に訴えるということは、何びとにも与えられた、したがってブルドフスキイにも与えられた合法的な当然の権利なのです。愚にもつかないことを書きたてたことに対しては、この男に責任を帯びさせたらいいんです。それから僕が一同を代表して、あなたの御友人が席にいることに反対した、その件については、皆さんがたに、ぜひとも説明しなけりゃならんと思います。だいたい、僕が異議を申し立てたのは、僕たちの権利を主張するためであって、実を申せば、僕たちは証人のいることを望んでさえもいるのであって、さっき、まだここへはいって来ない先から、四人が四人とも、それは賛成してたのです。あなたの証人がどなたであろうと、たといお友だちであろうとも、ブルドフスキイの権利を認めずには済まされないでしょうから︵なにしろ、数学的に明らかなことですからね︶、あなたの証人がお友だちとあれば、なおさら好都合です。そうなれば事件の真相はいよいよ明瞭になりましょうからね﹂
﹁それに違いありません、僕らはそう決めてたんです﹂と、レーベジェフの甥が言い放った。
﹁それなら、そういうおつもりでいたんでしたら、なぜさっき、話の初まりから、あんなにどなったり、騒いだりしたんです!﹂と公爵はいまさらながらあきれてしまった。
﹁あの記事については、ねえ公爵﹂と、ぜひともひとこと言おうとしていた拳闘家は、愉快そうに元気づいて、喙(くちばし)を容れた︵婦人たちが同席していたのがたしかによくきいたのではないかとも疑われた︶。﹁あの記事について申すと、正直のところ、あれは僕がその筆者です。いつも弱っているのに免じてやっている病身の友人が、今、あの記事をこっぴどくやっつけましたけど。しかし、あれは自分で書いて、心から親しい友人のやっている雑誌へ通信という形で発表したものです。ただ詩だけは実際に僕が書いたものではなく、事実、有名なユーモリストの筆にかかるものです。ブルドフスキイにはひととおり読んで聞かせただけですが、しかも全部じゃありませんでした。そしてすぐに発表することに賛成してくれたんですが、僕は賛成を得なくっとも発表することはできたということを御承知なすってください。世論に訴えるということは何びとにも与えられた、貴重な、有益な権利です。ねえ、公爵、願わくばあなた御自身もこれを否定しないくらいに開けた人であって欲しいものです……﹂
﹁なにも否定なんかいたしません、けれどどうです、あなたの書かれた記事の内容は……﹂
﹁辛辣だとおっしゃりたいんでしょう? けれども、あれはいわゆる公益のために書いたもんじゃありませんか。だからこんな好い機会を逃がすって話はなかったんですよ? 悪いことをするのはもってのほかには相違ありませんが、何よりもまず公益のためということになるんですからね。あの記事に若干不正確なところがある、つまり誇張したところがあるというのでしたら、何より先に根本の動機が主要なものであって、何よりもまず目的や主題に重きを置いていることを認めてください。重要なのは有益な引例であって、細かいことはあとで調べることにしたいのです。それに文章の調子というものもあるし、また、いわゆるユーモラスに書こうという考えもあるし、結局、誰が書いてもこんな風に書くものじゃありませんかね! は、は!﹂
﹁そう、しかし全く間違っていますよ、方法が! 皆さん、僕ははっきり申しますが﹂と公爵は叫んだ、﹁あなたがたは、どんなことがあっても僕という者がブルドフスキイの要求を容れるのを肯(がえ)んじないという仮定のもとに、あの記事を発表なすったのですね。したがって、それによって僕を脅やかし、恨みを晴らそうっていうんですね。けれども、どうして前もってわかるのです、僕は、ひょっとしたら、ブルドフスキイ君の要求を容れる気になってるかもしれないじゃありませんか? 今、僕は皆さんのいる前で公然と言いますけれども、要求は容れるつもりです……﹂
﹁ああ、それでこそ、思慮分別のある高潔な人の、よく物のわかった立派なことばです!﹂と拳闘家が宣言した。
﹁まあ!﹂とリザヴェータ・プロコフィエヴナは思わず叫んだ。
﹁もうたまらん!﹂と将軍がつぶやいた。
﹁ちょっと、皆さん、ちょっと待ってください、僕は詳しくお話しします﹂と公爵は哀願した、﹁五週間ほど前に僕がZにいた時、こちらのブルドフスキイ君から一切を任されているチェバーロフという人がたずねて来ました。ケルレル君、あなたは、あの記事の中で、あの人のことをたいへん賞めて書いてましたが﹂と、にわかに笑いだしながら、公爵は拳闘家をかえり見た、﹁しかし、僕はあの男がちょっとも気に入りませんでした。僕は最初の時から、このチェバーロフという男が問題の核心をつかまえていて、明けすけな言い方ではありますが、この人がブルドフスキイ君の純情なのを利用して、こんなことを始めるように焚(た)きつけたのかもしれないと、こう見て取ったのです﹂
﹁そんなことを言う権利はあなたにありませんよ、……僕は……純情じゃありません……それは……﹂とブルドフスキイは興奮してつぶやきだした。
﹁そんなことを臆測する権利はあなたにありませんよ﹂と説諭でもするような口調でレーベジェフが口を入れた。
﹁これは実に失敬きわまる!﹂とイッポリットが金切り声を出した、﹁失礼な、あてはずれな臆測だ、ちょっとも本筋に触れてない!﹂
﹁御免なさい、皆さん、御免なさい﹂と公爵はうろたえてあやまった、﹁どうか、勘忍してください。これはつまり、互いに胸(きょ)襟(うきん)をひらいたほうがよろしくはないかと思ったからのことなのですが、その辺はお察しに任せます。僕はチェバーロフに対して、自分はペテルブルグにいないのだから、さっそく、友だちにこの問題の処理を頼むようにしましょうと言いました。それで、ブルドフスキイ君、それについてはここでお知らせいたしましょう。正直に申しますとね、皆さん、僕はこの問題はきわめて詐欺めいたものに見えたのです。というのは、その時チェバーロフが……。ああ、そんなに腹を立てないでください、皆さん! 後生ですから腹を立てないでください!﹂と公爵は、またもやブルドフスキイに憤激の色があらわれ、仲間の人たちも興奮して、まぜかえそうとしているのを見て、驚いてこう叫んだ、﹁この問題を詐欺めいたもののように考えたと僕が言ったからとて、なにも皆さんに個人的な関係を及ぼすはずのものじゃありません! そのころ、皆さんのうちのどなたにも、個人的にお目にかかったこともなく、それにお名前さえも僕は知らなかったんじゃありませんか。僕はただチェバーロフに会っただけで、そういう判断を下したのですからね。僕はだいたいのことを言ってるんです……なぜって、皆さんは御存じないかもしれませんが、あの遺産を譲ってもらってからというもの、ずいぶん僕は人にだまされてきたからなんです!﹂
﹁公爵、あなたは実に初(う)心(ぶ)なんですね﹂とレーベジェフの甥があざけるように指摘した。
﹁おまけに、公爵で百万長者ときている! あなたは、たぶん、本当に気立てが善良でばか正直なのかもしれませんけれど、やっぱり﹃世間に通用している法則﹄を免れることは、もちろんできやしませんよ!﹂とイッポリットは宣言した。
﹁たぶんそうでしょうとも、皆さん、たぶん、そりゃ﹂と公爵はあわてて、﹁もっとも、お話の﹃世間に通用している法則﹄というものが、いったいどんなものなのかは、よく呑み込めませんが。しかしまあ、さっきの続きを申します。ただやたらに腹を立てないでください。誓って申しますけれど、僕はあんたたちに恥をかかそうなんて了簡はさらに有(も)っておりません。それだのに、皆さんは実際はどうなんでしょう。誠心誠意をもってお話なんかできないじゃありませんか、言ったが最後、すぐに腹をお立てになる! それにしても、第一に僕が非常に驚いたのは、﹃パヴリシチェフの息(むすこ)﹄っていう者がこの世にいるということ、チェバーロフの説明によると、実にみじめな境遇にいるということです。パヴリシチェフさんは僕の恩人であり、親父の友人でもあります︵ああ、ケルレル君、君はなんだって、あの記事の中で僕の親父のことを、あんなにでたらめに書き立てたんです? 中隊の金を費い込んだだの、部下の者に侮辱を与えたのと、そんなことは断じてないことです——これは僕が信じて疑わないところです、よくもまあ、あんな誣(ふげ)言(ん)を書く気になれたもんですね?︶。しかし、パヴリシチェフさんについて書かれた記事に至っては全く言語道断です。君は実に高潔な人を、淫蕩的で軽薄な人だなどと、まるで実際に君が真実なことでも語っているかのように、思いきって大胆に、きっぱりと断言していますね、ところがあのかたはこの世にまたとないほどの純潔なかただったのですよ! それにまた実に立派な学者でもあったのです。また科学界における多くの尊敬すべき人たちと通信を交わし、たくさんの金を科学の進歩のために注ぎ込んだのでした。また彼の愛情や美徳に至っては、おお、もちろん、君の書いたのは公平な見方です、そのころ僕はほとんど白痴同然で、なんにもわからなかったのですが︵もっともロシア語はとにかく、話しましたし、また相手が何を言っているのかくらいはわかりましたよ︶。しかし、今ここで思い起こしていることは、全部その真価がわかります……﹂
﹁ちょっと失礼ですが﹂とイッポリットは黄色い声を出して、﹁あなたのお話は、あんまりセンチメンタルすぎませんか? 僕らは子供じゃありませんよ。あんたは話の本筋へさっさと取りかかるつもりだったんでしょう。もう追っつけ十時になりますよ、それを承知してください﹂
﹁そう、そう、皆さん、御免なさい﹂と公爵はすぐに同意した、﹁初めは疑ってみたのですが、そのあとでは、自分だって勘違いをしていないとも限らない、パヴリシチェフさんには、たしかに息(むすこ)さんがあったかもしれないと、そういう気持になりました。しかし、ひどく驚いたのは、その息さんが、こんなにやすやすと、つまり、公然と自分の素姓を暴露して、それに大事なことですが、自分の母の顔へ泥を塗ったということです。それというのも、チェバーロフがすでにその時に、世論に訴えるといって脅やかしたからで﹂
﹁そんなばかなことを!﹂とレーベジェフの甥がどなりだした。
﹁あんたにはそんなことを言う権利がない、……そんなことを言う権利はないんですよ!﹂とブルドフスキイも叫んだ。
﹁息は父がふらちなことをしたってその責任を負うはずのものではなし、また母親にも罪はないはずです﹂とイッポリットは熱くなって金切り声を立てた。
﹁それならば、なおさらあわれむべきだという気がしますが、……﹂とびくびくしながら公爵は言いだした。
﹁あなたはね、公爵、初(う)心(ぶ)っていうばかりではなく、ひょっとしたら、それ以上かもしれませんね﹂と、レーベジェフの甥が意地悪そうに、せせら笑った。
﹁いったい、あなたはどんな権利があったんです!……﹂とイッポリットはきわめて不自然な、黄色い声を張りあげた。
﹁なにも、けっして、そんなものはありませんでした!﹂と、公爵はあわててさえぎった、﹁これはあなたのおっしゃる通りです、よくわかります、でも、これはついうっかりしてたもんですから。で、僕はその時すぐに自分に言って聞かせました。自分の個人的な感情が問題に影響を与えるようなことがあってはならない、なぜかというに、もしも自分がパヴリシチェフに対する感情のために、ブルドフスキイ君の要求を容れることが自分の義務だと考えたならば、たとえどんな場合にでも、すなわちブルドフスキイ氏を自分が尊敬していようと、いまいと、必ず要求を容れなければならないと心ひそかに考えたのです。皆さん、こんなことを僕が言いだしたのは、実はただ、あの息が母の秘密を世間の人に曝露するということが、とにかく、僕には不自然に思えたからなのです。……要するに、あのチェバーロフは悪党に相違あるまい、ブルドフスキイ君を、まんまとだまして、こんな詐欺をするようにけしかけたんだろうと、こう思い込んだのがそもそもの始まりでした﹂
﹁しかし、もう聞いちゃおられん!﹂という声がお客たちのほうから起こった。なかには椅子から飛び上がった者さえもあった。
﹁皆さん! そして僕がそういう肚(はら)を決めるに至ったのは、実は不仕合わせなブルドフスキイ君はきっと正直な、頼るべきところもない、まんまとぺ(ヽ)て(ヽ)ん(ヽ)師(ヽ)の手にかかるような優しい人に相違ない、してみれば、なおさらこの人を﹃パヴリシチェフの令息﹄として援助する義務があるわけだ——まず第一にチェバーロフに対抗し、第二には誠意と友情とをもって、令息を善導するように努めていこう、第三には自分の胸算用でパヴリシチェフ氏が僕のために費やしたと思う金の全部、すなわち一万ルーブルのお金をお渡しすることにして、それによって援助をしようと考えたのでした﹂
﹁まあ! たった一万ルーブル﹂とイッポリットがどなりだした。
﹁ねえ、公爵、あなたは算術があんまりお得意でないのか、それともお得意すぎるかでしょうね。見かけは、おめでたそうな風をしていらっしゃるけれど﹂とレーベジェフの甥が叫んだ。
﹁僕は、一万ルーブルじゃいやだ﹂とブルドフスキイが言った。
﹁アンチープ! 承知したまえ!﹂と、拳闘家はイッポリットの椅子の背ごしに、身をかがめて、早口に、わきへ聞こえるくらいの声でささやいた、﹁承知したまえよ、あとになれば気がつくよ!﹂
﹁ま、お聞きなされ、ムイシュキンさん!﹂とイッポリットは金切り声を出した、﹁ようござんすか、僕らはね、ばかじゃないんですよ。おそらく、そこにおいでのお客様や、僕らを見て憤慨しながら、せせら笑いをしてなさる御婦人がたや、わけても、そちらの、もちろんお近づきになる光栄を僕はもっていませんが、何かお噂を聞いたような気もする、そちらの旦那様などが︵と言って彼はエヴゲニイ・パーヴロヴィッチを指さした︶、みんなで思っていらっしゃるような、そんな下(げ)衆(す)なばかどもじゃないんですよ、僕らは……﹂
﹁ちょっと、ちょっと、皆さん、また、あんたたちは勘違いなすって!﹂と興奮して公爵は彼らに呼びかけた、﹁第一にケルレル君、あなたはあの記事の中で、僕の財産を実に、実に不正確に書いておいでですね。僕はけっして何百万なんて金を譲り受けはしませんでしたよ。おそらく僕の持ってるのは、あんたが予想されたののせいぜい八分の一か、十分の一くらいのものでしょう。第二に、僕のために何万て金を費ったなんてことはありませんよ。シュネーデル先生は年に六百ルーブルずつ受け取ってましたが、しかも、それも初めの三年きりですし、それにパヴリシチェフさんはいい家庭教師を見つけにパリへなんか行ったことは一度もありませんでした。これまた誣言というものです。僕のつもりでは、僕のために費やされた金はとても一万ルーブルには達しないのですけれど、それでも僕は一万ルーブルと決めたのです。ここで御承知いただきたいのは、当然の義務として、かりにブルドフスキイ君を熱愛しているとしても、これ以上は差し上げられないということ、ただ単にデリカシイの感情のうえからいっても差し上げられないということです。というのはほかでもありません、つまり、これは要するに御恩返しのためであって、けっして贈り物を差し上げるのではないからです。皆さん、どうして皆さんにこのことがおわかりにならないのか、僕には見当がつきません! それにしても後には不仕合わせなブルドフスキイ君に、友情をもって報いようと思ったのでした。たしかにブルドフスキイ君はだまされていたのです。なぜというのに、もしもだまされているのでなかったら、たとえば今日ケルレル君があの記事の中であえてしたような母親の秘密の曝露なんかっていう、あんな下(げ)衆(す)なことに自分から承諾を与えることができるわけはありません……それにしても、皆さん、あんたたちはなんだってそう腹を立てなさるんです! こんなことでは、結局、お互いに了解し合うことができないじゃありませんか! ああ、僕が考えたとおりになっちゃったのか! 今にして僕は、僕の臆測の正しかったことが、はっきりと眼に見えてわかってきた﹂公爵は相手の興奮を鎮めようとし、しかもそれがかえって興奮を増すばかりだということには気がつかずに、夢中になって口説いていた。
﹁何? 何がわかってきた?﹂と、人々はほとんど憤激の極に達して彼に迫った。
﹁とんでもない、第一に、僕はブルドフスキイ君という人を自分で、はっきりと見て来たのです。だから、どんな人だかということは今よくわかるのです。……この人は純な、しかも、みんなにだまされている人です! 頼るところのない人です……だから僕は大目に見てやらなければなりません、また第二に、僕がこの問題を委任したガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんからは、僕が旅行をしていて、ペテルブルグへ行ってからは病気などしていたので、何のたよりもありませんでしたが、この人に今、ちょうど一時間前にはじめてお目にかかりましたら、いきなり、チェバーロフの策略はすっかり見すかしてしまった、それにはその証拠を握っていると、言って聞かされたのです。それにまた、あの人の話ではチェバーロフというやつは、僕が予想していたのと全く同じ人間でした。僕はね、皆さん、みんなが僕のことを白(ば)痴(か)だと言っていることも、チェバーロフが僕ってやつがやすやすと金を出すやつだという世間の評判を聞いて、まんまとだましてやろうと考え、しかもパヴリシチェフさんに対する僕の気持を利用したらわけはないと考えていたのだぐらいのことは、よくわかっています。しかし、いちばん大事なことは、——まあ、聞いてください、皆さん、おしまいまで! ——大事なことは、今、にわかにブルドフスキイ君がけっしてパヴリシチェフの息(むすこ)なんかじゃないってことが、はっきりわかったことです! たった今、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが僕に知らしてくれて、確かな証拠が手にはいったと断言なすったのです。さあ、皆さんはどうお思いになります。今までなすったことが、結局本当とは思えないじゃありませんか! まあ、お聞きなさい、確かな証拠があるっていうんですよ! 僕はまだ本気にはなれません。自分では本気には、どうしても。僕はまだ疑っています。ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんが未だ詳しいことは全然、聞かしてくださらないので。けども、チェバーロフが食わせ者だということ、それはもう疑う余地がありません! あの男は、不仕合わせなブルドフスキイ君や、こうして健(けな)気(げ)にも友人を︵たしかにブルドフスキイ君は皆さんの支持を必要としている様子です。それは僕にだってよくわかってます!︶心から支持しようとしてお出かけくだすった皆さんをも、すっかり口車に乗せてしまって、一人のこらず、こんな詐欺事件に巻き込んでしまったのです。だって、これは事実において、い(ヽ)ん(ヽ)ち(ヽ)き(ヽ)な詐欺じゃありませんか!﹂
﹁どうして詐欺なんだ!……どうして﹃パヴリシチェフの息﹄じゃないんだ? ……どうしてそんなことがあるもんか!﹂と、口々に叫ぶ声が聞こえる。
ブルドフスキイの一派は名状すべからざる恐(きょ)惶(うこう)を来たしていた。
﹁ええ、もちろん、詐欺です! だって、もしもブルドフスキイ君が今、﹃パヴリシチェフの息﹄でないことが判明すれば、その場合に、ブルドフスキイ君の要求は、そのまま詐欺行為ということになるでしょう︵つまり、むろん、これは同君が事情を知っていたと仮定してのことですが!︶、ところが、ブルドフスキイ君がだまされたのだということ、そこに問題があるのです。だからこそ、僕は同君の立場を明らかにしようとして頑張っているのです。僕は、だからこそ、同君は、その純情なる点において憐(れん)憫(びん)に値するのだと言い、また同君は支持されなかったら、やっていけないのだと言うのです。もしそうでなかったとなれば、ブルドフスキイ君はやはり、この事件によって、ぺ(ヽ)て(ヽ)ん(ヽ)師(ヽ)ということになってしまうのです! もっとも僕は、同君は何も知らないと、すでによく信じきってはいます! やはり僕自身もスイスへ行くまでは、同じような状態にいたものです。やはり取りとめもないことをつぶやいていたのでした——思っていることを口に出して言い表わそうと思っても、それがどうしてもできない……。そういう気持はよく僕にはわかっています。僕は大いに同情します、なにしろ、僕自身がやはりほとんど同じだったからです、だからこんなことを言ってもさしつかえがないわけです! ところで、やはり僕は、たとえこの際、﹃パヴリシチェフの息﹄がいないにしても、また、いっさいのことが、い(ヽ)ん(ヽ)ち(ヽ)き(ヽ)だとわかったにしても、やはり自分が決めた方針を変えずに、パヴリシチェフさんの記念として、一万ルーブルをお返しするつもりです。僕はブルドフスキイ君のことが起こるまでは、パヴリシチェフさんの記念として、この一万ルーブルの金を学校の基本金にするつもりでいたのでした。しかし今となっては、学校のほうへ使うのも、ブルドフスキイ君に差し上げるのも、同じわけになるでしょう。ブルドフスキイ君が、かりに﹃パヴリシチェフさんの息さん﹄でなくっともやはり﹃パヴリシチェフさんの息さん﹄とほとんど同じようなものだからです。同君自身も意地悪くだまされていたのですからね。自分では本当にパヴリシチェフの息だと心から思い込んでいたのです! 皆さん、ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんのお話を聞いてください。そしてこの話をおしまいにしましょう。そんなに怒らないでください。そんなに興奮なさらんで、まあ、お坐りください! ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチさんはすぐにも何もかも説明してくださるでしょう。正直に申しますと、僕自身も詳しいことを、全部聞きたくってしようがないんです。あの人の話ではね、ブルドフスキイ君、あの人はわざわざプスコフにいるあんたのおっ母さんをたずねて行かれたそうですけれど、あんたがあの記事の中でむりやりに書かせられたように、けっして死にかかってなんかはいなかったそうですよ。……さ、どうぞ、皆さん、お掛けください、お掛けなすって!﹂
公爵はみずから腰をおろして、席から飛び上がろうとするブルドフスキイの一行を、再び元の席に着かせることができた。
最後の十分間ないしは二十分間というもの、彼は夢中になって、声を高く張りあげ、気短かに、一座の人たちを声で圧倒しようとでもするかのように、早口にしゃべり続けていた。しかしあとでは、ついうっかりと口から出て来た二、三のことばや臆測に、ひどく後悔せずにはいられなかった。もしも、われをも忘れるほどに興奮したり、夢中になったりしなかったら、こんなに露骨に、せかせかと、人の前でひとりよがりな思わくや、言う必要もないあけすけなことを平気で言ったりなどはしなかったであろう。ところが自分が席に着くやいなやたちまちに痛々しいほどはげしい悔悟の念が胸をつくのであった。自分がスイスへ行って治療をしてもらったと同じ病気が相手にもあるかのような口ぶりを公然ともらして、ブルドフスキイを﹁侮辱した﹂点を除いても学校へやるはずの一万ルーブルを、彼のつもりではまるで贈り物をやるかのように、ぶしつけに不用意に、しかもみんなのいる前で他人にも聞こえるように提供すると申し出たことを許すにしても、さきの病気のことは、実にただならぬことであった。﹃明日まで待って、相(あい)対(たい)の時に申し出たほうがよかった﹄と公爵はすぐに思いなおした、﹃しかし、今となっては、もう訂正のしようもあるまい! そうだおれは白(ば)痴(か)だった、まぎれもない白痴なんだ!﹄と、慚(ざん)愧(き)の念にうたれ、極度に悲観して、彼はひとりでこう決めてしまった。
とかくするうちに、今までわきのほうにたたずんで、頑として口を開かなかったガヴリーラ・アルダリオノヴィッチが、公爵に招かれて、前のほうに出て来て、彼のわきに立って、公爵に委任されていた問題に関する報告を、落ち着いて、はっきりと、やりだした。またたくうちに一同の話し声は聞こえなくなった。誰もが、わけてもブルドフスキイの一行は、非常な好奇心を寄せて耳を傾けた。
︵つづく︶