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第三編
九
自分の家へはいると、リザヴェータ夫人はまず最初の部屋に立ち止まった。すっかり疲れ果てて、これ以上、先へ進む勢いもなく、長椅子にどっと腰をおろしたが、もう公爵に席をすすめることさえも忘れ果てていた。そこはとても大きな広間で、まん中には丸いテーブルがあり、暖炉もついていて、窓のそばの装飾棚には、たくさんの花が置いてあり、後ろの壁のところには庭へ出る別のガラス戸がついていた。すぐにアデライーダとアレクサンドラが物問いたげに、いぶかしげな眼で公爵と母を眺めながらはいって来た。
令嬢たちは別荘では、たいてい朝は九時ごろに床を離れた。ただアグラーヤがこの二、三日、いつもよりちょっと早く起きる癖がついて、庭へ散歩に出るようになったが、早くなったとはいえやはり七時などではなく、八時か、かえって、それよりも遅いくらいであった。さまざまな不安のために、実際に昨夜まんじりともしなかった夫人は、もうアグラーヤが起きているだろうと考えて、娘と庭で出会うつもりで、わざわざ八時近くに起きたのであった。ところが、彼女は庭にも寝台にもいなかった。そこで夫人はすっかり驚いてしまって、姉たちを呼び起こした。女中に聞いてみると、アグラーヤはもう七時まえに公園へ出て行ったとのことであった。姉たちは気まぐれな妹の、新しい気まぐれを冷笑して、もしも公園へアグラーヤを捜しになど行ったら、おそらく、よけいに怒るだろうと、母に注意した。また、必ずや今ごろは、あの子が三日まえに話していた緑のべンチ、S公爵とそれがもとで危うく喧嘩しそうになった、あの緑色のべンチ︵というのはS公爵がそのべンチのあたりの景色がちっとも珍しくもなんともないと言ったからである︶、そこに本を持って腰をかけているだろうとも言った。二人のあいびきを見つけたうえに、娘たちの妙なことばを聞かされて、リザヴェータ夫人はいろんな理由から、ひどく驚かされた。しかし、今、公爵をいっしょに連れて来てみると、いよいよ自分が問題をひき起こしたことに、いまさらながらおじけづいた。﹃アグラーヤが公園で公爵に出会って、話しをしていたからといって、たとえば、それが前もって約束してあったあいびきであったにしろ、それがいけないという法がどこにあるのか?﹄
﹁ねえ、公爵﹂彼女はついに元気を出して、﹁わたしがあんたをここへ尋問するために引っぱって来たなんて思わないでちょうだいね、……わたしはね、昨日の晩のことがあったので、もうしばらくあんたにお目にかかりたくないと思っていたはずですからね……﹂
彼女はちょっとあとが続かなかった。
﹁けど、やっぱりあなたは、どうして僕が今日アグラーヤさんに会ったのか、聞いてみたくってしようがないんでしょう?﹂と公爵は泰然自若として、言い放った。
﹁まあ、そうですわ、聞きたかったわ!﹂と夫人はすぐにかっとした。﹁あけすけに言われたって、こわかありませんよ。なぜって、わたし、誰を侮辱するわけでもなし、また誰かを侮辱しようなんて思ったこともないんですからね……﹂
﹁とんでもない、侮辱するしないは別にしても、聞いてみたいのが人情です。あなたはお母さんでしょう。今日、僕がかっきり朝の七時に、緑色のベンチのわきでアグラーヤさんに会ったのは、昨日、あのかたから来いと言われたからです。あのかたはゆうべ僕に、ぜひ僕に会って、重大問題について話をしたいって、そういう便りをくだすったのです。それで、僕たちはお会いして、まる一時間も、主として、あのかただけに関するいろんなことをお話ししたんです。ただ、それだけのことです﹂
﹁もちろん、ねえ、あなた、疑いもなくそれっきりでしょうね﹂と夫人はしかつめらしく言うのであった。
﹁すてきだわ、公爵!﹂アグラーヤが不意に部屋の中へはいって来て、口を出した、﹁わたしのことを、ここで嘘をつくのを潔しとしない女だって、そう思ってくだすった、ほんとにありがとう。ママ、もうたくさんじゃないの、それとも、もっと何か尋問するつもり?﹂
﹁ねえ、おまえ、わたしは今までに、一度だっておまえの前で、顔を赤くしなくちゃならないようなことはなかったのですよ。……もっとも、ひょっとすると、おまえはわたしが顔を赤くしたら嬉しいんだろうけれど﹂夫人は諭(さと)すような調子で答えた、﹁さようなら、公爵、御迷惑かけて、御免なさいね。でも、どうぞわたしが相変わらず、あなたを尊敬していることを信じていてくださいな﹂
公爵はさっそく両方へ会釈して、黙々として出て行った。アレクサンドラとアデライーダは薄ら笑いをして、何やら二人でささやきかわしていた。リザヴェータ夫人はきつい眼をして二人をにらんだ。
﹁ママ、わたしたちはただ﹂とアデライーダが笑いだした。﹁公爵があんなに立派なおじぎをなすったからよ。どうかすると、てんで見られたさまじゃないのに、いきなり、まるで……まるで、エヴゲニイさんみたいに……﹂
﹁細かな心づかいや品位というものは、心そのものから授かるもので、ダンスの先生からじゃありませんよ﹂と夫人は修身の本に書いてあるようなことを言って、アグラーヤには眼もくれずに、二階の自分の部屋へ行ってしまった。
公爵が九時近くになって、わが家に帰ってみると、露(テラ)台(ス)には、ヴェーラ・ルキヤノヴナと女中がいた。二人はいっしょになって昨日の乱脈のあとをかたづけて、掃除をしていた。
﹁やれやれ、ちょうどお帰りになるまでにかたづいた!﹂とヴェーラが嬉しそうに言った。
﹁お早う、僕はちょっと目が回ってるんです。よく眠らなかったもんですから。ひと眠りしたいもんです﹂
﹁昨日のようにこの露台で? いいわ。わたし、起こさないように、みんなに言いますわ。パパはどっかへ出かけました﹂
女中が出て行った。ヴェーラはあとをついて行きかけたが、ふっとあと戻りして、心配そうに公爵のそばへ寄って行った。
﹁公爵、あの……不仕合わせな人をふびんがってやってください。あの人を今日、追い出さないでください﹂
﹁けっして追い出しなんかしません。あの人の好きなようにしてやります﹂
﹁今度はもう、何もいたしませんから……厳(きつ)くしないでください﹂
﹁おお、とんでもない、いったい、何のためにです?﹂
﹁それから……あの人をばかにしないでください、……これはいちばん大事なことです﹂
﹁おお、けっしてそんなことはしません!﹂
﹁あなたのようなおかたにこんなことを言うなんて、わたしばかですわね﹂とヴェーラは顔を赤らめた。﹁あなたはお疲れでいらっしゃいますけれど﹂と、彼女は出て行こうとして、半ば横をふり向きながら笑いだした、﹁でも、今あなたは、とてもすてきな眼をしてらっしゃいますわ……仕合わせそうな……﹂
﹁ほんとに仕合わせそうですか?﹂と公爵は、威勢よく尋ねて、嬉しそうに笑いだした。
しかし、いつも男の子のように率直で、遠慮のないヴェーラは、不意になんとなしにきまりが悪くなってきて、ひとしお顔を赤くしながら、いそいそと部屋を出て行ったが、相変わらず笑い続けていた。
︵まあ、なんて……おもしろい子だろう……︶と公爵は考えたが、すぐにまた娘のことは忘れてしまった。彼は、長椅子があって、その前に小さなテーブルのある露台の隅のほうへ行って、腰をおろすと、両手で顔を隠して、十分間ほど、じっとしていた。が、突然、せかせかと、心配そうに、横のポケットに手を入れて、三つの手紙を取り出した。
ところが、またもやドアがあいて、コォリャがはいって来た。公爵はいかにも嬉しそうであったが、実は手紙をまたポケットへしまい込んで、ちょっとの間、てれかくしをしなければならなかったのである。
﹁まあ、危なかったのですね!﹂と、コォリャは長椅子に腰をかけながら、この年ごろの連中は誰でもそうであるがいきなり本筋へはいって行った、﹁あなたは今イッポリットをどう見ていらっしゃるんです? 尊敬しませんか?﹂
﹁いったい、どうして、……けども、コォリャ、僕は疲れてるんです、……それに、あの話をまた持ち出すのは、あんまり陰惨だし……それにしても、あの人はどうですか?﹂
﹁眠ってます、あと二時間くらいは起きないでしょう。あなたが家でおやすみにならないで、公園を歩いていらしったのは、なぜだかよくわかります、……むろん興奮なさるのは、もちろんですよ!﹂
﹁どうして、僕が公園を歩いてて、家で寝なかったのを知ってるんです?﹂
﹁ヴェーラが今言ってました。僕にはいっちゃいけないって止めたんですけど、我慢ができなくなったもんですから、ちょっと。僕はこの二時間、べッドのわきに付いてて、今コスチャ・レーべジェフを代わりに坐らしたところです。ブルドフスキイは行ってしまいました。それじゃ、公爵、おやすみなさい……じゃあ、昼間だから、お眠りかな! でも、僕はね、びっくりしちゃいましたよ﹂
﹁むろん……あんな……﹂
﹁いいえ、公爵、違います。僕は﹃告白﹄でびっくりしたんですよ。何よりもあの、神のことや来世のことを言ってるあたりに、あそこには一つの、ど(ヽ)え(ヽ)ら(ヽ)い(ヽ)思想がありますね!﹂
公爵はやさしい眼で、コォリャを眺めていた。コォリャはいうまでもなく、一刻も早くこのどえらい思想のことを話したくてわざわざやって来たのであった。
﹁だけど、大事なのは、大事なのは単に一つの思想ばかりじゃなくって、全体のしくみなんです! あれをヴォルテールや、ルッソォや、プルドンなんかが書いたら、僕は一読して注目はしますけど、あんなにまでは打たれませんね。しかし、もう十分間の寿命しかないことを、はっきり承知してる人が、こんなことを言ってるんですよ、——実に偉いじゃありませんか? 実に、これは個人的尊厳の最高の独立性を示すものではありませんか、これはつまり大胆不敵というものじゃありませんか、……いや、これはどえらい精神力です! ところが、それだのに、わざと雷管を入れなかったなんて主張するのは、——卑劣です、不自然です! ねえ、公爵、昨日、イッポリットは僕をだましたんでしょう、ずるいこと言って、僕は一度だってあれといっしょにサックをしまったことなんかないし、ピストルなんてもの、一度も見たことないんです。あれは自分でしまったんです。だからあの男に不意打ちされて参ったんです。ヴェーラの話だと、あなたはあれをここへ置いてくださるんですってね。大丈夫です、けっして危いことはありません。おまけに、僕らはそばを離れませんからね﹂
﹁ゆうべ、君たちのうちの誰があそこにいたんです?﹂
﹁僕、コスチャ・レーべジェフ、ブルドフスキイ、ケルレルはちょっといましたがすぐにレーべジェフのところへ寝に行きました、あそこに寝る所がないもんですから。フェルデシチェンコもやはりレーベジェフのところで寝て、七時に帰って行きました。将軍はいつもレーべジェフのところにいますが、今はやはり帰っています……レーべジェフはたぶんじきにあんたのところへ来るでしょう。なぜだか知りませんが、あなたを捜してましたよ、二度も聞いてました。あなたがおやすみになるんでしたら、ここへあの人を入れましょうか、どうしましょう? 僕もやっぱり、行って寝ましょうか、ああ、そう、ひとつあなたにお話ししたいことがあります。さっき御大将︵父親たる将軍を指す︶にびっくりさせられましてね、ブルドフスキイが番が来たと言って、六時過ぎ、ほとんどかっきり六時に僕を起こしたんですよ。それで、僕がちょっと外へ出て見ると、いきなり御大将に会いましたけど僕のことがわからないくらいに酔っ払って、ぼんやり僕の前に立っていたんです。そのうちに、気がついたと思うと、僕にとびついて、﹃病人はどうだえ? わしは病人のことを聞きに来たんだ﹄と、こう言うんです。僕は話してやりました。あれやこれやと。すると、﹃そいつは結構だ。だが、わしが起き出して来て、こうして歩いているのは、まずもって、おまえに言い聞かしておきたいことがあるからじゃ。わしはある理由によって、フェルデシチェンコ君のところでは、何も話すわけにはゆかず、……ほどよくしなければいかんと思うんじゃが﹄そう言いましてね。公爵、わかりますか?﹂
﹁ほんと? それにしても、……僕たちにはどうでもいいことです﹂
﹁ええ、そりゃそうです、どっちにしてもね、僕たちは懐疑主義者じゃありませんし! だから僕は御大将がこんなことで、わざわざ夜中に起こしに来たなんていうのに、驚いたくらいなんです﹂
﹁フェルデシチェンコは帰ったって、そう言いましたね?﹂
﹁そう、七時に。ついでに僕のところへ寄って行きました。そのとき僕は付き添っていましたから。それで、ヴィルキンのところへ行って、寝るんだって言ってました——実は、ヴィルキンていう酔っ払いがいるもんですからね。さあ、僕は行きます! おや、そこにレーべジェフさんがいる……公爵はお眠いそうですから、ね、回れい右!﹂
﹁公爵様、ほんのしばらくの間、わたしの眼から見まして、ある重大な問題についてまいりましたので﹂と、中にはいって来たレーベジェフはぎごちなく、妙に感激したような調子で声低く言って、もっともらしくお辞儀をした。
彼はいま、外から帰って来たばかりで、自分の所へも寄らなかったので、まだ帽子を手に持っていた。彼の顔は心配そうであったが、自分の威厳を示す一種特別ななみなみならぬ色合いを浮かべていた。公爵は、坐るようにと言った。
﹁あんたは二度も僕のことをお聞きになったそうですね? あなたはたぶん、昨日のことで相変わらず心配してらっしゃるんでしょう……﹂
﹁あの昨日の子供のことでございますかね、公爵? おお、違います、昨日は頭がごたごたしてましたけれど、……今日はもう何事によらず、あなたの御提議をコントレカルするつもりはございません﹂
﹁コントレカ……なんて言ったんですか?﹂
﹁実は、コントレカルと申しましたんで。これはロシア語の構成に加わりました他国のことばの大部分と同様、フランスのことばなんでございまして。が、特にこのことばを固執するわけでもございません﹂
﹁レーベジェフ君、なんだって、君は今日に限って、そんなもったいぶって、澄ましこんで、一字一字言うような口のきき方をするんです、……﹂と公爵は苦笑した。
﹁ニコライ・アルダリオノヴィッチさん!﹂とレーベジェフはコォリャに向かって、まるで感きわまったかのような声で言いだした。﹁実は公爵にある問題についてお知らせしようと存じまして、というのはおもに……﹂
﹁そりゃ、もちろん、もちろん、でも、僕の知ったことじゃない! さよなら、公爵!﹂と言うなり、さっそくコォリャは出て行った。
﹁あの子は物わかりがいいから、僕は好きです﹂とレーベジェフはあとを見送りながら言った。﹁ちょっとしつこいけれど、はしこい子供でしてね。さて、公爵様、わたしは、えらい災難にあいましたよ。昨夜か、今日の夜明けか、……はっきりした時刻を申し上げるのは躊(ちゅ)躇(うちょ)いたしますが﹂
﹁どうしたんです?﹂
﹁公爵様、実は四百ルーブルという大金がわきのポケットからなくなりましてね。えらい目にあいました﹂レーベジェフは苦笑しながら付け足した。
﹁君は四百ルーブルなくしたんですか? それは残念でしたね﹂
﹁それも、自分で苦労して、気高く暮らしている貧乏な人間にとりましては、ことに﹂
﹁むろん、むろん、そうでしょうとも。けども、どういうわけで?﹂
﹁酒のためでございまして。私あなた様を神様と思ってまいりましたんで、公爵様。昨日の午後五時に、私はある債務者から銀五百ルーブルという大金を受け取りまして、汽車でこちらへ戻って来ました。紙入れはポケットへ入れておきました。略服をフロックにかえますときには、お金は自分の身につけておきたいと思って、フロックのほうへ入れかえておきました。実はある人から頼まれていましたので……代理人の来るのを待って、手渡ししようと思いまして﹂
﹁それはそうと、ルキヤン・チモフェーヴィッチさん、あんたが金銀類を下にとってお金を貸すって、新聞に広告なすったのは本当ですか?﹂
﹁代理人の手を通してです。所書きの下に自分の名は出していませんので。ろくな資本も持っておりませんし、家族もふえておりますから、まあ、お含みくださいまし、つまり正当な利子を……﹂
﹁まあ、いいです、いいです、僕はただちょっと聞いてみたもんですから。変なくちばしを容れまして済みませんでした﹂
﹁代理人はやって来ませんでした。そのうちに、あの不仕合わせな人が連れ込まれて来ました。もう私は食事を済まして、実にいい機嫌になっていました。そこへあのお客たちが来まして、大いに飲みまして、……お茶ですけれども。するうちに私は……身の破滅を招くほど、浮かれましてね。もう夜もふけてから、あのケルレルがはいって来まして、あなた様のお誕生日のことやら、シャンパンのしたくをするようにとのおさしずのことを知らせました時、わたしは、ねえ、公爵様、心というものをもっておりますから︵それはもうたぶん、あなた様にもおわかりでしたろう、なにしろ、それだけのことはしておりますから︶、心をもっている、と申しましても、けっして感情的なものでなく、私が自慢にしておりまする恩義心でございますが、——それで私はかねて準備してありますお出迎えをいっそう荘厳にするためと、また親しくお祝いを申し上げる用意のために、家に帰って、それまで着ていた七つさがりのぼろ服を、さきほど帰宅の際に脱ぎすてた礼服にかえようと思いまして、そのとおり実行したんでございます、これはたぶん、一晩じゅう礼服を着ていたのをごらんになってお気づきのことではございましょう。服を着かえるとき、フロックにはいっていた紙入れを忘れましたので。……いや、神様が罰を当てようとお思いになる時は、まず何はさておき、分別をお取り上げなさると申しますが、これは本当のことです。さて、やっと今日、七時半ごろにもなって、眼をさまし、まるで気ちがいのように飛び上がって、まず第一番に、フロックに手をかけてみたんですが、——ポケットは空じゃありませんか! 紙入れは影も形も見えないんです?﹂
﹁ああ、それは不愉快なことですね!﹂
﹁実際、不愉快ですよ。まあ、今あなた様はほんとに如才なく、名言を見つけ出しましたね﹂と、レーべジェフは少々ずるく、付け足した。
﹁もちろん、しかし、……﹂と公爵は物思いにふけりながら、不安の念にかられていた、﹁だって、あれはまじめな話じゃありませんか﹂
﹁全くまじめな話で、——もう一つ、あなた様は見つけなさいましたね、公爵、言い表わすのに……﹂
﹁ああ、もうたくさんです、レーべジェフさん、いったい、何を発見するんですか! 大事なことはことばにあるんじゃありませんよ……ことによったら酔っ払っていて、ポケットから落としたかもしれない、そんな気はしませんか?﹂
﹁そうかもしれません。あなた様が真ごころからおっしゃられたとおり、酔っ払っていては、どんなことにでもなりますからね、公爵様! しかし、お察し願いたいんでございます、もしも紙入れをフロックを着かえるとき、ポケットから落としたんでしたら、落とした品はそこの床(ゆか)の上になければならんはずです。ところが、いったい、その品はどこにございます?﹂
﹁どこかの箱か、テーブルへ、しまったんじゃありませんか?﹂
﹁せいぜい捜してみたんです。どこからどこまでひっくり返して見ました。おまけに、どこへも隠しませんし、どの箱もあけた覚えがないんです﹂
﹁じゃ、戸棚ん中は見ましたか?﹂
﹁はい、第一番に。おまけに、今日は何べんとなし、……ですけれど、どうして私が戸棚ん中になんか入れるはずがありましょう?﹂
﹁正直言いますと、僕はそれがひどく気にかかりますよ。してみると、誰かが床の上で見つけたってわけですか?﹂
﹁それとも、ポケットから掏(す)ったか! 二つのうちの一つでございますよ﹂
﹁僕はとても気になる。だって、はたして誰が……これが問題ですよ!﹂
﹁もちろん、それが第一の問題です。あなた様は実にすばらしくことばやお考えをはっきり見つけ出して、その場の状態というものを、ちゃんとお決めなさいますね、公爵様﹂
﹁ああ、レーべジェフさん、冗談はよしてください、ここで……﹂
﹁冗談ですって!﹂とレーべジェフは両手を打って叫んだ。
﹁ま、ま、ま、いいです、僕は怒ってなんかいないじゃありませんか、これじゃ、まるで別問題です……僕はほかの人たちのことが気がかりなんです。あんたは誰を疑ってるんです?﹂
﹁いや、はなはだむずかしい、……複雑きわまる問題ですなあ! 女中を疑うわけにはまいりません。あれは勝手にばかりいましたからね。うちの子供らも、やはり……﹂
﹁もちろん、そうですとも!﹂
﹁してみると、客の中の誰かでございます﹂
﹁しかし、そんなことがあってたまるもんですか?﹂
﹁全く、絶対にあり得ないことです。しかし、どうしたって、そうでなけりゃなりません。もっとも、かりに泥棒がいたとしても、それは昨晩、みんなが寄っていた時ではなくって、夜中か、夜明け方に、ここへ泊った人のうちの誰かがやったものと考えたいものです、それに相違ないとも思います﹂
﹁ああ、とんでもない!﹂
﹁当然、ブルドフスキイとコォリャは除外しますよ。二人とも私んところへはいって来なかったんでござんすから﹂
﹁もちろん、そうですとも、かりにはいったにしろ! あんたのところへ泊ったのは誰です?﹂
﹁私を入れて四人、隣り合わせの二つの部屋へ寝ました。私、将軍、ケルレル、それにフェルデシチェンコ君です。つまり、われわれ四人のうちの一人です﹂
﹁すなわち、三人のうちの一人ですね。けれど、いったい誰です?﹂
﹁私は公平を重んずるために、また順序として自分も勘定に入れたのです。しかしですね、公爵、私が自分のものを自分で盗むなんてことは、できようはずがないでしょう。もっとも、それに似たようなことはよく世間にありましたけれど……﹂
﹁ああ、レーべジェフ、退屈でしようがない!﹂と公爵はたまらなくなって叫んだ。﹁早く本筋へはいんなさい。何をだらだらやってる!……﹂
﹁してみると、残りは三人というわけです。まず第一にケルレル君はぐうたらな人間で、酔っ払いでして、時おりはリベラリスト、つまり、財布の点でございますが、そのほかのことになりますると、リべラルなどと申すよりは、いわば、古武士的な傾向をもっております。あの人は、最初はここで病人の部屋に泊っておりましたが、もう夜がふけてから、なんでも、床の上へじかではざらざらして眠れんとか申して、私どものほうへ引っ越して来ました﹂
﹁じゃ、あの人を疑ってるんですか?﹂
﹁疑っておりますよ。私は朝の七時過ぎに、気ちがいみたいに飛び起きて、額に手を当てると、すぐに子供のように、罪のない夢を見て眠っている将軍を起こしました。フェルデシチェンコの怪しい雲がくれを考慮に入れて、なにしろ、これ一つだけでもわれわれに疑いを起こさせるに十分なんですからね、さっそく、二人は、まるで……まるで、ほとんど釘みたいになって寝ているケルレルを、捜索することに決めましたんで。すっかり捜してはみましたけれど、ポケットには鐚(びた)一(いち)文(もん)もございません。それに一つとして穴のあいていないポケットはないくらい。ただ青い格子縞の木綿の鼻ふきがありましたが、これも見られたざまじゃございませんで。それから、また一つ、どこかの小間使いが、金をねだって、脅迫がましいことをいっている濡れ文と、それから、あなたも御承知の三面記事の切り抜きがありましてね。将軍は、無罪だと断定しました。なお十分な調査をとげるために、当人を無理にゆすぶって呼び起こしましたが、何のことやらとんと見当がつかないらしく、口をぽかんとあけて、いや、その酔っ払った格好ときたら、顔色を見ますと、間が抜けて、子供らしくって、ばかげてさえもいましてな——結局、あれじゃなかったんでございます!﹂
﹁ああ、よかった!﹂と、公爵は嬉しそうにため息をついた。﹁僕もあの人が心配でしたよ!﹂
﹁心配してらしったって? そうすると、何かそれ相当いわれがありましたんですか?﹂レーべジェフは眼を細くした。
﹁おお、違います、僕は全く﹂と公爵は口ごもった。﹁心配してたなんて、恐ろしくばかなことを言いました。お願いですから、レーべジェフ、誰にも言わないでください……﹂
﹁公爵、公爵! あなたのおことばは私の心のなかにしまっておきます……私の心の真底に! ここは墓場も同様ですから気づかいありません!﹂帽子を胸に押し当てながら、レーべジェフは感きわまったように言った。
﹁結構、結構!……してみると、フェルデシチェンコですか? つまり、僕はフェルデシチェンコを疑ってらっしゃるんですか、と、こう言うんです﹂
﹁いったい、ほかに誰がありましょう?﹂じっと公爵を見つめながら、レーべジェフは声低く言った。
﹁まあ、そうさな、むろん……ほかに誰を……つまり、やはりまた……何か証拠があるんですか?﹂
﹁証拠はございます。第一に七時に、いや、朝っぱらの七時まえに雲がくれしたっていうこと﹂
﹁わかってます、コォリャの話では、なんでもあの子んとこへ立ち寄って、人のところへ……誰だったか忘れましたが、友だちのところへひと眠りしに行くとか言ったそうです﹂
﹁ヴィルキンのところです。そうすると、ニコライ・アルダリオノヴィッチさんがもうあなたに話したのですね?﹂
﹁しかし、盗難のことはなんとも言ってませんでしたよ﹂
﹁あの子は知らないのです。わたしが当分、その一件を秘密にしていますので。ま、そういうわけで、ヴィルキンのところへ行ったんです。これには何も不思議なことはないように見えるでしょうね、酔っ払いが自分と同じように酔っ払いのところへ行くんですからね。たとい、夜明け前で、別にこれというわけがないにしても? しかしここにくさいところがあるんでしてね。あの男は出がけに行く先を言いおいて行きました……。ねえ、公爵、よくこの問題をつきつめて行ってごらんなさい。何のために所番地なんか言っておいたんでしょうか? ……何のためにわざわざ遠回りして、ニコライ・アルダリオノヴィッチさんの部屋へ寄って、﹃ヴィルキンのところへひと眠りに行く﹄なんて断わるんでしょう? あの男が出かけて行くのに、たといヴィルキンのところだろうとなんだろうと、そんなことを誰が気にとめるもんでしょう? それをなんだって報告なんかするんでしょう? いや、そこがつまり、達者なところです! これはすなわち、﹃わざわざ、おれは自分の行く先をくらまさないんだ、したがって、おれが泥棒になるはずもないじゃないか。はたして、自分の行く先を泥棒がことわるものだろうか?﹄という意味なんですよ。嫌疑を避けて、いわば、砂の上の足跡を消そうっていうよけいな苦労なんですよ、……今言ったことがおわかりになりましたか、公爵様?﹂
﹁わかりました、実によくわかりましたけども、それだけじゃ不十分じゃありませんか?﹂
﹁第二の証拠があるんでして。つまり、やり口が嘘だってことがわかったんです。言いおいて行った所番地が正確じゃなかったんです。一時間たって、つまり、八時に、私はヴィルキンの門をたたいてみました。家は五番町で、やはり私も知り合いなもんですから。ところで、フェルデシチェンコなんて、影も形も見えません。もっとも、まるでかなつんぼの女中から、やっとのことで、一時間まえに、たしかに、誰か戸をたたいた者があるが、しかもかなり猛烈だったので、べルまでこわれてしまったという話は聞きました。しかし、女中はヴィルキン氏を起こしたくなかったので、戸をあけてやらなかったそうです。ことによると、女中も起きたくなかったんでしょう。そんなことはよくあることでございましてね﹂
﹁じゃ、それで君の証拠はみんなですか? それでもまだ不十分ですね﹂
﹁公爵、しかし、それでは疑うべき人はないじゃありませんか、ようく考えてごらんなさいまし﹂とレーベジェフはしんみりした調子で結んで、しかも、彼の薄ら笑いに何かしらずるそうな感じが漂っていた。
﹁部屋の中や引出しをもう一度調べてみたらいいでしょう﹂と、公爵は、しばらく物思いに沈んでから、心配そうに言った。
﹁よく調べたんでございますよ!﹂なおいっそうしんみりと、レーべジェフは嘆息した。
﹁ふむ!……しかし、なんのために、なんのためにあんたはフロックを着かえる必要があったのです!﹂と公爵はいまいましげに、テーブルをたたいて叫んだ。
﹁昔の何かの喜劇にあるような御質問ですね。しかしですね、御親切な公爵様! あなた様は私の災難をあんまり気にかけすぎるようです! 私にはそれだけの値打ちがありません。つまり、なんです、私ひとりだけはその値打ちがないのです。ところが、あなた様は犯人のことを……あの取るにも足らないフェルデシチェンコ氏のことで気をもんでいらっしゃるんですね?﹂
﹁うむ、そう、そう、あんたは、実際、僕を心配させましたね﹂ぼんやりと、気にそわないらしく、公爵はさえぎった。﹁それで、いったい、どうしようっていうつもりなんです……もしもあんたがフェルデシチェンコに相違ないと、そんなに信じていられるんでしたら?﹂
﹁公爵、公爵様、ほかの人とすればいったい誰でございましょう?﹂とレーべジェフはいやがうえにもしんみりと、身をくねらせながら、﹁ほかにこれといって、思い当たる人がいない、いわば、全然フェルデシチェンコ氏以外の人を疑うことが不可能である。これははたして、フェルデシチェンコに対する証拠、すなわち、第三の証拠ではないでしょうか? なぜなら、もう一度申しますが、ほかの人とすればいったい、誰でございましょうか? ブルドフスキイ氏を怪しむわけにはいかないじゃございませんか、私には。へ、へ、へ!﹂
﹁ああ、また、なんてばかげた話だろう!﹂
﹁将軍でもありますまいしね。へ、へ、へ!﹂
﹁ばかばかしい!﹂たまらなくなって、公爵は、坐ったまま、横をふり向き、怒ってでもいるかのように、こう言った。
﹁むろんばかげた話です! へ、へ、へ! ところで、あの人、つまり、将軍は、私を笑わせましたよ! 私はあの人といっしょに、すぐにあとをつけてヴィルキンのところへ行きました、……ちょっとお断わりしなけりゃなりませんが、将軍は私が盗難を発見するやいなや、まず第一番に呼び起こしましたところ、わたしよりももっとびっくりして、顔色が変わったくらいで、赤くなったり、青くなったりしていましたが、やがて、いきなり、私もそれほどまでとは思いもよらなかったほど、ものすごく律義な憤慨をしましてね。いや、どうも、このうえなしの律義者です! もっとも、弱気なために、しょっちゅう嘘は言いますが、情にかけては見上げたものですよ。そのうえ、肚(はら)のない人で、無邪気なところで、人をすっかり信用させるのでして。これは前にも申し上げましたが、ね、公爵様、私はあの人にひけ目ばかりではなしに、愛情さえもっておりますので。さて将軍は急に往来のまん中に立ち止まってフロックをまくりあげて、胸をはだけるんじゃありませんか。﹃さあ、わたしを検査してくれ、君はケルレルを検査したのに、なぜわしを検査しないんじゃ? 公平を期せんがためには、当然必要のことじゃ!﹄と、こう言いましてね。御本人は手も足も震えて、おまけにまっさおになって、恐ろしいったらありません。わたしは笑いだしてこう言いました、﹃ねえ、将軍、もしも、ほかの誰かがおまえさんのことをそう言ったら、私はさっそくこの手で自分の首をはずして、それを大きな皿の上に載せて、疑ってる連中のところへ、自分で持ってってやりますよ。ほら、この首でもって、おまえさんを保証しますよ。首ばかりじゃなくって、火の中へでも飛び込みます。ほら、このとおり、おまえさんを保証する気でいるんですよ﹄と、こう言いました。すると、あの人は飛びついて、私に抱きつきましてね。やっぱりそれも往来のまん中じゃありませんか。はらはらと涙を流し、ぶるぶる震えながら、私をきつく自分の胸へしめつけましてね、私は咳もできないほどでした、﹃この逆境にあっても、わたしを見すてない親友は君一人だ!﹄と、こう言うんです。情にもろい人ですからね! さて、先生はもちろん、例の﹃逸(アネ)話(クドート)﹄を、この時ぞとばかり話しましてね。なんでもまだ若かったころ、やはりあるとき、五万ルーブル盗難の嫌疑を受けたことがあったそうですが、そのあくる日に、燃えている家の火の中へ飛びこんで、自分に疑いをかけている伯爵と、まだそのころ生娘だったニイナ・アレクサンドロヴナさんとを火の中から引き出したんだそうです。伯爵はあの人を抱きしめて、そうして、あのニイナさんとの縁談が持ち上がったんだそうです。またその翌日になって、焼け跡から金箱が出て来て、見るとなくなっていた金がちゃんとはいっていたんですって、金箱は鉄で出来た英国式ので、秘密錠がかかっていたそうですが、どうかして床下にころがっていたのに、誰も気がつかないでいて、やっと火事があったため見つかったんだそうです。これはまるで根も葉もない嘘でございますよ。でも、ニイナさんのことを話しだしたときには、しくしく泣きだしましてね。そのニイナさんときたら、実に高尚なおかたですよ、私を怒ってらっしゃるんですけど﹂
﹁あんたは知り合いじゃないんですか?﹂
﹁ほとんど、そうじゃないといってもいいくらいです。しかし、真底からお近づきになりたいとは存じております。もっとも、それはただ、あのかたの前で、申し開きをしたいからでして。実は、ニイナさんは私が今お連れ合いを、飲んべえに堕落させてるかのように思いなすって、私を恨んでらっしゃるんですよ。ところが、堕落させるどころじゃない、むしろ、おとなくして上げてるのですよ。私はおそらく、あの人を害になる連中から、引き離してあげてるんでしょう。おまけに、わたしにとっては、親友なんですから、正直のところ、もう今はけっしてあの人を手放しやしません。つまり、こうなんでございますよ、あの人の行くところへは私も行くというわけでして。と申すのは、あの人ときたら、感情であやつるほかにないんでしてね。今ではもう、あの大尉夫人のところへは、ちっとも寄りつかなくなりました。もっとも内心は、行きたくって、行きたくって、しようがないんでしてね、おまけに、どうかすると、あの女のことを思って、わけても毎朝、床を出、靴をはくときなんか、ひどく悲しそうな声を出しましてね、なんだってこの時刻に限るのか、わけはわかりませんが。金は少しも持っていませんのです、そこが悲しいところで、なんせ、金を持たないでは、女のところへ行くわけにはいきませんからね。公爵、あなた様に金の無心を申しませんでしたか?﹂
﹁いいえ、しませんでした﹂
﹁きまりが悪いんですね。借りたがっていましたが。私にさえも、公爵に心配してもらいたいんだと白状していましたからね。しかし、きまりが悪いんですよ。ついせんだって、お借りしたばかりで、このうえ、貸してもくださるまいと思って。あの人は、親友として私に打ち明けました﹂
﹁じゃ君はあの人に金を貸さないんですか!﹂
﹁公爵、公爵様! 金ばかりじゃなしに、私はあの人のためなら、いわば、命さえも、……いや、それにしても、おおげさのことは言いたかありません、——命とは申しませんが、たとえば、熱病も、何かの腫(は)れ物も、それに咳さえも、必ずしんぼうする覚悟です、もっとも、それも非常な必要のあるときに限りますが。なにしろ、あの人を偉いとは思っていますが、落ちぶれた人なんですから! ま、こういうわけで、お金ばかりじゃないんでござんして!﹂
﹁してみると、金もやるんですね?﹂
﹁い、い、いいえ、金をやったことはございません。あの人もわたしがやらないってことは、自分でもよく承知しています。しかし、それもただ、あの人が身持ちをよくして、品行をなおしてくれるようにと思うからなんでして。今度もぜひともペテルブルグへ連れてってくれと、しきりに言いましてね、実は、私はすぐに、フェルデシチェンコ氏の跡を追って、ペテルブルグへ行くものですから、なんせ、あの男がもうあちらにいることは、たしかにわかっておりますから。で、将軍はもう夢中になってるんでございますよ。でも、ペテルブルグへ行ったら、私の目をくらまして、大尉夫人をたずねやしないかと疑ってるんでして。私は、正直に申しますと、わざとでも、あの人を突っ放してやりたいんで、もう、ペテルブルグへ行ったら、フェルデシチェンコ氏をつかまえるのに都合のいいように、着く早々、右と左に別れようって、約束をしましたんで。こうしてあの人を放しておいて、それから、藪(やぶ)から棒に、大尉夫人のところで、ばったり出くわしてやろうと思いますんで、——何はさておき、家庭のある人間として、また、普通の人間としても、とにかく、将軍をはずかしめてやりたいんです﹂
﹁ただ、あまり物騒なことはしないでくださいよ、レーべジェフ君。お願いだから、物騒なことはしないでください﹂と公爵はひどく心配しながら、低い声で言った。
﹁おお、けっして。ただあの人をはずかしめて、どんな顔をするか見たいだけです、——というのは、ねえ、公爵様、顔の色ひとつでいろんなことが汲めるもので、ことにあんな人はそうなんですからね。ああ、公爵! 私は自分の不仕合わせが並みたいていではないのに、今でもあの人のこと、あの人の品行をなおすことを、どうしても考えないではいられないのです。ところで、公爵様、一つたいへんなお願いがございますので、実は、そのために御邪魔にあがりましたんでございます。あなた様はあの家とお知り合いで、ごいっしょにお暮らしなすったこともございますから、もしも、あなた様がひたすら、将軍のために、あの人の幸福のために、このことに一はだ脱ごうとおっしゃいましたら……﹂
レーベジェフはお祈りでもする時のように、手まで合わせていた。
﹁いったい、なんです? どうして骨折るんです! ほんとに、僕は君の言うことを十分に了解したくてならんのですよ、レーべジェフ君﹂
﹁私は、ただもうこの信念をもって、こちらへ御邪魔にあがりましたので! ニイナさんに骨折っていただいたら、薬が効くのでございましょう、自分の家庭内で、将軍を監視、いわば、しょっちゅう閣下のあとをつけましてですね、ところが、私は不幸にして、奥方とは未知の間柄でございますんで……。おまけに、こちらにはあなた様を、いわゆる、青年の至情を傾けて、崇拝しておられまするニコライ・アルダリオノヴィッチさんというおかたもおられることですから、たぶん、手伝ってはくださるでしょう……﹂
﹁と、とんでもない! ニイナさんをこんな事件に引き入れるなんて、……まっぴらごめんです! それにコォリャ君まで、……僕はもっとも、まだ君の言うことが、よくわかってないのかもしれません、ねえ、レーべジェフ君﹂
﹁いや、なに、わかるもわからないもありませんよ!﹂とレーべジェフは、椅子から飛び上がりさえもした。﹁ただ、なんです、情と優しみ——これがあの病人に対する唯一の薬です。公爵、あなたはあの人を病人と見ることを許してくださいますか?﹂
﹁それはかえって、君の敏感さと頭のよさを証明するものです﹂
﹁問題をはっきりさせるために、実地から取って来た例を引いて御説明いたしましょう。将軍がどういう人間かということを見ていただきたいものです。あの人にはいま大尉夫人に対して、一つの弱みがありましてね、どうしてもお金を持たずには顔を出せないのです。この女のところで、実は今日、将軍を現場でおさえるつもりなんですが、これもあの人のためを思えばです。ところで、かりに、相手が大尉夫人ばかりでないとしますね、あの人が、本当の犯罪を、まあ、その、何かの非常な不名誉な間違いをしでかしたとしますね︵もっとも、あの人に、そんなことをやるだけの腕前はてんでありませんが︶、そんな時にでもやはり、高尚な、いわゆる優しみさえあれば、どんな風にでもあの人をもってゆけるのです。実に情にもろい人ですからね! 必ず、五日とはしんぼうができないで、自分のほうから言いだして、泣きながら何もかも白状してしまいますよ、——わけても、家族の手をかりて、あなたがたに監督、いわば、あの人の……一挙一動を監督してもらって、じょうずに高尚にさえやれば請合いです。おお、御親切な公爵様!﹂と、レーべジェフは妙に感激したような風までして、飛び上がった。﹁何も私はあの人が必ずその……なにしたと主張するわけじゃありません。私はあの人のためならば、なんです、その、ありたけの血を流す肚でいるのです。もっとも、ふしだらと、酒と、大尉夫人と、こういうものがいっしょになったら、どうにでもなるってことは、御承知願います﹂
﹁そんな目的なら、僕は、もちろん、いつでも一はだ脱ぎますよ﹂公爵は立ち上がりながら言った。﹁ただ、正直申しますと、ねえ、レーべジェフ君、僕はとても心配なんです。だって、君はやはり……つまり、フェルデシチェンコを疑っていると、自分でおっしゃるんですからね﹂
﹁しかし、ほかに誰を疑いましょう? ほかに誰を? 公爵様﹂とレーべジェフはいじらしくほほえみながら、しんみりと両手を合わせた。
公爵は眉をひそめて、席を立った。
﹁ねえ、レーべジェフさん、ここに間違われている恐ろしい問題がありますよ。あのフェルデシチェンコですね、……僕はあの人のことを悪くは言いたくないけれど……しかし、あのフェルデシチェンコが、……なんです、つまり、ひょっとしたら、あれかもしれませんよ! つまり僕はこう言いたいのです、おそらく、あの人こそ、実際にほかの……誰よりも、そんなことができそうなんですよ﹂
レーべジェフは眼を丸くして耳を立てた。
﹁いいですか﹂公爵は部屋の中をあちこちと歩きまわって、レーベジェフのほうを見ないようにして、いよいよ苦い顔をしながらことばにつかえるのであった。﹁僕は知らせてもらいました、……あのフェルデシチェンコ氏の前では、控え目にして、何も……よけいなことを言ってはならない、何はさておき、そんな人なんだからと、こう聞かされたんです——いいですか? 僕がこんなことを言うのは、ひょっとすると、あの人は、実際、ほかの誰よりもそんなことができそうだ……ということを裏書きするためなんです。そこが大事なところですよ、わかりましたか?﹂
﹁フェルデシチェンコ氏のことを、誰があなたに知らせたのです?﹂レーベジェフは食ってかかった。
﹁こっそり耳打ちされたんですよ、それにしても、僕自身はそんなことを真(ま)にうけてはいません……こんなことを知らせなければならなかったのは、実に僕にはいまいましいことです、本当に、僕はそんなことを真にうけてはいないのです、……実にくだらん話です……ちぇっ、僕はなんてばかなまねをしたんだろう!﹂
﹁ねえ、公爵﹂とレーベジェフは、すっかり身震いさえもして、﹁それは重大なことです、今という今、あまりにも重大なことです。つまり、フェルデシチェンコ氏に関してではなく、いかにして、それがあなたのお耳にはいったかという問題です︵こう言いながら、レーべジェフは、公爵に歩調を合わせようとして、あとについて、あちらこちらと駆けまわっていた︶。実は、公爵、私もこんなことをお知らせしたいんです。さっき将軍が私といっしょにあのヴィルキンのところへ行くとき、例の火事の話は済んでいましたが、そのあとで、かんかんになって、いきなり、フェルデシチェンコ氏のことで、やはり同じことをほのめかしたのです。しかし、その言い方がとりとめがなくて、不細工なものですから、わたしは何の気なしに少しばかり質問してみました。その結果、この話もただ、閣下の感激のほとばしりにすぎないことを、はっきり見抜いてしまったのです。ただこれは、いわば、気が大きいところから来たものです。なにしろ、あの人が嘘をつくのは、ただ感激を押さえることができない結果なのでしてね。ところで、お尋ね申したいのは、仮に、将軍が嘘をついて、私がそれを信用したとしても、いかにして、あなたがこれを御承知なすったかということです? ね、そうでしょう、公爵、だって、あれは将軍のほんの一時の感激じゃありませんか、——してみると、それをいったい、誰があなたに知らせたのでしょう? これが重大問題でございますよ、そして、……いわば……﹂
﹁僕はたった今コォリャ君から、またコォリャ君はさっきお父さんから聞いたのです。けさ六時か、六時過ぎに、何かの用であの子が外へ出たとき、軒の下でばったり会ったんだそうです﹂
そこで、公爵は何もかも詳しく話してやった。
﹁ははあ、なるほど、これが手がかりというものでございますね!﹂と、レーべジェフは手を軽くさすりながら、ひっそりと声もなく笑った。﹁私の思ったとおりでございますよ! してみると、こんなことになるんでございますよ。つまり、閣下は、愛(いと)しいわが子をたたき起こしてフェルデシチェンコ氏の部屋と隣り合わせるのは、はなはだもって、危険なことだということを知らせるために、わざわざ五時過ぎに、御自分の子供らしい、罪のない夢を破ったってわけなんでございますよ! これで見ても、フェルデシチェンコ氏は実にけんのんな人じゃありませんか、また、閣下の子を思う親心はたいしたもんじゃありませんか、へ、へ!﹂
﹁まあまあ、レーべジェフ君﹂と公爵はすっかりどぎまぎしてしまった。﹁どうか、穏便にしてください! 物騒なことはしないでくださいよ! お願いします、レーべジェフ君、後生ですから、……こんな場合ですから、僕も誓ってお手伝いはいたしましょう、ただし誰にも知られないように、誰にも知られないように、……﹂
﹁何を隠しましょう、公爵様、御前様﹂とレーべジェフはすっかり感きわまって叫んだ。﹁必ず、必ず、これは万事、私のこの高潔なる胸の中に葬ってしまいます! ごいっしょに、そっと抜き足で! そうっと、ごいっしょに! 私はからだじゅうの血までも、すっかり……。御前様、私は精神のさもしい野郎ではございますが、まあ、さもしいやつにばかりではなしに、どんな悪党にでも聞いてごらんなさい、——いったい、事をするのに自分と同じように悪党を相手にするのと、あなた様のような高潔無比な、誠心誠意のおかたを相手にするのと、どっちがいいか? って。すると、そいつは高潔無比なおかたを相手にしたいと、必ず答えるでしょう。そこがそれ、人徳の手柄というものでございますよ! では、公爵様、失礼をいたします! そっと抜き足で……抜き足で……はい、ごいっしょに﹂
︵つづく︶