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第四編
二
イッポリットがプチーツィンの家に移って来てから、もう五日になっていた。これは、彼と公爵との間に何の話し合いも、軋(あつ)轢(れき)もなしに、いかにも自然に運んだことであった。二人は喧嘩をしなかったばかりではなく、見たところでは、友だちらしく別れたかのようにさえも思われた。あの晩イッポリットに対してあれほどの敵意をいだいていたガヴリーラ・アルダリオノヴィッチが、自分のほうから見舞いに来た。もっとも、あの事件のうち三日目にではあったが、おそらく、何か急に思いついたことがあったからであろう。どうしたわけか、ロゴージンもまた同様に病人を見舞いに来るようになった。初めのうちは、公爵にもこの﹃哀れな少年﹄にとっては、ここを出て行ったほうが、かえってよいように思われた。しかし、引っ越しのときに、イッポリットは﹃親切にも、宿を貸してやる﹄というプチーツィンのところへ引っ越して行くと言った。しかも、ガーニャが自分の家へ引き取ると極力主張したにもかかわらず、ガーニャのところへ越して行くとは、何か含むところがあるかのように、ただ一度として言いださなかった。ガーニャはそのときすぐにそれに気づいて、いまいましいとは思いながらも、胸の中へ畳みこんだのであった。
彼が妹に向かって、病人がだいぶよくなったと言ったのは、そのとおりであった。事実、イッポリットは以前よりはだいぶよくなって、一目見たばかりでもわかるほどであった。彼は人をばかにしたような、人の悪いほほえみを浮かべながら、そろそろと、みんなのあとから部屋へはいって来た。ニイナ夫人は、すっかり度胆を抜かれてはいって来た︵彼女はこの半年の間にかなり瘠せて、見違えるほどになってきた。娘を嫁にやって、娘のところへ引っ越して来てから、ほとんど表面的には子供たちのことには容(よう)喙(かい)しなくなった︶。コォリャは気苦労をして、途方に暮れているらしかった。新しく家内に起こったこのごたごたの根本的な原因を知らなかったので、彼のいわゆる﹃将軍の気ちがいざた﹄についても、わからないことが多かった。しかし、父が絶え間なしに、いたるところで、ばかげたことばかりしていて、急に以前の父とは思われないほど、うって変わった人になってしまったということは、彼にもよくわかっていた。また老人がこの三日の間、ふっつりと酒をやめたということも、また彼には心配の種となった。彼は父がレーベジェフや公爵と仲たがいになって、喧嘩さえもしたことを承知していた。コォリャは自分の金で買ったウオートカの小罎を持って、たったいま帰って来たところであった。
﹁ほんとに、おっ母さん﹂彼はさきほど二階でニイナ夫人を口説くのであった。﹁ほんとに、飲ましてあげたほうがいいんですよ。もう三日も、手を出さないんですもの。きっと憂鬱なんですよ。ほんとに飲ましたほうがいいんです。僕は債(か)務(ん)監(ご)獄(く)にいるときにも、持ってってやりましたよ﹂
将軍はドアをあけ放して、憤慨のあまり身を震わせているらしく、閾(しきい)の上に立っていた。
﹁ねえ、君!﹂と彼は雷のような声で叫び立てた、﹁もしも、あんたが本当に、この青二才の無神論者のために、皇帝陛下の恩(おん)寵(ちょう)をかたじけのうしたる名誉ある老人を、あんたの父親を、つまり、少なくともあんたの妻君の父親を犠牲にしようという決心をされたのならば、わしは今の今から、あんたの家に足踏みはしませんぞ。さあ、どっちか選びなさい、早く選びなさい、わしを選ぶか、それとも、この……螺(ねじ)旋(く)釘(ぎ)か! そうだ、螺旋釘だ! わしは何の気なしに言ったんじゃが、これは——螺旋釘じゃ! なぜというて、こいつはわしの胸を螺旋釘でえぐるんじゃから、それに全く相手の見さかいもなしに……螺旋釘のように……﹂
﹁栓抜きじゃありませんか?﹂とイッポリットが口を出した。
﹁いや、栓抜きじゃない。なんせ、わしは貴様に対して将軍でこそあれ、罎じゃないんじゃから! わしは勲章を持ってるんじゃ、勲章を……ところが、貴様は無一物じゃないか。こいつか、わしか! さあ、早く決めなさい、ね、今すぐに、さっそく!﹂と彼は夢中になって、プチーツィンに向かって叫んだ。
そこへコォリャが椅子をすすめたので、彼はほとんどぐったりしたように、それに腰を掛けた。
﹁ほんとに、あなたはお休みになったほうが……よろしいですよ﹂とプチーツィンはあっけにとられてつぶやいた。
﹁まだ威張り返ってやがる!﹂とガーニャは声低く妹にささやいた。
﹁休めと!﹂将軍は叫んで、﹁ねえ、わしは酔うてはおりませんのじゃ、あんたはわしを侮辱しなさる。わかりました﹂とまたもや立ち上がりながら、ことばを続けて、﹁よくわかりました、ここでみんながわしに敵対しておる、誰も彼もみんなで。もうたくさんだ! わしは出て行く……。じゃが、いいかの、あなた、いいかの……﹂
彼はしまいまで口をきかされずに、むりやりに腰を掛けさせられた。みんなは気を落ちつけるようにと懇願してかかった。ガーニャは憤然として、片隅へ立ちのいてしまった、ニイナ夫人は震えながら泣いていた。
﹁いったい、僕が何をしたんだろう? 何をこの人はぐずぐず言うんだろう?﹂とイッポリットは歯をむき出して叫んだ。
﹁じゃ、何もなさらなかったって言うんですね?﹂と不意にニイナ夫人が言いだした、﹁年寄りをいじめるなんて、ことにあなたにとっては恥ずかしいことですよ……情(つ)れないことだし、……あなたのような立場にあったらなおさら……﹂
﹁第一、僕の立場ってどんな何です、奥さん? 僕はかなり、あなたを尊敬しています、あなたを個人的に、しかし……﹂
﹁こいつは螺旋釘だ!﹂と将軍は叫んだ、﹁こいつはわしの心や魂を、螺旋釘でえぐるんじゃ! こいつはわしに無神論を信じさせたくてしようがないんじゃ! やい、青二才! 貴様なんぞが、生まれてもいない前に、わしはもう背負いきれぬほどの名誉をになっていたんだ。貴様は二つにぶっ切られた嫉(やき)妬(もち)の虫だ、……咳をしやがって、遺恨と不信心とで死にかかっている。……何のためにガーニャは貴様をここへ連れて来たんじゃろう? みんなでわしを、他人はじめ、現在のわが子に至るまで!﹂
﹁もうたくさんですよ、とんでもない愁嘆場になっちゃった!﹂とガーニャは叫んだ、﹁ただ町じゅうに、わたしたちの顔をつぶすようなことをして回ってくれなかったら、ましだったのに!﹂
﹁何、わしが貴様の顔をつぶす! 青二才め! 貴様の顔を? わしは貴様の顔をよくすることはできても、恥をかかすようなことはできないんじゃ!﹂
彼はどなり立てるばかりで、誰にももう押さえつけることはできなかった。が、ガーニャもどうやら、自分で自分が押さえきれなくなったらしい。
﹁今ごろ名誉をどうのこうのと!﹂彼は恨めしげに叫んだ。
﹁なんて言った?﹂将軍は青ざめて、彼のほうへ一歩を踏み出しながらどなりつけた。
﹁なあに、僕がちょっと口をあけさえすれば……﹂ガーニャはいきなりわめきだしたが、あとを切ってしまった。
二人は面と向かって突っ立った。二人とも度はずれに興奮していたが、特にガーニャははなはだしかった。
﹁ガーニャ、どうしたの?﹂ニイナ夫人は飛びかかって、息子を押さえながら叫んだ。
﹁四方八方、なんていうばかばかしいことばかりなんだろう!﹂とワーリヤはむっとして、辛(しん)辣(らつ)なことを言った。
﹁ただお母さんに免じて、黙っていますよ﹂とガーニャは悲痛な声で言った。
﹁言ってみろ!﹂と将軍はすっかり夢中になって怒号した、﹁言ってみろ、父親の呪(のろ)いを覚悟のうえで言ってみろ!﹂
﹁まあ、それじゃ、僕があなたの呪いに度胆を抜かれたっていうんですか! これで八日も、あなたが、まるで気ちがいみたいになってるからって、誰のせいでしょう? ねえ、もう八日目ですよ、僕はちゃんと勘定してるんですよ……。いいですか、どたんばまで言わせないほうがいいでしょう、いや、すっかり言ってしまいます……あなたはなんのために昨日エパンチン家へ、のこのこ出かけて行ったんです? 年寄りといわれる身分で、髪も白くなって、一家の父となっているくせに! 結構な御身分で!﹂
﹁およしよ、ガーニャ!﹂とコォリャが叫んだ、﹁およしよ、ばか!﹂
﹁いったい、どうして僕が、僕が何をして、この人を侮辱したんです?﹂とイッポリットは言い張ったが、しかも相変わらず、例の人をばかにしたような調子であった。﹁なんだって、この人は僕を螺旋釘だなんて言うんでしょう、皆さん、お聞きになったでしょう? 自分からうるさくくっついて来たくせに。今、僕のところへやって来て、エラペゴフ大尉とかいう人の話を持ち出したんです。僕はいっこうあなたのお仲間になんかはいりたくないんですよ、将軍、だから以前も避けていたんです、それはよく御自分でもわかってるでしょう。だって、エラペゴフ大尉なんて、僕に何の用があるんです、これはわかってくださるでしょう? 僕はね、エラペゴフ大尉のために、ここへ来たんではありませんよ。僕はただこの人に向かって、エラペゴフ大尉なんて、そんな人は、実際にいたこともないらしいって自分の意見をあからさまに言っただけなんですよ。そしたら、将軍は大さわぎをやりだしたんですよ﹂
﹁いたこともないに決まってる!﹂とガーニャは断言した。
しかし、将軍は呆(ぼう)然(ぜん)としてたたずみながら、わけもなく、あたりを見回すばかりであった。息子のことばの思いきって露骨なのに、いまさらながら辟(へき)易(えき)したのである。最初の一瞬間は、なんと言ってよいのかさえもわからなかった。が、ついにイッポリットがガーニャの答えを聞いて、声を立てて笑いながら、﹃そうれ、ごらんなさい。やはり、あなたの現在の息子さんまでが、エラペゴフ大尉なんていう人は、てんでいたこともないっておっしゃってるじゃありませんか﹄と叫んだとき、やっと老人はつぶやいた、すっかりどぎまぎしてしまって。
﹁カピトン・エラペゴフだ、大(カピ)尉(タン)じゃない……カピトンだ、予備中佐エラペゴフ……カピトンだ﹂
﹁カピトンもやっぱりいなかった!﹂ガーニャはもうすっかり腹を立てていた。
﹁だが……なぜいなかったんだ?﹂と将軍はつぶやいたが、さっと顔が赤くなった。
﹁もうたくさんですよ!﹂プチーツィンとワーリヤがなだめるのであった。
﹁およしよ、ガーニャ!﹂とまたもやコォリャが叫んだ。
しかし、この調停は将軍をいっそう夢中にしたらしかった。
﹁どうしていなかったんだ? なぜいなかったんだ?﹂と、彼は脅しつけるようにわが子に食ってかかった。
﹁いないからいないんです。ただそれだけのことですよ。また、てんで、そんな者のいようはずがありません! まあ、そういうわけです。ほんとに、もうよしたらいいでしょう﹂
﹁これでも息子なんだ……これが肉身の息子、おれが……ああ、いまいましい! エラペゴフ、エロシカ・エラペゴフがいなかったことは!﹂
﹁そうれ、見ろ、エロシカと言ったり、カピトンと言ったり!﹂イッポリットがくちばしを容れた。
﹁カピトンだぞ、君カピトンだ、エロシカじゃあない! カピトンだ、カピトン・アレクセイヴィッチだ、ええと、そうだ、カピトンだ、……少佐だ……予備のな、マリヤ……マリヤ……ペトローヴナ・ス……ス……あれは友だちで同僚じゃったが……スーゥゴーヴァと結婚した……見習士官のそもそもの初めからの友だちでの! わしはあれのために血を……いや、あれをかばってやったんだ、……だが、とうとう戦死しての。そのカピトン・エラペゴフ君がいなかったとは! この世に生きていなかったとは!﹂
将軍はすっかり興奮して叫んだが、しかも問題はただ一つのことに関しているのに、まるで見当違いのとんでもないことをわめき立てているらしい形勢であった。たしかに、これが他の場合であったならば、彼はもとより、何かカピトン・エラペゴフなる者が全くこの世にいなかったなどという話よりも、もっと癪(しゃく)にさわることさえも耐え忍んだことであろうし、またかりに、大声を立てて、ばかさわぎをして、夢中になったにしても、やはり、とどのつまりは二階の自分の部屋へ引き上げて、眠り込んだことであろう。ところが、今は、人間的な感情の非常に奇怪な反面があらわれて、エラペゴフに対する疑いと同様の、取るにも足らない侮辱が、彼をして憤激の極に達せしめる機縁とならなければならないようなことになったのである。老人は顔をまっかにし、両手を振り上げて叫ぶのであった。
﹁もうたくさんだ! わしのたたりを……この家を飛び出すんだ! コォリャ、わしの嚢(ふくろ)を持って来い、行くんだから……よそへ!﹂
彼は極度に憤慨して、あたふたと出て行った。あとからはニイナ夫人、コォリャ、プチーツィンが飛んで行った。
﹁まあ、あんたは今、なんていうことをしでかしたの!﹂とワーリヤは兄に向かって言った、﹁お父さんはきっとまた、あすこへのこのこと行くでしょうよ。まあ、つらよごしったらありやしない!﹂
﹁だから、泥棒なんぞするなっていうんだ!﹂とガーニャは憎悪のあまり、今にも咽(の)喉(ど)がつまりそうになってわめき立てた。するうちに、彼の眼ははからずもイッポリットと出会った。ガーニャは身震いせんばかりであった。﹁ところで、ねえ、君﹂と彼は叫んだ、﹁君はともかくも、他人の家にいて……やっかいになっているということを覚えていて、たしかに気のちがっているあの年寄りを……じらさないようにするのがあたりまえだったんですよ……﹂
イッポリットもまた身震いしたらしかったが、たちまちにして自分を押さえた。
﹁あなたが、あなたのお父さんが気がちがっているというのには、僕は全然不賛成です﹂と落ち着き払って答えた、﹁僕には、その反対に、このごろ、あの人がかなり知恵を増されたようにさえも見えるのです。ええ、本当です。あなたは本気にはしませんか? あの人は用心深く、疑い深くなってきて、何から何まで探りを入れて、実にことばをつつしんでいますよ……。あのエラペゴフのことだって、目当てがあって言いだしたことじゃありませんか。まあ、どうでしょう、あの人は僕の気持を……ひきよせようとして……﹂
﹁ええ、親父がどんなことに君の気持をひきよせようとしたところで、そんなことは僕の知ったことじゃありませんよ! どうぞですから、僕を相手にいんちきをしたり、ごまかしたりしないでください﹂とガーニャはかん高い声で言うのであった、﹁もしも親父があんな状態に陥ったそもそもの原因を君もまた承知しているんなら︵ところで、君はこの五日間に、とても僕を探ってるんですね、それは君もたしかに承知でしょう︶、それなら、あの……運の悪い人をじらしたり、問題をおおげさにして母を苦しめたりしないのが当然なはずです。なにしろ、この問題は全くのナンセンスで、ほんの酒のうえでのいたずらなんですからね。それだけの話ですよ、おまけに、何の証拠もなかったことです。だから、僕はそんなことを、真(ま)に受けてはいないんです……しかも、君は毒舌をふるったり、スパイをやったりしなくちゃいられない。というのは、君が、……君が、……﹂
﹁螺(ねじ)旋(く)釘(ぎ)﹂イッポリットはせせら笑った。
﹁というのは、君がやくざ者で、あんな弾(た)丸(ま)のはいってないピストルなんぞ射って、みんなをびっくりさせようと考えて、半時間も悩ましたからです。あんなピストルで、外聞の悪いまねをして、死にそこない、まるで二本足で歩く……癇癪玉だ。僕がお客様扱いにしてやったおかげで、君は肥ってもきたし、咳もぴったりやんだんだ。しかも、そのお礼には……﹂
﹁ほんのひと言だけ言わしてください。僕のいるのはワルワーラさんのところです、けっして、あなたのところじゃありません。あなたはちょっとも僕のやっかいなんか見てくだすったことはありません。僕のつもりでは、かえってあなた御自身こそプチーツィン氏のやっかいになっておられると思うんです。四日前に僕は母に頼んで、パヴロフスクに家を捜して、自分も越して来るようにと、書いてやりました。なにしろ、僕は実際、ここへ来て、ずっと気分がよくなったようですからね。けっして肥りもしなければ、咳もとまりませんけれど。ところで、ゆうべ来た母のたよりでは、家が見つかったそうですから、僕はあなたのお母さんとお妹さんにお礼を申して、そのほうへ今日にでも引っ越すつもりです。このことをとりあえずお知らせ申し上げます。これについてはもう昨晩、決心をしたことです。とにかく、お話し中に口を出しまして、まことに申しわけありません。たぶん、あなたはお話ししたいことがまだまだたくさんおありだったのでしょうね﹂
﹁おお、もしもそういうことなら……﹂ガーニャは震え声で言った。
﹁もしもそういうことなら、僕は御免をこうむって、腰をかけさしていただきましょう﹂将軍の坐っていた椅子に悠然と腰をおろしながら、イッポリットは付け加えた、﹁なにしろ、やはりからだのぐあいは悪いんでしてね。さあ、これであなたのおっしゃることを、せいぜいお伺いいたしましょう。まして、これが二人の最後の会話、ことによったら、最後の会見かもわからないんですからね﹂
ガーニャは急に恥ずかしくなった。
﹁ほんとにね、僕は君といろんなことの始末をつけるほど、落ちぶれたくはないんです﹂と彼は言った、﹁だから、もしも君が……﹂
﹁あなたがそんなお高くとまったってむだですよ﹂とイッポリットがさえぎった、﹁僕のほうだって、ここへ来たそもそも最初の日から、二人が別れるときには、何もかも、せいぜいざっくばらんに言ってしまって、気楽になろうと、心の中ではちゃんと覚悟をきめていたんですからね。僕はそれを今という今、実行するつもりです。もちろん、あなたのお話が済んでから﹂
﹁しかし、僕は君にこの部屋を出て行ってもらいたいんです﹂
﹁それにしても、話だけはしたほうがいいでしょう、さもないと、あのとき、話をすればよかったと、先になって後悔しますよ﹂
﹁およしなさい、イッポリットさん。そんなことは、とても恥ずかしいことじゃありませんか。後生ですから、よしてください﹂とワーリヤが言った。
﹁ただ、御婦人に免じてそうしましょうね﹂とイッポリットは立ち上がりながら笑った、﹁失礼ですけれど、ワルワーラさん、あなたのためにお話を簡単にしてもいいです。もっともただ簡単にするだけですよ。つまり、あなたの兄さんと僕との話し合いは、全く必要欠くべからざるものになったからです。僕は腑(ふ)に落ちないことをそのままにして、ここを出てゆくつもりはありません、どんなことがあっても﹂
﹁要するに、君はおしゃべりだよ﹂とガーニャは叫んだ、﹁だから、君はおしゃべりをしないで出て行くつもりになれないんだ﹂
﹁そうれ、ごらんなさい﹂とイッポリットは、落ち着き払って言った、﹁やっぱりしんぼうができなかったでしょう。ほんとに、話をすればよかったと、これからさき、後悔しますよ。さあ、もう一度あなたに先をゆずりましょう。僕はお待ちしています﹂
ガーニャは口をつぐんで、軽蔑的な眼で、相手を見つめていた。
﹁おいやなんですね。あくまでも我を張ろうというおつもりなんですね、——それならお好きなようになすったらいいでしょう。では、僕のほうから、できるだけ簡単に。僕は今日は、二度か三度、やっかい者だというおとがめを受けましたが、それは不公平ですよ。あなたこそ、僕をここへ招(よ)び寄せて、僕を係(わ)蹄(な)にかけたじゃありませんか。そして、僕が公爵に恨みを晴らそうとでもしているようにお考えになったのです。おまけに、あなたは、アグラーヤさんが僕に同情の意を表して、僕の告白を読んだという噂を聞き込みなすったんですね。それで、どういうものか、きっと、僕が一生懸命になって、あなたの利害関係に携わるだろうとお考えになって、ことによったら、あと押しになるかもしれないと、それを当てになすったのです。もうこれ以上詳しい説明はよしましょう! 僕はあなたにも、白状をしろとか、明言をしろとかは言いませんよ。ただ、あなたに良心を思いおこさせておいて、別れて行くということと、それに、僕たちが、今お互いに実によく理解し合っているということだけで十分なんですからね﹂
﹁それにしても、あなたっていうおかたは、実にありふれたことから、とんでもないことをでっちあげるおかたですね!﹂とワーリヤは叫んだ。
﹁だから、僕がそう言ったじゃないか、﹃おしゃべりな餓鬼﹄だって﹂と、ガーニャは口を出した。
﹁失礼ですが、ワルワーラさん、僕はあとを続けますよ。僕にはもちろん、公爵を愛することも、尊敬することもできません。しかし、あの人は実に気だてのいい人ですよ。もっとも——ずいぶんおかしいところもありますが。しかし、僕には、あの人を憎むわけはちょっともありません。あなたのお兄さんが公爵に反抗するように僕をけしかけたときも、僕はそんなけはいは少しも見せませんでした。僕はつまり、おしまいになって、大いに笑ってやるつもりでいたのです。兄さんがうっかり、僕に口をきいて、たいへんな失敗をなさるってことは、承知してましたからね。ところが、はたして、そのとおりで……いま僕は兄さんを大目に見てあげるつもりですが、それも、あなたをね、ワルワーラさん、尊敬していればこそですよ。しかし、僕がそんななまやさしいことで囮(おとり)になるような人間でないということを説明しましたから、今度は、なぜ僕が兄さんにへまなことをさせたくなかったか、そのわけもお話ししましょう。いいですか、僕がこんなことを実行したのは、ざっくばらんに打ち明けると、憎しみのためなんですよ。今、死にかかっていて︵だって、いくらあなたがたが肥ったとおっしゃっても、とにかく僕は死ぬんですからね︶、死にかかっていて、僕はね、一生涯、僕をいじめ通して、こっちでもまた一生涯、憎んでいたあの無数の連中の代表者を、せめて一人だけでも愚(ぐろ)弄(う)してやって、もっともっと落ち着いて、天国へ行きたいと、こう思いましたよ。しかも、浮彫のようにはっきりと、その連中を代表しているのは、まぎれもない、あなたのお兄様なんですよ。僕があなたを憎むわけはね、ガヴリーラさん、——こんなことを言ったら、あなたはびっくりなさるかもわかりませんが——そ(ヽ)の(ヽ)わ(ヽ)け(ヽ)は(ヽ)た(ヽ)だ(ヽ)、あなたが最もずうずうしい、最もうぬぼれの強い、最もいやらしい凡庸性の典型であり、化身であり、権化だからなのですよ! あなたは傲慢な凡庸性そのものです。自己を疑うことのない、泰然自若たる凡庸性そのものです。あなたは月並み中の月並みです! 自分自身の思想なんてものは、ほんのちょっぴりだって、あなたの頭や胸に形となってあらわれるものじゃないんです、どんなことがあっても。しかも、あなたは、よくよくのやっかみやですし。あなたは自分ほど偉い天才はないと信じていますけれども、やはり、どうかすると、憂鬱なときには、懐疑の念があなたを訪れて、人を恨んだり嫉(そね)んだりするのです。おお、あなたの地平線にはまだ斑(し)点(み)がありますよ。近き将来に、あなたがすっかりばかになったら、その点も消えてしまうでしょうが、それでもやはり、あなたの前には、長い、変化の多い道が横たわっているのです。それも、愉快な道だとは言えませんね。僕にはそれがかえって痛快ですね。まず第一に、今から言っておきますが、例の人は、あなたのものにはなりませんよ﹂
﹁ええ、もう聞いちゃいられない!﹂とワーリヤが叫んだ、﹁もうあんたは、それでおしまいでしょう? いやなごうつくばりったら﹂
ガーニャは青ざめて、震えながら黙っていた。イッポリットはことばを切って、じっと、快げに彼を見つめていたが、やがて視線をワーリヤのほうに転じたかと思うと、薄ら笑いをして、お辞儀をし、そのままひと言も付け足さずに、出て行った。
ガーニャが、その運命と失敗とをかこったとすれば、それはきわめて当然なことであろう。しばらくの間、ワーリヤは兄に話しかける気にもなれなかった。彼が大股に自分の傍を通り過ぎたときも、ふり返って見ようとさえもしなかったのである。ついに、彼は窓のほうへ行って、妹に背を向けた。ワーリヤは﹃一利一害﹄というロシアのことわざのことを考えていた。二階からまたもや騒がしい物音が聞こえてきた。
﹁行くのかえ?﹂妹が席を立ったのを聞きつけて、ガーニャはふっと妹のほうをふり向いた、﹁ちょっと待って、これをごらん﹂
彼は妹のほうへ近づいて、ちょっとした置き手紙くらいの体裁に折ってある小さな紙きれを、妹の前のテーブルの上へ放り出した。
﹁あら、まあ!﹂と叫んで、ワーリヤは手を打った。
手紙はちょうど七行あった。
ガヴリーラ・アルダリオノヴィッチ様! あなたがわたしに好意をよせてくださるものと信じて、わたしは自分にとって大事なある事について、あなたに相談に乗っていただこうと決心いたしました。わたしは明日の朝、正七時に、緑色のベンチでお目にかかりとう存じます。これはわたしどもの別荘から遠くないところにございます。ワルワーラ・アルダリオノヴナさまもぜひともごいっしょにお出かけをいただかなければなりません。あのかたはよく場所をご存じでいらっしゃいます。 A・E
﹁いらっしゃい、こうなった以上は、あの人とよく話をつけなさいね!﹂とワルワーラは両手をひろげて見せた。
ガーニャはこのとき、とんでもない大きいことを言おうとしたが、しかもなお、どうしても勝ち誇った色をあらわさずにはいられなかった。しかも、イッポリットがあれほど屈辱的な予言をしたあとであったから、なおさらのことであった。得意の微笑がなんのはばかるところもなく彼の顔に輝いた。ワーリヤまでが、嬉しさのあまり、すっかり晴れ晴れしい様子を見せていた。
﹁それに、ちょうどあの家で婚約の披露をするという当日なんですからね! いらっしゃいよ、こうなった以上は、あの人とよく話をつけなさいよ﹂
﹁おまえはどう思う、明日あの人は何を言うつもりなんだろう?﹂とガーニャは尋ねた。
﹁そんなこと、どうだっていいわよ。何はともあれ、六か月後にはじめて会いたいっていうんですからね。よくって、兄さん、あの家でどんなことがあったにしろ、また様子がどんな風に変わったにしろ、ほんとにこれは大(ヽ)事(ヽ)なことですよ! 大事すぎるくらいだわ! またよけいな大風呂敷をひろげて、失敗しないようにしてちょうだい、それにびくびくしちゃだめよ、よくって? あの人に、あすこへ半年のあいだわたしがなぜ通ったのか、わからないわけはないわ。それに、どうでしょう、今日あの人はわたしにはひと言も物を言わなかったの、それにそぶりだって見せなかったし。もっとも、わたしはあの家へこっそり寄ってたので、わたしがいることを、お婆さんは知らなかったの。さもなければ、きっとわたしを追い出したでしょうよ。わたしはどんなことがあっても、兄さんのためにぜひとも探り出そうと考えて、危険を冒して通ったの﹂
またしても叫び声と物音が二階から聞こえてきた。何人かの人が階段からおりて来た。
﹁もうなんと言ったって、こんなこと許しておいちゃいけないわ!﹂とワーリヤがおびえたように、あわてた調子で叫んだ。﹁こんな見っともないことは、もう影もないようにしなくちゃ! さあ、行っておわびをなさい﹂
しかし、一家の主人はもう往来に出ていた。コォリャがあとから嚢を引きずって行く。ニイナ夫人は玄関の階段に立って泣いていた。彼女は良人のあとを追って駆け出そうとしていたが、プチーツィンに引き止められてしまったのである。
﹁そんなことをなすったら、いっそう将軍に油をかけるようなものです﹂と彼はニイナ夫人に言った、﹁どこへも行くところがないんですから、半時間もしたらまた連れ戻されて来ますよ。わたしはもうコォリャによく話をしておいたんです。まあ、気ままにばかなまねをさしておいたらいいでしょう﹂
﹁何を威張ってるんです、どこへ行くんです!﹂とガーニャが窓から叫んだ。﹁行くところもないのに!﹂
﹁帰ってらっしゃいよ、パパ!﹂とワーリヤが叫んだ。﹁近所の人が聞いてるのに﹂
将軍は立ち止まって、ふり返り、片手を差しのべながら叫んだ。
﹁この家にはわしの罰があたるのじゃぞ!﹂
﹁おきまりの芝居口調が始まった!﹂と、ガーニャはぴしゃりと窓をしめながらつぶやいた。
近所の人たちはたしかに、聞き耳を立てていた。ワーリヤは部屋を駆け出した。
ワーリヤが外へ出たとき、ガーニャはテーブルの上の手紙を取り上げて、これに口づけし、ちょっと舌を鳴らして、頓狂な身ぶりをするのであった。
︵つづく︶