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第四編
三
将軍のばか騒ぎもほかのときならば、なんということもなくてけりがついたことであろう。以前にもこの種の気まぐれざたが勃(ぼっ)発(ぱつ)することがないではなかったが、それはきわめてまれなことであった。というのは、だいたいが彼は非常におとなしく、ほとんど善良といってもよいほどの性癖をもっていたからである。晩年に至って、病みつきになったふしだらと、おそらく、彼は百度も闘っていたであろう。彼は不意に、自分が﹃一家の主人﹄であるということを思い出しては、妻と仲なおりをし、衷心から涙を流したものであった。彼はニイナ・アレクサンドロヴナがたいていの場合は黙って自分を許してくれるばかりではなく、道化者のように、あさましい姿をさらしていてさえも、なお昔のように愛してくれるので、ほとんど崇拝ともいうべき尊敬を払っていた。しかし、このふしだらを克服しようとするおうような気持は、あまり長く続かないのが例であった。将軍もまた、種類を異にしながら、やはり﹃お調子に乗りすぎる﹄人間であった。彼は不断に、家庭内の悔いに満ちた安閑とした生活にやりきれなくなると、あげくの果ては謀反をしてしまうのであった。興奮するとおそらく同時に自分で自分を責めるのであろうが、やはり押しきることができなかった。喧嘩をしては、堂々と雄弁をふるい、法外な、無理な尊敬を要求し、とどのつまりは、家から姿を消してしまい、どうかすると、長いこと家を空(あ)けていることもあった。最近二年の間、彼は家庭内の問題については、ほんのだいたいのことを、聞きかじりに知っているくらいのもので、それ以上詳しく立ち入ることをよしてしまっていた。そんなことは、自分の役目ではないと感じていたからである。
しかし、今度という今度は、﹃将軍のばか騒ぎ﹄のなかに、何かしらなみたいていではないものがあった。誰も彼もが何かしらあるものについて承知をしているかのようであった。誰もがそれについて物を言うのを恐れているかのようにも見受けられた。将軍はつい三日まえに、﹃正式に﹄自分の家庭へ、つまりニイナ夫人のところへ姿をあらわしたばかりであった。しかし、今までのいつもの﹃出頭﹄のときのように、あきらめたり、後悔したりしている様子は見えず、それどころか、——なみなみならぬ焦燥の念をいだいていた。彼は口数が多く、落ち着きがなく、行き会う人ごとに熱情をこめて、あたかも食ってかかるかのような調子で話しかけたが、しかも、その話題たるや、いつもまちまちで、とっぴょうしもなく、したがって、何のためにそんなにそわそわしているのか、本当のところがどうしても呑み込めないくらいであった。時として陽気なこともあったが、たいていは物思いに沈んでいた。もっとも、何を考えているのか、自分でもよくはわからなかったのである。いきなり、何か——たとえば、エパンチン家のことや、公爵のことや、レーベジェフのことなど話し始めるかと思うと、不意に話をやめて、それきり全く口をきかなくなってしまう。遠回しに物を聞かれると、ただぼんやりとほほえむばかりであったが、しかも、実際は何を聞かれているのかさえもよくわからないで、ただほほえんでいるだけであった。
前の晩はため息をついたりうなったりして夜を過ごし、ニイナ夫人を悩ました。夫人は何のためか、一晩じゅう、彼に湿布を温めてやっていた。彼は夜明けごろになって、ふと眠りに落ちたが四時間ばかり眠ってから、猛烈な、しどけない憂(ヒポ)鬱(コン)症(デリヤ)の発作に襲われて眼がさめた。この病気は、イッポリットとの喧嘩と、﹃この家に罰をあててやる﹄という文句でけりがついた。またこの三日間というもの、彼が絶えず極端な自負心に陥って、その結果、非常に怒りっぽくなったことも、みんなよく人に気づかれていた。コォリャは、母に向かって、こんなことはみんな酒が恋しいためか、または、ことによったら、このごろ変なくらいに仲よしになったレーベジェフが恋しくて、鬱(ふさ)いでいるのだと主張してやまなかった。しかし、三日まえに彼はこのレーベジェフともにわかに喧嘩をして、激怒の極に達して別れてしまった。のみならず、公爵とさえも、妙ないきさつがあった。コォリャは、公爵に説明をしてくれと頼んだが、ついには、公爵には何かしら彼に打ち明けたくないことがあるらしいと察するようになった。もしも、ガーニャが、あくまでも間違いないといって推定を下したように、母夫人とイッポリットとの間に何か特別な話があったとすれば、ガーニャがあれほどずけずけと、おしゃべりだといったあの悪党が、同じような方法で、コォリャに同じことを言い聞かせるのを遠慮したということは、はなはだ奇妙なことになる。この男が、前にガーニャが妹と話しているときに言ったような意地の悪い﹃餓鬼﹄ではなくて、意地が悪いといっても、何か別のたぐいのものだということも、大いにあり得べきことであろう。それにまたニイナ夫人に向かって、ただ﹃その胸をかきむしる﹄ために、自分の一種の観察を伝えたということも、怪しい話である。
ここで見のがしてはならないが、人間の動作の原因というものは、常にわれわれがあとになって説明するよりも、たいていははるかに複雑であり、多種多様なものであって、はっきりとして輪廓のわかることははなはだまれである。そこで、ときには、事件の単なる記述のみにとどめておくことが、説明者にとっては何よりも好都合な場合がある。そういうわけで、私は今の将軍の不幸な最後についてのこれから先の説明にあたっても、このたてまえで行きたいと思う。すなわち、どんなことがあろうとも、この小説の第二義的な人物に対して、今まで想像していたよりも、も少しよけいに注意を払い、も少し場所をとらなければならない破目に立ち至ったからである。
これらの事件は次のような経路をたどってあとからあとから起こったことであった。
レーべジェフは、フェルデシチェンコを捜索するためにペテルブルグへ出かけて、すぐにその日のうちに将軍といっしょに帰って来たが、別にこれというほどのことは公爵に伝えなかった。もし、公爵がそのとき、そんなに忙しくなく、自分自身にとって重要な他の印象などにかまけていなかったら、次の二日間に、レーべジェフが少しも打ち明けた話をしてくれないばかりではなく、かえって、公爵と顔を合わせるのをどういうわけか、避けてさえもいることに、すぐに気がついたはずである。公爵は、やっと、これに気がついて、この二日の間、ゆくりなくレーベジェフに会うたびごとに、何はともあれ、いたって上機嫌で、ほとんどいつも将軍といっしょだったことを思い起こしていまさらながらに驚いた。二人の友だちは、もう一刻たりとも離れなかった。公爵は時として、二階から彼の部屋に聞こえて来る声の高い、早口な話し声や、大きな声で笑いながら議論をしている声を耳にした。ある時などは、夜もふけてから、軍隊式の酒盛の歌が、いきなり、だしぬけに響いてきたが、彼はすぐに将軍のしわがれた低(バ)音(ス)に気がついた。しかし、歌はしまいまで行かないうちに、ぱったり聞こえなくなってしまった。それからおよそ一時間ばかりもの間、あらゆる様子から推して、酔っ払っていると覚しく、ひどく威勢のよい話し声が続いていた。やがて、二階で、騒いでいた友だちが抱き合って、ついには、どちらかが泣き出したということまで、察しがついた。それから急に激しい議論が聞こえたが、それもやはり、たちまちのうちにぴたりとやんでしまった。
この間じゅう、コォリャは何かしら特別な不安な気分に浸されていた。公爵はたいていは家をあけて、時おりは、かなりに夜おそく帰って来た。すると、彼はいつも、コォリャが一日じゅう公爵を捜しまわっていたということを聞かされるのであった。しかし、会ってみると、コォリャは別に変わったことを言うわけではなかった。ただ、将軍のことが実に﹃気に食わない﹄、将軍の今日このごろの品行がおもしろくないというだけのことであった。﹃二人でうろつき回って、ここからあんまり遠くもない居酒屋で呑んだくれて、往来で抱き合ったり、悪口を言い合ったり、お互いにおだて合ったりして、どうしても離れられないんです﹄それと同じようなことは以前にも、ほとんど毎日といってもいいくらいにあったことだと公爵が言って聞かせたとき、コォリャはそれに対してなんと返事をしたらよいのか、そして今の自分の不安がどこにあるのかをどういう風に説明したらいいのか、全くわからなかった。
酒盛りの歌と議論のあくる朝、十一時ごろに、公爵が家を出ようとしていると、だしぬけに彼の前に将軍があらわれた。何やら極度に興奮していて、ほとんど狼(ろう)狽(ばい)しているといってもいいくらいであった。
﹁ムイシュキン公爵様、わしはとうから、ずっとずっと前から、あなたにお目にかかる光栄と、機会とを求めておりました﹂実に固く、痛いほど固く、公爵の手を握りしめながら、将軍はつぶやいた。﹁ずっと、ずっと前から﹂
公爵は腰を掛けてくれと言った。
﹁いや、坐りません、おまけに、お出かけのところを引き止めておりまするで。わしは……またこの次に……。この際、わしは……心の願いのかないましたることについて、……あなたにお祝いを申してもよろしいように、思いまするがな﹂
﹁どんな心の願いです?﹂
公爵はどぎまぎした。彼はかような立場にある多くの人々と同じように、けっして誰にも見られもすまいし、察しもされまいし、悟りもされまいと考えていたのであった。
﹁御安心なさい、御安心なさい! あなたのきわめてデリケートな感情をかき乱すようなことはいたしませんから。自分でも味をなめて、よく覚えがありますよ。他人が……その、なんですね、……ことわざにもあるとおり、……頼まれもしないのにくちばしを容れるというのは……。これは、わしも、毎朝、味をなめていますよ。わしはほかの用事で来たのです。大事なことで。とても大事なことですよ、公爵﹂
公爵は席に着いてくれともう一度頼んで、自分でも腰をおろした。
﹁では、たった一秒間……実はあなたの御意見を伺いにまいったんですがね。わしはもちろん、実際的な目的というものをもたずに暮らしている者ですが、しかし、自分自身を尊敬し、……だいたいのロシア人が重んじていない実務的な手腕を尊敬して……自分自身や、女房子供をいい境遇に置いてやりたいと思いましての……要するにですな、公爵、わたしは相談に乗っていただきたいんでして﹂
公爵は熱心にその心がけをほめたたえた。
﹁いや、そんなことはみんなくだらん話です﹂と将軍は口早にさえぎった、﹁わしはともかく、こんなことでなく、別の、大事なことをお話しいたしたいんで。つまりですね、ムイシュキン公爵、態度にまごころがこもって、感情の気高いことを信頼し得る人として、あなたに打ち明けようと思い立ったわけなんです、人として……。あなたはわしのことばにびっくりなすっているんじゃありませんか。公爵?﹂
公爵は特に驚くというほどではなかったかもしれないが、なみなみならぬ注意と好奇心とをもって、客の様子をじっと眺めていた。老人はいくぶん青い顔をして、唇は時おりかすかに震え、手は落ち着く所を知らないかのようであった。彼はほんの二、三分坐っている間に、もう二度までも何のためかだしぬけに椅子から飛び上がって、また急に腰をおろした。見たところ、自分のこうした駆け引きにはいささかの注意さえも払わないらしかった。テーブルの上には何冊かの本が載っていた。彼は話を続けながら、そのなかの一冊を取って、ちょっとひろげたページをのぞいて、すぐにまた閉じて、テーブルの上に置いた。今度は別な本を取り上げたが、もうあけようとはせずに、いつまでも、右手に持ったまま、絶えず宙にふり回していた。
﹁たくさんです!﹂と彼は急に叫んだ、﹁どうやら、わしはあなたをだいぶお邪魔したようです﹂
﹁いいえ、どういたしまして、とんでもない、どうぞ聞かしてください。僕はそれどころじゃありません、聞き耳を立てて、お話の意味を推し量ろうとしているのです……﹂
﹁公爵! わしは自分自身が他(ひ)人(と)様に敬われるような身分になりたいとつくづく考えていますがの……また、自分自身と、それに……自分の権利をも尊重したいものです﹂
﹁かような希望をもった人は、その希望の一つだけに対しても、尊敬を受ける値打ちがあるものです﹂
公爵が習字のお手本にあるような文句をもってきたのは、それが立派な効き目があると堅く信じたからであった。何か、こういったような、内容のない、しかも人聞きのいい句を、しかるべき時に言ったら、かような人間、わけても将軍のような境遇にある人間の魂を、たちまちにして、克服し、和らげることもできるだろうと、どうやら本能的に考えついたらしいのである。とにもかくにも、かような客は心を和らげて、帰してやる必要があった。ここに宿題があったのである。
この句は将軍をそそのかして、感激させ、彼の心をひきつけた。将軍はたちまち感動して、やにわに調子を変えて、感激に満ちた長い打ち明け話をしにかかった。ところが、どんなに緊張して、耳を澄ましても、公爵には文字どおり何ひとつ悟ることができなかった。将軍は次から次へと押し寄せて来る思想をたちどころに述べることができないらしく、十分間ほども、むやみにせき込んで、早口にしゃべり立てていた。終わりごろには、眼の中に涙さえ輝きだした。しかもなお、それは初めもなければ終わりもない文句で、いきなりとぎれたり、不意に一飛び移って行ったりするとっぴょうしもないことばと思想にすぎなかった。
﹁たくさんです! あなたはわしのことばを呑み込んでくだすった。それでわしも安心しましたよ﹂だしぬけに立ち上がりながら、彼はこう結んだ、﹁あなたのような心の人に、苦しんでいる者の気持がわからないはずはないです。公爵、あなたは理想そのもののように高潔でいらっしゃる! あなたの前に出たら、ほかの連中なんか物の数ではありません! しかし、あなたはまだ、年が若い、だから、わしが祝福してあげますよ。さて、結局ですね、わしがお邪魔にあがったのは、大事なお話を聞いていただくのに、いつがよろしいか言っていただくためです。これがわしのおもなる望みなんでしてね。わしはただ友情と情けを求めているんですよ。公爵。わしはね、一度も、この心からの要求を物にしたためしがありませんのでな﹂
﹁しかし、どうして今おっしゃらないのです? 僕は喜んでお聞きしますよ……﹂
﹁だめです、公爵、だめです!﹂と将軍は熱くなってさえぎった、﹁今はだめです! 今というのはつまらん空想です! これはあまりにも、あまりにも大事なことです。あまりにも大事な! このお話をする時は、取り返しのつかない運命の決まる時です。これはわしの時になるのです。こういう神聖な時に、ひょっこりやって来た者、偶然に来合わした無礼者のために、二人の話がとぎれるということは、実にいやなことです。こういう無礼者は珍しくはありませんからね﹂と彼は不意に公爵のほうへかがみこんで、いかにも秘密らしく、ほとんど畏れをなしているような変な声でささやいた、﹁あなたの靴の……踵(かがと)ほどの値打ちもない無礼者はざらにいますからね、公爵! おお、わしは自分の靴とは申しませんよ! いいですか、わしは自分の靴のことは言わなかったのですよ。つまり、なんです、あまりに自分を尊敬しているので、わしにはそんなことを平気で口に出すことができないからです、もっとも、あなただけはおわかりになるでしょうが、こういう場合に、自分の踵をそっちのけにして、実は、自分の威厳というものを大いに誇っているかもしれませんね。こんなことは、あなたを除けたら、誰にもわかるものではありません。しかも、あ(ヽ)い(ヽ)つ(ヽ)はその中の親玉ですよ。あ(ヽ)い(ヽ)つ(ヽ)は何もわからないんですよ、公爵! わかるだけの能力がまるで、まるで、ないんですからね。情けがなくっては、わかるもんじゃありませんしね!﹂
終わりごろになると、公爵はほとんど度胆を抜かれて、将軍に向かって、明日の今ごろ会おうと言った。将軍はかなりに気をよくして、ともかくも安心して、威勢よく出て行った。夕方の六時過ぎに、公爵はレーベジェフにちょっと来てくれと使いを立てた。
レーベジェフは﹁まことに光栄と存じて﹂︵彼がはいって来るなり、切り出したことばをもってすれば︶、非常にあわててやって来た。
この三日の間、姿を消して、明らかに公爵と顔を合わせるのを避けていたのに、今はそんなけはいはどこにもないように見える。彼は椅子の端に腰をかけて、顔をしかめたり、ほほえみを浮かべたり、くすぐったそうな、様子を探るような眼つきをして、手をもんだりしながら、誰もがかなり前から臆測して、期待をかけている何かの大事件の知らせにもなぞらうべき何ごとかを必ず聞かされるだろうと、かなりに無邪気な期待をかけているらしい風であった。公爵はまたもや辟易した。急にみんなが自分に対して何かの期待をかけるようになって、まるでお祝いでも言いたそうに、謎をかけたり、忍び笑いをしたり、眼くばせをしたりしながら、自分を見まもっているのが、はっきりと彼にもわかってきた。ケルレルはもう三度ほども彼のところへ、ほんのちょっとの間、立ち寄ったが、やはりこれもお祝いを言いたそうな様子をありありと見せていた。彼は来るたびごとに、感激したような調子で、わけのわからないことを言いだしたが、いつも途中でよしてしまって、さっさと、いつの間にか姿を消してしまうのであった︵彼はこのごろ、どこかで、とてもひどく酒を飲んで、ある撞(た)球(ま)場(や)で蛮声をふるっていたという︶。コォリャまでが、悲しみを忘れて、やはり、二度ばかりもわけのわからぬことを、公爵に話しかけたりした。
公爵はいきなり、いくぶんいらいらしながら、レーベジェフに向かって、将軍の今日このごろの調子をどう思うか、将軍があんなに落ち着かないのはどういうわけかと聞いた。すると彼は手短にさきほどの場面を物語った。
﹁誰にでも不安はあるものでございますよ、公爵、そして……ことに、現代のような変な、不安の多い時代におきましては。はい﹂とレーベジェフはいくぶんそっけなく答えて、腹立たしげに口をつぐんだが、まるで自分の期待をひどく裏切られた人のような様子をしていた。
﹁たいへんな哲学ですね!﹂と公爵は苦笑した。
﹁哲学は必要なものでございましての。ことに十九世紀におきましては、その実際的適用の点で必要なはずなんですが、おろそかにされていましての。本当に、はい。ところで、公爵様、わたくしはあなたも御承知のある点について、あなた様の御信任をいただいておりますが、それもただある程度まででございましての。つまり、この一つの点に関する事柄以上にはちょっとも出ておりませんので……。わたくしはよく呑み込んでおりますから、けっして愚痴なぞ申しません……﹂
﹁レーベジェフ君、君は何かのことで怒ってらっしゃるようですね?﹂
﹁どういたしまして、少しも、公爵様、けっして、少しも!﹂レーベジェフは胸に手をあてながら、ものものしく叫んだ、﹁とんでもないことでございまして。わたくしは、世間での位置においても、知や情の発達においても、富の蓄積においても、以前の品行においても、さてはまた、知識の点においても、——わたくしの希望などのとてもとても、及ばないあなた様の御信任を受けるほどの値打ちはございませんし、また何かのお役に立つことができるといたしましても、奴隷だとか、雇人だとかの役目をするだけのことだ、ただそれだけだと、すぐに悟りましたのでして……。けっして怒ったりなぞいたしません。ただ悲しい思いをいたしおるのでございますよ﹂
﹁レーベジェフ君、とんでもないことを!﹂
﹁ただそれだけのことですよ! 今もそうでした、つい今もそうでした。あなたにお目にかかったり、また肚(はら)の中であなたの様子を探っている時にも、いつもひとり言を言っていたのでした、﹃自分は親友として、信頼していただくほどの値打ちはないけれども、家主という小資格で、ことによったら、適当の時期に、こちらで当てにしている期日の来ないうちに、いわばその、予告といいますか、通知といいますか、ちかぢかは何かの変化が……おこるでしょうが、それについて、いろいろと承ることができるだろう﹄と﹂
こんなことを言いながら、レーベジェフは、驚いて自分のほうを眺めている公爵を、小さな鋭い眼で、穴のあくほどじっと見つめるのであった。彼はやはり、好奇心を満たすことができると、当てにしていたのであった。
﹁何が何やらさっぱりわかりません﹂公爵は今にも怒りだしそうにして、叫んだ、﹁が、……あんたはとても恐ろしい陰謀家ですね!﹂と言って、不意に本気になって吹き出してしまった。
レーベジェフも同時に笑いだしたが、急に晴れ晴れしてきた眸(ひとみ)には、自分が当てにしていたことが裏書きされて、さらにいっそう強まって来たことが、ありありとうかがわれた。
﹁何を僕が言うかわかってますか、レーベジェフさん? 僕のことを怒っちゃいけませんよ。僕は君のね、もっとも、君ばかりじゃありませんが、無邪気なのに驚いてるんですよ! 君は本当に無邪気に、僕が何か言うのを当てにしてるんですね、つまり、この場合に。ところが、僕には君の期待に副(そ)うようなことが何ひとつないので、君に対してきまりが悪く、恥ずかしいくらいですよ。誓って言いますが、本当に何もお話しすることがないんですよ、御想像がつきますか?﹂
公爵はまたしても笑いだした。
レーベジェフはたちまち気どってしまった。事実、彼は好奇心にかけては、時おり、あまりにも無邪気で、しつこいくらいであったが、しかし、それと同時に、彼はきわめてずるい、ひねくれた男で、どうかすると、あまりにも陰険に黙り込むのであった。そこで、公爵は、絶えず彼の頼みをはねつけて、ほとんど彼を敵にしてしまっていた。しかし、公爵がはねつけるのは軽蔑していたからではなく、彼の好奇心の対象があまりにデリケートだからであった。公爵はつい数日まえまで、自分のある種の空想をまるで罪悪のように見なしていた。が、レーベジェフは、公爵がはねつけたのは、ただ自分に対する個人的な嫌悪と、猜(さい)疑(ぎし)心(ん)によるのだと解釈して、いつも気をくさらして公爵のもとを去るのであった。そうして、公爵と親しい点で、単にコォリャやケルレルばかりではなく、現在のわが子のヴェーラをさえも、ねたましく思うのであった。この時でさえも、彼はおそらく、公爵にとってきわめて興味のあるニュースを一つくらいはまごころから伝えることもでき、またそれを望んでもいたことであろう、しかし、憂鬱そうに黙りこんで、とうとう何も言わずにしまった。
﹁公爵様、何の御用で。とにかく、あなた様が今わたしを……お呼びになったのでございますからね?﹂しばらく口をつぐんでいたがついに彼は口をきった。
﹁そう、実は特に将軍のことを聞こうと思って﹂やはり、ちょっとの間、物思いにふけっていた公爵は、あわてて答えた。﹁それに……いつぞや聞かしてくれた盗難の件も……﹂
﹁それは何のことでございますか?﹂
﹁まあ、それじゃ、僕の言うことがまるでわからないらしいね! ああ、君はいつでも芝居ばかりしてるんですね、レーベジェフ君! 金ですよ、金、あの時、紙入れへ入れたままなくしたっていう四百ルーブルですよ。朝、ペテルブルグへ行くとき、僕のところへ来て話したでしょう、——やっとわかったでしょう?﹂
﹁ああ、あの四百ルーブルのことだったんですか!﹂レーベジェフはやっと今になって思いついたらしく、ことばじりを引いた、﹁御親切に心配してくださいまして、ありがとう存じます、公爵わたくしにとりまして、もったいなさすぎることで。しかし、……あれは見つけましてございます。もうかなり前に﹂
﹁見つけましたって! ああ、よかった!﹂
﹁あなたとしては、その叫び声はまことに高潔なものです。なにしろ、四百ルーブルという金は、親のない児をどっさりかかえながら、つらい仕事をして、細々と生きている貧乏人にとっては、なかなかなみたいていなものではないんでしてね﹂
﹁しかし、僕の言うのはそのことじゃありませんよ! もちろん見つかったということは、嬉しいですが﹂公爵は急いで訂正した、﹁しかし、……いったい、どうして見つけたんです?﹂
﹁実にたわいもなくでございますよ。フロックを掛けておいた椅子の下にあったのです。してみると、紙入れがポケットから床の上へ滑り落ちたに相違ないんでして﹂
﹁どうして椅子の下になんか? そんなはずはない。だって、君はすみずみまで、くまなく捜したって、僕に言ってたじゃありませんか。いったい、どうしてこのいちばん大事な所を見落としたんです?﹂
﹁それがその、本当によく調べたんでございますよ! 調べたってことはようく、とてもよく覚えておりましてな! 椅子をよせて、四つんばいになって、自分の眼ばかり当てにしないで、ようくその場所を手がなでてみましたがの。しかし、何もないじゃありませんか。まるでわたしのこの掌のように、何もなく、すべすべしているんですよ。でも、とにかく、なで回しておりました。そんな気の弱いことは、人がぜひとも見つけ出そうと思っているとき、いつもよくやることでしてね、……大事な、気にかかる物をなくした時に。何もない空っぽの所だとはわかっていても、やはり何十ぺんでものぞいて見るものですよ﹂
﹁なるほど、かりにそうだとしても、いったいどうしたんでしょうね?……僕にはやっぱり呑み込めませんね﹂と公爵はどぎまぎしながらつぶやいた。﹁前にはなかったと言い、その場所を捜したというのに、そこへひょっこり出て来たんですかね?﹂
﹁ところが、本当に、ひょっこり出て来たんでございますよ﹂
公爵は妙な顔をして相手を見つめた。
﹁では、将軍は?﹂不意に彼は聞いた。
﹁と言いますと、なんでございますかね、将軍のことですか?﹂とレーベジェフはまた相手の言うことがわからなかった。
﹁ああ、いまいましい! 僕はね、君、君が椅子の下で紙入れを見つけたとき、将軍がなんと言ったかって、それを聞いてるんですよ。だって、前にいっしょに捜したんじゃありませんか?﹂
﹁前にはいっしょでございました。でも、今度は正直のところを申しますと、わたしが一人で紙入れを捜し出したのですが、このことは黙って、言わないでおいたほうがいいと思いましたんで﹂
﹁しかし、……いったい、どうしてです?……で、金はそっくり元のままでしたか?﹂
﹁紙入れをあけて見ました、が、すっかり元のままでございました。ただの一ルーブルさえも﹂
﹁せめて、僕にだけは、知らせに来てくれてもよかりそうなものを﹂と、公爵は物思わしげに言った。
﹁ですけれど、ねえ、公爵、あなたが個人的に、おそらく、大変な、いわば、感動を受けていらっしゃる際に、こんな私ごとで、よけいな御迷惑をかけてはと、ついそれを気にかけていたのみならず、わたくし自身も、何も見つけないようなふりをしておりましたんで。紙入れはあけて、中をよく調べて、それからまたちゃんと閉めて、また椅子の下へ置いときました﹂
﹁だって、何のために?﹂
﹁さ、さようでございます、これから先、どうなるかという、物好きからなんでございますよ﹂と、もみ手をしながら、レーベジェフは、忍び笑いをした。
﹁それじゃ、今でも紙入れは、一(おと)昨(と)日(い)からずっとそこにあるんですね?﹂
﹁おお、違います、ただ一日一晩あったきりです。御承知のとおり、わたくしは将軍に見つけ出してもらいたいという気がいくぶんありましたんでございます。というのは、わたしが結局、見つけた以上将軍だって、いわば、目をひくように、椅子の下から突き出している品物に、気がつかんという話はございませんからね。わたしは何べんもその椅子を持ち上げて、置きかえましたので、紙入れはすっかり見えるようになってしまいました。けども、将軍はどうしても気がつかないのです。それがまる一昼夜続きました。どうも、あの人は、このごろは、とても杜(ずろ)漏(う)になって、物の見さかいもつかない様子です。話をしたり、講釈をしたり、笑ったり、騒いだりしているかと思うと、いきなりわたしを怒ったりするのです。どういうわけか、わたしにはわからんのです。で、とうとう、二人で部屋を出かかったんですが、わたしは戸をわざとあけっ放しにしておきました。将軍はちょっと、ぐずぐずして、何か言いたそうにしていました。きっと、あんな大金のはいった紙入れを置いとくのが心配だったんでしょう。ところがです、突然、おそろしく怒りだして、もう何も言わんのです。二人で往来へ出てふた足と歩かないうちに、もう、わたしを置いてきぼりにして、さっさと別のほうへ行ってしまいました。で、その晩はただ酒場で落ち合ったばかりでした﹂
﹁しかし、結局は、やはり君が椅子の下から紙入れを取ったんでしょう?﹂
﹁違います、その晩に椅子の下から消えてなくなりましたんでございますよ﹂
﹁じゃ、いったいどこにあるんです、今は?﹂
﹁はい。ここにございます﹂レーベジェフはすっくと立ち上がって、快げに公爵を見ながら、急に笑いだした、﹁いつの間にか、気がついてみると、ここに、このわたしのフロックの裾にあったんですよ。そら、ごらんください、ちょっとつまんでみてください﹂
たしかに、フロックの左の前のほうの裾のよく眼につくところに、袋のようなものができて、ちょっとさわっただけで、すぐに、ほころびたポケットから落ちこんだ革の紙入れがあるということがはっきりとわかった。
﹁引き出して調べてみましたら、全部そっくりしていましたよ。それでまた、元の所へ入れて、こうして昨日の朝から、裾ん中へ入れたまま持ち歩いておりますが、足へぶつかったりしますよ﹂
﹁それで……君は気がつかないんですか!﹂
﹁え、気がつかないんです、へへ! で、公爵様、いかがなものでございましょう、もっとも、こんなことは特にあなた様の御注意をひくほどの値打ちはございませんが、いつも、わたしのポケットは、みんな、ちゃあんとしていたものが、不意に一晩のうちにこんな穴があくなんて! なお物好きによくよく調べてみましたら、誰かがペンナイフで切り抜いたような様子なんですね。まるで嘘のような話じゃございませんか?﹂
﹁それで……将軍は?﹂
﹁昨日も今日も、一日じゅう怒っておりました。恐ろしく不機嫌なのでございますよ。いい気になって、浮かれて、おべっかまで言うかと思うと、涙を流さんばかりにセンチメンタルになる。そうかと思うと、今度はいきなり怒りだして、そのけんまくときたら、こちらでは度胆を抜かれてしまいますよ。いや、本当でございます。わたしはね、公爵、とにかく、軍人ではございませんから、気が弱いのです。昨日、二人で酒場に腰を据えていましたら、偶然のように、この裾が山のようにふくれて、みんなの眼につくところへ出しゃばりました、すると将軍はわたしを横眼で見て、怒っているんです。もう長いこと、あの人がわたしの眼をまっすぐに見るということはなかったのですよ。ただひどく酔っ払った時とか、感きわまった時とかは別ですけれど。ところがです、昨日は二度ばかりも、きっと私をにらみつけましたので、もうわたしは、背中がぞくぞくしましてね。それにしても、明日は紙入れを捜し出すつもりです。が、明日まではまだあの人といっしょに晩方の散歩に出かけますよ﹂
﹁なんだって君はそんなにあの人をいじめるんです?﹂と公爵は叫んだ。
﹁いじめやしませんよ、公爵、いじめやしません!﹂レーベジェフは躍起になってやり返した、﹁わたしは真ごころからあの人を愛してるんでございますよ、そして……尊敬もしております。ところで、今ですね、あなたが本気になさろうと、なさるまいと、とにかく、あの人は以前よりはいっそう、わたしにとって大事な人になりました、わたしはなおいっそうあの人を重んずるようになりましたよ!﹂
レーベジェフが、あまりにまじめにむきになってこんなことを言ったので、公爵はとうとう憤慨さえもしてしまった。
﹁愛してるくせに、そんなにいじめるんですか! 冗談じゃありませんよ、あの人がなくした品を椅子の下や、君のフロックの中など、すぐにわかるところへ置いたということ一つだけで、それだけですでに、自分は君に対してけっしてずるいことをしたくない、そして正直にあやまるのだというところを見せているわけなんですよ! いいですか、あやまっているんですよ。つまりね、あの人は君の感情のデリケートなところを当てにしてるわけです。したがって、あの人に対する君の友情を信じきってるわけなんです。ところが君は、あんなまっ正直な人に……そんな侮辱を加えて!﹂
﹁まっ正直、なるほどね、公爵、まっ正直です!﹂とレーベジェフは眼を光らせながら相づちを打った、﹁そういう公平なことばを述べることのできるのは、とりもなおさず、ね、公爵様、あなた様お一人でございますよ! それだからこそ、わたしは、いろんな身のあやまちに心はくさっておりますが、崇拝といってもいいくらいに、あなた様に参っているんでございますよ! まず、話は決まりました! 紙入れは明日といわず、今すぐに捜し出しましょう。そら、あなたの眼の前で取り出しますよ。ほら、これでございます。ほれ、これが金です、全部、手つかずです。じゃあ、公爵様、おとりください、そして明日まで預ってくださいまし。明日か、明後日にちょうだいいたします。ところで、ねえ、公爵、これが盗まれた最初の晩には、うちの庭のどこか、石っころの下に、隠されていたらしいんですが、あなたはどうお思いになります?﹂
﹁気をつけなさいよ、あの人に紙入れが見つかったなんて、いきなり言うもんじゃありませんよ。ただあっさりと、服の裾にもう何もないことがわかって、一人で悟るようにしむけてやることです﹂
﹁そうでございましょうか? かえって、見つかったと言って、今まで気がつかなかったようなふりをしたほうがよくはないでしょうか?﹂
﹁い、いや﹂と公爵は考えてみて、﹁い、いや、今となっては遅いです、かえってけんのんです、本当に、言わないほうがいい! そして、あの人には優しくして上げなさい、しかし、……あまり眼につくようにしてはいけませんよ、それに、それに……わかってるでしょう……﹂
﹁わかってます、公爵、わかってますよ。つまり、たいてい、実行はできまいということがわかっています。なにしろ、そうするには、あなた様と同じような心をもっていなくてはなりませんからね。おまけに、御当人様が、気短で、むやみに怒る癖がありましてね、このごろは、どうかすると、あまりにひどく偉そうなあしらい方をするようになりましてね。すすり泣きをして、抱きついたり、そうかと思うと不意にわたしを頭ごなしにして、こきおろしたりしだすのです。まあ、そんな時には、裾をつかんで、わざと見せびらかしてやりましょう、へへ! では、公爵、いずれまた、なにしろ、お引き留めをして、いわば、その……たいへん乗り気なところをお邪魔しているに相違ございませんから……﹂
﹁けれども、お願いですから、前のように内証で!﹂
﹁抜き足でそうっと、抜き足しでそうっとでございますね﹂
しかし、事件はけりがついたとはいうものの、公爵は相も変わらず、前と同じように気が気ではなかった。彼は明日の将軍との会見を、しびれを切らして待ちわびていた。
︵つづく︶