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さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速の宿は秋寒かりき
産(うぶ)室(や)の夜(よあ)明(け)
硝(ガラ)子(ス)の外(そと)のあけぼのは
青(あお)白(しろ)き繭(まゆ)のここち……
今一(ひと)すぢ仄(ほの)かに
音せぬ枝(えだ)珊(さん)瑚(ご)の光を引きて、
わが産(うぶ)室(や)の壁を匍(は)ふものあり。
と見れば、嬉(うれ)し、
初(はつ)冬(ふゆ)のかよわなる
日の蝶(てふ)の出(い)づるなり。
ここに在るは、
八(や)たび死より逃れて還(かへ)れる女——
青ざめし女われと、
生れて五(いつ)日(か)目なる
我が藪(やぶ)椿(つばき)の堅き蕾(つぼみ)なす娘エレンヌと
一(いち)瓶(びん)の薔(ば)薇(ら)と、
さて初恋の如(ごと)く含(はに)羞(か)める
うす桃色の日の蝶(てふ)と……
静かに清(すが)清(すが)しき曙(あけぼの)かな。
尊(たふと)くなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の如(ごと)く
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝(はい)日(にち)教徒の信の如(ごと)し、
わがさしのぶる諸(もろ)手(で)を受けよ、
日よ、曙(あけぼの)の女(ぢよ)王(わう)よ。
日よ、君にも夜(よる)と冬の悩みあり、
千万年の昔より幾億たび、
死の苦に堪(た)へて若返る
天(あま)つ焔の力の雄(を)雄(を)しきかな。
われは猶(なほ)君に従はん、
わが生きて返れるは纔(わずか)に八(や)たびのみ
纔(わづか)に八(や)たび絶叫と、血と、
死の闇(やみ)とを超えしのみ。
颱風
ああ颱風、
初(はつ)秋(あき)の野を越えて
都を襲ふ颱風、
汝(なんぢ)こそ逞(たくま)しき大(おほ)馬(うま)の群(むれ)なれ。
黄(くわ)銅(うどう)の背(せな)、
鉄の脚(あし)、黄(き)金(ん)の蹄(ひづめ)、
眼に遠き太陽を掛け、
鬣(たてがみ)に銀を散らしぬ。
火の鼻(はな)息(いき)に
水晶の雨を吹き、
暴(あら)く斜めに、
駆(く)歩(ほ)す、駆(く)歩(ほ)す。
ああ抑(おさ)へがたき
天(てん)の大(おほ)馬(うま)の群(むれ)よ、
怒(いか)れるや、
戯れて遊ぶや。
大(だい)樹(じゆ)は逃(のが)れんとして、
地中の足を挙げ、
骨を挫(くじ)き、手を折る。
空には飛ぶ鳥も無し。
人は怖(おそ)れて戸を鎖(さ)せど、
世を裂く蹄(ひづめ)の音に
屋根は崩れ、
家(いへ)は船よりも揺れぬ。
ああ颱風、
人は汝(なんぢ)によりて、
今こそ覚(さ)むれ、
気(きぶ)不(しや)精(う)と沮(そさ)喪(う)とより。
こころよきかな、全身は
巨大なる象(ざう)牙(げ)の
喇(らつ)叭(ぱ)のここちして、
颱風と共に嘶(いなゝ)く。