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白痴
ドストエフスキー
第一編 十四︵一部抜粋︶
︵承前︶
﹁なんて汚らわしいことでしょう!﹂とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んだ。
﹁ああ! ナスターシャ・フィリッポヴナさん、あなたは人から最も悪い行為を聞きたがっているくせに、それに華やかさを要求していらっしゃる! 最も悪い行為はいつでも非常にきたないものです、今に将軍のお話を聞けばわかります。それにうわべから見たら華々しく、見事に見えるものも世に少なくはありません、しかしこれはただ自家用の馬車を乗り回しているからにすぎないのです。自家用の馬車をもっている人間はざらにあります……それにどういうわけで……﹂
要するに、フェルデシチェンコはもう全く我慢ができなくなって、にわかにわれを忘れるまでに怒りだし、前後の見さかいもなくなったのである。彼の顔までがゆがんでいた。これは実に奇妙なことではある、とはいえ自分の物語が別種の成功をかちうると予期していた彼としては、また当然のことであった。こうした下劣な感情の﹃失錯﹄やトーツキイも言ったような﹃一種独特の自負心﹄はフェルデシチェンコのしばしば経験するところのものであり、いかにも彼の性格に似つかわしいものであった。
ナスターシャ・フィリッポヴナは忿(ふん)怒(ぬ)のあまりからだまでぶるぶると震わせて、ものすごいほどフェルデシチェンコをにらみつけていた。こちらはたちまちおじけづいて、驚きのあまり慄(りつ)然(ぜん)として口をつぐんだ。あまり言い過ぎたからである。
﹁もうよしてしまったらどうでしょう?﹂とアファナシイ・イワーノヴィッチは抜け目なくこう尋ねた。
﹁僕の番ですが、与えられた権利に従って話はごめんをこうむります﹂とプチーツィンは思いきって言った。
﹁あなたは、おいやなんですか?﹂
﹁できないんです、ナスターシャ・フィリッポヴナさん、それに全体から見てもこのペチジョーは不可能であると思います﹂
﹁将軍、今度はあなたの番ですわね﹂ナスターシャ・フィリッポヴナは将軍のほうを向いてこう言った。﹁もしあなたが拒絶なされば、すっかりだめになってしまいますわ。だってわたしもいちばんおしまいに﹃私の一生﹄のある行為をお話ししようと心待ちしていたんですもの。もっとも、それはあなたとアファナシイ・イワーノヴィッチさんのお話のあとですけれど。なぜってお二人に勇気づけていただきたいって思ったからですわ﹂彼女はこう言い終わって笑った。
﹁おお、もしあなたがお約束なさるのなら﹂と将軍は熱した口調で叫んだ。﹁あなたに、僕の一生涯のことでも快くお話しいたしましょう。ところが、僕は順番を待っている間に、一つの逸話を用意しましたよ……﹂
﹁いやもう、それは閣下の御様子を拝見すれば、閣下がどれほどの文学的心血を注いで鏤(るし)心(んち)彫(ょう)骨(こつ)の苦心をされたかがうかがわれますよ﹂まだいくぶんどぎまぎしていたフェルデシチェンコは毒々しい笑いを浮かべて思いきってこう言った。
ナスターシャ・フィリッポヴナはちらと将軍を見やって、自分もまた胸の中でほほえんだ。しかし彼女の胸の哀傷と焦燥の念はいよいよ募ってゆくように思われた。アファナシイ・イワーノヴィッチは彼女が物語をするという約束を聞いてまたもや愕(がく)然(ぜん)としてしまった。
﹁皆さん、僕もみんなと同じように、僕の生涯においてきわめて下劣な行為をしたことがあるのです﹂と将軍が語りだした。﹁しかし、何よりも奇妙なのは、僕がこれからお話しする短い逸話を、一生涯の中で最も悪い行為と考えていることです。それも、かれこれ三十五年も昔のことです。僕はそれを回想するごとに、一種の、つまり、胸を掻きむしられるような気持をいかんともなし得ないのです。もっともばかげたくだらない事件ですがね。それは士官候補になりはじめで、毎日こつこつとおもしろくもない仕事を隊でやっていた時分のことです。ところで、御存じでもありましょうが、士官候補といえば、若い血は燃え立つけれど、ふところぐあいときたらぴいぴいです。そのとき私にはニキーロフという従卒がいましたが、これがまたとても細(こま)々(ごま)と私の身のまわりいっさいのことに気をつけ、縫物から拭き掃除までしてくれ、それに所かまわず機会さえあれば泥棒までしてくるのです。つまり家の物が何でも多くなりさえすればいいというあんばいでしたよ。実直で正直なやつでした。もちろん、僕は厳格で不正なことなんかしませんでした。あるとき私は地方の小さな町に駐屯したことがありました。僕は町はずれに住んでいる退職中尉夫人の、しかも後家さんの家に宿舎を割り当てられました。その後家さんは年のころ八十か、少なく見ても八十に近い婆さんでした。その家というのが古いこわれかかった木造の家で、貧乏で女中もおけない始末なのです。しかしまあいちばんその中で変わっているのは、この婆さんに昔は大人数の家族や身内のものがあったということです。それが長い一生のうちに、ある者は亡くなり、ある者はゆくえ知れずになり、またある者はお婆さんのことなんか忘れてしまったのです。それから、夫が死んだのが四十五年も昔のことなんだそうです。四、五年前まではこの家に婆さんの姪(めい)が住んでいたってことでした。この姪というのがせむしで鬼婆のように悪いやつで、あるときなどは婆さんの指を噛(か)んだということです、その姪も死んでしまって、婆さんはもう三年ばかりの間、全くひとりぽっちで暮らしていたのです。私は家にいるのが退屈でしかたがなかったのです。それに婆さんが実にぽかんとして、実につまらないのです。気の紛れるようなことは何一つないのです。ついに、婆さんが私の鶏を盗みました。これは今もってはっきりしないんですが、しかし婆さんよりほかに盗むものはないのですからね。鶏のことから私たちはずいぶん猛烈に喧嘩をしました。するとそこへちょうど、ぐあいよく私はたった一度願い出たばかりだったのですけれど、別の宿舎に移転するように命ぜられたのです。今度の宿舎というのは、今までの宿舎の反対の側にあたる町はずれにありました。非常に大人数の家族をかかえた商人の家なのです。その商人は今でもよく記憶に残っていますが大きな髯を生やした男でした。私とニキーロフは婆さんを残してゆくのが痛快でたまらなかったのです。喜び勇んで引越しをしました。それから三日ばかりたって教練から帰って来ると、ニキーロフが﹃上官殿、われわれのところの皿を以前の家の婆さんのところへ残して来て損なことをなさいました。スープを入れて差し上げるものがないのであります﹄とこう報告するのです。もちろん、私は驚きました、﹃なんだと、どうしてわれわれのとこの皿を婆あのところに残して来たんじゃ?﹄と尋ねると、ニキーロフは驚いて報告を続けました。引越しのとき婆さんがどうしても皿を渡さずに、私が婆さんの皿をこわしたので、その代わり皿をとっているのだと言ったそうです。つまり婆さんの言うことでは私がこれを提議したことになっているんですね。この卑劣なやり方を聞いて、私はかっとなりました。士官候補の血はたぎって、飛び上がると、一散に駆け出しました。もう、そのすっかりわれを忘れてしまって婆さんのところへ駆けつけると、婆さんは玄関の片隅にしょんぼりと坐って、まるで太陽から姿をかくそうとしているようなぐあいに小さくなって坐っているんです。片手で頬杖をついて。私は、その、雷様のようなやつを頭からぶちまけたんです。﹃貴様はああ言った、こう言った﹄って、つまりロシア式にやってしまったんです。けれど、様子がどうも変なんです。婆さんはじっと坐ったまま、顔を私のほうに向けて眼をむき出し、ひと言も返事をしないんです。その眼つきといったら実に妙なんです。またからだはふらふら揺れているようなぐあいです。ついに私は気が落ち着いて、じっと様子を見ながら聞いてみるんですが、やっぱりうんともすんともないんです。こちらは途方に暮れてたたずんでいました。蠅(はえ)がそのあたりをぶんぶんうなりながら飛んでいましたし、陽はまさに沈もうとして、あたりはひそまりかえっているのです。私は内心、非常な不安を感じながら、そこを離れました。まだ家まで帰らないうちに、少佐のところに呼ばれ、それからまた中隊に行かねばならないことになって、家に帰ったのはすっかり暗くなった時分でした。帰ってゆくとニキーロフがまず最初に言うんです、﹃あのう、上官殿、あの婆さんが死にましたよ﹄﹃いつ?﹄﹃今日の夕方、一時間半ほど前であります﹄すると、ちょうど私が婆さんを責めている時分、死にかかっていたわけなのですよ。私はもうすっかり驚いてしまって、今にも気を失いそうになりました。それから後というものは、このことばかり思い出して、夜は夢にさえ見るようになったのです。もちろん、私は、迷信に囚われたわけじゃありませんが、三日後には葬式に列するために教会へ行きましたよ。つまり、時がたつにつれて思い出すことがひどくなったのです。別にとりとめて、これというのではないが、ときどき考えていると、いやな気分になるのです。ついに私は、そこで起こった重要なことは何であるかと考えるようになったのです。第一に女性——人間的な現代に人間的存在と称するところの一人の女が長い生活を続けて、あまりに長生きしすぎたということなんです。ひところは子供たち、夫、家族、親戚、こうしたものがすべて彼女を取り巻いていた、つまり、ぴったり身近くくっつき合って笑っていた、——ところが、にわかにそうしたものが消え失せて! 残ったのは彼女ただひとり、生まれ落ちるときから神の呪(のろ)いを負った蠅みたいに生き残った。そしてついに神様の許に呼び返されたわけですね。ものしずかな夏の夕方、日没と共に婆さんの魂も飛び去ったのです。もちろん、そこになんらか教訓的なものも考えられなくはありません。つまりその瞬間にですねえ、若い向こう見ずな士官候補が別れの涙をそそぎもしないで、両手を腰へあてて偉そうな格好をして、一方の腰をつき出し、ただ一枚の皿がなくなったということだけで、ロシア人特有の乱暴な罵(ばと)倒(う)のことばをあびせかけ、地上からこのお婆さんを追い払ったわけです。疑いもなく私に罪があるのです、今では遠い昔のことではあるし、私の性格も変わってきましたので、もうだいぶ前からこの私の行為が自分のしたことではないような気もしていはしますが、それでもやっぱり、可哀そうなことをしたものと哀れな気がするのです。だから、もう一度くり返して申しますが、かえって不思議な気さえするのです。なぜってそれは私にも罪があるにしても、何から何まで私が悪いわけじゃありませんからね。いったいどうしてお婆さんはちょうどそのとき死のうなんかと考えついたのでしょう? もちろん、そこに弁解の道があります。これがいくぶん心理的性質を帯びた行為であるということです。と言って私の気はやすまらないのです、それで十五年ほど前に、二人の始終病気になやまされている老婆を私は自分から費用を出して、人並みの暮らしをさして、地上における最後の日をいくぶんなりとも、なごやかに過ごさしてやりたいと思って、養老院に入れてやったのです。今でも私は財産の一部を永久に残る仕事にささげるよう遺言するつもりです。さあ、これでおしまいです。くり返して言いますが、おそらく私は一生の間、多くのことで罪を犯していることでしょう。しかし私は良心に照らして、この事件こそ一生における最も下劣な行為だと考えているのです﹂
﹁閣下は最も下劣な行為の代わりに、御自分の生涯における立派な行為の一つをお話しになられました。フェルデシチェンコは見事に、してやられたのであります!﹂とフェルデシチェンコはこう結論した。
﹁将軍、ほんとのところ、あなたにも、やはりそんなやさしい心がおありだと思いがけませんでしたわ。口惜しい気さえいたしますわ﹂とナスターシャ・フィリッポヴナがうつろな調子で言いだした。
﹁口惜しいですって? いったいどうしてです?﹂と将軍は愛想のいい笑いを浮かべて聞き返し、シャンパンを飲み乾したが、いくぶん満足げな様子であった。
︵つづく︶