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月令十二態
泉鏡花
一(いち)月(ぐわつ)
山(さん)嶺(れい)の雪(ゆき)なほ深(ふか)けれども、其(そ)の白(しろ)妙(たへ)に紅(くれなゐ)の日(ひ)や、美(うつく)しきかな玉(たま)の春(はる)。松(しよ)籟(うらい)時(とき)として波(なみ)に吟(ぎん)ずるのみ、撞(つ)いて驚(おどろ)かす鐘(かね)もなし。萬(まん)歳(ざい)の鼓(つゞみ)遙(はる)かに、鞠(まり)唄(うた)は近(ちか)く梅(うめ)ヶ香(か)と相(あひ)聞(き)こえ、突(つく)羽(ば)根(ね)の袂(たもと)は松(まつ)に友(いう)染(ぜん)を飜(ひるがへ)す。をかし、此(こ)のあたりに住(すま)ふなる橙(だい〳〵)の長(ちや)者(うじや)、吉(きち)例(れい)よろ昆(こん)布(ぶ)の狩(かり)衣(ぎぬ)に、小(こと)殿(のば)原(ら)の太(た)刀(ち)を佩(はき)反(そ)らし、七(なゝ)草(くさ)の里(さと)に若(わか)菜(な)摘(つ)むとて、讓(ゆづ)葉(りは)に乘(の)つたるが、郎(らう)等(どう)勝(かち)栗(ぐり)を呼(よ)んで曰(いは)く、あれに袖(そで)形(かた)の浦(うら)の渚(なぎさ)に、紫(むらさき)の女(によ)性(しやう)は誰(た)そ。……蜆(しゞみ)御(ごぜ)前(ん)にて候(さふらふ)。
二(にぐ)月(わつ)
西(にし)日(び)に乾(かわ)く井(ゐど)戸(ば)端(た)の目(めざ)笊(る)に、殘(のこ)ンの寒(さむ)さよ。鐘(かね)いまだ氷(こほ)る夜(よ)の、北(きた)の辻(つじ)の鍋(なべ)燒(やき)饂(うど)飩(ん)、幽(かすか)に池(いけ)の石(いし)に響(ひゞ)きて、南(みなみ)の枝(えだ)に月(つき)凄(すご)し。一(ひと)つ半(ば)鉦(ん)の遠(とほ)あかり、其(それ)も夢(ゆめ)に消(き)えて、曉(あかつき)の霜(しも)に置(お)きかさぬる灰(はひ)色(いろ)の雲(くも)、新(あたら)しき障(しや)子(うじ)を壓(あつ)す。ひとり南(なん)天(てん)の實(み)に色(いろ)鳥(どり)の音(おと)信(づれ)を、窓(まど)晴(は)るゝよ、と見(み)れば、ちら〳〵と薄(うす)雪(ゆき)、淡(あは)雪(ゆき)。降(ふ)るも積(つも)るも風(ふぜ)情(い)かな、未(みか)開(いこ)紅(う)の梅(うめ)の姿(すがた)。其(そ)の莟(つぼみ)の雪(ゆき)を拂(はら)はむと、置(おき)炬(ごた)燵(つ)より素(すあ)足(し)にして、化(けは)粧(ひ)たる柴(しば)垣(がき)に、庭(には)下(げ)駄(た)の褄(つま)を捌(さば)く。
三(さん)月(ぐわつ)
いたいけなる幼(をさ)兒(なご)に、優(やさ)しき姉(あね)の言(い)ひけるは、緋(ひ)の氈(せん)の奧(おく)深(ふか)く、雪(ぼん)洞(ぼり)の影(かげ)幽(かすか)なれば、雛(ひな)の瞬(またゝ)き給(たま)ふとよ。いかで見(み)むとて寢(ね)もやらず、美(うつく)しき懷(ふところ)より、かしこくも密(そ)と見(みま)參(ゐ)らすれば、其(そ)の上(うへ)に尚(な)ほ女(めを)夫(と)雛(びな)の微(ほゝ)笑(ゑ)み給(たま)へる。それも夢(ゆめ)か、胡(こて)蝶(ふ)の翼(つばさ)を櫂(かい)にして、桃(もゝ)と花(はな)菜(な)の乘(のり)合(あひ)船(ぶね)。うつゝに漕(こ)げば、うつゝに聞(き)こえて、柳(やなぎ)の土(ど)手(て)に、とんと當(あた)るや鼓(つゞみ)の調(しらべ)、鼓(たん)草(ぽぽ)の、鼓(つゞみ)の調(しらべ)。
四(しぐ)月(わつ)
春(はる)の粧(よそほひ)の濃(こ)き淡(うす)き、朝(あさ)夕(ゆふ)の霞(かすみ)の色(いろ)は、消(き)ゆるにあらず、晴(は)るゝにあらず、桃(もゝ)の露(つゆ)、花(はな)の香(か)に、且(か)つ解(と)け且(か)つ結(むす)びて、水(みづ)にも地(つち)にも靡(なび)くにこそ、或(あるひ)は海(かい)棠(だう)の雨(あめ)となり、或(あるひ)は松(まつ)の朧(おぼろ)となる。山(やま)吹(ぶき)の背(せ)戸(ど)、柳(やなぎ)の軒(のき)、白(はく)鵝(が)遊(あそ)び、鸚(あう)鵡(む)唄(うた)ふや、瀬(せ)を行(ゆ)く筏(いかだ)は燕(つばめ)の如(ごと)く、燕(つばめ)は筏(いかだ)にも似(に)たるかな。銀(ぎん)鞍(あん)の少(せう)年(ねん)、玉(ぎよ)駕(くが)の佳(か)姫(き)、ともに恍(くわ)惚(うこつ)として陽(ひ)の闌(たけなは)なる時(とき)、陽(かげ)炎(ろふ)の帳(とばり)靜(しづか)なる裡(うち)に、木(もく)蓮(れん)の花(はな)一(ひと)つ一(ひと)つ皆(みな)乳(ち)房(ゝ)の如(ごと)き戀(こひ)を含(ふく)む。
五(ごぐ)月(わつ)
藤(ふぢ)の花(はな)の紫(むらさき)は、眞(まひ)晝(る)の色(いろ)香(か)朧(おぼろ)にして、白(はく)日(じつ)、夢(ゆめ)に見(まみ)ゆる麗(れい)人(じん)の面(おも)影(かげ)あり。憧(あこ)憬(が)れつゝも仰(あふ)ぐものに、其(そ)の君(きみ)の通(かよ)ふらむ、高(たか)樓(どの)を渡(わた)す廻(くわ)廊(いらう)は、燃(もえ)立(た)つ躑(つゝ)躅(じ)の空(そら)に架(かゝ)りて、宛(さな)然(がら)虹(にじ)の醉(ゑ)へるが如(ごと)し。海(うみ)も緑(みどり)の酒(さけ)なるかな。且(か)つ見(み)る後(こう)苑(ゑん)の牡(ぼた)丹(んく)花(わ)、赫(かく)耀(えう)として然(しか)も靜(しづか)なるに、唯(たゞ)一(ひと)つ繞(めぐ)り飛(と)ぶ蜂(はち)の羽(はお)音(と)よ、一(いつ)杵(しよ)二(にし)杵(よ)ブン〳〵と、小(ちひ)さき黄(き)金(ん)の鐘(かね)が鳴(な)る。疑(うたが)ふらくは、これ、龍(りう)宮(ぐう)の正(まさ)に午(ご)の時(とき)か。
六(ろく)月(ぐわつ)
照(て)り曇(くも)り雨(あめ)もものかは。辻(つじ)々(〳〵)の祭(まつり)の太(たい)鼓(こ)、わつしよい〳〵の諸(もろ)勢(ぎほひ)、山(だ)車(し)は宛(さな)然(がら)藥(くす)玉(だま)の纒(まとひ)を振(ふ)る。棧(さじ)敷(き)の欄(らん)干(かん)連(つらな)るや、咲(さき)掛(かゝ)る凌(のう)霄(ぜん)の紅(くれなゐ)は、瀧(たき)夜(やし)叉(やひ)姫(め)の襦(じゆ)袢(ばん)を欺(あざむ)き、紫(あぢ)陽(さ)花(ゐ)の淺(あさ)葱(ぎ)は光(みつ)圀(くに)の襟(えり)に擬(まが)ふ。人(ひと)の往(ゆき)來(き)も躍(をど)るが如(ごと)し。酒(さけ)はさざんざ松(まつ)の風(かぜ)。緑(みどり)いよ〳〵濃(こまや)かにして、夏(なつ)木(こだ)立(ち)深(ふか)き處(ところ)、山(やま)幽(いう)に里(さと)靜(しづか)に、然(しか)も今(いま)を盛(さかり)の女(をんな)、白(しら)百(ゆ)合(り)の花(はな)、其(そ)の膚(はだへ)の蜜(みつ)を洗(あら)へば、清(しみ)水(づ)に髮(かみ)の丈(たけ)長(なが)く、眞(しん)珠(じゆ)の流(ながれ)雫(しづく)して、小(こあ)鮎(ゆ)の簪(かんざし)、宵(よひ)月(づき)の影(かげ)を走(はし)る。
七(しち)月(ぐわつ)
灼(しや)熱(くねつ)の天(てん)、塵(ちり)紅(あか)し、巷(ちまた)に印(イン)度(ド)更(サラ)紗(サ)の影(かげ)を敷(し)く。赫(かく)耀(えう)たる草(くさ)や木(き)や、孔(くじ)雀(やく)の尾(を)を宇(うち)宙(う)に翳(かざ)し、羅(うすもの)に尚(な)ほ玉(たま)蟲(むし)の光(ひかり)を鏤(ちりば)むれば、松(まつ)葉(ばぼ)牡(た)丹(ん)に青(あを)蜥(とか)蜴(げ)の潛(ひそ)むも、刺(ぬひ)繍(とり)の帶(おび)にして、驕(おご)れる貴(きぢ)女(よ)の裝(よそほひ)を見(み)る。盛(さかん)なる哉(かな)、炎(えん)暑(しよ)の色(いろ)。蜘(く)蛛(も)の圍(ゐ)の幻(まぼろし)は、却(かへつ)て鄙(ひな)下(さが)る蚊(か)帳(や)を凌(しの)ぎ、青(あを)簾(すだれ)の裡(なか)なる黒(くろ)猫(ねこ)も、兒(じぢ)女(よ)が掌(しや)中(うちう)のものならず、髯(ひげ)に蚊(かば)柱(しら)を號(がう)令(れい)して、夕(ゆふ)立(だち)の雲(くも)を呼(よ)ばむとす。さもあらばあれ、夕(ゆふ)顏(がほ)の薄(うす)化(げし)粧(やう)、筧(かけひ)の水(みづ)に玉(たま)を含(ふく)むで、露(ろだ)臺(い)の星(ほし)に、雪(ゆき)の面(おもて)を映(うつ)す、姿(すがた)また爰(こゝ)にあり、姿(すがた)また爰(こゝ)にあり。
八(はち)月(ぐわつ)
向(ひま)日(は)葵(り)、向(ひま)日(は)葵(り)、百(ひや)日(くじ)紅(つこう)の昨(きの)日(ふ)も今(け)日(ふ)も、暑(あつ)さは蟻(あり)の數(かず)を算(かぞ)へて、麻(あさ)野(の)、萱(かや)原(はら)、青(あを)薄(すゝき)、刈(かる)萱(かや)の芽(め)に秋(あき)の近(ちか)きにも、草(くさ)いきれ尚(な)ほ曇(くも)るまで、立(たち)蔽(おほ)ふ旱(ひで)雲(りぐも)恐(おそろ)しく、一(いち)里(りづ)塚(か)に鬼(おに)はあらずや、並(なみ)木(き)の小(をが)笠(さ)如(い)何(か)ならむ。否(いな)、炎(えん)天(てん)、情(なさけ)あり。常(とこ)夏(なつ)、花(はな)咲(さ)けり。優(やさ)しさよ、松(まつ)蔭(かげ)の清(しみ)水(づ)、柳(やなぎ)の井(ゐ)、音(おと)に雫(しづく)に聲(こゑ)ありて、旅(たび)人(びと)に露(つゆ)を分(わか)てば、細(ほそ)瀧(だき)の心(とこ)太(ろてん)、忽(たちま)ち酢(す)に浮(う)かれて、饂(うど)飩(ん)、蒟(こん)蒻(にやく)を嘲(あざ)ける時(とき)、冷(ひや)奴(や)豆(つ)腐(こ)の蓼(たで)はじめて涼(すゞ)しく、爪(つま)紅(くれなゐ)なる蟹(かに)の群(むれ)、納(すゞ)涼(み)の水(みづ)を打(う)つて出(い)づ。やがてさら〳〵と渡(わた)る山(やま)風(かぜ)や、月(つき)の影(かげ)に瓜(うり)が踊(をど)る。踊(をど)子(りこ)は何(なに)々(〳〵)ぞ。南(たう)瓜(なす)、冬(とう)瓜(がん)、青(あを)瓢(ふくべ)、白(しろ)瓜(うり)、淺(あさ)瓜(うり)、眞(まく)桑(はう)瓜(り)。
九(くぐ)月(わつ)
殘(のこん)の暑(あつ)さ幾(いく)日(にち)ぞ、又(また)幾(いく)日(にち)ぞ。然(しか)も刈(かる)萱(かや)の蓑(みの)いつしかに露(つゆ)繁(しげ)く、芭(ばせ)蕉(を)に灌(そゝ)ぐ夜(よ)半(は)の雨(あめ)、やがて晴(は)れて雲(くも)白(しろ)く、芙(ふよ)蓉(う)に晝(ひる)の蛬(こほろぎ)鳴(な)く時(とき)、散(ち)るとしもあらず柳(やなぎ)の葉(は)、斜(なゝめ)に簾(すだれ)を驚(おどろ)かせば、夏(なつ)痩(や)せに尚(な)ほ美(うつく)しきが、轉(うた)寢(ゝね)の夢(ゆめ)より覺(さ)めて、裳(もすそ)を曳(ひ)く濡(ぬれ)縁(えん)に、瑠(る)璃(り)の空(そら)か、二(にさ)三(んり)輪(ん)、朝(あさ)顏(がほ)の小(ちひさ)く淡(あは)く、其(そ)の色(いろ)白(しろ)き人(ひと)の脇(わき)明(あけ)を覗(のぞ)きて、帶(おび)に新(しん)涼(りやう)の藍(あゐ)を描(ゑが)く。ゆるき扱(しご)帶(き)も身(み)に入(し)むや、遠(とほ)き山(やま)、近(ちか)き水(みづ)。待(まち)人(びと)來(きた)れ、初(はつ)雁(かり)の渡(わた)るなり。
十(じふ)月(ぐわつ)
雲(くも)往(ゆ)き雲(くも)來(きた)り、やがて水(みづ)の如(ごと)く晴(は)れぬ。白(しら)雲(くも)の行(ゆく)衞(へ)に紛(まが)ふ、蘆(あし)間(ま)に船(ふね)あり。粟(あは)、蕎(そ)麥(ば)の色(しき)紙(しば)畠(たけ)、小(を)田(だ)、棚(たな)田(だ)、案(か)山(ゝ)子(し)も遠(とほ)く夕(ゆふ)越(ご)えて、宵(よひ)暗(くら)きに舷(ふなばた)白(しろ)し。白(しろ)銀(がね)の柄(え)もて汲(く)めりてふ、月(つき)の光(ひかり)を湛(たゝ)ふるかと見(み)れば、冷(つめた)き露(つゆ)の流(なが)るゝ也(なり)。凝(こ)つては薄(うす)き霜(しも)とならむ。見(み)よ、朝(あさ)凪(なぎ)の浦(うら)の渚(なぎさ)、潔(いさぎよ)き素(そけ)絹(ん)を敷(し)きて、山(やま)姫(ひめ)の來(きた)り描(ゑが)くを待(ま)つ處(ところ)――枝(えだ)すきたる柳(やなぎ)の中(なか)より、松(まつ)の蔦(つた)の梢(こずゑ)より、染(そ)め出(いだ)す秀(しう)嶽(がく)の第(だい)一(いつ)峯(ぽう)。其(そ)の山(やま)颪(おろし)里(さと)に來(きた)れば、色(いろ)鳥(どり)群(む)れて瀧(たき)を渡(わた)る。うつくしきかな、羽(はね)、翼(つばさ)、霧(きり)を拂(はら)つて錦(もみ)葉(ぢ)に似(に)たり。
十(じふ)一(いち)月(ぐわつ)
青(せい)碧(へき)澄(ちよ)明(うめい)の天(てん)、雲(うん)端(たん)に古(こじ)城(やう)あり、天(てん)守(しゆ)聳(そば)立(だ)てり。濠(ほり)の水(みづ)、菱(ひし)黒(くろ)く、石(いし)垣(がき)に蔦(つた)、紅(くれなゐ)を流(なが)す。木(こ)の葉(は)落(お)ち落(お)ちて森(もり)寂(しづか)に、風(かぜ)留(や)むで肅(しゆ)殺(くさつ)の氣(き)の充(み)つる處(ところ)、枝(えだ)は朱(しゆ)槍(さう)を横(よこた)へ、薄(すゝき)は白(はく)劍(けん)を伏(ふ)せ、徑(こみち)は漆(しつ)弓(きう)を潛(ひそ)め、霜(しも)は鏃(やじり)を研(と)ぐ。峻(しゆ)峰(んぽう)皆(みな)將(しや)軍(うぐん)、磊(らい)嚴(がん)盡(こと〴〵)く貔(ひき)貅(う)たり。然(しか)りとは雖(いへど)も、雁(かり)金(がね)の可(なつ)懷(かしき)を射(い)ず、牡(さを)鹿(しか)の可(あは)哀(れ)を刺(さ)さず。兜(かぶと)は愛(あい)憐(れん)を籠(こ)め、鎧(よろひ)は情(じや)懷(うくわい)を抱(いだ)く。明(みや)星(うじやう)と、太(ゆふ)白(つ)星(ゞ)と、すなはち其(そ)の意(い)氣(き)を照(て)らす時(とき)、何(なに)事(ごと)ぞ、徒(いたづら)に銃(じう)聲(せい)あり。拙(つたな)き哉(かな)、驕(けう)奢(しや)の獵(れふ)、一(いつ)鳥(てう)高(たか)く逸(いつ)して、谺(こだま)笑(わら)ふこと三(みた)度(び)。
十(じふ)二(にぐ)月(わつ)
大(だい)根(こん)の時(しぐ)雨(れ)、干(ほし)菜(な)の風(かぜ)、鳶(とび)も烏(からす)も忙(せは)しき空(そら)を、行(ゆ)く雲(くも)のまゝに見(み)つゝ行(ゆ)けば、霜(さう)林(りん)一(いち)寺(じ)を抱(いだ)きて峯(みね)靜(しづか)に立(た)てるあり。鐘(かね)あれども撞(つ)かず、經(きやう)あれども僧(そう)なく、柴(しば)あれども人(ひと)を見(み)ず、師(しは)走(す)の市(まち)へ走(はし)りけむ。聲(こゑ)あるはひとり筧(かけひ)にして、巖(いは)を刻(きざ)み、石(いし)を削(けづ)りて、冷(つめた)き枝(えだ)の影(かげ)に光(ひか)る。誰(た)がための白(しろ)き珊(さん)瑚(ご)ぞ。あの山(やま)越(こ)えて、谷(たに)越(こ)えて、春(はる)の來(きた)る階(きざはし)なるべし。されば水(みづ)筋(すぢ)の緩(ゆる)むあたり、水(すゐ)仙(せん)の葉(は)寒(さむ)く、花(はな)暖(あたゝか)に薫(かを)りしか。刈(かり)あとの粟(あは)畑(ばたけ)に山(やま)鳥(どり)の姿(すがた)あらはに、引(ひき)棄(す)てし豆(まめ)の殼(から)さら〳〵と鳴(な)るを見(み)れば、一(いち)抹(まつ)の紅(こう)塵(ぢん)、手(てま)鞠(り)に似(に)て、輕(かろ)く巷(ちまた)の上(うへ)に飛(と)べり。
大正九年一月―十二月
底本‥﹁鏡花全集 巻二十七﹂岩波書店
1942︵昭和17︶年10月20日第1刷発行
1988︵昭和63︶年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる﹁ヶ﹂︵区点番号5-86︶を、大振りにつくっています。
入力‥門田裕志
校正‥米田進
2002年4月24日作成
2003年5月18日修正
青空文庫作成ファイル‥
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