夏目漱石 草枕
.
十
鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二ふた股またに岐わかれて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁ふちには熊くま笹ざさが多い。ある所は、左右から生おい重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形かたちで、ところどころに岩が自然のまま水みず際ぎわに横よこたわっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連つらねている。
池をめぐりては雑ぞう木きが多い。何百本あるか勘かん定じょうがし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁こまない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌もえ出でた下した草ぐささえある。壺つぼ菫すみれの淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
日本の菫は眠っている感じである。﹁天てん来らいの奇想のように﹂、と形容した西せい人じんの句はとうていあてはまるまい。こう思う途とた端んに余の足はとまった。足がとまれば、厭いやになるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民たみを乞こじ食きと間違えて、掏す摸りの親分たる探たん偵ていに高い月俸を払う所である。
余は草を茵しとねに太平の尻をそろりと卸おろした。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気きづ遣かいはない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容よう赦しゃも未みれ練んもない代りには、人に因よって取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩いわ崎さきや三みつ井いを眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古ここ今ん帝王の権威を風ふう馬ばぎ牛ゅうし得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平びょ等うど観うかんを無むへ辺んさ際いに樹立している。天下の羣ぐん小しょうを麾さしまねいで、いたずらにタイモンの憤いきどおりを招くよりは、蘭らんを九
に滋まき、
を百畦けいに樹うえて、独ひとりその裏うちに起き臥がする方が遥かに得策である。余は公平と云い無む私しと云う。さほど大だい事じなものならば、日に千人の小しょ賊うぞくを戮りくして、満まん圃ぽの草花を彼らの屍しかばねに培つち養かうがよかろう。
何だか考かんがえが理りに落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観かん想そうを練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂たもとから煙たば草こを出して、寸マッ燐チをシュッと擦する。手てご応たえはあったが火は見えない。敷しき島しまのさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸マッ燐チは短かい草のなかで、しばらく雨あま竜りょうのような細い煙りを吐いて、すぐ寂じゃ滅くめつした。席をずらせてだんだん水みず際ぎわまで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸ひたせば生なま温ぬるい水につくかも知れぬと云う間まぎ際わで、とまる。水を覗のぞいて見る。
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水みず草ぐさが、往おう生じょうして沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄すすきなら靡なびく事を知っている。藻もの草ならば誘さそう波の情なさけを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調ととのえて、朝な夕なに、弄なぶらるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾いく代よの思おもいを茎くきの先に籠こめながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功くど徳くになると思ったから、眼の先へ、一つ抛ほうり込んでやる。ぶくぶくと泡あわが二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三みく茎きほどの長い髪が、慵ものうげに揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ。
今度は思い切って、懸命に真まん中なかへなげる。ぽかんと幽かすかに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛なげる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
二間余りを爪つま先さき上あがりに登る。頭の上には大きな樹きがかぶさって、身から体だが急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿つばきが咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日ひな向たで見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩いわ角かどを、奥へ二三間遠とお退のいて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森しん閑かんとして、かたまっている。その花が！ 一日勘かん定じょうしても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮あざやかである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪とられた、後あとは何だか凄すごくなる。あれほど人を欺だます花はない。余は深みや山まつ椿ばきを見るたびにいつでも妖よう女じょの姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣えん然ぜんたる毒を血管に吹く。欺あざむかれたと悟さとった頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入いった時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒さますほどの派は出でやかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄しょ然うぜんとして萎しおれる雨うち中ゅうの梨り花かには、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶えんなる月げっ下かの海かい棠どうには、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味みを帯びた調子である。この調子を底に持って、上うわ部べはどこまでも派出に装よそおっている。しかも人に媚こぶる態さまもなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星せい霜そうを、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一ひと眼め見たが最後！ 見た人は彼女の魔力から金こん輪りん際ざい、免のがるる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠ほふられたる囚しゅ人うじんの血が、自おのずから人の眼を惹ひいて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩くずれるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未みれ練んのないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺あたりは今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年ねん々ねん落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶とけ出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間まに、落ちた椿のために、埋うずもれて、元の平ひら地ちに戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人ひと魂だまのように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑のんで、ぼんやり考え込む。温ゆ泉ば場の御お那な美みさんが昨きの日う冗じょ談うだんに云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大おお浪なみにのる一枚の板いた子ごのように揺れる。あの顔を種たねにして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長とこしなえに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画えでかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背そむいても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打うち壊こわしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一いっ層そほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思おもわしくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾われながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易かえる訳に行かない。あれに嫉しっ
を加えたら、どうだろう。嫉では不安の感が多過ぎる。憎ぞう悪おはどうだろう。憎悪は烈はげし過ぎる。怒いかり？ 怒では全然調和を破る。恨うらみ？ 恨でも春しゅ恨んこんとか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情じょ緒うしょのうちで、憐あわれと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情じょうで、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄とっ嗟さの衝動で、この情があの女の眉び宇うにひらめいた瞬時に、わが画えは成じょ就うじゅするであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微うす笑わらいと、勝とう、勝とうと焦あせる八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。
がさりがさりと足音がする。胸きょ裏うりの図案は三分ぶ二で崩くずれた。見ると、筒つつ袖そでを着た男が、背せへ薪まきを載のせて、熊くま笹ざさのなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
﹁よい御天気で﹂と手てぬ拭ぐいをとって挨あい拶さつする。腰を屈かがめる途とた端んに、三尺帯に落おとした鉈なたの刃はがぴかりと光った。四十恰がっ好こうの逞たくましい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴なれ々なれしい。
﹁旦だん那なも画を御お描かきなさるか﹂余の絵の具箱は開あけてあった。
﹁ああ。この池でも画かこうと思って来て見たが、淋さみしい所だね。誰も通らない﹂
﹁はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠とうげで御お降ふられなさって、さぞ御困りでござんしたろ﹂
﹁え？ うん御おま前えはあの時の馬ま子ごさんだね﹂
﹁はあい。こうやって薪たきぎを切っては城じょ下うかへ持って出ます﹂と源兵衛は荷を卸おろして、その上へ腰をかける。煙たば草こい入れを出す。古いものだ。紙だか革かわだか分らない。余は寸マッ燐チを借かしてやる。
﹁あんな所を毎日越すなあ大変だね﹂
﹁なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三みっ日かに一返ぺん、ことによると四よっ日か目めくらいになります﹂
﹁四日に一返ぺんでも御免だ﹂
﹁アハハハハ。馬が不ふび憫んですから四日目くらいにして置きます﹂
﹁そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ﹂
﹁それほどでもないんで……﹂
﹁時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい﹂
﹁昔からありますよ﹂
﹁昔から？ どのくらい昔から？﹂
﹁なんでもよっぽど古い昔から﹂
﹁よっぽど古い昔しからか。なるほど﹂
﹁なんでも昔し、志し保ほ田だの嬢様が、身を投げた時分からありますよ﹂
﹁志保田って、あの温ゆ泉ば場のかい﹂
﹁はあい﹂
﹁御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか﹂
﹁いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が﹂
﹁ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは﹂
﹁なんでも、よほど昔しの嬢様で……﹂
﹁その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい﹂
﹁その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様﹂
﹁うん﹂
﹁すると、ある日、一ひと人りの梵ぼろ論ん字じが来て……﹂
﹁梵論字と云うと虚こも無そ僧うの事かい﹂
﹁はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄しょ屋うやへ逗とう留りゅうしているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見み染そめて――因いん果がと申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました﹂
﹁泣きました。ふうん﹂
﹁ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟むこにはならんと云うて。とうとう追い出しました﹂
﹁その虚こも無そ僧う﹇＃ルビの﹁こもそう﹂は底本では﹁こむそう﹂﹈をかい﹂
﹁はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする﹂
﹁へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね﹂
﹁まことに怪けしからん事でござんす﹂
﹁何代くらい前の事かい。それは﹂
﹁なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん﹂
﹁何だい﹂
﹁あの志保田の家には、代だい々だい気きち狂がいが出来ます﹂
﹁へええ﹂
﹁全く祟たたりでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃はやします﹂
﹁ハハハハそんな事はなかろう﹂
﹁ござんせんかな。しかしあの御おふ袋くろ様さまがやはり少し変でな﹂
﹁うちにいるのかい﹂
﹁いいえ、去年亡なくなりました﹂
﹁ふん﹂と余は煙草の吸すい殻がらから細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪まきを背せにして去る。
画えをかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何いく日にちかかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下した絵えをとって行こう。幸さいわい、向側の景色は、あれなりで略ほぼ纏まとまっている。あすこでも申もうし訳わけにちょっと描かこう。
一丈余りの蒼あお黒ぐろい岩が、真まっ直すぐに池の底から突き出して、濃こき水の折れ曲る角かどに、嵯さ々さと構える右側には、例の熊くま笹ざさが断だん崖がいの上から水みず際ぎわまで、一いっ寸すんの隙すき間まなく叢そう生せいしている。上には三みか抱かえほどの大きな松が、若わか蔦づたにからまれた幹を、斜ななめに捩ねじって、半分以上水の面おもてへ乗り出している。鏡を懐ふところにした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
三さん脚きゃ几くきに尻しりを据すえて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪あやしまるるくらい、鮮あざやかに水底まで写っている。松に至っては空に聳そびゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収おさまりがつかない。一いっ層その事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工くふ夫うをしたものだろうと、一心に池の面おもを見詰める。
奇体なもので、影だけ眺ながめていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸ひとみを転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌いわおを、影の先から、水際の継つぎ目めまで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤じゅ沢んたくの気けあ合いから、皴しゅ皺んしゅの模様を逐ちく一いち吟ぎん味みしてだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双そう眼がんが今危きが巌んの頂いただきに達したるとき、余は蛇へびに睨にらまれた蟇ひきのごとく、はたりと画えふ筆でを取り落した。
緑みどりの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩いろどる中に、楚そぜ然んとして織り出されたる女の顔は、――花か下かに余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振ふり袖そでに余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、蒼あお白じろき女の顔の真まん中なかにぐさと釘くぎ付づけにされたぎり動かない。女もしなやかなる体たい躯くを伸のせるだけ伸して、高い巌いわおの上に一指も動かさずに立っている。この一いっ刹せつ那な！
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹じゅ梢しょうを掠かすめて、幽かすかに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
また驚かされた。
に滋まき、を百畦けいに樹うえて、独ひとりその裏うちに起き臥がする方が遥かに得策である。余は公平と云い無む私しと云う。さほど大だい事じなものならば、日に千人の小しょ賊うぞくを戮りくして、満まん圃ぽの草花を彼らの屍しかばねに培つち養かうがよかろう。
何だか考かんがえが理りに落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観かん想そうを練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂たもとから煙たば草こを出して、寸マッ燐チをシュッと擦する。手てご応たえはあったが火は見えない。敷しき島しまのさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸マッ燐チは短かい草のなかで、しばらく雨あま竜りょうのような細い煙りを吐いて、すぐ寂じゃ滅くめつした。席をずらせてだんだん水みず際ぎわまで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸ひたせば生なま温ぬるい水につくかも知れぬと云う間まぎ際わで、とまる。水を覗のぞいて見る。
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水みず草ぐさが、往おう生じょうして沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄すすきなら靡なびく事を知っている。藻もの草ならば誘さそう波の情なさけを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調ととのえて、朝な夕なに、弄なぶらるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾いく代よの思おもいを茎くきの先に籠こめながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功くど徳くになると思ったから、眼の先へ、一つ抛ほうり込んでやる。ぶくぶくと泡あわが二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三みく茎きほどの長い髪が、慵ものうげに揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ。
今度は思い切って、懸命に真まん中なかへなげる。ぽかんと幽かすかに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛なげる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
二間余りを爪つま先さき上あがりに登る。頭の上には大きな樹きがかぶさって、身から体だが急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿つばきが咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日ひな向たで見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩いわ角かどを、奥へ二三間遠とお退のいて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森しん閑かんとして、かたまっている。その花が！ 一日勘かん定じょうしても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮あざやかである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪とられた、後あとは何だか凄すごくなる。あれほど人を欺だます花はない。余は深みや山まつ椿ばきを見るたびにいつでも妖よう女じょの姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣えん然ぜんたる毒を血管に吹く。欺あざむかれたと悟さとった頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入いった時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒さますほどの派は出でやかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄しょ然うぜんとして萎しおれる雨うち中ゅうの梨り花かには、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶えんなる月げっ下かの海かい棠どうには、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味みを帯びた調子である。この調子を底に持って、上うわ部べはどこまでも派出に装よそおっている。しかも人に媚こぶる態さまもなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星せい霜そうを、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一ひと眼め見たが最後！ 見た人は彼女の魔力から金こん輪りん際ざい、免のがるる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠ほふられたる囚しゅ人うじんの血が、自おのずから人の眼を惹ひいて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩くずれるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未みれ練んのないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺あたりは今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年ねん々ねん落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶とけ出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間まに、落ちた椿のために、埋うずもれて、元の平ひら地ちに戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人ひと魂だまのように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑のんで、ぼんやり考え込む。温ゆ泉ば場の御お那な美みさんが昨きの日う冗じょ談うだんに云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大おお浪なみにのる一枚の板いた子ごのように揺れる。あの顔を種たねにして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長とこしなえに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画えでかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背そむいても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打うち壊こわしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一いっ層そほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思おもわしくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾われながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易かえる訳に行かない。あれに嫉しっを加えたら、どうだろう。嫉では不安の感が多過ぎる。憎ぞう悪おはどうだろう。憎悪は烈はげし過ぎる。怒いかり？ 怒では全然調和を破る。恨うらみ？ 恨でも春しゅ恨んこんとか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情じょ緒うしょのうちで、憐あわれと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情じょうで、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄とっ嗟さの衝動で、この情があの女の眉び宇うにひらめいた瞬時に、わが画えは成じょ就うじゅするであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微うす笑わらいと、勝とう、勝とうと焦あせる八の字のみである。あれだけでは、とても物にならない。
がさりがさりと足音がする。胸きょ裏うりの図案は三分ぶ二で崩くずれた。見ると、筒つつ袖そでを着た男が、背せへ薪まきを載のせて、熊くま笹ざさのなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
﹁よい御天気で﹂と手てぬ拭ぐいをとって挨あい拶さつする。腰を屈かがめる途とた端んに、三尺帯に落おとした鉈なたの刃はがぴかりと光った。四十恰がっ好こうの逞たくましい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴なれ々なれしい。
﹁旦だん那なも画を御お描かきなさるか﹂余の絵の具箱は開あけてあった。
﹁ああ。この池でも画かこうと思って来て見たが、淋さみしい所だね。誰も通らない﹂
﹁はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠とうげで御お降ふられなさって、さぞ御困りでござんしたろ﹂
﹁え？ うん御おま前えはあの時の馬ま子ごさんだね﹂
﹁はあい。こうやって薪たきぎを切っては城じょ下うかへ持って出ます﹂と源兵衛は荷を卸おろして、その上へ腰をかける。煙たば草こい入れを出す。古いものだ。紙だか革かわだか分らない。余は寸マッ燐チを借かしてやる。
﹁あんな所を毎日越すなあ大変だね﹂
﹁なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三みっ日かに一返ぺん、ことによると四よっ日か目めくらいになります﹂
﹁四日に一返ぺんでも御免だ﹂
﹁アハハハハ。馬が不ふび憫んですから四日目くらいにして置きます﹂
﹁そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ﹂
﹁それほどでもないんで……﹂
﹁時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい﹂
﹁昔からありますよ﹂
﹁昔から？ どのくらい昔から？﹂
﹁なんでもよっぽど古い昔から﹂
﹁よっぽど古い昔しからか。なるほど﹂
﹁なんでも昔し、志し保ほ田だの嬢様が、身を投げた時分からありますよ﹂
﹁志保田って、あの温ゆ泉ば場のかい﹂
﹁はあい﹂
﹁御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか﹂
﹁いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が﹂
﹁ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは﹂
﹁なんでも、よほど昔しの嬢様で……﹂
﹁その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい﹂
﹁その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様﹂
﹁うん﹂
﹁すると、ある日、一ひと人りの梵ぼろ論ん字じが来て……﹂
﹁梵論字と云うと虚こも無そ僧うの事かい﹂
﹁はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄しょ屋うやへ逗とう留りゅうしているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見み染そめて――因いん果がと申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました﹂
﹁泣きました。ふうん﹂
﹁ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟むこにはならんと云うて。とうとう追い出しました﹂
﹁その虚こも無そ僧う﹇＃ルビの﹁こもそう﹂は底本では﹁こむそう﹂﹈をかい﹂
﹁はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする﹂
﹁へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね﹂
﹁まことに怪けしからん事でござんす﹂
﹁何代くらい前の事かい。それは﹂
﹁なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん﹂
﹁何だい﹂
﹁あの志保田の家には、代だい々だい気きち狂がいが出来ます﹂
﹁へええ﹂
﹁全く祟たたりでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃はやします﹂
﹁ハハハハそんな事はなかろう﹂
﹁ござんせんかな。しかしあの御おふ袋くろ様さまがやはり少し変でな﹂
﹁うちにいるのかい﹂
﹁いいえ、去年亡なくなりました﹂
﹁ふん﹂と余は煙草の吸すい殻がらから細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪まきを背せにして去る。
画えをかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何いく日にちかかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下した絵えをとって行こう。幸さいわい、向側の景色は、あれなりで略ほぼ纏まとまっている。あすこでも申もうし訳わけにちょっと描かこう。
一丈余りの蒼あお黒ぐろい岩が、真まっ直すぐに池の底から突き出して、濃こき水の折れ曲る角かどに、嵯さ々さと構える右側には、例の熊くま笹ざさが断だん崖がいの上から水みず際ぎわまで、一いっ寸すんの隙すき間まなく叢そう生せいしている。上には三みか抱かえほどの大きな松が、若わか蔦づたにからまれた幹を、斜ななめに捩ねじって、半分以上水の面おもてへ乗り出している。鏡を懐ふところにした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
三さん脚きゃ几くきに尻しりを据すえて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪あやしまるるくらい、鮮あざやかに水底まで写っている。松に至っては空に聳そびゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収おさまりがつかない。一いっ層その事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工くふ夫うをしたものだろうと、一心に池の面おもを見詰める。
奇体なもので、影だけ眺ながめていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸ひとみを転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌いわおを、影の先から、水際の継つぎ目めまで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤じゅ沢んたくの気けあ合いから、皴しゅ皺んしゅの模様を逐ちく一いち吟ぎん味みしてだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双そう眼がんが今危きが巌んの頂いただきに達したるとき、余は蛇へびに睨にらまれた蟇ひきのごとく、はたりと画えふ筆でを取り落した。
緑みどりの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩いろどる中に、楚そぜ然んとして織り出されたる女の顔は、――花か下かに余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振ふり袖そでに余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、蒼あお白じろき女の顔の真まん中なかにぐさと釘くぎ付づけにされたぎり動かない。女もしなやかなる体たい躯くを伸のせるだけ伸して、高い巌いわおの上に一指も動かさずに立っている。この一いっ刹せつ那な！
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹じゅ梢しょうを掠かすめて、幽かすかに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
また驚かされた。