夏目漱石 草枕
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六
夕暮の机に向う。障子も襖ふすまも開あけ放はなつ。宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振ふる舞まう境きょうを、幾いく曲まがりの廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩わずらいにはならぬ。今日は一ひと層しお静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間まに、われを残して、立ち退のいたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。霞かすみの国か、雲の国かであろう。あるいは雲と水が自然に近づいて、舵かじをとるさえ懶ものうき海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境さかいに漂ただよい来て、果はては帆みずからが、いずこに己おのれを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな遥はるかな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四しだ大いが、今頃は目に見えぬ霊れい氛ふんとなって、広い天地の間に、顕けん微びき鏡ょうの力を藉かるとも、些さの名なご残りを留とどめぬようになったのであろう。あるいは雲ひば雀りに化して、菜なの花の黄きを鳴き尽したる後のち、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。または永き日を、かつ永くする虻あぶのつとめを果したる後、蕋ずいに凝こる甘き露を吸い損そこねて、落おち椿つばきの下に、伏せられながら、世を香かんばしく眠っているかも知れぬ。とにかく静かなものだ。
空むなしき家を、空しく抜ける春はる風かぜの、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒こばむものへの面つら当あてでもない。自おのずから来きたりて、自から去る、公平なる宇宙の意こころである。掌たなごころに顎あごを支ささえたる余の心も、わが住む部屋のごとく空むなしければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気きづ遣かいも起おこる。戴いただくは天と知る故に、稲いな妻ずまの米こめ噛かみに震ふるう怖おそれも出来る。人と争あらそわねば一いち分ぶんが立たぬと浮世が催促するから、火かた宅くの苦くは免かれぬ。東西のある乾けん坤こんに住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎あだである。目に見る富は土である。握る名と奪える誉ほまれとは、小こ賢ざかしき蜂はちが甘く醸かもすと見せて、針を棄すて去る蜜のごときものであろう。いわゆる楽たのしみは物に着ちゃくするより起るが故ゆえに、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画がか客くなるものあって、飽あくまでこの待たい対たい世界の精華を嚼かんで、徹てっ骨こつ徹てつ髄ずいの清きを知る。霞かすみを餐さんし、露を嚥のみ、紫しを品ひんし、紅こうを評ひょうして、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着ちゃくするのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫ぼう々ぼうたる大地を極きわめても見みい出だし得ぬ。自じざ在いに泥でい団だんを放ほう下げして、破はり笠つ裏りに無むげ限んの青せい嵐らんを盛もる。いたずらにこの境遇を拈ねん出しゅつするのは、敢あえて市しせ井いの銅どう臭しゅ児うじの鬼きか嚇くして、好んで高く標ひょ置うちするがためではない。ただ這しゃ裏りの福ふく音いんを述べて、縁ある衆しゅ生じょうを麾さしまねくのみである。有あり体ていに云えば詩境と云い、画界と云うも皆人にん々にん具ぐそ足くの道である。春しゅ秋んじゅうに指を折り尽して、白はく頭とうに呻しん吟ぎんするの徒とといえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭しゅ骸うがいに洩もれて、吾われを忘れし、拍はく手しゅの興きょうを喚よび起す事が出来よう。出来ぬと云わば生いき甲が斐いのない男である。
されど一いち事じに即そくし、一いち物ぶつに化かするのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は一いち弁べんの花に化し、あるときは一いっ双そうの蝶ちょうに化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を沢たく風ふうの裏うちに撩りょ乱うらんせしむる事もあろうが、何なんとも知れぬ四しへ辺んの風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那なに物ものぞとも明めい瞭りょうに意識せぬ場合がある。ある人は天地の耿こう気きに触るると云うだろう。ある人は無むげ絃んの琴きんを霊れい台だいに聴くと云うだろう。またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に
して、縹ひょ緲うびょうのちまたに彷ほう徨こうすると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、唐から木きの机に憑よりてぽかんとした心しん裡りの状態は正まさにこれである。
余は明あきらかに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍こう惚こつと動いている。
強しいて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙せん丹たんに練り上げて、それを蓬ほう莱らいの霊れい液えきに溶といて、桃とう源げんの日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間まに毛けあ孔なから染しみ込んで、心が知覚せぬうちに飽ほう和わされてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不ふぶ分んみ明ょうであるから、毫ごうも刺激がない。刺激がないから、窈よう然ぜんとして名状しがたい楽たのしみがある。風に揉もまれて上うわの空そらなる波を起す、軽薄で騒々しい趣おもむきとは違う。目に見えぬ幾いく尋ひろの底を、大陸から大陸まで動いている
洋こうようたる蒼そう海かいの有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸けね念んが籠こもる。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈はげしき力の銷しょ磨うましはせぬかとの憂うれいを離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕とらえ難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞おそれを含んではおらぬ。冲ちゅ融うゆうとか澹たん蕩とうとか云う詩人の語はもっともこの境きょうを切実に言い了おおせたものだろう。
この境きょ界うがいを画えにして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼がん前ぜんの人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉ろく過かして、絵えぎ絹ぬの上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能のう事じは終ったものと考えられている。もしこの上に一いっ頭とう地ちを抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣おもむきを添えて、画布の上に淋りん漓りとして生せい動どうさせる。ある特別の感興を、己おのが捕えたる森しん羅らの裡うちに寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明めい瞭りょうに筆端に迸ほとばしっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己おのれはしかじかの事を、しかじかに観み、しかじかに感じたり、その観みか方たも感じ方も、前ぜん人じんの籬り下かに立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
この二種の製作家に主しゅ客かく深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分ぶん明みょうなものではない。あらん限りの感覚を鼓こ舞ぶして、これを心外に物色したところで、方円の形、紅こう緑ろくの色は無論、濃淡の陰、洪こう繊せんの線すじを見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横よこたわる、一定の景物でないから、これが源げん因いんだと指を挙あげて明らかに人に示す訳わけに行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――否いやこの心持ちをいかなる具体を藉かりて、人の合がて点んするように髣ほう髴ふつせしめ得るかが問題である。
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰かっ好こうなる対象を択えらばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に纏まとまらない。纏っても自然界に存するものとは丸まるで趣おもむきを異ことにする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。描えがいた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の上さした刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命を
しがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の績いさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流りゅ派うはに指を染め得たるものを挙あぐれば、文ぶん与よ可かの竹である。雲うん谷こく門下の山水である。下って大たい雅がど堂うの景けい色しょくである。蕪ぶそ村んの人物である。泰たい西せいの画家に至っては、多く眼を具ぐし象ょう世界に馳はせて、神しん往おうの気きい韻んに傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物ぶつ外がいの神しん韻いんを伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
惜しい事に雪せっ舟しゅう、蕪村らの力つとめて描びょ出うしゅつした一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画えにして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬ほお杖づえをやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾わが子こを尋ね当てるため、六十余州を回かい国こくして、寝ねても寤さめても、忘れる間まがなかったある日、十字街頭にふと邂かい逅こうして、稲いな妻ずまの遮さえぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵ののしられても恨うらみはない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲きょ直くちょくがこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風ふう韻いんのどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭いとわない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖じょうのなかへ落ち込むまで、工くふ夫うしたが、とても物にならん。
鉛筆を置いて考えた。こんな抽ちゅ象うし的ょうてきな興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。
たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼せまられて生まれた自然の声であろう。楽がくは聴きくべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境きょ界うがいもとうてい物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる心しん裏りの状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓てい次じに展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来きたり、二が消えて三が生まるるがために嬉うれしいのではない。初から窈よう然ぜんとして同どう所しょに把はじ住ゅうする趣おもむきで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按あん排ばいする必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる景けい情じょうを詩中に持ち来って、この曠こう然ぜんとして倚きた托くなき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕とらえ得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進しん捗ちょくする出来事の助けを藉からずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充みたしさえすれば、言語をもって描えがき得るものと思う。
議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、画えにしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の尖とがった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫ごうも運動させる訳わけに行かなかった。急に朋ほう友ゆうの名を失念して、咽の喉どまで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで諦あきらめると、出でそ損くなった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
葛くず湯ゆを練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸はしに手てご応たえがないものだ。そこを辛しん抱ぼうすると、ようやく粘ねば着りが出て、攪かき淆まぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋なべの中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
手てが掛かりのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。
蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り易やすかったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない情じょうを、次には咏うたって見たい。あれか、これかと思い煩わずらった末とうとう、
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬
白雲郷。
と出来た。もう一いっ返ぺん最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入はいった神境を写したものとすると、索さく然ぜんとして物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖ふすまを引いて、開あけ放はなった幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。
余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振ふり袖そで姿すがたのすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽えん側がわを寂じゃ然くねんとして歩ある行いて行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
花はな曇ぐもりの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄らん干かんに、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間けんの中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭しょ寥うりょうと見えつ、隠れつする。
女はもとより口も聞かぬ。傍わき目めも触ふらぬ。椽えんに引く裾すその音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩あ行るいている。腰から下にぱっと色づく、裾すそ模もよ様うは何を染め抜いたものか、遠くて解わからぬ。ただ無む地じと模様のつながる中が、おのずから暈ぼかされて、夜と昼との境のごとき心ここ地ちである。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装よそおいをして、この不思議な歩あゆ行みをつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝ゆく春の恨うらみを訴うる所しょ作さならば何が故ゆえにかくは無むと頓んじ着ゃくなる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺き羅らを飾れる。
暮れんとする春の色の、嬋せん媛えんとして、しばらくは冥めいの戸口をまぼろしに彩いろどる中に、眼も醒さむるほどの帯おび地じは金きん襴らんか。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼そう然ぜんたる夕べのなかにつつまれて、幽ゆう闃げきのあなた、遼りょ遠うえんのかしこへ一分ごとに消えて去る。燦きらめき渡る春の星の、暁あかつき近くに、紫深き空の底に陥おちいる趣おもむきである。
太たい玄げんの
おのずから開ひらけて、この華はなやかなる姿を、幽ゆう冥めいの府ふに吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金きん屏びょうを背に、銀ぎん燭しょくを前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装よそおいの、厭いとう景けし色きもなく、争う様子も見えず、色しき相そう世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼せまる黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦せきもせず、狼うろ狽たえもせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘はい徊かいしているらしい。身に落ちかかる災わざわいを知らぬとすれば無邪気の極きわみである。知って、災と思わぬならば物もの凄すごい。黒い所が本来の住すま居いで、しばらくの幻まぼ影ろしを、元もとのままなる冥めい漠ばくの裏うちに収めればこそ、かように間かん
の態度で、有うと無むの間あいだに逍しょ遥うようしているのだろう。女のつけた振袖に、紛ふんたる模様の尽きて、是非もなき磨する墨すみに流れ込むあたりに、おのが身の素すじ性ょうをほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻うつ覚つのままで、この世の呼い吸きを引き取るときに、枕元に病やまいを護まもるわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生いき甲が斐いのない本人はもとより、傍はたに見ている親しい人も殺すが慈悲と諦あきらめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科とががあろう。眠りながら冥よ府みに連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果はたすと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃のがれぬ定じょ業うごうと得心もさせ、断念もして、念仏を唱となえたい。死ぬべき条件が具そなわらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つと回えこ向うをする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮かりの眠りから、いつの間まとも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩ぼん悩のうの綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏おだやかに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡うちから救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否いなや、何だか口が聴きけなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途とた端んに、女はまた通る。こちらに窺うかがう人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微みじ塵んも気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初しょ手てから、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭しょ々うしょうと封じ了おわる。
して、縹ひょ緲うびょうのちまたに彷ほう徨こうすると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、唐から木きの机に憑よりてぽかんとした心しん裡りの状態は正まさにこれである。
余は明あきらかに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍こう惚こつと動いている。
強しいて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙せん丹たんに練り上げて、それを蓬ほう莱らいの霊れい液えきに溶といて、桃とう源げんの日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間まに毛けあ孔なから染しみ込んで、心が知覚せぬうちに飽ほう和わされてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不ふぶ分んみ明ょうであるから、毫ごうも刺激がない。刺激がないから、窈よう然ぜんとして名状しがたい楽たのしみがある。風に揉もまれて上うわの空そらなる波を起す、軽薄で騒々しい趣おもむきとは違う。目に見えぬ幾いく尋ひろの底を、大陸から大陸まで動いている洋こうようたる蒼そう海かいの有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸けね念んが籠こもる。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈はげしき力の銷しょ磨うましはせぬかとの憂うれいを離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕とらえ難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞おそれを含んではおらぬ。冲ちゅ融うゆうとか澹たん蕩とうとか云う詩人の語はもっともこの境きょうを切実に言い了おおせたものだろう。
この境きょ界うがいを画えにして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼がん前ぜんの人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉ろく過かして、絵えぎ絹ぬの上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能のう事じは終ったものと考えられている。もしこの上に一いっ頭とう地ちを抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣おもむきを添えて、画布の上に淋りん漓りとして生せい動どうさせる。ある特別の感興を、己おのが捕えたる森しん羅らの裡うちに寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明めい瞭りょうに筆端に迸ほとばしっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己おのれはしかじかの事を、しかじかに観み、しかじかに感じたり、その観みか方たも感じ方も、前ぜん人じんの籬り下かに立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
この二種の製作家に主しゅ客かく深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分ぶん明みょうなものではない。あらん限りの感覚を鼓こ舞ぶして、これを心外に物色したところで、方円の形、紅こう緑ろくの色は無論、濃淡の陰、洪こう繊せんの線すじを見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横よこたわる、一定の景物でないから、これが源げん因いんだと指を挙あげて明らかに人に示す訳わけに行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――否いやこの心持ちをいかなる具体を藉かりて、人の合がて点んするように髣ほう髴ふつせしめ得るかが問題である。
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰かっ好こうなる対象を択えらばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に纏まとまらない。纏っても自然界に存するものとは丸まるで趣おもむきを異ことにする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。描えがいた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の上さした刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命をしがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の績いさおしを収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流りゅ派うはに指を染め得たるものを挙あぐれば、文ぶん与よ可かの竹である。雲うん谷こく門下の山水である。下って大たい雅がど堂うの景けい色しょくである。蕪ぶそ村んの人物である。泰たい西せいの画家に至っては、多く眼を具ぐし象ょう世界に馳はせて、神しん往おうの気きい韻んに傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物ぶつ外がいの神しん韻いんを伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
惜しい事に雪せっ舟しゅう、蕪村らの力つとめて描びょ出うしゅつした一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画えにして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬ほお杖づえをやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾わが子こを尋ね当てるため、六十余州を回かい国こくして、寝ねても寤さめても、忘れる間まがなかったある日、十字街頭にふと邂かい逅こうして、稲いな妻ずまの遮さえぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵ののしられても恨うらみはない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲きょ直くちょくがこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風ふう韻いんのどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭いとわない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖じょうのなかへ落ち込むまで、工くふ夫うしたが、とても物にならん。
鉛筆を置いて考えた。こんな抽ちゅ象うし的ょうてきな興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。
たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼せまられて生まれた自然の声であろう。楽がくは聴きくべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境きょ界うがいもとうてい物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる心しん裏りの状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓てい次じに展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来きたり、二が消えて三が生まるるがために嬉うれしいのではない。初から窈よう然ぜんとして同どう所しょに把はじ住ゅうする趣おもむきで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按あん排ばいする必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる景けい情じょうを詩中に持ち来って、この曠こう然ぜんとして倚きた托くなき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕とらえ得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進しん捗ちょくする出来事の助けを藉からずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充みたしさえすれば、言語をもって描えがき得るものと思う。
議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、画えにしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の尖とがった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫ごうも運動させる訳わけに行かなかった。急に朋ほう友ゆうの名を失念して、咽の喉どまで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで諦あきらめると、出でそ損くなった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
葛くず湯ゆを練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸はしに手てご応たえがないものだ。そこを辛しん抱ぼうすると、ようやく粘ねば着りが出て、攪かき淆まぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋なべの中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
手てが掛かりのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り易やすかったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない情じょうを、次には咏うたって見たい。あれか、これかと思い煩わずらった末とうとう、
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬白雲郷。
と出来た。もう一いっ返ぺん最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入はいった神境を写したものとすると、索さく然ぜんとして物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖ふすまを引いて、開あけ放はなった幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。
余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振ふり袖そで姿すがたのすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽えん側がわを寂じゃ然くねんとして歩ある行いて行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
花はな曇ぐもりの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄らん干かんに、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間けんの中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭しょ寥うりょうと見えつ、隠れつする。
女はもとより口も聞かぬ。傍わき目めも触ふらぬ。椽えんに引く裾すその音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩あ行るいている。腰から下にぱっと色づく、裾すそ模もよ様うは何を染め抜いたものか、遠くて解わからぬ。ただ無む地じと模様のつながる中が、おのずから暈ぼかされて、夜と昼との境のごとき心ここ地ちである。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装よそおいをして、この不思議な歩あゆ行みをつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝ゆく春の恨うらみを訴うる所しょ作さならば何が故ゆえにかくは無むと頓んじ着ゃくなる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺き羅らを飾れる。
暮れんとする春の色の、嬋せん媛えんとして、しばらくは冥めいの戸口をまぼろしに彩いろどる中に、眼も醒さむるほどの帯おび地じは金きん襴らんか。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼そう然ぜんたる夕べのなかにつつまれて、幽ゆう闃げきのあなた、遼りょ遠うえんのかしこへ一分ごとに消えて去る。燦きらめき渡る春の星の、暁あかつき近くに、紫深き空の底に陥おちいる趣おもむきである。
太たい玄げんのおのずから開ひらけて、この華はなやかなる姿を、幽ゆう冥めいの府ふに吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金きん屏びょうを背に、銀ぎん燭しょくを前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装よそおいの、厭いとう景けし色きもなく、争う様子も見えず、色しき相そう世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼せまる黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦せきもせず、狼うろ狽たえもせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘はい徊かいしているらしい。身に落ちかかる災わざわいを知らぬとすれば無邪気の極きわみである。知って、災と思わぬならば物もの凄すごい。黒い所が本来の住すま居いで、しばらくの幻まぼ影ろしを、元もとのままなる冥めい漠ばくの裏うちに収めればこそ、かように間かんの態度で、有うと無むの間あいだに逍しょ遥うようしているのだろう。女のつけた振袖に、紛ふんたる模様の尽きて、是非もなき磨する墨すみに流れ込むあたりに、おのが身の素すじ性ょうをほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻うつ覚つのままで、この世の呼い吸きを引き取るときに、枕元に病やまいを護まもるわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生いき甲が斐いのない本人はもとより、傍はたに見ている親しい人も殺すが慈悲と諦あきらめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科とががあろう。眠りながら冥よ府みに連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果はたすと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃のがれぬ定じょ業うごうと得心もさせ、断念もして、念仏を唱となえたい。死ぬべき条件が具そなわらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つと回えこ向うをする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮かりの眠りから、いつの間まとも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩ぼん悩のうの綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏おだやかに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡うちから救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否いなや、何だか口が聴きけなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途とた端んに、女はまた通る。こちらに窺うかがう人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微みじ塵んも気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初しょ手てから、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭しょ々うしょうと封じ了おわる。