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破戒
島崎藤村
この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ。
第壱章
︵一︶
蓮(れん)華(げ)寺(じ)では下宿を兼ねた。瀬川丑(うし)松(まつ)が急に転(やど)宿(がへ)を思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其蔵(く)裏(り)つゞきにある二階の角のところ。寺は信州下(しも)水(みの)内(ちご)郡(ほり)飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古(こせ)刹(つ)で、丁度其二階の窓に倚(より)凭(かゝ)つて眺めると、銀(いて)杏(ふ)の大木を経(へだ)てゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼(めの)前(まへ)に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋(やづ)造(くり)、板葺の屋根、または冬期の雪(ゆき)除(よけ)として使用する特別の軒(のき)庇(びさし)から、ところ〴〵に高く顕(あらは)れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光(あり)景(さま)が香の烟(けぶり)の中に包まれて見える。たゞ一(ひと)際(きは)目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建(たて)築(も)物(の)であつた。
丑松が転(やど)宿(がへ)を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤(もつと)も賄(まかなひ)でも安くなければ、誰も斯(こ)様(ん)な部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤(すゝ)けて茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静(しづ)寂(か)な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗(わび)しい感(かん)想(じ)を起させもする。
今の下宿には斯(か)ういふ事が起つた。半月程前、一人の男を供に連れて、下高井の地方から出て来た大(おほ)日(ひな)向(た)といふ大(だい)尽(じん)、飯山病院へ入院の為とあつて、暫(しば)時(らく)腰掛に泊つて居たことがある。入院は間もなくであつた。もとより内証はよし、病室は第一等、看護婦の肩に懸つて長い廊下を往つたり来たりするうちには、自(おの)然(づ)と豪(がう)奢(しや)が人の目にもついて、誰が嫉(しつ)妬(と)で噂(うはさ)するともなく、﹃彼(あれ)は穢(ゑ)多(た)だ﹄といふことになつた。忽ち多くの病室へ伝(つたは)つて、患者は総(そう)立(だち)。﹃放逐して了(しま)へ、今直ぐ、それが出来ないとあらば吾(われ)儕(〳〵)挙(こぞ)つて御免を蒙る﹄と腕(うで)捲(まく)りして院長を脅(おびやか)すといふ騒動。いかに金(かね)尽(づく)でも、この人種の偏(へん)執(しふ)には勝たれない。ある日の暮、籠に乗せられて、夕闇の空に紛れて病院を出た。籠は其(その)儘(まゝ)もとの下宿へ舁(かつ)ぎ込まれて、院長は毎日のやうに来て診察する。さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤(つと)務(め)を終つて、疲れて宿へ帰つた時は、一同﹃主(かみ)婦(さん)を出せ﹄と喚(わめ)き立てるところ。﹃不浄だ、不浄だ﹄の罵(ば)詈(り)は無遠慮な客の口(くち)唇(びる)を衝(つ)いて出た。﹃不浄だとは何だ﹄と丑松は心に憤つて、蔭ながらあの大日向の不(ふし)幸(あはせ)を憐んだり、道(いは)理(れ)のないこの非人扱ひを慨(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思ひつゞけた――丑松もまた穢多なのである。
見たところ丑松は純粋な北部の信州人――佐(さく)久(ちひ)小(さが)県(た)あたりの岩石の間に成長した壮(わか)年(もの)の一人とは誰の目にも受取れる。正教員といふ格につけられて、学力優等の卒業生として、長野の師範校を出たのは丁度二十二の年(と)齢(し)の春。社(よの)会(なか)へ突出される、直に丑松はこの飯山へ来た。それから足掛三年目の今日、丑松はたゞ熱心な青年教師として、飯山の町の人に知られて居るのみで、実際穢多である、新平民であるといふことは、誰一人として知るものが無かつたのである。
﹃では、いつ引越していらつしやいますか。﹄
と声をかけて、入つて来たのは蓮華寺の住職の匹(つれ)偶(あひ)。年の頃五十前後。茶色小紋の羽織を着て、痩せた白い手に珠(ず)数(ゝ)を持ち乍(なが)ら、丑松の前に立つた。土地の習(なら)慣(はし)から﹃奥様﹄と尊(あ)敬(が)められて居る斯(こ)の有(うは)髪(つ)の尼は、昔者として多少教育もあり、都(みや)会(こ)の生活も万(まん)更(ざら)知らないでも無いらしい口の利き振であつた。世話好きな性質を額にあらはして、微な声で口癖のやうに念仏して、対(あひ)手(て)の返事を待つて居る様子。
其時、丑松も考へた。明(あ)日(す)にも、今夜にも、と言ひたい場合ではあるが、さて差当つて引越しするだけの金が無かつた。実際持合せは四十銭しかなかつた。四十銭で引越しの出来よう筈も無い。今の下宿の払ひもしなければならぬ。月給は明(あさ)後(つ)日(て)でなければ渡らないとすると、否(いや)でも応でも其迄待つより外はなかつた。
﹃斯うしませう、明後日の午(ひる)後(すぎ)といふことにしませう。﹄
﹃明後日?﹄と奥様は不思議さうに対手の顔を眺めた。
﹃明後日引越すのは其(そん)様(な)に可(をか)笑(し)いでせうか。﹄丑松の眼は急に輝いたのである。
﹃あれ――でも明後日は二十八日ぢやありませんか。別に可笑いといふことは御(ござ)座(い)ませんがね、私はまた月が変つてから来(いら)つしやるかと思ひましてサ。﹄
﹃むゝ、これはおほきに左(さ)様(う)でしたなあ。実は私も急に引越しを思ひ立つたものですから。﹄
と何気なく言消して、丑松は故(わ)意(ざ)と話(はな)頭(し)を変へて了(しま)つた。下宿の出来事は烈しく胸の中を騒がせる。それを聞かれたり、話したりすることは、何となく心に恐しい。何か穢多に関したことになると、毎(い)時(つ)もそれを避けるやうにするのが是男の癖である。
﹃なむあみだぶ。﹄
と口の中で唱へて、奥様は別に深く掘つて聞かうともしなかつた。
︵二︶
蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤(つと)務(め)の儘の服(みな)装(り)で居る。白墨と塵(ほこ)埃(り)とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下(げた)駄(ば)穿(き)、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞(は)恥(ぢ)――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹(たか)匠(しやう)町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。﹃彼(あそ)処(こ)へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か﹄と言つたやうな顔付をして、酷(はなはだ)しい軽(けい)蔑(べつ)の色を顕(あらは)して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅(あさ)猿(ま)しくもあり、腹立たしくもあり、遽(にはか)に不愉快になつてすたすた歩き初めた。
本町の雑誌屋は近頃出来た店。其前には新着の書物を筆太に書いて、人目を引くやうに張出してあつた。かねて新聞の広告で見て、出版の日を楽みにして居た﹃懴悔録﹄――肩に猪(ゐの)子(こ)蓮太郎氏著、定価までも書添へた広告が目につく。立ちどまつて、其人の名を思出してさへ、丑松はもう胸の踊るやうな心(こゝ)地(ち)がしたのである。見れば二三の青年が店(みせ)頭(さき)に立つて、何か新しい雑誌でも猟(あさ)つて居るらしい。丑松は色の褪(あ)せたズボンの袖(かく)嚢(し)の内へ手を突込んで、人知れず銀貨を鳴らして見ながら、幾度か其雑誌屋の前を往つたり来たりした。兎(と)に角(かく)、四十銭あれば本が手に入る。しかし其を今茲(こゝ)で買つて了へば、明日は一文無しで暮さなければならぬ。転(やど)宿(がへ)の用意もしなければならぬ。斯ういふ思(かん)想(がへ)に制せられて、一旦は往きかけて見たやうなものゝ、やがて、復(ま)た引返した。ぬつと暖(のれ)簾(ん)を潜つて入つて、手に取つて見ると――それはすこし臭(にほ)気(ひ)のするやうな、粗悪な洋紙に印刷した、黄色い表紙に﹃懴悔録﹄としてある本。貧しい人の手にも触れさせたいといふ趣意から、わざと質素な体裁を択(えら)んだのは、是(この)書(ほん)の性質をよく表して居る。あゝ、多くの青年が読んで知るといふ今の世の中に、飽くことを知らない丑松のやうな年頃で、どうして読まず知らずに居ることが出来よう。智識は一種の饑(ひも)渇(じさ)である。到頭四十銭を取出して、欲(ほし)いと思ふ其本を買求めた。なけなしの金とはいひ乍(なが)ら、精(こゝ)神(ろ)の慾には替へられなかつたのである。
﹃懴悔録﹄を抱いて――買つて反つて丑松は気の衰(おと)頽(ろへ)を感じ乍ら、下宿をさして帰つて行くと、不(ふ)図(と)、途中で学校の仲間に出(で)逢(あ)つた。一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未(ま)だ極(ご)く年若な、此頃準教員に成つたばかりの男。散歩とは二人のぶら〳〵やつて来る様子でも知れた。
﹃瀬川君、大層遅いぢやないか。﹄
と銀之助は洋(ステ)杖(ッキ)を鳴し乍ら近(ちかづ)いた。
正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。﹃あゝ、必(きつ)定(と)身(から)体(だ)の具合でも悪いのだらう﹄と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。
﹃下宿を? 君はよく下宿を取替へる人だねえ――此(こな)頃(ひだ)あそこの家(うち)へ引越したばかりぢやないか。﹄
と毒の無い調子で、さも心(しん)から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。
﹃是かね。﹄と丑松は微(ほゝ)笑(ゑ)みながら出して見せる。
﹃むゝ、﹁懴悔録﹂か。﹄と準教員も銀之助の傍に倚(より)添(そ)ひながら眺めた。
﹃相変らず君は猪子先生のものが好きだ。﹄斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸内(な)部(か)を開けて見たりして、﹃さう〳〵新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯(こ)様(ん)な本かい――斯様な質素な本かい。まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸(さぞ)かしまた聞かせられることだらうなあ。﹄
﹃馬鹿言ひたまへ。﹄
と丑松も笑つて其本を受取つた。
夕(ゆふ)靄(もや)の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、最(も)早(う)ちら〳〵灯(あかり)が点(つ)く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少(すこ)許(し)行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇(たゝ)立(ず)んだ儘(まゝ)、熟(じつ)と是(こち)方(ら)を見送つて居た。半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕(ゆふ)餐(げ)の煙は町の空を籠めて、悄(しよ)然(んぼり)とした友達の姿も黄(たそ)昏(が)れて見えたのである。
︵三︶
鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦(かね)の声が遠(をち)近(こち)の空に響き渡つた。寺々の宵の勤(おつ)行(とめ)は始まつたのであらう。丁度下宿の前まで来ると、あたりを警(いまし)める人足の声も聞えて、提(ちや)灯(うちん)の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺(ちやう)の籠が舁がれて出るところであつた。あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙(もく)然(ねん)として其処に突立つて見て居るうちに、いよ〳〵其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。唯附添の男ばかりは、よく薬の罎(びん)なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。穢多の中でも卑(い)賤(や)しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種(やか)族(ら)とは夢にも知らないで、妙に人を憚(はゞか)るやうな様子して、一寸会(ゑし)釈(やく)し乍ら側を通りぬけた。門口に主(かみ)婦(さん)、﹃御機嫌よう﹄の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。
﹃難(あり)有(がた)うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。﹄
とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る〳〵舁(かつ)がれて出たのである。
﹃ざまあ見やがれ。﹄
これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。
丑松がすこし蒼(あを)ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群(むらが)つて居た。いづれも感情を制(おさ)へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔(まき)散(ち)らす弥次馬もある。主婦は燧(ひう)石(ちいし)を取出して、清(きよ)浄(め)の火と言つて、かち〳〵音をさせて騒いだ。
哀(あは)憐(れみ)、恐(おそ)怖(れ)、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待(とり)遇(あつかひ)と恥(はづ)辱(かしめ)とをうけて、黙つて舁がれて行く彼(あ)の大尽の運命を考へると、嘸(さぞ)籠の中の人は悲(なげ)慨(き)の血(なん)涙(だ)に噎(むせ)んだであらう。大日向の運命は軈(やが)てすべての穢多の運命である。思へば他(ひと)事(ごと)では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。斯(か)うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今、牧夫をして、烏(ゑ)帽(ぼ)子(し)ヶ嶽(だけ)の麓(ふもと)に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生(しや)涯(うがい)を送つて居る。丑松はその西(にし)乃(のい)入(り)牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。
﹃阿(おと)爺(つ)さん、阿爺さん。﹄
と口の中で呼んで、自分の部屋をあちこち〳〵と歩いて見た。不(ふ)図(と)父の言葉を思出した。
はじめて丑松が親の膝(しつ)下(か)を離れる時、父は一人息子の前途を深く案じるといふ風で、さま〴〵な物語をして聞かせたのであつた。其時だ――一族の祖先のことも言ひ聞かせたのは。東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のやうに、朝鮮人、支那人、露(ロ)西(シ)亜(ア)人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違ひ、その血統は古(むかし)の武士の落(おち)人(うど)から伝(つたは)つたもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたやうな家族ではないと言ひ聞かせた。父はまた添(つけ)付(た)して、世に出て身を立てる穢多の子の秘訣――唯一つの希(のぞ)望(み)、唯一つの方(てだ)法(て)、それは身の素性を隠すより外に無い、﹃たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂(めぐ)逅(りあ)はうと決して其とは自(うち)白(あ)けるな、一旦の憤(いか)怒(り)悲(かな)哀(しみ)に是(この)戒(いましめ)を忘れたら、其時こそ社(よの)会(なか)から捨てられたものと思へ。﹄斯う父は教へたのである。
一生の秘訣とは斯の通り簡単なものであつた。﹃隠せ。﹄――戒はこの一(ひと)語(こと)で尽きた。しかし其頃はまだ無我夢中、﹃阿(おや)爺(ぢ)が何を言ふか﹄位に聞流して、唯もう勉強が出来るといふ嬉しさに家を飛出したのであつた。楽しい空想の時代は父の戒も忘れ勝ちに過ぎた。急に丑松は少(こど)年(も)から大人に近(ちかづ)いたのである。急に自分のことが解つて来たのである。まあ、面白い隣の家から面白くない自分の家へ移つたやうに感ずるのである。今は自分から隠さうと思ふやうになつた。
︵四︶
あふのけさまに畳の上へ倒れて、暫(しば)時(らく)丑松は身動きもせずに考へて居たが、軈(やが)て疲(つか)労(れ)が出て眠(ね)て了(しま)つた。不図目が覚めて、部屋の内(なか)を見廻した時は、点(つ)けて置かなかつた筈の洋(ラン)燈(プ)が寂しさうに照して、夕飯の膳も片隅に置いてある。自分は未だ洋服の儘(まゝ)。丑松の心(こゝ)地(ろもち)には一時間余も眠つたらしい。戸の外には時(しぐ)雨(れ)の降りそゝぐ音もする。起き直つて、買つて来た本の黄色い表紙を眺め乍ら、膳を手前へ引寄せて食つた。飯(おは)櫃(ち)の蓋を取つて、あつめ飯の臭(にほ)気(ひ)を嗅(か)いで見ると、丑松は最(も)早(う)嘆息して了つて、そこ〳〵にして膳を押(おし)遣(や)つたのである。﹃懴悔録﹄を披(ひろ)げて置いて、先づ残りの巻(まき)煙(たば)草(こ)に火を点けた。
この本の著者――猪子蓮太郎の思想は、今の世の下層社会の﹃新しい苦痛﹄を表(あら)白(は)すと言はれて居る。人によると、彼(あの)男(をとこ)ほど自分を吹(ふい)聴(ちやう)するものは無いと言つて、妙に毛嫌するやうな手合もある。成(なる)程(ほど)、其筆にはいつも一種の神経質があつた。到底蓮太郎は自分を離れて説(はな)話(し)をすることの出来ない人であつた。しかし思想が剛健で、しかも観察の精(せい)緻(ち)を兼ねて、人を吸(ひき)引(つ)ける力の壮(さか)んに溢(あふ)れて居るといふことは、一度其著述を読んだものゝ誰しも感ずる特色なのである。蓮太郎は貧民、労働者、または新平民等の生活状態を研究して、社会の下層を流れる清水に掘りあてる迄は倦(う)まず撓(たわ)まず努(つ)力(と)めるばかりでなく、また其を読者の前に突着けて、右からも左からも説(とき)明(あか)して、呑込めないと思ふことは何度繰返しても、読者の腹(おなか)の中に置かなければ承知しないといふ遣(やり)方(かた)であつた。尤(もつと)も蓮太郎のは哲学とか経済とかの方面から左(さ)様(う)いふ問(こと)題(がら)を取扱はないで、寧(むし)ろ心理の研究に基(どだ)礎(い)を置いた。文章はたゞ岩石を並べたやうに思想を並べたもので、露(むき)骨(だし)なところに反つて人を動かす力があつたのである。
しかし丑松が蓮太郎の書いたものを愛読するのは唯其(それ)丈(だけ)の理由からでは無い。新しい思想家でもあり戦士でもある猪子蓮太郎といふ人物が穢多の中から産れたといふ事実は、丑松の心に深い感動を与へたので――まあ、丑松の積りでは、隠(ひそか)に先輩として慕つて居るのである。同じ人間であり乍ら、自分等ばかり其(そん)様(な)に軽(けい)蔑(べつ)される道理が無い、といふ烈しい意気込を持つやうになつたのも、実はこの先輩の感化であつた。斯ういふ訳から、蓮太郎の著述といへば必ず買つて読む。雑誌に名が出る、必ず目を通す。読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。穢多としての悲しい自覚はいつの間にか其頭を擡(もちあ)げたのである。
今度の新著述は、﹃我は穢多なり﹄といふ文句で始めてあつた。其中には同族の無智と零落とが活きた画のやうに描いてあつた。其中には多くの正直な男(をと)女(こをんな)が、たゞ穢多の生れといふばかりで、社会から捨てられて行く光(あり)景(さま)も写してあつた。其中には又、著者の煩悶の歴史、歓(うれ)し哀(かな)しい過去の追(おも)想(ひで)、精神の自由を求めて、しかも其が得られないで、不調和な社会の為に苦(くるし)みぬいた懐(うた)疑(がひ)の昔(むか)語(しがたり)から、朝空を望むやうな新しい生涯に入る迄――熱心な男(をと)性(こ)の嗚(すゝ)咽(りなき)が声を聞くやうに書きあらはしてあつた。
新しい生涯――それが蓮太郎には偶然な身のつまづきから開けたのである。生れは信州高遠の人。古い穢多の宗(いへ)族(がら)といふことは、丁度長野の師範校に心理学の講師として来て居た頃――丑松がまだ入学しない以(ま)前(へ)――同じ南信の地方から出て来た二三の生徒の口から泄(も)れた。講師の中に賤民の子がある。是噂が全校へ播(ひろが)つた時は、一同驚(おど)愕(ろき)と疑(うた)心(がひ)とで動揺した。ある人は蓮太郎の人物を、ある人はその容(よう)貌(ばう)を、ある人はその学識を、いづれも穢多の生れとは思はれないと言つて、どうしても虚(う)言(そ)だと言張るのであつた。放逐、放逐、声は一部の教師仲間の嫉(しつ)妬(と)から起つた。嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、﹃キシネフ﹄で殺される猶(ユダ)太(ヤじ)人(ん)もなからうし、西洋で言(いひ)囃(はや)す黄禍の説もなからう。無理が通れば道理が引込むといふ斯(この)世の中に、誰が穢多の子の放逐を不当だと言ふものがあらう。いよ〳〵蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別(わか)離(れ)を告げて行く時、この講師の為に同(おも)情(ひやり)の涙(なんだ)を流すものは一人もなかつた。蓮太郎は師範校の門を出て、﹃学問の為の学問﹄を捨てたのである。
この当時の光(あり)景(さま)は﹃懴悔録﹄の中に精(くは)しく記載してあつた。丑松は身につまされるかして、幾(いく)度(たび)か読みかけた本を閉ぢて、目を瞑(つぶ)つて、やがて其を読むのは苦しくなつて来た。同(おも)情(ひやり)は妙なもので、反つて底意を汲ませないやうなことがある。それに蓮太郎の筆は、面白く読ませるといふよりも、考へさせる方だ。終(しまひ)には丑松も書いてあることを離れて了つて、自分の一生ばかり思ひつゞけ乍ら読んだ。
今日まで丑松が平和な月日を送つて来たのは――主に少年時代からの境遇にある。そも〳〵は小諸の向(むか)町(ひまち)︵穢多町︶の生れ。北佐久の高原に散布する新平民の種族の中でも、殊に四十戸ばかりの一(いち)族(まき)の﹃お頭(かしら)﹄と言はれる家柄であつた。獄(らう)卒(もり)と捕(とり)吏(て)とは、維新前まで、先祖代々の職(つと)務(め)であつて、父はその監督の報(むく)酬(い)として、租税を免ぜられた上、別に俸(ふ)米(ち)をあてがはれた。それ程の男であるから、貧苦と零落との為め小県郡の方へ家を移した時にも、八歳の丑松を小学校へやることは忘れなかつた。丑松が根(ねづ)津(む)村(ら)の学校へ通ふやうになつてからは、もう普(な)通(み)の児(こど)童(も)で、誰もこの可憐な新入生を穢多の子と思ふものはなかつたのである。最後に父は姫(ひめ)子(こざ)沢(は)の谷(たに)間(あひ)に落着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。異(かは)つた土地で知るものは無し、強(し)ひて是(こち)方(ら)から言ふ必要もなし、といつたやうな訳で、終(しまひ)には慣れて、少年の丑松は一番早く昔を忘れた。官費の教育を受ける為に長野へ出掛ける頃は、たゞ先祖の昔話としか考へて居なかつた位で。
斯ういふ過去の記憶は今丑松の胸の中に復(いき)活(かへ)つた。七つ八つの頃まで、よく他の小供に調(から)戯(か)はれたり、石を投げられたりした、其恐(おそ)怖(れ)の情はふたゝび起つて来た。朦(おぼ)朧(ろげ)ながらあの小諸の向町に居た頃のことを思出した。移住する前に死んだ母親のことなぞを思出した。﹃我は穢多なり﹄――あゝ、どんなに是一句が丑松の若い心を掻(かき)乱(みだ)したらう。﹃懴悔録﹄を読んで、反(かへ)つて丑松はせつない苦(くる)痛(しみ)を感ずるやうになつた。