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第七章
︵一︶
それは忘れることの出来ないほど寂しい旅であつた。一(をと)昨(ゝ)年(し)の夏帰省した時に比べると、斯(か)うして千(ちく)曲(まが)川(は)の岸に添ふて、可(なつ)懐(か)しい故郷の方へ帰つて行く丑松は、まあ自分で自分ながら、殆んど別の人のやうな心地がする。足掛三年、と言へば其程長い月日とも聞えないが、丑松の身に取つては一生の変(うつ)遷(りかはり)の始つた時代で――尤(もつと)も、人の境遇によつては何時変つたといふことも無しに、自然に世を隔てたやうな感(かん)想(じ)のするものもあらうけれど――其精(こゝ)神(ろ)の内(な)部(か)の革命が丑松には猛烈に起つて来て、しかも其を殊に深く感ずるのである。今は誰を憚(はゞか)るでも無い身。乾(はし)燥(や)いだ空気を自由に呼吸して、自分のあやしい運命を悲しんだり、生涯の変転に驚いたりして、無限の感慨に沈み乍(なが)ら歩いて行つた。千曲川の水は黄緑の色に濁つて、声も無く流れて遠い海の方へ――其岸に蹲(うづくま)るやうな低い楊(やな)柳(ぎ)の枯々となつた光(さ)景(ま)――あゝ、依然として旧(もと)の通りな山河の眺望は、一層丑松の目を傷(いた)ましめた。時々丑松は立留つて、人目の無い路(みち)傍(ばた)の枯草の上に倒れて、声を揚げて慟(どう)哭(こく)したいとも思つた。あるひは、其を為(し)たら、堪へがたい胸の苦(いた)痛(み)が少(すこ)許(し)は減つて軽く成るかとも考へた。奈(いか)何(ん)せん、哭(な)きたくも哭くことの出来ない程、心は重く暗く閉(とぢ)塞(ふさが)つて了つたのである。
漂泊する旅人は幾群か丑松の傍(わき)を通りぬけた。落魄の涙に顔を濡して、餓(う)ゑた犬のやうに歩いて行くものもあつた。何か職業を尋ね顔に、垢(あか)染(じ)みた着物を身に絡(まと)ひ乍ら、素足の儘(まゝ)で土を踏んで行くものもあつた。あはれげな歌を歌ひ、鈴振鳴らし、長途の艱難を修行の生(いの)命(ち)にして、日に焼けて罪(つみ)滅(ほろぼ)し顔な巡礼の親子もあつた。または自堕落な編(あみ)笠(がさ)姿(すがた)、流(さす)石(が)に世を忍ぶ風(ふぜ)情(い)もしをらしく、放(ほし)肆(いまゝ)に恋慕の一曲を弾じて、銭を乞ふやうな卑(いや)しい芸人の一組もあつた。丑松は眺め入つた。眺め入り乍ら、自分の身の上と思ひ比べた。奈(どん)何(な)に丑松は今の境涯の遣(やる)瀬(せ)なさを考へて、自在に漂泊する旅人の群を羨んだらう。
飯山を離れて行けば行く程、次第に丑松は自由な天地へ出て来たやうな心(こゝ)地(ろもち)がした。北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴び乍ら、時には岡に上り時には桑畠の間を歩み、時にはまた街道の両側に並ぶ町々を通過ぎて、汗も流れ口も乾き、足(た)袋(び)も脚絆も塵(ほこ)埃(り)に汚(まみ)れて白く成つた頃は、反(かへ)つて少(すこ)許(し)蘇生の思に帰つたのである。路(みち)傍(ばた)の柿の樹は枝も撓(たわ)むばかりに黄な珠を見せ、粟は穂を垂れ、豆は莢(さや)に満ち、既に刈取つた田畠には浅々と麦の萌(も)え初めたところもあつた。遠(をち)近(こち)に聞える農夫の歌、鳥の声――あゝ、山家でいふ﹃小六月﹄だ。其日は高社山一帯の山脈も面白く容(かたち)を顕(あらは)して、山と山との間の深い谷蔭には、青々と炭焼の煙の立登るのも見えた。
蟹(かに)沢(ざは)の出はづれで、当世風の紳士を乗せた一台の人(く)力(る)車(ま)が丑松に追付いた。見れば天長節の朝、式場で演説した高柳利三郎。代議士の候補者に立つものは、そろ〳〵政見を発表する為に忙しくなる時節。いづれ是人も、選挙の準(した)備(く)として、地方廻りに出掛けるのであらう。と見る丑松の側(わき)を、高柳は意気揚々として、すこし人を尻目にかけて、挨拶も為(せ)ずに通過ぎた。二三町離れて、車の上の人は急に何か思付いたやうに、是(こち)方(ら)を振返つて見たが、別に丑松の方では気にも留めなかつた。
日は次第に高くなつた。水(みの)内(ち)の平野は丑松の眼(めの)前(まへ)に展けた。それは広(ひろ)濶(〴〵)とした千曲川の流域で、川上から押流す泥砂の一面に盛上つたところを見ても、氾(はん)濫(らん)の凄(すさま)じさが思ひやられる。見渡す限り田畠は遠く連ねて、欅(けやき)の杜(もり)もところ〴〵。今は野も山も濃く青い十一月の空気を呼吸するやうで、うら枯れた中にも活(いき)々(〳〵)とした自然の風(おも)趣(むき)を克(よ)く表して居る。早く斯(こ)の川の上流へ――小(ちひ)県(さがた)の谷へ――根津の村へ、斯う考へて、光の海を望むやうな可(なつ)懐(か)しい故郷の空をさして急いだ。
豊野と言つて汽車に乗るべきところへ着いたは、午後の二時頃。車で駈付けた高柳も、同じ列車を待合せて居たと見え、発車時間の近いた頃に休茶屋からやつて来た。﹃何(ど)処(こ)へ行くのだらう、彼(あの)男は。﹄斯う思ひ乍ら、丑松は其となく高柳の様子を窺(うかゞ)ふやうにして見ると、先(さ)方(き)も同じやうに丑松を注意して見るらしい。それに、不思議なことには、何となく丑松を避けるといふ風で、成るべく顔を合すまいと勉めて居た。唯互ひに顔を知つて居るといふ丈、つひぞ名乗合つたことが有るではなし、二人は言葉を交さうともしなかつた。
軈て発車を報せる鈴の音が鳴つた。乗客はいづれも埒(らち)の中へと急いだ。盛(さかん)な黒(くろ)烟(けぶり)を揚げて直江津の方角から上つて来た列車は豊野停(ステ)車(ーシ)場(ョン)の前で停つた。高柳は逸(いち)早(はや)く群(ひと)集(ごみ)の中を擦(すり)抜(ぬ)けて、一室の扉(と)を開けて入る。丑松はまた機関車近(よ)邇(り)の一室を択(えら)んで乗つた。思はず其処に腰掛けて居た一人の紳士と顔を見合せた時は、あまりの奇遇に胸を打たれたのである。
﹃やあ――猪子先生。﹄
と丑松は帽子を脱いで挨拶した。紳士も、意外な処で、といふ驚喜した顔付。
﹃おゝ、瀬川君でしたか。﹄
︵二︶
夢(む)寐(び)にも忘れなかつた其人の前に、丑松は今偶然にも腰掛けたのである。壮年の発達に驚いたやうな目付をして、可(なつ)懐(か)しさうに是(こち)方(ら)を眺めたは、蓮太郎。敬慕の表情を満面に輝かし乍ら、帰省の由(いは)緒(れ)を物語るのは、丑松。実に是邂(めぐ)逅(りあひ)の唐突で、意外で、しかも偽りも飾りも無い心の底の外(そ)面(と)に流(あら)露(は)れた光(あり)景(さま)は、男(をと)性(こ)と男性との間に稀(たま)に見られる美しさであつた。
蓮太郎の右側に腰掛けて居た、背の高い、すこし顔色の蒼い女は、丁度読みさしの新聞を休(や)めて、丑松の方を眺めた。玻(ガラ)璃(ス)越(ご)しに山々の風景を望んで居た一人の肥大な老紳士、是も窓のところに倚(より)凭(かゝ)つて、振返つて二人の様子を見比べた。
新聞で蓮太郎のことを読んで見舞状まで書いた丑松は、この先輩の案外元気のよいのを眼(めの)前(まへ)に見て、喜びもすれば不思議にも思つた。かねて心配したり想像したりした程に身(から)体(だ)の衰(おと)弱(ろへ)が目につくでも無い。強い意志を刻んだやうな其大な額――いよ〳〵高く隆(とび)起(だ)した其頬の骨――殊に其眼は一種の神経質な光を帯びて、悲壮な精(こゝ)神(ろ)の内(な)部(か)を明(あり)白(〳〵)と映して見せた。時として顔の色(いろ)沢(つや)なぞを好く見せるのは彼(あ)の病気の習ひ、あるひは其(その)故(せゐ)かとも思はれるが、まあ想像したと見たとは大違ひで、血を吐く程の苦(くる)痛(しみ)をする重い病人のやうには受取れなかつた。早速丑松は其事を言出して、﹃実は新聞で見ました﹄から、﹃東京の御宅へ宛てゝ手紙を上げました﹄まで、真実を顔に表して話した。
﹃へえ、新聞に其(そ)様(ん)なことが出て居ましたか。﹄と蓮太郎は微(ほゝ)笑(ゑ)んで、﹃聞違へでせう――不(わ)良(る)かつたといふのを、今不(わ)良(る)いといふ風に、聞違へて書いたんでせう。よく新聞には左(さ)様(う)いふ間違ひが出て来ますよ。まあ御覧の通り、斯うして旅行が出来る位ですから安心して下さい。誰がまた其(そ)様(ん)な大(おほ)袈(げ)裟(さ)なことを書いたか――はゝゝゝゝ。﹄
聞いて見ると、蓮太郎は赤倉の温泉へ身体を養ひに行つて、今其帰(かへ)途(りみち)であるとのこと。其時同(つ)伴(れ)の人々をも丑松に紹介した。右側に居る、何となく人格の奥(おく)床(ゆか)しい女は、先輩の細君であつた。肥大な老紳士は、かねて噂(うはさ)に聞いた信州の政(せい)客(かく)、この冬打つて出ようとして居る代議士の候補者の一人、雄弁と侠(をと)気(こぎ)とで人に知られた弁護士であつた。
﹃あゝ、瀬川君と仰(おつしや)るんですか。﹄と弁護士は愛(あい)嬌(けう)のある微(ほゝ)笑(ゑみ)を満面に湛へ乍ら、快活な、磊(らい)落(らく)な調子で言つた。﹃私は市村です――只今長野に居ります――何(どう)卒(か)まあ以後御心易く。﹄
﹃市村君と僕とは、﹄蓮太郎は丑松の顔を眺めて、﹃偶然なことから斯(こん)様(な)に御懇意にするやうになつて、今では非常な御世話に成つて居ります。僕の著述のことでは、殊にこの市村君が心配して居て下さるんです。﹄
﹃いや。﹄と弁護士は肥大な身体を動(ゆす)つた。﹃我輩こそ反(かへ)つて種(いろ)々(〳〵)御世話に成つて居るので――まあ、年だけは猪子君の方がずつと若い、はゝゝゝゝ、しかし其他のことにかけては、我輩の先輩です。﹄斯う言つて、何か思出したやうに嘆息して、﹃近頃の人物を数へると、いづれも年少気鋭の士ですね。我輩なぞは斯の年(と)齢(し)に成つても、未だ碌(ろく)々(〳〵)として居るやうな訳で、考へて見れば実に御恥しい。﹄
斯(か)ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふ情(こゝろ)が表れて、創意のあるものを忌(い)むやうな悪い癖は少(すこ)許(し)も見えなかつた。そも〳〵は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種(さま)々(〴〵)な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗(な)め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。
猶(なほ)深く聞いて見ると、これから市村弁護士は上田を始めとして、小諸、岩村田、臼田なぞの地方を遊説する為、政見発表の途(みち)に上るのであるとのこと。親しく佐久小県地方の有権者を訪問して草(わら)鞋(ぢば)穿(き)主義で選挙を争ふ意気込であるとのこと。蓮太郎はまた、この友人の応援の為、一つには自分の研究の為、しばらく可(なつ)懐(か)しい信州に踏止まりたいといふ考へで、今宵は上田に一泊、いづれ二三日の内には弁護士と同道して、丑松の故郷といふ根津村へも出掛けて行つて見たいとのことであつた。この﹃根津村へも﹄が丑松の心を悦ばせたのである。
﹃そんなら、瀬川さんは今飯山に御(お)奉(い)職(で)ですな。﹄と弁護士は丑松に尋ねて見た。
﹃飯山――彼処からは候補者が出ませう? 御存じですか、あの高柳利三郎といふ男を。﹄
蛇(じや)の道は蛇(へび)だ。弁護士は直に其を言つた。丑松は豊野の停(ステ)車(ーシ)場(ョン)で落合つたことから、今この同じ列車に乗込んで居るといふことを話した。何か思当ることが有るかして、弁護士は不思議さうに首を傾(かし)げ乍(なが)ら、﹃何処へ行くのだらう﹄を幾度となく繰返した。
﹃しかし、是だから汽車の旅は面白い。同じ列車の内に乗合せて居ても、それで互ひに知らずに居るのですからなあ。﹄
斯う言つて弁護士は笑つた。
病のある身ほど、人の情の真(まこと)と偽(いつはり)とを烈しく感ずるものは無い。心にも無いことを言つて慰めて呉れる健(たつ)康(しや)な幸(しあ)福(はせ)者(もの)の多い中に、斯ういふ人々ばかりで取(とり)囲(ま)かれる蓮太郎の嬉(うれ)しさ。殊に丑松の同(おも)情(ひやり)は言葉の節々にも表れて、それがまた蓮太郎の身に取つては、奈(どん)何(な)にか胸に徹(こた)へるといふ様子であつた。其時細君は籠の中に入れてある柿を取出した。それは汽車の窓から買取つたもので、其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつを、択(よ)つて丑松にも薦(すゝ)め、弁護士にも薦めた。蓮太郎も一つ受取つて、秋の果(この)実(み)のにほひを嗅(か)いで見(みな)乍(が)ら、さて種(さま)々(〴〵)な赤倉温泉の物語をした。越後の海岸まで旅したことを話した。蓮太郎は又、東京の市場で売られる果(くだ)実(もの)なぞに比較して、この信濃路の柿の新しいこと、甘いことを賞めちぎつて話した。
駅々で車の停る毎に、農夫の乗客が幾群か入込んだ。今は室の内も放(ほし)肆(いまゝ)な笑声と無遠慮な雑談とで満さるゝやうに成つた。それに、東海道沿岸などの鉄道とは違ひ、この荒(くわ)寥(うれう)とした信濃路のは、汽車までも旧式で、粗造で、山家風だ。其列車が山へ上るにつれて、窓の玻(ガラ)璃(ス)に響いて烈しく動揺する。終(しまひ)には談(はな)話(し)も能(よ)く聞取れないことがある。油のやうに飯山あたりの岸を浸す千曲川の水も、見れば大な谿流の勢に変つて、白波を揚げて谷底を下るのであつた。濃く青く清々とした山気は窓から流込んで、次第に高原へ近(ちかづ)いたことを感ぜさせる。
軈(やが)て、汽車は上田へ着いた。旅人は多くこの停(ステ)車(ーシ)場(ョン)で下りた。蓮太郎も、妻君も、弁護士も。﹃瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります――失敬。﹄斯(か)う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可(なつ)懐(か)しさうに見送つた。
急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠(もた)れ乍ら、眼を瞑(つむ)つて斯(こ)の意外な邂(めぐ)逅(りあひ)を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼(あれ)程(ほど)打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷(よそ)淡(〳〵)しい他人行儀なところがあると考へて、奈(ど)何(う)して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉(ねた)むでは無いが、彼(か)の老紳士の親しくするのが羨ましくも思はれた。
其時になつて丑松も明(あきらか)に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、﹃穢多である﹄といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵(かく)して居る以上は、仮(たと)令(ひ)口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹(こた)へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告(うち)白(あ)けて了つたなら、奈(どん)何(な)に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、﹃君も左(さ)様(う)か﹄と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交(まじ)際(はり)に入るであらう。
左(さ)様(う)だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。
︵三︶
田中の停(ステ)車(ーシ)場(ョン)へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小(ちひ)県(さがた)の傾斜を上らなければならない。
丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流(さす)石(が)代議士の候補者と名乗る丈あつて、風(おし)采(だし)は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑(う)ゑたやうな其姿の中には、何(ど)処(こ)となく斯(か)う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是(こち)方(ら)を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ〳〵其素(そぶ)振(り)で読めた。﹃何処へ行(いく)のだらう、彼男は。﹄と見ると、高柳は素早く埒(らち)を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取(とり)囲(ま)かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
北国街道を左へ折れて、桑(くは)畠(ばたけ)の中の細道へ出ると、最(も)早(う)高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏(ゑ)帽(ぼ)子(し)山脈の大傾斜が眼(めの)前(まへ)に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三(さん)峯(ぽう)、浅間の山々、其他ところ〴〵に散布する村落、松林――一つとして回(おも)想(ひで)の種と成らないものはない。千(ちく)曲(まが)川(は)は遠く谷底を流れて、日をうけておもしろく光るのであつた。
其日は灰紫色の雲が西の空に群(むらが)つて、飛(ひ)騨(だ)の山脈を望むことは出来なかつた。あの千古人跡の到らないところ、もし夕雲の隔(へだ)てさへ無くば、定めし最(も)早(う)皚(がい)々(〳〵)とした白雪が夕日を帯びて、天地の壮観は心を驚かすばかりであらうと想像せられる。山を愛するのは丑松の性分で、斯うして斯の大傾斜大谿谷の光(あり)景(さま)を眺めたり、又は斯の山間に住む信州人の素朴な風俗と生活とを考へたりして、岩石の多い凸(でこ)凹(ぼこ)した道を踏んで行つた時は、若々しい総身の血潮が胸を衝(つ)いて湧上るやうに感じた。今は飯山の空も遠く隔つた。どんなに丑松は山の吐く空気を呼吸して、暫(しば)時(らく)自分を忘れるといふ其楽しい心地に帰つたであらう。
山上の日没も美しく丑松の眼に映つた。次第に薄れて行く夕暮の反射を受けて、山々の色も幾(いく)度(たび)か変つたのである。赤は紫に。紫は灰色に。終(しまひ)には野も岡も暮れ、影は暗く谷から谷へ拡つて、最後の日の光は山の巓(いたゞき)にばかり輝くやうになつた。丁度天空の一角にあたつて、黄ばんで燃える灰色の雲のやうなは、浅間の煙の靡(なび)いたのであらう。
斯(か)ういふ楽しい心(こゝ)地(ろもち)は、とは言へ、長く続かなかつた。荒(あら)谷(や)のはづれ迄行けば、向ふの山腹に連なる一村の眺望、暮色に包まれた白壁土壁のさま、其山家風の屋根と屋根との間に黒ずんで見えるのは柿の梢(こずゑ)か――あゝ根津だ。帰つて行く農夫の歌を聞いてすら、丑松はもう胸を騒がせるのであつた。小諸の向町から是(こ)処(ゝ)へ来て隠れた父の生(しや)涯(うがい)、それを考へると、黄(たそ)昏(がれ)の景気を眺める気も何も無くなつて了(しま)ふ。切なさは可(なつ)懐(か)しさに交つて、足もおのづから慄(ふる)へて来た。あゝ、自然の胸(ふと)懐(ころ)も一(ひと)時(とき)の慰(なぐ)藉(さめ)に過ぎなかつた。根津に近(ちかづ)けば近くほど、自分が穢多である、調里︵新平民の異名︶である、と其心(こゝ)地(ろもち)が次第に深く襲(おそ)ひ迫つて来たので。
暗くなつて第二の故郷へ入つた。もと〳〵父が家族を引連れて、この片田舎に移つたのは、牧場へ通ふ便利を考へたばかりで無く、僅(わづ)少(か)ばかりの土地を極く安く借受けるやうな都合もあつたからで。現に叔父が耕して居るのは其畠である。流(さす)石(が)に用心深い父は人目につかない村はづれを択(えら)んだので、根津の西町から八町程離れて、とある小高い丘の裾(すそ)のところに住んだ。
長野県小県郡根津村大字姫子沢――丑松が第二の故郷とは、其五十戸ばかりの小部落を言ふのである。
︵四︶
父の死去した場処は、斯(こ)の根津村の家ではなくて、西(にし)乃(のい)入(り)牧場の番小屋の方であつた。叔父は丑松の帰村を待受けて、一緒に牧場へ出掛ける心(つも)算(り)であつたので、兎も角も丑松を炉(ろば)辺(た)に座(す)ゑ、旅の疲(つか)労(れ)を休めさせ、例の無慾な、心の好ささうな声で、亡くなつた人の物語を始めた。炉の火は盛(さかん)に燃えた。叔母も啜(すゝ)り上げ乍(なが)ら耳を傾けた。聞いて見ると、父の死去は、老の為でもなく、病の為でも無かつた。まあ、言はゞ、職業の為に突然な最後を遂げたのであつた。一体、父が家畜を愛する心は天性に近かつたので、随つて牧夫としての経験も深く、人にも頼まれ、牧場の持主にも信ぜられた位。牛の性質なぞはなか〳〵克(よ)く暗記して居たもの。よもや彼(あ)の老練な人が其道に手ぬかりなどの有らうとは思はれない。そこがそれ人の一生の測りがたさで、不(ふ)図(と)ある種牛を預つた為に、意外な出来事を引起したのであつた。種牛といふのは性(た)質(ち)が悪かつた。尤(もつと)も、多くの牝(めう)牛(し)の群の中へ、一頭の牡(をう)牛(し)を放つのであるから、普通の温(おと)順(な)しい種牛ですら荒くなる。時としては性質が激変する。まして始めから気象の荒い雑種と来たから堪(たま)らない。広(ひろ)濶(〴〵)とした牧場の自由と、誘ふやうな牝牛の鳴声とは、其種牛を狂ふばかりにさせた。終(しまひ)には家養の習慣も忘れ、荒々しい野獣の本(ほん)性(しやう)に帰つて、行(ゆく)衛(へ)が知れなくなつて了(しま)つたのである。三日経(た)つても来ない。四日経つても帰らない。さあ、父は其を心配して、毎日水草の中を捜(さが)して歩いて、ある時は深い沢を分けて日の暮れる迄も尋ねて見たり、ある時は山から山を猟(あさ)つて高い声で呼んで見たりしたが、何処にも影は見えなかつた。昨日の朝、父はまた捜しに出た。いつも遠く行く時には、必ず昼(ひ)飯(る)を用意して、例の﹃山猫﹄︵鎌(かま)、鉈(なた)、鋸(のこぎり)などの入物︶に入れて背(し)負(よ)つて出掛ける。ところが昨日に限つては持たなかつた。時刻に成つても帰らない。手伝ひの男も不思議に思ひ乍ら、塩を与へる為に牛小屋のあるところへ上つて行くと、牝牛の群が喜ばしさうに集まつて来る。丁度其中には、例の種牛も恍(とぼ)け顔(がほ)に交つて居た。見れば角は紅く血に染つた。驚きもし、呆(あき)れもして、来合せた人々と一緒になつて取押へたが、其時はもう疲れて居た故(せゐ)か、別に抵(てむ)抗(かひ)も為なかつた。さて男は其(そ)処(こ)此(こ)処(ゝ)と父を探して歩いた。漸(やうや)く岡の蔭の熊笹の中に呻(う)吟(め)き倒れて居るところを尋ね当てゝ、肩に掛けて番小屋迄連れ帰つて見ると、手当も何も届かない程の深(ふか)傷(で)。叔父が聞いて駈付けた時は、まだ父は確(しつ)乎(かり)して居た。最後に気(い)息(き)を引取つたのが昨夜の十時頃。今日は人々も牧場に集つて、番小屋で通夜と極めて、いづれも丑松の帰るのを待受けて居るとのことであつた。
﹃といふ訳で、﹄と叔父は丑松の顔を眺めた。﹃私が阿(あに)兄(き)に、何か言つて置くことはねえか、と尋ねたら、苦しい中にも気象はしやんとしたもので、﹁俺も牧夫だから、牛の為に倒れるのは本望だ。今となつては他に何にも言ふことはねえ。唯気にかゝるのは丑松のこと。俺が今日迄の苦労は、皆な彼(あい)奴(つ)の為を思ふから。日頃俺は彼奴に堅く言聞かせて置いたことがある。何(どう)卒(か)丑松が帰つて来たら、忘れるな、と一言左(さ)様(う)言つてお呉れ。﹂﹄
丑松は首を垂れて、黙つて父の遺言を聞いて居た。叔父は猶(なほ)言葉を継いで、
﹃﹁それから、俺は斯(こ)の牧場の土と成りたいから、葬式は根津の御寺でしねえやうに、成るなら斯の山でやつてお呉れ。俺が亡(な)くなつたとは、小(こも)諸(ろ)の向町へ知らせずに置いてお呉れ――頼む。﹂と斯う言ふから、其時私(わし)が﹁むゝ、解つた、解つた﹂と言つてやつたよ。すると阿(あに)兄(き)は其が嬉(うれ)しかつたと見え、につこり笑つて、軈(やが)て私の顔を眺め乍らボロ〳〵と涙を零(こぼ)した。それぎりもう阿兄は口を利かなかつた。﹄
斯ういふ父の臨終の物語は、言ふに言はれぬ感激を丑松の心に与へたのである。牧場の土と成りたいと言ふのも、山で葬式をして呉れと言ふのも、小諸の向町へ知らせずに置いて呉れと言ふのも、畢(つ)竟(ま)るところは丑松の為を思ふからで。丑松は其精神を酌(くみ)取(と)つて、父の用意の深いことを感ずると同時に、又、一旦斯うと思ひ立つたことは飽くまで貫かずには置かないといふ父の気(たま)魄(しひ)の烈しさを感じた。実際、父が丑松に対する時は、厳格を通り越して、残酷な位であつた。亡くなつた後までも、猶(なほ)丑松は父を畏(おそ)れたのである。
やがて丑松は叔父と一緒に、西乃入牧場を指して出掛けることになつた。万事は叔父の計らひで、検(けん)屍(し)も済み、棺も間に合ひ、通夜の僧は根津の定(じや)津(うし)院(んゐん)の長老を頼んで、既に番小屋の方へ登つて行つたとのこと。明日の葬式の用意は一切叔父が呑込んで居た。丑松は唯出掛けさへすればよかつた。此処から烏(ゑ)帽(ぼ)子(し)ヶ獄(だけ)の麓まで二十町あまり。其間、田沢の峠なぞを越して、寂しい山道を辿らなければならない。其晩は鼻を掴(つ)まゝれる程の闇で、足(あし)許(もと)さへも覚束なかつた。丑松は先に立つて、提灯の光に夜路を照らし乍ら、山深く叔父を導いて行つた。人里を離れて行けば行くほど、次第に路は細く、落ち朽ちた木葉を踏分けて僅かに一(ひと)条(すぢ)の足跡があるばかり。こゝは丑松が少年の時代に、克(よ)く父に連れられて、往つたり来たりしたところである。牛小屋のある高原の上へ出る前に、二人はいくつか小山を越えた。
︵五︶
谷を下ると其処がもう番小屋で、人々は狭い部屋の内に集つて居た。灯は明(あか)々(〳〵)と壁を泄(も)れ、木(もく)魚(ぎよ)の音も山の空気に響き渡つて、流れ下る細谷川の私(さゝ)語(やき)に交つて、一層の寂しさあはれさを添へる。家の構(つく)造(り)は、唯雨(あめ)露(つゆ)を凌ぐといふばかりに、葺(ふ)きもし囲ひもしてある一軒屋。たまさか殿城山の間道を越えて鹿(かざ)沢(は)温泉へ通ふ旅人が立寄るより外には、訪(と)ふ人も絶えて無いやうな世離れたところ。炭焼、山番、それから斯の牛飼の生活――いづれも荒くれた山住の光(あり)景(さま)である。丑松は提(ちや)灯(うちん)を吹消して、叔父と一緒に小屋の戸を開けて入つた。
定津院の長老、世話人と言つて姫子沢の組合、其他父が生前懇意にした農家の男(をと)女(こをんな)――それらの人々から丑松は親切な弔(くや)辞(み)を受けた。仏前の燈明は線香の烟(けぶり)に交る夜の空気を照らして、何となく部屋の内も混雑して居るやうに見える。父の遺(なき)骸(がら)を納めたといふは、極(ご)く粗末な棺。其周(まは)囲(り)を白い布で巻いて、前には新しい位(ゐは)牌(い)を置き、水、団子、外には菊、樒(しきみ)の緑(みど)葉(りば)なぞを供へてあつた。読経も一きりになつた頃、僧の注意で、年老いた牧夫の見納めの為に、かはる〴〵棺の前に立つた。死別の泪(なみだ)は人々の顔を流れたのである。丑松も叔父に導かれ、すこし腰を曲(こゞ)め、薄暗い蝋(らふ)燭(そく)の灯影に是世の最後の別(わか)離(れ)を告げた。見れば父は孤独な牧夫の生涯を終つて、牧場の土深く横はる時を待つかのやう。死顔は冷かに蒼(あをざ)めて、血の色も無く変りはてた。叔父は例の昔(むか)気(しか)質(たぎ)から、他(あの)界(よ)の旅の便りにもと、編笠、草(わら)鞋(ぢ)、竹の輪なぞを取添へ、別に魔(まよ)除(け)と言つて、刃物を棺の蓋の上に載せた。軈(やが)て復(ま)た読(どき)経(やう)が始まる、木魚の音が起る、追懐の雑談は無邪気な笑声に交つて、物食ふ音と一緒になつて、哀しくもあり、騒がしくもあり、人々に妨げられて丑松は旅の疲(つか)労(れ)を休めることも出来なかつた。
一夜は斯ういふ風に語り明した。小諸の向町へは通知して呉れるなといふ遺言もあるし、それに移(ひつ)住(こし)以(この)来(かた)十七年あまりも打絶えて了つたし、是(こち)方(ら)からも知らせてやらなければ、向ふからも来なかつた。昔の﹃お頭﹄が亡くなつたと聞伝へて、下手なものにやつて来られては反つて迷惑すると、叔父は唯そればかり心配して居た。斯の叔父に言はせると、墓を牧場に択んだのは、かねて父が考へて居たことで。といふは、もし根津の寺なぞへ持込んで、普通の農家の葬式で通ればよし、さも無かつた日には、断然謝(こと)絶(わ)られるやうな浅(あさ)猿(ま)しい目に逢ふから。習慣の哀しさには、穢多は普通の墓地に葬る権利が無いとしてある。父は克く其を承知して居た。父は生前も子の為に斯ういふ山奥に辛抱して居た。死後もまた子の為に斯の牧場に眠るのを本望としたのである。
﹃どうかして斯の﹁おじやんぼん﹂︵葬式︶は無事に済ましたい――なあ、丑松、俺はこれでも気が気ぢやねえぞよ。﹄
斯ういふ心配は叔父ばかりでは無かつた。
翌(あく)日(るひ)の午後は、会葬の男(をと)女(こをんな)が番小屋の内(うち)外(そと)に集つた。牧場の持主を始め、日頃牝牛を預けて置く牛乳屋なぞも、其と聞伝へたかぎりは弔ひにやつて来た。父の墓地は岡の上の小松の側(わき)と定まつて、軈(やが)ていよいよ野辺送りを為ることになつた時は、住み慣れた小屋の軒を舁(かつ)がれて出た。棺の後には定津院の長老、つゞいて腕白顔な二人の子坊主、丑松は叔父と一緒に藁(わら)草(ざう)履(りば)穿(き)、女はいづれも白の綿帽子を冠つた。人々は思ひ〳〵の風俗、紋付もあれば手(てお)織(りじ)縞(ま)の羽織もあり、山家の習ひとして多くは袴も着けなかつた。斯の飾りの無い一行の光(あり)景(さま)は、素朴な牛飼の生涯に克(よ)く似合つて居たので、順序も無く、礼儀も無く、唯真(まご)心(ゝろ)こもる情一つに送られて、静かに山を越えた。
式も亦(ま)た簡短であつた。単調子な鉦(かね)、太鼓、鐃(ねう)の音、回(おも)想(ひで)の多い耳には其も悲哀な音楽と聞え、器械的な回向と読経との声、悲(なげ)嘆(き)のある胸には其もあはれの深い挽(ばん)歌(か)のやうに響いた。礼(らい)拝(はい)し、合掌し、焼香して、軈て帰つて行く人々も多かつた。棺は間もなく墓と定めた場処へ移されたので、そこには掘起された﹃のつぺい﹄︵土の名︶が堆(うづ)高(たか)く盛上げられ、咲残る野菊の花も土足に踏散らされてあつた。人々は土を掴(つか)んで、穴をめがけて投入れる。叔父も丑松も一(ひと)塊(かたまり)づゝ投入れた。最後に鍬(くは)で掻落した時は、崖崩れのやうな音して烈しく棺の蓋を打つ。それさへあるに、土気の襄(の)上(ぼ)る臭(にほ)気(ひ)は紛(ぷん)と鼻を衝(つ)いて、堪へ難い思をさせるのであつた。次第に葬られて、小山の形の土饅頭が其処に出来上るまで、丑松は考深く眺め入つた。叔父も無言であつた。あゝ、父は丑松の為に﹃忘れるな﹄の一(ひと)語(こと)を残して置いて、最後の呼吸にまで其精神を言ひ伝へて、斯うして牧場の土深く埋もれて了つた――もう斯(この)世(よ)の人では無かつたのである。
︵六︶
兎(と)も角(かく)も葬式は無事に済(す)んだ。後の事は牧場の持主に頼み、番小屋は手伝ひの男に預けて、一同姫子沢へ引取ることになつた。斯(こ)の小屋に飼(かひ)養(やしな)はれて居る一匹の黒猫、それも父の形見であるからと、しきりに丑松は連帰らうとして見たが、住(すみ)慣(な)れた場処に就く家畜の習ひとして、離れて行くことを好まない。物を呉れても食はず、呼んでも姿を見せず、唯縁の下をあちこちと鳴き悲む声のあはれさ。畜生乍(なが)らに、亡くなつた主人を慕ふかと、人々も憐んで、是(これ)から雪の降る時節にでも成らうものなら何を食つて山籠りする、と各(てん)自(で)に言ひ合つた。﹃可愛さうに、山猫にでも成るだらず。﹄斯う叔父は言つたのである。
やがて人々は思ひ〳〵に出掛けた。番小屋を預かる男は塩を持つて、岡の上まで見送り乍ら随(つ)いて来た。十一月上旬の日の光は淋しく照して、この西乃入牧場に一層荒(くわ)寥(うれう)とした風(おも)趣(むき)を添へる。見れば小松はところ〴〵。山(やま)躑(つゝ)躅(じ)は、多くの草木の中に、牛の食はないものとして、反(かへ)つて一面に繁茂して居るのであるが、それも今は霜枯れて見る影が無い。何もかも父の死を冥想させる種と成る。愁(うれ)ひつゝ丑松は小山の間の細道を歩いた。父を斯(こ)の牧場に訪れたは、丁度足掛三年前の五月の下旬であつたことを思出した。それは牛の角の癢(かゆ)くなるといふ頃で、斯の枯々な山躑躅が黄や赤に咲乱れて居たことを思出した。そここゝに蕨(わらび)を采(と)る子供の群を思出した。山鳩の啼(な)く声を思出した。其時は心(こゝ)地(ろもち)の好い微(そよ)風(かぜ)が鈴蘭︵君影草とも、谷間の姫百合とも︶の花を渡つて、初夏の空気を匂はせたことを思出した。父は又、岡の上の新緑を指して見せて、斯の西乃入には柴草が多いから牛の為に好いと言つたことを思出した。其青葉を食ひ、塩を嘗(な)め、谷川の水を飲めば、牛の病は多く癒(なほ)ると言つたことを思出した。父はまた附(つけ)和(た)して、さま〴〵な牧畜の経験、類を以て集る牛の性質、初めて仲間入する時の角押しの試験、畜生とは言ひ乍ら仲間同志を制裁する力、其他女王のやうに牧場を支配する一頭の牝牛なぞの物語をして、それがいかにも面白く思はれたことを思出した。
父は斯(こ)の烏(ゑ)帽(ぼ)子(し)ヶ嶽(だけ)の麓に隠れたが、功名を夢見る心は一生火のやうに燃えた人であつた。そこは無欲な叔父と大に違ふところで、その制(おさ)へきれないやうな烈しい性質の為に、世に立つて働くことが出来ないやうな身分なら、寧(いつ)そ山奥へ高(ひつ)踏(こ)め、といふ憤慨の絶える時が無かつた。自分で思ふやうに成らない、だから、せめて子孫は思ふやうにしてやりたい。自分が夢見ることは、何(どう)卒(か)子孫に行はせたい。よしや日は西から出て東へ入る時があらうとも、斯(この)志ばかりは堅く執(と)つて変るな。行け、戦へ、身を立てよ――父の精神はそこに在つた。今は丑松も父の孤独な生涯を追懐して、彼(あ)の遺言に籠る希望と熱情とを一層力強く感ずるやうに成つた。忘れるなといふ一生の教(をし)訓(へ)の其生(いの)命(ち)――喘(あへ)ぐやうな男(をと)性(こ)の霊(たま)魂(しひ)の其呼吸――子の胸に流れ伝はる親の其血潮――それは父の亡くなつたと一緒にいよ〳〵深い震動を丑松の心に与へた。あゝ、死は無言である。しかし丑松の今の身に取つては、千百の言葉を聞くよりも、一(もつ)層(と)深く自分の一生のことを考へさせるのであつた。
牛小屋のあるところまで行くと、父の残した事業が丑松の眼に映じた。一(ひと)週(まはり)すれば二里半にあまるといふ天然の大牧場、そここゝの小松の傍(わき)には臥(ね)たり起きたりして居る牝牛の群も見える。牛小屋は高原の東の隅に在つて、粗(そま)造(つ)な柵の内には未(ま)だ角の無い犢(こうし)も幾頭か飼つてあつた。例の番小屋を預かる男は人々を款(もて)待(なし)顔(がほ)に、枯草を焚いて、猶(なほ)さま〴〵の燃(たき)料(つけ)を掻集めて呉れる。丁度そこには叔父も丑松も待合せて居た。男も、女も、斯の焚火の周(まは)囲(り)に集つたかぎりは、昨夜一晩寝なかつた人々、かてゝ加へて今日の骨折――中にはもう烈しい疲(つか)労(れ)が出て、半分眠り乍ら落葉の焼ける香を嗅いで居るものもあつた。叔父は、牛の群に振舞ふと言つて、あちこちの石の上に二合ばかりの塩を分けてやる。父の飼ひ慣れたものかと思へば、丑松も可(なつ)懐(か)しいやうな気になつて眺(なが)めた。それと見た一頭の黒い牝牛は尻毛を動かして、塩の方へ近(ちかづ)いて来る。眉(みけ)間(ん)と下腹と白くて、他はすべて茶褐色な一頭も耳を振つて近いた。吽(もう)と鳴いて犢(こうし)の斑(ぶち)も。さすがに見慣れない人々を憚るかして、いづれも鼻をうごめかして、塩の周(まは)囲(り)を遠廻りするものばかり。嘗(な)めたさは嘗めたし、烏(うさ)散(ん)な奴は見て居るし、といふ顔付をして、じり〳〵寄りに寄つて来るのもあつた。
斯の光(あり)景(さま)を見た時は、叔父も笑へば、丑松も笑つた。斯ういふ可愛らしい相手があればこそ、寂しい山奥に住まはれもするのだと、人々も一緒になつて笑つた。やがて一同暇乞ひして、斯の父の永眠の地に別(わか)離(れ)を告げて出掛けた。烏帽子、角(かく)間(ま)、四(あづ)阿(まや)、白根の山々も、今は後に隠れる。富士神社を通(とほ)過(りす)ぎた頃、丑松は振返つて、父の墓のある方を眺めたが、其時はもう牛小屋も見えなかつた――唯、蕭(せう)条(でう)とした高原のかなたに当つて、細々と立登る一(ひと)条(すぢ)の煙の末が望まれるばかりであつた。