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第弐拾弐章
︵一︶
﹃一寸伺ひますが、瀬川君は是(こち)方(ら)へ参りませんでしたらうか。﹄
斯う声を掛けて、敬之進の住(すま)居(ひ)を訪れたのは銀之助である。友達思ひの銀之助は心配し乍ら、丑松の後を追つて尋ねて来たのであつた。
﹃瀬川さん?﹄とお志保は飛んで出て、﹃あれ、今御帰りに成ましたよ。﹄
﹃今?﹄と銀之助はお志保の顔を眺(なが)めた。﹃それから何(どつち)の方へ行きましたらう、御存じは有ますまいかしら。﹄
﹃よくも伺ひませんでしたけれど、﹄とお志保は口(くち)籠(ごも)つて、﹃あの、猪子さんの奥(おく)様(さん)が東京から御見えに成るさうですね。多分その方へ。ホラ市村さんの御宿の方へ尋ねていらしツたんでせうよ――何でも其(そ)様(ん)なやうな瀬川さんの口振でしたから。﹄
﹃市村さんの許(ところ)へ? 先づ好かつた。﹄と銀之助は深い溜息を吐いた。﹃実は僕も非常に心配しましてね、蓮華寺へ行つて聞いて見ました。御寺で言ふには、未だ瀬川君は学校から帰らんといふ。それから市村さんの宿へ行つて見ると、彼(あす)処(こ)にも居ません。ひよつとすると、こりや貴(あな)方(た)の許(ところ)かも知れない、斯う思つてやつて来たんです。﹄と言つて、考へて、﹃むゝ、左(さ)様(う)ですか、貴方の許へ参りましたか――﹄
﹃丁度、行違ひに御(おな)成(ん)なすつたんでせう。﹄とお志保は少(すこ)許(し)顔を紅(あか)くして、﹃まあ御上りなすつて下さいませんか、此(こ)様(ん)な見苦しい処で御(ござ)座(い)ますけれど。﹄
と言はれて、お志保に導かれて、銀之助は炉(ろば)辺(た)へ上つた。
紅く泣(なき)腫(は)れたお志保の頬には涙の痕(あと)が未だ乾かずにあつた。奈(ど)何(う)いふことを言つて丑松が別れて行つたか、それはもうお志保の顔付を眺めたばかりで、大(おお)凡(よそ)の想像が銀之助の胸に浮ぶ。あの小学校の廊下のところで、人々の前に跪(ひざまづ)いて、有の儘(まゝ)に素性を自白するといふ行(やり)為(かた)から推(お)して考へても――確かに友達は非常な決心を起したのであらう。其心根は。思へば憫(びん)然(ぜん)なものだ。斯う銀之助は考へて、何(どう)卒(か)して友達を助けたい、と其をお志保にも話さうと思ふのであつた。銀之助は先づお志保の身の上から聞き初めた。
貧し苦しい境遇に居るお志保は、直に、銀之助の頼(たの)母(も)しい気象を看て取つたのである。のみならず、丑松と斯人とは無二の朋友であるといふことも好く承知して居る。真(ほん)実(たう)に自分の心(こゝ)地(ろもち)も解つて、身を入れて話を聞いて呉れるのは斯人だ、と斯う可(なつ)懐(か)しく思ふにつけても、さて、奈何して父親の許(ところ)へ帰つて居るか、其を尋ねられた時はもう〳〵胸一ぱいに成つて了(しま)つた。蓮華寺を脱けて出ようと決心する迄の一(いち)伍(ぶし)一(じゆ)什(う)――思へば涙の種――まあ、何から話して可いものやら、お志保には解らない位であつた。流(さす)石(が)娘心の感じ易さ、暗く煤(すゝ)けた土壁の内(な)部(か)の光(あり)景(さま)をも物羞(はづか)しく思ふといふ風で、﹃ぼや﹄を折(おり)焚(く)べて炉の火を盛んにしたり、着物の前を掻合せたりして語り聞かせる。お志保に言はせると、いよ〳〵彼の寺を出ようと思立つたのは、泣いて、泣いて、泣尽した揚句のこと。﹃仮(たと)令(ひ)先(さ)方(き)が親らしい行(おこ)為(なひ)をしない迄も、是(これ)迄(まで)育てゝ貰つた恩義も有る。一旦蓮華寺の娘となつた以上は、奈何な辛いことがあらうと決して家へ帰るな。﹄――とは堅い父の言葉でもあつた。宵闇の空に紛(まぎ)れて迷ひ出たお志保は、だから、何処へ帰るといふ目(めあ)的(て)も無かつたのである。悲しい夢のやうに歩いて来る途中、不図、雪の上に倒れて居る人に出(で)逢(あ)つた。見れば其(その)酔(さけ)漢(よひ)は父であつた。其時お志保は左(さ)様(う)思つた。父はもう凍え死んだのかと思つた。丁度通りかかる音作を呼留めて、一緒に助け起して、漸(やつと)のことで家まで連帰つて見ると、今すこし遅からうものなら既に生命を奪(と)られるところ。それぎり敬之進は床の上に横に成つた。医者の話によると、身体の衰(おと)弱(ろへ)は一通りで無い。所(しよ)詮(せん)助かる見込は有るまいとのことである。
そればかりでは無い。不(ふし)幸(あはせ)は斯の屋根の下にもお志保を待受けて居た。来て見ると、もう継母も、異(はら)母(ちがひ)の弟(きや)妹(うだい)も居なかつた。尤(もつと)も、其前の晩、烈しい夫婦喧嘩があつて、継母はお志保のことや父の酒のことを言つて、奈何して是から将(さ)来(き)生(くら)計(し)が立つと泣叫んだといふ。いづれ下高井にある生(さ)家(と)を指して、三人だけ子供を連れて、父の留守に家出をしたものらしい。それは継母が自分で産んだ子供のうち、三番目のお末を残して、進に、お作に、それから留吉と、斯(か)う引連れて行つた。割合に温(おと)順(な)しいお末を置いて、あの厄介者のお作を腰に付けたは、流(さす)石(が)に後のことをも考へて行つたものと見える。継母が末の児を背(お)負(ぶ)ひ、お作の手を引き、進は見(み)慣(な)れない男に連れられて、後を見かへり〳〵行つたといふことは、近所のかみさんが来ての話で解つた。
斯ういふ中にも、ひとり力に成るのは音作で、毎日夫婦して来て、物を呉れるやら、旧(むかし)の主人をいたはるやら、お末をば世話すると言つて、自分の家の方へ引取つて居るとのこと。貧苦の為に離散した敬之進の家族の光(あり)景(さま)――まあ、お志保が銀之助に話して聞かせたことは、ざつと斯うであつた。
﹃して見ると――今御家にいらつしやるのは、父(おと)親(つ)さんに、貴方に、それから省吾さんと、斯う三人なんですか。﹄銀之助は気の毒さうに尋ねたのである。
﹃はあ。﹄とお志保は涙ぐんで、垂下る鬢(びん)の毛を掻上げた。
︵二︶
丑松のことは軈(やが)て二人の談(はな)話(し)に上つた。友に篤い銀之助の有様を眺めると、お志保はもう何もかも打明けて話さずには居られなかつたのである。其時、丑松の逢ひに来た様子を話した。顔は蒼(あを)ざめ、眼は悲(かな)愁(しみ)の色を湛(たゝ)へ、思ふことはあつても十分に其を言ひ得ないといふ風で――まあ、情が迫つて、別(わか)離(れ)の言葉もとぎれ〳〵であつたことを話した。忘れずに居る程のなさけがあらば、せめて社(よの)会(なか)の罪(つみ)人(びと)と思へ、斯(か)う言つて、お志保の前に手を突いて、男らしく素性を告(うち)白(あ)けて行つたことを話した。
﹃真(ほん)実(たう)に御気の毒な様子でしたよ。﹄とお志保は添(つけ)加(た)した。﹃いろ〳〵伺つて見たいと思つて居りますうちに、瀬川さんはもう帽子を冠つて、さつさと出て行つてお了ひなさる――後で私はさん〴〵泣きました。﹄
﹃左(さ)様(う)ですかあ。﹄と銀之助も嘆息して、﹃あゝ、僕の想像した通りだつた。定めし貴(あな)方(た)も驚いたでせう、瀬川君の素性を始めて御聞きになつた時は。﹄
﹃いゝえ。﹄お志保は力を入れて言ふのであつた。
﹃ホウ。﹄と銀之助は目を円(まる)くする。
﹃だつて今日始めてでも御(ござ)座(い)ませんもの――勝野さんが何(ど)処(こ)かで聞いていらしツて、いつぞや其を私に話しましたんですもの。﹄
この﹃始めてでも御座ません﹄が銀之助を驚した。しかし文平が何の為に其様なことをお志保の耳へ入れたのであらう、と聞(きゝ)咎(とが)めて、
﹃彼(あの)男(をとこ)も饒(おし)舌(やべ)家(り)で、真(ほん)個(たう)に仕方が無い奴だ。﹄と独(ひと)語(りごと)のやうに言つた。やがて、銀之助は何か思ひついたやうに、﹃何ですか、勝野君は其(そん)様(な)に御寺へ出掛けたんですか。﹄
﹃えゝ――蓮華寺の母が彼(あ)様(ゝ)いふ話好きな人で、男の方は淡(さつ)泊(ぱり)して居て可(いゝ)なんて申しますもんですから、克(よ)く勝野さんも遊びにいらツしやいました。﹄
﹃何だつてまた彼男は其(そ)様(ん)なことを貴方に話したんでせう。﹄斯(か)う銀之助は聞いて見るのであつた。
﹃まあ、妙なことを仰(おつしや)るんですよ。﹄とお志保は其を言ひかねて居る。
﹃妙なとは?﹄
﹃親類はこれ〳〵だの、今に自分は出世して見せるのツて――﹄
﹃今に出世して見せる?﹄と銀之助は其処に居ない人を嘲(あざけ)つたやうに笑つて、﹃へえ――其様なことを。﹄
﹃それから、あの、﹄とお志保は考深い眼付をし乍ら、﹃瀬川さんのことなぞ、それは酷(ひど)い悪口を仰いましたよ。其時私は始めて知りました。﹄
﹃あゝ、左(さ)様(う)ですか、それで彼(あの)話(はなし)を御聞きに成つたんですか。﹄と言つて銀之助は熱心にお志保の顔を眺(なが)めた。急に気を変へて、﹃ちよツ、彼男も余計なことを喋舌つて歩いたものだ。﹄
﹃私もまあ彼様な方だとは思ひませんでした。だつて、あんまり酷いことを仰るんですもの。その悪口が普(た)通(ゞ)の悪口では無いんですもの――私はもう口(く)惜(や)しくて、口惜しくて。﹄
﹃して見ると、貴方も瀬川君を気の毒だと思つて下さるんですかなあ。﹄
﹃でも、左様ぢや御座ませんか――新平民だつて何だつて毅(しつ)然(かり)した方の方が、彼(あ)様(ん)な口先ばかりの方よりは余(よつ)程(ぽど)好いぢや御座ませんか。﹄
何の気なしに斯ういふことを言出したが、軈(やが)てお志保は伏目勝に成つて、血肥りのした娘らしい手を眺めたのである。
﹃あゝ。﹄と銀之助は嘆息して、﹃奈(ど)何(う)して世の中は斯(か)う思ふやうに成らないものなんでせう。僕は瀬川君のことを考へると、実際哭(な)きたいやうな気が起ります。まあ、考へて見て下さい。唯あの男は素性が違ふといふだけでせう。それで職業も捨てなければならん、名誉も捨てなければならん――是(これ)程(ほど)残酷な話が有ませうか。﹄
﹃しかし、﹄とお志保は清(すゞ)しい眸(ひとみ)を輝した。﹃父(おと)親(つ)さんや母(おつ)親(か)さんの血(ちす)統(ぢ)が奈(どん)何(な)で御座ませうと、それは瀬川さんの知つたことぢや御座ますまい。﹄
﹃左様です――確かに左様です――彼男の知つたことでは無いんです。左様貴方が言つて下されば、奈(どん)何(な)に僕も心強いか知れません。実は僕は斯う思ひました――彼男の素性を御聞に成つたら、定めし貴方も今迄の瀬川君とは考へて下さるまいかと。﹄
﹃何(な)故(ぜ)でせう?﹄
﹃だつて、それが普通ですもの。﹄
﹃あれ、他(ひと)は左(さ)様(う)かも知れませんが、私は左様は思ひませんわ。﹄
﹃真(ほん)実(と)に? 真実に貴方は左様考へて下さるんですか――﹄
﹃まあ、奈(ど)何(う)したら好う御座んせう。私は是でも真面目に御話して居る積りで御座ますのに。﹄
﹃ですから、僕が其を伺ひたいと言ふんです。﹄
﹃其と仰(おつしや)るのは?﹄
とお志保は問ひ反して、対(あひ)手(て)の心を推量し乍ら眺めた。若々しい血潮は思はずお志保の頬に上るのであつた。
︵三︶
力の無い謦(せ)の声が奥の方で聞えた。急にお志保は耳を澄して心配さうに聞いて居たが、軈(やが)て一寸会(ゑし)釈(やく)して奥の方へ行つた。銀之助は独り炉(ろば)辺(た)に残つて燃え上る﹃ぼや﹄の火(ほの)炎(ほ)を眺(なが)め乍ら、斯(か)ういふ切ない境遇のなかにも屈せず倒れずに行(や)る気で居るお志保の心の若々しさを感じた。烈しい気候を相手に克(よ)く働く信州北部の女は、いづれも剛健な、快活な気象に富むのである。苦痛に堪へ得ることは天性に近いと言つてもよい。まあ、お志保も矢(やは)張(り)其血を享(う)けたのだ。優(や)婉(さ)しいうちにも、どことなく毅(しや)然(ん)としたところが有る。斯う銀之助は考へて、奈(ど)何(う)友達のことを切出したものか、と思ひつゞけて居た。間も無くお志保は奥の方から出て来た。
﹃奈(ど)何(う)ですか、父(おと)上(つ)さんの御様子は。﹄と銀之助は同(おも)情(ひや)深(りぶか)く尋ねて見る。
﹃別に変りましたことも御座ませんけれど、﹄とお志保は萎(しを)れて、﹃今日は何(なんに)も頂きたくないと言つて、お粥(かゆ)を少(ぽつ)許(ちり)食べましたばかり――まあ、朝から眠りつゞけなんで御座ますよ。彼(あん)様(な)に眠るのが奈(ど)何(う)でせうかしら。﹄
﹃何しろ其は御心配ですなあ。﹄
﹃どうせ長(なが)保(も)ちは有(あり)ますまいでせうよ。﹄とお志保は溜息を吐いた。﹃瀬川さんにも種(いろ)々(〳〵)御世話様には成ましたが、医者ですら見込が無いと言ふ位ですから――﹄
斯う言つて、癖のやうに鬢(びん)の毛を掻上げた。
﹃実に、人の一生はさま〴〵ですなあ。﹄と銀之助はお志保の境(きや)涯(うがい)を思ひやつて、可(いた)傷(ま)しいやうな気に成つた。﹃温い家庭の内に育つて、それほど生活の方の苦(くる)痛(しみ)も知らずに済(す)む人もあれば、又、貴方のやうに、若い時から艱(かん)難(なん)して、其風(なみ)波(かぜ)に搓(も)まれて居るなかで、自然と性質を鍛(きた)へる人もある。まあ、貴方なぞは、苦んで、闘つて、それで女になるやうに生れて来たんですなあ。左(さ)様(う)いふ人は左様いふ人で、他(ひと)の知らない悲しい日も有るかはりに、また他の知らない楽しい日も有るだらうと思ふんです。﹄
﹃楽しい日?﹄とお志保は寂しさうに微(ほゝ)笑(ゑ)み乍ら、﹃私なぞに其(そ)様(ん)な日が御座ませうかしら。﹄
﹃有ますとも。﹄と銀之助は力を入れて言つた。
﹃ほゝゝゝゝ――是(これ)迄(まで)のことを考へて見ましても、其様な日なぞは参りさうも御座ません。まあ、私が貰はれて行きさへしませんければ、蓮華寺の母だつても彼(あ)様(ん)な思は為ずに済みましたのでせう。彼母を置いて出ます前には、奈(どん)何(な)に私も――﹄
﹃左様でせうとも。其は御察し申します。﹄
﹃いえ――私はもう死んで了(しま)ひましたも同じことなんで御座ます――唯(たゞ)、人様の情を思ひますものですから、其を力に……斯(か)うして生きて……﹄
﹃あゝ、瀬川君のも苦しい境遇だが、貴方のも苦しい境遇だ。畢(つま)竟(り)貴方が其程苦しい目に御(お)逢(あ)ひなすつたから、それで瀬川君の為にも哭(な)いて下さるといふものでせう。実は――僕は、あの友達を助けて頂きたいと思つて、斯うして貴方に御話して居るやうな訳ですが――﹄
﹃助けろと仰ると?﹄お志保の眸(ひとみ)は急に燃え輝いたのである。﹃私の力に出来ますことなら、奈(ど)何(ん)なことでも致しますけれど。﹄
﹃無論出来ることなんです。﹄
﹃私に?﹄
暫(しば)時(らく)二人は無言であつた。
﹃いつそ有の儘を御話しませう。﹄と銀之助は熱心に言出した。﹃丁度学校で宿直の晩のことでした。僕が瀬川君の意中を叩いて見たのです。其時僕の言ふには、﹁君のやうに左(さ)様(う)独りで苦んで居ないで、少(すこ)許(し)打明けて話したら奈(ど)何(う)だ。あるひは僕見たやうな殺風景なものに話したつて解らない、と君は思ふかも知れない。しかし、僕だつて、其(そ)様(ん)な冷(つめた)い人間ぢや無いよ。まあ、僕に言はせると、あまり君は物を煩(むづか)しく考へ過ぎて居るやうに思はれる。友達といふものも有つて見れば、及ばず乍ら力に成るといふことも有らうぢやないか。﹂斯(か)う言ひました。すると、瀬川君は始めて貴方のことを言出して――﹁むゝ、君の察して呉れるやうなことがあつた。確かに有つた。しかし其人は最(も)早(う)死んで了つたものと思つて呉れたまへ。﹂斯う言ふぢや有ませんか。噫――瀬川君は自分の素性を考へて、到底及ばない希(のぞ)望(み)と絶(あき)念(ら)めて了(しま)つたのでせう。今はもう人を可(なつ)懐(か)しいとも思はん――是程悲しい情愛が有ませうか。それで瀬川君は貴方のところへ来て、今迄蔵(つゝ)んで居た素性を自白したのです。そこです――もし貴方に彼(あ)の男の真(こゝ)情(ろもち)が解りましたら、一つ助けてやらうといふ思(かん)想(がへ)を持つて下さることは出来ますまいか。﹄
﹃まあ、何と申上げて可(いゝ)か解りませんけれど――﹄とお志保は耳の根元までも紅(あか)くなつて、﹃私はもう其積りで居りますんですよ。﹄
﹃一生?﹄と銀之助はお志保の顔を熟(ま)視(も)り乍ら尋ねた。
﹃はあ。﹄
このお志保の答は銀之助の心を驚したのである。愛も、涙も、決心も、すべて斯(こ)の一息のうちに含まれて居た。
︵四︶
兎(と)も角(かく)も是(この)事(こと)を話して友達の心を救はう。市村弁護士の宿へ行つて見た様子で、復(ま)た後の使にやつて来よう。斯う約束して、軈(やが)て銀之助は炉辺を離れようとした。
﹃あの、御願ひで御座ますが――﹄とお志保は呼留めて、﹃もし﹁懴悔録﹂といふ御本が御座ましたら、貸して頂く訳にはまゐりますまいか。まあ、私なぞが拝見したつて、どうせ解りはしますまいけれど。﹄
﹃﹁懴悔録﹂?﹄
﹃ホラ、猪子さんの御書きなすつたとかいふ――﹄
﹃むゝ、あれですか。よく貴方は彼(あ)様(ん)な本を御存じですね。﹄
﹃でも、瀬川さんが平(しよ)素(つちゆう)読んでいらつしやいましたもの。﹄
﹃承知しました。多分瀬川君の許(ところ)に有ませうから、行つて話して見ませう――もし無ければ、何(ど)処(こ)か捜(さが)して見て、是非一冊贈らせることにしませう。﹄
斯う言つて、銀之助は弁護士の宿を指して急いだ。
丁度扇屋では人々が蓮太郎の遺(なき)骸(がら)の周(まは)囲(り)に集つたところ。親切な亭主の計ひで、焼場の方へ送る前に一応亡くなつた人の霊(たま)魂(しひ)を弔(とむら)ひたいといふ。読(どき)経(やう)は法福寺の老僧が来て勤めた。其日の午後東京から着いたといふ蓮太郎の妻君――今は未亡人――を始め、弁護士、丑松もかしこまつて居た。旅で死んだといふことを殊(こと)にあはれに思ふかして、扇屋の家の人もかはる〴〵弔ひに来る。縁もゆかりも無い泊客ですら、其と聞伝へたかぎりは廊下に集つて、寂しい木魚の音に耳を澄すのであつた。
焼香も済み、読経も一きりに成つた頃、銀之助は丑松の紹(ひき)介(あはせ)で、始めて未亡人に言葉を交した。長野新聞の通信記者なぞも混(とり)雑(こみ)の中へ尋ねて来て、聞き取つたことを手帳に書留める。
﹃貴方が奥(おく)様(さん)でいらつしやいますか。﹄と記者は職掌柄らしい調子で言つた。
﹃はい。﹄と未亡人の返事。
﹃奥様、誠に御気の毒なことで御座ます。猪子先生の御名前は予(かね)て承知いたして居りまして、蔭(かげ)乍(なが)ら御慕ひ申して居たのですが――﹄
﹃はい。﹄
斯(か)ういふ挨拶はすべて追(おも)憶(ひで)の種であつた。人々の談(はな)話(し)は蓮太郎のことで持切つた。軈(やが)て未亡人は夫と一緒に信州へ来た当時のことを言出して、別れる前の晩に不思議な夢を見たこと、妙に夫の身の上が気に懸つたこと、其を言つて酷(ひど)く叱られたことなぞを話した。彼是を思合せると、彼(あの)時(とき)にもう夫は覚(かく)期(ご)して居ることが有つたらしい――信州の小春は好いの、今度の旅行は面白からうの、土(みや)産(げ)はしつかり持つて帰るから家へ行つて待つて居れの、まあ彼(あれ)が長の別(わか)離(れ)の言葉に成つて了(しま)つた。斯う言つて、思ひがけない出来事の為に飛んだ迷惑を人々に懸けた、とかへす〴〵気の毒がる。流(さす)石(が)に堪へがたい女の情もあらはれて、淡(さつ)泊(ぱり)した未亡人の言葉は反つて深い同情を引いたのである。
弁護士は銀之助を部屋の片隅へ招いた。相談といふは丑松の身に関したことであつた。弁護士の言ふには、丑松も今となつては斯の飯山に居にくい事情も有らうし、未亡人はまた未亡人で是から帰るには男の手を借りたくも有らうし、するからして、あの蓮太郎の遺骨を護つて、一緒に東京へ行つて貰ひたいが奈何だらう――選挙を眼(めの)前(まへ)にひかへさへしなければ、無論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強ひて辞退する。せめて斯の際選挙の方に尽力して夫の霊(たま)魂(しひ)を慰めて呉れといふ。聞いて見れば未亡人の志も、尤(もつとも)。いつそ是(これ)は丑松を煩したい――一切の費用は自分の方で持つ――是非。とのことであつた。
﹃といふ訳で、瀬川さんにも御話したのですが、﹄と弁護士は銀之助の顔を眺め乍ら言つた。﹃学校の方の都合は、君、奈(ど)何(ん)なものでせう。﹄
﹃学校の方ですか。﹄と銀之助は受けて、﹃実は――瀬川君を休職にすると言つて、その下相談が有つたといふ位ですから、無論差支は有ますまいよ。校長の話では、郡視学も其積りで居るさうです。まあ、学校の方のことは僕が引受けて、奈(どん)何(な)にでも都合の好いやうに致しませう。一日も早く飯山を発ちました方が瀬川君の為には得策だらうと思ふんです。﹄
斯(か)ういふ相談をして居るところへ、棺(ひつぎ)が持運ばれた。復(ま)た読経の声が起つた。人々は最後の別(わか)離(れ)を告げる為に其棺の周(まは)囲(り)へ集つた。軈て焼場の方へ送られることに成つた頃は、もう四(そこ)辺(いら)も薄暗かつたのである。いよ〳〵舁(かつ)がれて、﹃いたや﹄︵北国にある木の名︶造りの橇へ載せられる光(あり)景(さま)を見た時は、未亡人はもう其処へ倒れるばかりに泣いた。
︵五︶
火を入れるところまで見届けて、焼場から帰つた後、丑松は弁護士や銀之助と火鉢を取(とり)囲(ま)いて、扇屋の奥座敷で話した。無(つれ)情(な)い運命も、今は丑松の方へ向いて、微(すこ)し笑つて見せるやうに成つた。あの飯山病院から追はれ、鷹(たか)匠(しやう)町の宿からも追はれた大日向が――実は、放逐の恥(はづ)辱(かしめ)が非常な奮発心を起させた動機と成つて――亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)の﹃テキサス﹄で農業に従事しようといふ新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松の耳に希(のぞ)望(み)を囁(さゝや)いた。教育のある、確(たし)実(か)な青年を一人世話して呉れ、とは予(かね)て弁護士が大日向から依頼されて居たことで、丁度丑松とは素性も同じ、定めし是話をしたら先(さ)方(き)も悦(よろこ)ばう。望みとあらば周旋してやるが奈(ど)何(う)か。﹃テキサス﹄あたりへ出掛ける気は無いか。心懸け次第で随分勉強することも出来よう。是話には銀之助も熱心に賛成した。﹃見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。﹄と銀之助は其を言ふのであつた。
﹃明後日の朝、大日向が我輩の宿へ来る約束に成つて居る。むゝ、丁度好い。兎(と)に角(かく)逢(あ)つて見ることにしたまへ。﹄
斯ういふ弁護士の言葉は、枯れ萎れた丑松の心を励(はげま)して、様子によつては頼んで見よう、働いて見ようといふ気を起させたのである。
そればかりでは無い。銀之助から聞いたお志保の物語――まあ、あの可憐な決心と涙とは奈(どん)何(な)に深い震動を丑松の胸に伝へたらう。敬之進の病気、継母の家出、そんなこんなが一緒に成つて、一(ひと)層(しほ)お志保の心情を可(いた)傷(は)しく思はせる。あゝ、絶望し、断念し、素性まで告白して別れた丑松の為に、ひそかに熱い涙をそゝぐ人が有らうとは。可(はづ)羞(か)しい、とはいへ心の底から絞(しぼ)出(りだ)した真(まこ)実(と)の懴悔を聞いて、一生を卑(い)賤(や)しい穢多の子に寄せる人が有らうとは。
﹃どうして、君、彼(あ)の女はなか〳〵しつかりものだぜ。﹄
と銀之助は添(つけ)加(た)して言つた。
其翌日、銀之助は友達の為に、学校へも行き、蓮華寺へも行き、お志保の許(ところ)へも行つた。蓮華寺にある丑松の荷物を取纏めて、直に要(い)るものは要るもの、寺へ預けるものは預けるもので見(みわ)別(け)をつけたのも、すべて銀之助の骨折であつた。銀之助はまた、お志保のことを未亡人にも話し、弁護士にも話した。女は女に同(おも)情(ひやり)の深いもの。殊にお志保の不幸な境遇は未亡人の心を動したのであつた。行く〳〵は東京へ引取つて一緒に暮したい。丑松の身が極(きま)つた暁には自分の妹にして結(めあ)婚(は)せるやうにしたい。斯(か)う言出した。兎(と)に角(かく)、後の事は弁護士も力を添へる、とある。といふ訳で、万事は弁護士と銀之助とに頼んで置いて、丑松は惶(あわ)急(たゞ)しく飯山を発(た)つことに決めた。