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街の子
竹久夢二
それは、土曜日の晩でした。
春(はる)太(たろ)郎(う)は風呂屋から飛んで帰りました。春太郎が、湯から上(あが)って着物をきていると、そこの壁の上にジャッキイ・クウガンが、ヴァイオリンを持って、街を歩いている絵をかいた、大きなポスターが、そこにかかっているのです。
十二月一日より
ジャッキイ・クウガン 街の子
キネマ館にて
と書いてあるのです。それを見た春太郎は、大急ぎで帯をぐるぐる巻きにして、家(うち)へ飛んでかえりました。
春太郎は、ジャッキイ・クウガンが大好きで、ジャッキイの写真はたいてい見ていました。だからもう今では、ジャッキイの顔を見ると、長い間のお友達のような気がするのでした。
﹁お母(かあ)様(さん)、いってもいいでしょうねえ﹂
春(はる)太(たろ)郎(う)はそう言って、お母様にせがみました。
﹁でも一人ではいけませんよ。お姉(ねえ)様(さん)とならいいけど﹂
﹁うん、じゃあお姉様と、ね、そんならいいでしょう﹂
春太郎はお姉様のとこへ飛んでいって、たのみました。
﹁お母様は、行ってもいいっておっしゃったの?﹂
﹁ええ、お姉様とならいいって﹂
﹁じゃ、行ってあげるわ﹂
﹁うれしいな、これからすぐですよ﹂
春太郎は、お姉様につれられて、キネマ館へゆきました。二階の正面に坐(すわ)って、ベルの鳴るのを待っていました。
しばらくすると、ベルが鳴って、ちかちかちかちかと、フィルムの廻(まわ)る音がしだしたかとおもうと、ぱっと、ジャッキイの姿が、眼(め)のまえにあらわれました。ぱちぱちぱちと、春太郎も思わず手をたたきました。
﹁ここに、カリフォルニアの片(かた)田(いな)舎(か)に、ひとりの少年がありました。その名を……﹂
と弁士がへんな声を出して、説明をはじめました。春太郎は、弁士の説明なんかどうでもいいのでした。ただ、ジャッキイが出てきて、笑ったり、泣いたり、歩いたり、坐ったりすれば、それだけで十分いいのでした。ジャッキイが泣くときには、春太郎も悲しくなるし、笑うときには、やはりうれしくなって笑いだすのでした。
ジャッキイのお母様が死んでから、ジャッキイは、育てられたお祖(じ)父(い)さんお祖(ば)母(あ)さんに別れて、お母様の形見のヴァイオリンを、たった一つ持ったままで、街へ出てゆきました。
ちょうど、これはクリスマスの晩のことで、立派な家の窓から暖かそうな明りがさして、部屋のまん中には、大きなクリスマス・ツリーが立っていていい着物をきた子供たちは、部屋の中を飛廻っていました。ある家の食堂の方からは、おいしそうな御(ごち)馳(そ)走(う)の匂(におい)がしているのでした。
﹁ぼくには、何にもないや。お家(うち)も、クリスマス・ツリーも、御馳走も。お父(とう)様(さん)も、お母様もないや、なんにも、ないや﹂
ジャッキイはとぼとぼと歩きました。そのうちお腹(なか)はへってくるし、寒さはさむし、そのうえ雪がだんだん降りつもって、道もわからず、それに一番わるいことは、どこへいったらいいか、ジャッキイにはあてがないことでした。
玩(おも)具(ちゃ)屋(や)の飾(ショ)窓(ウウィンドウ)には大きなテッディ熊(ベア)が飾ってあります。玩具屋の中から、大きな包をもった紳士が子供の手を引いて出てきました。
﹁あの大きな包の中にはきっとたくさん玩具があるんだよ﹂
ジャッキイは、ぼんやりそれを見ていますと、
﹁おいおい危(あぶな)いよ﹂
そう言って、馬車の別当が、ジャッキイをつき飛ばしました。
どこか遠くの方で、オルガンの音がする。オルガンに足拍子をとりながら、沢山の天使がダンスをやっている。そこは、高い青い空で、空には数えきれないほどたくさんの星が、ぴかぴか光っています。
﹁きれいだなあ﹂
ジャッキイは、夢を見ているような心持で、高い空を見ていました。すると、白い髯(ひげ)をはやした一人の老(とし)人(より)が、とぼとぼと歩いてきました。
﹁ああ、サンタクロスのお爺(じい)さんだ。きっとそうだよ。ぼくんとこへ、クリスマスの贈物を持ってくるんだよ。だけどおかしいなあ。袋を持っていないや。﹂
老人は、だんだんジャッキイの方へ近づいてきました。そしてジャッキイをだきあげて、自分のうちへつれて帰りました。家(うち)といっても貧しい屋根裏で、あくる日からジャッキイは、このお爺さんと二人で、ヴァイオリンをひいて、街を、はずれからはずれまで歩かねばなりませんでした。
お爺さんは、親切ないい人でしたが、ある日ジャッキイの子(こも)守(りう)唄(た)をききながら、死んでしまいました。ジャッキイは、またある有名な音楽家に救われて、そこの家(うち)へ引取られてゆきました。食堂へはいると、そこに写真がかかっていました。それは一人の女の肖像でありました。ジャッキイはそれを見て
﹁ああ、お母(かあ)様(さん)だ!﹂
その音楽家もびっくりしてしまいました。ジャッキイは、ポケットから、一枚の写真を出して、その音楽家に見せました。写真のうらには
と書いてあるのでした。その写真と、この額の写真とは、おなじ人でありました。
﹁お前はわたしの子だったのか﹂
音楽家は、ジャッキイをしっかり抱きしめて、ジャッキイの眼(め)からながれる嬉(うれ)し涙を、ふいてやりました。
お父さんの音楽家の眼からも、玉のような涙がぽろぽろと流れました。春(はる)太(たろ)郎(う)の眼からも、ぽろぽろと大きなのがころげました。春太郎のお姉(ねえ)様(さん)も眼にハンケチをあてていました。
春(はる)太(たろ)郎(う)は、学校へゆく道で考えました。早く雪が降ってくれるといいな。そしてクリスマスの晩になるといいな。だけど、ジャッキイはどうしたろう。あれからすっかり幸(しあ)福(わせ)になったかしら。まだあの大きなズボンをはいて、ロンドンの街を歩いているのじゃないかしら。ぼくもロンドンへゆきたいな。お姉さんが死んでしまったら、ぼくお姉様のヴァイオリンを貰(もら)おうや。そして、クリスマスの晩、ロンドンの街を歩くんだ。そうすると大きな、玩(おも)具(ちゃ)屋(や)があって、そこの飾(ショ)窓(ウウィンドウ)に、テッディ熊(ベア)がいるだろう。﹁おい危(あぶな)い﹂で、空には星が、きらきら光っていて、袋を持たないサンタクロスのお爺(じい)さんがやってくる。ジャッキイがヴァイオリンをひいているのを、お爺さんがききながら、﹁うまい、うまい。ジャッキイは、今に大音楽家になるぞ﹂そう言ってほめました。
きっと、ぼくは大音楽家になるだろう。そして、ぼくのお父(とう)様(さん)も大音楽家なんだ。おや、おや。ぼくのお父様は、会社へ出ているんだっけ、
﹁カン、カン、カン﹂
﹁カン、カン、カン﹂
その時、春太郎は、いつの間にか、学校の前へ来ていました。
いま恰(ちょ)度(うど)、授業のはじまるベルが鳴っていました。
春太郎は、ジャッキイになることを急に思いとまって、おおいそぎで教室の方へ走ってゆきました。
底本‥﹁童話集 春﹂小学館文庫、小学館
2004︵平成16︶年8月1日初版第1刷発行
底本の親本‥﹁童話 春﹂研究社
1926︵大正15︶年12月
入力‥noir
校正‥noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル‥
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