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二 社交界デビュー
十二月の最初の週の終頃、ラスチニャックは二通の手紙を受け取った。一通は母からのものであり、もう一通は上の妹からのものだった。これらの馴染みのある文面は、今回ばかりは彼を喜びに震えさせ、また恐ろしさに身震いもさせた。その頼りなげな二枚の紙には人生の停止あるいは彼の希望の消滅が含まれているかもしれなかった。もしも彼が両親の窮状を覚えていて、何らかの恐怖を認めるとすれば、なにごとにつけ両親が徹底的にやってしまうことをとても心配する傾向があることを彼は良く知っていた。母からの手紙からは、そのようなことが改めて読み取れた。
︿愛する子へ、あなたが頼んできたものを送りました。このお金を上手に使いなさい。私はたとえあなたの命がかかったことであれ、二度とこんな巨額のお金を用立てることは出来ません。しかもお父様に申し上げることもなしにですよ、それは私達家族の中の調和を乱すんですよ。私達がこのお金を得るには私達の土地を担保にするしかないんです。私に分かるはずのない計画の価値を判断することは私には出来ません。だけど、私にも打ち明けられないというのは、それは一体どういった性質の計画なんでしょうか? そのための説明に多言は要りません。私達母親にはたった一言あれば十分なのです。その一言が私を訳の分からない苦しみから救ってくれるのです。あなたの手紙が私に何だか憂鬱な印象を与えたことを私は隠すことが出来ません。可愛い息子よ、またどういう気持ちであなたは私の心をこんなに心配させるようなことを書いて寄越したんでしょう。あなたは当然、私に手紙を書きながら、とても悩んだことでしょう。私もあなたの手紙を読んで、こんなにも辛く思っているのですから。これからあなたはどんな仕事に就こうとしてるんですか? あなたの人生、あなたの幸せは、本当の自分と違うように見せたり、稼ぎきれないような大金を使ったり、勉学のための貴重な時間を失わないと入ってゆけないような社交界の人々と交わることとは関係のないことではありませんか? ねえ、ウージェーヌ、どうぞ母の気持ちを察してね。間違った声をいくら聞いたって立派な結果は得られませんよ。忍耐と甘受こそが、あなたのような立場にいる若者にとっての美徳なのです。私はあなたを叱るのではありません。私は私達からの贈り物に苦い味を付けたくありません。私の言うことは先の見えるというよりは、やはり信じ込みやすい母親のそれですね。あなたが何かお礼でも言ってくれるのなら、私には分かってます、貴方がどんなに純粋な心を持っているか、あなたの目的がどんなに素晴らしいか。だから私は何の心配もなく、こう言うことが出来ます。さあ、愛しい子よ、行きなさい! 私は母なるが故に震えています。けれども、あなたのどの歩みにも私達の期待と感謝の気持ちが優しく寄り添っているのです。慎重にね、わが子よ。あなたは一人前の男として賢明でなければなりません。あなたにとって大切な五人の人間の運命はあなたの頭脳にかかっているのです。そうです、私達の運命は総て、あなた次第なのです。ちょうどあなたの幸福が私達の幸福であるように。私達は神様に一生懸命お願いして、あなたの仕事のアドバイスをしてもらうようにするわ。あなたの叔母マルシャックは、この事情の中でこの上もなく親切にしてくれたのよ。彼女はあなたがあなたの手袋について私に話してくれたことをほとんど理解するところまで行ってたのよ。勿論、彼女は長男のあなたが大好きだと笑いながら言ってたわ。私のウージェーヌ、叔母さんを愛さなきゃ駄目よ、私はあなたが成功するまでは、彼女があなたのためにどんなことをやってあげたのかは言わないけれどね。さもないと、彼女の金を掴んだあなたの指は火傷してしまうわよ。あなたはまだ子供だから、分からないだろうけど、思い出の品を失くしてしまうことがどんなに辛いことか! でも私達はあなたのためなら犠牲を払わないでいられるものですか? 彼女はあなたの額にキスすることをあなたに言っとくようにと私に言うの、そして彼女はそのキスによって、いつだって幸福でいられる力をあなたに送りたいと言うのよ。この優しくて素敵な叔母さんは指の痛風がなければ、あなたに手紙を書きたかったといっています。お父様は元気にしてます。一八一九年の収穫は予想以上でした。さようなら、愛する子よ。あなたの妹については何も言わないわ。ロールがあなたに手紙を書いてるから。彼女には家族にあった小さな出来事について、おしゃべりする楽しみを残しておいてあげたいの。あなたの成功を天に祈ります! あー! そうです、成功、私のウージェーヌ、私がもう一度よく考えなければならない、とても鬱陶しい心配があることをあなたは知らせてくれたんだわ。私はそれが貧乏であるということに他ならないことを知っています。子供に与えるに十分な財産を望みながらなのです。がんばってね、さようなら。放っとかないで、手紙出すのよ。母からのキスを送ります。﹀
この手紙を読み終わった時、ウージェーヌは泣いていた。彼はゴリオ爺さんのことを考えた。爺さんは銀食器をひん曲げたり、娘の振り出した為替手形の支払いをするために、それを売ろうとしていたものだ。﹁お前の母は彼女の宝石をねじ切ったんだ!﹂彼は思った。﹁お前の叔母は彼女にとって何か大切な思い出の品を泣きながら売ったに違いないのだ! 何の権利があって、お前がアナスタジーを咎めだて出来ようか? お前はお前の将来に向けての利己主義から、彼女が恋人のためにやったことをそのまま真似ているだけだ! 彼女とお前のどちらがましなんだ?﹂学生は心の奥底が耐え切れないほどの熱い気持ちで揺さぶられるのを感じた。彼はもう何もかも諦めようと思った。彼はこの金は受け取るまいと思った。彼はあの気高く美しい悔恨を秘かに感じたのだが、誰か他人に判断を仰いだ時、それに価値を見出されることは稀である。そして人々はこの世の裁判官によって有罪とされることを恐れるが、その罪も心に秘めている限りは天上の天使によってやがては無罪放免とされることを知っている。ラスチニャックは妹からの手紙を開いた。その無邪気で優しい文章は彼の心を再び元気づけてくれた。
︿兄さん、あなたの手紙は結構いいタイミングで来たよ。アガサと私は、私達のお金を色々ある使い道の中で何を買ったらいいのか決められずにいたのよ。あなたはスペイン王の家来が主人の時計を逆戻りさせたように、私達二人とも文句のない結論に導いてくれたわ。本当に私達はそれぞれの好みに従って違うものを欲しがるものだから、いつも喧嘩になるのよ、そしてウージェーヌ、私達は私達の欲するものを誰よりもよく知っている人がいることに気がつかないでいたの。アガサは嬉しくて飛び上がったものよ。結局、私達は一日中二人とも気違いみたいだったらしいの、叔母さんの言によるとね、それでお母さんは何か怖い顔して言ったもんだわ。あなた達、一体どうしたの? ってね。もし私達がちょっと怒られたとしても、私達は多分それで余計に気持ちよくなれたと思う。女というものは愛するもののために苦しむことの中に多くの喜びを見出すものなの! 私だけに限れば、喜びの中で夢心地だったけど悲しくもあったの。私はきっと悪い妻になるわ、だって私は浪費し過ぎるもの。私はベルトを二本買っていた、そしてコルセットの紐孔をあけるための可愛らしい錐、その他くだらないもの、その結果、私はあのお金持ちのアガサに比べて少ししかお金がないの。アガサときたら、倹約家で小銭をまるでカササギのようにこつこつ貯めてるわ。彼女は二〇〇フラン持ってるのよ! 私はね、ねえ兄さん、私は三〇エキュ持ってるだけ。私は結構後悔してるのよ。私はベルトを井戸に投げ込んでやりたい気持ちよ、だって、これを着けるごとに私は辛い思いをするに決まってるんですもの。私はあなたから盗ったようなものよ。アガサはやっぱり素敵だわ。彼女は私に言ったの、三五〇フランを私達二人の分として送りましょう! ってね。
でも、私はあなたに何事もあるがままに話すことには耐えられなかった。あなたの要求に応えるために私達がどんなだったか、あなたが知ってくれたらねえ。私達は私達のピッカピカのお金を取り出した、私達は二人だけで散歩に出かけた、そして大きな通りへ出るや否や、リュフェの方へ駈け出した、そこに行くと私達はそっくり全額を王立運送会社を運営しているグランベール氏に渡しました! 帰り道の私達はまるでツバメのように晴れ晴れとした気持ちだった。これって幸福と呼べるのかもね? とアガサが私に言った。私達はすごく色々なことを話したけれど、あなたにそれを繰り返そうとは思わない、パリジャンさん、みんなあなたにとって、大変過ぎるくらいのことですものね。あー! 兄さん、私達はあなたがとても好き、この言葉に尽きるの。叔母さんの言によると、まだ少女だからって見逃されてるけど、私達は何をするか分からないって、それに黙ってられるので余計に有利だって。お母さんは叔母さんと一緒に秘密めかしてアングレームに出かけたの。そして二人とも、この旅行の高度に政治的目的については、沈黙を守っている。この旅行は長い時間相談の末、やっと決まったんだけど、私達はその会議から締め出されてた。男爵も同様よ。ラスチニャック国は、いまや猜疑心で満ち溢れている。モスリンの服には、王女達が陛下のために刺繍した透かしの花がちりばめられたわ。女王はそこから先、更に秘密めかして仕上げにかかっているわ。生地の残りは少なくて、もう色々とは作れない。作るといえば、ヴェルティーユ側[37]の土塀はやめて垣根を作ることになったの。私達民衆は果物や果樹棚を失うことになるけど、私達の垣根は向こうから来る人に対して結構綺麗に見えるんではないかしら。我が家の推定相続人が、ハンカチを欲しがってるようだけど、その望みは叶えられると思うわ。マルシャックの上流階級の老婦人が、彼女の財宝やトランクの中を探し回った時、ポンペイアとヘルキュラムのお導きがあったのかしら、彼女自身あるとは思ってなかったようなオランダ製のとても美しい布地を一枚見つけたの。そこで、皇女のアガサとロールは女王の命令に従って、糸と針、それにいつもならちょっと赤ぎれている彼女達の手を提供させてもらいました。二人の若き王子、ドン・アンリとドン・ガブリエルは、相変わらず悪い習慣が直らず、葡萄ジャムを大食いし、姉さん達を怒らせ、何も理解しようとせず、鳥を巣から取り出すのに夢中になったり、この国の法律に違反して騒ぎ立てたり、細いこん棒を作るために柳の木を切ったりしている。教皇大使、ま、普通に言えば主任司祭様だけど、彼は二人がいつまでも教則本の聖なる法規を放っておいて、中身のない遊びの法規に熱中するようなら、彼等を破門にすると脅すの。さようなら、兄さん、文字なんて決して沢山の願望を実現して、あなたを幸福に導くことなんかないわ、そして沢山の愛を満たすこともないわ。いつか兄さんがこちらへ来る時は、もっと沢山のことを私達に話してくださるわね! 兄さんは私には何でも話してくれるわ、だって私が年上の妹ですもの。叔母はあなたが社交界で成功を収めたことについては、私達を疑心暗鬼のままで放ったらかしてるの。
あの高貴な夫人の話はされるけれど
それ以外は何にも仰せでない[38]
私達には分かってる! ねえ、ウージェーヌ、なんなら私達はハンカチなしで過ごしたっていいし、あなたのシャツを作ってもいいのよ。このことについて早めに返事頂戴ね。もしあなたが直ぐに綺麗に仕立てられたワイシャツが要るのなら、私達は今から直ぐにそれに取り掛からなければならないわ。それから、パリのファションで私達の知らないことがあったら、私達にその見本を送ってね、特にカフスなどについてね。さよなら、さよなら! 私はあなたの額を左から抱きしめるわ、そのこめかみのところは私が独り占めにしてるんだから。後の手紙はアガサに譲るわ、、彼女は私があなたに書いたのは絶対読まないと約束してるの。だけどしっかり見届けたいので、私は彼女があなたに書いているそばにずっといる積り。
あなたを愛する妹 ロール・ド・ラスチニャック﹀
﹁おー! そうだとも﹂ウージェーヌは思った。﹁そうさ、何をおいても財産だ! 大金はたいても、これほどの献身には応えられない。僕は彼女達みんなをきっと幸福にしてみせる。一五五〇フラン!﹂彼は一呼吸おいて考えた。﹁一フラン、一フランがみんなの苦労の賜物だ! ロールの言うとおりだ、女性の視点だ! 僕は部厚い布地のシャツしか持ってないからな。男の幸福を願う若い娘というのは盗人並みに策を弄するものだな。自分のことには無頓着なくせに、僕のことになると実によく考え抜いて、彼女はまるで天空の天使のようだ、地上の罪悪がどんなに汚いかも知らずにそれを許してくれるあの天使だ﹂
社交界は今や彼のものだった! 既に仕立て屋は呼び出され、服を合わせ、すっかり彼に魅了されていた。ド・トライユ氏を見た時、ラスチニャックは若者の人生の上に仕立て屋が及ぼす影響というものを理解した。ああ! ここの両極の間には中間的存在はないのだ。仕立て屋とは、死を招きかねない敵か、あるいは請求書を受け取ることと引き換えに得られる友人か、そのどちらかなのだ。ウージェーヌは彼が行った仕立て屋で一人の職人に出会った。彼は仕事の中に人物を育て上げる意義を見出し、自分を若者の現在と未来をつなぐ一本の糸だとみなしたのだった。ラスチニャックもまたこの男に頼って運を切り開いたことを認めている。それも例によってあの﹁いずれ彼は出世する男だ﹂という言葉がものを言ったのだった。﹁僕は彼の仕立ててくれた二本のパンタロンのお陰で、それぞれ二万リーヴルの年金を持参金に持たせた二つの結婚をさせることが出来た﹂彼は後に振り返ってそう語っていた。
一五〇〇フランの現金と好きなだけ作れる服! この瞬間、貧しい南仏青年の心には一点何の曇りもなかった。彼は昼食のために下へ降りていったが、まとまった金を手に入れた若者が抱くあの訳の分からない浮き浮きした気分が彼を満たしていた。学生は金を手に入れた瞬間、彼は自身で途方もない柱を打ち立て、それに寄りかかっていた。彼は以前よりしっかり歩ける。何をやるにもしっかりした根拠を感じ取れた。彼は広い真っ直ぐな視野を持ち、彼の動きは人に影響を与えた。前日までの卑下して臆病だった彼なら虐めを受けていただろう。一夜明ければ、彼は相手が首相であろうと一撃を与えかねない存在となった。彼の中に途轍もない現象が起こったのだ。彼の望みは何でもかない、彼はでたらめに欲し、彼は陽気で気前がよく開放的だ。つい最近まで翼がなかったこの鳥はついに完全な翼を身につけたのだった。この学生はそれまでは金がなかったので、わずかばかりの楽しみをしゃぶることしか出来なかった。それはまるで犬が危険を冒してまで骨を盗むのに似ていた。彼はそれをがりがり噛んで、骨の髄までしゃぶって、また走り去る、そんな哀れな存在だった。いや全く、今やこの若者はポケットの中の束の間の金貨を動かしては喜びを味わっていた。彼は金貨を詳しく調べては悦に入り、天空でブランコでもしているような気分だった。彼は最早、悲惨という言葉がいかなるものを意味していたか理解出来なかった。パリは完全に彼の手の内に入った。何もかもが輝き、きらめき燃え上がる人生の一時期! 喜ばしさが力となって、誰もが人を利用したり、女を利用したりもしないあの一時期! 借金や人生の悩みすら、かえって楽しみを増大させてくれるあの一時期! まだセーヌ左岸に足しげく通うこともなく、サンジャック通からサンペール通[39]の間の学生街にいた彼はそもそも人生とはいかなるものかを知らなかった!﹁あー! パリの女達がここに僕がいるのを知っていればなあ!﹂ラスチニャックはヴォーケ夫人が出してくれる一個一リアルの焼き梨をほおばりながら思った。﹁今頃は彼女達が僕を愛してくれてるはずなんだが﹂この時、王立運送の配達員が格子戸の呼び鈴を鳴らしてから食堂に入ってきた。彼はウージェーヌ・ド・ラスチニャック様宛てに届いたものと告げて二個の包みを差し出し、署名してもらうための受け取りを一枚取り出した。ラスチニャックはその時、彼に向けられたヴォートランの見透かすような視線に、まるで鞭で打たれたような衝撃を受けた。
﹁あんたは武器の勉強や射撃のための講習に金を使わにゃならんな﹂この男は彼に言った。
﹁軍資金を積んだガリオン船が来たんだわ﹂ヴォーケ夫人が荷物を見ながら言った。
ミショノー嬢は自分の渇望を見透かされるのを恐れて、お金の袋に目を向けないようにしていた。
﹁貴方は良いお母様をお持ちなのね﹂クチュール夫人が言った。
﹁この方は良いお母様をお持ちだ﹂ポワレが繰り返した。
﹁そうだよ、お母さんは血の出るような金を出してくれたんだね﹂ヴォートランが言った。﹁あんたは当分、好き放題に遊べるわけだ。それで、社交界に出て、持参金付きの娘を見つけて、そしてまず第一に摘むべき花の伯爵夫人とダンスをする。だがな、兄さん、私のことを忘れちゃならんぞ、射撃の名手のことをな﹂
ヴォートランは敵を狙う人の恰好をして見せた。ラスチニャックは荷物配達人にチップをやりたくて、ポケットの中を探ったが一銭もなかった。ヴォートランが自分のポケットから二〇スーを取り出して配達人に投げてやった。
﹁あんたにはいい銀行が付いているよ﹂彼は学生を見ながら言った。
ラスチニャックは彼に礼を言わざるを得なかったが、とげとげしい言葉が交わされたあの日、つまりボーセアン夫人のところから戻ってきたあの時以来、この男は彼にとって我慢のならない存在となっていた。ウージェーヌとヴォートランは、同席した時は静かに相対していた。そして互いに観察し合っていた。学生は空しく自問自答していた。疑いもなく、思想はそれが理解される力に正比例して他人の上に自己投影する。そして今ヴォートランの思想は、まるで迫撃砲の発射の誘導計算の数学的法則にも比肩されるような正確無比の法則でもって、それを送り込まれた頭脳に強烈な印象を与えようとしていた。攻撃の多様さがまた効果的だった。たとえば一見穏やかなタイプの戦略がある。それは相手の内部に思想として留まり、やがて相手の心を内側から荒廃させる。またうって変わって、堅固な要塞に守られた頭脳を備えて厳しい対決姿勢を示すこともある。そんな時、相手の意志は分厚い城壁を前にした大砲の弾のように砕け落ちてしまう。まだある、ぶよぶよふわふわと掴みどころのない構えもある。それにかかると、相手の思想は角面堡の柔らかい土に吸い込まれた弾丸のように死んでしまうのだった。ラスチニャックはちょっとしたショックで爆発する火薬を詰め込んだような、そうした頭を持っていた。彼はまさに若い盛りだったので、こうした思想の投影や無意識裡に我々の心を掻き乱す多くの奇怪な現象を生み出す感情の伝染に対しては極めて抵抗力が弱かった。一方で天性の優れた眼力に恵まれていた彼は道徳的にはしっかりした見解を持ち続けていた。彼の中には相反する特性が存在し、それぞれが驚くべき許容範囲と柔軟性を持っていて、我々はフェンシングの上級者が胴鎧の総ての切れ目を巧みに捉えるのを見て感嘆させられるところのあの突きと引きの柔軟さを彼の中に見ることが出来るのだった。この一ヶ月来、ヴォートランは何かにつけてウージェーヌの失敗だけでなく性格についてまで盛んに論じていたのだ。彼の欠点について、社交界について、そして人々が彼に期待して増大してゆく欲求の達成具合について。彼の性格については、南フランス人特有の活発さが認められていた。それは困難なことも解決するために真っ直ぐに向かってゆく類のものであり、ロワール以北の人間が何かにつけて不確定な状態に留まっていたりするのを許せない、そういったものなのだった。その性格とは、北の人間からすれば欠点と呼びたいようなものなのだ。何故なら、北方人にとって、この性格が南仏出のミュラ[40]が富を築く原動力になったにせよ、それは一方でミュラに死を招く原因ともなったからである。このことから次のことが結論づけられるだろう。すなわち、南フランス人で北方人の狡猾さとロワール以南の大胆さを併せ持つことが出来るなら、その男こそ完璧で、スエーデン王[41]の地位をすら保つことが出来るだろう。ラスチニャックはこの男が一体、友なのかそれとも敵なのか分からないままで、ヴォートランから大砲のような砲火を浴び続けることには耐えられなかった。絶えずこの風変わりな人物は彼の情熱に入り込み、彼の心を読むように思えた。一方でヴォートランのことについては何もかも上手い具合に閉じられていて、彼は何か深みがあってぐらぐらしない、あの知恵者で総てを見て、それでいて何も語らないスフィンクスのように見えた。ポケットがいっぱいなのを触って確認して、ウージェーヌは反乱を起こした。
﹁貴方のお帰りを楽しみに待たせてもらいますよ﹂彼はヴォートランに言った。ヴォートランはコーヒーの最後の一飲みを味わってから出てゆこうとしているところだった。
﹁何故だね﹂四十男はそう聞き返し、縁の広い帽子をかぶり、鉄製の杖を手に取った。彼はそれを時々くるくる回していたが、まるで四人の強盗に襲われても平ちゃらという男のような仕草だった。
﹁僕は貴方からお借りしている金をお返ししたいんです﹂ラスチニャックが答えた。彼は一つの包みを素早くあけ、ヴォーケ夫人に一四〇フランを支払った。
﹁貸し借りなしが友情の素って言いますよね﹂彼は未亡人に言った。﹁僕は大晦日まではこれで支払い済みですからね。すいません、この百スーを細かくしてもらえませんか﹂
﹁友情の素とは貸し借りなしのことなり﹂ポワレがヴォートランを見ながら繰り返した。
﹁これ、さっきの二〇スーです﹂ラスチニャックは鬘をつけた謎めいた男にコインを一枚差し出した。
﹁あんたが私に何か借りを作るのを嫌がっているように見えるんだがな?﹂ヴォートランは若者の心を見透かすような視線を突き刺しながら叫んだ。彼のからかうような破廉恥な薄笑いは、これまでにも幾度もウージェーヌの腹立たしい気持ちを爆発させかけたものだった。
﹁まあ……そうですね﹂学生は答えると、二個の荷物を手に掴むと部屋に戻るべく立ち上がった。
ヴォートランはサロンへ続くドアから出て行った。学生は階段の昇り口へ行けるドアに向かおうとしていた。
﹁お分かりかな、ド・ラスチニャッコラマ侯爵殿、あんたが私に言ったことは実は無礼なんだよ﹂ヴォートランがその時、サロンのドアを烈しく叩きながら学生に近づいて言った。学生の方は冷然と彼を見つめた。
ラスチニャックは食堂のドアを閉め、ヴォートランと一緒に階段の昇り口の方へ歩いていった。食堂と台所を仕切る四角い空間には庭に向かって開け放たれたドアがあって、その上部は長い窓ガラスがはまっていて鉄製の格子で守られていた。そこに急に台所から現れたシルヴィの目の前で学生が言った。﹁ヴォートランさん、僕は侯爵ではありません。そして僕はラスチニャッコラマでもありません﹂
﹁あの人達けんかしてるわ﹂ミショノー嬢が無関心な様子で言った。
﹁けんかだ!﹂ポワレが繰り返した。
﹁そうじゃないでしょ﹂ヴォーケ夫人は銀貨を撫でながら言った。
﹁でもあの人達、あそこで菩提樹の下に歩いてゆくわ﹂ヴィクトリーヌ嬢が叫んで、庭を見るために立ち上がった。﹁可哀想に、あの若い方の方がやはり正しいわ﹂
﹁部屋に戻りましょ、あなた﹂クチュール夫人が言った。﹁あんなごたごたは見ないことよ﹂
クチュール夫人とヴィクトリーヌが立ち上がった時、彼女達は戸口で太ったシルヴィが通路を塞いでいるのにぶつかった。
﹁どうして行っちゃうんですか?﹂彼女が言った。﹁ヴォートランさんはウージェーヌさんにこう言ったんですよ。話し合おう!って。それから彼の腕を掴んで、それから二人はあそこまで歩いて、チョウセンアザミのところまで行ってるんですよ﹂
この時ヴォートランが現れた。﹁ヴォーケ夫人﹂彼は笑いながら言った。﹁何も心配しないで下さい。私は菩提樹の下でピストルの具合を確かめに行ったんですよ﹂
﹁おー! 貴方﹂手を合わせながらヴィクトリーヌが言った。﹁どうして貴方はウージェーヌさんを殺そうなんてお思いなんですか?﹂
ヴォートランは二歩ばかり後ずさりすると、ヴィクトリーヌをまじまじと見つめた。﹁物語は更に面白くなりそうですな﹂彼が冷やかすような声音で叫んだので、哀れな娘は顔を赤らめた。﹁彼は結構品が良い、そうだよな、あの若者はな?﹂彼は続けた。﹁貴女は私にあることを思いつかせたよ。私はあなた達二人に幸運を授けたいものだよ。可愛いお嬢さん﹂
クチュール夫人は生徒の手を取って引っ張って行きながら耳もとで言った。﹁まあ、ヴィクトリーヌ、今朝のあなたは本当にどうかしてるわね﹂
﹁この家でピストルを撃ったりしたら、あたしが承知しないからね﹂ヴォーケ夫人が言った。﹁ご近所さんを怖がらせたり、こんな時間に警察を呼ぶようなことをするんじゃないよ!﹂
﹁さあ静かに、ヴォーケ母さん﹂ヴォートランが答えた。﹁さあ、さあ、そうっと、射撃場に行こう﹂彼はラスチニャックの傍に行き、親しげに腕を掴んだ。
﹁私があんたに、三十五歩離れたところから撃っても、五回続けてスペードのエースを撃ち抜けることを証明して見せたところで﹂彼が言った。﹁それによって、あんたが怖気づくことはあるまい。あんたは私に対していくらか怒りっぽくなっているようだが、それではあんたは馬鹿な奴等と同じように自殺行為をしてしまうことになるんだぜ﹂
﹁貴方は尻込みしてるんだ﹂ウージェーヌが言った。
﹁私をかっかさせるな﹂ヴォートランが答えた。﹁今朝は荒れてるんだ、あそこへ行って座ろうぜ﹂彼は緑色の椅子に座りながら言った。﹁ここなら誰にも聞こえない。私はあんたに話があるんだ。あんたは感じのよい若者だ、私は喧嘩したくないんだ。私はあんたが好きだ、不死の誓い……じゃねえ! ヴォートランの誓いさ。何故あんたを私が好くか、それを話そうじゃないか。今あんたを待ちうけながら、私はあんたのことを、まるで自分がこさえたかのように、すっかり分かってしまったんだ。それはこれから証明しよう。あんたの袋をあそこに置くといいよ﹂彼は丸テーブルを指し示しながら言った。
ラスチニャックは自分のお宝をテーブルの上に置くと、好奇心に捕らわれて坐った。、彼を殺すと言った後、まるで彼の保護者のように振舞うこの男の態度の中で、突然起こった変化が、彼の心を好奇心でいっぱいにした。
﹁あんたは私が何者なのか、私が何をしてきたのか、または私が何をしているのか、結構知りたがっているんじゃないかな﹂ヴォートランが切り出した。﹁あんたはちょっと知りたがり過ぎるんだよな、まあいい、落ち着こうぜ。あんたは他人のことに首を突っ込み過ぎだぜ! さて私の話はこれからだ。まず聞いてくれ、あんたの言い分はそれからだ。さあ、私のこれまでの人生はほんの数語で言い表せる。私は誰だ? ヴォートラン。私は何をしているか? 好きなことをしている。言うほどのことはない。私の性格をあんたは知りたいかね? 私は自分の味方になる人、あるいは私の心に何か語りかけてくれる人に対しては良い人間だ。そういう人達には、どんなことだって許してしまうんだ。その人達は、私のことを足が折れるくらいに思いっきり蹴ることだって出来るんだ。それでも私はその人達に、﹃覚えてろよ!﹄﹃けしからん畜生め!﹄なんてことは言わない。私は私を悩ませるような奴等や私の気に入らない奴等には、まるで悪魔のように意地悪なんだ。だから、あんたが、この男はいつだって人一人をこんな具合に簡単に殺してしまう恐れがあるということを知っておくのもいいだろう!﹂そう言うと彼は唾を吐いた。﹁私は唯、どうしても必要とあれば、邪魔者はきちんと消そうと、全力をあげるだけだよ。私はあんた達の言うところの芸術家のようなものだ。私はベンヴヌト・セリーニ[42]の回想録を読んだよ。あんたも私にぴったりの本だと思うだろう、しかもイタリア語なんだよ!私はあの男がすごいお調子者で神を模倣していることを理解したんだ。神とは我々をでたらめに殺すかと思えば、美が存在するならば、どこであろうとそれを愛されるんだ。それならばだ、たった一人であらゆる人間と対立しながらも幸運を掴む、これ以上賭けるに値する勝負があるだろうか? 私はあんた達の混乱した社会を現実的に立て直すことも、よく考えたものだよ。なあ、決闘なんてのは、子供染みた遊びだ、下らんよ。二人の男がいれば、どちらか一人は消えてゆかにゃならん。それを偶然に任せてしまうのは馬鹿らしい。決闘するか? 表か裏か? ほらね、二つに一つの割に合わん勝負だ。私は五発の弾丸をぶっ続けでスペードのエースに命中させてやる。撃ち込んだ弾丸の上に新しい弾丸を撃ち込む、しかも三十五歩離れたところからだぜ! もしこの才能に恵まれていると、我々は相手の男に勝てるとうぬぼれてしまう。ところがどっこい! 私は相手に二十歩まで近づいたんだよ、で、私は失敗した。相手は生まれてから一度もピストルを使ったことがなかった。いいかね!﹂この不思議な男はそう言うと驚いたことにチョッキを脱ぎ、熊の背中のように胸毛の生えた胸をむき出したが、その黄褐色の毛に覆われたものは恐怖と入り混じった不快感を催させた。﹁その青二才は私の体毛まで焦がしちまったんだ﹂彼はラスチニャックの指を自分の胸のところにある穴の上に置きながら付け加えた。
﹁だが、そのときの私はまだ子供だった、今のあんたの年頃だった、二十一歳だったな。私もやっぱりいろんなことを考えていた、女への愛だとか、色々なくだらないことだ、あんたがまさにその混乱に巻き込まれようとしていることどもだ。私達は戦おうと言ってたんじゃなかったのか? あんたが私を殺したっておかしくないんだ。ちょっと考えてみろよ。私が墓に埋められる、それであんたはどうなる? ずらからなきゃならん、スイスへ行くか、パパの金を食いつぶすか、ところがパパは殆ど金がないときてる。よく考えろよ、私があんたの今いる立場を明らかにしてやる。しかし、私がやろうとしているのは、優越した人間としての選択だ。私はこの世の様々な経験を積んだ後、自らが進む道は、たった二つしかないという見解を持つに至ったんだ。すなわち、盲目的従属か、または革命だ。私は誰にも従わない、はっきりしてるだろ? あんたはどうすべきか、もうご存知かな、自分に従うか、何処かの群れに向かうか? 一〇〇万、しかも手っ取り早く欲しい。それが駄目なら、我々の貧しい思考力では万事休すだ。セーヌ川に飛び込んで土佐衛門になってサン・クルーに張った網[43]に引っかかるくらいがおちだ。ところでこの一〇〇万だが、私はあんたにあげてもいいんだぜ﹂彼はウージェーヌを見つめて一呼吸おいた。﹁あー! あんたはこの優しいパパ・ヴォートランに、ちっとは愛想良くしなくっちゃ。今の言葉を聞いたあんたの様子は、若い娘が﹃じゃあ、今晩に﹄と言われた時のようだったぜ。で、その娘は身づくろいをして、ミルクを飲んだ猫のように舌なめずりするんだ。幸運あれ。さてと! 我々二人組の今後だ! まずは、あんたの財政だ、若者のな。我々は田舎にパパ、ママ、大叔母、二人の妹︵十八歳と十七歳だ︶、二人の弟︵十五歳と十歳︶が待っている。さあこの乗組員の点検だ。叔母さんは妹達の教育をした。牧師が二人の弟にラテン語を教えてきた。家では白パンより、茹で栗を良く食べ、パパは半ズボンを大事に使っているし、ママは冬服と夏服をやっと一着ずつ持っているし、妹達は自分で縫えるものは自分で作っている。私は何でも知っている、南フランスにいたことがあるんでな。あんたの田舎の状況はそんなところだ。勿論皆があんたに毎年一二〇〇フランの仕送りをして、小さな地所からの収穫は三〇〇〇フランにも満たないことを考慮しての話だ。この田舎の家は料理女一人と下僕一人を抱えている。我々は体裁は重んじなければならん、パパは男爵だからな。一方、こちらはどうかと言えば、我々は野心に燃えている。我々にはしっかり繋ぎとめておきたいボーセアン家がある、が、我々はそこへ歩いて行っている。我々は金が欲しいが、びた一文もない。我々はヴォーケ・ママのごった煮を食べているが、我々はフォーブール・サン・ジェルマンの豪華な晩餐を愛している。我々は粗末なベッドに寝ながら豪壮な邸宅を夢見ている! 私はあんたの野望を非難しない。野心を持つことは良いことだ、が、ねえ君、誰もがそんな風になれるもんじゃない。女達に、どんな男が良いか聞いてみろ、野心家だって言うだろうよ。野心家は他の男達よりもずっと腰が強く、血は鉄分が多く、心は熱いという。そして女というのは、自分が男に強い影響を与えていると感じる時に、とても幸福で綺麗でいられるらしいのだ。だから女は途轍もない力を持つ男を好むようになる。たとえその男に自分が壊されてしまうような危険を冒してもだ。私はあんたの欲望というやつを十分に調べた。その上で、あんたに質問したいことがある。その質問というのはこれだ。我々は飢えた狼だ。我々の子供達の歯も鋭い。さあどうやって、家族に鍋いっぱいの食糧を供給するかだ?
我々はまず初めに、食ってゆくためには法と取り組まねばならない。これは楽しいことではないし、また、これを知ったところでどうってこともない。しかし、どうしても法を我々に有利なように使わねばならん。そう、重罪裁判所の裁判長に我々の誰かがならねばならんということだ。そのためには、その男はまず弁護士にならねばならない。誰が良いか。肩に前科の焼印を押されている私よりも、ずっと有能な青二才のあんたをそこに連れてくるのさ。それでもって、金持ち連に枕を高くして眠れますよって、安心してもらうんだ。このあんたの役割は結構辛いし、おまけに長い時間がかかる。あんたはまず二年間パリで時期が来るのを待つ。その間、我々の大好きな甘いお菓子は見るだけだ、触っちゃいかんぞ。決して満たされることもなく、いつも欲望し続けることは、とても疲れることだ。あんたが、それほど血の気がなくて、草食系の男の子だったら何も心配することはない。しかし我々はライオンのように血気盛んで、毎日二十回くらいは馬鹿げたことをやらかしている。あんたのような者にとって、この苦しみには負けてしまうかもしれん。糞ったれの地獄で我々が味わう以上に恐ろしいものだろうぜ。まあ、あんたが賢明にも、牛乳でも飲んで、エレジーでも口ずさんで、耐えてくれるように願っておこう。あんたは寛大な人間だが、さすがにこれだけの退屈と喪失感で狂犬のようになってしまっては、司法関係に進むことにはもはや迷いはない。市の検事局に欠員でも出来たら、あんたは検事代理にでも、もぐり込んでしまうんだ。そうすると政府は給与として一〇〇〇フランをよこしてくれる。まあ、肉屋の番犬に肉汁スープをくれてやるようなもんだ。だから、泥棒の背中には、吼えまくってやろう、金持ちのために弁舌しよう、真心のある奴なんてギロチン送りだ。自分にとってまずいことは忘れちまえ! もしあんたが後ろ盾を見つけられない時は、自分の田舎の裁判所に行っちまってもいいんだ。三十歳頃には、まだ法服を捨てていなければ、あんたは、年に一二〇〇フラン稼ぐ判事になっているだろう。あんたが四十代に達する頃には、あんたは製粉業者とかの娘と結婚してるだろう。六千リーヴルくらいの年金持参の金持ちの娘だ。ありがたいこった。一方、検事になりたくて立派な後ろ盾まで見つけた場合は、あんたは三十歳で王立裁判所の検事で一〇〇〇エキュの給料をとっている。そして市長の娘と結婚している。もしあんたが、たとえば新聞が伝えるところの、マニュアルに代わってヴィエール[44]がやろうっていうような、こせこせした下劣な政治にちょっと関わってやろうと言うんだったら、︵それも悪くない、ほんの一時ばかり新味は出せるだろう︶、何にしてもあんたは四十歳で検事総長だ、そして代議士への道が拓けている。だが心得とけよ、兄さん、我々はちっぽけな良心に汚点を残すことになるだろう。我々は二十年もの間、悩ましい惨めな秘密を抱き、我々の妹達は二十五歳までは結婚出来ないのだ。私は謹んで、あんたに更にまだ知って欲しい事があると言わせてもらう。それはフランスに検事総長というのはたった二十人しかいないということ、そしてあんたのようにその地位を目指している階層には二万人がいること、中には不心得者がいて、その階層から抜け出して出世するためには家族をすら売ったりするのだ。そんなやり方は嫌だと思うんだったら、他のやり方も考えにゃならん。ラスチニャック男爵、弁護士になることがお望みかな? おー! ご立派。十年は苦しまねばならん。毎月一〇〇〇フラン使って、図書室を備え、事務室を持ち、社交界にも出て、訴訟案件をもらうためには、代訴人の服に口づけをして、そいつの邸は舌でなめて掃除せにゃならん。あんたがこうしたやり方をちゃんと出来るなら、私もこれを駄目だとは言わん。だがな、五十歳で年収五万フラン以上という弁護士をパリで五人も見つけられるかね? だめだろ! 良識に従って小っちゃい人間で終わるくらいなら、私はむしろ海賊にでもなった方がましだと思うぜ。第一に、どこでまとまった金を儲けられるってんだ? 気楽な商売ってないもんだな。
だが私達には女の持参金という資金源があるんだ。結婚したいとは思わんかね? それはあんたには重い岩のような首枷になるだろうな。それに、あんたが金目的の結婚をしたとなると、我々の誇り高い感情は、我々の高貴な気持ちは一体どうなる! この人間社会の慣習に対して、今日にもあんたの反乱を起こしたらいいんだ。世にはびこっているのは、女の目の前で蛇のようにとぐろを巻いたり、姑の足をなめたり、雌豚にすら嫌悪感を起こさせるような卑劣な行為ばかりじゃないか。吐き気がする! だから、あんたが慣習に背いて、少なくとも幸せならそれもいい。しかし、あんたはやがて君の論理で選んだ女と一緒にどぶの底に沈んでいる自分に気がつくだろう。そんなところで女房と喧嘩しているくらいなら、広い世界で男達と戦いたいもんだ。さあ人生の岐路だ。兄さん、道を選ぶんだ。あんたは既に選んでるんだな。あんたは我等の従姉ボーセアン夫人を訪ねたんだった。そして、あんたはそこで贅沢の香りをかいだ。あんたはレストー夫人のところへも行った。ゴリオ爺さんの娘の家だ。そして、あんたはそこでパリジェンヌの香りをかいだ。あの日、戻ってきた時、あんたの顔にはある言葉が書かれていた。で、私はその言葉をはっきり読み取れたよ。﹃出世するんだ!﹄ってな。何をおいても出世する。すごいぞ! 私はその時、思ったもんだ。逞しい奴に出会ったなあってな。あんたはこれから金が必要になる。どこでそれを調達する? あんたは妹達に大分犠牲を強いた。男というのは、皆多かれ少なかれ、妹達を騙すもんだよ。彼女達から巻き上げた一五〇〇フラン、神もご照覧あれ! それは一〇〇スーよりも、栗の実を見つける方が遥かに簡単な田舎で集めたものだが、兵隊さんに与えられるのかと思いきや、やくざな兄の手に渡ってしまうのだ。それで、あんたは何をするのかね? あんたは働くのかね? 仕事は、今まさにあんたが考えているようなものも含めて、ある程度の稼ぎは保証してくれる。あんたはそれで、老後にはヴォーケ・ママのところで、ポワレのおっさんの隣くらいにアパルトマンを持てるくらいの蓄えは出来るだろう。早急に財産を作るということは、ちょうど今のあんたのような立場にいる五万人からの若者が、今すぐに何とかしたいと必死になっている問題でもあるわけだ。あんたはこの大勢の中の一人なんだ。あんたが行った努力や闘いに熱中したことを考えてみよう。あんた達は鍋の中に入った蜘蛛のように、交代々々で餌を食べなきゃならんのだ、何故なら五万も良い餌のある場所なんてないからだ。この世で私達がどれだけ苦労して道を拓くかはお分かりだろう? 天才のひらめきか、それとも抜け目なく贈収賄の手でゆくか。とにかくこの人間の集団の中へ入りこまにゃならん、大砲の弾のようにぶち込まれるか、あるいはペスト菌のように滑り込むかだ。正直さなどは何の役にも立たん。人々は天才のやることには従うものだ、人々はそれを憎む、人々はそれを中傷する、何故なら人々はそれを受け入れても分け前に預かることは出来ないからだ。だが、ねばるやつには従うものだ。要するに、泥の下に葬り去ることが出来ない人間の前には皆が膝まづいて愛するものなんだ。贈収賄は大勢を占めている。才能なんてのは稀にしか見られない。だから、贈収賄は世の中にいっぱいいる凡庸な人間にとっては武器となるものだ。そして、あんたもそのことは至るところで嫌というほど感じてるだろう。あんたは、その夫が六千フランの給料をもらっていて、それらは全部食費に消えるというような家庭の主婦が、自分の化粧代に一万フラン以上も使っている、そういう女を何人か見ただろう。あんたは一二〇〇フランの給料の勤め人が堂々と土地を買うのを見るだろう。あんたはフランスの国務大臣の息子の馬車に乗ってロンシャンの中央大通りを走りたくて売春をする女を何人か見るだろう。あんたはあの哀れなお馬鹿のゴリオ爺さんが自分の娘が裏書した為替手形を買い取る破目に追い込まれるのを見ただろう。ところがあの娘の夫は年利五万リーヴルの年金を持ってるんだ。私はあんたに言っておくが、このパリでは地獄のような策謀がめぐらされていて、そんなものにぶつからないでは一歩だって歩けはしないんだ。あんたが生まれて始めて惚れ込む女が出てくるとしよう、その女は金持ちで綺麗で、しかもぴちぴちに若いときている、もう言うことなしだ。そこで私は私の首を賭けてもいいが、こう断言しておこう。あんたがその女と過ごす楽しいはずの家庭は何とスズメバチの巣のような鬱陶しい所なんだ。彼女は何かにつけて規則々々のがんじがらめの理屈を捏ねて夫とは喧嘩ばかりしているってわけだ。私は必要なら、もっと話したっていいんだぜ。愛人、装身具、子供、家政、あるいは虚栄心のための不正取引に関する様々な講義だ。そこには善は殆どない。それは保証してもいい。もうひとついえば、実直な男というのは、一般的に敵になってしまうもんだ。だが、あんたは実直な男とはどんなものと考えるかね? パリでは、実直な男とは、黙っていて仕事の分担を拒絶する、そういうやつのことなんだ。私はあんたに、決して労苦に報われることもなかったのに、至る所で仕事をこなしたと言われている、あの哀れなスパルタの奴隷のことや、神の敬虔な信徒団体を指して言ってるわけではない。確かに彼等は悪徳の中に咲くわずかばかりの善の花だろうけれど、惨めなものだ。私はこの善良な人々の中にさえ繕った表情を見てきた。それはまるで神が最後の審判を欠席するという悪い冗談を我々にやって見せているような気がしたもんだよ。だから、あんたが手っ取り早く金持ちになりたいんだったら、既に金持ちであるか、金持ちに見えるかしなけりゃならんのだ。金持ちになるには、ここで一発大きなことをやってみることだ。それとも、株で日計り商いをやるか、小生がその口だがな。仮にあんたが百の職業を選んだとする、十人の男が早々と成功する、ところがその連中は泥棒をやったお陰で成功出来ただけなんだ。なあ、あんたの決意をしろよ。人生とはこんなもんだよ。それは台所より綺麗だとは言えない、それは台所と同じように臭い。もし不正取引を持ちかけられたら、自らの手を汚す事だって避けられない。ただ自分の手を綺麗に洗うように心得ておくことだ。それが我々の時代の道徳のすべてさ。もし私に社交界のことまで語らせたいなら、それもやってやるぜ、私は社交界のことも知ってるんだからな。あんたは、私がそれを非難すると考えてるんじゃないかな? 全然だよ。どこだって同じなんだよ。道徳家なんて決して何も変えられないんだ。人間とは不完全なものだ。人間は時によって、大なり小なり偽善者になるんだ。で、馬鹿なやつが、いちいち、あの人は品性があるとかないとか言うわけだ。私は大衆が好んでやるようには金持ちを非難しはしない。人間は身分が高かろうと低かろうと、中位だろうと、同じ人間だ。この人間の群れの百万人に十人くらいは調子のいい人間がいて[45]、そいつ等は自分のことを、何物にも縛られない偉いやつだと思っている。法律にも縛られないんだとな。実は私もそういう人間なんだよ。あんたは、もしあんたが優れた人材なら、直線距離を進むんだ、そして頂上を目指すんだ。だが、当然闘いがある、妬み、中傷、凡庸な連中、そして世間との闘いだ。ナポレオンはオーブリー[46]という軍事閣僚と対立したことがあるが、この男は危うくナポレオンを植民地送りにしかかったんだ。よく自分の気持ちを探ることだな! 毎朝起きるごとに前日よりずっと強い意志を持てるようになってるかどうか、よく考えてみな。
あんたの決意が固まるようなら、私はあんたに一つの提案をする積りだ。誰だって拒まないような提案をな。よく聞くんだ。私、よく見ろ、私はある考えを持っている。私の考えとは、広い領地の中で族長のような生活をやってゆきたいというものだ。十万アルペンの広さだな、まあ言ってみればな、アメリカの南部でな。私はそこで大農園を経営したいんだ。奴隷[47]を使って、私の牛乳、煙草、飲料を売って、上手い具合に百万やそこいらを稼ぐ、まるで君主のように生き、自分の思い通りのことをする、このパリなどでは誰も想像出来ないような生涯をたどるのだ。ところがここでは誰もが漆喰の壁の穴の中に引きこもっている。私は大詩人なんだ。私の詩、私はそれを書くことはしない。私の詩とは行動そのものと感情そのもので出来ているんだ。今現在、私は五万フランの金を持っているが、これではせいぜい四十人くらいの奴隷しか買えない。私には二〇万フランの金が必要なんだ、というのは私の族長的生活という趣味を満足させるためには、二〇〇人の奴隷を買いたいと思ってるんだ。黒ん坊、あんた見たことあるかね? これは育ち盛りの子供でね、だから思い通りの型に作り上げることが出来る。そして王立裁判所の検事が来て、あれやこれやと訊かれる心配もないというわけだ。この不法な稼ぎで、十年もすれば私は三、四百万フランの金を持つことになるだろう。私が成功すると、もう誰も私に向かってこう尋ねることはないだろう。﹃君は誰だ?﹄なんてね。私は︿四百万殿﹀だ、アメリカ合衆国民だ。私は五十歳になっているだろう、私はまだぼろぼろにはなっていなくて、私は自分の生活スタイルを楽しんでいることだろう。ふむ、ここであんたに頼みがある。もし私があんたに百万の持参金を手に入れさせてやるなら、私には二〇万フランの金を贈ってくれんもんかね? 二〇パーセントの手数料、だろ! これ高過ぎると思うかね? あんたには百万フランの持参金、私には二〇万フランの資本金だ。
あんたは可愛い奥さんに愛してもらうご身分になるんだ。いったん結婚すると、あんたは心配事とか後悔とかを並べ立てて、十五日間というものはすっかり悲しみに沈んでしまうんだ。ある晩、何となく難しい顔つきをして、あんたは二度のキスの合間に、二〇万フランの借金を申告をする、無論﹃君が大好きだ!﹄と言いつづけるんだぞ。この手の喜劇は毎日のように選りすぐりの若者達の間で演じられているんだ。若い女性というものは、彼女の心を掴んだ男の希望に対して、彼女の財布を拒絶したりはしないものだよ。あんたが失敗すると思うか? それはない。そしてあんたは表向きすってしまったあんたの二〇万フランを取り戻す方法を見つけ出すんだ。更にあんたの金とあんたの才覚でもって財を積み上げてゆく、それはあんたが彼女に約束した額をもかなり上回ってゆくことだろう。この作業にあんたは六ヶ月という時間をかけ、ついに幸運をつかむ。それは同時にあんたの可愛い奥さんの幸福であり、パパ・ヴォートランの幸せでもある。あんたの故郷の家族の幸せでもあることは言うまでもない、彼等は薪すら買えず、冬には相変わらず指に息を吹きかけながら震えていることだろう。私があんたに提示したことにも、私があんたに要求したことにも驚くなよ! パリで挙げられた美しい結婚式が六〇あるとすると、そのうちの四七は似たり寄ったりの商取引のきっかけとなっているんだ。公証人事務所がムッシューに強制して……﹂
﹁僕がやるべきことは何ですか?﹂ラスチニャックは我慢出来なくなって、ヴォートランを遮って言った。
﹁ほとんど何もない﹂答えながらこの男は釣り糸の先に魚を感じた釣り人が微かに表すのに似た喜びの表情を漏らした。﹁いいか、よく聞くんだ! 不幸せで惨めな哀れな娘の心はそこを愛で満たすことに飢え切ったスポンジのようなものなんだ。乾き切ったスポンジは僅かな感情をそこに落とすだけで、すぐさま膨れ上がるのさ。孤独と絶望に沈んでいる若い女に言い寄るんだ、しかもその娘はいかにも貧しげなんだが、やがて財産が手に入ることに気付いていない! 馬鹿なこった! それはストレート・フラッシュを手の内に持ってるってこと、宝くじの当たり番号を知ってるってこと、インサイダー情報を知っていて株に投機するってことだ。あんたは基礎杭の上に壊れようもない結婚を打ち立てるんだ。この娘には何百万という金が集まってくる。彼女はそれを小石か何かのように、あんたの足元に投げ出してくれる。﹃さあこれを取って、貴方! 取って、アドルフ! アルフレッド! 取って、ウージェーヌ!﹄彼女はこう言うだろう、何故ならアドルフ、アルフレッド、あるいはウージェーヌが彼女に対して賢明にも犠牲的に尽くしてきたことを知っているからだ。ここで私が犠牲と言うのは、例えばレストラン・カドランブルー[48]に彼女とキノコ料理を食べに行くために古着を一着売り払うといったようなことだ。そして、その夜は、そこからアンビキュ・コミック劇場[49]だ。そして彼女にショールを買ってやるためにすることは時計を質に入れることだ。私があんたに愛情を走り書きしてみたり、女を喜ばすための小細工をつべこべ言う必要はなさそうだな。まあ、彼女が遠くにいる時なんぞに、手紙に涙をこぼしたように見せかけるために水の雫をたらしてみるといったことだが、あんたは心の中の隠語を十分に心得ているように見えるのでな。だが、ご存知かな、パリはまるで新世界アメリカの密林と同じようなものなんだ。そこでは野蛮人が二十もの小部族、イリノイ族とかヒューロン族がそれぞれ違った型の狩猟社会を作って生活しているわけだ。あんたは百万フランの狩人ってところだな。捕獲のためには、あんたはトリック、鳥笛、おとりを使うんだ。狩猟には色々なやり方がある。ある種の狩人は持参金狙いだ。また別の狩人は資産整理のチャンスを窺っている。こちらでは選挙人の票を買い、あちらでは手も足も出ない状態で新聞社が最高入札者に売り払われる。獲物袋をいっぱいにして帰ってきた狩人は迎えられ祝福され、良い仲間に受け入れられる。あんたを歓待してくれる土地を正しく評価することによって、あんたは世界中でもどこよりもあんたに好意的なこの町と深く関わってゆくことになる。例えヨーロッパの総ての資本家や高慢ちきな貴族階級が、下品な百万長者を彼らの仲間に加えることを拒否したとしても、パリはその男に手を差し伸べ、彼のパーティには駆けつけ、彼のディナーを食べ、そして彼の恥辱にさえ乾杯するんだ。﹂
﹁だけど、何処でそんな娘を見つけるんですか?﹂ウージェーヌが尋ねた。
﹁彼女はあんたのいるところ、直ぐ目の前にいる!﹂
﹁ヴィクトリーヌ嬢?﹂
﹁その通り!﹂
﹁えっ! どうして?﹂
﹁彼女はもうあんたに惚れとるよ、あんたの可愛いラスチニャック男爵夫人だ!﹂
︵つづく︶
底本‥“Le Pere Goriot”
原作者‥Honore de Balzac(1799-1850)
上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者‥中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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