序
これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両りょ膝うひざをかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、︵鉄てつ格ごう子しをはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫かしの木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。︶院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりはしなかったわけではない。彼はたとえば﹁驚いた﹂と言う時には急に顔をのけぞらせたりした。…… 僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い第二十三号はまず丁てい寧ねいに頭を下げ、蒲ふと団んのない椅い子すを指さすであろう。それから憂ゆう鬱うつな微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。最後に、――僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳げん骨こつをふりまわしながら、だれにでもこう怒ど鳴なりつけるであろう。――﹁出て行け! この悪党めが! 貴様も莫ば迦かな、嫉しっ妬と深い、猥わい褻せつな、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!﹂一
三年前まえの夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上かみ高こう地ちの温泉宿やどから穂ほた高かや山まへ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓あず川さがわをさかのぼるほかはありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍やりヶ岳たけにも登っていましたから、朝霧の下おりた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景けし色きは見えません。のみならずかえって深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後のち、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。﹁ええ、いっそ登ってしまえ。﹂――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊くま笹ざさの中を分けてゆきました。 しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛ぶ生な欅や樅もみの枝が青あおと葉を垂たらしたのも見えなかったわけではありません。それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛もう々もうとした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧にぬれ透とおった登山服や毛布なども並みたいていの重さではありません。僕はとうとう我がを折りましたから、岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へ下おりることにしました。 僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐かんを切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。その間あいだにどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時どけ計いをのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円まるい腕時計の硝ガラ子スの上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河かっ童ぱというものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画えにあるとおりの河童が一匹、片手は白しら樺かばの幹を抱かかえ、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。 僕は呆あっ気けにとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。僕はいよいよ驚きながら、熊くま笹ざさの中を見まわしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔たった向こうに僕を振り返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかし僕に意外だったのは河童の体からだの色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり緑いろに変わっているのです。僕は﹁畜生!﹂とおお声をあげ、もう一度河かっ童ぱへ飛びかかりました。河童が逃げ出したのはもちろんです。それから僕は三十分ばかり、熊くま笹ざさを突きぬけ、岩を飛び越え、遮しゃ二に無む二に河童を追いつづけました。 河童もまた足の早いことは決して猿さるなどに劣りません。僕は夢中になって追いかける間あいだに何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらして転ころがったこともたびたびです。が、大きい橡とちの木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往ゆく先へ立ちふさがりました。しかもそれは角つのの太い、目を血走らせた牡おう牛しなのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。僕は、――僕も﹁しめた﹂と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。僕は滑なめらかな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、たちまち深い闇やみの中へまっさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途とほ方うもないことを考えるものです。僕は﹁あっ﹂と思う拍子にあの上かみ高こう地ちの温泉宿のそばに﹁河かっ童ぱば橋し﹂という橋があるのを思い出しました。それから、――それから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲いな妻ずまに似たものを感じたぎり、いつの間まにか正しょ気うきを失っていました。二
そのうちにやっと気がついてみると、僕は仰あお向むけに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。のみならず太い嘴くちばしの上に鼻はな目めが金ねをかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に﹁静かに﹂という手て真ま似ねをし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担たん架かを持って歩いてきました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。僕の両側に並んでいる町は少しも銀座通りと違いありません。やはり毛ぶ生な欅の並み木のかげにいろいろの店が日ひ除よけを並べ、そのまた並み木にはさまれた道を自動車が何台も走っているのです。 やがて僕を載せた担架は細い横よこ町ちょうを曲ったと思うと、ある家うちの中へかつぎこまれました。それは後のちに知ったところによれば、あの鼻目金をかけた河童の家、――チャックという医者の家だったのです。チャックは僕を小ぎれいなベッドの上へ寝かせました。それから何か透明な水みず薬ぐすりを一杯飲ませました。僕はベッドの上に横たわったなり、チャックのするままになっていました。実際また僕の体からだはろくに身動きもできないほど、節ふし々ぶしが痛んでいたのですから。 チャックは一日に二三度は必ず僕を診察にきました。また三日に一度ぐらいは僕の最初に見かけた河童、――バッグという漁りょ夫うしも尋ねてきました。河童は我々人間が河童のことを知っているよりもはるかに人間のことを知っています。それは我々人間が河童を捕獲することよりもずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は僕の前にもたびたび河童の国へ来ているのです。のみならず一生河童の国に住んでいたものも多かったのです。なぜと言ってごらんなさい。僕らはただ河かっ童ぱではない、人間であるという特権のために働かずに食っていられるのです。現にバッグの話によれば、ある若い道路工こう夫ふなどはやはり偶然この国へ来た後のち、雌めすの河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。もっともそのまた雌の河童はこの国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも妙をきわめていたということです。 僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、﹁特別保護住民﹂としてチャックの隣に住むことになりました。僕の家うちは小さい割にいかにも瀟しょ洒うしゃとできあがっていました。もちろんこの国の文明は我々人間の国の文明――少なくとも日本の文明などとあまり大差はありません。往来に面した客間の隅すみには小さいピアノが一台あり、それからまた壁には額がく縁ぶちへ入れたエッティングなども懸かかっていました。ただ肝かん腎じんの家をはじめ、テエブルや椅い子すの寸法も河童の身長に合わせてありますから、子どもの部へ屋やに入れられたようにそれだけは不便に思いました。 僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックやバッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼らばかりではありません。特別保護住民だった僕にだれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざチャックを呼び寄せるゲエルという硝ガラ子ス会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあのバッグという漁りょ夫うしだったのです。 ある生なま暖あたたかい日の暮れです。僕はこの部屋のテエブルを中に漁夫のバッグと向かい合っていました。するとバッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくしてじっと僕を見つめました。僕はもちろん妙に思いましたから、﹁Quax, Bag, quo quel, quan?﹂と言いました。これは日本語に翻訳すれば、﹁おい、バッグ、どうしたんだ﹂ということです。が、バッグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうど蛙かえるの跳はねるように飛びかかる気けし色きさえ示しました。僕はいよいよ無気味になり、そっと椅い子すから立ち上がると、一いっ足そく飛びに戸口へ飛び出そうとしました。ちょうどそこへ顔を出したのは幸いにも医者のチャックです。 ﹁こら、バッグ、何をしているのだ?﹂ チャックは鼻はな目めが金ねをかけたまま、こういうバッグ﹇#﹁バッグ﹂は底本では﹁バック﹂﹈をにらみつけました。するとバッグは恐れいったとみえ、何度も頭へ手をやりながら、こう言ってチャックにあやまるのです。 ﹁どうもまことに相あいすみません。実はこの旦だん那なの気味悪がるのがおもしろかったものですから、つい調子に乗って悪いた戯ずらをしたのです。どうか旦那も堪かん忍にんしてください。﹂三
僕はこの先を話す前にちょっと河童というものを説明しておかなければなりません。河童はいまだに実在するかどうかも疑問になっている動物です。が、それは僕自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はないはずです。ではまたどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に水みず掻かきのついていることも﹁水すい虎ここ考うり略ゃく﹂などに出ているのと著しい違いはありません。身長もざっと一メエトルを越えるか越えぬくらいでしょう。体重は医者のチャックによれば、二十ポンドから三十ポンドまで、――まれには五十何ポンドぐらいの大おお河かっ童ぱもいると言っていました。それから頭のまん中には楕だえ円んけ形いの皿さらがあり、そのまた皿は年齢により、だんだん固かたさを加えるようです。現に年をとったバッグの皿は若いチャックの皿などとは全然手ざわりも違うのです。しかし一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでしょう。河童は我々人間のように一定の皮膚の色を持っていません。なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう、――たとえば草の中にいる時には草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。あるいは河童は皮膚組織の上に何かカメレオンに近いところを持っているのかもしれません。僕はこの事実を発見した時、西さい国こくの河童は緑色であり、東とう北ほくの河童は赤いという民俗学上の記録を思い出しました。のみならずバッグを追いかける時、突然どこへ行ったのか、見えなくなったことを思い出しました。しかも河童は皮膚の下によほど厚い脂肪を持っているとみえ、この地下の国の温度は比較的低いのにもかかわらず、︵平均華かっ氏し五十度前後です。︶着物というものを知らず﹇#﹁知らず﹂は底本では﹁知らす﹂﹈にいるのです。もちろんどの河童も目めが金ねをかけたり、巻まき煙たば草この箱を携えたり、金かね入いれを持ったりはしているでしょう。しかし河童はカンガルウのように腹に袋を持っていますから、それらのものをしまう時にも格別不便はしないのです。ただ僕におかしかったのは腰のまわりさえおおわないことです。僕はある時この習慣をなぜかとバッグに尋ねてみました。すると﹇#﹁すると﹂は底本では﹁ずると﹂﹈バッグはのけぞったまま、いつまでもげらげら笑っていました。おまけに﹁わたしはお前さんの隠しているのがおかしい﹂と返事をしました。四
僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣ものみこめるようになってきました。その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の真ま面じ目めに思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり彼らの滑こっ稽けいという観念は我々の滑稽という観念と全然標準を異ことにしているのでしょう。僕はある時医者のチャックと産児制限の話をしていました。するとチャックは大口をあいて、鼻はな目めが金ねの落ちるほど笑い出しました。僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。なんでもチャックの返答はだいたいこうだったように覚えています。もっとも多少細かいところは間まち違がっているかもしれません。なにしろまだそのころは僕も河童の使う言葉をすっかり理解していなかったのですから。
﹁しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。﹂
その代わりに我々人間から見れば、実際また河かっ童ぱのお産ぐらい、おかしいものはありません。現に僕はしばらくたってから、バッグの細君のお産をするところをバッグの小屋へ見物にゆきました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産さん婆ばなどの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、﹁お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。﹂と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはり膝ひざをつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテエブルの上にあった消毒用の水すい薬やくでうがいをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
﹁僕は生まれたくはありません。第一僕のお父とうさんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。﹂
バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆はたちまち細君の生殖器へ太い硝ガラ子スの管かんを突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は水すい素そ瓦ガ斯スを抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。
こういう返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるが早いか、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。なんでもチャックの話では出産後二十六日目に神の有う無むについて講演をした子どももあったとかいうことです。もっともその子どもは二ふた月つき目めには死んでしまったということですが。
お産の話をしたついでですから、僕がこの国へ来た三みつ月き目めに偶然ある街まちの角かどで見かけた、大きいポスタアの話をしましょう。その大きいポスタアの下には喇らっ叭ぱを吹いている河童だの剣を持っている河童だのが十二三匹描かいてありました。それからまた上には河童の使う、ちょうど時とけ計いのゼンマイに似た螺らせ旋ん文字が一面に並べてありました。この螺旋文字を翻訳すると、だいたいこういう意味になるのです。これもあるいは細かいところは間まち違がっているかもしれません。が、とにかく僕としては僕といっしょに歩いていた、ラップという河童の学生が大声に読み上げてくれる言葉をいちいちノオトにとっておいたのです。
遺伝的義勇隊を募 る※[#感嘆符三つ、63-8]
健全なる男女の河童よ※[#感嘆符三つ、63-9]
悪遺伝を撲滅 するために
不健全なる男女の河童と結婚せよ※[#感嘆符三つ、63-11]
健全なる男女の河童よ※[#感嘆符三つ、63-9]
悪遺伝を
不健全なる男女の河童と結婚せよ※[#感嘆符三つ、63-11]
僕はもちろんその時にもそんなことの行なわれないことをラップに話して聞かせました。するとラップばかりではない、ポスタアの近所にいた河童はことごとくげらげら笑い出しました。
﹁行なわれない? だってあなたの話ではあなたがたもやはり我々のように行なっていると思いますがね。あなたは令息が女中に惚ほれたり、令嬢が運転手に惚れたりするのはなんのためだと思っているのです? あれは皆無意識的に悪遺伝を撲滅しているのですよ。第一この間あなたの話したあなたがた人間の義勇隊よりも、――一本の鉄道を奪うために互いに殺し合う義勇隊ですね、――ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊は高尚ではないかと思いますがね。﹂
ラップは真ま面じ目めにこう言いながら、しかも太い腹だけはおかしそうに絶えず浪なみ立だたせていました。が、僕は笑うどころか、あわててある河かっ童ぱをつかまえようとしました。それは僕の油断を見すまし、その河童が僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし皮膚の滑なめらかな河童は容易に我々にはつかまりません。その河童もぬらりとすべり抜けるが早いかいっさんに逃げ出してしまいました。ちょうど蚊のようにやせた体からだを倒れるかと思うくらいのめらせながら。
五
僕はこのラップという河童にバッグにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのはトックという河童に紹介されたことです。トックは河童仲間の詩人です。詩人が髪を長くしていることは我々人間と変わりません。僕は時々トックの家うちへ退屈しのぎに遊びにゆきました。トックはいつも狭い部へ屋やに高山植物の鉢はち植うえを並べ、詩を書いたり煙たば草こをのんだり、いかにも気楽そうに暮らしていました。そのまた部屋の隅すみには雌めすの河童が一匹、︵トックは自由恋愛家ですから、細君というものは持たないのです。︶編み物か何かしていました。トックは僕の顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。︵もっとも河童の微笑するのはあまりいいものではありません。少なくとも僕は最初のうちはむしろ無気味に感じたものです。︶ ﹁やあ、よく来たね。まあ、その椅い子すにかけたまえ。﹂ トックはよく河童の生活だの河童の芸術だのの話をしました。トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、莫ば迦かげているものはありません。親子夫婦兄弟などというのはことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。ことに家族制度というものは莫迦げている以上にも莫迦げているのです。トックはある時窓の外を指さし、﹁見たまえ。あの莫迦げさ加減を!﹂と吐き出すように言いました。窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童をはじめ、七八匹の雌めす雄おすの河童を頸くびのまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。しかし僕は年の若い河童の犠牲的精神に感心しましたから、かえってその健けな気げさをほめ立てました。 ﹁ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……時に君は社会主義者かね?﹂ 僕はもちろん qua︵これは河童の使う言葉では﹁然しかり﹂という意味を現わすのです。︶と答えました。 ﹁では百人の凡人のために甘んじてひとりの天才を犠牲にすることも顧みないはずだ。﹂ ﹁では君は何主義者だ? だれかトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……﹂ ﹁僕か? 僕は超人︵直訳すれば超河童です。︶だ。﹂ トックは昂こう然ぜんと言い放ちました。こういうトックは芸術の上にも独特な考えを持っています。トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶ぜっした超人でなければならぬというのです。もっともこれは必ずしもトック一匹の意見ではありません。トックの仲間の詩人たちはたいてい同意見を持っているようです。現に僕はトックといっしょにたびたび超人倶ク楽ラ部ブへ遊びにゆきました。超人倶楽部に集まってくるのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素しろ人うと等です。しかしいずれも超人です。彼らは電燈の明るいサロンにいつも快活に話し合っていました。のみならず時には得とく々とくと彼らの超人ぶりを示し合っていました。たとえばある彫刻家などは大きい鬼おに羊し歯だの鉢はち植うえの間に年の若い河かっ童ぱをつかまえながら、しきりに男だん色しょくをもてあそんでいました。またある雌めすの小説家などはテエブルの上に立ち上がったなり、アブサントを六十本飲んで見せました。もっともこれは六十本目にテエブルの下へ転ころげ落ちるが早いか、たちまち往生してしまいましたが。 僕はある月のいい晩、詩人のトックと肘ひじを組んだまま、超人倶楽部から帰ってきました。トックはいつになく沈みこんでひとことも口をきかずにいました。そのうちに僕らは火ほかげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。そのまた窓の向こうには夫婦らしい雌めす雄おすの河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに晩ばん餐さんのテエブルに向かっているのです。するとトックはため息をしながら、突然こう僕に話しかけました。 ﹁僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容よう子すを見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。﹂ ﹁しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?﹂ けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、――平和な五匹の河童たちの晩餐のテエブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。 ﹁あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。﹂六
実際また河童の恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣を異ことにしています。雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのにいかなる手段も顧みません、一番正直な雌の河童は遮しゃ二に無む二に雄の河童を追いかけるのです。現に僕は気違いのように雄の河童を追いかけている雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童はもちろん、その河童の両親や兄弟までいっしょになって追いかけるのです。雄の河童こそみじめです。なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よくつかまらずにすんだとしても、二三か月は床とこについてしまうのですから。僕はある時僕の家にトックの詩集を読んでいました。するとそこへ駆けこんできたのはあのラップという学生です。ラップは僕の家へ転げこむと、床ゆかの上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。 ﹁大たい変へんだ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!﹂ 僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口の錠じょうをおろしてしまいました。しかし鍵かぎ穴あなからのぞいてみると、硫いお黄うの粉末を顔に塗った、背せいの低い雌めすの河かっ童ぱが一匹、まだ戸口にうろついているのです。ラップはその日から何週間か僕の床とこの上に寝ていました。のみならずいつかラップの嘴くちばしはすっかり腐って落ちてしまいました。 もっともまた時には雌の河童を一いっ生しょ懸うけ命んめいに追いかける雄おすの河童もないではありません。しかしそれもほんとうのところは追いかけずにはいられないように雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違いのように雌の河童を追いかけている雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、四よつん這ばいになったりして見せるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように楽々とつかませてしまうのです。僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、しばらくそこに転ころがっていました。が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。しかしそれはまだいいのです。これも僕の見かけた中に小さい雄の河童が一匹、雌の河童を追いかけていました。雌の河童は例のとおり、誘惑的遁とん走そうをしているのです。するとそこへ向こうの街まちから大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いてきました。雌の河童はなにかの拍子にふとこの雄の河童を見ると﹁大たい変へんです! 助けてください! あの河童はわたしを殺そうとするのです!﹂と金かな切きり声を出して叫びました。もちろん大きい雄の河童はたちまち小さい河童をつかまえ、往来のまん中へねじ伏せました。小さい河童は水みず掻かきのある手に二三度空くうをつかんだなり、とうとう死んでしまいました。けれどももうその時には雌の河童はにやにやしながら、大きい河童の頸くびっ玉へしっかりしがみついてしまっていたのです。 僕の知っていた雄おすの河かっ童ぱはだれも皆言い合わせたように雌めすの河童に追いかけられました。もちろん妻子を持っているバッグでもやはり追いかけられたのです。のみならず二三度はつかまったのです。ただマッグという哲学者だけは︵これはあのトックという詩人の隣にいる河童です。︶一度もつかまったことはありません。これは一つにはマッグぐらい、醜い河童も少ないためでしょう。しかしまた一つにはマッグだけはあまり往来へ顔を出さずに家うちにばかりいるためです。僕はこのマッグの家へも時々話しに出かけました。マッグはいつも薄うす暗ぐらい部へ屋やに七なな色いろの色いろ硝ガラ子スのランタアンをともし、脚あしの高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。僕はある時こういうマッグと河童の恋愛を論じ合いました。 ﹁なぜ政府は雌の河童が雄の河童を追いかけるのをもっと厳重に取り締まらないのです?﹂ ﹁それは一つには官吏の中に雌の河童の少ないためですよ。雌の河童は雄の河童よりもいっそう嫉しっ妬とし心んは強いものですからね、雌の河童の官吏さえ殖ふえれば、きっと今よりも雄の河童は追いかけられずに暮らせるでしょう。しかしその効力もしれたものですね。なぜと言ってごらんなさい。官吏同志でも雌の河童は雄の河童を追いかけますからね。﹂ ﹁じゃあなたのように暮らしているのは一番幸福なわけですね。﹂ するとマッグは椅い子すを離れ、僕の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。 ﹁あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのももっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ。﹂七
僕はまた詩人のトックとたびたび音楽会へも出かけました。が、いまだに忘れられないのは三度目に聴ききにいった音楽会のことです。もっとも会場の容よう子すなどはあまり日本と変わっていません。やはりだんだんせり上がった席に雌雄の河童が三四百匹、いずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。僕はこの三度目の音楽会の時にはトックやトックの雌の河童のほかにも哲学者のマッグといっしょになり、一番前の席にすわっていました。するとセロの独奏が終わった後のち、妙に目の細い河童が一匹、無むぞ造う作さに譜本を抱かかえたまま、壇の上へ上がってきました。この河童はプログラムの教えるとおり、名高いクラバックという作曲家です。プログラムの教えるとおり、――いや、プログラムを見るまでもありません。クラバックはトックが属している超人倶ク楽ラ部ブの会員ですから、僕もまた顔だけは知っているのです。 ﹁Lied――Craback﹂︵この国のプログラムもたいていは独ドイ逸ツ語を並べていました。︶ クラバックは盛んな拍手のうちにちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾ひきはじめました。クラバックはトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。僕はクラバックの音楽はもちろん、そのまた余技の抒じょ情じょう詩にも興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていました。トックやマッグも恍こう惚こつとしていたことはあるいは僕よりもまさっていたでしょう。が、あの美しい︵少なくとも河かっ童ぱたちの話によれば︶雌めすの河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに長い舌をべろべろ出していました。これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年前ぜんにクラバックをつかまえそこなったものですから、いまだにこの音楽家を目の敵かたきにしているのだとかいうことです。 クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾ひきつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは﹁演奏禁止﹂という声です。僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる身みの丈たけ抜群の巡査です、巡査は僕がふり向いた時、悠ゆう然ぜんと腰をおろしたまま、もう一度前よりもおお声に﹁演奏禁止﹂と怒ど鳴なりました。それから、―― それから先は大混乱です。﹁警官横暴!﹂﹁クラバック、弾け! 弾け!﹂﹁莫ば迦か!﹂﹁畜生!﹂﹁ひっこめ!﹂﹁負けるな!﹂――こういう声のわき上がった中に椅い子すは倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダアの空あき罎びんや石ころやかじりかけの胡きゅ瓜うりさえ降ってくるのです。僕は呆あっ気けにとられましたから、トックにその理由を尋ねようとしました。が、トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、﹁クラバック、弾け! 弾け!﹂とわめきつづけています。のみならずトックの雌の河童もいつの間まに敵意を忘れたのか、﹁警官横暴﹂と叫んでいることは少しもトックに変わりません。僕はやむを得ずマッグに向かい、﹁どうしたのです?﹂と尋ねてみました。 ﹁これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画えだの文芸だのは……﹂ マッグは何か飛んでくるたびにちょっと頸くびを縮めながら、相変わらず静かに説明しました。 ﹁元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。﹂ ﹁しかしあの巡査は耳があるのですか?﹂ ﹁さあ、それは疑問ですね。たぶん今の旋律を聞いているうちに細君といっしょに寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。﹂ こういう間にも大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。クラバックはピアノに向かったまま、傲ごう然ぜんと我々をふり返っていました。が、いくら傲然としていても、いろいろのものの飛んでくるのはよけないわけにゆきません。従ってつまり二三秒置きにせっかくの態度も変わったわけです。しかしとにかくだいたいとしては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目をすさまじくかがやかせていました。僕は――僕ももちろん危険を避けるためにトックを小こだ楯てにとっていたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマッグと話しつづけました。 ﹁そんな検閲は乱暴じゃありませんか?﹂ ﹁なに、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい一ひと月つきばかり前にも、……﹂ ちょうどこう言いかけたとたんです。マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack︵これはただ間かん投とう詞しです︶と一声叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。八
僕は硝ガラ子ス会社の社長のゲエルに不思議にも好意を持っていました。ゲエルは資本家中の資本家です。おそらくはこの国の河かっ童ぱの中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もいなかったのに違いありません。しかし茘れい枝しに似た細君や胡きゅ瓜うりに似た子どもを左右にしながら、安楽椅い子すにすわっているところはほとんど幸福そのものです。僕は時々裁判官のペップや医者のチャックにつれられてゲエル家けの晩ばん餐さんへ出かけました。またゲエルの紹介状を持ってゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っているいろいろの工場も見て歩きました。そのいろいろの工場の中でもことに僕におもしろかったのは書籍製造会社の工場です。僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械をながめた時、今さらのように河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。なんでもそこでは一年間に七百万部の本を製造するそうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。なにしろこの国では本を造るのにただ機械の漏じょ斗うご形がたの口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに菊きく版ばん、四しろ六くば版ん、菊きく半はん裁さい版ばんなどの無数の本になって出てくるのです。僕は瀑たきのように流れ落ちるいろいろの本をながめながら、反そり身になった河童の技師にその灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。すると技師は黒光りに光った機械の前にたたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。 ﹁これですか? これは驢ろ馬ばの脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一噸とん二三銭ですがね。﹂ もちろんこういう工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の解かい雇こされるのも四五万匹を下らないそうです。そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷ひぎ業ょうという字に出会いません。僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。 ﹁それはみんな食ってしまうのですよ。﹂ 食後の葉巻をくわえたゲエルはいかにも無むぞ造う作さにこう言いました。しかし﹁食ってしまう﹂というのはなんのことだかわかりません。すると鼻はな目めが金ねをかけたチャックは僕の不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。 ﹁その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解かい雇こされましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。﹂ ﹁職工は黙って殺されるのですか?﹂ ﹁それは騒いでもしかたはありません。職しょ工っこ屠うと殺さつ法ほうがあるのですから。﹂ これは山やま桃ももの鉢はち植うえを後ろに苦い顔をしていたペップの言葉です。僕はもちろん不快を感じました。しかし主人公のゲエルはもちろん、ペップやチャックもそんなことは当然と思っているらしいのです。現にチャックは笑いながら、あざけるように僕に話しかけました。 ﹁つまり餓が死ししたり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒瓦ガ斯スをかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。﹂ ﹁けれどもその肉を食うというのは、……﹂ ﹁常じょ談うだんを言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。﹂ こういう問答を聞いていたゲエルは手近いテエブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、恬てん然ぜんと僕にこう言いました。 ﹁どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。﹂ 僕はもちろん辟へき易えきしました。いや、そればかりではありません。ペップやチャックの笑い声を後ろにゲエル家けの客間を飛び出しました。それはちょうど家々の空に星明かりも見えない荒れ模様の夜です。僕はその闇やみの中を僕の住すま居いへ帰りながら、のべつ幕なしに嘔へ吐どを吐きました。夜目にも白しらじらと流れる嘔吐を。九
しかし硝ガラ子ス会社の社長のゲエルは人なつこい河かっ童ぱだったのに違いません。僕はたびたびゲエルといっしょにゲエルの属している倶ク楽ラ部ブへ行き、愉快に一晩を暮らしました。これは一つにはその倶楽部はトックの属している超人倶楽部よりもはるかに居いご心ころのよかったためです。のみならずまたゲエルの話は哲学者のマッグの話のように深みを持っていなかったにせよ、僕には全然新しい世界を、――広い世界をのぞかせました。ゲエルは、いつも純金の匙さじに珈カッ琲フェの茶ちゃ碗わんをかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。 なんでもある霧の深い晩、僕は冬ふゆ薔そう薇びを盛った花かび瓶んを中にゲエルの話を聞いていました。それはたしか部へ屋や全体はもちろん、椅い子すやテエブルも白い上に細い金の縁ふちをとったセセッション風の部屋だったように覚えています。ゲエルはふだんよりも得意そうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。クオラックスという言葉はただ意味のない間かん投とう詞しですから、﹁おや﹂とでも訳すほかはありません。が、とにかく何よりも先に﹁河童全体の利益﹂ということを標ひょ榜うぼうしていた政党だったのです。 ﹁クオラックス党を支配しているものは名高い政治家のロッペです。﹃正直は最良の外交である﹄とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは正直を内ない治ちの上にも及ぼしているのです。……﹂ ﹁けれどもロッペの演説は……﹂ ﹁まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとくです。が、ということはだれでも知っていますから、畢ひっ竟きょう正直と変わらないでしょう、それを一概にと言うのはあなたがただけの偏見ですよ。我々河かっ童ぱはあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロッペのことです。ロッペはクオラックス党を支配している、そのまたロッペを支配しているものは Pou-Fou 新聞の︵この﹃プウ・フウ﹄という言葉もやはり意味のない間かん投とう詞しです。もし強しいて訳すれば、﹃ああ﹄とでも言うほかはありません。︶社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人というわけにはゆきません。クイクイを支配しているものはあなたの前にいるゲエルです。﹂ ﹁けれども――これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けているというのは、……﹂ ﹁プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものはクイクイのほかはありますまい。しかもクイクイはこのゲエルの後援を受けずにはいられないのです。﹂ ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金の匙さじをおもちゃにしています。僕はこういうゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起こるのを感じました。するとゲエルは僕の無言にたちまちこの同情を感じたとみえ、大きい腹をふくらませてこう言うのです。 ﹁なに、プウ・フウ新聞の記者たちも全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものはだれの味かたをするよりも先に我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに厄やっ介かいなことにはこのゲエル自身さえやはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれをだれだと思いますか? それはわたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。﹂ ゲエルはおお声に笑いました。 ﹁それはむしろしあわせでしょう。﹂ ﹁とにかくわたしは満足しています。しかしこれもあなたの前だけに、――河童でないあなたの前だけに手放しで吹ふい聴ちょうできるのです。﹂ ﹁するとつまりクオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているのですね。﹂ ﹁さあそうも言われますかね。……しかし七年前まえの戦争などはたしかにある雌めすの河童のために始まったものに違いありません。﹂ ﹁戦争? この国にも戦争はあったのですか?﹂ ﹁ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……﹂ 僕は実際この時はじめて河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。ゲエルの説明するところによれば、河かっ童ぱはいつも獺かわうそを仮設敵にしているということです。しかも獺は河童に負けない軍備を具そなえているということです。僕はこの獺を相手に河童の戦争した話に少なからず興味を感じました。︵なにしろ河童の強敵に獺のいるなどということは﹁水すい虎ここ考うり略ゃく﹂の著者はもちろん、﹁山さん島とう民みん譚たん集しゅう﹂の著者柳やな田ぎだ国くに男おさんさえ知らずにいたらしい新事実ですから。︶ ﹁あの戦争の起こる前にはもちろん両国とも油断せずにじっと相手をうかがっていました。というのはどちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいた獺が一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまた雌めすの河童というのは亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついていたことも多少の誘惑になったかもしれません。﹂ ﹁あなたはその夫婦を御存じですか?﹂ ﹁ええ、――いや、雄おすの河童だけは知っています。わたしの妻などはこの河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ雌の河童につかまることを恐れている被ひが害いも妄うぞ想うの多い狂人です。……そこでこの雌の河童は亭主のココアの茶ちゃ碗わんの中へ青せい化か加か里りを入れておいたのです。それをまたどう間まち違がえたか、客の獺に飲ませてしまったのです。獺はもちろん死んでしまいました。それから……﹂ ﹁それから戦争になったのですか?﹂ ﹁ええ、あいにくその獺は勲章を持っていたものですからね。﹂ ﹁戦争はどちらの勝ちになったのですか?﹂ ﹁もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちはそのために健けな気げにも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。この国にある毛皮という毛皮はたいてい獺の毛皮です。わたしもあの戦争の時には硝ガラ子スを製造するほかにも石炭殻がらを戦地へ送りました。﹂ ﹁石炭殻を何にするのですか?﹂ ﹁もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。﹂ ﹁それは――どうか怒おこらずにください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国では醜しゅ聞うぶんですがね。﹂ ﹁この国でも醜聞には違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも醜聞にはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。﹃汝なんじの悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。﹄……しかもわたしは利益のほかにも愛国心に燃え立っていたのですからね。﹂ ちょうどそこへはいってきたのはこの倶ク楽ラ部ブの給仕です。給仕はゲエルにお時じ宜ぎをした後のち、朗読でもするようにこう言いました。 ﹁お宅のお隣に火事がございます。﹂ ﹁火――火事!﹂ ゲエルは驚いて立ち上がりました。僕も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。 ﹁しかしもう消し止めました。﹂ ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。僕はこういう顔を見ると、いつかこの硝ガラ子ス会社の社長を憎んでいたことに気づきました。が、ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもないただの河かっ童ぱになって立っているのです。僕は花かび瓶んの中の冬ふゆ薔そう薇びの花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。 ﹁しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。﹂ ﹁ありがとう。﹂ ゲエルは僕の手を握りました。それから急ににやりと笑い、小声にこう僕に話しかけました。 ﹁隣はわたしの家かさ作くですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ。﹂ 僕はこの時のゲエルの微笑を――軽けい蔑べつすることもできなければ、憎ぞう悪おすることもできないゲエルの微笑をいまだにありありと覚えています。十
﹁どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?﹂ その火事のあった翌日です。僕は巻まき煙たば草こをくわえながら、僕の客間の椅い子すに腰をおろした学生のラップにこう言いました。実際またラップは右の脚あしの上へ左の脚をのせたまま、腐った嘴くちばしも見えないほど、ぼんやり床ゆかの上ばかり見ていたのです。 ﹁ラップ君、どうしたね。﹂と言えば、﹇#﹁﹁ラップ君、どうしたね。﹂と言えば、﹂は底本では﹁﹁ラップ君、どうしたねと言えば。﹂﹈ ﹁いや、なに、つまらないことなのですよ。――﹂ ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。 ﹁僕はきょう窓の外を見ながら、﹃おや虫取り菫すみれが咲いた﹄と何なに気げなしにつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、﹃どうせわたしは虫取り菫よ﹄と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろも大だいの妹贔びい屓きですから、やはり僕に食ってかかるのです。﹂ ﹁虫取り菫が咲いたということはどうして妹さんには不快なのだね?﹂ ﹁さあ、たぶん雄おすの河童をつかまえるという意味にでもとったのでしょう。そこへおふくろと仲悪い叔お母ばも喧けん嘩かの仲間入りをしたのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。しかも年中酔っ払っているおやじはこの喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別なしに殴なぐり出したのです。それだけでも始末のつかないところへ僕の弟はその間あいだにおふくろの財さい布ふを盗むが早いか、キネマか何かを見にいってしまいました。僕は……ほんとうに僕はもう、……﹂ ラップは両手に顔を埋うずめ、何も言わずに泣いてしまいました。僕の同情したのはもちろんです。同時にまた家族制度に対する詩人のトックの軽蔑を思い出したのももちろんです。僕はラップの肩をたたき、一いっ生しょ懸うけ命んめいに慰めました。 ﹁そんなことはどこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。﹂ ﹁しかし……しかし嘴くちばしでも腐っていなければ、……﹂ ﹁それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君の家うちへでも行こう。﹂ ﹁トックさんは僕を軽けい蔑べつしています。僕はトックさんのように大胆に家族を捨てることができませんから。﹂ ﹁じゃクラバック君の家へ行こう。﹂ 僕はあの音楽会以来、クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へラップをつれ出すことにしました。クラバックはトックに比べれば、はるかに贅ぜい沢たくに暮らしています。というのは資本家のゲエルのように暮らしているという意味ではありません。ただいろいろの骨こっ董とうを、――タナグラの人形やペルシアの陶器を部へ屋やいっぱいに並べた中にトルコ風の長なが椅い子すを据すえ、クラバック自身の肖像画の下にいつも子どもたちと遊んでいるのです。が、きょうはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をしてすわっていました。のみならずそのまた足もとには紙かみ屑くずが一面に散らばっていました。ラップも詩人トックといっしょにたびたびクラバックには会っているはずです。しかしこの容よう子すに恐れたとみえ、きょうは丁てい寧ねいにお時じ宜ぎをしたなり、黙って部屋の隅すみに腰をおろしました。 ﹁どうしたね? クラバック君。﹂ 僕はほとんど挨あい拶さつの代わりにこう大音楽家へ問いかけました。 ﹁どうするものか? 批評家の阿あほ呆うめ! 僕の抒じょ情じょう詩はトックの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。﹂ ﹁しかし君は音楽家だし、……﹂ ﹁それだけならば我がま慢んもできる。僕はロックに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか?﹂ ロックというのはクラバックとたびたび比べられる音楽家です。が、あいにく超人倶ク楽ラ部ブの会員になっていない関係上、僕は一度も話したことはありません。もっとも嘴の反そり上がった、一ひと癖くせあるらしい顔だけはたびたび写真でも見かけていました。 ﹁ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。﹂ ﹁君はほんとうにそう思うか?﹂ ﹁そう思うとも。﹂ するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなり床ゆかの上にたたきつけました。ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。が、クラバックはラップや僕にはちょっと﹁驚くな﹂という手て真ま似ねをした上、今度は冷やかにこう言うのです。 ﹁それは君もまた俗人のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……﹂ ﹁君が? 謙けん遜そん家かを気どるのはやめたまえ。﹂ ﹁だれが謙けん遜そん家かを気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は――クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。﹂ ﹁では何を恐れているのだ?﹂ ﹁何か正しょ体うたいの知れないものを、――言わばロックを支配している星を。﹂ ﹁どうも僕には腑ふに落ちないがね。﹂ ﹁ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間まにかロックの影響を受けてしまうのだ。﹂ ﹁それは君の感受性の……。﹂ ﹁まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじてあいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十哩マイルも違うのだ。﹂ ﹁しかし先生の英雄曲は……﹂ クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。 ﹁黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりもロックを知っているのだ。﹂ ﹁まあ少し静かにしたまえ。﹂ ﹁もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。――僕らの知らない何ものかは僕を、――クラバックをあざけるためにロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことをなにもかも承知している。いつもあの色いろ硝ガラ子スのランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁この近ごろマッグの書いた﹃阿あほ呆うの言葉﹄という本を見たまえ。――﹂ クラバックは僕に一冊の本を渡す――というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、突つっけんどんにこう言い放ちました。 ﹁じゃきょうは失敬しよう。﹂ 僕はしょげ返ったラップといっしょにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は相変わらず毛ぶ生な欅の並み木のかげにいろいろの店を並べています。僕らはなんということもなしに黙って歩いてゆきました。するとそこへ通りかかったのは髪の長い詩人のトックです。トックは僕らの顔を見ると、腹の袋から手ハン巾ケチを出し、何度も額をぬぐいました。 ﹁やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりにクラバックを尋ねようと思うのだが、……﹂ 僕はこの芸術家たちを喧けん嘩かさせては悪いと思い、クラバックのいかにも不ふき機げ嫌んだったことを婉えん曲きょくにトックに話しました。 ﹁そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。﹂ ﹁どうだね、僕らといっしょに散歩をしては?﹂ ﹁いや、きょうはやめにしよう。おや!﹂ トックはこう叫ぶが早いか、しっかり僕の腕をつかみました。しかもいつか体から中だじゅうに冷汗を流しているのです。 ﹁どうしたのだ?﹂ ﹁どうしたのです?﹂ ﹁なにあの自動車の窓の中から緑いろの猿さるが一匹首を出したように見えたのだよ。﹂ 僕は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに診察してもらうように勧めました。しかしトックはなんと言っても、承知する気けし色きさえ見せません。のみならず何か疑わしそうに僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。 ﹁僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。――ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。﹂ 僕らはぼんやりたたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。僕らは――いや、﹁僕ら﹂ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまん中に脚あしをひろげ、しっきりない自動車や人通りを股また目めが金ねにのぞいているのです。僕はこの河かっ童ぱも発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。 ﹁常じょ談うだんじゃない。何をしている?﹂ しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。 ﹁いえ、あまり憂ゆう鬱うつですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。﹂十一
これは哲学者のマッグの書いた﹁阿あほ呆うの言葉﹂の中の何章かです。―― × 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。 × 我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉しっ妬としたりしないためもないことはない。 × もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽けい蔑べつしながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。 × 我々のもっとも誇りたいものは我々の持っていないものだけである。 × 何なんびとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時にまた何びとも偶像になることに異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に安んじてすわっていられるものはもっとも神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。︵クラバックはこの章の上へ爪つめの痕あとをつけていました。︶ × 我々の生活に必要な思想は三千年前ぜんに尽きたかもしれない。我々はただ古い薪たきぎに新しい炎を加えるだけであろう。 × 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。 × 幸福は苦痛を伴い、平和は倦けん怠たいを伴うとすれば、――? × 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。 × 矜きょ誇うか﹇#ルビの﹁きょうか﹂はママ﹈、愛欲、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまたおそらくはあらゆる徳も。 × 物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。︵クラバックはこの章の上にも爪つめの痕あとを残していました。︶ × 我々は人間よりも不幸である。人間は河かっ童ぱほど進化していない。︵僕はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました。︶ × 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢ひっ竟きょう我々の生活はこういう循環論法を脱することはできない。――すなわち不合理に終始している。 × ボオドレエルは白痴になった後のち、彼の人生観をたった一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必ずしもこう言ったことではない。むしろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼したために胃袋の一語を忘れたことである。︵この章にもやはりクラバックの爪の痕は残っていました。︶ × もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生をおわったのはすなわち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。十二
ある割合に寒い午後です。僕は﹁阿あほ呆うの言葉﹂を読み飽きましたから、哲学者のマッグを尋ねに出かけました。するとある寂しい町の角かどに蚊のようにやせた河かっ童ぱが一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。 ﹁ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一ひと月つきばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。﹂ 巡査は右手の棒をあげ、︵この国の巡査は剣けんの代わりに水いち松いの棒を持っているのです。︶﹁おい、君﹂とその河童へ声をかけました。僕はあるいはその河童は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、いかにも傲ごう然ぜんと僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。しかし巡査は怒おこりもせず、腹の袋から手帳を出してさっそく尋問にとりかかりました。 ﹁お前の名は?﹂ ﹁グルック。﹂ ﹁職業は?﹂ ﹁つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。﹂ ﹁よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。﹂ ﹁ええ、一月ばかり前に盗みました。﹂ ﹁なんのために?﹂ ﹁子どもの玩おも具ちゃにしようと思ったのです。﹂ ﹁その子どもは?﹂ 巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。 ﹁一週間前に死んでしまいました。﹂ ﹁死亡証明書を持っているかね?﹂ やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。 ﹁よろしい。どうも御苦労だったね。﹂ 僕は呆あっ気けにとられたまま、巡査の顔をながめていました。しかもそのうちにやせた河童は何かぶつぶつつぶやきながら、僕らを後ろにして行ってしまうのです。僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。 ﹁どうしてあの河童をつかまえないのです?﹂ ﹁あの河童は無罪ですよ。﹂ ﹁しかし僕の万年筆を盗んだのは……﹂ ﹁子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。﹂ 巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。僕はしかたがありませんから、﹁刑法千二百八十五条﹂を口の中に繰り返し、マッグの家うちへ急いでゆきました。哲学者のマッグは客好きです。現にきょうも薄暗い部へ屋やには裁判官のペップや医者のチャックや硝ガラ子ス会社の社長のゲエルなどが集まり、七なな色いろの色硝子のランタアンの下に煙たば草この煙を立ち昇のぼらせていました。そこに裁判官のペップが来ていたのは何よりも僕には好こうつごうです。僕は椅い子すにかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検しらべる代わりにさっそくペップへ問いかけました。 ﹁ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?﹂ ペップは金きん口ぐちの煙草の煙をまず悠ゆう々ゆうと吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。 ﹁罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。﹂ ﹁しかし僕は一ひと月つきばかり前に、……﹂ 僕は委細を話した後のち、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。 ﹁ふむ、それはこういうのです。――﹃いかなる犯罪を行ないたりといえども、該がい犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず﹄つまりあなたの場合で言えば、その河かっ童ぱはかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。﹂ ﹁それはどうも不合理ですね。﹂ ﹁常じょ談うだんを言ってはいけません。親だった河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑こっ稽けいです。ふふふふふふふふふふ。﹂ ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチャックです。チャックはちょっと鼻はな目めが金ねを直し、こう僕に質問しました。 ﹁日本にも死刑はありますか?﹂ ﹁ありますとも。日本では絞こう罪ざいです。﹂ 僕は冷然と構えこんだペップに多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。 ﹁この国の死刑は日本よりも文明的にできているでしょうね?﹂ ﹁それはもちろん文明的です。﹂ ペップはやはり落ち着いていました。 ﹁この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。﹂ ﹁それだけで河童は死ぬのですか?﹂ ﹁死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。﹂ ﹁それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります――﹂ 社長のゲエルは色いろ硝ガラ子スの光に顔中紫に染まりながら、人なつこい笑えが顔おをして見せました。 ﹁わたしはこの間もある社会主義者に﹃貴様は盗ぬす人びとだ﹄と言われたために心臓痲ま痺ひを﹇#﹁痲痺を﹂は底本では﹁痳痺を﹂﹈起こしかかったものです。﹂ ﹁それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などはやはりそのために死んでしまったのですからね。﹂ 僕はこう口を入れた河かっ童ぱ、――哲学者のマッグをふりかえりました。マッグはやはりいつものように皮肉な微笑を浮かべたまま、だれの顔も見ずにしゃべっているのです。 ﹁その河童はだれかに蛙かえるだと言われ、――もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは人にん非ぴに人んという意味になることぐらいは。――己おれは蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちにとうとう死んでしまったものです。﹂ ﹁それはつまり自殺ですね。﹂ ﹁もっともその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……﹂ ちょうどマッグがこう言った時です。突然その部へ屋やの壁の向こうに、――たしかに詩人のトックの家に鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。十三
僕らはトックの家へ駆けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢はち植うえの中に仰あお向むけになって倒れていました。そのまたそばには雌めすの河童が一匹、トックの胸に顔を埋うずめ、大声をあげて泣いていました。僕は雌の河童を抱き起こしながら、︵いったい僕はぬらぬらする河童の皮膚に手を触れることをあまり好んではいないのですが。︶﹁どうしたのです?﹂と尋ねました。
﹁どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r﹂︵これは河童の泣き声です。︶
﹁なにしろトック君はわがままだったからね。﹂
硝ガラ子ス会社の社長のゲエルは悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに金きん口ぐちの巻まき煙たば草こに火をつけていました。すると今までひざまずいて、トックの創きず口ぐちなどを調べていたチャックはいかにも医者らしい態度をしたまま、僕ら五人に宣言しました。︵実はひとりと四しひ匹きとです。︶
﹁もう駄だ目めです。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂ゆう鬱うつになりやすかったのです。﹂
﹁何か書いていたということですが。﹂
哲学者のマッグは弁解するようにこう独ひとり語ごとをもらしながら、机の上の紙をとり上げました。僕らは皆頸くびをのばし、︵もっとも僕だけは例外です。︶幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙をのぞきこみました。
﹁いざ、立ちてゆかん。娑しゃ婆ばか界いを隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。﹂
マッグは僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
﹁これはゲエテの﹃ミニヨンの歌﹄の剽ひょ窃うせつですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。﹂
そこへ偶然自動車を乗りつけたのはあの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、僕らの前へ歩み寄ると、怒ど鳴なりつけるようにマッグに話しかけました。
﹁それはトックの遺ゆい言ごん状じょうですか?﹂
﹁いや、最後に書いていた詩です。﹂
﹁詩?﹂
やはり少しも騒がないマッグは髪を逆さか立だてたクラバックにトックの詩稿を渡しました。クラバックはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマッグの言葉にはほとんど返事さえしないのです。
﹁あなたはトック君の死をどう思いますか?﹂
﹁いざ、立ちて、……僕もまたいつ死ぬかわかりません。……娑しゃ婆ばか界いを隔つる谷へ。……﹂
﹁しかしあなたはトック君とはやはり親友のひとりだったのでしょう?﹂
﹁親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……﹂
﹁不幸にも?﹂
﹁やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……﹂
僕はいまだに泣き声を絶たない雌めすの河かっ童ぱに同情しましたから、そっと肩を抱かかえるようにし、部へ屋やの隅すみの長なが椅い子すへつれていきました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。僕は雌の河童の代わりに子どもの河童をあやしてやりました。するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。僕が河童の国に住んでいるうちに涙というものをこぼしたのは前にもあとにもこの時だけです。
﹁しかしこういうわがままの河童といっしょになった家族は気の毒ですね。﹂
﹁なにしろあとのことも考えないのですから。﹂
裁判官のペップは相変わらず、新しい巻まき煙たば草こに火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしていました。すると僕らを驚かせたのは音楽家のクラバックのおお声です。クラバックは詩稿を握ったまま、だれにともなしに呼びかけました。
﹁しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。﹂
クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。しかしクラバックはこの河童たちを遮しゃ二に無む二に左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時にまた自動車は爆音を立ててたちまちどこかへ行ってしまいました。
﹁こら、こら、そうのぞいてはいかん。﹂
裁判官のペップは巡査の代わりに大勢の河かっ童ぱを押し出した後のち、トックの家の戸をしめてしまいました。部へ屋やの中はそのせいか急にひっそりなったものです。僕らはこういう静かさの中に――高山植物の花の香に交じったトックの血の匂においの中に後あと始しま末つのことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマッグだけはトックの死しが骸いをながめたまま、ぼんやり何か考えています。僕はマッグの肩をたたき、﹁何を考えているのです?﹂と尋ねました。
﹁河童の生活というものをね。﹂
﹁河童の生活がどうなるのです?﹂
﹁我々河童はなんと言っても、河童の生活をまっとうするためには、……﹂
マッグは多少はずかしそうにこう小声でつけ加えました。
﹁とにかく我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。﹂