城
DAS SCHLOSS
フランツ・カフカ Franz Kafka
原田義人訳
Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇(やみ)とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。
それから彼は、宿を探して歩いた。旅館ではまだ人びとがおきていて、亭主は泊める部屋をもってはいなかったが、この遅い客に見舞われてあわててしまい、Kを食堂の藁(わら)ぶとんの上に寝かせようとした。Kはそれを承知した。二、三人の農夫がまだビールを飲んでいたが、Kはだれとも話したくなかったので、自分で屋根裏から藁ぶとんをもってきて、ストーブのそばで横になった。部屋は暖かく、農夫たちは静かだった。Kは疲れた眼で彼らの様子をうかがっていたが、やがて眠りこんだ。
だが、それからすぐ起こされてしまった。町方の身なりをした俳優のような顔の、眼が細く眉(まゆ)の濃い一人の若い男が、亭主とともにKのそばに立っていた。農夫たちもまだ残っていて、二、三の者はもっとよくながめて話を聞こうと、椅子をめぐらしている。若い男は、Kを起こしたことをひどくていねいにわびて、自分は城の執事の息子だと名のり、それからいうのだった。
﹁この村は城の領地です。ここに住んだり泊ったりする者は、いわば城に住んだり泊ったりすることになります。だれでも、伯爵の許可なしにはそういうことは許されません。ところが、あなたはそういう許可をおもちでない。あるいは少なくともその許可をお見せになりませんでした﹂
Kは身体を半分起こして、髪の毛をきちんと整え、その人びとを下から見上げて、いった。
﹁どういう村に私は迷いこんだのですか? いったい、ここは城なんですか?﹂
﹁そうですとも﹂と、若い男はゆっくりいったが、そこここにKをいぶかって頭を振る者もいた。﹁ウェストウェスト伯爵様の城なのです﹂
﹁それで、宿泊の許可がいるというのですね?﹂と、Kはたずねたが、相手のさきほどの通告がひょっとすると夢であったのではないか、とたしかめでもするかのようであった。
﹁許可がなければいけません﹂という答えだった。若い男が腕をのばし、亭主と客たちとに次のようにたずねているのには、Kに対するひどい嘲笑が含まれていた。
﹁それとも、許可はいらないとでもいうのかな?﹂
﹁それなら、私も許可をもらってこなければならないのでしょうね﹂と、Kはあくびをしながらいって、起き上がろうとするかのように、かけぶとんを押しやった。
﹁それでいったいだれの許可をもらおうというんですか?﹂と、若い男がきく。
﹁伯爵様のですよ﹂と、Kはいった。﹁ほかにはもらいようがないでしょう﹂
﹁こんな真夜中に伯爵様の許可をもらってくるんですって?﹂と、若い男は叫び、一歩あとしざりした。
﹁できないというのですか?﹂と、Kは平静にたずねた。﹁それでは、なぜ私を起こしたんです?﹂
ところが今度は、若い男はひどくおこってしまった。
﹁まるで浮浪人の態度だ!﹂と、彼は叫んだ。﹁伯爵の役所に対する敬意を要求します! あなたを起こしたのは、今すぐ伯爵の領地を立ち退かなければならないのだ、ということをお知らせするためです﹂
﹁道(どう)化(け)芝居はたくさんです﹂と、Kはきわだって低い声でいい、ごろりと横になり、ふとんをかぶった。
﹁お若いかた、あなたは少しばかり度を越していますよ。あすになったらあなたの無礼についてお話しすることにしましょう。ご亭主とそこの人たちとが証人です。証人なんかが必要としてですがね。だがついでに、私は伯爵が招かれた土地測量技師だということは、よく聞いておいていただこう。器材をたずさえた私の助手たちは、あす車でやってくるのです。私は雪でここにくるのを手間取りたくなかったのだが、残念ながら何度か道に迷ってしまい、そのためにこんなに遅くなってやっと着いたのです。城に出頭するにはもう遅すぎるということは、あなたに教えられないうちから、自分でもとっくに知っていましたよ。だから私はここのこんな宿屋で満足もしたのです。それなのにあなたは、そのじゃまをするという――これはおだやかないいかただが――失敬なことをやられた。これで私のいうことは終りました。おやすみなさい、みなさん﹂そしてKは、ストーブのほうへぐるりと向きなおった。
﹁測量技師だって?﹂と、背後でためらうようにたずねる声が聞こえたが、やがてみんなが黙った。ところが若い男は、まもなく気を取りもどし、Kの眠りに気を使ってはいるといえる抑えた調子ではあるが、彼にも聞き取れるほどには高い声で、いった。
﹁電話で問い合わせてみよう﹂
なに、この田舎宿には電話まであるのか。すばらしい設備をしているものだ。この点ではKは驚いたが、全体としてはもちろん予期したとおりだった。電話はほとんど彼の頭の真上に備えつけられているとわかったが、寝ぼけまなこで見のがしていたのだ。その若い男が電話をかけなければならないとすると、どんなに気を使ったとしてもKの眠りを妨げないわけにはいかないわけで、問題はただKが男に電話をかけさせておくかどうかということだけである。Kはかけさせることに決心した。しかし、そうなるともちろん、眠っているふうをよそおうことは無意味なので、彼は仰(あお)向(む)けの姿勢へもどった。農夫たちがびくびくしながら身体をよせ、話し合っているのが見えた。土地測量技師の到着という事件はつまらぬことではなかった。台所のドアが開き、ドアいっぱいにおかみのたくましい姿が立ちはだかった。亭主が彼女に報告するために爪先で歩いて近づいていった。それからいよいよ通話が始まった。執事は眠っていたが、執事の下役の一人のフリッツ氏が電話に出たのだ。例の若い男はシュワルツァーと名のったが、Kを見つけたことを語った。問題の人物は三十代の男で、ひどいぼろを着ており、藁ぶとんの上でゆっくりと眠っていた。ちっぽけなリュックサックを﹇#﹁リュックサックを﹂は底本では﹁リュックサツクを﹂﹈枕にし、ふしのついたステッキを手のとどくあたりに置いている。もちろん、この男は自分にはあやしい人物と思われた。宿の亭主が義務をおこたったらしいので、事を徹底的に調べることが、自分、つまりシュワルツァーの義務と考えた。起こしたことも、訊(じん)問(もん)をしたことも、伯爵領から追放するといって職務上の戒告を行なったことも、Kのほうはひどく不機嫌な態度で受け取った。それも、最後にわかったことだが、おそらくもっともなことであったらしい。というのは、この男は伯爵様に呼ばれた測量技師だと主張しているのだから。もちろん、そんな主張をもっと検討してみることは、少なくとも形式上の義務ではある。そこで自分シュワルツァーとしてはフリッツ氏にお願いするのだが、こんな測量技師がほんとうにくることになっているものかどうか、本部事務局へきき合わせ、その返事をすぐ電話してもらいたい、ということであった。
それから静かになった。フリッツがむこうで問い合わせしており、こちらでは返事を待っているわけだった。Kは今までどおりにしていて、一度も振り向いたりせず、好奇心なんか全然ないふうで、ぼんやり前を見ていた。悪意と慎重さとのまじったシュワルツァーの話のしかたは、いわば外交的な儀礼を身につけているといった感じを彼に与えたが、城ではシュワルツァーのような下っぱの者でもそうした儀礼を手軽に使っているのだ。また城の連中は勤勉さにも事欠かなかった。本部事務局は夜勤もやっていた。それですぐさま返事をよこしたらしかった。それというのは、早くもフリッツが電話をかけてきたのだ。とはいえ、この知らせはきわめて短いもののようだった。シュワルツァーが腹を立てて受話器を投げ出したのだ。
﹁ほら、いったとおりだ﹂と、彼は叫んだ。﹁測量技師なんていう話は全然あるものか。卑しい嘘つきの浮浪人なんだ。おそらくもっと悪いやつなんだろう﹂
一瞬Kは、シュワルツァーも農夫たちも亭主もおかみも、みんなが自分めがけて押しよせてくるのではないか、と思った。少なくとも最初の襲撃を避けようとして、すっかりふとんの下にもぐりこんだ。そのとき、電話がもう一度鳴った。しかも、とくに強く鳴ったようにKには思われるのだった。彼はゆっくりと頭をもたげた。またもやKについての電話だということはありそうにもなかったのだが、みんなは立ちすくんでしまい、シュワルツァーは電話機のところへもどっていった。彼はそこでかなり長い説明を聞き取っていたが、やがて低い声でいった。
﹁それじゃあ、まちがいだというんですね? そいつはまったく面白くない話ですよ。局長自身が電話をかけられたんですか? 変だ、変ですね。測量技師さんに私からなんて説明したらいいんです?﹂
Kはじっと聞いていた。それでは城は彼を土地測量技師に任命したのだ。それは一面、彼にとってまずいことだった。というのは、そうだとすると城では彼について必要なことをいっさい知っており、いろいろな力関係をすべて計算ずみで、微笑をたたえながら闘いを迎えた、ということになる。だが、他面、好都合でもあった。というのは、それは彼の考えによると、彼が過少に評価されており、そのためにはじめから望みうる以上に自由をもつ、ということを立証するものであった。そして、もしこうやって彼の土地測量技師としての身分を承認して、自分たちがたしかに精神的に上位にいることを示し、それによって長く彼に恐怖の気持を抱かせておくことができる、と思っているのなら、それは思いちがいというものだ。少しばかりぞっとさせられはしたが、それだけの話だ。
おどおど近づいてくるシュワルツァーにKは合図して、立ち去らせた。亭主の部屋へ移るようにみんなにせき立てられたが、彼はことわって、ただ亭主からは寝酒を、おかみからは石鹸と手拭といっしょに洗面器を受け取った。広間から出ていってくれと要求する必要は全然なかった。あしたになってKにおぼえておられることのないようにと、みんな顔をそむけてどやどやと出ていってしまったのだった。ランプが消され、彼はやっと休むことができた。ほんの一度か二度、走りすぎる鼠(ねずみ)の音にちょっと妨げられただけで、翌朝までぐっすり眠った。
朝食のあとで――その朝食の費用も、Kのすべての食事同様に、亭主の申し出によって城が支払うということであったが――彼はすぐ村へいこうとした。きのうのふるまいを思い出して亭主とはどうしても必要なことしかしゃべらないでいたのだったが、亭主が無言の哀願をこめていつまでも彼のまわりをうろつき廻っているので、ついかわいそうになり、しばらく身近かに腰をかけさせてやった。
﹁私はまだ伯爵を知らないが﹂と、Kはいった。﹁いい仕事をすればいい金を払ってくれるということだけれど、ほんとうかね? 私のように妻子から遠く離れて旅をすると、帰るときにはいくらかはもち帰りたいものだよ﹂
﹁その点なら心配ご無用です。支払いの悪いという苦情は別に聞かれませんから﹂
﹁そうかい﹂と、Kはいった。﹁私は臆病者の仲間ではないし、伯爵にだって自分の考えをいうことができる。しかし、おだやかに城の人たちと話がつくなら、むろんそのほうがずっとよいからね﹂
亭主はKと向かい合って窓ぎわの台に坐り、もっと楽に腰をかけようとはしなかった。そして、大きな褐色の不安げな眼でKをずっとながめつづけていた。はじめは彼のほうからKのところへ押しかけてきたのだったが、今では逃げ去りたいというような様子だった。伯爵のことをきかれるのがこわいのだろうか? Kのことも偉い人と思っているのだが、その﹁偉い人﹂たちの信用できないところがこわいのだろうか?
Kは亭主の気をそらさなければならなかった。彼は時計を見て、いった。
﹁もうまもなく私の助手たちがくるだろうが、彼らを君のところへ泊めてくれることができるかね?﹂
﹁それはもう、旦那﹂と、彼はいった。﹁でも、その人たちもあなたといっしょにお城に住むんじゃありませんか?﹂
亭主はこんなにあっさりと客たち、ことにKという客を棄ててしまおうとしているのだろうか? Kに対してどうしても城へいけといっているようなものではないか。
﹁それはまだきまっていないんだ﹂と、Kはいった。﹁まず、どんな仕事をさせようとしているのかを知らなければならない。たとえばこの辺で仕事をするというのなら、この辺に住むのがりこうだろう。それにおそらく、上の城のなかで暮らすことは私の性には合わないだろう。私はいつでも自由でいたいよ﹂
﹁あなたは城のことを知らないんですよ﹂と、亭主は低い声でいった。
﹁そりゃあ、そうさ﹂と、Kはいった。﹁早まって判断してはならない。今のところ私が城について知っていることといえば、ただ城の人たちはちゃんとした土地測量技師を見つけ出すことをわきまえているということだけだ。おそらく城にはそのほかにもいろいろすぐれたところがあるだろうがね﹂そして彼は立ち上がり、落ちつかない様子で唇をかんでいる亭主を自分のところから解放してやろうとした。この男の信頼を得ることはやさしいことではなかった。
部屋を出ようとして、壁の上の黒い額ぶちにはまった暗い肖像画がKの目にとまった。寝床のなかにいるときから気がついていたのだが、遠くからでは細部がはっきりわからず、ほんとうの絵は額ぶちから取り去られてしまったのであって、黒い裏打ちの布だけが見えているのだ、と思っていた。ところがそれは、今わかってみると、ほんとうに絵であった。およそ五十歳ばかりの男の半身像だ。頭を深く胸の上に垂れているので、ほとんど眼は見えないが、頭を垂れているために重たげな広い額とがっちりした鉤(かぎ)鼻(ばな)とがくっきりと目立つ。頭のポーズのために顎(あご)に押しつけられている顔一面の髯は、ずっと下まで突き出ている。左手は、指を拡げてふさふさした頭髪のなかに入れられているが、もう頭をもち上げる力はないという風(ふぜ)情(い)だ。
﹁あれはだれだい?﹂と、Kはきいてみた。﹁伯爵かい?﹂Kはその絵の前に立ち、亭主のほうは全然振り向かなかった。
﹁いいえ、執事です﹂と、亭主がいった。
﹁城にはりっぱな執事がいるんだね。ほんとうだよ﹂と、Kはいった。﹁あんなできそこないの息子をもっているのは残念だけれど﹂
﹁いや﹂と、亭主はいって、Kを少し自分のほうに引きよせて、彼の耳にささやいた。﹁シュワルツァーはゆうべは大げさなことをいったんですよ。あの男のおやじさんはほんの下級の執事なんです。しかもいちばん下っぱの一人です﹂この瞬間、Kには亭主がまるで子供のように思われた。
﹁あん畜生!﹂と、Kは笑いながらいったが、亭主はそれに合わせて笑おうともせず、こういった。
﹁あの男のおやじだって力はあるんです﹂
﹁くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?﹂
﹁旦那は力があるとは思いません﹂と、彼はおどおどしながら、しかしまじめくさっていった。
﹁それなら君は、ちゃんと見る目があるというわけだ﹂と、Kはいった。﹁つまり、打ち明けていうと、私にはほんとうに力はないんだよ。そこで力のある人たちにはおそらく君にも劣らず尊敬の気持をもっているのだが、ただ君ほど正直ではないから、いつでもそんなことを口に出していってしまおうとはしないわけさ﹂
そしてKは、亭主を慰めてやり、自分にもっと好意をもたせるようにしてやろうとして、亭主の頬を軽くたたいた。すると亭主もやっと少しばかり微笑した。亭主はほんとうに、ほとんど髯のない柔(にゅ)和(うわ)な顔をした若者だった。どうしてこの男があのふとった老(ふ)けたような細君といっしょになんかなったんだろう? その細君といえば、そのときのぞき窓のむこうの台所で、両肘を身体のわきにぐっと突っ張ってせわしく立ち働いているのが見えた。Kは今はもう亭主にやかましいことをいいたくはなかった。やっと手に入れた相手の微笑を追い払いたくはなかったのだった。そこで、ドアを開けるように亭主に合図だけすると、晴れ渡った冬の朝景色のなかへ出ていった。
今やKは、城が澄んだ空気のなかで上のほうにはっきりと浮かび上がっているのを見た。あらゆるものの形をなぞりながらあたり一面に薄い層をつくって積っている雪のなかで、城はいっそうくっきりと浮かんでいた。ところで上の山のあたりは、この村のなかよりもずっと雪が少ないように見えた。ここの村のほうでは、きのう国道を歩いたときに劣らず、歩くのに骨が折れた。村では雪が小屋の窓までとどいていて、低い屋根の上にも重くのしかかっていたが、上の山のほうではすべてのものがのびのびと軽やかにそびえていた。少なくともここからはそう見えた。
城は、遠く離れたここから見える限りでは、Kの予期していたところにだいたい合っていた。古びた騎士の山城でもなく、新しい飾り立てた館(やかた)でもなく、横にのびた構えで、少数の三階の建物と、ごちゃごちゃ立てこんだ低いたくさんの建物とからできていた。これが城だとわかっていなければ、小さな町だと思えたかもしれない。ただ一つの塔をKは見たが、それが住宅の建物の一部なのか、それとも教会の一部なのかは、見わけがつかなかった。鴉(からす)のむれがその塔のまわりに輪を描いて飛んでいた。
Kは城に眼を向けたまま、歩みつづけた。ほかには彼の気にかかるものは何もなかった。ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、石はぼろぼろとくずれ落ちそうに見えた。Kはふと、自分の故郷の町を思い出した。故郷の町も、このいわゆる城なるものにほとんど劣ってはいなかった。Kにとって城を視察するだけが問題であったのなら、この長旅はもったいない話で、それくらいならもう長いあいだいったことのない昔の故郷をもう一度訪ねたほうがりこうというものだったろう。そして彼は、故郷の教会の塔とかなたにそびえる塔とを頭のなかで比べてみた。きっぱりした恰好で、尖端がためらうこともなく上空をめざしていて、屋根は広く、赤瓦につながっているあの故郷の教会の塔。それはたしかに地上の建物だが、――それ以外のものをどうしてわれわれは建てられるだろうか――低い家屋のむれよりはずっと高い目標をもち、陰(いん)鬱(うつ)な日常の日々がもっているよりはずっと明るい表情をもっていた。ここで上のほうに見える塔は、――それは眼に見えるただ一つの塔だった――今わかってみると、住居の塔、おそらくは城の母(おも)屋(や)の塔であり、単調な円い建物で、その一部はきづたによってうまく被われていた。小さな窓がいくつかついていて、それが今、太陽の光のなかで輝いていた。――その光景には何か気ちがいめいた趣きがあった――さらに塔の尖端はバルコニー風になっていて、その胸壁が、まるでおどおどした子供の手か投げやりな子供の手で描かれたように、不確かな様子で、不規則に、ぼろぼろに、青空のうちにぎざぎざの輪郭を浮かび上がらせていた。それは、何か正当の理由で家のなかのいちばん離れた建物に閉じこめられねばならなかった悲しい家の住人の一人が、わが身を世間に示そうとして、屋根を突き破り、ぐっと身体を起こしたような恰好だった。
Kは、立ちどまっているといっそう判断力がもてるというかのように、また立ちどまった。だが、そうはいかなかった。彼が立ちどまっていたそばにある村の教会の裏手に、――それはじつは礼拝堂にすぎなかったが、信者団を容れることができるように、納(な)屋(や)をつけたような恰好で拡張されたものだった――学校があった。ほんの一時的なものだという性格と、きわめて古いという性格とを奇妙に兼ねている低くて長い建物が、柵(さく)をめぐらした校庭のうしろに立っていた。その校庭は、今は雪野原になっていた。ちょうど子供たちが教師とともに出てきた。子供たちは密集して教師を取り囲み、みんなの眼が教師に向けられて、四方八方から口々に絶え間もなくしゃべり立てていたが、Kには子供たちの早口の言葉が全然聞き取れなかった。教師は、小柄で肩幅の狭い若い男だが、別に滑稽に見えるでもなく身体をひどくきちんと立て、すでに遠くからKを眼のうちに捉えていた。といっても、この教師の一団のほかには、Kがこのあたりにいるただ一人の人間だったのだ。よそ者であるKは、このひどく高圧的な小男に向って、自分のほうから挨拶した。
﹁こんにちは、先生﹂と、彼はいった。たちまち子供たちは黙った。この突然の静けさが自分の言葉を迎えるための準備となったので、教師の気に入ったようであった。
﹁城を見ていらっしゃるんですか?﹂と、教師はKが予期していたよりはものやわらかにたずねた。だが、Kがそんなことをやっているのに賛成できない、という調子だった。
﹁そうです﹂と、Kはいった。﹁私はよそからきたんです。ゆうべここにきたばかりです﹂
﹁城はお気に入らぬでしょう?﹂と、教師は早口でたずねた。
﹁なんですって?﹂と、Kは少しびっくりしてきき返し、それからもっとおだやかな形で問いをくり返した。﹁城が気に入ったかとおっしゃるんですか? 気に入らないなんて、どうしてお考えになるのです?﹂
﹁よその人には気に入らないのです﹂と、教師がいった。ここで相手に逆らうようなことはいうまいとして、Kは話を変え、きいてみた。
﹁あなたは伯爵をご存じでしょうね?﹂
﹁いや﹂と、教師はいい、身を転じようとした。だが、Kは追いすがって、もう一度たずねた。
﹁なんですって? 伯爵をご存じないとおっしゃるんですか?﹂
﹁どうして私が伯爵を知っているなんてお思いですか?﹂と、教師は低い声でいい、フランス語で声(こわ)高(だか)につけたした。
﹁罪のない子供たちがいることを頭に入れておいてください﹂Kはその言葉をいいたねにして、たずねた。
﹁先生、一度あなたをお訪ねしてよろしいでしょうか? 私はしばらくこの土地にいるのですが、もう今から少し心細い気がするんです。私は農夫の仲間でもないし、城の人間でもないんです﹂
﹁農夫と城とのあいだには、たいしてちがいはありませんよ﹂と、教師はいった。
﹁そうかもしれません﹂と、Kはいった。﹁でも、それは私の状態を変えはしません。一度お訪ねしてよろしいですか?﹂
﹁私はスワン街にある肉屋に住んでいます﹂
これは招待するというよりは、住所をいったまでのことだったが、それでもKはいった。
﹁わかりました。伺います﹂
教師はうなずき、またもや叫び声を上げ始めた子供たちのむれといっしょに、立ち去っていった。彼らはまもなく急な坂になっている小路のうちに消えた。
Kのほうはぼんやりしてしまい、今の対話で気分をそこねていた。到着以来はじめて、ほんとうの疲労というものを感じた。ここにくるまでの遠い道が彼を疲れさせたなどとは思われなかった。どんなに何日ものあいだ、冷静に一歩一歩とさすらいつづけてきたことか!――ところが今や、過度の緊張の結果が現われたのだった。もちろん、はなはだまずいときにである。新しい知合いを探そうという気持が、逆らいがたく彼の心をひいていた。しかし、新しい知合いのできるごとに、疲労は強まっていく。きょうの状態では、少なくとも城の入口まで無理に散歩の足をのばそうとすれば、もう手にあまるほどの骨折り仕事だった。
こうして彼は歩みをつづけていった。しかし、長い道であった。つまり、村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、近づきもしなかった。これでやっと通りは城のほうへ入っていくにちがいない、とKはいつでも期待するのだった。そして、そう期待すればこそ、歩みをつづけていた。疲労のために、この道をいくのをやめることをためらっているようであった。どこまでいっても終ろうとしないこの村の長さに彼は驚いてもいた。次から次へと小さな家々と凍(い)てついた窓ガラスと雪とがつづき、人(ひと)気(け)はさっぱりなかった。――とうとうこのしつっこい通りから身体を引きちぎるようにして離れ、狭い小路へと入っていった。そこは雪がいよいよ深く、沈んでいく足を抜き出すことはむずかしい仕事で、汗がどっとふき出てきた。彼は突然立ちどまり、もうこれ以上は歩みをつづけられなくなった。
といって、彼はただひとり見捨てられてしまったわけではなかった。右にも左にも農家が立っていた。彼は雪の玉をつくって、とある窓へ投げつけた。すぐにドアが開き、――これは村の道を歩いているあいだに最初に開いたドアであった――褐色の毛皮の上衣を着た老人の農夫が、頭をわきにかしげて、親しげに、またよわよわしい様子で、そこに立っていた。
﹁少しあなたのところへよらせて下さいませんか﹂と、Kはいった。﹁とても疲れているんです﹂
彼は老人のいうことを全然聞いていなかったが、板が自分のほうにさし出されたのをありがたく受けた。板はすぐに彼を雪から救い出してくれた。二、三歩で彼は部屋のなかに立った。
薄暗い光のなかにある大きな部屋だった。戸外から入ってくる者には、はじめは何も見えなかった。Kは洗濯バケツにぶつかってよろめいた。女の手が彼の身体を押しとどめた。片隅からやかましい子供たちの叫び声がきこえてきた。もう一方の隅から煙が巻き上がり、薄明りをほんとうの暗がりに変えていた。Kはまるで雲のなかに立っているようだった。
﹁酔っ払っているんだ﹂と、だれかがいった。
﹁あんた、だれだね?﹂と、偉そうな声が叫んだが、老人に向けられたらしかった。﹁なぜその男をつれこんだんだ? 小路をのろのろ歩いているやつは、みんなつれこんでいいのか?﹂
﹁私は伯爵の土地測量技師です﹂と、Kはいって、なおも姿の見えない者に向って言いわけしようとした。
﹁ああ、測量技師なのね﹂と、一人の女の声がいい、それから完全な沈黙がつづいた。
﹁あなたがたは私をご存じなんですね?﹂と、Kはたずねた。
﹁知っていますとも﹂と、短く同じ声がいった。Kを知っているということは、そうかといってKに対して好感をもたせてはいないようだった。
やっと煙が少し消え、Kはおもむろに様子がわかってきた。いっせいに洗濯する日らしかった。ドアの近くでは下着の洗濯をやっていた。ところが煙はもう一方の隅からきていて、その隅ではKがこれまでに見たこともないような大きな木のたらいのなかで――そのたらいはおよそベッド二つ分ほども大きかった――湯気を立てている湯に二人の男が入浴していた。しかし、もっと驚くべきものは、どういう点が驚くべきかははっきりとはわからなかったのだが、右手の隅であった。そこでは部屋の裏壁にあるただ一つの大きな隙(すき)間(ま)を通して、おそらく内庭からくるのだろうが、青白い雪明りが射しこんできて、部屋の隅の奥深くの背の高い肘掛椅子に疲れはてて横にならんばかりに坐っている一人の女の衣服に、絹のつやのような光を与えていた。女は乳(ちの)呑(み)児(ご)を胸に抱いている。女のまわりには、見ただけで農夫の子供たちとわかるような二、三人の子供たちが遊んでいた。しかし、女はこの子供たちの母親とは見えなかった。もちろん、病気と疲労とは農夫をさえも繊細らしく見せるものだ。
﹁かけなさい﹂と、男たちの一人がいった。それは顔一面に髯(ひげ)を生やし、その上、口(くち)髭(ひげ)までつけた男で、その口髭の下で荒い息をしながらいつでも口を開けたままにしているのだが、この男がおどけてみせようとして、たらいの縁ごしに手で長持を示しながら、湯をKの顔いっぱいにはねかけた。長持にはすでに、ぼんやり考えこんだようにして、Kをつれこんだ老人が腰をかけていた。Kは、やっと腰をかけてよいといわれたのがありがたかった。もうだれ一人として彼のことを気にかける者はいなかった。洗濯バケツのそばの女は、髪はブロンドで、若々しくぴちぴちしていたが、仕事をしながら低い声で歌っている。入浴している二人の男は、足を踏みならしたり、身体を向き変えたりしており、子供たちはこの男たちに近づこうとするが、Kにもとばっちりがこないではいない勢いのいいしぶきで追い払われた。肘掛椅子の女は死んだように身体を横たえ、胸の子供を少しも見ようともしないで、漠然と空(くう)をながめていた。
Kはおそらく、この変化しない美しい悲しげな女の姿を長いあいだ見つめていたのだったろうが、やがて眠りこんでしまったにちがいなかった。というのは、高い声に呼ばれてはっと眼をさましたときに、彼の頭は隣りに坐っている老人の肩の上にのっていたのだった。男たちは入浴を終えた。湯のなかでは、ブロンドの女に世話されながら、今度は子供たちがあばれ廻っていた。湯から上がった男たちは、衣服を着てKの前に立った。わめき立てる髯(ひげ)面(づら)の男は、二人のうちでつまらぬほうの男であるとわかった。つまり、もう一方の男は髯面の男よりも大きいわけでなく、ずっと髯は少なかったが、もの静かな、ゆっくりとものを考える男で、身体つきがゆったりとし、顔の幅も広く、頭を垂れたままでいた。
﹁測量技師さん﹂と、男がいった。﹁あなたはここにいるわけにはいきません。ご無礼はお許しください﹂
﹁私もとどまるつもりはなかったのです﹂と、Kはいった。﹁ただちょっと休ませていただこうと思ったのでした。もうすみましたから、出かけましょう﹂
﹁おそらくこんなひどいおもてなしに驚いておられるでしょうね﹂と、男はいった。﹁しかし、お客をもてなすということは、私どものこの土地では慣(なら)わしではないので。私どもはお客はいらないのです﹂
眠ったことでいくらか元気を回復し、前よりか少し耳もはっきり聞こえるようになったKは、この率直な言葉を悦(よろこ)んだ。彼はずっと自由に身体を動かし、ステッキをあるいはここ、あるいはあそこというふうにつきながら、肘掛椅子の女のほうに近づいていった。それにKは、身体からいってもこの部屋ではいちばん大きかった。
﹁そうですとも﹂と、Kはいった。﹁どうしてあなたがたは客がいりましょう。でもときどきは客も必要ですよ、たとえばこの私のような土地測量技師をね﹂
﹁そんなことは知りませんよ﹂と、男はゆっくりといった。﹁あなたを呼んだのなら、おそらくあなたが必要なんでしょうよ。それはきっと例外なんです。しかし、私たち身分の低い者たちは、規則をきちんと守ります。その点は悪く思ってもらっては困ります﹂
﹁いや﹂と、Kはいった。﹁私はあなたやここのみなさんにお礼をいわなければならないくらいです﹂そして、だれにとっても思いがけないことだったが、Kはあざやかに身をひるがえし、女の前に立った。疲れた青い眼で女はKを見つめた。絹の透明な頭(ずき)巾(ん)が額のまんなかまで垂れ下がり、乳呑児が胸のなかで眠っていた。
﹁君はだれです?﹂と、Kはきいた。
さげすむように――その侮(ぶべ)蔑(つ)がKに向けられたのか、それとも自分自身の答えに向けられたのか、それははっきりはしなかったが――彼女はいった。
﹁城の娘ですわ﹂
これがほんの一瞬のことであった。早くもKの左右には例の男のそれぞれが立ち、まるでこのほかにわからせる手段はないとでもいうかのように、黙ったまま、しかし力いっぱいにKをドアのところへ引っ張っていった。何がおかしいのか、老人がそのとき大悦びで、手をたたいた。洗濯女も、突然気がちがったようにさわぎ立てている子供たちのわきに立って、笑った。
しかし、Kはまもなく小路に立っていた。男たちは戸口のところからKを監視している。また雪が降ってきた。それでも少しは明るくなったように思われた。髯面の顔がいらいらして叫んだ。
﹁どこへいこうっていうのかい? こっちは城へいくんだし、こっちは村へいくんだ﹂
Kはその男には返事をしなかった。で、この男よりはまさってはいるけれども、もったいぶっているやつだとKには思われるほうの男に向って、こういった。
﹁あなたはなんというかたで? 休ませていただいたお礼はどなたに申し上げたらいいんです﹂
﹁なめし革屋のラーゼマンです﹂という返事だった。﹁でも、あなたはだれにも礼などいう必要はありませんよ﹂
﹁そうですか﹂と、Kはいった。﹁おそらくまたお会いできるでしょう﹂
﹁できないと思いますね﹂と、男はいった。
この瞬間、髯面のほうが手を上げて叫んだ。
﹁こんにちは、アルトゥール! こんにちは、イェレミーアス!﹂
Kは振り返った。それではこの村の小路にもやはり人間が現われるのだ! 城の方角から二人の中背の若者がやってきた。二人ともひどく痩せていて、ぴったりした服を着ており、顔もひどく似ていた。顔の色は暗褐色だが、とがった髯がかくべつ黒いのできわ立っていた。二人は、通りがこんな有様なのに驚くほど足早に歩き、歩調をとりながら細い足を動かしていた。
﹁どうしたんだい?﹂と、髯面の男が叫んだ。叫ばなければ二人には話が通じなかったのだ。それほど足早に歩いており、立ちどまりもしなかった。
﹁仕事さ!﹂と、二人は笑いながら叫び返してきた。
﹁どこでだい?﹂
﹁宿屋でさ﹂
﹁私もそこへいくんだ!﹂と、Kは突然ほかのだれよりも大声で叫んだ。二人につれていってもらいたい、とひどく望んだのだった。この男たちと知合いになることはたいして有利だとも思われなかったのだが、元気をつけてくれるよい道づれであるようには思えた。二人はKの言葉を聞いたが、ただうなずいただけで、いき過ぎてしまった。
Kはなおも雪のなかに立っていた。雪から足を上げ、次にまた少し前の深い雪へその足を沈める気にはほとんどなれなかった。なめし革屋とその仲間とは、Kをさっぱりと追い払ったことに満足して、たえずKのほうを振り返りながら、ほんの少しばかり開いているドアを通って家のなかへゆっくりと身体を押しこんだ。そして、Kは身を包んでいく雪のなかにただひとりになっていた。
﹁もしおれがただ偶然、そしてこうしようというつもりでなくここに立っているのなら、ちょっとばかり絶望するところだな﹂と、そんなことが彼の頭に思い浮かんだ。
そのとき、左手の小屋でちっぽけな窓が開いた。閉まっているときは、それは濃い青色に見えていた。おそらく雪の反射を受けていたからだろう。あんまりちっぽけなので、開かれた今となると、のぞいている者の顔の全体は見えず、眼だけが見えた。老人の褐色の眼だった。
﹁あそこに立っているよ﹂と、ふるえるような女の声がいうのをKは聞いた。
﹁あれは測量技師だよ﹂と、男の声がいった。それから男のほうが窓のそばに出てきて、それほどぶっきらぼうにではなくKに問いかけてきたが、自分の家の前の通りで起こることは万事きちんとしていることが大切だ、というような調子だった。
﹁だれを待っているのかね?﹂
﹁乗せてくれるそりを待っているんだ﹂と、Kはいった。
﹁ここにはそりはきませんよ﹂と、男はいった。﹁ここには乗りものは通りませんよ﹂
﹁だって、これは城へ通じる道じゃないか﹂と、Kは異論を挾んだ。
﹁なに、それでも﹂と、男はある頑固さをもっていった。﹁ここには乗りものは通りませんよ﹂
それから二人は沈黙した。だが、男は何か考えているらしかった。というのは、煙の流れ出てくる窓をまだ開け放しのままにしているのだった。
﹁ひどい道だ﹂と、Kは男に助け舟を出すようにいった。しかし、男はただこういうだけだった。
﹁むろんそうでさあ﹂
だが、しばらくして男はいった。
﹁お望みならば、わしがあんたをわしのそりでつれていってあげるがね﹂
﹁どうかそうしてくれないか﹂と、Kは悦んでいった。﹁いくらくれろというんだね﹂
﹁一文もいらないよ﹂と、男がいう。
Kはひどく不思議に思った。
﹁なにしろあんたは測量技師だからな﹂と、男は説明するようにいった。﹁で、お城の人というわけさ。ところで、どこへいきなさるのかね?﹂
﹁城へだよ﹂と、Kはすぐに答えた。
﹁それじゃあ、いかないよ﹂と、男はすぐさまいった。
﹁でも、私は城の者だよ﹂と、Kは男自身の言葉をくり返していった。
﹁そうかもしれないが﹂と、男は拒絶するようにいった。
﹁それじゃあ、宿屋へつれていってくれないか﹂と、Kはいった。
﹁いいとも﹂と、男がいった。﹁すぐそりをもってくるよ﹂
こうしたすべては、かくべつ親切だという印象を与えるものではなく、むしろ、Kをこの家の前の広場から追っ払ってしまおうという、一種のひどく利己的で小心な、そしてほとんどひどくこだわっているような努力をしているのだ、という印象を与えるものであった。
庭の門が開き、弱そうな小馬に引かれた、座席などはない、まっ平らな、軽い荷物用の小さなそりが出てきた。そのあとから男が出てきたが、腰をかがめ、よわよわしそうで、びっこをひき、痩せた、赤い、鼻風邪をひいたような顔をしていた。その顔は、頭のまわりにしっかと巻いた毛のショールのために、かくべつ小さく見えた。男は明らかに病気で、ただKを追い払うことができるようにというので、出てきたのだった。Kはそんな見当のことをいってみたが、男は手を振って押しとどめた。この男が馭(ぎょ)者(しゃ)のゲルステッカーという者であり、この乗り心持の悪いそりをもってきたのは、ちょうどこれが用意されていたからで、ほかのそりを引き出すのならばあまりに時間がかかっただろう、ということだけをKは聞かされた。
﹁おかけなさい﹂と、男はいって、鞭でうしろのそりを示した。
﹁君と並んで坐ろう﹂と、Kはいった。
﹁わしは歩くよ﹂と、ゲルステッカーがいった。
﹁いったいなぜだい?﹂と、Kはたずねた。
﹁わしは歩くよ﹂と、ゲルステッカーはまた同じ言葉をいい、咳の発(ほっ)作(さ)を起こした。発作のために身体がひどくふるえるので、足を雪のなかにふん張り、両手でそりのへりにつかまらないでいられなかった。Kはそれ以上一こともいわないで、うしろのそりに腰を下ろした。咳はおもむろに鎮まり、二人は出かけた。
Kが今日のうちにいけると思ったあの上のほうの城は、すでに奇妙に暗くなっていたが、またもや遠ざかっていった。しばしの別れのためにKに合図をしなければならぬとでもいうかのように、城では鐘の音が、悦ばしげに羽ばたくような調子で鳴りわたった。胸が漠(ばく)然(ぜん)と慕っているものの実現するのが近そうなことを告げるかのように、――というのは、その響きは胸に痛みをおぼえさせるのだった――少なくとも一瞬のあいだは胸をゆするような鐘の音であった。しかし、まもなくこの大きな鐘の音も沈黙して、別な弱い単調な小さな鐘の音にとってかわられた。その鐘の音は、おそらくやはり上のほうからくるのだろうが、おそらくもう村に入ったあたりで鳴っているのであった。もちろん、この鐘の響きのほうが、のろのろしたそりの歩みと、見すぼらしいが頑固でもあるこの馭者とに、いっそうぴったりするものだった。
﹁君﹂と、Kは突然叫んだ。――彼らはもう教会のそばまできていて、宿屋へいく道ももはや遠くはなかったので、Kは今は何かいってみることもできるのだった――﹁君が自分の責任であえて私を乗せてくれるとは、どうも驚いたことだね。そんなことをやっていいのかね?﹂
ゲルステッカーは、その言葉を気にもとめずに、小馬と並んで静かに歩みつづけていった。
﹁おい!﹂と、Kはそりの上でいくらかの雪を丸め、それをゲルステッカーの耳へ命中させた。すると相手は立ちどまり、振り向いた。だが、Kは男をこう身近かにながめると――そりは少しばかり前方へ進んでいたからだ――この腰のかがんだ、いわば虐待されている姿、赤い、疲れた、痩せこけた顔、一方は平らで、一方は落ちくぼんだ、なんとなく不ぞろいな両頬、二、三本のまばらな歯だけが残っている、もの問いたげにぽかんと開けた口、そうしたすべてを身近かにながめると、Kはさっきは悪意からいったことを、今度は同情の気持からくり返さないではいられなかった。つまり、Kを運んだことで、ゲルステッカーが罰せられることがないだろうか、ときかないでいられなかったのだ。
﹁なんだっていうんです?﹂と、ゲルステッカーはわけもわからずにきいたが、それ以上Kの説明は期待しないで小馬に声をかけた。そして、彼ら二人は先へ進んでいった。
二人がほとんど宿屋の近くまでやってきたとき、――Kには道の曲り角でそれとわかった――Kが驚いたことには、もうすっかり暗くなっていた。そんなに長いあいだ出かけていたのだろうか? 彼の計算ではほんの一、二時間ぐらいのはずだった。それに、出かけたのは朝だったし、ものが食べたいという気も全然しなかった。ほんの少し前まではずっと変わらぬ日中の明るさだったのに、今は急に暗くなっている。﹁日が短いんだ、日が短いんだ!﹂と、彼は自分にいって聞かせ、そりからするりと降りて、宿屋のほうへ歩いていった。
都合よく、亭主が宿の小さな正面階段の上に立っており、ランタンをかかげて彼のほうを照らしていた。ふと馭者のことを思い出して、Kは立ちどまった。どこか暗(くら)闇(やみ)のなかで咳の音がした。それが馭者だ。そうだ、近いうちにまた会うことだろう。かしこまってお辞儀をする亭主のところへ上がっていったとき、ドアの両側にそれぞれ一人ずつの男が立っているのに気づいた。彼は亭主の手からランタンを取ると、二人の男を照らした。さっき出会った例の男たちで、アルトゥールとイェレミーアスと呼ばれていた者たちだった。二人は今度は軍隊式の敬礼をした。自分の軍隊時代という幸福な時代のことを思い出しながら、Kは笑った。
﹁君たちは何者なんだい?﹂と、彼はたずね、一人からもう一人のほうへと眼をやった。
﹁あなたの助手です﹂と、二人が答えた。
﹁これは助手さんたちですよ﹂と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。
﹁なんだって?﹂と、Kはきいた。﹁君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?﹂
二人はそうだという。
﹁それはいい﹂と、ほんの少したってからKはいった。﹁君たちがきたのはありがたい﹂
﹁ところで﹂と、Kはさらに少し間をおいてからいった。﹁君たちはひどく遅れてやってきた。君たちはひどくずぼらだな﹂
﹁道が遠かったんです﹂と、一人がいった。
﹁道が遠かったって?﹂と、Kはくり返した。
﹁でも私は、君たちが城からやってくるのに出会ったじゃないか﹂
﹁そうです﹂と、二人はそれ以上の説明はつけないでいった。
﹁器材はどこにあるんだい?﹂と、Kがきいた。
﹁何ももっていません﹂と、二人がいった。
﹁私が君たちにまかせた器械だよ﹂と、Kはいった。
﹁何ももっていません﹂と、二人はくり返した。
﹁ああ、なんていう連中なんだ!﹂と、Kはいった。﹁土地の測量についていくらか知っているのかい?﹂
﹁いいえ﹂と、二人はいう。
﹁でも、君たちが私の昔からの助手なら、知っているはずだよ﹂と、Kはいった。二人は黙っている。
﹁まあ、入れよ﹂と、Kはいって、二人をうしろから押して、家のなかへ入れた。
それから彼らは三人そろって、かなり無口のまま食堂の小さなテーブルでビールを飲んだが、Kがまんなか、左右にその助手たちが坐った。彼ら三人のほかには、ゆうべと同じようにただ一つのテーブルが農夫たちに占められているだけだった。
﹁君たちとつき合うのはむずかしいね﹂と、Kはいって、これまで何度もやったように二人の男を見くらべた。﹁どうやって君たちを区別したらいいんだろう? 君たちがちがっているのは名前だけで、そのほかはまるで似ている、まるで……﹂と、いいかけたが、つまってしまい、思わずこうつづけた。﹁そのほかはまるで似ている、まるで二匹の蛇みたいだよ﹂
二人はにやりとした。
﹁でも、普通は私たちをよく見わけてくれますよ﹂と、彼らは弁解していった。
﹁それはそうだろう﹂と、Kはいった。﹁私自身がそれを目撃したのだからね。しかし、私は自分の眼でものを見ているわけだ。ところがその眼が君たちを見わけられないのだよ。だから私は君たちをただ一人の人間のように扱い、二人ともアルトゥールと呼ぶことにしよう。たしか君たちの片方がそういう名前のはずだね。君のほうだろう﹂と、Kは片方の男にきいてみた。
﹁ちがいます﹂と、その男はいった。﹁イェレミーアスっていいます﹂
﹁どっちだっていいさ﹂と、Kはいって、﹁私は君たち二人をアルトゥールと呼ぶよ。私がアルトゥールをどこかへやるといったら、君たち二人がいくのだ。アルトゥールに何か仕事を与えたら、君たち二人がそれをやるのだ。君たちをちがった仕事に使うことができないというのは、なるほど私にとってはひどく不便だが、そのかわり、私が君たちに頼むすべてのことに、区別なしでいっしょに責任を負ってもらうという利点がある。君たちがどういうふうに仕事の割り振りをするかということは、私にはどうでもいい。ただ、おたがいに言いのがれをいってはいけないよ。君たちは私にとっては一人の人間なのだから﹂
二人はいわれたことを考えていたが、こういった。
﹁それは私たちにはほんとに不愉快ですが﹂
﹁そのはずだよ﹂と、Kはいった。﹁もちろん君たちには不愉快にちがいないが、そうすることにきめたんだ﹂
すでに少し前からKは、一人の農夫がテーブルのまわりを忍び歩きしているのを見ていたが、その男はついに決心して片方の助手のほうへ近づき、何かささやこうとした。
﹁ちょっと失敬﹂と、Kはいって、手でテーブルの上をたたき、立ち上がった。
﹁これは私の助手たちです。今、われわれは話をしているところです。だれもじゃまをする権利はないはずですよ﹂
﹁これは、これは、失礼﹂と、農夫はおどおどしながらいい、後しざりして自分の仲間のほうへもどっていった。
﹁このことは君たちに何よりもまず注意してもらいたいが﹂と、Kは腰を下ろしながらいった。﹁君たちは私の許可なしでだれとも口をきいてはいけない。私はここではよそ者だ。そして、君たちが私の昔からの助手だというのなら、君たちもよそ者のはずだ。だからわれわれ三人のよそ者は、団結しなければならない。さあ、君たちの手を渡したまえ﹂
あまりにも素直に二人はKに手をさし出した。
﹁そんな手はひっこめたまえ﹂と、Kはいった。﹁約束の握手はしないが、私の命令はいったとおりだよ。私はもう寝るが、君たちもそうするようにすすめておく。きょうは一日仕事をさぼってしまったから、あすは仕事を朝早く始めなければならない。君たちは城へ乗っていくそりを用意し、六時にここの家の前にそりをもってきておかなければいけないよ﹂
﹁わかりました﹂と、一方の男がいった。ところが、もう一方が言葉をはさんできた。
﹁お前、わかりましたっていうが、できないっていうことはわかっているじゃないか﹂
﹁黙っていろ﹂と、Kはいった。﹁君たちはもう、たがいに別な人間になりたがっているんだね﹂
ところが、最初の男が早くもいうのだった。
﹁こいつのいうことはもっともです。できませんねえ。許可なしではよそ者は城へは入れません﹂
﹁どこにその許可を願い出なければならないんだい?﹂
﹁知りませんが、おそらく執事のところでしょう﹂
﹁それなら、そこへ電話をかけて願い出ることにしようじゃないか。すぐ執事に電話をかけること。二人でだ!﹂
二人は電話機のところへかけていき、電話をつないだ。――なんという恰好で二人は電話のところで押し合いをやっていることだろう! 外見は二人とも滑稽なくらい従順だった――そして、Kが自分たちといっしょにあした城へいってもいいか、ときいた。﹁いけない!﹂という返事がテーブルにいるKのところまで聞こえてきた。ところが、返事はもっとくわしいもので、次のようにいっていた。
﹁あすも、ほかのときも、いけない﹂
﹁私が自分で電話してみよう﹂と、Kはいって、立ち上がった。Kとその二人の助手とは、これまでは例の一人の農夫が演じた一幕を除くと、ほとんど人びとから注意を向けられていなかったのだが、Kのその最後の言葉はみんなの注意をひいたのだった。みんながKとともに立ち上がり、亭主が彼らを押しもどそうと努めたのにもかかわらず、電話機のところでKを取り巻いて小さな半円をつくった。彼らのあいだでは、Kが全然返事をもらえないのだろうという意見が優勢であった。Kは、自分はなにも君たちの意見を聞くことを要求しているのではないのだから、静かにしてくれ、と頼まないではいられなかった。
受話器からはぶんぶんいう音が聞こえてきた。Kはこれまでに電話でこんな音を聞いたことがなかった。まるで無数の子供の声のざわめきから――しかし、このざわめきもじつはざわめきではなく、遠い、遠い声が歌っている歌声のようだったが――このざわめきから、まったくありえないようなやりかたでただ一つの高くて強い声がつくり上げられるようであり、耳を打つその声は、ただ貧弱な聴覚よりももっと奥深くにしみとおることを要求するかのようであった。Kは、電話もかけないでその声をじっと聞いていた。左腕を電話台に託したまま、耳を傾けていた。
どれくらいのあいだそうしていたのか、Kにはわからなかった。亭主が上衣を引っ張って、彼に使いの者がきた、というまで、そうしていた。
﹁じゃまだ!﹂と、Kは思わず叫んだが、おそらく電話へどなってしまったらしかった。というのは、だれかが電話に出たのだった。そして、次のような対話の運びとなった。
﹁こちらはオスワルトですが、そちらはどなた?﹂と、その声が叫んだ。きびしそうな、高慢な声で、ちょっとした言葉の誤りがあるようにKには思われた。その声は、きびしそうな調子をさらに加えることによって、そうした言葉の誤りを打ち消してしまおうとしていた。Kは、自分の名前をいうことをためらった。電話に対しては彼は無防備であり、相手は大きな声で彼をおどしつけることもできるし、受話器を投げ出すこともできるのだった。そうすれば、Kはおそらく、まんざらつまらないものでもない自分の進路をみずから遮(しゃ)断(だん)してしまうことになるだろう。Kのためらいが相手の男をいらいらさせた。
﹁そちらはどなたです?﹂と、相手はくり返し、こうつけ加えた。﹁そちらからあんまり電話をかけてよこさないと、私にはありがたいのですが。ついさっきも電話がかかってきましたよ﹂
Kはこの言葉にはおかまいなしに、突然決心してこういった。
﹁こちらは測量技師さんの助手です﹂
﹁どの助手ですか? だれですか? どの測量技師ですか?﹂
Kはきのうの電話の対話を思い出した。
﹁フリッツにきいて下さい﹂と、Kはぶっきらぼうにいった。彼自身驚いたのだが、これがよかった。だが、それがよかったこと以上に、城の事務が一貫していることに驚いてしまった。返事はこうであった。
﹁もう知っています。永遠の測量技師ですね。そう、そう。で、それから? なんという助手です?﹂
﹁ヨーゼフです﹂と、Kはいった。彼の背後で農夫たちのつぶやく声が少しばかりじゃまになった。彼らは、Kがほんとうの名前をいわなかったことに承知できないらしかった。しかし、Kはその連中などに気を使っている暇はまったくなかった。というのは、電話の話が彼の緊張をひどく要求するのだった。
﹁ヨーゼフ?﹂と、きき返してきた。﹁助手たちは﹂――ちょっと間があった。その名前をだれかにきいているらしかった――﹁アルトゥールとイェレミーアスというはずだ﹂
﹁それは新しい助手たちです﹂と、Kはいった。
﹁ちがう。昔からのだ﹂
﹁新しい助手です。私は昔からの助手で、測量技師さんのあとを追ってきょうついたんです﹂
﹁ちがう!﹂と、相手は叫んだ。
﹁では、私はだれなんです?﹂と、Kは今までのように落ちついてたずねた。すると、間をおいてから、同じ声が同じような言葉の誤りをしながらいうのだった。しかし、まるで別なもっと深い、もっとおごそかな声であった。
﹁君は昔からの助手だ﹂
Kはその声の響きに聞き入っていて、次のような問いをほとんど聞きもらしてしまった。﹁用件は?﹂という問いだった。なんとかして受話器を投げ出してしまいたかった。もうこんな対話に何も期待はしていなかった。ただ、せっぱつまって、早口でこういった。
﹁私の主人はいつ城へいったらいいのでしょうか?﹂
﹁いつでもだめだ﹂という返事だった。
﹁わかりました﹂と、Kはいって、受話器をかけた。
彼のうしろの農夫たちはもう彼のすぐ近くまで押しよせてきていた。二人の助手は、しきりと彼のほうを横目でうかがいながら、農夫たちをKから遠ざけようと懸命になっていた。しかし、それはただの喜劇にすぎないように見えたし、農夫たちも電話の対話の結果に満足して、のろのろと退いていった。そのとき、農夫たちのむれはうしろから足早にやってくる一人の男にかきわけられた。その男はKの前でお辞儀をして、一通の手紙を渡した。Kはその手紙を手に取ったまま、その男をじっと見つめた。その男は、その瞬間、ほかの連中よりも重要そうな人間に見えたのであった。男と二人の助手とのあいだには大きな類似があった。二人と同じようにほっそりしていて、同じようにきちんとした服を着ており、また同じようにしなやかで敏(びん)捷(しょう)であった。だが、まったくちがってもいた。この男を助手にできたらいいんだがなあ、とKは思った。男はKに、なめし革職人のところで見た、乳呑児を抱いていた女のことを少しばかり思い出させた。ほとんど白ずくめの身なりをしており、衣服はきっと絹でつくったものではなく、ほかの連中のと同じように冬服だが、まるで絹の服のようなしなやかさとはなやかさとをもっていた。男の顔は明るくてわだかまりもなさそうであり、眼がひどく大きかった。彼の微笑はなみなみでなく人の心を明るくさせるものがあった。まるでこの微笑を追い払おうとするかのように、手で顔の上をなでたが、微笑を消すことはその男にはうまくできなかった。
﹁君はだれかね?﹂と、Kはきいた。
﹁バルナバスといいます﹂と、男はいった。﹁使いの者です﹂
男の唇は、ものをいうとき、男らしくではあるがものやわらかに、開いたり、閉じたりした。
﹁ここの様子は気にいったかね?﹂とKはきき、農夫たちを指さした。その農夫たちにとってKはまだ関心のまとでなくなってはいなかったのだが、彼らは明らかに苦しげな顔つきで――頭蓋骨はてっぺんを平たくたたきつぶされたように見えたし、顔の表情がたたかれる苦痛のうちにできあがったようであった――厚ぼったい唇とぽかんと開けた口とを見せながら、Kのほうを見ていた。しかしまた、彼のほうを見てはいないのでもあった。というのは、彼らの視線はときどきあらぬかたへと向けられ、もとへもどる前に、何かどうでもいい対象にじっととどまっているのだった。それからKは、助手たちのほうも指さしたが、二人はたがいに抱き合って、頬と頬とをよせ、従順なのか嘲笑的なのかわからなかったが、薄笑いを浮かべていた。Kはこれらの連中みんなを、まるで特別の事情で自分に押しつけられた従者を紹介するような調子で男に示し、このバルナバスが自分とこの連中とをはっきり区別するだろう、と期待した。そのなかにはこの男に対する親しさが含まれていたが、その親しさの気持こそKにとっては大切なものであった。ところがバルナバスは――もちろん、これはひどく無邪気なものであり、それははっきりとわかったが――この問いかけをまったく取り上げず、まるで良いしつけを受けた召使が、主人のただうわべだけは命じたように見える言葉をやりすごすような調子で受け流し、ただ問いかけに答えるようなそぶりであたりを見廻して、農夫たちのあいだの知人に手ぶりで挨拶し、二人の助手とは一、二の言葉を交わした。これらの態度はすべて自由で自主的であり、この連中のなかにとけこむことはなかった。Kは――はねつけられたが、恥かしい思いはさせられずに――手にした手紙へ注意をもどし、それを開いた。手紙の文句は次のようだった。
﹁拝啓。すでにご存じのように、あなたは領主の仕事に採用されました。あなたのすぐ上に立つ上役はこの村の村長で、この人があなたの仕事と報酬条件とについていっさいのくわしいことをお知らせするでしょう。また、あなたはこの村長に報告の義務を負います。しかし、私もやはりあなたを眼から放さないでしょう。この手紙を伝達するバルナバスは、ときどきあなたの希望を聞くためにあなたのところへいき、それを私に伝えるでしょう。私はできるだけあなたの意に添う用意があるものとご承知下さい。働く者が満足しているということこそ、私の関心事であります﹂
署名は読めなかったが、署名のそばに﹁X官房長﹂と印刷されていた。
﹁待ってくれ﹂と、Kはお辞儀をしているバルナバスにいい、自分に部屋を見せるように、宿の亭主にいいつけた。この手紙のことを考えるためにしばらくひとりになりたかったのだった。ところで、バルナバスは彼にひどく気に入ってはいたが、ただの使いにすぎないのだ、ということを思い出し、この男にビールをやるように命じた。男がビールをどんなふうに受け取るだろうか、とKは注意して見ていたが、彼は明らかにひどく悦んでそれを受け取り、すぐに飲んでしまった。それからKは亭主といっしょに出ていった。この小さな家にはKのためといってもただ小さな屋根裏部屋が用意できるだけであり、それさえもいろいろな困難があった。というのは、それまでその部屋に寝ていた二人の女中をほかへ住まわせなければならなかったのだ。実をいうと、ただ二人の女中を追い払っただけの話で、そのほかには部屋は少しも変わらず、たった一つのベッドにシーツ一枚あるわけでなし、ただ一、二枚のクッションと馬の鞍(くら)被(おお)い一枚とが、ゆうべ置き去りにされたままの状態で残されているだけであった。壁には一、二枚の聖人の絵と兵隊の写真とがかかっていた。風を入れた形跡もなかった。どうも新しい客が長くはいないと思っていたらしく、客を引きとめるために何一つやってはなかった。しかし、Kは万事承知して、毛布で身体をくるみ、机に腰を下ろして、一本の蝋(ろう)燭(そく)をたよりに手紙を読み始めた。
手紙はまとまりがなく、自由意志をみとめられた自由な人間に話すようにKに語りかけている個所があった。上書きがそうで、彼の希望に関する個所がそうだった。ところが一方、あけっ放しにか遠廻しにか、彼が例の官房長の地位からはほとんど目にとまらぬちっぽけな一労働者として扱われている個所があった。官房長は﹁彼を目から離さない﹂よう努める、というのだが、彼の上役は村長にすぎず、しかもこの村長に報告の義務を負わされているのだった。彼のただ一人の同僚は村の警官ぐらいなのだろう。これは疑いもなく矛(むじ)盾(ゅん)であり、矛盾はわざとつくられたにちがいないほど歴然としていた。こんな矛盾をさらけ出しているのは役所のあいまいな態度のせいにちがいないと考えるのは、こういう役所に関してはばかげた考えというもので、そんな考えはほとんどKの頭を掠(かす)めなかった。むしろ彼はその矛盾のうちに、公然とさし出された選択の自由を見たのであった。彼がこの手紙の指示から何をしようと思うのか、城とのあいだにともかくもほかの連中とはちがってはいるがただ見かけだけにすぎない関係をもつような村の労働者であろうとするのか、あるいは、ほんとうは自分の仕事関係のいっさいをバルナバスの通知によってきめさせる見かけだけの村の労働者であろうとするのか、この選択が彼にはまかせられているのだった。Kは選ぶのにためらわなかった。たといこれまでにしたような経験がなかったとしても、ためらいはしなかったろう。ただ、できるだけ城の偉い人たちから遠く離れて、村の労働者として働くときにだけ、城の何ものかに到達できるのだ。彼にとってまだ不信の念を抱いている村の連中も、もし彼がたとい彼らの友人ではなくとも彼らの仲間となったときに、やっと話し始めるだろう。そして、もし彼がひとたびゲルステッカーやラーゼマンと区別されなくなれば、――大至急そうならなければならない。それにすべてはかかっているのだ――彼にはきっとあらゆる道が一挙に開けてくるのだ。それらの道は、ただ上の城の偉い人たちと彼らの思(おぼ)召(しめ)しとにまかせているだけであれば、永久に閉ざされているばかりか、目に見えないままでいるにちがいないのだが。もちろん一つの危険はあるのであって、その危険は手紙のなかにも十分に強調されており、まるでのがれることができないものであるかのように、一種の悦びをもって書き表わされている。危険というのは、労働者であることだ。勤務、上役、仕事、報酬条件、報告、働く者、そんなことが手紙にいっぱい書かれている。そして、別なこと、もっと個人的なことがいわれていても、それはそうした観点から述べられているのだ。Kがもし働く者であろうとすれば、それになれるのだが、そうすればひどく深刻な話で、ほかのものになる見込みはまったくないのだ。Kは、ほんとうの強制におびやかされているのではない、ということを知ってはいた。そんなものを恐れてなんかいなかったし、少なくとも今の場合そんなものを恐れはしなかった。しかし、気力を失わせるような環境、幻滅に慣(な)れてしまうこと、またそれぞれの瞬間の気づかない影響力、そうしたことのもつ大きな力を彼は恐れていた。だが、そうした危険とこそ彼は闘わなければならないのだ。手紙はまた、もし闘いを生じるようになったなら、Kのほうが不敵にも闘いを始めたのだ、ということもあからさまに書いていた。それは微妙に表現されていて、安らかでない良心だけが――それは安らかでないだけで、けっしてやましいわけではないのだ――気づくことができるものであった。つまり、彼を勤務に採用することに関して﹁ご存じのように﹂と書いてある言葉がそれである。Kはすでに到着を報告したが、それ以来、手紙が表現しているように、自分が採用されたのだ、ということを知っていたのであった。
Kは絵の一枚を壁からはずして、手紙をそのくぎにかけた。この部屋に住むことになろうから、ここに手紙をかけておこう、と思ったのだ。
それから彼は下の店へ降りていった。バルナバスは助手たちとともに小さなテーブルに坐っていた。
﹁ああ、君はここにいたんだね﹂と、Kはただバルナバスを見てうれしかったので、何とはなしにいった。バルナバスはすぐ飛び上がった。Kが部屋に入るやいなや、農夫たちは彼のところへ近づこうとして腰を上げた。いつでも彼のあとを追いかけることが、すでにこの男たちの習慣となっていた。
﹁いったい君たちはいつも私に何の用があるというのかね?﹂と、Kは叫んだ。彼らはKのこの言葉を悪くは取らずに、のろのろと自分の席へもどっていった。彼らの一人が、立ち去りながら説明するようにいった。
﹁いつでも何か新しいことが聞けるんでね﹂
その調子は軽率で、あいまいな薄笑いを浮かべていたが、ほかの何人かもそんな笑いかたをしていた。そして、いい出した男は、まるでその新しいことというのがご馳走でもあるかのように、唇をなめるのだった。Kは相手の意を迎えるようなことは何もいわなかった。それで連中が彼に対して敬意をもつようになれば、そのほうがよいのだ。ところが、彼がバルナバスのそばに腰を下ろすやいなや、たちまち一人の農夫の息を首すじに感じた。その男のいうところによれば、塩入れを取りにやってきたということだったが、Kが怒りのあまり足を踏みならしたため、その農夫は塩入れをもたずに逃げ去った。Kに手出しをすることはほんとうにたやすく、たとえばただ農夫たちを彼に向ってけしかけさえすればよかった。彼らのしつっこい関心は、Kにはほかの者たちのうちとけぬ態度よりもたちが悪いもののように思えたし、その上、それはうちとけぬ態度でもあった。というのは、もしKが彼らのテーブルに腰を下ろしたならば、彼らはそこに坐ったままでいなかったろう。ただバルナバスがいるため、Kはひとさわぎ起こすことを思いとどまった。しかし、彼はそれでもなおおびやかすように彼らのほうに向きなおった。彼らもまた彼のほうを向いていた。しかし、彼らがめいめい自分の席に坐り、たがいに話もせず、はっきりとしたつながりももたぬまま、ただみんなが彼をじっと見つめているということだけでたがいにつながりあっているのを見ると、彼らがKを追いかけている動機もけっして悪意なのではないように思われた。おそらく彼らはほんとうに何かを彼に望んでいながら、ただそれを口に出してはいえないのであろう。そして、もしそうでなければ、それはおそらくただ子供っぽさなのだろう。その子供っぽさというのは、ここではごくあたりまえのことのように見えた。亭主も子供っぽくないだろうか。亭主は、客のだれかのところへもっていくはずの一杯のビールを両手で支え、立ちどまり、Kのほうを見ていて、台所の小窓から身体を乗り出しているおかみの呼びかける言葉を聞きのがしている有様だった。
いくらか落ちついて、Kはバルナバスのほうへ向きなおった。助手たちを遠ざけたかったのだが、口実が見つからなかった。ところで助手たちのほうは、じっとしてビールをながめていた。
﹁手紙は読んだよ﹂と、Kは語り始めた。﹁君は内容を知っているかい?﹂
﹁いいえ﹂と、バルナバスがいった。彼のまなざしは言葉よりもたくさんのものを語っているように思われた。おそらくKは、農夫たちについて悪意ということで思いちがいしたように、この男については善意ということで思いちがいしたのであった。しかし、この男が眼の前にいることが気持よいという点では、変りがなかった。
﹁手紙には君のことも書いてあるよ。つまり君はときどき私と官房長とのあいだの通知を伝えるということだ。それで私は、君が手紙の内容を知っているものと思ったのだよ﹂
﹁私が受けている命令は﹂と、バルナバスがいった。﹁ただ手紙をお渡しし、それを読まれるまで待って、もしあなたに必要と思われるときには、口頭か文面で返事をもちかえるということだけです﹂
﹁わかった﹂と、Kはいった。﹁手紙の必要はない。お伝えしてくれ、官房長に。――ところで、なんという名前なのかね? 署名が読めなかったんだ﹂
﹁クラムです﹂と、バルナバスがいった。
﹁では、クラムさんに、ご採用くだすったこと、また特別にご親切なことに感謝している、とお伝えしてくれ。ここではまだ全然身のあかしを立てていない人間として、私はそのご親切をありがたく思っているってね。私は完全にその人の考えているとおりにふるまうよ。今日のところ、特別な願いはないよ﹂
バルナバスは、じっと耳を傾けていたが、伝えるようにいわれた言葉をKの前でくり返させてくれ、と頼んだ。Kがそれを許すと、バルナバスは全部一字一句そのままくり返した。そして、別れを告げるため、立ち上がった。
さっきからずっとKは彼の顔を探るように見ていたが、今度は最後にまたその顔をそっと見た。バルナバスはおよそKと同じ背の高さだが、それでもKに対しては伏し眼づかいのように見えた。だが、その様子がほとんど謙虚なほどなので、この男がだれかに恥かしい思いをさせるようなことはありえなかった。もちろん、この男はただの使者であり、自分が運ぶように命じられた手紙の内容を知らなかったが、彼のまなざし、微笑、歩きかたは、自分の使者という身分について何も知らなくとも、いかにも使者らしい様子であった。そして、Kが彼に手をさし出すと、彼はそれに驚いたらしかった。というのは、彼はただお辞儀だけしようと思ったのであった。
彼が立ち去ったすぐあと、――ドアが開く前に、Kはなお少し肩でドアによりかかり、もはやだれにということもないまなざしで部屋じゅうを見わたしていたのだ――Kは二人の助手にいった。
﹁部屋から私の書きものをもってくる。それからさしあたって仕事のことを話そう﹂
二人はいっしょにいこうとした。
﹁ここにいろ!﹂と、Kはいった。それでもなお二人はいっしょにいこうとした。Kはもっときびしくその命令をくり返さなければならなかった。玄関口にはバルナバスはもういなかった。しかし、彼はちょうど今、出かけていったばかりであった。しかし、家の前にも――また雪が降っていた――バルナバスは見つからなかった。Kは叫んだ。
﹁バルナバス!﹂
答えはなかった。まだ家のなかにいるのだろうか。ほかの可能性はないように思われた。それでもKはなお、力の限り名前を叫んだ。その名前を呼ぶ声が夜を通して高々と響いた。すると、遠くから微かな返事が聞こえてきた。こうやってみると、バルナバスはあんなに遠くへいっているのだ。Kは彼にもどってこいと叫び、自分のほうからも同時に彼のほうへ歩いていった。二人が出会ったところでは、二人の姿は宿屋からはもう見えなくなっていた。
﹁バルナバス﹂と、Kはいった。声のふるえを抑えることができなかった。﹁まだ君にいいたいことがあったんだよ。私が城に何か用事があるとき、ただ君が偶然やってくるのにたよっているだけでは、どうもまずい、と気がついたんだよ。もし今、偶然、君に追いついていなかったなら――君はまるで飛ぶようだね。まだ家にいると思ったんだが――君がこのつぎ現われるまで、どれほど長いあいだ待たねばならなかったことだろう﹂
﹁そうそう﹂と、バルナバスはいった。﹁あなたがきめたきまった時期に私がやってくるように、官房長に頼んだらいいですよ﹂
﹁それでもまだ十分じゃないだろう﹂と、Kはいった。﹁おそらく一年ぐらい私は何もいってやりたくないんだ。ところが、君が出かけてから十五分もたつと、何か延ばせない急用が起こるだろうよ﹂
﹁それでは、私を通じるほかに、官房長とあなたとのあいだにもう一つ別な連絡方法をつくるように、官房長へお伝えしましょうか?﹂
﹁ちがうんだ、ちがうんだ﹂と、Kはいった。﹁全然そうじゃない。このことはただついでにいっただけなんだよ。今日は君に運よく会えたからね﹂
﹁宿屋へもどりましょうか?﹂と、バルナバスはいった。﹁そこであなたが私に用事をいいつけて下さることができますから﹂彼は早くも宿屋のほうへ一歩進んでいた。
﹁バルナバス﹂と、Kはいった。﹁その必要はないよ。君と少しばかりいっしょに歩こう﹂
﹁なぜ宿屋へいらっしゃりたくないんですか﹂と、バルナバスがたずねた。
﹁あそこの連中がうるさくてね﹂と、Kはいった。﹁農夫たちの厚かましさを君も自分で見たろう﹂
﹁私たち二人だけで、あなたのお部屋へいくことができます﹂と、バルナバスはいう。
﹁あれは女中たちの部屋だ﹂と、Kはいった。﹁汚なくて、うっとうしい。あんなところにいなくてすむように、君といっしょに少し歩きたいんだ。ただ、頼むが﹂と、Kはためらいをきっぱり捨て去るために、つけ加えていった。﹁君と腕を組ませてくれたまえ。なにしろ君のほうが歩きかたがしっかりしているからね﹂そして、Kは相手の腕にすがった。すっかり暗くなっていて、Kには相手の顔がまったく見えず、その姿もおぼろげであった。Kはその少し前に、相手の腕を探ってつかもうとしたのだった。
バルナバスはKのいうなりになり、二人は宿屋から遠ざかっていった。もちろんKは感じていた。どんなに努めたところでバルナバスと同じ歩きかたをしていくことができないし、この男の自由な動きを妨げるだけなのだ。普通の場合ならこんなつまらぬことだけのためにいっさいがだめになってしまうのだ。どんな裏通りでだってそうだろう。けさもあの裏通りで雪のなかに埋まってしまったではないか。バルナバスに助けられてこそやっと抜け出すことができるのだ。そう感じたものの、Kはこうした心配を今は捨て去った。また、バルナバスが黙っていることが、彼の気持を楽にした。つまり、二人が黙ったまま歩いていくなら、バルナバスにとっても歩みつづけること自体が、二人のいっしょにいることの目的となっているはずだ。
二人は歩いていったが、どこへいくのかはKにはわからなかった。何一つ、Kには見わけがつかなかった。二人がもう教会のそばを通り過ぎてしまったのかどうかも、Kにはまったくわからなかった。ただ歩いていくことだけのために起こる大儀さによって、彼は自分の考えをまとめられないようになっていた。彼のさまざまな考えは、はっきりした目標に向ったままでいないで、さまざまに混乱した。たえず故郷のことが頭に浮かび、故郷の思い出が彼の心をみたした。故郷の町でも、広場に教会があり、その教会は一部分古い墓地に囲まれ、その墓地には高い塀(へい)がめぐらされていた。きわめて少数の子供たちだけがこの塀によじ登ることができたのであり、Kもまだできないでいた。好奇心が子供たちを駆ってこんなことをさせたのではない。墓地は子供たちには秘密などはまったくなかった。小さな格子戸を通って、子供たちはすでにしばしば墓地のなかに入っていた。ただ、高い塀を征服したかったのだった。ある朝――静かな、人気のない広場には光があふれていた。Kはそれ以前にもそれからも、そんな広場をいつ見たであろうか?――Kはその塀を驚くほどたやすくよじ登ることができた。それまで何度もはねつけられていた場所で、彼は小旗を歯のあいだに挾んで、その塀を一気によじ登ったのであった。まだ砂利が彼の足もとにざらざら落ちているうちに、もうてっぺんに登っていた。彼が旗を打ち立てると、風がその布をふくらませた。彼は見下ろし、ぐるりと見廻し、また肩越しにも見て、地面に沈んでいる十字架をながめた。そのとき、そこでは、彼自身よりも偉大な者はだれ一人いなかった。すると、たまたま先生が通りかかって、怒った目つきでKを降りさせた。飛び降りるとき、Kは膝を傷つけ、やっとの思いで家へ帰った。それでも、彼は塀の上に登ったのであった。そのとき、この勝利の感情は長い生(しょ)涯(うがい)のあいだ一つの拠りどころを与えてくれるように彼には思われたが、それもまったくばかげたことではなかった。というのは、何年もたって雪の夜にバルナバスの腕にすがっている今も、その感情は彼の助けとなったのであった。
彼はいよいよしっかりと相手の腕にすがり、バルナバスのほうはほとんど彼を引きずっていった。沈黙は破られなかった。道について彼の知っていることといえば、通りの状態から推測するのに、自分たちがまだわき道へ曲がってはいないのだ、ということだけだった。道にどんなに困難があろうと、あるいは帰り道についての心配があろうと、歩みをつづけることをやめたりなんかしないぞ、と心に誓った。結局のところ、相手に引きずられていくのだから、彼の体力でも十分だろう。それに、道が無限だなどということはありえようか。昼間見ると、城はたやすくいきつくことができる目標のように眼前に横たわっているし、このバルナバスという使者はきっといちばんよく近道を知っているはずであった。
ふと、バルナバスは立ちどまった。自分たちはどこにいるのだろうか。バルナバスはKと別れるのだろうか。そんなことはうまくできないだろう。Kはバルナバスの腕をしっかとつかんでいたので、ほとんど自分の身体が痛いほどだった。それとも、信じられないことが起って、二人はもう城のなかか、城の門の前まできているのだろうか。しかし、Kの知る限りでは、彼らは登り道をやってきたのではなかった。それともバルナバスは、気づかぬうちに登っていく坂道を案内してきたのだろうか。
﹁ここはどこかね?﹂と、Kは低い声で、相手によりもむしろ自分に向ってきくような調子でいった。
﹁うちですよ﹂と、バルナバスは同じような調子でいった。
﹁うちだって?﹂
﹁滑らないように注意してください。下り坂ですから﹂
﹁下り坂だって?﹂
﹁もうほんの二、三歩です﹂と、相手はつけ加えたが、もう一軒の家のドアをノックしていた。
一人の娘がドアを開けた。二人は大きな部屋の入口に立ったが、その部屋はほとんどまっ暗だった。というのは、左手の奥の机の上に小さな石油ランプが一つかかっているだけだった。
﹁だれといっしょなの、バルナバス﹂と、その娘がきいた。
﹁測量技師さんだよ﹂と、彼がいった。
﹁測量技師さんですって﹂と、娘はテーブルに向ってもっと大きな声でくり返していった。すると、テーブルのところで老夫婦と、さらに一人の娘とが立ち上がった。みんなはKに挨拶した。バルナバスはみんなをKに紹介した。それは彼の両親と姉のオルガと妹のアマーリアとであった。Kは彼らをほとんど見なかった。家の者が、ストーブで乾かすために、Kのぬれた上衣を脱がせた。Kはされるままにしていた。
これでは二人とも家にいるわけではない。バルナバスだけが家にいるのだ。でも、この人たちはどうしてここにいるのだろう。Kはバルナバスをわきへ呼んで、きいてみた。
﹁なぜ君は家へきたんだい? それとも、君たちは城の構内に住んでいるわけかい?﹂
﹁城の構内にですって?﹂と、バルナバスはまるでKのいうことがわからぬように、きき返した。
﹁バルナバス、だって君は宿屋から城へいこうとしたんだろう?﹂と、Kはいった。
﹁いいえ﹂と、バルナバスはいう。﹁私は家へいこうと思ったんです。城には朝早くいくんで、城に泊まることはありません﹂
﹁そうかい﹂と、Kはいった。﹁君は城へいこうとしたんじゃなくて、ただここへ来ようとしたんだね﹂――バルナバスの微笑は彼には前よりも弱々しく見えたし、バルナバスという人間そのものも前よりは見ばえがしないように見えた――﹁なぜ、そのことを私にいわなかったんだね﹂
﹁おたずねにならなかったものですから﹂と、バルナバスはいった。﹁あなたはしきりに用事をいいつけようとされましたが、食堂でもあなたの部屋でもしたくないようでしたので、私はこう思ったんです。この私の両親のところでならじゃまもなく私に用事をいいつけることができるだろう、って。ご命令とあれば、みんなはすぐに座をはずします。また、私どものところがお気に入りましたら、ここに泊って下すっていいのです。これでよかったのではないでしょうか﹂
Kは返事ができなかった。それでは誤解だったのだ。ばかばかしい、つまらない誤解だったのだ。そして、Kはその誤解にすっかり身をまかせてしまったのだった。バルナバスのぴったりした、絹のように光沢のある上衣に心を奪われていたが、この男は今ではその上衣のボタンをはずしていて、上衣の下からは、下僕らしいたくましい角張った胸の上に、粗末な、汚れて灰色になった、つぎだらけのシャツが見えていた。そして、まわりのすべてがそのシャツにぴったり合っているばかりでなく、それを上廻ってさえいた。老いた、痛風を病んでいる父親。それは、ゆっくりと押し出すこわばった脚の力よりも、むしろ探るような手の助けで前へ歩いている。母親は、胸の上で手を組み、あまりふとりすぎてほんのちょっぴりしか歩くことができない。この父と母との二人は、Kがはいってきたとき以来、坐っていた部屋の片隅から彼のほうへ歩いているのだが、まだとても彼のところまではこられないでいる。二人の姉(きょ)妹(うだい)はブロンドで、姉妹同士似ており、バルナバスにも似ているが、バルナバスよりもきつい顔つきをして、大柄でじょうぶそうであった。この二人が、やってきたKとバルナバスとを取り囲み、Kから何か挨拶の言葉を待っていた。しかし、Kは何一つ、いえなかった。この村ではだれもが自分にとって意味があるのだ、と彼は信じていたし、また実際にそうでもあったが、この家の人たちは全然彼の気にかからなかった。もしひとりで宿屋へいく道をいけるものなら、彼はすぐに出かけたことだろう。朝早くバルナバスといっしょに城へいけるという可能性は、彼の心をまったくひかなかった。今、この夜なかに、人目にもつかず、バルナバスの案内で城へ入っていきたかった。しかし、そのバルナバスは、これまでKに思われていたように、ここで出会っただれよりもKに近く、同時にまた、外見に表われている身分よりもはるかに城と関係が深いのだ、と信じていたようなバルナバスでなければならない。しかし、この家族の息子と――バルナバスは完全にこの家族の一員で、家族といっしょにすでにテーブルに坐っていた――つまり、注目すべきことだが、けっして城に泊ってはならない一人の男といっしょに、その腕にすがって真昼に城へいくということは不可能であり、滑稽なくらい望みのない試みなのだった。
Kは、やはりここで夜を過ごそう、しかし、泊めてもらう以外にはこの家族に何一つサービスしてもらうまい、と決心して、窓辺の台へ腰を下ろした。彼を追い払ったり、あるいは彼を恐れていた村の連中は、彼にはこれよりも危険が少ないもののように思われた。というのは、村の連中は、根本において自分自身だけにたよるように彼に教えたのであり、彼が力を集中しておくように助けてくれたのだった。ところが、こんな見かけの援助者たち、つまり、彼を城へ案内するかわりに、けちな仮装芝居を打って自分たちの家庭へつれてくるような人たちは、欲すると欲しないとにかかわらず、彼を目的からそらしてしまい、彼の気力を破壊することに一役買っているのだ。家族のテーブルから、こちらへどうぞ、という誘いの呼び声がかけられたが、それを彼はまったく無視し、頭を垂れたまま、窓辺の台に残っていた。
すると、オルガが立ち上がった。これは姉妹の優しいほうの娘で、また娘らしい当惑の色を示してもいたが、Kのほうにやってきて、食事にきてください、と頼んだ。パンとベーコンとが用意してあります、ビールももってきましょう、ということだった。
﹁どこからです?﹂と、Kがたずねた。
﹁宿屋からです﹂と、彼女がいう。
それはKにとってありがたかった。そこで彼は、ビールはもってこないで下さい、そのかわり宿屋まで私についていって下さい、宿屋にまだ重要な仕事が残っていますから、と彼女に頼んだ。ところが、彼女はそんなに遠くの彼の宿屋までいくのではなく、ずっと近い紳士荘へいこうとしているのだ、ということがわかった。それでもKは、彼女につれていくように頼んだ。おそらくそこに泊まることができるだろう、その寝場所がどんなものであろうと、この家のいちばんましなベッドよりもましだろう、と考えたのだった。オルガはすぐには返事をせず、テーブルのほうを振り返った。そこでは弟がもう立ち上がっていて、承知したようにうなずき、いうのだった。
﹁このかたがお望みなら、そうしなよ﹂
この同意の言葉はほとんどKに、彼の頼みを撤回しようというという気持にさせるくらいだった。この男ときたら、ただつまらぬことにだけ同意できるのだ。ところが、Kを宿屋へいかせたものだろうか、という問題が相談され、全部の者がそれはまずいというとなると、Kはいっしょにいきたい、と強情にせがんだ。しかし、自分の頼みに対する納得のいくような理由を考え出す努力はしなかった。この家族の一同は、あるがままの彼を受け入れて、そのいうことをきかなければならないのだ。彼はいわばこの家族に対して少しも羞(しゅ)恥(うち)感(かん)を抱いていないのだ。ただアマーリアだけが、彼女のまじめで、率直で、動じない、おそらくはまたいくらか鈍感でもあるようなまなざしで、彼を少しばかり、とまどいさせた。
宿屋へいく短い道のりのあいだに――Kはオルガの腕にすがって、さっき弟にされたようにほとんど引きずられていった。そのほかにはどうもしようがなかったのだ。――この宿屋はほんとうは城の偉い人たちだけのためのもので、その人たちは、何か村に用事があるときにはそこで食事をしたり、ときどきは泊ったりするのだ、ということを聞いた。オルガは、低い声で、まるで親しみをこめるようにしてKと話した。彼女といっしょに歩くことは、ほとんど弟といっしょに歩くのと同じように気持がよかった。Kはこんな快感を抑えようとしたが、それには勝てなかった。
宿屋は外見上、Kが泊っている宿屋とひどく似ていた。およそこの村には、外見上に大きなちがいはないのだが、それでも小さなちがいはすぐにみとめられた。入口へ通じる前階段には手すりがあり、戸口の上には美しい角燈がつけられていた。二人がなかへ入っていったとき、頭の上で布がぱたぱた鳴ったが、それは伯爵家の紋章を染めぬいた旗であった。玄関ですぐに亭主に出会った。監視のために見廻っていたらしい。彼は通り過ぎながら、探るような、また眠たげでもある小さな眼で、Kを見て、いった。
﹁測量技師さんは酒場までしかいけません﹂
﹁わかっていてよ﹂と、オルガはすぐにKのかわりに返事を引き受けて、いった。﹁このかたは、ただ私についてこられただけなのよ﹂
ところが、Kは彼女の取りなしをありがたいとも思わずに、オルガから離れて、亭主をわきへ呼んだ。オルガはそのあいだ、我慢強く玄関の隅のところで待っていた。
﹁ここに泊まりたいんだが﹂と、Kはいった。
﹁残念ですが、それはできません﹂と、亭主がいう。﹁あなたはまだご存じではないようですね。ここは城のかたたちのための宿ときまっているんです﹂
﹁それはそういう規則かもしれないが﹂と、Kはいった。﹁でも、どこか片隅に私を寝かせてくれるぐらいのことは、きっとできるはずだね﹂
﹁ご希望をかなえてあげたいんですが﹂と、亭主がいった。﹁あなたが今、他国者のやりかたで口にされたその規則というのがきびしいことは別としても、それはとてもできない相談です。なにしろ、城のかたたちはひどく神経質なもんでしてね。私は確信しているんですが、あのかたたちは、少なくとも不意には、他国者を見ることに我慢できないんです。そこで、もし私があなたをここにお泊めし、あなたが偶然――そして、偶然というのはいつでも城のかたたちのほうに味方しているんですからね――見つけられでもしようものなら、私がひどい目にあうばかりでなく、あなた自身もそうなりますよ。ばかげたように聞こえるかもしれませんが、ほんとうなんです﹂
この背の高い、きちんとボタンをかけた亭主は、片手を壁に突っ張らせ、もう一方の手を腰に当てて、両手を交叉させ、少しばかりKのほうに身をかがめ、親しげに彼に話しかけた。彼の黒い服はただ農民の祭りのときに着るもののように見えるのだが、ほとんどこの村の者のようには見えなかった。
﹁あなたのいうことはそっくりそのまま信じますよ﹂と、Kはいった。﹁どうも言いかたがまずかったかもしれないけれど、規則の重要さを軽んじているわけでは全然ないのです。ただ、一つのことだけあなたに聞いていただきたい。私は城にいろいろ重要な関係者たちをもっているし、これからももっと重要な関係者たちをもつようになるでしょう。そういう人たちが、私がここに泊ったために起こるかもしれない危険からあなたを守ってくれるでしょうし、また、ちょっとしたご好意に対しても十分のお礼をすることができるのだ、ということを保証してくれるでしょう﹂
﹁わかっています﹂と、亭主はいい、もう一度、くり返した。﹁わかっています﹂
ここで、Kは彼の要求をもっと強く出すことができたでもあろう。しかし、まさに亭主のこの返事が彼の気をそいでしまったので、彼はただこういった。
﹁今晩は、城の多くのかたたちがここに泊っていらっしゃるんですか?﹂
﹁その点では、今晩は好都合です﹂と、亭主はほとんど誘いかけるようにいった。﹁ただお一人のかただけがここにお泊まりです﹂
まだKは押して頼むことができないでいたが、もうほとんど頼みが聞き入れられたものと期待した。そこでその人の名前だけをたずねてみた。
﹁クラムです﹂と、亭主はさりげなくいい、細君のほうを振り返った。細君は、ひだや折り目がいっぱいついている、珍妙なくらい着古した古風な服だが、それでも上品で都会風なのを着て、衣(きぬ)ずれの音を立てながらやってくるところだった。亭主を迎えにきたのだが、官房長様がなにかご用がおありなのだ、ということだった。ところが、亭主はむこうへいく前に、まるでもはや彼自身ではなくてKが泊まるかどうかをきめなければならないのだとでもいうかのように、なおKのほうに顔を向けた。しかし、Kは何もいえなかった。ことに、まさに彼の上役がここにいるという事情が、彼を面くらわせた。自分自身でもよく説明はつかないのだが、クラムに対しては、そのほかの城の人たちに対するように自由な気持ではいられなかった。ここで彼につかまるということは、なるほどKにとっては亭主のいった意味での恐れとはならないだろうが、ひどくまずいことにはちがいないだろう。いってみれば、彼が感謝しなければならない人に、軽率にも何かある苦痛を与えるようなものである。それとともに、彼は憂(ゆう)鬱(うつ)な気分になってしまった。こうした懸(けね)念(ん)のうちには、下僚の身分であること、労働者であることの、恐れていたような結果をはっきり示しているのだ、そして、そうした結果がはっきりと表われてきているここで、それに打ち勝つことができないのだ、と見て取ったからであった。そこで彼は立ちすくんだまま、唇をかみしめ、何もいわずにいた。亭主はドアへ消えていく前に、もう一度Kのほうを振り向いた。Kは亭主の後姿を見送って、その場を去らずにいたが、オルガがやってきて、彼を引っ張っていった。
﹁亭主になんのご用がありましたの?﹂と、オルガがきいた。
﹁ここに泊まろうとしたんだ﹂と、Kはいった。
﹁あなたはうちに泊まればいいのよ﹂と、オルガはいぶかるような調子でいった。
﹁そうだね、ほんとうだ﹂と、Kはいって、その言葉の意味をどう取るかは彼女にまかせた。
酒場はまんなかが完全にがらんとしている大きな部屋で、壁ぎわのいくつかの樽(たる)のそばや樽の上には、何人かの農夫たちが坐っていた。だが、ここの連中は、Kの泊っている宿屋の連中とはちがっているように見えた。灰色がかった黄色のあらい生地の服を着て、もっと清潔で、もっと一様な身なりをしていた。上衣はだぶだぶで、ズボンはぴったりしている。ちょっと見たところ、たがいにひどく似ている小柄な男たちで、平べったく、骨ばってはいるが、頬がまるまるしている顔をしていた。みんな静かにしていて、ほとんど動かない。ただ眼だけで部屋に入ってきた二人を追うのだが、それもゆっくりしていて、どうでもいいようなふうに見受けられた。それにもかかわらず、人数がひどく多く、またひどく静かなので、彼らはKにある影響を及ぼした。Kはまたオルガの腕を取ったが、それによって自分がここにいることを人びとに説明しようとしたのだった。片隅で一人の男が立ち上がった。オルガの知人で、彼女のほうに歩みよろうとしたが、Kはしがみついていた腕でオルガの身体を別な方向へ向けなおしてしまった。彼女以外のだれもそれに気づかなかったが、彼女は微笑を浮かべた横眼を使いながら、されるままになっていた。
ビールの給仕をしたのは若い娘で、フリーダという名前だった。人眼につかぬような小柄なブロンドの娘で、悲しげな眼をし、痩せこけた頬をしていた。ところが、この娘はそのまなざし、独特なすぐれた性格をおびたまなざしで、人を驚かした。このまなざしがKに注がれたとき、このまなざしがすでに彼に関することを片づけてしまってくれたように、Kには思われた。そうした問題の存在を彼自身はまだ全然知らないが、そのまなざしがそうしたことの存在をKに確信させるのだった。フリーダがオルガと話しているときにも、Kはフリーダを横からじっと見ることをやめなかった。オルガとフリーダとは友だち同士であるようには見えなかった。二人はほんの一こと二こと、冷たい言葉を交わしただけだった。Kは二人のあいだを取りもってやろうと思ったので、突然、たずねてみた。
﹁あなたがたはクラムさんをご存じですか?﹂
オルガが高笑いした。
﹁なぜ笑うんです﹂と、Kは怒ってきいた。
﹁笑っているんではありません﹂と、彼女はいったが、なおも笑いつづけた。
﹁オルガはまだほんとうに子供らしい娘なんだ﹂と、Kはいい、もう一度フリーダのまなざしをしっかりと自分に引きつけようとして、身体をかがめてスタンドの上に乗り出した。ところが、彼女は視線を伏せたままでいて、低い声でいった。
﹁クラムさんにお会いになりたいんですか?﹂
Kは会いたいと頼んだ。彼女はすぐ自分の左わきのドアを指さした。
﹁ここに小さなのぞき孔(あな)があります。ここからのぞいて見ることができますよ﹂
﹁で、ここにいる人たちは?﹂と、Kはたずねた。
彼女は下唇をそらせて、ひどく柔かい手でKをドアのところへつれていった。観察するためにあけられたらしい小さなのぞき孔を通して、彼はほとんど隣室全体を見渡すことができた。部屋のまんなかの机に向かい、心持よげな丸い安楽椅子に坐って、自分の前にたれ下がっている白熱燈にまばゆく照らされながら、クラム氏がいた。中背の、ふとった、鈍重そうな紳士であった。顔はまだつやつやしているが、頬はすでに年齢の重みで少しばかり垂れ下がっている。黒い髭(ひげ)がながながと引かれている。斜めにかけた、きらきら反射する鼻眼鏡が、両眼を被っていた。クラム氏が完全に机に向って坐っていたのであれば、Kはただ彼の横顔を見ただけであろう。ところが、クラムは彼のほうへまともに向っていたので、まともに顔をながめることができた。クラムは左の肘を机の上に置き、ヴァージニア葉巻をもった右手は膝の上にのっていた。机の上にはビールのグラスが置かれてあった。机のふち飾りが高いので、その上に何か書類がのっているのかどうか、Kははっきりとは見られなかったが、机には何ものっていないように彼には思われた。念のために、孔からのぞいて、見た結果を知らせてくれるようにと、フリーダに頼んだ。だが、彼女はほんの少し前までその部屋にいたので、すぐさまKに、そこには書類はのってはいない、と保証した。Kはフリーダに、自分はもうここから離れなければならないのだろうか、ときいたが、したいだけのぞいていてかまわない、と彼女がいった。Kはそのときフリーダと二人だけになっていた。彼がすばやくたしかめたところでは、オルガはあの顔見知りの男のところへいっており、樽の上に坐って、足で樽をばたばたとたたいていた。
﹁フリーダ﹂と、Kはささやいていった。﹁あなたはクラムさんをよく知っているんですか﹂
﹁ええ、とてもよく﹂と、彼女はいった。彼女はKと並んでもたれ、今やっとKが気づいたのだが、彼女の襟(えり)ぐりの広い、軽やかなクリーム色のブラウスを、もてあそぶような調子で整えていた。そのブラウスは彼女の貧弱な身体に、まるで似つかわしくないようについていた。それから彼女はいった。
﹁オルガの笑ったのをおぼえていなくて?﹂
﹁おぼえているよ。不作法な女だ﹂と、Kはいった。
﹁でも﹂と、彼女はとりなすようにいった。﹁笑ったのには理由があったのよ。わたしがクラムを知っているか、とあなたはおたずねでしたけれど、わたしは……﹂――ここで、彼女が思わず知らず身体を少しばかり起こすと、ここで話されていることとは全然かかわりのないような、勝ちほこったような視線が、またKの上をかすめるのだった――﹁だって、あの人の恋人なんですもの﹂
﹁クラムの恋人だって?﹂と、Kがいった。
女はうなずいた。
﹁それじゃ、あなたは﹂と、二人のあいだがあまりに気まずくならないように、微笑していった。﹁私にとっては尊敬すべき人というわけですね﹂
﹁あなたにとってじゃないのよ﹂と、フリーダは親しげに、しかし彼の微笑を取りあげることなしに、いった。Kは彼女の傲(ごう)慢(まん)さに対抗する手段を知っていたので、それを利用した。
﹁これまでに城にいったことがあるの?﹂
ところが、これが効果がなかった。彼女はこう答えたのだった。
﹁いいえ。でも、わたしがこの酒場にいることで十分じゃありません?﹂
彼女の気ぐらいはどうもばかげているようだったが、まさにKに対して、その気ぐらいを満足させたがっているように思われるのだった。
﹁もちろん、この酒場では、あなたは亭主の仕事をよくやられるわけですね﹂
﹁そうです﹂と、彼女はいった。﹁私は︿橋亭﹀旅館の馬小屋下女から振り出したんですわ﹂
﹁そんなしなやかな手で﹂と、Kは半分たずねるようにいったが、自分がただお世辞をいっているのか、それともほんとうに彼女に魅惑されてそんなことをいったのか、自分でもわからなかった。彼女の両手は、小さくてしなやかではあったが、弱々しくてつまらぬ手ということもできた。
﹁あのころは、だれもそんなことを考えなかったわ﹂と、彼女はいった。﹁そして、今でさえ――﹂
Kは、問いかけるように彼女をじっと見つめた。彼女は頭を振り、それ以上、話を進めようとはしなかった。
﹁あなたはもちろん﹂と、Kはいった。﹁秘密もあるでしょうし、たった三十分のあいだ知っているだけであり、ほんとうは自分はどういう事情にあるのかをあなたにお話しする機会もないようなどんな人間にも、その秘密をお話しになることはないでしょう﹂
ところが、すぐにわかったように、これは適当でない言葉だった。まるでKは、自分にとって都合のよいまどろみからフリーダを眼ざめさせてしまったようなものだ。彼女は、帯に下げている革袋から小さな木を取り出し、それでのぞき孔をふさぎ、自分の気持が変ってしまったことを彼に少しもけどられないように、眼に見えて自分を抑えながら、Kにいった。
﹁あなたのことに関しては、なんでも知っていますわ。あなたは測量技師ですね﹂
それから次のようにつけ加えた。
﹁でも、もう仕事にかからなくちゃ﹂
そして、スタンドのうしろの自分の場所にもどった。そのあいだに、人びとのうちのだれかがあちこちで立ち上がり、空のコップを彼女にみたしてもらおうとするのだった。Kはもう一度、人眼につかないで彼女と話そうと思い、棚から空のコップを取って、彼女のほうに歩みよった。
﹁フリーダさん、もう一つだけ﹂と、彼はいった。﹁馬小屋の下女から酒場の女給にまでなるというのは、普通でないことですし、そのためには人並すぐれた力が必要です。でも、それで、こんなすぐれた人間が最終の目的に到達した、といえるでしょうか。ばかげた疑問です。私を笑わないでもらいたいけれど、フリーダさん、あなたの眼からは、過去の闘いよりも未来の闘いがものをいっています。けれども、世間の抵抗というものは大きいもので、目標が大きくなればなるほど、抵抗も大きくなっていきます。それで、なんの影響力ももってはいないつまらぬ人間だが、それでもあなたと同じように闘っている一人の人間の援助を手にしっかとにぎっておくということは、けっして恥ではありません。おそらく、私たちはいつか落ちついてお話しし合うことがあるでしょう、こんなに多くの人びとの眼にまじまじと見られることなしにね﹂
﹁何をお求めなのか、わたしにはわかりませんわ﹂と、彼女がいったが、その言葉の調子のなかには、今度は彼女の意志に反して、彼女の生活の勝利ではなく、限りない幻滅が鳴り響いているようであった。
﹁あなたは私をクラムから引き離したいのですの? ああ、なんていうことを!﹂と、彼女はいって、両手をぱちりと打ち合わせた。
﹁私の本心を見抜きましたね﹂と、Kはそんなにも不信を向けられていることに疲れてしまったように、いった。﹁まさにそれが私の心の奥底の意図だったのです。あなたはクラムを捨てて、私の恋人になるべきだ、というわけです。これだけいえば、もう出ていけます、オルガ!﹂と、Kは叫んだ。﹁家へ帰りましょう﹂
従順にオルガは樽からすべり下りたが、すぐには彼女を取り巻いている友人たちから離れてこなかった。するとフリーダが、おびやかすようにKを見ながら、低い声でいった。
﹁いつあなたとお話しできるの?﹂
﹁私はここに泊まれますか﹂と、Kがたずねた。
﹁ええ﹂と、フリーダはいった。
﹁このままここにいていいんですか﹂
﹁オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ﹂
﹁わかった﹂と、Kはいい、落ちつかない様子でオルガを待っていた。ところが、農夫たちは彼女を手離さなかった。彼らは一種のダンスを考え出していたのだった。その中心はオルガだった。輪をつくって踊り廻り、たえずいっせいに叫び声をあげて、だれか一人が彼女のところへ歩みより、片手で彼女の腰のあたりをしっかと捉え、彼女を二、三度ぐるぐると廻すのである。輪舞はいよいよ速くなり、飢えたようなごろごろいう叫び声が次第にほとんどただ一つの叫びとなっていった。さっきまで笑いながら輪を突き抜けようとしていたオルガは、今では髪を振り乱して、男から男へとよろけていくだけだった。
﹁あんな人たちを私のところへこさせるのよ﹂と、フリーダはいい、怒りをこめて彼女の薄い唇をかんだ。
﹁どういう人なんです?﹂と、Kはきいた。
﹁クラムの使っている連中なのよ﹂と、フリーダはいった。﹁いつでもあの人はこんな連中をつれてくるの。あの人たちがいると、私の気持はめちゃめちゃにされるわ。測量技師さん、今日あなたと何をお話ししたのか、わたしにほとんどわかりませんわ。何かお気を悪くさせることがありましたなら、許して下さいね。あの連中がいるせいなの。あの人たちったら、わたしが知っているうちでもいちばん軽蔑すべき、いやな連中ですわ。それなのに、あの人たちのコップにビールを注いでやらなければならないの。あの人たちを城に残してくるようにって、これまでに何度クラムに頼んだかわからないわ。もしわたしがほかのかたたちの使っている人たちのことも我慢しなければならないのなら、あの人もわたしのことを考えてくれたかもわかりませんけど、どんなに頼んでもだめなの。あの人がやってくる一時間前には、いつでもあの連中が、まるで小屋へなだれこむ家畜のように押しよせてくるの。でも今はもう、あの人たちにふさわしい家畜小屋へほんとうにいかなければならないわ。あなたがここにいらっしゃらなければ、わたしがドアを引き開け、クラムも自分であの連中を追い出してくれるはずですのよ﹂
﹁あの連中の踊りさわいでいるのが、クラムには聞こえないんですか?﹂と、Kがきいた。
﹁そうなの。あの人、眠っているのよ﹂と、フリーダがいった。
﹁なんですって!﹂と、Kは叫んだ。﹁眠っているんだって? 私が部屋をのぞいて見たときには、まだ起きていて、机のところに坐っていたのに﹂
﹁いつでもそんなふうにして坐っているのよ﹂と、フリーダはいった。﹁そうでなければ、あなたにのぞかせたりなんかするものですか。あれがあの人の眠っている姿勢なの。城のかたたちはとてもよく眠り、ほとんど想像もできないくらいだわ。それに、あの人がそんなにたくさん眠らなかったら、この連中のことをどうして我慢できるでしょう? ところで、もうわたしが自分であの連中を追い出さなければならないわ﹂
彼女は片隅にあった鞭(むち)を取り出し、たとえば小羊が跳(と)ぶようなふうに、いくらかあぶなげだが高く一跳びして、踊っている連中のところへ飛び下りた。はじめは彼らは、新しい踊り手が舞いこんだとでもいうふうに、彼女のほうを振り向いたのだった。事実、一瞬のあいだは、フリーダが鞭を落してしまいそうに見えたが、つぎに彼女は鞭をふたたび振り上げた。
﹁クラムのかわりにいうんだけれど、小屋へいくのよ! みんな小屋へいくのよ!﹂
今や連中は、事がまじめなのだと見て取った。そして、Kには理解できないような不安を感じながら、ひしめくようにしてうしろのほうへ退き始めた。最初に退いていった何人かがドアに突きあたって、ドアが開き、夜気がさっと流れこんできた。みなはフリーダといっしょに消えてしまった。彼女は庭を横切って小屋まで連中を追い立てていったようであった。
今、突然生じた静けさのなかで、Kは玄関からやってくる足音を聞いた。何とか身構えするため、Kはスタンドのうしろへ飛びこんだが、スタンドの下だけが身を隠すことのできるただ一つの場所だった。彼が酒場にいるということは禁じられているわけではなかったものの、ここに泊まろうと思ったので、今のうちに見つけられることを避けなければならなかったのだ。そこで彼は、ドアがほんとうに開いたときスタンドの下にすべりこんだ。そんなところで見つけられることもむろん危険がないわけではなかったが、ともかくそんな場合には、荒れ出した農夫たちを避けて身を隠したのだ、という言いわけが信じられないものでもなかった。入ってきたのは亭主だった。
﹁フリーダ﹂と、亭主は叫んで、二、三度、部屋のなかをあちこちと歩き廻っていた。
幸いなことにフリーダがすぐもどってきて、Kのことにはふれずに、ただ農夫たちのことをこぼし、Kを探そうとしてスタンドのうしろへやってきた。台の下でKは彼女の足にさわることができ、もうこれで安全だと感じた。フリーダがKのことにふれないので、とうとう亭主がいい出さないではいられなかった。
﹁ところで、測量技師さんはどこへいったのだろうね?﹂と、彼はきいた。
この亭主はおよそ、はるかに高い身分の人たちと長いあいだかなり自由につき合っていて、そのため上品なしつけを身につけ、礼儀正しい男ではあったが、フリーダとはとくに敬意をこめたやりかたで話すのだった。そんな様子が目立つのはなによりも、この男が話をしながら、使っている女に対する雇い主という態度をやめないのに、それでもその相手がほんとうにふてぶてしいような女であるためであった。
﹁測量技師さんのことはすっかり忘れていたわ﹂と、フリーダはいって、Kの胸に彼女の小さな足をのせた。﹁きっと、ずっと前に出ていったのよ﹂
﹁でも、あの人を見かけなかったんですよ﹂と、亭主がいう。﹁私はほとんどずうっと玄関にいたんですがね﹂
﹁だって、ここにはいないわよ﹂と、フリーダは冷たくいった。
﹁おそらくあの人は隠れているんですよ﹂と、亭主がいった。﹁あの人から受けた印象では、いろいろなことをやりかねないようですからね﹂
﹁そんな大胆さはあの人にはないようじゃないの﹂と、フリーダはいい、Kの胸に足をいっそう強く押しつけた。彼女の人柄にはある快活さ、自由さがあった。それはKがそれまでは気づかなかったものだった。ところが、それがまったくありえないほどに拡がっていった。そして、突然、笑いながら、
﹁たぶん、この下に隠れているんだわ﹂と、いったかと思うと、Kのほうに身体をかがめ、彼にさっと接吻し、つぎにまた飛び上がって、顔を曇らせながらいった。
﹁いいえ、ここにはいないわ﹂
ところが、亭主も驚きのたねになるようなことをいうのだった。
﹁あの人が出ていったかどうか、はっきりとわからないということは、私にはとても不愉快なことです。ただクラムさんにかかわる問題だけではなく、規則にかかわることだからです。その規則は、フリーダさん、私と同様、あなたにもあてはまるべきものなのですよ。酒場のほうのことは万事あなたの責任ですよ。ここ以外のところは私が探してみることにします。おやすみなさい! ごきげんよう!﹂
亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。
﹁わたしの恋人! いとしい恋人!﹂と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。
﹁さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!﹂
二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷へきてしまったのだ。この異郷では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。
﹁フリーダ﹂と、Kはフリーダの耳にささやき、人が呼んでいることを伝えてやった。まったく生まれつきの従順さのままに、フリーダは飛び起きようとしたが、次に自分がどこにいるのかを考え、身体をのばし、静かに笑って、いった。
﹁でも、わたしはいったりなんかしないわ。けっしてあの人のところにはいかないわ﹂
Kはそれに反対しようとし、せき立ててクラムのところへいかせようとして、ブラウスの裂け落ちた布切れを集め始めたが、一言もいうことはできなかった。フリーダを両腕に抱いて、彼はあまりにも幸福だった。不安になるほど幸福であった。というのは、もしフリーダが自分を捨てるようなことがあるなら、自分のもっているいっさいのものが失われてしまうのだ、と彼には思えるのだった。そして、フリーダもKの同意によって元気づけられたかのように、こぶしを固めると、そのこぶしでドアをたたいて、叫んだ。
﹁あたし、測量技師さんのところにいるのよ! 測量技師さんのところにいるのよ!﹂
それで、クラムは黙るには黙った。しかし、Kは身を起こし、フリーダのわきにひざまずくと、薄暗い夜明けの光のなかであたりを見廻した。何が起ったのだろうか。自分の希望はどこへいったのだろうか。いっさいが暴露してしまった今となって、何をフリーダから期待できるだろうか。敵と目標との大きさにふさわしく、慎重に前へ進んでいくかわりに、一晩じゅうここのこぼれたビールのなかでころげていたのだ。そのこぼれたビールのにおいは、今は頭をぼんやりさせるのだった。
﹁お前は何をやったのだ?﹂と、彼はつぶやいた。﹁私たち二人はもうだめだ﹂
﹁そんなことないわ﹂と、フリーダはいった。﹁あたしだけがだめになったのよ。でも、あたしはあなたという人を自分のものにしたんだわ。落ちついていなさい。でも、ごらんなさい、あの二人が笑っているわ﹂
﹁だれがだい?﹂と、Kはいい、振り返った。スタンドの上には、彼の二人の助手が、少し寝不足で疲れてはいるがはればれした面(おも)持(もち)で坐っていた。義務を忠実に果たしたことが生み出す明るい顔つきであった。
﹁ここになんの用があるんだ!﹂と、まるでいっさいの責任はこの二人にあるとでもいうかのように、Kは叫んだ。フリーダがゆうべ手にしていた鞭を身のまわりに探した。
﹁私たちはあなたを探さなければならなかったんです﹂と、助手たちがいった。﹁あなたがたが食堂の私たちのところへ降りてこなかったんで、あなたをバルナバスのところで探し、最後にここで見つけたんです。ここに一晩じゅう坐っていましたよ。勤めもほんとに楽じゃありません﹂
﹁君たちが必要なのは昼間で、夜ではないんだ。出ていきたまえ﹂と、Kがいった。
﹁もう昼間ですよ﹂と、二人はいって、動かない。実際、もう昼であり、内庭へ出るドアが開かれており、農夫たちがオルガといっしょにどやどやと入ってきた。Kはオルガのことをすっかり忘れていた。彼女の服や髪毛はひどく乱れていたが、ゆうべ同様いきいきとしていて、ドアのところで早くも彼女の眼はKの姿を探していた。
﹁なぜわたしといっしょに家にいらっしゃらなかったの?﹂と、オルガはいって、ほとんど涙ぐんでいた。
﹁こんな女のために!﹂と、いい、その言葉を二度も三度もくり返した。ほんのわずかのあいだ姿を消していたフリーダが、小さな下着の包みをもってもどってきた。オルガは悲しげにわきへのいた。
﹁さあ、いきましょうよ﹂と、フリーダがいった。彼女がいくことになっている︿橋亭﹀のことをいっているのは明らかであった。Kはフリーダといっしょに歩き、そのあとに二人の助手がつづくという一行だった。農夫たちはフリーダに対して大いに軽蔑の色を見せたが、それもあたりまえだった。これまでは彼女がその連中を牛耳っていたからだ。農夫の一人は、杖をとり、その杖を飛び越さなければいかせないぞ、というそぶりまで見せた。だが、彼女が視線を投げただけで、その男を追い払うのに十分であった。戸外の雪のなかで、Kは少し息をついた。戸外にいるという幸福感がひどく大きかったので、今度は歩いていく道の難儀も我慢できた。もしひとりであったなら、もっとよく歩くこともできたろう。宿に着くと、すぐに自分の部屋へいき、ベッドの上に横になった。フリーダはそのわきの床の上に寝床をつくった。助手たちはいっしょに入りこんできて追い出されたが、すると、今度は窓から入ってきた。Kはすっかり疲れていて、彼らをまた追い出す元気もなかった。おかみが、フリーダに挨拶するため、わざわざ上がってきた。フリーダに︿小母さん﹀と呼ばれていた。接吻をしたり、長いあいだ抱き合ったりして、不可解なほど親しげな挨拶が交わされるのだった。その小さな部屋ではおよそ静けさがほとんどなかった。女中たちも、男物の長靴をはいてばたばた音を立てながら、何かをもってきたり、もち去ったりするためにしょっちゅうやってくるのだった。いろいろなものでつまっているベッドから何かが必要となると、遠慮もなくKの寝ている下から引き出していく。フリーダには同輩扱いの挨拶のしようである。こんなさわがしさにもかかわらず、Kは一日じゅう、また一晩じゅう、ベッドに入っていた。ちょっとした彼の世話はフリーダがした。つぎの朝、きわめて元気になってついに起き上がったが、すでにこの村に滞在するようになってから四日目であった。
彼はフリーダとうちとけて話したかったが、助手たちが厚かましくも目の前にいるというだけで、じゃまされた。ところでフリーダは、この二人とときどきふざけたり、笑ったりするのだった。なるほど二人の助手は別に要求が多いわけではなかった。片隅の床の上に二枚の古いスカートを敷き、その上で寝起きしていた。二人がしばしばフリーダと話し合っていたように、測量技師さんのじゃまをしないで、できるだけ少ない場所しかとらぬということが、彼らのせいぜいの望みであった。このために、とはいってももちろんいつでもささやいたり、くすくす笑ったりしながらではあったが、いろいろな試みをやるのだった。腕と脚とを組み合わせたり、いっしょにうずくまったりした。薄暗がりのなかで、彼らのいる片隅はただ大きな糸玉ぐらいにしか見えなかった。ところが、残念ながら昼間のいろいろな経験からわかっていたのだが、この糸玉がきわめて注意深い観察者であり、いつでもKのほうをじっと見ているのだ。この二人が、子供らしい戯れにふけっているように見せながらたとえば両手で望遠鏡の形をつくったり、そんなふうなほかのばかげたことをやったり、あるいはこちらに目くばせしたり、主として自分たちの髭の手入れに夢中になっているように見えたりするのであっても、じつはKのほうをじっと見ているのだ。ところでその髭だが、彼ら二人にはそれがすこぶる大切であり、何度でもその長さや濃さをたがいに比べ合い、フリーダにどちらのほうがりっぱか判定してもらうのだった。Kはしばしば、ベッドからこの三人のやることをまったく冷淡にながめていた。
これでもうベッドを離れるのに十分なだけ元気が出たと彼が感じたとき、三人は彼の世話をしようとして急いでやってきた。ところがKはまだ、彼らの手伝いを払いのけるほどには元気になっていなかった。こんな手伝いを受けることで、この三人にある種のたよりかたをすることになり、そんなたよりかたはいろいろ悪い結果を生むかもしれないのだ、と彼は気づきはしたのだが、どうもされるままになっているよりほかにしかたがなかった。それに、テーブルについて、フリーダが運んできてあるよいコーヒーを飲み、フリーダが燃やしたストーヴにあたり、熱心だが不器用な助手たちに階段を十ぺんも昇降させて洗面の水や石鹸やくしや鏡をもってこさせ、おまけに、Kが低い声でそれとわかる希望をいったからだが、小さなグラス一杯のラム酒を運ばせることは、それほど不愉快なことではなかった。
こんなふうに命令したりサービスしてもらったりしているうちに、ある成果を期待してというよりはむしろくつろいだ気分から、Kはこういった。
﹁さあ、君たち二人はむこうへいってくれ。今のところもう何もいらないよ。フリーダさんとだけで話したいんだ﹂
そして、二人の顔に別に反抗の気(けは)配(い)も見られなかったので、二人にそんなことをいった埋合せをするつもりで、さらにいった。
﹁私たち三人は、あとで村長のところへいくから、下の部屋で私を待っていてくれ﹂
めずらしく二人はいうことをきいたが、ただ部屋を去る前にいうのだった。
﹁私たちもここでお待ちできるといいんですが﹂
そこでKは答えた。
﹁わかっているよ。でも、そうしてはもらいたくないんだ﹂
フリーダは、助手たちが立ち去るとすぐにKの膝の上に坐って、いった。
﹁あなた、あの助手たちのどこが気に入らないの? あたしたちはあの人たちに秘密なんかもってはいけないわ。あの人たちは忠実なんですもの﹂
この言葉を聞いたとき、Kには腹立たしくはあったが、またある意味では好都合でもあった。
﹁え、忠実だって?﹂と、Kはいった。﹁あいつらは私をたえずうかがっている。ばかげたことだが、いまいましい﹂
﹁あなたのいうこと、よくわかると思うわ﹂と、彼女はいって、彼の首にすがりつき、なお何かいおうとしたが、それ以上しゃべることはできなかった。Kたちが坐っていた椅子はベッドのすぐわきにあったので、二人はベッドのほうへぐらついて、その上に倒れた。二人はそこへ横たわっていたが、先夜のように身をまかせ切りになってはいられなかった。彼女は何かを求め、彼も何かを求めていた。荒れ狂い、顔をしかめ、たがいに頭を相手の胸に強く押しつけながら、彼らは求めていた。そして、二人の抱(ほう)擁(よう)、二人の投げかけ合っている肉体は、求めるという義務を彼らに忘れさせはしないで、むしろそれを思い出させるのだった。犬たちが絶望して大地をかきむしるように、二人はたがいに肉体をかきむしり合った。そして、なお最後の幸福をつくり出すことは絶望し、幻滅して、彼らの舌はときどき相手の顔じゅうをなめ廻すのだった。疲れがやっと彼らを鎮まらせ、たがいに相手に感謝させた。やがて女中が上がってきた。
﹁まあ、二人はなんていう恰好でここに寝ているんでしょう﹂と、女中の一人がいって、同情の気持から彼らの上に一枚の布を投げかけた。
しばらくしてKがその布を押しのけ、あたりを見廻すと、――別に彼は驚かなかったが――助手たちがまた例の片隅にきていて、指でKをさしながら、たがいにまじめになるようにといましめ合い、敬礼をするのだった。ところが、二人の助手のほかに、ベッドのすぐわきに宿のおかみが坐って、靴下を編んでいた。こんな小さな手仕事は、部屋をほとんど暗くしてしまうほどの巨人のような彼女の身体にはぴったりしなかった。
﹁ずいぶん長いあいだ待っていたんですよ﹂と、彼女はいって、だだっぴろくて老いのしわがたくさん刻まれてはいるが、全体からいうとまだ色つやがよく、おそらくかつては美しかったにちがいない顔を、ふっと上げた。彼女の言葉は非難のように、それも見当ちがいの非難のように、ひびいた。というのは、Kはじつのところ、彼女にきてくれなどと頼まなかったのだ。そこで彼は、ただうなずいて彼女の言葉がわかったというそぶりを見せた。フリーダも起き上がったが、Kを離れて、おかみの椅子にもたれた。
﹁おかみさん﹂と、Kは放心したようにいった。﹁あなたが私にいおうとしていることは、私が村長のところからもどってきてからにしてくれませんか。私は村長のところで重要な話合いをしなければならないのです﹂
﹁こっちのほうが重要ですよ。いいですか、測量技師さん﹂と、おかみはいった。﹁村長さんのところではおそらくただ仕事のことだけが問題なんでしょうが、ここでは一人の人間のこと、私のかわいい女中のフリーダのことが問題なんですよ﹂
﹁なるほど﹂と、Kはいった。﹁だがしかし、なぜこの問題を、私たち二人にまかせておいてくれないのか、どうもわかりませんね﹂
﹁愛情のためです。心配からです﹂と、おかみはいい、フリーダの頭を自分の身体に引きよせた。フリーダは立っているのに、坐っているおかみの肩のところまでしかとどかない。Kはいった。
﹁フリーダがあなたをそんなに信頼しているのだから、私もほかにしようがありません。それに、フリーダがついさっき、私の助手たちは忠実だといったのですから、私たちはたがいに友人同士なわけです。それから私は、おかみさん、あなたにいえるんですが、フリーダと私とが結婚すれば、しかもすぐにもすれば、それがいちばんいいんだ、と私は考えているんです。残念しごくなことですが、結婚しても、フリーダが私によって失ってしまうもの、つまり紳士荘の地位とかクラムとのなじみとかをつぐなってやれないでしょうけれど﹂
フリーダが顔を上げたが、眼は涙でいっぱいだった。眼には勝利感などはまったく浮かんでいなかった。
﹁なぜわたしなの? なぜ、ほかならぬこのわたしがそのために選ばれたの?﹂
﹁なに?﹂と、Kとおかみとが同時にたずねた。
﹁この子は気が変になっているんだわ、かわいそうに﹂と、おかみがいった。﹁あまりの幸福と不幸とがいっしょになったので、気が変になっているんだわ﹂
すると、まるでこの言葉を裏書きするように、フリーダは今度はKの上に身を投げかけ、ほかにはだれも部屋にいないかのようにあらあらしく彼に接吻し、次に泣きながら、なお彼を抱きしめたまま、彼の前にひざまずいた。Kは両手でフリーダの髪をなでながら、おかみにたずねた。
﹁あなたは私のいうことがもっともと思われるでしょうね﹂
﹁あなたはりっぱなかたですわ﹂と、おかみはいったが、彼女も涙声で、いくらかがっくりしてしまったように見え、苦しげな息をついていた。それにもかかわらず、彼女はまだ次のようにいう元気があった。
﹁今度はただ、あなたがフリーダに与えなければならない何かの保証をいろいろと考えてみましょう。なぜなら、わたしのあなたに対する尊敬がどんなに大きくとも、あなたはやっぱりよその人ですからね。だれも証人にすることはできないし、あなたの家庭の事情もここではわかっていませんもの。だから、保証がどうしても必要です。それはよくおわかりですね、測量技師さん。だって、あなたご自身が、フリーダはあなたと結びついたために今後どんなに多くのものを失うか、ということを指摘なすったんですもの﹂
﹁そうですとも。保証、それはもちろんです﹂と、Kはいった。﹁保証は祭壇の前でするのがきっといちばんいいでしょう。だが、おそらくほかの伯爵領の役所が介入してくることでしょう。それに私は結婚式の前にどうしても片づけておかねばならぬことがあります。クラムと話さなければなりません﹂
﹁それはだめよ﹂と、フリーダはいって、少し身体をもたげ、Kに身体を押しつけてきた。﹁なんていうことを考えるの!﹂
﹁どうしてもしなければならないんだ﹂と、Kはいった。﹁もし私になしとげられないのなら、君がしなければならない﹂
﹁わたしにはできないわ、K、できないわ﹂と、フリーダがいった。﹁クラムはけっしてあなたと話なんかしないでしょう。クラムがあなたと話すなんて、どうしてそんなことを信じられるでしょう!﹂
﹁君となら話すかい?﹂と、Kはきいた。
﹁わたしもだめよ﹂と、フリーダがいう。﹁あなたもだめよ、わたしもだめよ。まったくできないことなのよ﹂
彼女は両腕を拡げておかみに向った。
﹁ごらんなさいな、おかみさん、なんていうことをこの人は求めているんでしょう﹂
﹁あなたは変っていますね、測量技師さん﹂と、おかみはいった。今度は身体をまっすぐに立て、両脚を組み合わせ、薄手のスカートを通してがっちりした膝を浮き出させている彼女の様子は、恐るべきものであった。﹁あなたはできないことを求めているんですよ﹂
﹁なぜできないんですか?﹂と、Kはたずねた。
﹁それは説明しましょう﹂と、まるでこの説明は最後の好意ではなくて、すでに彼女がくだす最初の罰なのだ、というような調子で、彼女はいった。﹁よろこんで説明しましょう。わたしはお城の人間ではなく、ただの女、ただこの最下等の宿のおかみにすぎませんわ。――この宿は最下等じゃないかもしれませんけど、でもそれよりあまりましじゃありません。――ですから、あなたはわたしの説明にあまり重きを置かないかもしれませんが、わたしだってこれまで二つの眼をちゃんと開けて生きてきたのですし、たくさんの人とも出会い、商売の重荷もすべてひとりで背負ってきました。というのは、主人はなるほどいい人間だけれど、どうも宿の亭主じゃありませんからね。責任というものがどんなものか、ということはあの人にはけっしてわからないでしょうよ。たとえば、あなたがこの村にいらっしゃるのも、またここでベッドの上に安らかに気楽に坐っていらっしゃるのも、ただあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ。――わたしはあの晩はもう疲れ切って、倒れそうだったんです﹂
﹁どうしてです?﹂と、Kは腹立ちよりもむしろ好奇心に刺戟されて、ある種の放心状態から目ざめながら、いった。
﹁みんなあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ!﹂とおかみはKに人差指を向けながら、もう一度叫んだ。フリーダがおかみをなだめようとした。
﹁なんだっていうのさ﹂と、おかみは身体全体を急に向けなおして、いった。﹁測量技師さんがおたずねだから、わたしはお答えしなけりゃならないんだよ。わたしがいわなければ、このかたにどうしておわかりになるのさ、わたしたちにはわかりきっていることを、クラムさんはけっしてこのかたとは話さないだろう、っていうことをさ。いいえ、わたしとしたことが、︿話さないだろう﹀なんていって。このかたと話ができないんだよ。聞いて下さい、測量技師さん! クラムさんはお城の人ですよ。それだけのことでもう、クラムのほかの地位なんかは別としても、とても身分が高いということなんですよ。ところであなたはなんだというんです、わたしたちがここでこんなにへりくだってあなたの結婚の同意を得ようとしていたって! あなたはお城のかたではないし、村の出ではないし、あなたは何者でもないんですよ。でも残念ながらあなたは何者かではありますよ。よそ者、余計者でどこでだってじゃまになる人間なんです。その人のためにいつだって他人に迷惑がかかるような人、その人のために女中たちを別なところへどかせなければならないような人、どんなつもりでいるのかわからないような人、わたしたちのかわいいフリーダを誘惑してしまった人、残念なことにフリーダを妻としてあげなければならない人なんです。でも、根本からいうと、そんなすべてのことのためにあなたを非難しているわけじゃありませんよ。あなたは、ありのままのあなたですからね。わたしはこれまでの生涯ですでにいろいろなことを見てきましたから、こんな有様が我慢できないなんていうことはありませんよ。でも、あなたがじつはどんなことを求めていらっしゃるのか、ということを考えてもごらんなさいな。クラムみたいな人があなたと話すなんて! フリーダがあなたにのぞき孔(あな)を通してお見せしたということを、わたしはつらい気持で聞きました。この子がそんなことをしたとき、すでにこの子はあなたに誘惑されていたんです。あなたがどうやっておよそクラムの姿を平気で見ていられたのか、いって下さいな。いえ、いう必要はありません、わたしにはわかっています。あなたはあの人の姿を全然平気で見ていられたんです。でも、クラムにほんとうに会うなんていうことは、あなたにはできっこありません。これはなにもわたしの思い上りなんかじゃありません。というのは、わたし自身だってできないんですもの。あなたがクラムと話したいですって? クラムはけっして村の人とは話さないんです。あの人自身、村のだれかと話したことなんか、一度だってないんです。まったくフリーダの大きな名誉なんです、わたしが死ぬまでわたしの誇りとなるような名誉なんですよ、あの人が少なくともいつもフリーダの名前を呼んでいたこと、フリーダが好きなときにあの人と話ができたこと、そしてのぞき孔から見ることを許されていたことは。でも、あの人はこの子とも一度だって話したことがないんです。そして、あの人がときどきフリーダを呼んだということには、人が好んでつけたがるような意味はまったくないはずです。あの人はただ、︿フリーダ﹀という名前を呼んだだけなんです。――あの人の考えていることをだれがわかるものですか。――フリーダはもちろん急いでいきましたが、それはこの子だけのことですし、この子が反対も受けずにあの人の部屋に入ることを許されたのは、クラムの好意なんです。でも、あの人がこの子をたしかに呼んだのだ、とはいい張るわけにはいきません。もちろん、今では、あったことも永久に過ぎ去ってしまいました。おそらくクラムはなお︿フリーダ﹀という名前を呼ぶかもしれません。それはありうることです。でも、この子はもうきっとあの人の部屋へ入ることは許されないでしょう。あなたと関係してしまった娘なんですからね。で、ただ一つだけ、ただ一つだけ、わたしのあわれな頭ではわからないんですけれど、クラムの恋人――わたしはこれは誇張した呼びかただと考えていますがね――そういわれていたような娘が、どうしてあなたに心を動かされたりしたのでしょうねえ﹂
﹁まったく。それは変ですね﹂と、Kはいって、頭を垂れてではあるがすぐ応じてきたフリーダを、自分の膝の上にのせた。﹁でも、そのことが証明しているのは、ほかのこともなにからなにまでまったくあなたの信じているとおりではないのだ、ということでしょうね。たとえばたしかに、私がクラムに対しては何者でもない、とあなたがおっしゃるのは、もっともな話です。また、私が今でもクラムと話したいと望んでいて、しかもあなたの説明によって少しもその要求を捨てていなくとも、それで、へだてのドアなしでクラムの姿を平気で見ていられるのだ、ということにはなりませんし、あの人が部屋から出てくるときに逃げ出してしまうかもしれませんね。でも、こんな心配はたとい正しくとも、まだ私にとってはそれをやってみようとしない理由にはなりませんよ。ところで、もし私があの人に対して平気でいることができるなら、あの人が私と話すなんていうことはまったく必要じゃないんです。私の言葉があの人に与える印象を見とどけるならば、私にはもう十分です。そして、もし私の言葉があの人に少しも印象を与えず、あの人がそれを全然聞いていないにしても、一人の権力者の前で自由にものがいえたのだ、という勝利をおさめたことになります。でも、おかみさん、あなたは人生や人間のことをよく知っているといわれるし、きのうまではクラムの恋人だった――この言葉を避ける理由は私にはありませんよ――フリーダであってみれば、あなたがた二人はきっと、クラムと話す機会を私のためにたやすくつくってくれることができるはずです。ほかのやりかたではできないのなら、まさに紳士荘でね。おそらくあの人は今日もまだそこにいるでしょうからね﹂
﹁それはできませんよ﹂と、おかみがいった。﹁それに、わたしにはわかっているのですけれど、あなたにはそのことがわかる能力が欠けているのです。ところで、ひとつ教えてくれませんか、いったいクラムとどんなことについて話そうっていうんです?﹂
﹁もちろん、フリーダのことについてですよ﹂と、Kはいった。
﹁フリーダのこと?﹂と、おかみはわけがわからぬようにききただし、フリーダに向って、いった。﹁聞いたかい、フリーダ。この人はね、この人はあんたのことについてクラムと話したいんだってさ、クラムとだってさ﹂
﹁いや、どうも﹂と、Kはいった。﹁あなたは、おかみさん、とても賢い、尊敬の気持を起こさせるかたなのに、どんな小さなことにも驚くんですねえ。ところで、私はフリーダのことについてあの人と話そうと思うんだが、これはそう途方もないことじゃなく、むしろあたりまえのことですよ。というのは、たしかにあなたの思いちがいですね、私が登場した瞬間からフリーダはクラムに対して意味のないものになってしまったのだ、と思うのなら。そんなことを信じているのなら、あの人を軽く見すぎていますよ。この点であなたに教えようとするなんて生意気なことだ、とはよくわかっていますが、やはりそうしないではいられません。クラムのフリーダに対する関係で私が入りこんだために変ってしまったところなんか、少しだってありません。この二人のあいだには、つぎのような二つの場合があるだけです。一つは、本質的な関係なんかなかったという場合で――こういっているのは、元来は、フリーダから恋人という敬称を取り去っている人たちです――それなら、今でも関係はないわけです。しかし、もう一つの場合として、もし関係があったとすれば、あなたが正しくもいわれたようにクラムの眼にとって何者でもないこの私によって、その関係が乱されるというようなことが、どうしてありましょうか。そんなばかげたことは、驚いたときに最初の一瞬間だけ人が信じるものです。少しでも考えなおしてみさえすれば、そんなことは訂正されてしまいますよ。ところで、フリーダにこれについての意見をきいてみようではありませんか﹂
遠くのほうに漂っているようなまなざしを見せながら、頬をKの胸に埋めて、フリーダがいった。
﹁それはおばさんのいったとおりよ。クラムはもうわたしのことなんか何も知りたがっていません。でも、もちろん、あなたがきたからなんかじゃないの。そんなことであの人は少しも動じたりしないわ。きっと、あたしたちがあのスタンドの下で出会ったのもあの人のしわざなんだ、と思うわ。どうぞあの出会いが祝福されていますように。呪(のろ)われてはいませんように﹂
﹁もしそうなら﹂と、Kはゆっくりといった。フリーダの言葉が甘かったのだ。彼は二、三秒のあいだ眼を閉じ、その言葉を身体全体にしみとおらせようとした。﹁もしそうなら、クラムと話すことを恐れる理由はもっと少ないわけだ﹂
﹁ほんとに﹂と、おかみはいって、Kを高いところから見下した。﹁あなたって人は、ときどきわたしの主人のことを思い出させますね。あの人と同じように、あなたも反抗的で子供のようなんだわ。あなたはここへきてまだ二、三日にしかならないのに、もうなんでもこの土地の者たちよりもよく知りたがるのね、わたしのようなお婆さんよりも、また紳士荘でいろいろ見たり聞いたりしてきたフリーダよりも。きまりやしきたりにまったく反していつか何かをうまくやりとげるなんていうことはありえないことだ、とはいいません。わたしはこれまでにそんなことを体験したことはないけれど、どうもそういう例はあるようね。そうかもしれないわ。でも、そんなことがあるとすれば、きっとあなたのやるようなやりかたでではないでしょう。いつでも﹃ちがう、ちがう﹄といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす、なんて。いったいあなたは、私の心配があなたのためなんだ、とでも思っているんですか。あなたがひとりだったあいだは、あなたのことなんかにわたしが気をかけていましたかね。たしかにそうしておいたほうがよかったでしょうし、いろいろな面倒が避けられもしたでしょうけれど。あのとき、わたしがあなたについて亭主にいったただ一つのことといえば、﹃あの人を避けるんですよ﹄ということだけでしたよ。もしフリーダが今ではあなたの運命に巻き添えをくっているのでなければ、この言葉は今でもまだわたしの気持というものでしょう。あなたの気に入ろうと、気に入るまいと、わたしの心づかいも、そればかりかわたしがしたてに出ているのだって、みんなこの子のおかげなんですよ。そして、あなたはこのわたしをさっぱりとのけ者にするわけにはいきません。なぜなら、かわいいフリーダの身の上を母親のような心配で見守っているただ一人の女であるこのわたしに対して、あなたは重い責任がありますからね。フリーダのいうことが正しくて、起ったことはみなクラムの意志のままなのだ、ということはありうることです。でも、クラムについてはわたしは今でも何一つ知らないのです。これからもけっしてあの人と話すことはないでしょうし、あの人はわたしにとっては手のとどかない人なんです。ところが、あなたはここに坐って、わたしのフリーダをつかまえ、――このことをなぜ隠しておく必要があるでしょう?――じつはこのわたしにつかまえられているのです。そうです、わたしにつかまえられているんですよ。なぜなら、もしわたしがあなたをこの家から追い出したら、犬小屋だろうとなんだろうと、村のどこかで泊まる場所を見つけてごらんなさいな﹂
﹁ありがとう﹂と、Kはいった。﹁それは率直な言葉ですね。あなたのいわれることはそのまま信じますよ。それでは、私の立場も、またそれと関連してフリーダの立場も、すこぶる不安定なものなのですね﹂
﹁ちがいます!﹂と、おかみはKの言葉をさえぎるようにして、あらあらしく叫んだ。﹁フリーダの立場は、この点については、あなたの立場と全然関係がありませんよ。フリーダはうちの者ですし、だれだって、この子の立場がここで不安定だなんていう権利はありませんよ﹂
﹁わかった、わかりましたよ﹂と、Kはいった。﹁その点でもあなたが正しいとみとめるとしましょう。その理由はとくに、フリーダがなぜか知らないけれど、あなたのことをひどくこわがっているようで、この話に加わろうとしないからです。そこで、さしあたっては、話を私のことだけに限りましょう。私の立場がきわめて不安定であるということ、これはあなたも否定なさらないし、むしろそのことを証明しようと一生懸命になっておられる。あなたのおっしゃるすべてのことと同様、これは大部分は正しいのですが、完全に正しいわけではありません。たとえば、私はいつでも泊まれるなかなかいい宿屋を知っていますよ﹂
﹁いったい、どこですか?﹂と、フリーダとおかみとが叫んだ。まるで、こうきくのには同じ動機があるかのように、時を同じくして、ひどく好奇心たっぷりなききかただった。
﹁バルナバスのところです﹂と、Kがいった。
﹁あのごろつきたち!﹂と、おかみが叫んだ。﹁あのずるいごろつきたち! バルナバスのところだってさ! お聞きよ――﹂そういうと、彼女は部屋の隅のほうに向きなおったが、助手たちはもうずっと前から進み出ていて、腕を組み合っておかみのうしろに立っていた。おかみは、まるで身体を支えてくれるのが必要であるような様子で、助手の一人の手をつかんだ。﹁お聞きよ、この旦那がどこをうろつき廻っているのか。バルナバスの家なんだよ! もちろん、あそこなら泊まれるさ。ああ、紳士荘よりもむしろあそこに泊ってくれていたら、どんなによかったかしれない。ところで、あんたたちはどこで待っているの?﹂
﹁おかみさん﹂と、Kはまだ二人の助手たちが答えぬうちに、いった。﹁この二人は私の助手ですよ。それなのにあなたは、まるで二人があなたの助手で、しかも私の見張り人であるかのように扱っておられる。ほかのことでならどんなことでも、きわめて鄭(てい)重(ちょう)にあなたのご意見について少なくとも議論はするつもりでいますが、私の助手についてはそんなことはできません。というのは、その点では事はあまりにはっきりしていますからね。そこで、お願いしますが、どうか私の助手とは話をしないで下さい。もし私のこのお願いが十分でないなら、私の助手に、あなたにお答えすることを禁じます﹂
﹁それでは、私はあなたたちと話してはいけないわけね﹂と、おかみがいって、三人そろって笑った。おかみの笑いは嘲笑的であったが、Kが期待したよりもずっとおだやかではあった。助手たちのは、いつもの、いろいろ意味ありげだがまたなんの意味もないような、どんな責任も回避しているような笑いかたであった。
﹁ね、怒らないで﹂と、フリーダがいう。﹁わたしたちが興奮していることをよくわかって下さらなければいけないわ。いってみれば、わたしたちが今深い仲になっているのは、ただバルナバスのおかげだわ。あなたをはじめて酒場で見たとき、――あなたはオルガの腕にすがって入ってきたわね――わたしはあなたについていくらかのことをもう知っていたわ。でも、要するにあなたはわたしにとってはまったくどうでもよい人だったのよ。いえ、あなただけがどうでもよかったばかりでなく、ほとんどすべてのことが、ほとんど全部が全部、どうでもよかったの。あのとき、わたしはたくさんのことに不満だったし、いろいろなことに腹を立てていたの。でも、なんという不満だったのでしょう、なんという腹立ちだったのでしょう! たとえば、酒場のお客の一人がわたしを侮辱しました。あの人たちはいつでもわたしのあとをつけ廻していたんです。――あなた、あそこにいた連中を見たでしょう。ところが、もっとひどい連中がきたのよ。クラムが使っている人たちがいちばんひどい連中というわけではなかったんだわ。――そういうわけで、一人がわたしを侮辱したんです。それがわたしにどうだったというのでしょう。わたしには、それが何年も前に起ったように思われました。全然起こらなかったようにも思われました。ただそんな話を聞いただけのことのようにも思われ、わたし自身がそれをとっくに忘れてしまっていたようにも思われました。でも、わたしはそれを述べることができないし、もうけっして思い浮かべることができないの。クラムがわたしを捨ててしまってからは、そんなにすべてのことが変ってしまったんだわ﹂
フリーダは話を中断した。悲しげに頭を垂れ、両手は組んで膝の上に置いていた。
﹁ごらんなさい﹂と、おかみは叫んだが、まるで自分でしゃべっているのではなく、ただフリーダに自分の声を貸しているとでもいうふうだった。彼女は身体をずっと近づけて、フリーダのすぐそばに坐った。﹁ごらんなさいな、測量技師さん、あなたの行いの結果をね。そして、あなたの助手さんたちも、わたしはこの人たちと話してはいけないそうだけれど、勉強のために見ておくことだわね。あなたはフリーダを、これまでこの子が与えられていたもっとも幸福な状態から引き離してしまったのよ。そして、あなたがそのことに成功した理由は、何よりもまず、フリーダが子供らしいいきすぎた同情から、あなたがオルガの腕にすがっていて、そんなふうにしてバルナバスの一家のものになってしまっていることに、我慢できなかったからなんですよ。この子があなたを救って、そのために自分を犠牲にしたんです。そして、こうしたことが起ってしまい、フリーダが自分のもっているすべてのものと引き換えに、あなたの膝の上に坐るという幸福を選んだ今となって、あなたがやってきて、自分は一度バルナバスの家に泊まる可能性をもったのだ、などということを最後の切り札として出しているわけです。そんなことをいって、きっと、あなたはわたしにたよったりなんかしなくていいんだ、ということを証明したいんでしょう。たしかに、もしあなたがほんとうにバルナバスのところに泊ったのならば、あなたはたしかに私なんかたよりにしなくたっていいでしょうよ。そして、たちまち、しかもすぐ今からわたしの家を出ていかねばならないでしょうよ﹂
﹁私はバルナバス一家の罪なんか知りません﹂と、Kはいった。そして一方、まるで死んだようになっているフリーダを注意深く抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に坐らせ、自分は立ち上がった。﹁おそらくその点であなたのいわれることは正しいんでしょう。しかし、フリーダと私とのことは私たち二人にまかせておいてくれ、と私があなたにお頼みしたとき、たしかにわたしの言いぶんが正しかったはずです。そのときにあなたは愛情とか心配とかいうことを何かいわれたけれど、それについてはそれ以上たいして私の眼につかないで、それだけに憎しみとか嘲笑とか家から追い出すということとかについては余計に眼についています。もしあなたが、フリーダを私からか、あるいは私をフリーダからか、引き離そうという狙(ねら)いであったのなら、まったくうまくやられたわけです。でも、そんなことはあなたには成功しない、と思いますよ。もしそんなことが成功するならば、あなたはそれを――私にも一度、気味の悪いおどしをいわせて下さい――ひどく後悔なさるでしょうよ。あなたが私に貸して下すっている部屋についていえば、――部屋といったって、あなたにはこのいやらしい穴ぐらのことぐらいしか考えられないんですが――この部屋を自分自身の意志で貸して下すっているのかどうか、まったく疑わしいものです。むしろこのことについては伯爵の役所の命令があるように思われますね。私は今、この宿から出るようにいわれた、ということをその役所に伝えてやりましょう。もし私に別な住居が示されるなら、あなたはきっとほっとして息をつかれることでしょうね。でも、私のほうはもっとほっとしますよ。ところで、私はあれやこれやの用事で村長のところへいきます。どうか、少なくともフリーダの面倒を見てやって下さい。あなたはこの子を、あなたのいわゆる母親らしい話ですっかりひどい目にあわせてしまったんです﹂
それから彼は、助手たちのほうに向きなおった。
﹁きたまえ!﹂と、彼はいって、クラムの手紙をかけ金から取り、出ていこうとした。おかみは黙って彼の動きを見ていたが、彼がすでにドアのハンドルに手をふれたときにはじめて、いった。
﹁測量技師さん、わたしはまだあなたにはなむけにあげるものがありますよ。というのは、あなたがどんな演説をなさろうと、またわたしというお婆さんをどんなに侮辱しようとなさろうと、あなたはフリーダの未来の旦那さんなんですからねえ。ただそのためにあなたにいうのですが、あなたはここの事情に関してひどく無知でいらっしゃる。あなたのいうことを聞いていたら、そして、あなたのいったり考えたりすることを頭のなかで実際の状態と比較するなら、頭がこんがらがってしまいますよ。こんな無知をなおすことは急にはできないし、おそらく全然できないでしょう。でも、もしあなたが少しでもわたしを信じて下すって、この無知をいつも念頭におかれているなら、たくさんのことがもっとよくなるのです。そうすれば、あなたはたとえばわたしに対してただちにもっと公正な態度を取り、わたしがどんな驚きを味わったか、ということを気づき始めるでしょう。――その驚きの結果は今でもつづいているんですよ。――つまり、わたしのいちばんかわいい子がいわば鷲(わし)を離れて足なしとかげといっしょになったのだ、とわたしが知ったときの驚きのことです。でも、ほんとうの事情はそれよりもっとずっと悪いんですからねえ。わたしはつねにそのことを忘れようと努めなければならないでしょう。そうでないと、わたしはあなたと一ことでもおだやかな言葉なんか交わせないでしょう。ああ、あなたはまた怒りましたね。いいえ、まだいかないで下さい。このお願いだけは聞いて下さい。どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ。そして、気をつけて下さいな。フリーダがいるためにあなたが無事でいられたこの家で、あなたは心を開いておしゃべりしてかまいませんし、またたとえば、あなたがどんなふうにクラムと話すつもりでいるのかを、わたしたちに打ち明けることもできます。ただほんとうに話すということ、ほんとうにクラムと話すということ、そればっかりは、どうか、どうか、しないで下さい﹂
おかみは興奮のあまり少しよろよろしながら立ち上がり、彼の手を取ると、懇願するように彼をじっと見つめた。
﹁おかみさん﹂と、Kはいった。﹁あなたがなぜこんなことのためにへりくだって私に頼まれるのか、私にはわかりません。もしあなたのおっしゃるように、クラムと話すことが私にはできないものなら、私に頼もうが頼むまいが、それは私にはとてもできない相談というわけです。だが、もしそれができるものなら、どうして私がそれをしていけないのでしょう。その理由はとくに、もし私にできるのなら、あなたが反対される根本理由がなくなってしまうとともに、それ以外のあなたのさまざまな心配もきわめて疑わしいものとなるからです。もちろん、私は無知です。この事実はどうしても残りますし、それは私にとってとても悲しいことではあります。でも、それにはまた、無知な者はかえって多くのことをやってのける、という利点もあります。そのために私は、自分の無知とそのたしかに悪い結果とをよろこんで力の及ぶ限りもうしばらくは引きずっていこう、と思うのです。そうしたさまざまな結果は、本質的にはただ私だけに関するものです。それゆえ、何よりもまず、なぜあなたが懇願されるのか、私にはわからないのです。フリーダのためにはあなたはきっといつでも心配して下さることと思います。そして、もし私がフリーダの視界からすっかり消えるとしても、それはあなたの意味ではただ幸運を意味するだけのはずですからね。それなら、あなたは何を恐れているのですか。それなのにあなたが恐れているのは、もしや――無知な者にはどんなこともありうるように見えるんですが﹂と、Kはいって、すでにドアを開けていた。﹁あなたが恐れているのは、もしやクラムのためにではないでしょうね?﹂
おかみは黙ったまま、彼が階段を急いで降り、助手たちが彼のあとを追っていくのを、見送っていた。
村長との話合いは、ほとんどK自身が不思議に思ったくらいだが、彼にはほとんど気にかからなかった。彼はその点を、これまでの経験によると伯爵の役所との職務上の交渉がきわめて単純なものであったのだから、今度もたいしたことはないと思われるのだろう、ということで自分に説明してみた。それは一つには、彼の件の取扱いに関しては、外見上は彼にきわめて好都合な一定の原則がもうこれっきりと思われるほど決定的に出されてしまったためであり、もう一方では、役所には賞讃すべき統一性が保たれているためであった。その統一性は、ちょっと見ると統一性がないようなところにおいてとくに完(かん)璧(ぺき)なもののように感じられるのであった。Kはときどきこうしたことばかり考えるのだったが、そういうときにも、自分の置かれている状態が満足すべきものと思うことからほど遠いわけではけっしてなかった。もっとも、こうした満足の快感に襲われたあとでは、たちまち自分に、これには危険がひそんでいるのだぞ、といい聞かせるのだった。
役所との直接交渉は、実際そうむずかしいものではなかった。というのは、役所はどんなによく組織されているにせよ、いつでもただ遠く離れた眼に見えぬ城の人びとの名において、遠く離れた眼に見えぬ事柄を擁護しなければならないのであった。ところが、Kのほうは、何かきわめていきいきした身近かなことのため、自分自身のために闘っているわけだ。その上、少なくともいちばん最初のころには、Kは自分自身の意志によって闘っていたのである。というのは、彼は攻撃者であったのだ。そして、彼はただ自分のために闘うばかりではなく、そのほかに、彼にはわからないが、役所の処置から察すると存在していると思われるほかの勢力も闘ってくれるようであった。ところが今や、本質的でないような事柄では――それ以上のことはこれまでは問題とはならなかった――役所は最初から大いにKの意を迎えてくれ、それによって役所は彼から小さなやさしい勝利の可能性を奪ってしまった。そして、この可能性といっしょに、それにともなう満足と、それから出てくる十分理由のあるような、今後のもっと大きな闘いに対する自信とを奪ってしまった。そのかわり、役所はKに、もちろん村の内部だけではあったが、どこであろうといたるところを歩き廻らせ、それによって彼を甘やかし、彼の気力を弱め、ここではおよそどんな闘いをも排除してしまい、そのかわり彼を職務外の、完全に見通しのきかぬ、陰鬱で奇異な生活のなかへ移してしまった。こうして、彼がいつでも用心していなかったら、とんだ結果になりかねないのだった。つまり、役所がどんなに親切にしてくれたところで、また極端にやさしい職務上のあらゆる義務を完全に果たしたところで、彼に示される見せかけの好意にあざむかれてしまって、いつの日にか彼の職務以外の生活をひどく不注意に営むことになったろう。その結果は、彼はこの土地で挫折してしまい、役所はなおもおだやかに親切に、いわば役所の意志に反してというように、しかし彼の知らない何らかの公的な秩序の名において、彼を追い払うということにならないではいないのだった。そして、その職務以外の生活というのは、ここではいったいどんなものなのだろうか。Kは、役所と生活とがこの土地でほどもつれ合っているのをどんなところでもまだ見たことがなかった。役所と生活とがその場所をかえているのではないか、と思われるほど、この両者はもつれ合っていた。たとえば、これまでのところはただ形式的にすぎない、クラムがKの勤務の上に及ぼしている力は、クラムがKの寝室において実際にもっている力に比べてみて、いったいどんな意味があろうか。そこで、ここでは、いくらか軽率なやり方、ある種の緊張弛緩といったものが許されるのは、ただ役所に直接立ち向かうときだけであって、そのほかの場合にはいつでも大きな用心、つまり一歩踏み出す前に四方八方を見廻すということが必要だ、ということになるのだった。
Kはまず村長のところで、ここの役所に対する自分の見解が裏書きされるのを見た。村長は、親切げな、ふとった、髭をきれいにそった男だが、病気で、ひどい痛風の発作にかかっており、ベッドに寝たままでKを迎えた。
﹁これはこれは、われわれの測量技師さんがおいでというわけですな﹂と、村長はいって、挨拶のために起き上がろうとしたが、それができないで、詑びながら両脚を指さして、またふとんのなかに身を投げた。部屋は窓が小さく、おまけにカーテンがかかっているためいっそう暗くなっていたが、その薄暗がりのなかで影のように見えるもの静かな一人の女が、Kのために椅子をもってきて、それをベッドのそばに置いた。
﹁おかけ下さい、おかけ下さい、測量技師さん﹂と、村長がいった。﹁で、どうかあなたのご希望をおっしゃって下さい﹂
Kはクラムの手紙を読みあげ、それにいくつかの言葉をつけ加えた。ふたたび彼は、役所との交渉が非常にやさしいものなのだという感情をもった。役所は明らかにどんな重荷でも担ってくれているのであり、いっさいを役所に背負わせることができ、自分ではそんなものに関係しないで、自由でいられるのだ。村長もそのことを彼なりに感じているかのように、不快そうにベッドのなかで寝返った。ついに村長がいった。
﹁測量技師さん、あなたもお気づきのように、私はこの件をすべて知っていました。私自身がまだ何も手をつけていない理由は、まず第一に私が病気であるためで、その次にはあなたがこんなにも長いあいだおいでにならなかったからですよ。私はもう、あなたがこのことにけりをつけてしまわれたのだ、と思いました。ところが、あなたはご親切にもご自分で私を訪ねて下すったのですから、私としてもむろん、不愉快ではあってもほんとうのところをみんな申し上げなければなりません。あなたのおっしゃるように、あなたは測量技師に採用されました。しかし、残念なことに、われわれは測量技師はいらないのです。測量技師のやる仕事なんか少しもないでしょう。われわれの小さな管理地域の境界は杭で標識をつけてあり、いっさいがきちんと登記されてあります。所有者の変動はほとんど起こらないし、小さい境界争いなどは自分たちで片づけます。そうだとしたら、測量技師なんかわれわれにとってなんだというんです?﹂
Kは、むろんその前にそんなことを思いめぐらしていたわけでなかったが、それに類した言葉を予期していたのだ、と心の奥底では確信していた。それだからこそ、彼はすぐいうことができた。
﹁それはひどく驚きました。これで私の計算はすっかりひっくり返ってしまいました。ただおそらく誤解があるのではないでしょうか﹂
﹁残念ながら、誤解ではありません﹂と、村長がいう。﹁私が申し上げているとおりです﹂
﹁でも、どうしてそんなことが!﹂と、Kは叫んだ。﹁私がこんな果てしのないような長旅をしたのは、これでまた追い返されるためではないんですよ!﹂
﹁それは別問題です﹂と、村長はいった。﹁私が決定できることではありませんが。だが、どうしてそういう誤解がありえたのかということは、私からあなたに説明して上げることができます。伯爵の役所のような大きな役所では起こりうることですが、一つの課がこのことをきめ、別な課があのことをきめるというふうで、どちらもほかの課のことは知らないのです。上の監督はなるほどひどく正確ではあるけれど、その性質からいってあとになってから下の役所へとどくのです。それでいつでも小さな混乱が起こりうるのです。むろん、それはほんの小さな取るにたらぬことで、たとえばあなたの場合のようなものです。大きな事柄ではまだ私が知っているまちがいなんかあったためしがありません。しかし、こまかなことがしばしばひどく面倒なものです。ところで、あなたの場合ですが、私はあなたに対して公務上の秘密なんかなしで――私はそれほどの役人ではないんですよ。私は農夫でして、今もそのことには変りがないのです――事の経過を打ち明けてお話ししましょう。ずっと前、私はそのころ村長になってまだ二、三カ月でしたが、一つの命令が私のところへきました。もうどの課から出たものかおぼえていませんが、その命令のなかで、役所の偉い人たち独特の断言的なやりかたで、測量技師が呼ばれることになっている、といい、村に対して、技師の仕事に必要な図面や書類を用意しておくように、と命令が下されたのでした。この命令はもちろんあなたに関することであったはずがありません。というのは、もう何年も前のことですからね。私も、今こうやって病気になり、寝床のなかでばかばかしい事柄をいろいろと考える暇がなかったら、そんなことを思い出さなかったことでしょうよ﹂そして、突然、言葉を中断して、細君に向って﹁ミッツィ﹂といった。細君はまだわけのわからぬほどせわしげな様子で部屋のなかを通り過ぎていくところだった。﹁そこの戸棚のなかを見てくれないか。たぶん命令書が見つかるだろう﹂
﹁それがつまり﹂と、村長はKに説明していった。﹁私が村長になったころのもので、あのころは私もまだあらゆる書類をしまっておいたんです﹂
細君がすぐに戸棚を開けた。Kと村長とはそれをながめていた。戸棚は書類がいっぱいつまっていた。開けたときに、二つの大きな書類束がころがり出た。よく薪(まき)を束ねるときにやるように丸くくくってあった。細君は驚いてわきへ飛びのいた。
﹁下にあるかもしれない、下だ﹂と、村長はベッドから指揮するようにいった。細君はおとなしく、両腕で書類を抱えてあらゆるものを戸棚から投げ出し、下の書類を見つけ出そうとした。書類がたちまち部屋の半分を埋めてしまった。
﹁大変な仕事になってしまったな﹂と、村長はうなずきながらいった。﹁で、これはほんの小部分にすぎないのです。主な部分は納(な)屋(や)にしまったのですが、大部分はなくなってしまいました。だれが全部をまとめてしまってなんかおけるものですか。でも、納屋にはまだきわめてたくさんの書類があります﹂
﹁おい、命令書を見つけられるかね?﹂と、彼はふたたび細君のほうを振り向いた。﹁上に︿測量技師﹀って文字に青くアンダーラインしてあるのを探すんだよ﹂
﹁ここは暗すぎるのよ﹂と、細君がいった。﹁蝋(ろう)燭(そく)をもってきましょう﹂彼女は散らばった書類の上をまたいで部屋を出ていった。
﹁女房はこういうむずかしい公務上の仕事にはとても役に立つんです﹂と、村長がいった。﹁でも、そんな仕事はただ片手間にやらねばならないのですがね。書きものの仕事には、助手がいます。学校の先生ですが、それでも片づきません。いつでも、片づかない仕事が残っていて、それがあの箱のなかに集められているんです﹂そして、もう一つの戸棚を指さした。﹁それに、私が今は病気なものですから、増えていくばっかりでしてね﹂と、いうと、疲れてはいるが、得意そうにまた身体を横たえた。
細君が蝋燭をもってもどり、箱の前にひざまずいて命令書を探しているときに、Kはいった。
﹁奥さんが探されるのをお手伝いしましょうか?﹂
村長は微笑しながら頭を振った。
﹁すでに申し上げたように、あなたに対しては職務上の秘密なんてありません。でも、あなたにご自分で書類を探していただくなんて、そんなことまではとても﹂
今は部屋のなかは静まり返っていた。ただ書類が立てるかさかさいう音だけが聞こえていた。村長はおそらく少し居眠りしているようであった。ドアを軽くノックする音が、Kを振り返らせた。それはむろん二人の助手であった。これまでに少しはしつけられていたので、すぐ部屋のなかへ押しよせてはこないで、まず少しばかり開かれたドアを通してささやくのだった。
﹁外は寒すぎるんです﹂
﹁だれだね?﹂と、村長は驚いてきいた。
﹁私の助手たちですよ﹂と、Kはいった。﹁どこに待たせたらいいのか、私にはわからないんです。外では寒すぎますし、ここではじゃまになりますしね﹂
﹁私はかまいません﹂と、村長は親切にいった。﹁入れてやりなさいよ。それに、あの人たちは知っていますし。昔からの知人ですよ﹂
﹁でも、私にはじゃまなんです﹂と、Kは率直にいった。眼を助手たちから村長へと向け、また助手たちのほうへ走らせたが、三人とも、区別ができないほど同じように薄笑いを浮かべているのを見て取った。そこで彼は、ためしにいってみた。
﹁君たちはもう部屋へ入ってきたんだね。それなら、ここにいて、奥さんが書類を探すのを手伝いたまえ。その書類の上には︿測量技師﹀という字に青くアンダーラインがしてあるんだよ﹂
村長は反対しなかった。Kがしてはならないことを、助手たちはしてもよいというわけだ。二人はすぐ書類へ飛びかかっていったが、探すというよりもむしろ紙の山をほじくり返しているのだった。そして、一人がまだ表紙の文字を一字一字読みあげているうちに、きまって早くも一人がそれを相手の手から奪い取るのだった。それに反して細君は空(から)になった箱の前にひざまずいて、もう全然探してはいないようだった。ともかく蝋燭は彼女からずっと遠いところに立っていた。
﹁それでは、助手さんたちはあなたのじゃまになるんですね。でもあなた自身の助手なのに﹂村長は満足げな微笑を浮かべながらそういった。まるでいっさいのことは自分の指図によって行われているのだが、だれもそれを察することさえできないでいる、とでもいうようであった。
﹁いや﹂と、Kは冷やかにいった。﹁あの二人は私がこの土地にきてからはじめて、私のところへ押しかけてきたのです﹂
﹁なんですって! 押しかけてきたなんて。割り当てられてきた、といわれるんでしょう﹂と、村長がいう。
﹁それなら、割り当てられてきたということにします﹂と、Kはいった。﹁でも、まるで天から降ってきたようなものなんです。この割当てはひどく思慮を欠いたものです﹂
﹁思慮を欠いたことなんか、ここでは一つだって起こりませんよ﹂と、村長はいったが、足の痛みさえ忘れてしまって、身体をまっすぐに起こした。
﹁一つだって、ですか﹂と、Kはいった。﹁それでは、わたしの招(しょ)聘(うへい)のことはどうなっているんです?﹂
﹁あなたの招聘の件も十分に検討されてあるんですよ﹂と、村長はいった。﹁ただ附帯的な事情がごたごた入りこんできているのです。そのことを書類によって立証して上げましょう﹂
﹁書類は見つからないようですね﹂と、Kはいった。
﹁見つからない?﹂と、村長は叫んだ。﹁ミッツィ、どうかもう少し急いでくれ! でも、さしあたり書類なしでもあなたに話はして上げられます。さきほどお話ししたあの命令書に対してわれわれは、ありがたいが測量技師はいらない、と返事をしました。ところが、この返事は、本来の課――それをAと呼んでおきましょう――にはもどっていかないで、まちがって別なB課へいってしまったのです。そこで、A課は返事を受け取らなかったし、残念なことにB課もわれわれの返事の全部は受け取らなかったのです。書類の中身がわれわれのところに残ってしまったのであれ、途中で紛失してしまったのであれ、――課のなかでなくなったのではありません。それは保証します――ともかくB課でも書類の封筒だけしかとどきませんでした。その封筒の上には、そのなかに封入してあるはずの、しかし残念なことにほんとうはなくなっている書類は、測量技師の招聘に関するものである、ということ以外には書かれていません。そうしているうち、A課はわれわれの返事を待っていました。A課はこの件についての記録をもってはいましたが、こういうことはたしかによく起こり、万事の決済に正確を期しても起こりがちなことですが、照会係は、われわれが返事するのを当てにし、それによって測量技師を呼ぶことにするか、または必要に応じてさらにこの件に関してわれわれと文書を交わすことにするか、どちらかにしよう、と考えていたのです。そのために照会係はメモをとっておくことをおこたって、そこでいっさいが忘れられてしまったのです。ところが、B課ではその書類の封筒が、良心的なことで有名なある照会係の手に入りました。その男はソルディーニという名前でイタリア人です。事情に通じている私のような者にも、彼ほどの能力をもつ男がどうしてほとんど下僚同然の地位にほっておかれるのか、わかりません。ところで、このソルディーニが、むろん中身を入れて送れ、といって空の封筒を送り返してきました。ところが、A課の最初の文書以来、何年とはいわないにしても、何カ月かはたっていました。よく理解できることですが、規定どおり書類が正しい道を経てくるならば、おそくも一日のうちに相手の課にとどき、その日のうちに片づけられてしまいます。だが、一度道に迷ったとなると、――役所の組織が優秀であるだけにいよいよそのまちがった道を熱心に探さなければならないのですが――そうなると、もちろんひどく長い時間がかかります。そこで、われわれがソルディーニの覚え書を受け取ったときには、その一件をただまったく漠(ばく)然(ぜん)としか思い出せませんでした。そのころはまだわれわれ二人だけ、つまりミッツィと私とだけで仕事をしていました。学校の先生はまだ私のところへ割り当てられてきてはいませんでした。で、書類の写しは重要な件だけについてしか保管しておかなかったんです。要するに、われわれはそんな招聘のことは全然知らないし、また測量技師の必要なんか全然ない、ときわめて漠然とした返事しかできませんでした﹂
﹁でも﹂と、村長はここで話を中断した。まるで話に熱中しすぎて度を超(こ)した、あるいは少なくとも、自分が度を超したということはありうることだ、といわんばかりであった。﹁こんな話はあなたにはご退屈でしょうな﹂
﹁いや﹂と、Kはいった。﹁なかなか面白いです﹂
すると、村長がいった。
﹁なにもおなぐさみに話をしているわけではありませんよ﹂
﹁面白いというのは、事情によっては一人の人間の生活を決定するようなばかばかしいもつれかたがあるものだ、ということをさとらせられるからなんです﹂
﹁あなたはまださとってなんかいませんよ﹂と、村長はまじめにいった。﹁で、さらに話をつづけましょう。われわれの返事では、もちろんソルディーニのような男は満足しませんでした。あの男ときたら私にとっては頭痛のたねですが、私はあの男に感心しています。つまり、あの男はだれのいうことも信用しないのです。たとえばだれかと何回となく機会を重ねて知り合い、信用のできる者だとわかっても、次の機会にはもうまるで全然知らないかのように、あるいはもっと正確にいうと、その人間がやくざなことはわかっているとでもいうかのように、信用しないのです。これは正しいことだと思いますね。役人はそういうふうにやるべきです。残念ながら、私は性分でこの原則に従うことができないのです。ごらんのように、他国者のあなたにも、すべて打ち明けてしゃべってしまいます。私にはこういうふうにしかできないのです。ところがソルディーニときたら、われわれの返事に対してただちに不信を向けました。そこで大変な文書往復が始ったのでした。どうして突然、測量技師は呼ばなくてもよい、という気になったのだ、とソルディーニはたずねてきました。私はミッツィのすばらしい記憶の助けを借りて、最初の発議は役所の職務上から出ているのだ、と答えてやりました。発議をしたのは別な課なのだということは、われわれはもちろんずっと前から忘れてしまっていました。それに対してソルディーニは、なぜこの役所の書簡のことを今になってやっといい出したのか、といってきました。私はふたたび、今になってやっとそのことを思い出したからだ、と答えてやりました。ソルディーニが、それはきわめて変だ、といいます。私は、こんなに長びいている件についてはちっとも変なことではない、と応酬しました。ソルディーニ――それでも変だ。というのは、お前が思い出したという書類は存在していないじゃないか。私――もちろん存在はしていない。なぜなら、書類全体が紛失したのだから。ソルディーニ――それでも、その最初の書簡に関して何かメモが取ってあるはずだ。ところが、そんなものはないではないか。そこで私は返答につまってしまいました。というのは、ソルディーニの課にまちがいがあったなどとは、私もあえて主張できないし、またそんなことは信じられなかったのです。測量技師さん、あなたはおそらく頭のなかでソルディーニを非難していらっしゃるんでしょう、私のいうところを考慮して、少なくとも別な課にその件を照会してみる気になってもよかったはずだ、とね。だが、そんな非難こそ正しくないでしょう。たといあなたの頭のなかだけにしろ、この男のことで一つの汚点が残ることを、私は欲しません。まちがいがありうるなどということはおよそ計算には入れないというのが、役所の仕事の原則なのです。この原則は、全体の優秀な組織によって正当なものとされますし、事の処理が極度に速やかになされなければならないときには、どうしても必要なのです。そこで、ソルディーニはほかの課に照会することはまったく許されていなかったのです。それに、ほかの課にしても全然返事はしなかったことでしょう。なにせ、これはまちがいがあったのではないかと調べようとしているのだ、とすぐに気づいたことでしょうからね﹂
﹁村長さん、お話の途中なのに失礼ですが、ちょっとおたずねしたいのですが﹂と、Kはいった。﹁さきほどあなたは監督の役所のことをいわれませんでしたか? 役所の仕事は、あなたのお話からいうと、統制がない場合のことを考えただけでも気持が悪くなるほど正確なものであるはずですね﹂
﹁あなたはなかなか厳密でいらっしゃる﹂と、村長はいった。﹁しかし、あなたがその厳密さを千倍にしても、役所が自分自身に対して課している厳密さに比べるなら、まだまだなんでもないものです。まったく事情に暗い人だけがあなたの問いのようなのを出せるのです。監督の役所があるかっていうんですか? およそあるのは監督の役所だけなんです。もちろん、普通ありふれた意味でのまちがいを見つけ出すためにそれらの役所があるのではありません。というのは、まちがいなんか起こらないのです。そして、たといあなたの場合のようにまちがいが起ったとしても、いったいだれがそれをまちがいだと決定的にいえますかね﹂
﹁それはまったく耳新しいお考えですね﹂と、Kは叫んだ。
﹁いや、私にとってはまったくありふれたことです﹂と村長はいった。﹁私も、まちがいが起ったのだ、と確信している点では、あなた自身とたいして変わらないのです。ソルディーニはそれに絶望するあまり、重い病気にかかってしまいました。われわれのためにまちがいの根源を明らかにしてくれる第一のいろいろな役所も、この件でまちがいをみとめているのです。しかし、第二の監督の役所も同じような判断を下すし、第三の役所やさらにそのほかの役所も同じような判断を下すとは、だれがいえるでしょうか﹂
﹁そうかもしれません﹂と、Kはいった。﹁私はむしろ首を突っこんでそんなことを考えたりしたくはないのです。そういう監督の役所のことなど聞くのははじめてですし、まだそれらのことがわかってはいないのですから。ただ、ここでは二つのことを区別しなければならない、と思います。つまり、第一はいろいろな役所の内部で起っていることです。それはまた、お役所式にあれやこれやと考えられるわけです。第二は、私という現にいる人間のことで、その私は役所の外にいて、いろいろな役所から害をこうむろうとしているのですが、その害があんまりばかげているものですから、私はまだ今でもその危険の深刻さというものを信ずることができないでいるのです。第一のほうにあたるのはおそらく、村長さん、あなたがあきれるほどの途方もない知識を傾けて私に話して下さったことなのでしょう。でも次に、私は自分のことについても一言お聞きしたいと思います﹂
﹁そのことも申しましょう﹂と、村長はいった。﹁だが、あらかじめもう少し説明しませんと、あなたにはおわかりにならないでしょう。私が今、監督の役所についていったことさえ、どうも早すぎたんでしてね。そこで、ソルディーニとのくいちがいのことに話をもどしましょう。すでに申しあげたとおり、私の防戦はだんだん勢いが弱くなりました。ところで、ソルディーニがたといどんなに小さな利点でも両手に握ったとなると、もう彼の勝ちなのです。というのは、そうなると彼の注意力、エネルギー、精神の落ちつきというものまで増すのです。そして、彼という人間をながめることは、彼から攻撃される者にとっては、おそろしいものであり、彼に攻撃される者の敵にとってはすばらしいものなのです。別な機会にこの後者の例を私は体験しましたが、今こうやって彼のことをお話しできるのも、まったくそのためです。ところで、私はまだ彼をこの眼で見ることはできないでいます。彼は城から下りてくることができないんです。仕事にあまりに忙殺されているんです。人の話によると、彼の部屋はこんなふうだということです。どの壁面も積み重ねられた柱のような大きな書類束で被われており、しかもそれがソルディーニのちょうど取りかかっている仕事分の書類だけだというのです。そして、いつでもその束のなかから書類が引き出されたり、またそれにさしこまれたりされ、しかもすべて大変な速さでやられるので、その柱のような書類の山がいつもくずれてしまい、まさにこのたえまのない、あとからあとからつづく物音が、ソルディーニの執務室の特徴となってしまった、ということです。まったく、ソルディーニは仕事屋で、どんな小さな用件に対しても、きわめて重大な用件に対するのと同じくらいの慎重さを向けるのですからね﹂
﹁村長さん、あなたは﹂と、Kはいった。﹁私の件を依然としてきわめてつまらぬものの一つと呼んでおられますが、それでもこの件はたくさんのお役人にとっての大変な仕事となったのです。そして、この件はおそらく最初のうちはきわめて小さなものだったのでしょうが、ソルディーニ氏のようなお役人たちの熱心さによって、大きなものとなってしまいました。残念なことですし、まったく私の意に反することです。というのは、私の野心は、私に関する大きな書類の柱をできあがらせ、音を立ててそれをくずれさせるということではなくて、ささやかな土地測量技師として小さな製図机の前に静かに坐って仕事をするということなのです﹂
﹁いや﹂と、村長がいった。﹁けっして重大な件なんかではありません。この点であなたは苦情をいう理由はありません。つまらぬ件のうちでもいちばんつまらぬものの一つなのです。仕事の量によって、用件の重要度がきまるのではないのです。そんなことを信じられるなら、あなたはまだまだ役所のことがわかるのにはほど遠いのです。だが、たとい仕事の量が問題だとするにしても、あなたの件などはいちばん小さなものの一つです。さまざまな普通の件、つまりいわゆるまちがいのない用件のことですが、それらのほうがもっとずっと大変な仕事になります。もちろん、このほうはずっと実のある仕事ですがね。ともかく、あなたはあなたの件がひき起こしたほんとうの仕事について、全然ご存じないのです。そのことについて、これからお話ししましょう。はじめソルディーニは私に構いつけないでいたのですが、彼の部下がやってきて、毎日、村の有力者たちの喚問が紳士荘で行われ、調書を取っていきました。たいていは私の味方で、ただ、何人かが頑固な態度を見せました。測量の問題は農夫にも痛切なので、その頑固な役人たちは何か秘密の申し合せとか不正とかでもあるのではないかとかぎ廻り、その上、一人の指導者を見つけ出したのでした。そして、ソルディーニは、彼らの報告からこういう確信を得たのにちがいありません。つまり、もし私がこの問題を村会へ提出したならば、みんながみんな測量技師の召聘に反対ではなかったのではなかろうか、と。そこで、わかりきったことが――つまり、測量技師なんか必要ではないということですが――ともかく少なくとも疑問の余地あることとされてしまったのです。その際、ブルンスウィックという男がとくに目立ちました。――この男のことはあなたはご存じありますまい。――この男はおそらく悪い人間ではないのですが、ばかで空想的なのです。ラーゼマンの義理の兄弟ですがね﹂
﹁あのなめし革屋のですか?﹂と、Kはたずね、ラーゼマンのところで会ったあの鬚面の男のことをいって聞かせた。
﹁そうです。その男ですよ﹂と、村長はいった。
﹁私は彼の細君のことも知っています﹂と、Kは少し当てずっぽうにいってみた。
﹁それはありうることです﹂と、村長はいって、口をつぐんだ。
﹁きれいな人ですね﹂と、Kはいった。﹁でも、ちょっと顔色が悪く、病身ですね。城の出なのでしょうね?﹂これは半分、たずねるようにいった言葉だった。
村長は時計を見て、薬をさじの上にあけ、それを呑みこんだ。
﹁あなたはきっと城のなかの事務組織のことだけしかご存じでないのでしょう?﹂と、Kはぶしつけにたずねた。
﹁そうです﹂と、村長は皮肉げな、しかしありがたいというような微笑を浮かべて、いった。﹁その組織がまたいちばん重要なものなのです。ところで、ブルンスウィックについていうと、あの男を村から追い払うことができたら、われわれはほとんどみんながうれしいんですがね。ラーゼマンだってうれしくないわけじゃないはずです。ところが、そのころ、ブルンスウィックはちょっとした勢力を得ました。雄弁家でないけれど、大声でわめく男で、それで多くの人たちには十分だったのです。そこで私はこの件を村会に提出せざるをえないというはめになったのですが、これはともかくはじめのうちはブルンスウィックのただ一つの成功でした。というのは、もちろん村会は大多数が測量技師のことなど別に問題にしていなかったのです。それに、この件はすでに何年も前から起っていたのですが、今にいたるまでずっと決着しなかったのでした。それは一部分はソルディーニの良心的なやりかたからきたことであり、彼は多数派の根拠も反対派の根拠もきわめて注意深い調査によって探り出そうとしたのでした。それから一部分はブルンスウィックの愚かさと名誉心とからきたのです。この男は役所といろいろな個人的なつながりがあって、彼の空想力によってたえず新しいことを考え出しては、そうした役所とのつながりを動かしていました。もとよりソルディーニはブルンスウィックにだまされたりなどはしませんでした。どうしてブルンスウィックがソルディーニをだますことなんかできるでしょう。――けれども、まさにだまされないためには、新しいいろいろな調査が必要で、それがまだ終らないうちに、ブルンスウィックは早くもまた何か新しいことを考え出しているのでした。まったくあの男は活動的なやつで、それも彼の愚かさからくるのです。ところで、われわれの役所の組織の特別な性格についてお話しするときになりましたね。その組織の正確さというものに対応して、それはきわめて敏感なのです。一つの件がきわめて長いあいだ吟(ぎん)味(み)されていると、その吟味がまだ終ってしまってはいないのに、突然、電光石火の勢い、思いもかけなかったようなところ、またあとからではもう見出すことができないようなところに、一つの解決が生まれるということがあるものです。その解決は、用件をたいていはきわめて正しく、しかしともかく気まま勝手に片づけてしまうのです。まるで、役所の組織が、おそらくは取るにたらぬような一つの問題に何年ものあいだ駆り立てられ、緊張していることにもはや我慢できなくなり、役人の助けを借りないでみずから決定を下してしまうようなものです。もちろん何も奇蹟が起ったわけではなく、きっと役人のだれかがそうした処理を書いたのか、あるいは書かないで決定を下したのか、どちらかにちがいありません。ところが、いずれにしろ、少なくともわれわれのところからは、つまりここからは、いや、そればかりでなく役所からも、どの役人がこの件で決定を下したのか、そしてどういう理由から決定を下したのか、ということははっきりとさせられないのです。監督の役所がそのことをずっとあとになってやっとはっきりさせるのです。しかし、われわれにはもうその結果はわかりません。それに、そのころにはそれはほとんどだれにももう興味はありませんからね。ところで、すでに申し上げたように、まさにこうした決定はたいていの場合すばらしいものですが、ただそうした決定で困ることは、普通は次のようなことになるんですが、こうした決定についてわかるのは遅くなりすぎてからのことで、そのため決定がわかるまで、ほんとうはとっくに決定されてしまっている事柄について依然として熱心に論議している、ということになるのです。あなたの件でこうした決定が行われたかどうかは私にはわかりません。――いろいろな点でそうだといえますし、またいろいろな点でそうではないといえます――しかし、もし決定が下されたのであれば、招聘状があなた宛に送られ、あなたがここまで長い旅をしてこられたわけで、その場合に長い時間が経ち、ソルディーニはそのあいだ依然としてここで同じ問題にたずさわって、へとへとになるまで仕事をし、ブルンスウィックは策動をつづけ、私はこの二人に悩まされていたわけです。そういう可能性は今私がただ仄(ほの)めかしているだけのことですが、次のことは私もはっきり知っています。つまり、ある監督の役所がそのあいだに、A課から何年も前に村に宛てて測量技師についての照会が行われているのに、これまでその返事がきていない、ということを発見したのです。最近、私のところへ照会がきて、それでもちろん事の全(ぜん)貌(ぼう)が明らかにされました。A課は、測量技師は必要でないという私の回答に満足し、ソルディーニは、自分がこの件については係ではなかったということ、そしてむろん自分の責任ではないのだが、こんなにたくさんの不必要な気骨の折れる仕事をやってきたのだということを、みとめないわけにいかなかったのです。もし新しい仕事がいつものように四方から殺到してきていなかったら、そしてもしあなたの件がただきわめて小さな件にすぎないのでなかったならば、――あなたの件は、小さな件のうちでももっとも小さなものといってもいいくらいです――われわれはきっとみなほっと息をついたことでしょう。ソルディーニ自身さえも息をついたことだろう、と思います。ただブルンスウィックだけがぶつぶついったのですが、それもほんのお笑い草にすぎませんでした。ところで、測量技師さん、私の失望を考えてもみて下さい。事が全部うまく片づいたあと――そして、それからもすでにまた長い時が流れ過ぎたのですが――突然、あなたが現われ、またこの件がはじめからやりなおしという模様なんですからね。この件は私に関する限りどうしてもみとめまい、と私は固く決心していますが、そのことはきっとわかっていただけましょうね﹂
﹁わかりますとも﹂と、Kはいった。﹁だが、もっとよくわかることは、この土地では私についておそろしく不法な扱い方をしているということです。おそらくは法律についてもです。私としてもそれを防ぐことができるでしょう﹂
﹁どうやってそれを防ぐおつもりですか?﹂と、村長がきく。
﹁それは打ち明けてしまうわけにはいきません﹂と、Kはいった。
﹁無理にとはいいませんがね﹂と、村長はいう。﹁ただ、あなたにお考えいただきたいのですが、あなたにとっては私は――なにも友人だなどとはいいません。というのは、われわれはまったくの他人ですからね――だが、いわば仕事の上の友だちなのです。ただ、あなたが測量技師として迎えられることは、私はみとめるわけにいきません。そのほかのことでは、いつでも信頼して私に相談して下すってかまいませんよ。もちろん、たいしたものではない私の権限の範囲内でのことですが﹂
﹁あなたはいつも、私が測量技師として採用されるべきかどうか、ということについてお話しになりますが、私はすでに採用されたのですよ。ここにクラムの手紙があります﹂
﹁クラムの手紙ね﹂と、村長はいった。﹁それはクラムの署名があることで貴重で名誉なものです。それにその署名はほんもののようです。しかし、そのほかの点では――まあ、自分ひとりだけでそれについて意見はあえて申しますまい。――ミッツィ!﹂こう叫んで、次にいった。﹁ところで、お前たちはいったい何をしているのかね?﹂
長いあいだ無視されていた助手たちとミッツィとは、探している書類を見つけ出さなかったようだった。そこで、いっさいのものをまた戸棚のなかへしまおうと思ったが、書類がきちんとまとめられていなかったので、うまくしまうことができないでいた。そこで、おそらく助手たちが思いついて、それを実行しているところだったが、二人は戸棚を床の上に寝かせ、すべての書類をそのなかにつめこみ、次にミッツィといっしょになって戸棚の扉の上に坐って、扉をじわじわと押えつけようとしていた。
﹁それではあの書類は見つからなかったのだね﹂と、村長がいった。﹁残念ですね。だが、その話はもうおわかりですね。ほんとうはもう書類なんかいらなくなったのです。ともかく書類はまだ見つかるでしょうが。おそらく学校の先生のところにあるのでしょう。あの人のところにはまだ非常にたくさんの書類があります。だが、ミッツィ、蝋燭をもってここへきてくれ。そして、この手紙を私といっしょに読んでくれ﹂
ミッツィがやってきたが、彼女がベッドのはしに坐り、頑強で元気あふれる夫に身体を押しつけると、彼女はいっそう色あせ、みすぼらしく見えた。夫は彼女を抱いたままでいた。彼女の小さな顔だけは、今や蝋燭の光のなかできわ立って見えたが、その顔の輪郭はきびしく、ただ老年の衰えによってだけいくらかやわらげられていた。手紙に視線を投げるやいなや、彼女は軽く両手を合わせた。
﹁クラムのだわ﹂と、彼女はいった。
次に二人はいっしょに手紙を読み、少しばかりささやきを交わしていた。一方、助手たちはちょうど﹁万歳!﹂と叫んだところだった。とうとう戸棚の扉を押えて閉めたのだ。ミッツィは静かに感謝の面持で彼らのほうを見やった。最後に村長がいった。
﹁ミッツィが完全に私と同意見なので、このことをあえて申し上げてよいと思います。この手紙はおよそ役所の公文書ではなくて、私簡です。それは︿拝啓﹀という書き出しによってもすでにはっきりとわかります。その上、この手紙のなかでは、あなたが測量技師として採用された、ということは一こともいわれていません。むしろ一般的に領主に仕える勤務のことが問題となっていて、それも強制的にいっているわけではなく、ただ︿ご存じのように﹀という条件つきであなたは採用されているのです。つまり、あなたが採用されたことの立証責任があなたに課せられているという意味です。最後に、職務上のことに関してはもっぱら村長であるこの私を直属の上役として相談しろ、と命令されています。この私がいっさいのこまかいことをあなたにお知らせするはずだ、とね。ところで、そのことは大部分はすでにお話ししてしまったわけです。公文書を読むことを心得ており、したがって公文でない手紙などはもっとよく読める者にとっては、こうしたことはすべてあまりにもわかり切ったことです。よそ者であるあなたがそのことをおわかりにならないのは、私には別に不思議ではありません。全体としてこの手紙の意味しているところはただ、あなたが領主に仕える勤務に採用された場合に、クラムが個人的にあなたのことを心配するつもりだ、というだけのことです﹂
﹁村長さん、あなたはあんまりうまくこの手紙を解釈されたので﹂と、Kはいった。﹁結局のところ一枚の白紙の上の署名しか残らなくなってしまいましたね。それによって、あなたが尊敬するとおっしゃったクラムの名前をおとしめておられるのだ、ということにお気づきにならないのですか﹂
﹁それは誤解です﹂と、村長がいった。﹁わたしはこの手紙の意味を見そこなってはいません。私の勝手な解釈でそれを軽んじたりなんかしていませんよ。その逆です。クラムの私簡は公文書よりもずっと意味をもっています。ただ、あなたがそれにつけ加えているような意味はもってはいないのです﹂
﹁シュワルツァーをご存じですか﹂と、Kがたずねた。
﹁いや、知りません﹂と、村長はいった。﹁お前ならたぶん知っているね、ミッツィ? お前も知らないのか。いや、私たち二人は知りません﹂
﹁それは変ですね﹂と、Kがいった。﹁彼は下級の執事の息子ですから﹂
﹁測量技師さん﹂と、村長はいった。﹁どうして私が、すべての下級の執事の息子まで全部知っていなければならないんです?﹂
﹁よろしい﹂と、Kがいった。﹁それなら、彼がそういう男だということを信じて下さい。私はこのシュワルツァーと、私が到着した日のうちに早くも腹が立つ一幕を演じたのです。そのとき、この男が電話でフリッツという下級の執事のところへ照会し、私が土地測量技師として採用されたという知らせをもらったのです。村長さん、あなたはこのことをどう説明されますか﹂
﹁きわめて簡単です﹂と、村長がいった。﹁だとすると、あなたはまだ一度もほんとうにわれわれの役所と接触されたことがないわけです。こうした接触はすべて見せかけのものにすぎないのに、あなたは事情をご存じないものですから、それをほんとうの接触と思っておいでです。それに、電話についていえば、ごらん下さい、ほんとうに役所とは十分連絡の仕事があるはずのこの私のところに、電話がありません。食堂とかそういったところでは、電話は大いに役に立つかもしれません。たとえば自動ピアノなんかのようにね。でもそれ以上のものではありません。あなたはこの土地でいつか電話をおかけになったことがありますか、え? それなら、おそらく私のいうことがおわかりでしょう。城では電話はすばらしく役に立っているらしいです。人びとの話では、城ではたえず電話をしているようで、それはもちろん仕事を非常にはかどらせています。このたえまのない電話をかける音が、この村の電話にざわめきや歌声のように聞こえるのですが、それはあなたもお聞きになったでしょう。ところで、このざわめきとこの歌声とが、われわれにここの電話が伝えてくれるただ一つの正しいことであり、信用に価することであって、そのほかのものはまやかしです。城との一定の電話連絡というものはないし、われわれがかける電話をつないでくれる本局というものもないのです。ここから城のだれかに電話をかけると、むこうではいちばん下級のあらゆる課の電話機のベルが鳴ります。いや、むしろ城のすべての電話が鳴ることでしょう、もし私がはっきり知っているように、ほとんどすべてのこの電鈴装置が切られてなければね。だが、ときどき、疲れ切った役人たちが少しばかり気晴しをやりたい要求をもちます。とくに夕方や夜です。そこで電鈴装置にスイッチを入れるのです。すると、われわれは返事をもらうのですが、そうはいってもただの冗談にすぎない返事ですよ。これもきわめて納得できることです。個人的なつまらぬ用事のために、きわめて重要な、いつでもすさまじい勢いで進行している仕事のまっただなかに電話のベルを鳴らして面倒をかけるなどということが、だれに許されるでしょうか。また、私にはわからないのですが、たといよそからきた人であっても、たとえばソルディーニに電話をかけて、自分に返事をしているのがほんとうにソルディーニなのだなどと、どうして信じることができるのでしょうかね。それはむしろ、おそらくはまったく別な課の下っぱの記録係なのでしょう。反対に、もし時間を選んでかけるならば、下っぱの記録係に電話をかけたのに、ソルディーニ自身が返事をする、ということが起こりえますがね。そういう場合には、もちろん、最初の声が聞かれるより前に、電話から逃げ出したほうがいいですよ﹂
﹁たしかにそんなことは考えませんでしたが﹂と、Kはいった。﹁そういうこまかいことは私にはわかりませんでした。でも、私はこの電話の話というものをたいして信用していませんでしたし、まさに城のなかで経験したり獲得したりすることだけがほんとうの意味をもつのだ、といつでも考えていました﹂
﹁いや﹂と、村長はKのその一言に固執しながら、いった。﹁そういう電話の返事にはほんとうの意味があるんですよ。どうして、ないなどといえますか? 城の役人が与える知らせが、どうして無意味なはずがあります? クラムの手紙についてお話ししたときに、そのことはもう申しましたね。つまりこうした言葉はみんな公務上の意味はもってはいません。もしあなたがそうした言葉に公務上の意味があるとお考えなら、あなたはまちがってしまいます。それに反して、その個人的な意味は、好意的な意味においてであれ、悪意をもった意味においてであれ、とても大きなものなのです。たいていは、公務上の意味よりも大きなものなのです﹂
﹁わかりました﹂と、Kはいった。﹁万事がそういう事情にあるとするなら、私は城にかなりな数の良い友だちをもっているわけですね。よく考えてみると、あの何年も前に例の課が、測量技師を呼ぶかもしれないと思いついたのは、私に対する好意の行為だったのですね。そして、それにつづいてずっとこの好意の行為が重なっていき、最後には、なるほどひどい結末ではありますが、私がおびきよせられ、そして私を追っ払うぞとおどしているわけですね﹂
﹁あなたの考えかたにはある真実な点があります﹂と、村長がいった。﹁城のいうことを言葉どおりに取ってはいけないという点では、あなたのいわれることはもっともです。しかし、用心はどこでも必要であって、ここだけのことではありません。そして、問題となっている発言が重要であればあるほど、それだけ用心が必要なのです。ところで、あなたが︿おびきよせる﹀とおっしゃるのは、私には納得できません。もしあなたが私の説明をもっとよくたどっておられたら、あなたをここに招くという問題はあまりにもむずかしく、われわれがここでちょっとした談話をしているうちにとても答えられるようなものではない、ということを知られているにちがいないでしょうが﹂
﹁それでは、このお話の成果は﹂と、Kはいった。﹁私が追い払われるまで、万事がひどく不明瞭で、解決のつかぬままでいるのだ、ということなのですね﹂
﹁測量技師さん、だれがあえてあなたを追い払おうなんて思っているでしょうか﹂と、村長はいった。﹁いろいろな予備的問題が不明瞭だということこそ、あなたにもっとも鄭重な待遇を保証しているのです。ただ、あなたはお見かけしたところ、あまりにも神経質でいらっしゃる。ここではだれもあなたを引きとめないでしょうが、それはまたけっしてあなたを追っ払うということではありません﹂
﹁おお、村長さん﹂と、Kがいった。﹁多くのことをあまりにもあっさり見すぎていらっしゃるのは、またしてもあなたなのです。私をこの土地にとどめているいくつかのものを、あなたに数え上げてお聞かせしましょう。故郷の家から出てくるために私がもたらした犠牲、つらかった長い旅、ここで採用されるために思い描いたさまざまなちゃんとした理由のある希望、完全な無一物、今また家へ帰って別な適当な仕事を見つけ出すことの不可能なこと、そして最後にはこの土地の女である婚約者です﹂
﹁ああ、フリーダですね﹂と、村長は少しも驚かないで、いった。﹁知っています。でも、フリーダはあなたのいかれるところへどこへでもついていくでしょう。もちろん、そのほかのことに関しては、ここでいろいろお考えになることがたしかに必要ではあります。それについては城に報告しておきます。城の決定がくるにしろ、あるいはその前にもう一度あなたにいろいろおたずねすることが必要であるにしろ、あなたをお呼びしに人をやります。それはご承知下さいますね?﹂
﹁いや、承知できません﹂と、Kはいった。﹁私は城の施しものなどを望んでいるのではなく、当然の権利を欲しているのです﹂
﹁ミッツィ﹂と、村長は細君に向っていった。細君はまだ夫に身体を押しつけて坐っており、まるで夢のなかに没頭しているような様子で、クラムの手紙を手でもてあそんでいた。その手紙で彼女は小さな舟をつくっていた。Kは驚いてその手紙を彼女の手から奪い取った。﹁ミッツィ、脚がまたひどく痛み始めたよ。湿布を換えなければならないね﹂
Kは立ち上がって、いった。
﹁それでは、おいとましましょう﹂
﹁はい﹂と、ミッツィは村長にいって、早くも塗り薬を準備していた。﹁すきま風がひどく入ってくるんですわ﹂
Kは振り向いた。二人の助手が、いつものぎごちない職務熱心な態度で、Kの言葉を聞くとすぐ、観音開きのドアの両方を開けてしまっていた。Kはひどく侵入してくる寒気からこの病室を守るために、村長の前ですばやくお辞儀をするのがせいぜいだった。それから彼は、二人の助手を引っ張るようにしながら部屋から出て、急いでドアを閉めた。
宿屋の前では亭主が彼を待ちかまえていた。こちらからたずねなければ、あえて話そうとはしない様子だったので、Kは、どんな用だ、ときいた。
﹁新しい宿を見つけましたか﹂と、亭主は地面を見ながら、いった。
﹁おかみさんに頼まれて、きいているんですね﹂と、Kはいった。﹁あんたはきっとおかみさんにたよりっきりなんだね﹂
﹁いえ﹂と、亭主はいった。﹁あれに頼まれてうかがっているわけではありません。でも、あれはあなたのためにひどく興奮し、悲しがっています。仕事ができず、ベッドに入ったきりで、たえず溜息をついたり、嘆いたりしているんです﹂
﹁おかみさんのところへいこうか?﹂と、Kはきいた。
﹁どうか、そうして下さい﹂と、亭主はいう。﹁村長のところからおつれしようとして、あそこの戸口で聞き耳を立てていたんですが、あなたがたはお話をしておられて、おじゃまをしたくなかったし、女房のことが心配にもなったので、急いで帰ってきたのでした。ところが、あれは私をよせつけませんので、あなたをお待ちするよりほかにしかたがなかったのです﹂
﹁それなら、急いでついてきたまえ﹂と、Kはいった。﹁すぐおかみさんをなだめてやるよ﹂
﹁そううまくいきさえすれば、いいんですが﹂と、亭主がいった。
二人は明るい台所を通っていった。そこでは、三、四人の女中がたがいに離れたままで、たまたま何かの仕事をやっていたが、Kの姿を見ると、まったく立ちすくんでしまった。台所にいてさえ、おかみの溜息をもらす声が聞こえてきた。おかみは、薄い板壁で台所と隔てられた、窓のない仕切り部屋に横になっていた。そこには、大きなダブルベッドと戸棚一つとを置くだけの余地しかなかった。ベッドは、そこから台所全体が見わたせて、仕事を監督できるように置かれてあった。それに反して、台所からは仕切り部屋のなかのほとんど何も見られなかった。そこはまったく暗くて、ただ薄桃色の寝具だけが少しばかりぼんやり浮かび出ていた。部屋のなかへ入って、両眼が慣れるとやっと、こまかなところが見わけられるのだった。
﹁やっときて下すったのね﹂と、おかみは弱々しい声でいった。彼女は手足をのばして仰向けに寝ていたが、呼吸をするのが苦しい様子で、羽根ぶとんをうしろへはねのけていた。ベッドに寝ていると、服を着ているときよりもずっと若く見えたが、かぶっているレースで織った薄いナイトキャップ︵それが小さすぎて、髪の上でずれ落ちそうに動いているのだが︶のため、顔のやつれを見せていて、見るからにあわれをもよおさせるのだった。
﹁私がきてもよろしかったのですか?﹂と、Kはやさしくたずねた。﹁あなたは私をお呼びにはならなかったんですのに﹂
﹁こんなに長いあいだ私を待たせてはいけなかったのよ﹂と、おかみは病人特有のわがままさでいった。﹁おかけなさいな﹂と、彼女はいって、ベッドのはしを示した。﹁でも、ほかの者は出ていってちょうだい!﹂そのあいだに助手たちのほかに、女中までが入りこんでいたのだった。
﹁おれも出ていくよ、ガルディーナ﹂と、亭主がいった。Kははじめておかみの名前を聞いたのだった。
﹁もちろんですとも﹂と、彼女はゆっくりといったが、何か別な考えにふけっているらしく、うわの空でつけ加えた。﹁どうしてお前さんなんかがここに残るっていうの?﹂
だが、みんな台所へ引き下ってしまったときにも、――助手たちも今度はすぐそのあとについていった。とはいっても、一人の女中の尻を追っていったのだった――ガルディーナはそれでも注意深くて、ここで話すことは台所にまる聞こえだと見て取った。というのは、この仕切り部屋にはドアがなかったのだ。それで彼女は、全員に台所からも立ち去るように命じた。すぐ彼女のいうとおりになった。
﹁測量技師さん﹂と、ガルディーナが次にいった。﹁戸棚のなかのすぐ手前にショールがかかっています。それを取って下さいな。それを身体にかけたいんです。羽根ぶとんは我慢できないわ。息苦しくて﹂そして、Kがそのショールをもっていくと、いった。﹁ごらんなさいな、このショールはきれいでしょう?﹂
それはKにはありふれた毛織の布のように見えた。ただお世辞だけのために一度さわってみたが、一言もいわなかった。
﹁そうよ、これはきれいなショールだわ﹂と、ガルディーナはいって、それにくるまった。今度は落ちついたように身体を横たえていた。すべての苦悩が彼女から取り去られたように見えた。それに、横になっていたために乱れてしまった頭髪にまで気がついて、ちょっとのあいだ身体を起こし、ナイトキャップからはみ出た髪形をなおしていた。豊かな髪だった。
Kはじりじりしてきて、いった。
﹁おかみさん、あなたは私がもう別な宿を見つけたかって、私にきくようにいいましたね?﹂
﹁きくようにいったですって?﹂と、おかみはいった。﹁いいえ、それはまちがいです﹂
﹁でもご主人がたった今、そのことを私にきかれましたよ﹂
﹁きっとそうでしょうね﹂と、おかみはいった。﹁わたしはあの人とやり合っているんですよ。わたしがあなたをここに泊めたくないと思ったときには、あの人はあなたを引きとめましたし、今、あなたがここに泊っていらっしゃることをわたしがうれしく思っていると、あの人はあなたを追い出そうとします。あの人はいつでもこんな調子なんですよ﹂
﹁それではあなたは﹂と、Kはいった。﹁私についてのお考えをそんなに変えてしまわれたのですね? 一時間か二時間のうちにですか?﹂
﹁わたしの考えを変えたわけじゃありませんわ﹂と、また弱々しげにおかみはいった。﹁手を渡してちょうだい。そう。それじゃあ、なんでも正直にいうって私に約束して下さいね。わたしもあなたに対しては正直にいうことにします﹂
﹁いいです﹂と、Kはいった。﹁でも、どちらから始めるんです?﹂
﹁わたしからよ﹂と、おかみがいった。Kの機嫌を取ろうとしていっているようには見えず、自分のほうからしゃべりたがっているように見えるのだった。
おかみはふとんの下から一枚の写真を取り出し、それをKに手渡した。
﹁この写真をよくごらんなさい﹂と、彼女は頼まんばかりにいった。それをもっとよく見ようとして、Kは台所へ一歩ふみ入れたが、それでも写真の上に何かを見わけることは容易ではなかった。というのは、写真は古くなったために色があせてしまい、いくつも破れ目が入っていて、くちゃくちゃになり、しみがついていた。
﹁どうもあまりいい状態にはないようですね﹂と、Kはいった。
﹁残念ですわ、残念ですわ﹂と、おかみがいった。﹁何年も肌身につけていつももち運んでいると、そんなふうになるのよ。でも、よくごらんになると、なんでも見わけられますわ。きっとそうよ。それに、わたしがお手伝いしてあげるわ。何が見えるか、おっしゃって下さい。写真のことを聞くのは、とてもうれしいんです。何が見えるの?﹂
﹁若い男ですね﹂と、Kはいった。
﹁そうよ﹂と、おかみがいった。﹁で、何をしていると思う?﹂
﹁板の上に寝て、身体をのばし、あくびをしているのだと思うな﹂おかみは笑った。
﹁全然ちがうわ﹂と、彼女はいった。
﹁でも、ここに板があって、ここに男が寝ていますよ﹂と、Kは自分の見かたに固執した。
﹁もっとよくごらんなさい﹂と、おかみは怒ったようにいった。﹁ほんとうに寝ている?﹂
﹁いや﹂と、今度はKはいった。﹁寝ているんじゃない。空中に漂っています。そうだ、これは全然板なんかじゃなくて、おそらく紐(ひも)ですね。この若い男は高(たか)跳(と)びをやっているんですね﹂
﹁そうよ﹂と、おかみはよろこんでいった。﹁跳んでいるのよ。所長のお使いはこんなふうにして練習するんです。あなたにわかるものと、私は思っていました。顔も見えて?﹂
﹁顔のことはほんの少ししかわからないけれど﹂と、Kはいった。﹁ひどく骨を折ってやっているらしいですね。口は開いているし、眼をつぶり、髪をなびかせています﹂
﹁よくわかったわね﹂と、おかみは賞めるようにいった。﹁この人を直接見たのでない者には、それ以上はわからないわ。でも、すてきな若者だったのよ。ほんの一度ちらりと見ただけですけれど、あの人のことはけっして忘れないでしょう﹂
﹁いったいだれなんです?﹂と、Kはたずねた。
﹁これはね﹂と、おかみはいった。﹁使いの人です。この人をよこして、クラムがはじめて自分のところへこいって私にいってきたんです﹂
Kは相手の言葉をはっきりと聞いていることができなかった。窓ガラスのがたがたいう音に注意をそらされたのだった。彼はすぐ、このじゃまの原因を見とどけた。二人の助手が外の内庭に立ち、雪のなかで片足ずつ跳んでいた。Kにまた会えてうれしいというように、よろこびのあまりたがいにKを指さしては、たえず台所の窓をこつこつとたたくのだった。Kのおどかすようなしぐさですぐにそれもやめ、たがいに相手をうしろへのけようとするのだが、すぐ相手の妨害をかわして、また窓のところへやってくる。Kは急いで仕切り部屋へもどった。そこならば、助手たちが外から彼を見ることができず、彼のほうも二人を見ないですんだ。ところが、窓ガラスをたたく、低い哀願するような物音は、そこでもなお長いあいだ彼を追いかけてくるのだった。
﹁また助手たちなんです﹂と、彼は言いわけのためにおかみにいって、外を指さした。だが、おかみはKには注意を向けていなかった。写真を彼から取り上げ、それをじっとながめ、手でしわをのばし、またふとんの下に押し入れていた。彼女のしぐさは前より緩慢になっていたが、疲れのためではなく、思い出の重荷にあえいでいるためであった。Kに話そうとしたのだが、話をしているうちにKのことを忘れてしまっていた。ショールのへり飾りをもてあそんでいた。ちょっとの間をおいてからやっと眼を上げ、手で眼の上をこすり、いった。
﹁ああ、このショールもクラムからもらったのよ。それからナイトキャップも。写真とショールとキャップ、この三つはわたしがもっているクラムの記念の品なの。わたしはフリーダのように若くないし、あの子のように野心がないし、またあの子のように気がやさしくはないわ。あの子はとても気がやさしいのよ。つまり、わたしは生活に順応することを知っているのね。でも、このことを白状しなきゃならないけれど、この三つの品物がなければ、わたしはここでこんなに長いあいだ我慢できなかったことでしょう。いいえ、おそらく一日だって我慢できなかったことでしょうよ。この三つの記念の品は、あなたにはおそらくつまらぬもののように思われるでしょうけれど、ごらんなさいな。あんなに長くクラムとつき合っていたフリーダだって、記念の品なんて全然もっていないじゃないの。わたしはあの子にきいてみたんだけれど、あの子はあまりに夢想しすぎるし、あまりに満足を知らなすぎるのよ。ところがわたしのほうは、たった三度しかクラムのところにいかなかったのに、――あとではあの人はもうわたしを呼びに人をよこさなかったの、どうしてかわからないのだけれど――まるであの人とわたしとの関係が短いことを予感していたように、これらの記念の品をもってきたのよ。もちろん、自分からそのつもりにならなければならないのよ。クラムが自分でものをくれることなんてないわ。でも、クラムのところで気にいるものがあるのを見たら、くれってせがむことはできるのよ﹂
いくら自分に関係のあることでも、Kはこんな話を聞かされていて、不愉快に感じた。
﹁いったい、そういったことはどれくらい前のことなんです?﹂と、彼は溜息をもらしながらきいた。
﹁二十年以上も前のことよ﹂と、おかみがいった。﹁二十年よりずっと前の話よ﹂
﹁そんなに長いあいだクラムに対して変わらぬ愛の心を守っているんですね﹂と、Kはいった。﹁でも、おかみさん、私が自分の将来の結婚のことを考えると、あなたはこんな告白で私に大きな心配のたねを与えているんだっていうことを、気づいておられますか?﹂
おかみは、Kが自分のことをもち出して今の話に口を挾もうとしたのを無礼と思い、怒ってわきからKをじっと見た。
﹁そんなに気を悪くしないで下さい、おかみさん﹂と、Kはいった。﹁私はクラムにかれこれいうのではありません。しかし、私はさまざまなできごとの力でクラムとはある関係ができてしまったのです。それはいくらクラムの最大のファンだって否定はできないはずです。そうなんですよ。そこで私はクラムの話になると、いつでも自分のことを考えないではいられません。これはどうしようもないのです。それに、おかみさん――﹂――ここでKは彼女のためらう手をつかんだ――﹁考えても下さい、さっきの私たちの話合いはなんてまずい終りかたをしたことでしょう。今度は仲よく別れましょう﹂
﹁おっしゃることはもっともです﹂と、おかみはいって、頭を下げた。﹁でも、わたしのことも気の毒だと思って下さいよ。わたしはほかの人たちみたいに感じやすくはありません。それに反して、みんなはいろいろな泣きどころをもっているけれど、わたしはただこのクラムという泣きどころをもっているだけなのよ﹂
﹁残念ながら、それが同時に私のでもあってね﹂と、Kはいった。﹁でも、私はきっと自分を抑えるでしょう。ところで、おかみさん、私にいって聞かせて下さいませんか。結婚してから、クラムに対するこんなおそろしいほどの変わらぬ愛情をどうやって私は我慢したらいいのですか。フリーダもこの点であなたと似ているとしての話ですけれど﹂
﹁おそろしいほどの変わらぬ愛情ですって!﹂と、おかみはぶつぶついいながら、Kの言葉をくり返した。﹁これが変わらぬ愛情なんていうものですか? わたしは夫に対して操(みさお)を立てています。クラムにですって? クラムは一度わたしを恋人にしましたよ。わたしがいつかこの資格を失うことがあるんですかね? で、あなたはフリーダの場合にそれをどうやって我慢したらいいかですって? ああ、測量技師さん、そんなことをきくなんて、あなたはいったいなんという人なんです?﹂
﹁おかみさん﹂と、Kは相手をたしなめるようにいった。
﹁いいすぎましたわ﹂と、おかみはすなおにいった。﹁けれど、わたしの夫はそんな問いはしませんでした。あのころのわたしと今のフリーダと、どちらが不幸といえるのか、わたしにはわかりませんわ。気まぐれにクラムを捨てたフリーダでしょうか、それとも、クラムがもう呼びに人をよこさなくなった私のほうでしょうか。けれど、おそらくはフリーダのほうだわ。あの子にはまだそれがすっかりはわかっていないようだけれど。でも、あのころわたしの不幸はわたしの頭を今よりももっと占めていたのよ。というのは、いつでも自分自身に次のようにきかないではいられなかったし、ほんとうのところ今でもまだ自分にきくことをやめていないのよ。﹃どうしてこんなことになったのだろう? 三度クラムはお前を呼びに人をよこしたが、四度目はもうよこさない、四度目はもうけっしてよこさないなんて!﹄って。あのころ、このこと以上に何がわたしの心を占めていたでしょうか? そのすぐあとで結婚した夫と、このこと以外の何について話すことができたでしょうか? 昼のあいだは時間がありませんでした。わたしたちはこの宿屋をひどい状態で譲り受けたのですし、それをりっぱに繁昌させなければなりませんでした。でも、夜はどうでしたろう? 何年ものあいだ、わたしたちの夜の話は、ただクラムとあの人の心変りの理由とだけをめぐって行われました。そして、夫がこの話をしているうちに眠りこんでしまうと、わたしは夫を起こして、また話しつづけたものですわ﹂
﹁で、もしお許し下さるなら﹂と、Kはいった、﹁大変ぶしつけな質問をしたいのですが﹂
おかみは黙っていた。
﹁それでは、きいてはならないわけですね﹂と、Kはいった。﹁それでも十分です﹂
﹁もちろんですとも﹂と、おかみはいった。﹁それでも十分でしょうね。それがとくに十分でしょうね。あなたはなんでも誤解なさるのね。黙っていることもね。あなたには誤解するほかにできることってないのよ。わたしは、どうぞきいてくださいっていうつもりよ﹂
﹁私はなんでも誤解するのなら﹂と、Kはいった。﹁おそらくわたしの質問も誤解しているのでしょう。おそらく少しもぶしつけな質問なんかじゃないのでしょう。ただ、あなたがどうやってご主人を知るようになったかということと、どうしてこの宿屋があなたたちのものになったかということとを、知りたいだけなんです﹂
おかみは額にしわをよせたが、平静にいった。
﹁それはとても簡単な話ですわ。わたしの父が鍛冶屋で、わたしの今の夫のハンスはある豪農の馬丁で、しょっちゅう父のところへきたのです。そのころ、クラムと最後に会ったあとで、わたしはひどく不幸でした。けれども、ほんとうは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。というのは、万事は正確に進んでいたのです。そして、わたしがもうクラムのところへいっていけなかったのは、まさしくクラムがきめたことで、それだから正確だったはずです。ただ、そうなった理由だけがあいまいで、それは探ってもよかったのです。でも、わたしは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。ところで、それでもわたしは不幸で、仕事も手につかず、うちの前庭に一日じゅう腰を下ろしていました。そこでハンスがわたしを見て、ときどきわたしのそばへやってきては腰を下ろすのでした。わたしはあの人に自分の悩みを訴えませんでしたが、あの人はそれが何についての悩みなのかを知っていました。そして、あの人は善良な若者だったので、わたしといっしょに泣いてくれるという場面になったのです。あのころの宿の主人はおかみさんが死んで、そのために商売をやめなければならなかったのですが、――それにその人はもう老人でしたから――あるとき、うちのその小さな庭の前を通りかかって、そこでわたしたち二人が坐っているのを見ると、立ちどまり、むぞうさにこの宿屋を賃貸ししてやろうと申し出てくれました。わたしたちを信用してくれていたので、内金を取ろうとはしないで、賃貸料も大変安くしてくれました。わたしは父にだけは面倒をかけまいと思っていましたが、そのほかのことはみんなどうでもよかったのです。そこで、宿屋のことや、おそらくは少しは悩みを忘れさせてくれる新しい仕事のことを考えて、ハンスの結婚申込みに応じました。そういう話なんですよ﹂
しばらく二人は黙っていたが、やがてKがいった。
﹁その宿屋の主人のやりかたはたしかにりっぱだったのですが、軽率でしたね。それとも、その人にはあなたたちを信頼する特別の理由でもあったのですか?﹂
﹁その人はハンスをよく知っていました﹂と、おかみはいった。﹁ハンスの伯(お)父(じ)さんでしたから﹂
﹁それなら、むろんのことですね﹂と、Kはいった。﹁では、ハンスの家族はきっとあなたとの縁組を大いに問題にしていたのですね﹂
﹁きっとそうでしょう﹂と、おかみはいう。﹁わたしにはわかりません。そんなことに気を使ったことはありませんから﹂
﹁でも、きっとそうだったにちがいありませんね﹂と、Kはいった。﹁家族の人たちがこんな犠牲を払って、宿屋を担保もなしで簡単にあなたたちの手に渡す気になったんですからね﹂
﹁あとになってわかったように、それは軽率なやりかたではありませんでしたよ﹂と、おかみはいった。﹁わたしは仕事に没頭しました。鍛冶屋の娘のわたしは身体がじょうぶで、女中や下男もいりませんでした。食堂でも、台所でも、馬小屋でも、内庭でも、どこででも働きました。料理が上手なので、紳士荘のお客さえ取ってしまったほどです。あなたはまだ昼食に食堂へいらっしゃっていないので、うちの昼食のお客さんがたをご存じないのです。あのころはもっと多かったんです。あれからもうお客がだいぶ減ってしまいましたのでね。で、その結果は、わたしたちは賃貸料をきちんと払ったばかりでなく、二、三年ののちにはそっくり買い受け、今ではほとんど借金もなくなっています。ところが、それ以外の結果としては、もちろん、そのために私は身体をこわしてしまい、心臓が悪くなり、今ではお婆さんになってしまった、ということをあげなければなりません。おそらくあなたは、わたしのほうがハンスよりもずっと年上だとお思いでしょうけれども﹇#﹁お思いでしょうけれども﹂は底本では﹁お思いでしようけれども﹂﹈、ほんとうはあの人は私より二つか三つ若いだけなんです。そして、あの人はさだめしこれからもけっして年をとらないことでしょう。というのは、あの人のような仕事をしていては、――パイプをふかしたり、お客さんがたの話に耳を傾けたり、それからパイプをたたいて灰を出したり、ときどき一杯のビールをお客にもっていったりするぐらいなんですから――とても年なんかとるものではありませんよ﹂
﹁あなたのお手柄はすばらしいものです﹂と、Kはいった。﹁そのことは疑いありません。けれども、あなたはあなたの結婚以前のときのことをお話しになりましたが、そのころには、ハンスの家族が入るべき金を犠牲にし、あるいは少なくとも宿屋の譲り渡しというような大きな危険にあまんじて、あなたがたの結婚をうながし、しかもその場合にまだ全然わかっていなかったあなたの仕事の腕前と、ないということはよく知っていたにちがいないハンスの仕事の腕前と以外には少しも見込みというものをもたなかったとすると、どうも奇妙なことになりますね﹂
﹁まあ、まあ﹂と、おかみは疲れたようにいった。﹁あなたが見当をつけていること、しかもそれがまちがっていることは、よくわかりますよ。クラムについてはこうしたすべてのことはまったくかかわりもないことですわ。なぜクラムがこのわたしのために心配してくれたり、あるいはもっと正確にいって、このわたしのために心配してくれることができたりしたでしょうか? あの人はじつのところ、わたしのことなんか、もう全然知らなかったのです。あの人がもうわたしを呼びによこさなかったということは、わたしのことを忘れてしまったというしるしなんですわ。自分がだれを呼びにやらないのかは、完全に忘れているのですよ。こんなことはフリーダの前では申したくありません。ところで、それは忘れるということだけではなく、それ以上のことなんです。忘れてしまった者のことは、ふたたび知るということがありえます。ところが、クラムの場合には、そんなことはありえないんです。クラムがもう呼びに人をよこさない者のことは、その者の過去について完全に忘れてしまったばかりでなく、すっかりその者の未来についても忘れてしまったということなんです。わたしだって骨を折って考えれば、あなたの考えていらっしゃることぐらい察しはつきますわ。あなたの故郷であるよその土地ではたぶん通用しているのでしょうが、ここではばかばかしいような考えのことをいっているんですよ。おそらくあなたは、クラムが将来いつかわたしを呼ぶとき、わたしがあの人のところへいくじゃまにならないようにというので、ハンスのような男をわたしの夫にしたのだ、というようなばかげたことまで考えていらっしゃるんでしょう。ところで、ばかばかしいにもほどがあるというものです。もしわたしにクラムが合図したなら、わたしがクラムのところへ駆けつけるのを妨げることができるような夫なんて、いるものですか。ばかばかしい、ほんとにばかばかしいことですわ。こんなばかげた考えをもてあそんでいたら、頭が変になりますわ﹂
﹁いや﹂と、Kはいった。﹁おたがいに頭が変なんかになりたくありませんね。私も、あなたの考えておられるほどに私の想像をたくましくしたわけではありませんよ。もっとも、ほんとうをいうと、そんなことを考えかけていたんですけれどね。ただ、さしあたって不思議と思ったのは、親戚の人たちがこの結婚に大いに期待をかけ、しかもそうした期待が実際に実現されたということなんです。実現されたといっても、あなたの心臓と健康と引き換えということでしたがね。こうした事実とクラムとのあいだにある関連があるらしいという考えは、たしかにお話をうかがっていて私の頭に浮かんではきましたが、あなたがおっしゃったほど失礼なものではありませんでした。あるいは、まだそこまではいっていなかったといえます。あなたがあんなことをおっしゃったのは、あなたに面白いものだから、私をどやしつけようというだけの目的でなさったようですね。まあ、勝手に面白がって下さい。ところが、私が考えたのは、何よりもまずクラムが結婚のきっかけらしい、ということなんです。クラムというものがいなかったら、あなたは不幸にはならなかったでしょうし、仕事に手がつかぬようになって前庭に坐りこんでいることもなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたはハンスと前庭で会わなかったことでしょうし、あなたの悲しみというものがなかったら、気の小さいハンスはあなたにけっして話しかけようなどとしなかったことでしょう。クラムがいなかったら、あなたはけっしてハンスといっしょに涙を流したりしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あの年とった善良な伯父さんの宿のご亭主も、けっしてハンスとあなたとが前庭でなごやかにいっしょにいるのを見はしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたは人生に対してどうでもいいというようなふうにはならず、したがってハンスと結婚なんかしなかったでしょう。で、こうしたすべてにすでに十分にクラムが関係があるのだ、といわないわけにはいきません。ところが、もっと先があります。クラムがいなければ、あなたは過去を忘れようとはしなかったでしょうし、きっとそんなに考えなしに身体をいじめつけて仕事をしなかったでしょうし、また商売をこんなに栄えさせはしなかったでしょう。だから、その点でもクラムが関係しているわけです。ところで、クラムはまた、そうしたことは別としても、あなたの病気の原因でもあります。というのは、あなたの心臓は結婚の前にすでにかなわぬ恋の情熱に疲れ切っていたのですからね。で、なお残っている問題は、ハンスの親戚たちはなんであなたがたの結婚にそんなに乗り気になったのか、ということだけです。さっき、ご自分でいわれましたが、クラムの恋人であるということは、身分が上がることで、それはいつまでも消えるものではないってね。ところで、そのことがあなたの心をひきつけたのかもしれませんね。だが、そのほかに、こういう期待があったんだと思います。つまり、あなたをクラムのところへつれていったのはいい星のめぐり合せであり、――いい星だと仮定しての話ですが、あなたはそうなんだっておしゃっていますね――その星があなたのものであって、そしてあなたのところにいつまでもとどまるだろう、そして、クラムがやったようにあんなに早く、あんなに突然、あなたを見捨てることはないだろう、っていう期待です﹂
﹁そんなことをみんな本気で考えていらっしゃるんですか﹂と、おかみがきいた。
﹁本気ですとも﹂と、Kは口早にいった。﹁ただ私が思うのは、ハンスの親戚たちはそうした期待の点で正しかったのでもなければ、まったくまちがっていたのでもない、ということです。そして、その人たちがやったまちがいが私にはわかるように思います。たしかに外面的には万事がうまくいったように見えます。ハンスは暮しの心配がなくてすみますし、すばらしい奥さんをもち、人には尊敬され、家計は借金なしときています。でも、ほんとうは万事うまくいったわけではありません。ハンスは、自分をりっぱな初恋の人と見てくれた普通の娘といっしょになったほうが、きっとずっと幸福だったことでしょう。あの人が、あなたの非難されるように、ときどき食堂でまるで放心したように立っているなら、それはあの人がほんとうに自分はだめだと感じているからなんです。――といって、そのことで不幸にはなっていませんけれど。きっとそうです。私もそのくらいはあの人のことがわかっています。――でも、それと同じようにたしかなのは、このりっぱな、ものわかりのいい若者は、別な女の人といっしょになったら、もっと幸福だったろう、ということです。という意味は、それと同時に、もっと自主的になり、もっと勤勉に、もっと男らしくなったろうということなんです。そして、あなたご自身もきっと幸福ではないはずです。おっしゃったように、あの三つの記念の品がなければ、あなたは生きていく気が全然しないことでしょうし、また心臓をわずらってもいらっしゃるんですからね。それでは、ハンスの親戚たちは彼らの期待した点でまちがっていたのでしょうか。そうとは思いません。祝福はあなたの上にあったのですが、だれもその祝福を自分たちのところへ下ろすことを心得ていなかったのです﹂
﹁いったい何を取り逃がしてしまったっていうんですか﹂と、おかみはきいた。おかみは手足をのばして仰向けになり、天井を見上げていた。
﹁クラムにきいてごらんなさい﹂と、Kはいった。
﹁それでは、あたしたちはまたあなたのことにもどるのですね﹂と、おかみがいった。
﹁あるいは、あなたのことにね﹂と、Kはいった。﹁私たち二人のことはすぐ隣り合っているようなものですからね﹂
﹁それでは、あなたはクラムにどんなことを望んでいらっしゃるんです﹂と、おかみがきいた。彼女は身体をまっすぐにし、枕を振ってなおし、坐ったままでよりかかることができるようにした。Kの両眼をまともに見ていた。﹁わたしはあなたに、わたしのことを打ち明けてお話ししましたわ。あなたはこの話からいくらかのことを学べたはずですよ。今度はあなたが、クラムに望んでいることを打ち明けておっしゃって下さいな。フリーダに自分の部屋へ上がっていき、そこにいるようにって、わたしはやっとあの子を説得したんですよ。あなたは、あの子がいると、どうも十分に打ち明けて話して下さらないんじゃないか、と思ったものですから﹂
﹁隠すことなんか、何もありませんよ﹂と、Kはいった。﹁でも、まずあなたにご注意申し上げることがあります。クラムはすぐ忘れてしまう、ってあなたはおっしゃいました。ところでまず第一に、そのことが私にはとてもありえないことのように思われるんです。第二には、それは証明できないことです。クラムにかわいがられていた女の子たちが考え出した単なる伝説にすぎないように思われます。あなたがそんな明白なつくりごとを信じていらっしゃることが、私には不思議ですよ﹂
﹁伝説なんかじゃありませんよ﹂と、おかみはいった。﹁それはむしろみんなの経験から出ているんですわ﹂
﹁それなら、新しい経験によってそれを否定することもできるわけですね﹂と、Kはいった。﹁それに、あなたの場合とフリーダの場合とでは、ちがいがあります。クラムがフリーダをもう呼ばなくなったなどということは、いわば全然なっていないんです。むしろ、あの男があの子を呼んだのに、あの子はそれに従わなかったのですよ。クラムがまだあの子を待っているということだって、ありえますよ﹂
おかみは黙ってしまい、ただただ探るように視線をときどきKの上に走らせるのだった。やがていった。
﹁あなたのおっしゃりたいことはなんでもおとなしくうかがいましょう。わたしの気を悪くしないようになんて気づかわれるよりは、ざっくばらんにお話し下さい。ただ、一つだけお願いしておきます。クラムの名前を出さないで下さいな。︿あの人﹀とかなんとかいって下さいね。でも名前を直接口にはしないで下さい﹂
﹁いいですとも﹂と、Kはいった。﹁でも、あの人に私が望んでいることは、いうのがむずかしいんです。まず、あの人を身近かに見たい、次にあの人の声を聞きたい、それからあの人が私たちの結婚にどんな態度をとるのか知りたいんです。それからたぶんそのほかにも頼みたいことは、話合いのなりゆきにかかっています。おそらくいろいろなことが話に出るでしょうが、私にとっていちばん大切なことは、あの人と面と向って会うことです。つまり、私はまだほんとうの役人と直接話をしたことがないんです。それは、私の考えていたよりむずかしいことのように思われます。ところで私としては、個人としてのあの人と話をする義務があります。そして、これは私の考えによると、ずっと実行がやさしいはずです。役人としてのあの人には、ただあの人の事務室で話ができるのですが、その事務室へはどうやら近づきがたいようです。それが城のなかにあるのか、紳士荘にあるのかが、すでに問題ですしね。でも、個人としてなら、あの人に会うことのできるどこでも、家のなかでも、路上でも、話ができるはずです。その場合に、ついでに役人としてのあの人と向かい合うことになっても、私にはいっこうかまいません。でも、それは私の第一の目的というわけではありません﹂
﹁わかりましたよ﹂と、おかみはいい、自分が何か恥知らずなことをいっているかのように、顔を枕に埋めた。﹁もしわたしがこちらの関係によって、お話がしたいのだというあなたの願いをクラムに伝えたときには、返事がくるまではあなたが何も独断ではやらない、ということを約束してくださいね﹂
﹁それはお約束できません﹂と、Kはいった。﹁あなたの頼みというか、あなたの気まぐれというか、それをかなえてあげたいのですけれどね。つまり、事は火急なんです。ことに、村長との話合いの結果が思わしくはないもんですからね﹂
﹁そんな異議はだめですわ﹂と、おかみはいった。﹁村長はまったく取るにたらぬ人物なんです。それにお気づきにはなりませんでしたか。なんでもやっているあの人の奥さんがいなければ、ただの一日だって村長の地位にとどまってはいられないのよ﹂
﹁ミッツィですか﹂と、Kはきいた。おかみはうなずく。﹁あの人は居合わせましたよ﹂と、Kはいった。
﹁あの人、何かいいましたか﹂と、おかみがきく。
﹁いや﹂と、Kはいった。﹁あの人がそんなことができるっていうような印象は、全然受けませんでしたよ﹂
﹁まあ、まあ﹂と、おかみはいった。﹁あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ。ともかく、村長があなたについてやったことなんて、なんの意味もありませんわ。機会を見て、奥さんと話してあげましょう。そして、あなたにさらに、クラムの返事は遅くとも一週間以内にくるだろう、とお約束するのですから、わたしのいうことに従わないという理由はないはずですよ﹂
﹁そんなことでは、まだ決定的というわけではありません。私の決心は固くきまっていて、ことわりの返事がきたって、私は自分の決心をやりとげようと試みるでしょうよ。はじめからこんなつもりでいるとすれば、人を通じてあらかじめ話合いのことを頼んでもらうわけにはいきません。頼まないでやったのなら、大胆ではあっても悪気はないやりかたですむものが、ことわりの返事を受け取ってからやるならば、公然たる反抗になってしまうことでしょう。そのほうが、むろん、ずっと悪いでしょう﹂
﹁もっと悪いですって?﹂と、おかみはいった。﹁どっちにしたって、反抗ですよ。まあ、好きなようになさいな。スカートを取ってちょうだい﹂
Kがいることなどおかまいなしに、おかみはスカートをはき、台所へ急いでいった。かなり前から、食堂からはさわがしい音が聞こえていた。のぞき窓をたたく音もした。助手たちがその窓を突き開けて、腹がすいた、となかへどなった。次に、ほかの者たちの顔もそこから現われた。小さい声でだが、高低いろいろまじった合唱の歌さえ、聞こえてきた。
もちろん、Kがおかみと話していたため、昼食の料理がひどく遅くなっていた。まだ支度ができ上がらないのに、お客たちが集っていた。ところが、だれ一人としておかみの禁止に逆らって台所へ足を踏み入れようとする者はいなかった。ところが、のぞき窓の連中が、おかみさんがきたぞ、といったので、女中たちはすぐ台所へかけこんでしまった。Kが台所へ足を入れてみると、驚くほどたくさんの人たちが、男と女とで二十人以上もいるのだろうか、田舎風ではあるが農夫ではないようなみなりをして、今まで集っていたのぞき窓から、食卓へとなだれこみ、自分の席を確保しようとするのだった。それより前に坐っていたのは、片隅のテーブルにいる、二、三人の子供づれの一組の夫婦だった。夫は、親切そうな青い眼をした男で、灰色のもじゃもじゃな髪と髯とをしていて、子供たちのほうに身体をかがめて立ち、ナイフで子供たちの歌の拍子をとっていたが、たえずその歌声を抑えようと努めていた。おそらく歌で子供たちの空腹を忘れさせようとしているのだった。おかみはみんなの前で、二こと三こと、投げやりな言葉で詑(わ)びをいったが、だれもおかみに文句はいわなかった。おかみは亭主がいないかとあたりを見廻したが、亭主は事態がむずかしいのを見て、とっくの昔に逃げ出していた。それから、おかみはゆっくりと台所へいった。Kは自分の部屋にいるフリーダのところへと急いでいったが、おかみは彼に対してもはや目もくれなかった。
階上でKは教師に出会った。部屋はありがたいことに、見ちがえるほどになっていた。フリーダがそんなにも精出して働いたのだ。十分に空気を通し、ストーブにはたっぷり火が入っており、床はぞうきんがけがしてあって、ベッドは整えられ、女中たちの品物というあのいとわしい汚れものは、彼女らの写真を含めて、みんな消えていた。テーブルはさっきは、どちらを向いても汚らしいパン屑のちらばっているその上の光景がまるで人の眼から去らないような有様だったが、今は白い編んだテーブル・クロスで被われていた。もうお客を迎えることもできる。フリーダが朝のうちに洗っておいたらしいKのこまごました洗濯物が、乾かすためにストーブのそばにかけられていたが、それもたいして目ざわりではなかった。教師とフリーダとはテーブルのところに坐っていたが、Kが入っていくと、二人は立ち上がった。フリーダはKに挨拶の接吻をし、教師は少し身体をかがめて挨拶した。Kはおかみとの対談でぼんやりし、まだ気持が乱れていたが、これまでまだ教師を訪ねることができなかったことを詑び始めた。まるで、Kが訪ねていかないために教師のほうが待ちきれなくなって、自分のほうから訪問してきたのだ、とみとめているような詑びかただった。ところが、教師のほうは、落ちついたやりかたで、今やっと、いつだったか自分とKとのあいだには一種の訪問の約束がされていたのだ、ということをおもむろに思い出している様子だった。
﹁あなたは、そう、測量技師さんでしたね﹂と、彼はゆっくりといった。﹁二、三日前に教会前の広場でお話ししたあのよそのかたでしたね﹂
﹁そうです﹂と、Kは手短かにいった。あのときは一人ぽっちであったために我慢していたのだが、こんな言葉をこの自分の部屋で黙って聞いている必要はないのだ。彼はフリーダのほうを向き、これからすぐしなければならない大切な訪問があるのだが、それにはできるだけよい身なりをしていかなければならない、と、彼女に相談をもちかけた。フリーダはKにそれ以上たずねもしないで、ちょうど新しいテーブル・クロスを夢中になって調べている二人の助手たちにすぐ声をかけ、Kがすぐ脱ぎ始めた服と靴とに下の内庭で念入りにブラシをかけるように、と命じた。彼女自身は一枚のシャツをかかっている紐から取って、それにアイロンをかけるために下の台所へ急いで降りていった。
そこでKは、ふたたび無言のままテーブルに腰を下ろしている教師と、二人きりになった。もう少しお待ち下さい、といって、シャツを脱いで、洗面台で顔を洗い始めた。そこでやっと、教師に背を向けたまま、なんのご用でいらっしゃったのですか、ときいてみた。
﹁村長さんに頼まれてきました﹂と、教師はいった。Kはその用件をきくつもりだった。ところが、Kの言葉が水の音で聞き取りにくかったので、教師は近づいてこなければならなかった。そして、Kのそばの壁にもたれた。Kは、こうやって顔を洗ったり、そわそわしているのは、これからいくつもの訪問がさし迫ったためだからだ、と詑びた。教師はそんなことは聞き流しておいて、いった。
﹁あなたは村長さんに対して失礼だったようですね、あんなに年とった、功労のある、経験豊かな、尊敬すべき人なのに﹂
﹁私が失礼だったかどうかは、知りません﹂と、Kは顔をふきながらいった。﹁でも、上品なふるまいなどとは全然ちがったことを私が考えていたということは、ほんとうです。というのは、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったんですからね。私の生存は恥知らずな役所の仕事ぶりであぶなくなっていたのです。そのこまかなことは、ご自身でこの役所で働いておられるあなたには申し上げる必要はありますまい。村長がわたしについて文句でもいったのですか﹂
﹁だれに向ってあの人が文句なんかいえるでしょうか﹂と、教師はいった。﹁だれか文句をいう相手がいるとしても、いったいあの人が文句なんかいってこぼすでしょうか。私は村長さんの口授であなたがたの話合いに関してちょっとした調書をつくっただけですが、それによって、村長さんの親切さとあなたの返事のしかたとについて十分に知ったのです﹂
フリーダがどこかへしまったにちがいないくしを探しながら、Kはいった。
﹁なんですって? 調書ですって? 話合いのときに全然いなかった者が、あとになって私のいないところで調書なんか取ったんですか。それも悪いことではありません。が、いったいなぜそれは調書なんです? では、あれはおおやけの話合いだったのですか﹂
﹁いや﹂と、教師がいう。﹁ただ半分おおやけのものです。調書もただ半分だけおおやけのものにすぎません。それをつくったのは、われわれのところではすべてに厳密な秩序がなければならないからです。ともかく、あなたの調書はあるのだし、あなたにとって名誉となるものではありませんよ﹂
ベッドのなかにすべりこんでいたくしをやっと見つけたKは、前よりは落ちついていった。
﹁そんな調書があるのなら、それでもかまいません。あなたは、そのことをいいに私のところへいらっしゃったのですね﹂
﹁いや﹂と、教師はいった。﹁でも、私だって機械じゃないんだから、自分の意見をいわないではいられなかったのです。ところで、私の依頼されてきた用件は、村長さんが親切であることをもっとよく証明するものです。私は強調しておきますが、こんな親切さというものは私には理解できないものであり、私がこの依頼を果たしているのは、ただ立場の上からどうしてもそうしなければならないからであり、また村長さんを尊敬しているからなのです﹂
顔を洗い、くしを使っていたKは、今度はシャツと服とがくるのを待って、テーブルのところに坐った。教師が伝えてきたことにはほとんど興味がなかった。彼はまた、おかみが村長について抱いている軽蔑的な意見に影響されてもいた。
﹁もうお昼を過ぎたことでしょうね﹂と、彼はこれからいくつもりの道のことを考えながらいったが、次にそれをいいなおした。﹁あなたは村長からいいつかった何かの用事を私におっしゃるんでしたね﹂
﹁そうですとも﹂と、教師はまるで自分のどんな責任をも身体から振い落すかのように、肩をすぼめて、いった。﹁村長さんが恐れていられるのは、あなたの件の決定があまりに長びくときに、あなたが何か軽はずみなことを独断でやるのではないか、ということです。私としては、村長さんがなぜそんなことを心配されるのか、わかりません。私の考えでは、あなたはしたいことをなさればいちばんいい、と思います。われわれは何もあなたの守り神ではないのだし、あなたのいくさきざきまで追いかけていく義務なんかありません。まあ、それはいいとしましょう。ところが村長さんときたら、それとはちがうご意見なのです。伯爵の役所がやるべき決定そのものは、もちろんあの人は早めるわけにはいきません。でも、あの人は自分の力の及ぶ範囲のうちで、ほんとうに寛大な仮の決定をしようというのですよ。それを受け入れるかどうかは、ただあなただけにかかっています。つまり、あの人はあなたにさしあたって学校の小使の地位を提供されているのです﹂
自分に提供されていることなどについては、Kははじめのうちほとんど気にはかけなかったけれども、何かが自分に提供されているのだという事実は、彼には無意味ではないように思われた。それは、彼という人間は、村長の考えによれば、自分の身を守るためにはどんなことでもできるのだ、そんなことを防ぐためには、村自身がある程度の金を使ったってかまわないのだ、ということを暗示するものであった。ああ、こんなことをなんて重大に考えているのだろう。ここですでに長いあいだ待ったし、なおその前に調書を取ったという教師は、まったく村長によって駆り立てられてやってきたものにちがいない。自分のいうことがKを考えこませてしまったのを見て取ると、教師は言葉をつづけた。
﹁私は異論を申し立てました。これまで学校の小使なんかいらなかった、ということを私は指摘しました。教会の小使の細君がときどき掃除をするし、女の先生のギーザ嬢がそれを監督します。私は子供たちの面倒でもううんざりしていますから、この上小使のことなんかで怒ったりしたくはありません。すると、村長は、でも学校のなかはひどく汚いじゃないか、といわれるんです。私は、ほんとうのことなんですが、そんなにひどくはありません、と答えました。それから、私はつけ加えました。われわれがその男を学校の小使に雇ったら、もっとよくなるでしょうか。そんなことは全然あるはずがないですよ。その男がそんな仕事のことを全然知らないことは別としても、学校の建物には控室なしの二つの大きな教室があるだけです。そこで、小使は家族の者とともにその一つの教室に住みこんで、寝たり、煮たきまでもしなければならないでしょう。そんなことではもちろん清潔さを増したりできません。ところが、村長さんは、この地位はあなたにとっては苦しいときの救い主になるだろうし、そのためにあなたもその仕事をよく果たすために全力を振りしぼって努力するだろう、とおっしゃいます。さらに、村長さんがおっしゃるには、あなたを雇えば、あなたといっしょにあなたの奥さんや助手さんたちの力も手に入れるわけで、そのため学校ばかりではなく、校庭も模範的にきちんと片づけておくことができるだろう、というのでした。そうしたことはすべて、私は苦もなく反(はん)駁(ばく)しました。とうとう村長さんはあなたのためにもう全然何も提案することができなくなり、笑って、あなたは測量技師なんだから、校庭の花壇をとくに美しく設計することができるだろう、とだけいいました。で、冗談に対しては異論を述べてもしかたがありません。それで私は村長さんのその頼みをもってあなたのところへきたのです﹂
﹁あなたはむだな心配をしておられますね、先生﹂と、Kはいった。﹁その職を引き受けるなんていうことは、私には思いもよりませんね﹂
﹁りっぱなものです﹂と、教師はいった。﹁りっぱなものですよ、まったくなんの留保もなしにおことわりになるのですからね﹂そして、帽子を取ると、出ていった。
そのすぐあと、フリーダが困った顔をして上がってきた。シャツはアイロンをかけないままでもってきていた。いろいろきいても、返事もしない。気晴ししてやろうとして、Kは教師のことと例の申し出とのことを語って聞かせた。それを聞くやいなや、フリーダはシャツをベッドの上に投げ出し、急いでまた出ていった。まもなくもどってきたが、教師をつれてきていた。教師は不機嫌そうな面持で、全然挨拶もしない。フリーダは彼に、少しばかり我慢してくれるようにと頼むのだった。――どうもここへくるまでのあいだにすでに何度か頼んだものらしい。――それから、Kを引っ張り、これまでKが全然知らなかったわきのドアを通って隣りの屋根裏部屋へとつれていき、そこでとうとう、興奮して息を切らせながら彼女に起ったことを語って聞かせた。おかみは、Kにいろいろと告白させられ、その上もっと悪いことには、クラムがKと話し合うということについても折れてKのいうままに従ったのに、それで手に入れたものといえば、彼女のいうところによるならただ冷たくて、しかも率直でないことわりばかりだったので、それにすっかり腹を立ててしまい、もう自分の家にはKは置いてやらないと決心したということだった。もしKが城と関係があるなら、それを早くぞんぶんに利用したらいいでしょう。そして今日のうちにでも、たった今でも家を出ていってもらいたい。また直接役所の命令を受けてやむをえないのでもなければ、もう自分は二度とKをこの家に泊まらせはしない。といっても、おそらく役所の命令で泊めなければならなくなることもないだろう。というのは、自分だって城とかかわりがあり、それを生かすことだってできる。それに、彼はだいたい亭主のだらしなさのためにこの宿に入るようになったので、家を出たって全然困りはしないのだ。だって、けさも自分のために支度されている寝場所のことを自慢したんだもの。そんなことをいったという。フリーダはここにいてもらいたい。もしフリーダがKといっしょに引っ越しでもするなら、おかみはとても不幸になることだろう。今も下の台所でそのことを考えただけで泣きながらかまどの前にくずおれてしまった。かわいそうな心臓の悪いあの人が! でもおかみとしてはそれ以外にどんなふるまいができるだろう。今では、少なくとも彼女の頭のなかでは、まさしくクラムの思い出の品の名誉に関することなんだから。で、おかみのほうはこんな有様だ。フリーダとしては、Kがどこへいこうと、雪のなかだろうと氷のなかだろうと、もちろん、Kのいくところへついていくだろう。そのことについてはもちろんこれ以上くどくどいう必要はない。でも、自分たち二人の状態はいずれにしてもよくはないのだから、自分は村長の申し出を大悦びで歓迎した。それはKにとってはふさわしくない地位であろうと、それでもそれは、はっきり強調しているようにただ一時的なものではないか。これで当分のあいだ時間がかせげるし、たとい最終的な決定が都合悪いように下ろうとも、ほかの口がたやすく見つかるだろう。こんなことをフリーダはいったが、もうKの首にかじりついて、最後に叫ぶのだった。
﹁どうしてもしかたがない場合には、ここから出ていきましょうよ。なんでこの村にいなければならないの? でも、今のところは、ねえ、あなた、この申し出を聞くことにしようじゃありませんか。わたしは先生をつれもどしてきてあるんだし、︿承知しました﹀といえば、それだけでいいんです。そして、わたしたち、学校へ引っ越していくのよ﹂
﹁それはまずいね﹂と、Kはいったが、まったく本気でいったのではなかった。というのは、住居のことなどは彼の気にはかからなかったし、それに下着だけの彼はこの屋根裏部屋でもひどく寒い思いをしていた。この屋根裏では、二方が壁も窓もなくて、寒い風が身を切らんばかりに吹き抜けていくのだった。﹁君が部屋をこんなにきれいにこしらえてくれたのに、もう出ていかなければならないなんて! どうもそんな地位なんか承知したくないんだ。あんなつまらぬ教師に一瞬間でも頭を下げていることさえ、私にとってはたまらないことだし、それに今度は私の上役にさえなっているんだからね。もう少しのあいだだけここにいられるならば、おそらくきょうの午後にでももう私の状態は変わるだろう。少なくとも君がここにとどまるなら、そうなるのを待っていられるし、教師にははっきりしない返事をしておけるんだ。私のことなら、いつだって寝場所ぐらい見つかるさ。もし探さねばならぬとしたらね。実際、バル――﹂
フリーダは手で彼の口をふさいだ。
﹁それはだめ﹂と、彼女は不安げにいった。﹁どうか、それは二度といわないでちょうだい。ほかのことならなんでもあなたのいうことをきくわ。もしあなたが望むのなら、いくらわたしは悲しくても、ここにひとりで残りますわ。あなたが望むなら、この申し出もことわってしまいましょう。ことわることは、わたしの考えではとてもまちがっていると思われるんですけれど。だって、そうじゃない、あなたがきょうの午後にでも別な口を見つけるなら、わたしたちが学校の職を捨てるのは当然よ。だれだってそのじゃまをする者はいないわ。そして、先生に頭を下げるということについていうなら、わたしにそのことをまかせておいて。そんなことにならないようにするから。わたし、あの人と自分で話すわ。あなたはただ黙ってそばに立ってさえいればいいのよ。そして、あとになったって同じだわ。もしあなたがしたくないなら、一度だってあの人と話す必要なんかないのよ。ほんとうはあたしだけがあの人の部下になるわけでしょうが、けっしてわたしは部下なんかにはならないわ。だって、あたしはあの人の弱味を知っているんですもの。だから、もしあの職を引き受けるなら、何も損はしないんだけれど、もしそれをことわればとても損をするのよ。何よりもまず、もしあなたがきょうのうちにでも城から何かを手に入れないなら、ほんとうにあなた一人のためにだって村ではけっして寝場所なんか見つかりっこないわ。つまり、あなたの将来の妻であるわたしが恥かしい思いをしないでもいいような寝場所のことよ。そして、もしあなたが寝場所を見つけることができなければ、あなたが夜の寒さのなかをさまよっているってわかっているのに、この暖かい部屋で自分だけで寝ていろ、とわたしに求めようとしているようなものよ﹂
少しばかりあたたまろうとして、そのあいだじゅう両腕を胸の上で組み、手で背中をたたいていたKは、いった。
﹁それじゃあ、承知するよりほかに手はないわけだ。おいで﹂
部屋へいくと、彼はすぐストーブのところへ急いだ。教師のことなどはかまってはいなかった。ところで教師のほうは、テーブルのところに坐っていて、時計を取り出すと、いった。
﹁遅くなりましたね﹂
﹁そのかわり、わたしたちは今は完全に意見が一致しましたの、先生﹂と、フリーダがいった。﹁わたしたちはその職をお受けしますわ﹂
﹁わかりました﹂と、教師はいった。﹁でも、この職は測量技師さんに申し出たものです。この人が自分でおっしゃらなければなりません﹂フリーダはKに助け舟を出した。
﹁もちろん﹂と、彼女はいった。﹁この人は職をお引き受けしますわ。ねえ、K?﹂
そこで、Kは自分の確答を簡単に﹁ああ、そうだ﹂というだけに限ることができたが、これはけっして教師に向けた返事ではなく、フリーダに向けたものだった。
﹁それでは﹂と、教師はいった。﹁私にまだ残っていることは、あなたに勤務上の義務について申し上げることだけです。この点でいつでも私たちの意見が一致しているためにです。測量技師さん、あなたは毎日、二つの教室を掃除し、火をもやし、学校内の、さらに学校用具や体操用具の、ちょっとした修理をやり、校庭に通じている道を除雪し、私と女の先生とのために使い走りをし、暖かい季節には庭仕事を全部やらなければなりません。そのかわり、あなたは二つの教室のうち一方を選んで住む権利があります。しかしあなたは、二つの教室で同時に授業が行われているのでなく、授業が行われるほうの部屋にあなたがたが住んでいるのであれば、むろん別な教室へ移らなければなりません。学校では炊事してはいけません。そのかわり、あなたとあなたのご家族は、村の費用によってこの宿でまかないをしてもらえます。学校の品位にふさわしいように行動しなければならないこと、とくに子供たちには、授業中であればなおさらですが、けっしてあなたの家庭生活の好ましくない光景などを見せないようにしなければならないこと、これはほんのついでに申し上げておきます。教養ある人として、こんなことはおわかりのはずですからね。このことと関連してさらに申し上げておきますが、われわれとしてはあなたがフリーダ嬢との関係をできるだけ早く法律上のものとするように主張しなければなりません。こうしたすべてのこと、またさらに若干の小さなことについては、雇傭契約をつくることになりますが、あなたが学校に移られたら、すぐそれに署名しなければなりません﹂
Kにはこんなことはすべて大したことではないように思われた。まるで自分のことではなく、少なくとも自分を縛るものではないように思われるのだった。ただ教師の大げさな態度が彼をいら立たせた。そこで彼はぞんざいにいった。
﹁そうですか、ごく普通の契約事項ですね﹂
このとげのある言葉を少しはやわらげようとして、フリーダが給料のことをたずねた。
﹁給料を払うかどうかは﹂と、教師はいった、﹁一カ月間の見習期間がすんでから考えることになります﹂
﹁でも、それではわたしたちにとってひどいことですわ﹂と、フリーダがいった。﹁わたしたちは無一文で結婚しなければならないし、家計を無からつくり上げなければならないのです。先生、村に願書を出して、すぐに少しばかり給料を下さるようにお願いできないものかしら? どうお考えになります?﹂
﹁いや﹂と、教師はいったが、彼は自分の言葉をいつでもKに向けていうのだった。﹁そうした願書は、私が推(すい)薦(せん)をするなら、なんとか聞き入れられることでしょうが、私はそんなことはしませんよ。職を与えることがそもそもあなたに対する好意なんですが、おおやけの責任をいつでも意識しているためには、好意もあまりいきすぎないようにしなければなりません﹂
ところがここで、Kはほとんど意志に反して口を挾んでしまった。
﹁好意ということについていえば、先生﹂と、彼はいった。﹁あなたはまちがっていらっしゃると思いますよ。その好意というのはおそらくむしろ私のほうにあることですよ﹂
﹁いや﹂と、教師は微笑しながらいった。これでKを話さないではいられないようにしむけたわけだ。
﹁そのことは私もよく知っております。でも、われわれとしては学校の小使も測量技師も必要の程度では同じくらいのものなんです。小使も測量技師も、われわれには重荷なんですよ。これにかかる支出について村に対してどういうふうに理由をつけていってやるかということは、これから私がいろいろ考えなければならないことでしょう。その要求をただ机の上に投げ出して、理由など述べないのが、いちばんいいし、またいちばん正直なことでしょうよ﹂
﹁私もそう思いますね﹂と、Kはいった。﹁あなたの意に反して、あなたは私を採用しなければならないわけです。そのためあなたにむずかしいもの思いのたねが出てくるにしても、あなたは私を採用しなければなりません。ところで、だれかが別な人間を採用する必要に迫られ、その人間が採用されることを承知するのであれば、好意的なのはその人間のほうですよ﹂
﹁奇妙な考えですね﹂と、教師はいった。﹁あなたを採用するようにと、何がわれわれに強制しているのですか。村長さんの善良な、底抜けに善良な心がわれわれに強制しているのですよ。測量技師さん、私にはよくわかっていますが、あなたはものの用に立つ小使になる前に、いろいろな空想を捨ててかからなければなりません。そして、万一給料をみとめることになるとしても、あなたのそんな言葉はそのためにはほとんどいい感じを与えませんね。また残念ながら私はみとめるのですが、あなたの態度は私にとってこれから大いに面倒なことになるでしょう。さっきからずっと――私はそれをずっと見ていながらも、ほとんど信じられないくらいなんですが――あなたはシャツとズボン下という恰好で私と話合いをしている始末ですからねえ﹂
﹁そうでした﹂と、Kは笑いながら叫び、手をたたいた。﹁ひどい助手たちだ! いったいどこにいるのだろう﹂
フリーダは急いでドアのところへいった。もうKは自分と話さないだろうと見て取った教師は、フリーダに向って、いつ学校へ移ってくるか、ときいた。
﹁きょういきます﹂と、フリーダはいった。
﹁それでは、あすの朝、検閲にいきます﹂と、教師はいって、手を振って挨拶して、フリーダが自分で出ていくために開けたドアを通って出ていこうとしたが、女中たちとぶつかってしまった。女中たちは、またこの部屋に住みこむために、彼女たちの品物をもってやってきたのだった。教師は、だれに対してもあとにはひくまいという気(けは)配(い)を見せている女中たちのあいだを、くぐり抜けていかなければならなかった。フリーダがそのあとにつづいていった。
﹁君たちは急ぐんだね﹂と、Kはいった。彼は今度は女中たちにとても愛想がよかった。﹁私たちがまだここにいるというのに、君たちときたら入りこんでくるんだね﹂
彼女たちは返事はしないで、ただあわてて自分たちの包みを廻すのだった。包みから見慣れた汚いぼろ類がぶら下っているのをKは見た。
﹁君たちはまだ一度も君たちの品物を洗濯してないんだね﹂と、Kはいった。悪意ではなく、ある種の愛情をもってそういったのだ。女中たちもそれに気づき、同時に固い口を開き、きれいでじょうぶな動物のような歯を見せて、声にはならぬ笑いをもらした。
﹁さあ、きたまえ﹂と、Kはいった。﹁使いなさい。君たちの部屋なんだからね﹂
二人の女中がまだためらっていると――自分たちの部屋があまりにも変ってしまったように見えるのだろう――Kは一人の腕を取って、もっと引っ張ろうとした。だが、彼はすぐその女中を離した。そんなにも二人のまなざしは驚きの色を浮かべているのだった。二人は、たがいに短くわかり合ったというように視線を交わしたあと、もうその視線をKから放さず、じっと彼を見つめているのだった。
﹁もう十分私の顔は見ただろう﹂と、Kは何か不快な感情を払いのけようとしながらいった。そして、ちょうどフリーダがもってきた服と靴とを受け取り、それを身につけた。フリーダのあとからは、おどおどした様子で二人の助手がついてきていた。フリーダが助手たちのことを我慢していられるのが、前からずっとKには理解できなかったが、今度もまたそうであった。彼女は、内庭で服にブラシをかけているはずの助手たちをかなり長いあいだ探したすえ、下の食堂でのんびり昼食のテーブルについているのを見つけ出したのだった。まだブラシをかけてない服は丸めて膝の上に置いてあった。そこでフリーダは自分で服や靴にブラシをかけなければならなかった。それでも、下層の連中をうまく扱うことを心得ている彼女は、彼らとがみがみいい合いなどはしなかった。そればかりか、彼らのいる前で、このたいしたなまけぶりについてちょっとした冗談でもあるかのように話し、まるで媚(こ)びるように、一人の助手の頬を軽くたたくようなことまでするのだった。Kは近いうちにそのことで彼女をとがめてやろうと思った。だが、今はもう出かけていかねばならぬ時間だった。
﹁助手たちはここに残る。引越しのときに君の手伝いをするためだ﹂と、Kはいった。とはいえ、二人はそんなことを承知はしなかった。腹がいっぱいになり、気分が朗らかだったので、少し運動したいのだ。
﹁そうよ、あなたたちはここに残るのよ﹂と、フリーダがいったとき、やっと二人は承知した。
﹁私がどこへいくのか、君知っているかい?﹂と、Kはきいた。
﹁ええ﹂と、フリーダはいう。
﹁それで、君はもう私のことを引きとめないのかい?﹂と、Kはきいた。
﹁いろいろな面倒におあいになるわ﹂と、彼女はいった。﹁でも、わたしが何をいったって、なんにもならないわ﹂
彼女はKに別れの接吻をし、Kが昼食を食べていなかったので、下から彼のために運んできていたパンとソーセージとの小さな包みを彼に渡した。そして、あとではもうここへではなく、まっすぐ学校へいくように、と彼に念を押し、彼の肩に手を置いて、ドアの前まで彼についてきた。
まずKは、あの暖かい部屋のなかに女中や助手がつめかけていたところを抜け出てきたことで、気分が楽になっていた。それに道はいくらか凍って、雪も前よりは固くなり、歩くのが楽だった。ただ、もちろんすでに暗くなり始めていた。そこで彼は歩みを早めた。
城は、その輪郭がすでにぼんやりとなり始めていたが、いつものように静かに横たわっていた。Kはまだ一度も、城に人が住んでいるほんのわずかな徴候でも見たことはなかった。こんなに遠いところから何かを見わけることは、おそらく全然できないだろう。それでも両眼はそれを求めており、その静けさを黙って受け入れようとはしないのだ。Kは城を見つめていると、落ちついて坐り、ぼんやり前をながめているだれかを見ているような気持が、ときどきするのだった。その人間は、もの思いにふけって、そのためにいっさいのものに対して自分を閉ざしてしまっているのではなくて、自由に、ものにこだわらずに、まるで自分一人だけがいて、だれも自分を見てなんかいないのだというような様子である。ところが、その人間は、自分が見られているということに気づいているにちがいないのだ。だが、それもその人間の落ちつきを少しも妨げはしない。そして、ほんとうに――それが原因なのか結果なのかはわからぬのだが――見ているこちらの視線はそこにじっととまっていることができないで、すべり落ちてしまう。こうした印象は、きょうは早くも暗くなり始めたあたりの気配によっていっそう強められた。長くながめていればいるほど、いよいよ見わけがつかなくなり、いっさいがいよいよ深く黄(たそ)昏(がれ)のうちに沈んでいくのだった。
ちょうどKが、まだ明りのともっていない紳士荘のところまできたとき、二階の窓の一つが開いて、毛皮の上衣を着た一人の若い、ふとった、髭をさっぱりとそった男が、窓から身体を乗り出し、それから窓辺に立ちどまっていた。Kの挨拶に対して、ほんの軽いうなずきで答えることもしない様子だった。玄関口でも酒場でも、Kはだれとも出会わなかった。変質してしまったビールのにおいは、この前よりひどかったが、こんなことはきっと︿橋亭﹀では起こらない。Kはすぐさま、この前のときクラムをのぞき見したドアのところへいき、用心深くハンドルを廻したが、ドアには鍵がかかっていた。それから彼は、のぞき孔(あな)があった場所を手探りしようとしたが、木の栓(せん)がとてもうまくはまっているらしく、その場所をこんなやりかたでは発見できなかった。そこでマッチをつけてみた。すると、叫び声にびっくりさせられた。ドアと配膳台とのあいだの片隅の、ストーブの近くに、一人の娘がうずくまって、マッチの光に照らされ、やっと見開いたねぼけ眼で彼を見つめていた。それはフリーダのあとにきた女の子らしかった。娘はすぐ落ちつきを取りもどし、電燈をつけた。娘の表情は、Kだとわかったときにも、まだ怒ったようだった。
﹁ああ、測量技師さんね﹂と、微笑しながらいって、彼に手をさし出し、自己紹介した。﹁あたし、ペーピーっていうんです﹂
娘は小柄で、赤い顔色をしていて、健康そうで、赤味がかったブロンドの豊かな髪は、きりっとお下げに編んであり、その上、顔のまわりにちぢれていた。ねずみ色のつやのある生地でつくった、ほとんど似合わない、なめらかに垂れ下っている服を着ていたが、下のほうは一つ目で終っている絹リボンによって子供らしく不器用にしめつけているため、きゅうくつそうだった。娘はフリーダのことをたずね、彼女はすぐにもどってこないだろうか、ときいた。これは、ほとんど悪意と境を接しているような質問だった。それから、いった。
﹁あたし、フリーダが出ていくとすぐ、急いでここにくるように呼ばれたのよ。だれでもいいからここで使うというわけにはいかないのですものね。それまでは客室つきの女中だったんですが、ここへきたことはあまり変りばえがしないのよ。ここでは晩から夜へかけての仕事がたくさんあって、とても疲れるわ。ほとんど我慢できないことでしょう。フリーダがここの仕事を捨てたことは、あたしにはちっとも不思議じゃないわ﹂
﹁フリーダはここでとても満足していましたよ﹂と、Kはいった。それはペーピーに、この子とフリーダとのあいだにあるのにこの子がないがしろにしているちがいをようやく気づかせてやろうとしたのだった。
﹁あの人のいうことを信じてはだめよ﹂と、ペーピーはいった。﹁フリーダは、だれだってたやすくはできないほど自分を抑えることができるのよ。打ち明けまいと思うことは、どうしても打ち明けないの。それでいて、あの人に打ち明けることがあるなんて、だれも全然気づかないのよ。あたしはこれでもう二、三年のあいだあの人といっしょにここで働いているんですし、いつでもあたしたちは同じベッドに寝ていたんだけれど、あの人とはうちとけていないのよ。きっとあの人は今ではもうあたしのことなんか思っていないわ。あの人のたった一人の友だちといえば、たぶん、橋亭の年とったおかみさんでしょう。それがまたいかにもあの人らしいわ﹂
﹁フリーダは私の婚約者ですよ﹂と、Kはいって、ついでにドアののぞき孔を探ってみた。
﹁知っていますわ﹂と、ペーピーはいった。﹁だからこんなことをお話しするんです。そうでなければ、あなたにとってはなんの意味もないでしょう﹂
﹁わかりましたよ﹂と、Kはいった。﹁あんな心を他人に打ち明けることのない女の子を私が手に入れたことは、私の自慢にしていい、というんですね﹂
﹁そうよ﹂と、娘はいって、フリーダのことについて自分とKとのあいだに秘密の同意を得たかのように、満足げに笑うのだった。
だが、Kの心をとらえ、少しばかりのぞき孔を探すことから彼の気をそらしたものは、ほんとうは彼女の言葉ではなく、彼女の姿恰好であり、この場所に彼女がいるということだった。もちろん、この娘はフリーダよりもずっと若くて、まだほとんど子供らしかった。彼女の服は滑稽だった。彼女が酒場の女給仕ということの意味について抱いている誇張された観念に合わせて、そんな身なりをしているのだ。そして、この観念は、彼女なりにもっともなのだ。というのは、彼女にまだ全然ぴったりしないこの地位は、きっと思いがけず、また不当にも、そしてほんの一時的に彼女に与えられたものにちがいなかった。フリーダがいつも帯に下げていた革の財布も、彼女にはまかされてはいないのだった。そして、彼女がこの地位に満足していないと称しているのは、思い上りにほかならなかった。けれども、子供っぽく分別を欠いてはいるが、彼女もおそらく城と関係をもっているのだろう。もし彼女のいうことが嘘でないなら、客室つきの女中だったというが、自分のもっているこの特権に気づかないで、ここで昼間を眠って過ごしているのだ。だが、この小柄でふとった、少しばかり丸い背中をした身体を抱くなら、彼女がもつ特権を奪うことはできないにしても、彼の心をゆすり、これからの困難な道を歩む元気をつけてくれるにちがいない。それなら、おそらくフリーダの場合とちがわないのではないか。いや、ちがうのだ。そのことを理解するためには、ただフリーダのまなざしのことを考えればいいのだ。Kはけっしてペーピーの身体にふれることはなかったろう。それでも彼は今やしばらく眼をおおわないではいられなかった。そんなに欲情をこめて彼女を見つめていたのだった。
﹁明りなんかつけておくことはないわ﹂と、ペーピーはいって、光をふたたび消した。﹁ただあなたがあんまり驚いたので、電燈をつけただけなのよ。ところでここにどんな用があるの? フリーダが何か忘れたの?﹂
﹁ええ﹂と、Kはいって、ドアを指さした。﹁この隣りの部屋に白い編んだテーブル・クロスを忘れたんです﹂
﹁ああ、あの人のテーブル・クロスね﹂と、ペーピーはいった。﹁思い出したわ。りっぱな細工ものね。それをつくるときあたしも手伝ったわ。でもこの部屋にはきっとないわよ﹂
﹁フリーダがあるはずだと思っているんですよ。いったいここにはだれがいるんです?﹂
﹁だれもいないわ﹂と、ペーピーがいう。﹁ここは城の人たちの部屋で、ここで城の人たちが飲み食いするのよ。つまり、そういうことのためにきめられているんです。でも、たいていの人たちは上の部屋にこもりきりでいるんです﹂
﹁もし﹂と、Kはいった。﹁今、隣りにだれもいないとわかっているなら、入っていって、テーブル・クロスを探したいんですがね。でも、それはたしかじゃない。たとえばクラムはしょっちゅうそこに坐っているね﹂
﹁クラムは今はそこにはいないはずよ﹂と、ペーピーはいった。﹁あの人はすぐに出かけていくんです。そりがもう内庭で待っていたわ﹂
すぐさま、一こともことわりをいわないで、Kは酒場を出て、玄関で出口のほうへはいかずに、建物の内部へ向って入っていき、何歩と歩かないうちに内庭に達した。ここはなんと静かで、きれいだろう! 四角の内庭で、三方は建物に接し、通りに面しては――Kの知らない通りであった――大きな重そうな、今開いている門のついた高い白塀に接していた。内庭の側のここでは、建物は前面より高いように見えた。少なくとも二階は総二階につくられていて、前面よりもりっぱな外観をもっている。というのは、二階は目の高さの小さなすきまを除いては、木製の回廊がぐるりと取り巻いているのだった。Kの斜め前には、まだ中央の棟(むね)にはあるのだが、向う側にある翼の棟がつながる角になっているところに、建物の入口があって、ドアもなく、開いたままになっていた。その前には黒い、ドアを閉めた二頭立てのそりがあった。今この黄(たそ)昏(がれ)のなかでKが離れた場所から見て馭(ぎょ)者(しゃ)だろうと想像したのだが、その馭者を除いて、だれ一人見うけられる人影はなかった。
両手をポケットに突っこみ、注意深くあたりを見廻しながら、塀に沿って内庭の二つの側を通り、最後にそりのところへいった。馭者はこの前酒場にいたあの農夫たちの一人で、毛皮のなかに埋まって、無関心げに彼が近よっていくのをながめていた。ちょうど猫の歩いている跡を追うようであった。Kが自分のすぐそばに立って挨拶し、二頭の馬が暗がりから浮かび上がってきた人間に驚いて少しさわぎ始めたときにも、馭者はまったく素知らぬ顔をしつづけていた。Kにとってはむしろありがたいことだった。塀によりかかって弁当の包みを開き、自分のためにこんなに心配してくれたフリーダのことを感謝をこめて思うのだったが、そうしながら建物の内部をうかがった。直角に曲がっている階段が下へ通じ、天井は低いが奥行のありそうな廊下と下で交叉している。いっさいが清潔で、白く塗られ、輪郭が鋭くまっすぐである。
そこで待つことは、Kが思っていたよりも長くつづいた。もうずっと前に弁当を食べ終っていた。寒さがこたえた。今までの黄昏がすでに完全な暗(くら)闇(やみ)と変っていたが、クラムはまだやってこなかった。
﹁まだだいぶ長くかかるかもしれない﹂と、突然、Kのすぐそばでしわがれた声がしたので、Kはぎくりとした。声の主は馭者で、ちょうど眼がさめたばかりのようにのびをし、大きなあくびをした。
﹁何が長くかかるのかね﹂と、Kはきいた。じゃまされたので迷惑しているのではなかった。というのは、長くつづいた静けさと緊張とがもういやでたまらなくなっていたのだ。
﹁あんたが立ち去るまでにだよ﹂と、馭者がいう。Kには相手の言葉の意味がわからなかったが、それ以上はきかなかった。そうしていることがこの高慢な男にものをいわせるのにいちばんいい方法だと思ったのだった。ここの暗闇のなかで返事をしないということは、ほとんど相手をけしかけるようなものだ。そして実際、馭者はちょっとたってから思わくどおりきいてきた。
﹁コニャックを飲みませんかね﹂
﹁うん﹂と、Kはこの申し出にひどく心を誘われて、考えもせずにいった。というのは、寒さにふるえていたところだった。
﹁それじゃあ、そりのドアを開けなさるがいい﹂と、馭者がいう。﹁ドアのポケットに二、三壜(びん)入っているからね。一壜取って、飲んだらあっしに渡してくんなさい。毛皮を着てるんで、下りていくのが難儀なんでさあ﹂
こんなふうに手を貸してやるのはいまいましかったが、もうこの馭者とかかわりをもってしまったので、Kはそりのそばでクラムに不意打ちされる危険まで冒(おか)して、馭者のいうことをきいた。幅の広いドアを開け、ドアの内側につけられているポケットから壜を取り出すことができるはずであったが、そりのなかへ入りたいという気持に駆られ、その気持に逆らうことができない。ちょっとのあいだ、そのなかに坐ってみようと思った。さっとなかへ飛びこんだ。そりのなかの暖かさは非常なもので、Kが閉めようとしなかったのでドアが開けっ放しになっているにもかかわらず、暖かさは変わらなかった。長い腰かけに坐っているのかどうか、全然わからなかった。それほどすっかり膝かけやクッションや毛皮に埋もれていた。どの方向にも身体を廻したり、のびをしたりでき、柔かく暖かく、いよいよそのなかへ身体が沈んでいく。両腕を拡げ、頭はいつでも待ちかまえているようなクッションにもたれかけ、Kはそりのなかから暗い建物のなかをながめた。クラムが降りてくるまでに、なぜこんなに時間がかかるんだろう? 雪のなかに長くたたずんでいたあとなので暖かさで身体が麻痺したようになりながら、Kはクラムがついにやってくることを願った。今のままの状態でクラムに見られないほうがいいという考えは、微かな障害のようにぼんやりと意識に上ってくるだけだった。こんな放心状態のなかにいるのは、馭者の態度に助けられているためであった。馭者は、Kがそりのなかに入っているのを知っているはずなのだが、彼をそこにほっておき、コニャックをくれといいさえしなかった。これは思いやりある態度だったが、Kは馭者にサービスしてやろうと思った。けだるげに、姿勢を変えないで、ドアのポケットのほうへ手をのばしたが、離れすぎている開いたほうのドアへでなく、自分のうしろの閉まっているドアのほうへであった。ところで、それはどちらでもよかった。そちらにも壜がいくつかあったのだ。一壜取り出して、栓を廻して開け、匂いをかいでみた。思わず微笑しないではいられなかった。匂いは甘美で、媚(こ)びるようであった。まるで、大好きな人から賞め言葉や親切な言葉を聞かされて、なんのことなのかよくはわからず、またわかろうともせず、そういう言葉を語ってくれるのが自分の大好きな人なのだということを意識しているだけで幸福感を味わうようなものであった。
﹁これはコニャックかな?﹂と、Kは疑いながら自問して、好奇心からためしてみた。ところが、驚いたことにやっぱりコニャックであり、身体が燃え、暖まった。これがどうして、ほとんどただ甘美な香りをもつだけのものから、飲んだ場合には馭者にうってつけの飲み物に変わるのだろう!﹁こんなことがありうるのだろうか?﹂と、Kはまるで自分自身を非難するように自問し、もう一度飲んだ。
そのとき――Kはちょうどぐうっとあおっているところだった――あたりが明るくなった。建物のなかの階段や廊下や玄関にも、屋外の入口の上にも、電燈があかあかとついたのだ。階段を降りてくる足音が聞こえた。壜がKの手からすべり落ち、コニャックが一枚の毛皮の上に流れた。Kはそりから跳び出した。ドアを閉めると、大きな音がしたが、やっと閉めたとたんに、建物から一人の紳士がゆっくりと出てきた。それがクラムではなかったことがせめてもの慰めであるように思われた。それとも、それは残念に思うべきことだったのだろうか。その紳士は、Kがさっき二階の窓辺に見た人物だった。若い紳士で、色白で顔が赤く、見たところ健康そうであったが、ひどくまじめくさっていた。Kもその男を陰気そうに見つめたが、この眼つきで自分自身を見ているのだった。むしろ助手たちをここへよこしたほうがよかった、と思った。こんなふうに自分がやったようにふるまうことは、あの二人も心得ていたろう。彼と向かい合っても、その男はまだ黙っていた。このひどく胸幅の広い胸のなかにも、いうべきことをいうのに十分な息はないかのようであった。
﹁これはまったく驚いた﹂と、男はやがていって、帽子を少しばかり額からずらした。
え? この人はおそらく自分がそりのなかにいたことを全然知らないのに、何か驚くようなことを見出したのだろうか。自分が内庭のなかへ入りこんだことでもいっているんだろうか。
﹁いったい、どうしてここへこられたのです﹂と、早くも紳士は声を低めてたずねたが、もう息を吐いていて、動かしがたいことをじっとこらえているようだった。
なんという問いだろう! なんと返事したらいいのだろう! あんなに期待をこめて踏み出した道がだめだったのだ、ということをこの人にもはっきりと裏書きしてみせるべきだろうか。Kは答えるかわりに、そりのほうへ向きなおり、ドアを開いて、そのなかに置き忘れていた帽子を取り出した。コニャックが踏段の上にこぼれているのを不快な気持でながめた。
それからまた紳士のほうを向いた。自分がそりのなかへ入ったのをこの男に知らせることに、もうためらう気持はなかった。それもたいしてまずいことではないのだ。もしきかれたら、といってきかれたときにだけだが、馭者自身が少なくともそりのドアを開けるきっかけをつくったのだ、ということを隠してはおくまい、と思った。だが、ほんとうにまずかったのは、この人に不意を突かれ、身を隠すだけの余裕がもうなく、そこでじゃまされずにクラムを待つことができない点、あるいはそりのなかにとどまり、ドアを閉め、なかで毛皮の上に坐ったままクラムを待つだけの、あるいは少なくともこの人が近くにいるあいだはそりのなかへとどまっているだけの心の落ちつきがなかった点である。もちろん、たぶんクラム自身が今にもやってこないものかどうかは、彼にはわからなかったのだ。その場合にはむろん、そりの外でクラムを迎えたほうがずっとよかったろう。まったく、今の場合にはいろいろ考えるべきことがあったのだ。しかし、今となってはもう考えることなんか全然ない。もういっさいが終ったのだ。
﹁私といっしょにいらっしゃい﹂と、紳士はいった。ほんとうは命令の調子ではなかったのだが、命令は言葉のなかに含まれているのでなく、そういいながら示した、わざと冷淡そうに短く手を振ったそのそぶりに含まれていた。
﹁ここで人を待っているんです﹂と、Kはいったが、もう何らかの結果を期待しているのではなく、ただ原則的なことをいったまでだった。
﹁いらっしゃい﹂と、その男は少しもためらわずにまたいった。Kが人を待っているということはけっして疑ってはいなかったのだ、と示そうとするような調子だった。
﹁でも、いってしまったら、待っている人と会えないことになります﹂と、Kはいって、身体をぴくっと動かした。起ったいっさいのことにもかかわらず、自分がこれまでに手に入れたものは一種の所有物のようなものであり、なるほどまた見かけだけ確保しているにすぎないけれども、それでもいいかげんな命令なんかで手放すことはないのだ、という感情をKはもった。
﹁ここでお待ちになろうと、いかれようと、どっちみちその人には会えませんよ﹂と、その人がいう。なるほど自分の意見はきびしく守っているが、Kの考えかたには明らかに譲歩しているのだった。
﹁それなら、むしろここで待っていて会えないほうがいいです﹂と、Kは反抗的にいった。この若い紳士の言葉だけではきっとここから黙って追い立てられはしないぞといわんばかりの様子だ。
それを聞いて紳士のほうは、のけぞらせた顔にふんというような表情を浮かべ、ちょっとのあいだ眼を閉じた。まるで、Kのものわかりの悪さから自分の理性へもどろうとするかのような調子だ。そして、人差指で少し開けた口の唇のまわりをなでていたが、次に馭者に向っていった。
﹁馬をはずしてくれ﹂
馭者は、紳士のいうことは従順に聞くのだが、Kには意地の悪い横眼づかいをしながら、今度は毛皮にくるまったまま馭者台を降りなければならなかった。そして、まるで紳士からは命令の変更は期待しないが、Kが考えを変えることを期待しているかのように、ひどくためらいながら、そりのついている馬をうしろの翼になっている棟(むね)の近くまでつれていき始めた。その棟の大きな門のうしろに、馬小屋と車置場とがあるらしかった。Kは自分だけが取り残されていることに気づいた。一方の側ではそりが遠ざかっていった。もう一方の側の、Kがやってきた道では、若い紳士のほうが遠ざかっていった。といっても両方ともひどくゆっくりと去っていくので、まるでKに対して、まだ自分たちを引きもどす力がお前にはあるのだ、ということを見せつけようとしているようであった。
おそらくKは相手を引きもどす力をもってはいた。だが、その力もなんの役にも立ちはしなかったろう。そりを引きもどすことは、自分をこの場から追い払うことを意味していた。そこで彼は、この場所の権利を主張するただ一人の人間として、静かにそこにとどまっていた。しかし、それはちっとも悦びの気持を起こさせない勝利だった。彼は紳士と馭者との後姿をかわるがわる見送っていた。紳士のほうは、Kがまず内庭に入ってくるときに通ったドアのところまでいったが、もう一度振り返った。Kには、自分がこんなに強情なのでその男が頭を振っているように思えた。それから男は、きっぱりした、すばやい、これでもうおしまいだというような動作で向きなおり、玄関に足を踏み入れ、すぐそのなかへ消えていった。馭者のほうはもっと長く内庭にとどまっていた。そりを片づけるのに手間がかかるのだった。重い馬小屋の門を開け、そりをバックさせて置場へ運び、二頭の馬をはずし、まぐさ槽(おけ)までつれていかなければならなかった。そうしたいっさいを馭者はまじめに、一心不乱にやっており、またすぐそりを出すことはまったく期待していないようだ。Kのほうへわき眼を投げることもなしに黙ったままやっているこの仕事ぶりは、紳士の態度よりもずっときびしい非難のようにKには思われた。そして、馬小屋での仕事を終えると、馭者はゆっくりした、身体をゆするような歩きかたで内庭を横切っていき、大きな門を閉め、それからもどってきた。すべて、ゆっくりした動作で、明らかにただ雪のなかの自分自身の足跡をながめているようだった。それから馬小屋のなかへ入った。すると、電燈がみな消えた。――だれのためにつけておかねばならぬというのだ?――上の木造回廊のすきまだけはまだ明るいままで、さまようまなざしをいくらか引きとめるのだった。そのとき、Kには自分とのいっさいのつながりがこれで絶ち切られ、今は自分がむろんかつてなかったほど自由であり、普通なら自分に禁止されているこの場所で、待ちたいだけ待っていいような気がするのだった。自分はこの自由を闘い取ったのであり、ほかの人間なんかにはそんなことはほとんどできないはずだ。だれも自分に手を触れたり、自分を追い払ったりしてはいけないのだ。そればかりか、話しかけてもいけないのだ。そんな気がした。だが――この確信は少なくともそれと同じくらい強いものだったが――それと同時に、この自由、こうやって待っていること、こういうふうに他人から傷つけられないでいること、それくらい無意味で絶望的なことはないようにも思われるのだった。
そこで彼は思いきってその場を去り、建物のなかへもどった。今度は塀沿いにではなく、内庭のまんなかの雪のなかをいった。玄関で亭主に出会った。亭主は無言のまま会(えし)釈(ゃく)し、酒場のドアを指さした。その合図に従った。寒さに凍(こご)えていたし、人間に会いたかったからだ。ところが、ひどく落胆した。というのは、酒場では特別に置かれた小さなテーブル︵ふだんはそこでは樽(たる)で間に合わせているのだ︶のところに、さっきの若い紳士が坐り、彼の前には――Kにとっては気のめいる光景だった――橋亭のおかみが立っているのを見たからだった。ペーピーが、誇らしげに、頭をのけぞらせ、いつでも変わらない微笑を浮かべ、自分の品位を抗(あら)がいがたく意識し、身体の向きを変えるたびにお下げを振りながら、あちこちと早足で歩き廻り、ビールをもってきて、つぎにインクとペンとをもってきた。というのは、例の紳士が書類を前に拡げ、その書類の日付を見、次にまたテーブルのもう一方のはしにある書類の日付を見て、両者を比べ合わせ、それから何か書こうとしたのだった。おかみは高いところから、少し唇をそっくり返し、身体を休めているような態度で、静かに紳士と書類とを見下ろしていたが、もう必要なことは全部いってしまい、それがうまく受け入れられたとでもいうような様子だった。
﹁測量技師さんだ、とうとう﹂と、紳士はKが入ってきたとき、ちょっと眼を上げていったが、すぐまた書類に没頭してしまった。おかみもまた、全然驚いた様子もない冷淡な視線でKをちらりと見ただけだった。ところでペーピーは、Kがスタンドに歩みより、コニャックを一杯注文したときになって、はじめてKに気づいたようだった。
Kはスタンドにもたれ、両眼を手で抑え、何事にもかまわなかった。それから、コニャックをちびりと飲み、まずくて飲めないというふうにそれを押しもどした。
﹁みなさんがそれを飲むのよ﹂と、ペーピーは手短かにいって、その残りをあけ、グラスを洗って棚のなかに置いた。
﹁みなさんはもっといいのももっているよ﹂と、Kはいった。
﹁そうかもしれないわね﹂と、ペーピーはいった。﹁でも、わたしにはそんないいのはありません﹂
これでKのことは片づけ、また紳士の用をたしにいった。ところが、紳士のほうは何も用はないので、ただそのうしろを弧(こ)を描きながらたえずいったりきたりして、彼の肩越しに書類をちらりとのぞこうとしておそるおそるのぞき見するのだった。しかし、それはつまらぬ好奇心と大げさな身振りとだけだったが、おかみも眉をひそめてそれをとがめていた。
ところが、突然、おかみは聞き耳を立て、耳を傾けることにすっかり没頭したまま、空(くう)をじっと見つめた。Kは振り返ったが、何も特別な物音は聞こえず、ほかの連中にも何一つ聞こえないようだった。ところが、おかみは爪立ちの大股で内庭に通じているうしろ側のドアへいき、鍵(かぎ)穴(あな)からのぞき、次に眼を見開き、顔をほてらせながらみんなのほうへ振り向いて、自分のところへくるように指で合図するので、みんなはそこへいってかわるがわるのぞくのだった。おかみがやはりいちばん多くのぞいていたが、ペーピーもなかなか念入りにのぞき、紳士はなかでいちばん気乗りしないようだった。ペーピーと紳士とはすぐもどったが、おかみだけはなお緊張した様子で、身体をかがめ、ほとんどひざまずくようになって、のぞいていた。まるで自分を通してくれと鍵穴に願ってでもいるかのような印象を与えるのだった。というのは、もうずっと前から見るものなんかなくなっていたはずだ。次にようやく身を起こし、両手で顔をなで、髪の毛を整え、深く息をつき、これでまた両眼を部屋とここにいる人たちとに慣らせなければならなくなり、いやいやそうしたとき、Kは自分の知っていることをたしかめるためではなく、彼がほとんど恐れているおかみの攻撃に先廻りするために、つぎのようにいった。彼は今ではそれほど傷つきやすくなっていた。
﹁では、クラムはもういってしまったのですか﹂
おかみは無言のまま彼のそばを通り過ぎていったが、紳士が小さなテーブルのところからこちらへ向っていった。
﹁そうですとも。あなたが見張り番をやめたので、クラムは出ていくことができました。でも、あの人の神経質なことは驚くべきものです。おかみさん、クラムがどんなに不安そうにあたりを見廻していたか、気がつきましたか﹂
おかみはそれに気づかなかったようだが、紳士は言葉をつづけた。
﹁それでは、ありがたいことにもう何も見られなかったのだな。馭者も雪のなかの足跡を掃(は)きならしてしまっていたし﹂
﹁おかみは何も気づかなかったんです﹂とKはいったが、それをいったのは何か思わくがあったわけではなく、ひどく断定的で異論を許さないような調子のその紳士の主張に刺戟されただけのことだった。
﹁おそらくちょうど鍵穴のところにいたときなんでしょう﹂と、おかみはまず紳士を弁護するためにいった。次に、クラムがやったことももっともだといおうとして、言葉をつけたした。﹁といっても、わたしはクラムがそんなに神経質だとは思いませんわ。わたしたちはたしかにあの人のことを心配し、あの人を守ろうとはしています。そこで、クラムが極端に神経質だということにして、その前提から出発するのです。それはいいことですし、クラムもそれをきっと望んでいます。でも、ほんとうはどうなのか、わたしたちにはわかりません。たしかに、クラムは自分が話したくない人間とは、けっして話さないでしょう。そんな人間がいくら骨を折って、我慢できないほど出しゃばったところで、そうよ。でも、クラムはそんな人とけっして話さないし、けっしてそんな人を自分の面前にこさせないというこの事実だけで十分だわ。でも、なぜあの人はほんとうにだれかを見るのもいやというのでしょうねえ。少なくともそのことは証明できないわ。だって、これはけっしてためしてみるわけにいかないんですもの﹂
紳士は本気でうなずいた。
﹁それはもちろん、根本において私の意見でもあります﹂と、彼はいった。﹁ちょっとばかり別なふうにいったのですが、それは測量技師さんにわかってもらうためにいったことです。でも、クラムが外へ出たとき、何度かあたりを見廻したということは、ほんとうなんですよ﹂
﹁きっと私のことを探していたんでしょう﹂と、Kはいった。
﹁そうかもしれません﹂と、紳士がいった。﹁そこまでは気がつきませんでしたが﹂
みんなが笑った。話の前後がほとんどわかっていないペーピーが、いちばん大きな声で笑った。
﹁今はわれわれはこんなに朗らかな気分で集っているんだから﹂と、次に紳士がいった。﹁測量技師さん、どうかいくらか陳述していただいて、私の書類を補って下さるようにお願いしたいんですが﹂
﹁それにはずいぶん書いてありますね﹂と、Kはいって、遠くから書類のほうを見た。
﹁ええ、悪い習慣です﹂と、紳士はいって笑った。﹁でも、あなたは私が何者か、まだご存じないでしょう。私はクラムの駐在秘書モームスです﹂
この言葉のあとでは、部屋じゅうがまじめになった。おかみとペーピーとはもちろんこの人を知ってはいたのだが、こうして名前といかめしい肩書が口にされると、すっかり驚いてしまったようだった。そして、紳士自身、自分の資格以上のことをいいすぎてしまったかのように、また少なくとも自分の言葉に含まれている、あとあとまで残るようなものものしさから逃がれたいというかのように、書類に没頭し、書きものをし始めたので、部屋のなかではペンの音以外には何も聞こえなかった。
﹁いったいなんなんです、村の駐在秘書っていうのは?﹂と、Kはちょっとたってからいった。今は、自己紹介をすませてしまったのだから、そんな説明を自分でやるのはもうふさわしくない、と考えているモームスにかわって、おかみがいった。
﹁モームスさんは、クラムのほかの秘書たちと同じように、クラムの秘書なんです。けれどもこの人の勤務の場所と、またもしわたしの思いちがいでなければ、勤務の性質とは――﹂そのとき、書きものをしていたモームスが勢いよく頭を上げた。で、おかみはいいなおした。﹁では、村に限られているのは、勤務の場所だけのことで、勤務の性質のことではないんです。モームスさんは、この村で必要になるクラムの書類上の仕事をいろいろやっているのでして、村から起こるクラム宛の請願はみんなこの人がまっさきに受け取るんです﹂Kがまだほとんどこうしたことに心を動かされずに、うつろな眼をしておかみをじっと見つめているので、彼女は半ば当惑してしまって、つけ加えた。﹁こういうふうになっているんですの。城のかたたちにはみんな、村に置いている駐在秘書っていうものがあるんです﹂
Kよりもずっと注意ぶかく耳を傾けていたモームスが、今の言葉を補うようにおかみにいった。
﹁たいていの駐在秘書っていうのは、ただ一人の城のかたのために仕事をするんだが、私はクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんだよ﹂
﹁そうでしたね﹂と、おかみはそういわれて自分でも思い出しながら、いった。そして、Kのほうを向いた。
﹁モームスさんはクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんですのよ。だから兼任の駐在秘書っていうわけです﹂
﹁兼任のねえ﹂と、Kがいうと、モームスに向ってうなずいてみせた。モームスは今ではほとんど身体を前に乗り出して、Kのほうをまともに見上げていたが、Kのそのうなずきかたは、眼の前でほめられている子供に向ってうなずいて﹇#﹁うなずいて﹂は底本では﹁うなずい﹂﹈みせるようなやりかたであった。そのなかにはある種の軽蔑がこもっていたが、二人は気がつかなかったか、それともまたむしろ軽蔑を望んでいるかであった。ほんの偶然にであってもクラムに会ってもらえるだけの値打をもってはいないKの面前で、クラムのすぐ側近にいる一人の男のいろいろな功績がことこまかに述べられるのだが、それはKに一目置かせ、賞めさせようという、見えすいた意図をもってやられるのだった。けれどもKにはそんなものがよく通じない。全力をあげてクラムを見ようと努めていたKではあるが、たとえばクラムの眼の前で暮らすことが許されているモームスのような男の地位でも、そう高くは評価していないし、いわんや感嘆や嫉妬といった気持からは遠かった。というのは、クラムの身近かにいるということが彼にとって骨折りがいのあることなのではなくて、ほかならぬKという自分だけがほかならぬこの自分の願望をもってクラムに近づくということこそ、骨折りがいのあることなのだ。しかもそれは、クラムのところに落ちつくためではなく、彼のところを通りすぎてさらに城へいくためなのだ。
で、彼は時計を見て、いった。
﹁ところで、もう家へ帰らなければならない﹂
たちまち事情が転じてモームスのほうが有利になった。
﹁むろん、そうですとも﹂と、この男はいう。﹁小使の仕事があなたを待っていますからね。でも、ほんのしばらく、私のために時間をさいていただきたい。ほんの二つ三つだけ質問があるので﹂
﹁そんなことはしてもらいたくありませんね﹂と、Kはいって、ドアのほうへいこうとした。モームスは書類の一つを机にたたきつけて、立ち上がった。
﹁クラムの名において、私の質問に答えるよう要求します﹂
﹁クラムの名において、ですって!﹂と、Kは相手の言葉をくり返していった。﹁いったいあの人は私のことなんかに気を使っているんですか?﹂
﹁そんなことは﹂と、モームスはいう。﹁私には判断できません。だが、あなたは私よりももっとずっと判断できないんですよ。判断を下すことは、私たち二人は安心してクラムにまかせておきましょう。だが、クラムからあずかっている私の地位において、私はあなたがここにとどまり、答えることを要求します﹂
﹁測量技師さん﹂と、おかみが口をはさんだ。﹁わたしはこれ以上あなたに忠告はしないようにします。これまでいろいろな忠告をし、しかもおよそありうる好意的な忠告をいろいろとしてあげたのに、それは法外なやりかたであなたに拒絶されてしまいました。そして、この秘書のかたのところへわたしがやってきたというのも――わたしは隠さなければならないことなんかちっともありませんけれど――ただ役所にあなたの振舞いともくろみとを相応にお知らせし、あなたが改めてわたしのところへ泊まるように命じられるなんてことがけっしてないようにするためだったのです。わたしたちのあいだはこんなふうになりましたし、この関係はもう全然変わらないでしょう。で、わたしが今、意見を申し上げるのは、なにもあなたをお助けするためではなくて、秘書のかたのむずかしい任務、つまりあなたのような人と交渉するという仕事を、少しばかりやさしくしてさしあげるためなんです。でも、わたしという人間は完全に公明正大なんですから、――わたしはあなたとは公明正大にしかおつき合いできないのです。わたしの意志に反してもそういうふうになるんです――もしあなたがやろうとお思いになりさえすれば、わたしのいうことをご自分のために利用できるはずです。そこで、今の場合、あなたにとってクラムへ通じているただ一本の道はこの秘書のかたの調書を通っていっているのだ、ということをご注意申し上げておきましょう。でもわたしは誇張したくないので申し上げますが、おそらくその道はクラムのところまで通じているのではなく、おそらくクラムのところへ達するずっと手前で終っているのですよ。そのことについて決定するのは、この秘書のかたのお考えによるものなのですよ。でも、いずれにせよ、これがクラムの方向へ通じているたった一つの道なんです。それなのに、あなたはこのただ一つの道を諦めようと思うんですか。それもただ反抗したいという以外にはなんの理由もないのに﹂
﹁ああ、おかみさん﹂と、Kはいった。﹁それはただ一つの道でもなければ、ほかの道よりも価値がある道でもないんです。ところで、秘書のかた、私がここでいうことをクラムまで伝えたほうがいいかどうかを、あなたが決定するんですか﹂
﹁そりゃあそうですよ﹂と、モームスはいって、誇らしげに眼を伏せて左右を見たが、見るものなんかは全然なかった。﹁そうじゃなかったら、私はいったい何のため秘書になっているのでしょう﹂
﹁それ、ごらんなさい、おかみさん﹂と、Kはいった。﹁クラムのところへいく道が必要なのではなく、まずこの秘書のかたのところへいく道が必要なわけです﹂
﹁その秘書のかたのところへいく道というのを、わたしはあなたに開いてさしあげようと思ったんですよ﹂と、おかみはいった。﹁あなたの頼みをクラムに通じてあげましょうか、とわたしは午前にあなたに申し出てあげませんでしたか。これはこの秘書のかたを通じてやられるはずだったんですよ。ところが、あなたはそれをおことわりになりましたが、あなたには今ではこの道だけしか残されてはいないんですよ。むろん、あなたのきょうのようなふるまいのあと、つまり、クラムを不意に襲おうなんていう試みのあとでは、成功する見込みはいよいよ減ってしまったのです。でも、この最後のちっぽけな消えかかっている期待、ほんとうは全然存在してなんかいない期待というものが、あなたのもちうるただ一つの期待なんですわ﹂
﹁おかみさん、どうしてなんです﹂と、Kはいった、﹁あなたは最初、私がクラムの前に出ようとするのをあんなにもとめようとしたくせに、今では私の願いをそんなにまじめに取って、私の計画が失敗する場合、私のことをいわばもうだめなんだと考えていらっしゃるらしいのは? およそクラムに会おうなどと努めることを本心からとめることができたのなら、今同じ人が同じように本心から、クラムへ通じている道を、たといそれが全然クラムまでは通じてはいないにしても、まるで前へ前へとけしかけるようなことが、いったいどうしてありうるのですか﹂
﹁わたしがあなたを前へ前へなんてけしかけているとおっしゃるんですか?﹂と、おかみはいった。﹁あなたのやることには望みがない、とわたしがいえば、それは前へ前へとけしかけるということになるんですか。そんなことは――もしあなたがそんなふうにご自分の責任をわたしに転嫁しようとされるのならば、ほんとうに極端な厚かましさというものでしょうよ。あなたがそんなことをする気になるのは、おそらくこの秘書のかたがいらっしゃるからでしょうね? いいえ、測量技師さん、わたしはあなたをどんなことにもそそのかしたりしてはいません。ただ一つだけ打ち明けていえることは、わたしがあなたに最初に会ったとき、あなたをおそらく少しばかし買いかぶりすぎたということですわ。あなたがすばやくフリーダを征服したことは、わたしを驚かせましたし、あなたがこの上さらに何をやるものか、わたしにはわかりませんでした。そこで、それ以上の禍いを未然に防ごうと思い、それには頼んだりおどしたりしてあなたの心を動かすこと以外には手がないのだ、と思ったのです。そのうち、わたしは全体をもっと落ちついて考えられるようになりました。お好きなようにすればいいわ。あなたのやることって、おそらく外の雪のなかに深い足跡を残すぐらいのもので、それ以上ではないんですわ﹂
﹁どうも矛(むじ)盾(ゅん)がすっかり説明しつくされたようには思えませんね﹂と、Kはいった。﹁でも、その矛盾にご注意してあげたことで満足することにしましょう。ところで秘書のかた、おかみさんのいわれることが正しいのかどうか、つまり、あなたが私について取ろうと思っておられる調書ができれば、私はクラムのところへ出ることが許されるのだ、というおかみの意見が正しいのかどうか、どうぞ私におっしゃって下さいませんか。もしそうなら、私はすぐどんなご質問にでもお答えするつもりですよ﹂
﹁いや﹂と、モームスはいう。﹁そんなつながりはありませんね。ただ問題は、クラムの村務記録のためにきょうの午後の記録をくわしく取っておくということなんです。記載はもうすみましたので、ただ二つ三つの穴を整理のために埋めておくだけなんです。ほかの目的なんかありませんし、またあったとしても、そんな目的なんていうものは達しられませんよ﹂
Kは黙ったまま、おかみを見つめた。
﹁なぜわたしを見つめるんです?﹂と、おかみがきく。﹁何かそれとちがったことをわたしがいいましたか。この人ったらいつでもこうなんです、秘書のかた、この人ったらいつでもこうなんですよ。人が伝えたいろいろな情報をみんなつくり変え、そうしておいて、まちがった情報を聞かされた、なんていい張るんですからね。クラムに迎えられる見込みなんか、ちょっとでもないのだ、ということは前からいっておきましたし、今でもいつだってそういっているんですよ。ところで、そうした見込みが全然ないとするなら、その調書によったって見込みなんか手に入るわけはありません。これよりはっきりしていることがあるでしょうか。さらにいえば、その調書だけが、この人のクラムとのあいだにもちうるただ一つのほんとうの公務上のつながりなんです。これも十分にはっきりしたことで、疑いの余地なんかありません。ところが、この人はわたしのいうことを信じないで、いつでも――なぜなのか、またなんのためなのか、わたしにはわかりませんが――クラムのところへ出ていくことができるかもしれないと期待しているとすれば、この人の考えかたのとおり考えてあげるとしてのことですが、この人がクラムとのあいだにもっているただ一つの公務上のつながり、つまりその調書というものが、あるだけなんです。このことだけをわたしはこの人に申しました。何か別なことをいい張る人は悪意でわたしの言葉をねじ曲げているんですわ﹂
﹁おかみさん、そういう事情でしたら﹂と、Kはいった、﹁あなたにお許しをお願いします。それなら、私があなたのおっしゃることを誤解していたんです。つまり、今はっきりしたことですが、私はまちがって、あなたがさっきおっしゃった言葉から、何かほんのわずかばかりの希望が私にはあるのだ、とお聞きできたと思ったんです﹂
﹁そうですよ﹂と、おかみはいった。﹁それはなるほどわたしの考えなんですが、あなたはまたわたしの言葉をねじ曲げていらっしゃるのよ。ただ、今度は反対の方向にですけれど。あなたにとってのそういう希望は、わたしの考えによれば、あるんです。とはいっても、その希望はただその調書に根拠を置いているだけなんですわ。けれども、あなたは﹃もし私がそういう質問に答えたら、クラムのところへいけるのですか﹄なんていう質問で、簡単にこの秘書のかたを襲うことができる、というような事情ではないんですよ。子供がそんなことをきくのなら、人は笑うだけですが、大人がそんなことをやれば、それは役所を侮辱するものです。この秘書のかたはただうまくお答えになってお情けでその役所に対する侮辱を隠して下すっているんですよ。ところで、わたしがここでいう希望っていうのは、あなたが調書を通じてクラムと一種のつながり、おそらく一種のつながりをもつということのうちにあります。これはりっぱな希望というものじゃありませんか。こんな希望を与えられるに価するだけの功績があなたにあるかってきかれたなら、あなたはほんのちょっとだって示すことができますか。もちろん、この希望についてくわしいことは申せませんし、ことに秘書のかたは職務の性質上、それについてほんのわずかでもほのめかすことはできないでしょう。このかたがおっしゃったように、このかたにとって問題なのは、きょうの午後のことを整理のために記録することだけなんです。たといあなたがわたしの言葉と関係づけて、今そのことをきいてみたところで、このかたはそれ以上のことをおっしゃらないでしょう﹂
﹁秘書のかた、いったいクラムはこの調書を読むんですか﹂と、Kはたずねた。
﹁いや﹂と、モームスはいった。﹁なぜかっていわれるんですか。クラムはとても全部の調書を読むことなんかできません。それに、あの人はおよそものを読まないんです。﹃君たちの調書はよこさないでくれ﹄と、あの人はいつでもいっていますよ﹂
﹁測量技師さん﹂と、おかみはこぼした。﹁あなたはそんな質問でわたしをうんざりさせます。クラムがこの調書を読んで、あなたの生活のこまごましたことを一つ一つ知るなんていうことが、必要なんですか。あるいは、必要とまでいかなくとも、望ましいことなんですか。それよりもむしろつつましやかに、その調書をクラムに対して隠してくれるようにとお願いしようとしないんですか。ところで、その願いも、前のと同じようにばかげた願いですけれどね。――というのは、だれだってクラムに対して何かを隠すというようなことができるものですか。――でも、その願いは前のよりも同情できるたちのものではありますけれどもね。ところでそれは、あなたがご自分の希望と呼ばれているものにとって、必要なんですか。あなたご自身、クラムがあなたに会い、あなたのいうことを聞いてくれなくたって、あの人の前で話す機会さえ得られるならば満足だって、おっしゃったじゃありませんか。ところがあなたは、その調書によって少なくともそのことは、いや、おそらくはもっとずっと多くのことができるじゃありませんか﹂
﹁もっとずっと多くのことですって?﹂と、Kはたずねた。﹁どうやってです?﹂
﹁あなたはいつでも﹂と、おかみが叫んだ。﹁子供のように、なんでもみんなすぐ食べられるようにしてさし出してもらいたがらないではいられないんですか! だれがそんな質問に答えられますか? 調書はクラムの村務記録に入れられるのです。そのことはお聞きになりましたね。そのことについてこれ以上のことははっきりとはいえません。でも、あなたは調書やこの秘書のかたや村務記録の意味をみんな知っているのですか? この秘書のかたがあなたから聴取するということは、どういうことなのか、あなたはご存じですか? おそらくこのかた自身知らないんですよ。あるいは、知らないように思っていらっしゃるんですよ。このかたは、ここに坐っておっしゃったように、整理のためにご自身の義務を果たしていらっしゃるんです。でも、考えてもごらんなさいな、クラムがこのかたを任命したんですし、このかたはクラムの名の下に仕事をしていらっしゃるんです。また、このかたのなさることは、たといけっしてクラムのところまではとどかないにしても、あらかじめクラムの同意を得ているんです。そして、クラムの精神にあふれていないようなことが、どうしてクラムの同意なんか得られるでしょう。こんなことをいって、へたなやりかたでこの秘書のかたにおもねろうなどと思っているんでは全然ありませんよ。そんなことは、このかたご自身、全然してもらいたくないとおっしゃることでしょう。でもわたしはこのかたの独立した人格のお話をしているんじゃなくて、今の場合のようにクラムの同意を得ているときのこの人のありのままの姿のことを申しているんですわ。こういう場合には、このかたは、クラムの手がのっている道具なんです。そして、このかたに従わない人は、だれでもひどい目にあいますよ﹂
Kはおかみのおどかしを恐れはしなかったし、彼を捉えようとしておかみが口にする希望というものにもうんざりしていた。クラムは遠くにいるのだった。さっきはおかみはクラムを鷲(わし)と比較したが、それはKには滑稽に思われた。ところが、今はもうそうではなかった。彼はクラムの遠さ、攻め取ることのできないこの男の住居、まだKが一度も聞いたことのないような叫び声によってだけおそらく中断される彼の沈黙、見下すような彼の視線のことを思ってみた。その見下すような視線は、けっして確認もされないし、そうかといってまたけっして否定もできないものだ。そしてまた、クラムが理解できがたい法則に従って、空に輪を描いて飛ぶ鷲のように上のほうで引いている、そしてKのいる低いところからとうてい打ち破ることのできない輪形のことを思ってみた。こうしたすべてがクラムと鷲との共通点だった。だが、きっとこの調書はそんなこととは全然関係がないのだ。その調書の上では、モームスはちょうど今、塩ビスケットを割っていた。それはビールのさかなにしているもので、彼はすべての書類の上にそのビスケットにかかっている塩とういきょうとをこぼしていた。
﹁おやすみなさい﹂と、Kはいった。﹁事情聴取なんていうのはどうもにがてでね﹂そして、今度はほんとうにドアのほうへいった。
﹁ではあの人はいくんだよ﹂と、モームスはほとんど不安げにおかみにいった。
﹁ほんとうに帰ったりなんかしないでしょうよ﹂と、おかみはいった。それ以上のことはKは聞かなかった。彼はすでに玄関に出ていた。外は寒く、強い風が吹いていた。向う側のドアから亭主がやってきた。そのドアののぞき孔のうしろで、玄関を見張っていたものらしい。上衣のすそを身体へ抑えつけなければならなかった。この玄関のなかでさえ、風が上衣のすそをそんなにもまくり上げるのだった。
﹁測量技師さん、もうお帰りですか﹂と、彼はいった。
﹁それを変だと思うんですか﹂と、Kはたずねた。
﹁ええ﹂と、亭主はいった。﹁いったい、あなたは事情聴取を受けないんですか﹂
﹁そうだよ﹂と、Kはいった。﹁聴取なんか黙って受けていなかったよ﹂
﹁なぜ受けないんですか﹂と、亭主がたずねた。
﹁私にはわからないんだ﹂と、Kはいった。﹁なぜ私が黙って事情聴取なんか受けなければならないのか、またなぜ冗談とか、あるいは役所の気まぐれなんかに従わなければならないのかがね。おそらく別なときになら、冗談か気まぐれかに事情聴取をしてもらうかもしれないけれど、きょうはだめだよ﹂
﹁そりゃあ、そうですとも﹂と、亭主はいったが、それはただ儀礼の上の同意で、けっして確信のある同意ではなかった。﹁もう、あの人に使われている連中を酒場に入れてやらなければなりません﹂と、つぎに彼はいった。﹁もうとっくにその時間です。ただ事情聴取のじゃまをすまいと思っただけなんです﹂
﹁そんなに重要なことと思っているのかい?﹂と、Kはたずねた。
﹁ええ、そうですとも﹂と、亭主はいった。﹁それじゃあ、ことわってはいけなかったんだね﹂と、Kはいった。
﹁いけなかったんですよ﹂と、亭主がいう。﹁そんなことはしてはいけなかったんですよ﹂
Kが黙っているんで、Kを慰めようとしてか、それとも早くこの場を去らせようとしてか、ともかく亭主はつけ加えていった。
﹁でもまあ、そのためにすぐ天から硫(いお)黄(う)が降ってくるわけでもありませんやね﹂
﹁そんなことはないさ﹂と、Kはいった。﹁そんな天気にも見えないからね﹂
そして、二人は笑いながら別れた。
はげしく風が吹きつけるおもての階段に出て、Kは暗闇のなかを見た。ひどく悪い天気だった。何かそれと関連して、おかみが彼におとなしく調書を取らせようと骨折ったこと、だが自分がそれをはねつけたことが、ふと彼の頭に浮かんだ。あれはもちろんわだかまりのない骨折りなんかではなくて、おかみはひそかに彼を同時に調書から引き離そうとしたのだった。結局、自分がはねつけたのか、それとも服従したのか、わからなかった。なかなかしたたかなやつで、けっして正体がつかめない遠くの見知らぬ者たちに命じられていながら、見かけはまるで風のように無心そうに働いているのだ。
国道を二、三歩いくやいなや、彼は遠くのほうに二つのゆらめく燈火を見た。この生命のしるしは彼をよろこばせた。彼はそのほうへ急いだが、その燈火のほうも彼のほうへ向って漂うように近づいてきた。それが二人の助手だと見わけがついたとき、なぜそんなに落胆したのか、彼にはわからなかった。だが、二人はおそらくフリーダに送り出されて、彼を迎えにやってきたのだ。まわりから彼に向ってさわがしく迫ってくるものがある暗闇から彼を解放してくれるこの二つの火は、たしかに彼の所有物にはちがいなかった。それにもかかわらず、彼は落胆した。彼は見知らぬ人間たちを期待したのであり、彼にとって重荷であるこんな古い顔なじみなんかを期待したのではなかった。だが、それは助手たちばかりではなくて、この二人のあいだの暗闇からバルナバスが現われた。
﹁バルナバス!﹂と、Kは叫んで、彼のほうに手をさしのべた。﹁君は私のところへきたのか?﹂再会の驚きは、バルナバスがかつてひき起こしたいっさいの怒りをまず忘れさせたのだった。
﹁あなたのところへです﹂と、バルナバスは前と変わらず親しげにいった。﹁クラムからの手紙をもってきました﹂
﹁クラムからの手紙だって!﹂と、Kは頭をのけぞらせながらいって、急いでバルナバスの手からその手紙を取った。
﹁照らしてくれたまえ﹂と、彼は助手たちにいった。彼らは左右からぴったり彼に身体をくっつけてきて、ランタンを高く上げた。手紙を風から守るために、Kは大きな便箋を読むためにごく小さく折りたたまなければならなかった。それから、彼は読んだ。
﹁橋亭宿泊中の測量技師殿。あなたがこれまでに実施された測量の仕事は、小生の多とするところであります。助手たちの仕事も賞讃すべきものであり、あなたは彼らをよく仕事にとどめておくことを心得ておられる。あなたの熱意のさめないことを! 仕事をよき成果に導くように! 中断するようなことがあれば、小生は怒るでしょう。ところで安心していただきたいが、解雇の際の報酬という問題は、近く決定されるでしょう。小生はつねにあなたに注目しているものです﹂
Kよりもずっとゆっくり読んでいた助手がよい知らせを祝って﹁万歳!﹂を三度高らかに叫び、ランタンを振ったときになって、Kはやっと手紙から眼を上げた。
﹁静かにしたまえ﹂と、彼はいって、バルナバスに向っては﹁これは誤解だ﹂と、いった。バルナバスは彼のいうことを理解しなかった。
﹁これは誤解だ﹂と、Kはくり返した。午後の疲れがまたもどってきた。学校へいく道はまだ遠いように思われた。バルナバスのうしろに彼の家族全体が浮かび出た。助手たちがまだ身体を押しつけてくるので、Kは二人を肘で追い払った。この二人はフリーダのところにとどまるように、とKが命令したのに、どうしてフリーダは彼らをKのところへよこしたのだろうか。帰り道はひとりでもわかっただろう。そして、ひとりのほうがこの一行といっしょよりも楽だったろう。ところで、その上、一人はマフラーを首に巻きつけていて、そのはじが風ではためき、二、三度Kの頬を打った。もう一方の助手はいつもすぐそのマフラーを、たえず動いている長い尖(とが)った指でKの顔から払いのけはしたのだが、事はよくはならなかった。二人はこうやっていききすることが気に入ったらしく、また風と夜の不安とが彼を興奮させているのだった。
﹁消えろ!﹂と、Kは叫んだ。﹁せっかくやってきたのに、なぜステッキをもってこなかったんだ? いったい何を振って君たちを家へ追いもどしたらいいのだ?﹂
二人はバルナバスのうしろに隠れたが、それほど心配そうでもなく、自分たちを守ってくれるバルナバスの左右の肩の上にランタンを置いた。むろんバルナバスはそれをすぐ振り落した。
﹁バルナバス﹂と、Kはいった。バルナバスが明らかに自分を理解していないことが、彼の心を重くした。また、無事なときには彼の上衣はあんなにきれいに輝いているのに、事態が深刻になると、なんの助けにもならず、ただ黙って反抗しているように見えることも、そうだった。そんな反抗にはくってかかるわけにもいかないのだ。というのは、彼自身は無抵抗なのだが、ただ彼の微笑だけが輝いているのだ。ところがそれも、天上の星がこの地上の嵐をどうにもできないように、なんの役にも立たないのだ。
﹁見たまえ。クラムが私に書いてよこしたのだ﹂と、Kはいって、手紙を彼の顔の前にもっていった。﹁あの人はまちがった知らせを受けているんだよ。私はまだ土地の測量の仕事なんかやっていなかったし、二人の助手がどのくらいの値打があるものかは、君自身が見るとおりだ。そして、やっていない仕事は、私もむろん中断なんかできるはずがないし、けっしてあの人の怒りなんかひき起こすこともできない。どうしてこの人に多としてもらうことなんかあるだろう。そして、安心してなんかいられるはずがないよ﹂
﹁私がそのことを伝えてさしあげましょう﹂と、バルナバスがいった。彼はKのしゃべっているあいだじゅう、手紙に眼を走らせていたが、そうかといって彼はその手紙を全然読めるはずがなかった。というのは、手紙を顔のすぐ前にもってきているのだった。
﹁ああ﹂と、Kはいった。﹁君は、それを伝えると私に約束するけれど、ほんとうに君のいうことを信じられるのかね? 私は信用できる使いの者をとてもほしいんだ。今はこれまで以上にそうなんだ﹂Kはいらいらして唇をかんだ。
﹁旦那﹂と、バルナバスは首を柔かに曲げていった。――Kはほとんどまたそのしぐさに誘われて、バルナバスのいうことを信じるところだった。――﹁私はたしかにそのことを伝えてさしあげますよ。あなたがこの前私にいいつけられたことも、きっと伝えますよ﹂
﹁なんだって!﹂と、Kは叫んだ。﹁いったい君はそのことをまだ伝えなかったのか。あの次の日、城へいかなかったのか﹂
﹁いきませんでした﹂と、バルナバスがいった。﹁私のおやじは、ごらんになったように年よりでしてね。また、ちょうどたくさん仕事があったものですから、おやじの手伝いをしなければならなかったのです。でも、近いうちにまた一度城へいくでしょう﹂
﹁君は何をやっているんだい、おかしな人だ﹂と、Kは叫んで、自分の額をたたいた。﹁クラムの用件はほかのどんなことよりも大切じゃないか。君は使いという高い職務をもちながら、その仕事をそんなに恥かしいやりかたでやるのか。君のお父さんの仕事なんてだれがかまうものか。クラムは報告を待っているのだ。君は、走りながらとんぼ返りをやるかわりに、馬小屋から馬糞を取り出すことを先にやるんだ﹂
﹁おやじは靴屋です﹂と、バルナバスはためらわずにいった。﹁おやじはブルンスウィックの注文を受けていました。で、私はおやじの職人でしてね﹂
﹁靴屋――注文――ブルンスウィック﹂と、Kは一つ一つの言葉を永久に使えなくしてしまうように、不機嫌そうに叫んだ。﹁そして、いつも人が全然通らないこの道で、だれが靴なんかいるのかね? そして、この靴商売なんか私となんのかかわりがあろう。使いの仕事を君にまかせたのは、君がその仕事を靴台の上に置き忘れ、めちゃめちゃにしてしまうためではなく、すぐそれをクラムのところへとどけるためなんだ﹂
ここでKは、クラムがおそらくずっと城にではなく紳士荘にいたのだ、と思いつき、少しばかり気持を休めた。だが、バルナバスが最初のKの報告をよくおぼえていることを示すため、それを暗(あん)誦(しょう)し始めたので、またKを怒らせてしまった。
﹁たくさんだ、私はなんにも知りたくはないよ﹂と、Kはいった。
﹁私に対してお気を悪くしないで下さい、旦那﹂と、バルナバスはいって、無意識にKを罰しようとするかのように彼から視線をそらせ、両眼を伏せてしまった。しかし、それはKが叫んだことに驚いたためにちがいなかった。
﹁私は気を悪くなんかしていないよ﹂と、Kはいったが、彼の心の乱れが今は自分自身に向ってくるのだった。﹁君にじゃないんだ。でも、大切な用件にこんな使いしかもたないことは、私にとって大変まずいことなんだ﹂
﹁いいですか﹂と、バルナバスはいって、使いとしての自分の名誉を守るために、許されている以上のことをいおうとしているように見えた。﹁クラムは報告なんか待ってはいません。あの人は、私がいくと、腹を立てさえするんです。﹃また新しい報告か﹄と、あるときはいいましたし、私がくるのを遠くから見ると、たいていは立ち上がり、隣室へいってしまい、私に会いません。また、私が知らせをもっていつでもすぐいくというふうにはきめられていないのです。もしそうきめられているなら、私はもちろんすぐいきます。でもそんなことは全然きめられてはいないんです。で、私が一度もいかなくたって、そのことをとがめられることはないんです。私が使いの用件をもっていくのは、自由意志でやることなんです﹂
﹁そうか﹂と、Kはバルナバスを見、助手たちから故意に眼をそらしながら、いった。二人の助手はバルナバスのうしろでかわるがわる、まるで沈んでいた底のほうから浮かび上がるようにそろそろと首を出すが、Kを見てびっくりしたように、風の音を真似たような軽いぴゅうという口笛の音を鳴らし、またたちまち姿を消してしまう。そんなふうにして二人は長いあいだ楽しんでいた。
﹁クラムのところでどうなっているのか、私は知らない。君がそこで万事をくわしく知ることができるということは、私は疑わしく思うよ。そして、たとい君がそんなことをできるとしても、私たちはこうした事柄を好転させることはできないだろう。でも、使いの用件をもっていくということは、君にもできるんだから、それを君に頼むよ。ほんの短い使いだ。あしたすぐその伝言をもっていき、その日のうちに私に返事ももってこられるかね? いや、少なくとも、君がどんなふうにクラムに迎えられたか、伝えてくれることができるかね? それができるかい? で、それをやる気があるかい? そうしてもらえれば、私にはとてもありがたいんだよ。それにおそらく、君にそれ相応のお礼をする機会があるだろう。それとも今もう、私が君のためにやってあげられる希望をもっているかね﹂
﹁きっとご用件を実行します﹂と、バルナバスはいった。
﹁それじゃあ、それをできるだけよく実行するようにやってみようというんだね。クラム自身にそのことを伝え、クラム自身から返事をもらってこようっていうんだね。すぐ、万事すぐ、あしたのうちに、いや午前中にやるっていうんだね﹂
﹁最善をつくします﹂と、バルナバスはいった。﹁でも、いつでもそうしているんです﹂
﹁もうそんなことをいい争うのはやめよう﹂と、Kはいった。﹁用件はこうだ。土地測量技師Kは官房長殿に対して、直接お話しすることを許されたいと願っている。このような許可と結びついているようなどんな条件でも、あらかじめ承知するつもりだ。こうしたお願いをしないでいられなくなったのは、これまですべての仲介者が完全に役に立たなかったからだ。その証拠としてあげることは、自分はこれまでほんの少しでも測量の仕事をやっていないのであり、村長のいうところによると今後もけっして実行されないだろう、ということだ。そこで官房長殿の最近の手紙を絶望的な恥らいの気持で読んだ。官房長のところへ直接出頭することだけが今の場合に役立つだろう。測量技師は、このお願いがどんなに度を超(こ)えたものかをよく知ってはいるが、官房長殿におじゃまはできるだけしないように極力努めるつもりでいる。どんな時間の制限にも従うし、会話のときに使われる言葉の数をきめることを必要とみとめられるならば、それにも従う。わずか十語でもすますことができると信じている。深い尊敬をもって、また極度に落ちつかぬ気持をもって、ご決定をお待ちする﹂
まるでクラムのドアの前に立ち、守衛と話しているかのように、Kはわれを忘れてしゃべった。
﹁思ったよりも長くなってしまったな﹂と、やがて彼はいった。﹁でも、君はこれをどうか口頭で伝えてもらいたい。手紙は書きたくないんだ。手紙はまた限りない書類の道をたどることになるだろうからね﹂
そこでKは、ただバルナバスの心おぼえのために、一枚の紙を一人の助手の背中に当てて走り書きしていた。そのあいだ、もう一人のほうはランタンで照らしていた。ところがKはもうバルナバスの口授によってその文句を書きつけることができるほどだった。バルナバスはみんなおぼえてしまって、まるで学校の生徒のように正確に暗誦し、助手たちのまちがった口出しなんかは気にもかけなかった。
﹁君の記憶力はなみなみでないね﹂と、Kはいって、バルナバスに紙を渡した。﹁だが、どうかほかのことでもなみなみでないことを見せてくれたまえ。で、君の望みは? 何もないのかい? はっきりいうが、君が何か望みをいってくれるならば、私の伝言の運命について少しばかり安心できるのだが﹂
はじめバルナバスは黙っていたが、やがていった。
﹁わたしの姉(きょ)妹(うだい)たちがよろしくといっていました﹂
﹁君の姉妹たちだって?﹂と、Kはいった。﹁ああ、大柄でじょうぶな娘さんたちだね﹂
﹁二人ともよろしくといっていました。でもとくにアマーリアがそうです﹂と、バルナバスがいった。﹁アマーリアがきょうもこの手紙をあなたのために城からもってきたんです﹂
何よりもまずこの知らせにしっかりしがみついて、Kはたずねた。﹁アマーリアは私の伝言も城までもっていけないのかね? あるいは君たち二人がいって、めいめいうまくいくようにやってみてくれることができないかね?﹂
﹁アマーリアは事務局へ入ることができないんです﹂と、バルナバスがいった。﹁そうでなければ、あれはよろこんでやるでしょうが﹂
﹁私はおそらくあした君たちの家へいくよ﹂と、Kはいった。﹁君がまず返事をもってきてくれたまえ。学校で君のことを待っているよ。また、君の姉妹がたによろしくいってくれたまえ﹂
Kの約束はバルナバスをひどくよろこばせたようだった。別れの握手のあとで、彼はちょっとKの肩にさわりまでした。バルナバスが最初に輝くばかりの姿で食堂の農夫たちのところへ現われたときと、そっくりそのままの様子だった。Kは彼がそうやって肩にさわったことを、微笑をもってではあったが、何か特別のしるしと受け取った。気分がなごやかになったので、彼は帰り道には助手たちにしたいままにさせておいた。
彼はすっかり凍(こご)えて家へ帰った。どこもまっ暗で、ランタンのなかの蝋燭は燃えつきていた。勝手を知っている助手たちに導かれて、彼は手探りで教室へ入っていった。
﹁君たちのはじめてのほめるのに価する仕事だね﹂と、彼はクラムの手紙のことを思い出しながら、いった。まだ半分眠ったままで、フリーダが片隅から叫んだ。
﹁Kを眠らせておいてちょうだい! この人のじゃまをしないで!﹂
彼女は眠気に負けて、Kの帰りを待てなかったにしても、Kのことが彼女の頭を占めていたのだ。明りがつけられた。といっても、ランプのしんはあまり大きく出せなかった。というのは、石油がほんのわずかしかなかったのだ。この新世帯には、まださまざまな欠点があった。火が燃やされてはいたが、体操にも使われていたこの大きな部屋は――体操用具がまわりに置かれてあり、天井からも下がっていた――貯えられている薪(まき)はすでに全部使い果たしてしまった。みながKにいうところによると、さっきはとても気持よく暖かだったが、残念なことにまたすっかり冷えてしまったということだった。薪の貯えが小屋にたくさんあるのだが、この小屋は閉じられていて、鍵は教師がもっており、授業時間に火を焚(た)く以外には薪を取り出すことを許さないのだ。それでもベッドがあって、そのなかに逃げこむことができるなら、まだしも我慢できただろう。ところが、寝るという点からいうと、ただ一つの藁(わら)ぶとんしかなかった。それにはフリーダの毛のショールでみごとなくらい清潔に被いがかけられていた。だが、羽根ぶとんはなく、粗末なごわごわした二枚の毛布だけで、それはほとんど身体を暖めてくれない。ところが、このみすぼらしい藁ぶとんさえ、助手たちはうらやましそうにじっと見ている。だが、その上にいつか寝ることができるという希望は、彼らはもちろんもてないのだ。フリーダは不安げにKをじっと見た。彼女はどんなにみじめな部屋であっても住めるように整えることを心得ているということは、橋亭で証明したのだったが、ここではもう何もやることができなかった。彼女はまったく金をもたなかったからだ。
﹁わたしたちのただ一つの部屋飾りは、体操用具なのよ﹂と、彼女は涙ぐみながらも無理に笑顔をつくって、いった。しかし、いちばん欠けているもの、つまり不十分な寝場所と暖房とについては、彼女はきっぱりと、あしたにもなんとか策を講じることを約束して、それまではどうか我慢してくれとKに頼んだ。どんな言葉も、どんなほのめかしも、またどんな顔の表情も、彼女がKに対して少しでもにがい気持を抱いているということを推察などさせなかった。じつをいえば、彼は自分にいい聞かせないでいられなかったが、彼女を紳士荘から、また今度は橋亭から無理にここへつれてきたのは、彼にほかならないのだ。そのため、Kは万事を我慢できるものと見ようと努力したが、それは彼にとっては全然むずかしいことではなかった。なぜかというと、頭のなかでバルナバスとつれ立って歩きながら、自分の伝言を一語一語くり返しているさまを思い描いたからだった。だが、その伝言はバルナバスに授けてやったようにではなく、その伝言がバルナバスの口からクラムの前で述べられるときにこんなふうだろうと思われるように思い描いていた。それとともに、彼のためにフリーダがアルコールランプの上でわかしているコーヒーのことは、たしかに心からよろこんだのだった。そして、冷えていくストーブによりかかったまま、彼女が教壇の机の上にとっておきの白いテーブル・クロスをかけ、花模様のついたコーヒー茶碗を置き、そのそばにパンとベーコンと、いわしの罐詰まで並べるさまを、眼で追っていた。今や万事ができ上がった。フリーダもまだ食事をすませてはいず、Kの帰りを待っていたのだった。椅子が二つあるので、机のそばでKとフリーダとはそれに腰かけ、助手たちは二人の足もとの教壇の上に坐った。だが、二人はじっとしていず、食事中も二人のじゃまをするのだった。助手たちはどれもたっぷりもらい、まだまだ食べ終ってはいないのに、ときどき立ち上がっては、まだ机の上にたくさん残っているかどうか、まだ自分たちにいくらかもらえそうかどうか、たしかめようとするのだった。Kはこの二人のことは気にとめてはいなかった。フリーダが笑ったので、はじめてこの二人に気がついたのだった。彼は机の上にある彼女の手の上に媚(こ)びるようにして自分の手をかさね、なぜこの連中のことをそんなに大目に見て、彼らの不作法さえも好意的にみとめてやるのか、と低い声でたずねた。こんなやりかたではやつらをけっして追い払えないよ。ところが、いわば手荒な、彼らのふるまいに実際にふさわしくもあるような取扱いをしてやれば、彼らを制御することができるか、あるいは︵このほうがいっそうありうることだし、またいっそういいだろうが︶彼らがこの地位にいや気がさし、そこでついに逃げ去ってしまうかするだろうよ。どうもこの学校ではあまり快適な滞在になりそうもないように思われるね。だが、ここに住むことも長くはつづかないだろう。それでも、助手たちが去ってしまい、二人だけが静かな家にいることになれば、すべての欠点にもほとんど気づかないようになるだろうよ。君は、助手たちが日ましに厚かましくなっていくのに気がつかないのかね? まるで、彼らをつけ上がらせるのは、ほんとうは君がいるためであり、また私が君の前ではほかの場合にならばやるかもしれないようにしっかと彼らにつかみかからないだろうという期待のためであるように見えるよ。さらにおそらく、彼らをすぐ面倒なしに追い払うすこぶる簡単な手段があるかもしれないね。それはきっと君だって知っているだろう。君はなにしろこの土地の事情にくわしいんだからね。そして、もし助手たちをなんとかして追い出すなら、やつらのためにもおそらくは一つの親切をしてやることになるだけなんだ。というのは、彼らがここで送る生活もそういいものじゃないし、彼らがこれまで楽しんできた怠惰な生活も、ここでは少なくともその一部分はやめなければならないんだから。というのは、君はこのところ二、三日つづいたさまざまな興奮のあとで自分の身体をいたわらなければならないし、また私としても、私たちの苦しい境遇からの逃げ道を見出そうとして一生懸命にならなければならないのだから、やつらはどうしても仕事を命じられてやらなければならないことになる。しかし、助手たちが出ていくことになれば、それで大いに気持が軽くなり、そこで小使の仕事もそのほかのこともみんなたやすくやることができるだろうよ。
こんなKの言葉に注意深く耳を傾けていたフリーダは、ゆっくりとKの腕をなでて、次のようにいうのだった。それはみんなわたしの考えでもありますわ。でもあなたはおそらく助手たちの不作法を大げさに考えすぎているんだわ。この人たちは陽気でいくらか単純な若者たちであって、きびしい城のしつけのために追い出されてしまい、はじめて見知らぬ人に仕えることになったのよ。だからいつも少しばかり興奮していて、びっくりしているのよ。こんな状態のなかでこの二人たちはときどきばかなことをしでかすわけで、それに腹を立てるのは自然だけれど、笑ってすますほうがもっと賢いやりかたなんだわ。わたしもときどき、笑わないでいられなくなるのよ。でも、この連中を追い払って、二人だけになるのがいちばんいいことだ、という点ではあなたと意見が一致しているわ。こういって、彼女はKに身体をよせて、顔を彼の肩に埋めた。そして、そのままの姿勢で何かいったが、いかにも聞き取りにくく、Kは彼女のほうに身体を曲げなければならなかった。彼女がいうには、助手たちに対する手段は何も知らないけれど、おそらくKが提案したことはみんなだめだろう。自分の知っている限り、K自身がこの二人を要求したのであって、今この二人を自分のところにおいているのだし、これからもおくことになるだろう。いちばんよいことは、二人を気軽におっちょこちょいとして扱うことだ。彼らは実際そうなんで、そういうふうに扱えば、いちばんよく我慢ができる。
Kはこの返事に満足しなかった。半ば冗談、半ばまじめに、彼はこういった。君はやつらとぐるになっているのか、あるいは少なくとも彼らに対して大きな愛情をもっているように思えるね。ところで、彼らはかわいい若僧たちだが、いくらか好意をもっていても追い払えない人間なんて、いないのだよ。このことをこの助手たちにおいて君に見せてあげよう。
フリーダはいった。もしあなたにそれができるならば、あなたにとても感謝するわ。ところで、わたしは今後、もうこの人たちのことを笑ったり、二人と不必要な言葉を交わしたりしないわ。もうこの人たちにおかしいことなんか見ませんし、それに二人の男にいつも観察されているなんて、ほんとうにつまらないことなんかじゃないわ。この二人をあなたの眼でながめることを、わたしは習ったわ。そして、今、助手たちがまた立ち上がったとき、彼女は言葉のとおり少し身体をぴくっとさせただけだった。二人は一つには食物の残りを検査するため、一つにはKたち二人がたえずささやき合っているのを見きわめるため、立ち上がったのだった。
Kはそれを利用して、フリーダに助手たちを嫌わせるようにしようとした。フリーダを自分のほうに引きよせ、ぴたりとより添って食事をすませた。もう寝にいくべきときだろう。みんなひどく疲れていた。助手の一人は食事しながら眠りこんでしまった。それがもう一人をひどく面白がらせ、Kたち二人にその眠っている男の間抜けた顔を見るようにうながそうとしたが、それはうまくいかなかった。Kとフリーダとは、それをはねつけて、高いところに坐っていた。寒さが耐えがたくなっていくうちに、二人は自分たちも寝にいくことをためらっていた。とうとうKが、もう少し火を焚(た)かなければならない、そうでないと眠ることはできない、といった。彼は斧(おの)でもないかと探したが、助手たちは一つのありかを知っていて、それをもってきた。そこで、薪小屋へ出かけていった。すぐ薄いドアは破られた。助手たちは、こんなすばらしいことはまだ体験したことがないかのように歓喜し、たがいに追いかけ合ったり、身体をつつき合ったりしながら、薪を教室へ運び始めた。まもなくそこには大きな薪の山ができた。火が焚かれて、みんなはストーブのまわりに横になった。助手たちは毛布をもらってそれにくるまろうとした。彼らにはそれで十分だった。というのは、いつも一人が起きていて、火を絶やさぬように、と取りきめができたのだった。やがてストーブのそばはひどく暖かくなり、もう毛布などはいらなかった。ランプが消され、Kとフリーダとは暖かさと静けさとにすっかり満足して、眠るために身体をのばした。
Kが夜中に何か物音で眼がさめ、さめぎわのはっきりとしない動作でフリーダのほうを手探りしたとき、フリーダのかわりに助手の一人が自分のそばに寝ているのに気づいた。おそらく神経過敏になっているためであり、またそのために突然眼がさめることになったのだが、それはこれまでこの村で体験した最大の驚きだった。叫びとともに半ば身体を起こし、考えるまもなくその助手に拳(こぶし)の一撃をくらわせたので、助手は泣き始めた。ところでこの事情はすべてすぐにわかった。フリーダが起こされてしまったのは――少なくとも彼女にはこう思われたのだが――何か大きな動物、おそらくは一匹の猫が彼女の胸の上に跳び上がって、すぐまた逃げていったためだった。彼女は起き上がり、一本の蝋燭に火をつけて、大きな部屋全体にその動物を探した。その機会を助手の一人が利用し、しばらく藁ぶとんの味を楽しもうとして、今、ひどくその罰を受けたところだった。ところが、フリーダは何も発見できなかった。おそらく錯(さっ)覚(かく)だったのだ。彼女はKのところへもどってきたが、その途中、まるでゆうべの話合いを忘れてしまったかのように、うずくまって泣きじゃくっている助手の髪を慰めるようになでてやるのだった。Kはそれに対して何もいわなかった。ただ助手たちに、火を焚くのをやめるように命じた。というのは、集めた薪をほとんど全部焚きつくして、すでに暑くてたまらぬほどになっていたのだった。
朝、みんながやっと眼をさましたときには、最初に登校した生徒たちがもうきていて、もの珍しげに寝床を取り巻いているのだった。これは愉快なことではなかった。というのは、ゆうべあまり暑かったため、今、明けがたになるとまた身にしみるほど冷えてきていたのだが、みんな下着まで脱いでいた。そして、ちょうど彼らが服を着始めたとき、女教師のギーザがドアのところへ現われたのだった。これは、金髪で、大柄の、美しいけれど、少し固い感じの娘だ。彼女は明らかに新しい小使のことを予期していて、たぶん例の教師からどういう態度を取るべきかを教えられているにちがいなかった。というのは、ドアのところで早くもこういったのだった。
﹁とても我慢できません。なんて結構な有様でしょう。あなたがたはただ教室で寝る許可を受けているだけで、わたしはあなたがたの寝室で授業する義務なんかありません。朝遅くまでベッドにごろごろしている小使の一家なんて。なんていうこと!﹂
ところで、これに対してはいくらかいってやらねばならないだろう、ことに一家とかベッドとかいうことについてはそうだ、とKは思った。一方、彼はフリーダといっしょに――助手たちはこの仕事に使うことはできなかった。二人の助手は床の上に横たわったまま、びっくりしたように女教師と子供たちとを見つめていた――大急ぎで平行棒と跳び箱とを押し出してきて、その両方に毛布をかけ、小さな空間をつくり、そこで子供たちの眼を避けて少なくとも服を着られるようにした。といって一瞬も落ちついてはいられなかった。まず女教師ががみがみいった。洗面器にきれいな水がなかったからだ。ちょうどKは、自分とフリーダとのために洗面器をもってこようと考えていたが、女教師をあまり刺戟しないように、この考えはまず捨てた。ところが、それをやめたことはなんの役にも立たなかった。というのは、すぐそのあとで大きながちゃがちゃいう音がした。つまり、運悪く晩飯の残りを教壇から片づけることを怠っていたので、女教師が定規でみんな払いのけてしまったのだ。いっさいのものが床の上へ飛んだ。いわしの油とコーヒーの残りとが流れ出し、コーヒーわかしがこなごなにくだけた。女教師はそんなことを気にかける必要はない、小使がすぐ片づけるだろう、といわんばかりだった。まだ服をすっかり着てはいなかったが、Kとフリーダとは平行棒にもたれて、自分たちのわずかばかりの所有物がめちゃめちゃになるのをながめていた。助手たちは服を着ようとは全然考えないらしく、下の毛布のあいだから様子をうかがっていて、その変な恰好が子供たちを大いに面白がらせていた。フリーダにとっていちばん痛手だったのは、もちろんコーヒーわかしを台なしにされたことだ。Kが彼女を慰めようとして、すぐ村長のところへいき、かわりを要求してもらってくる、といったとき、彼女はすっかり気を取りなおしたので、下着とスリップとだけの姿で囲いから飛び出し、少なくともテーブル・クロスだけはもってきて、これ以上汚されるのを防ごうとした。女教師はフリーダをおどかすため、定規で神経をかき廻すようにたえず机の上をたたいているのだったが、フリーダはうまくテーブル・クロスをもってくることができた。Kとフリーダとは服を着終わると、つぎつぎと起こることにすっかり呆(ぼう)然(ぜん)としてしまっている助手たちに、命令したりつついたりして服を着させるように促さなければならなかったばかりでなく、自分たちも彼らに服を着せてやらなければならなかった。みんなすむと、Kは次にやるべき仕事を割り当てた。助手たちは薪をもってきて火を焚くように、だがまずもう一つのほうの教室から始めるように。ところで、その教室のほうにも大きな危険があった。――というのは、そちらにもおそらく例の教師がもうきているだろう。フリーダは床を掃除するように。K自身は水を運んできて、そのほかの整頓をするだろう。朝食のことはさし当っては考えなかった。だが、およそ女教師の機嫌がどうか見るために、Kはまっさきに囲いから出ていこうとした。ほかの者たちは、彼が呼んだら出ていけばよい。Kがこういう手順をきめたのは、一つには助手たちの愚かなふるまいで状況をはじめから悪化させまいと思ったからであり、もう一つにはフリーダをできるだけいたわってやろうと思ったからだ。というのは、彼女は名誉心をもっているが、自分はもっていない。彼女は神経質だが、自分はそうではない。彼女は眼の前の小さないやらしいことばかり考えているが、自分はバルナバスと未来とのことを考えているのだ。フリーダは彼のすべての指図に忠実に従い、Kからほとんど眼を離さなかった。彼が囲いから出ていくやいなや、女教師は子供たちがげらげら笑うなかで、﹁おや、よく眠りましたか?﹂と、いった。子供たちの笑いはそのときからやむことがなかった。女教師の言葉はけっしてほんとうの質問というものではなかったので。Kがそれを気にもかけずにまっしぐらに洗面盤のところへいくと、女教師がまたたずねた。
﹁あなたがた、わたしのミーツェに何をしたんです?﹂
一匹の大きな肉づきのよい猫が、四肢を拡げて机の上にものうげに寝そべっている。女教師は猫の少しけがをしているらしい脚を調べた。それでは、フリーダがいったことは正しかったのだ。この猫は彼女の身体に跳びのったのではなかった。というのは、この老いぼれ猫にはもう跳ぶことなんかできなかった。しかし、彼女の身体の上をはって越えていったのだ。ふだん人気のないこの建物のなかに人間たちがいることにびっくりして、急いで隠れたのだが、こうやってやりつけていない急ぎかたをしてけがをしてしまったのだ。Kはこのことをおだやかに女教師に説明しようと思ったが、女教師のほうは結果だけを取りあげて、いうのだった。
﹁まあ、なんてこと! あんたたちは猫にけがをさせたのね。これがここへやってきたご挨拶というわけね。見てごらん!﹂そして、Kを教壇の上に呼びつけ、彼に猫の脚を見せた。あっというまに、彼女は猫の爪でKの手の甲にかき傷をつくってしまった。爪はもう鈍くなっていたが、女教師が今度は猫のことを考えもしないでその爪をしっかと押しつけたので、引っかいたあとに血がにじんで、みみずばれになった。
﹁これで、仕事にかかるのよ﹂と、彼女はいらいらしながらいい、また猫のほうに身体を曲げた。助手たちといっしょに平行棒のうしろでこの様子をながめていたフリーダは、Kの手の血を見て、叫び声をあげた。Kは自分の手を子供たちに見せて、いった。
﹁ごらん、悪いいたずら猫が私にこんなことをやったんだよ﹂彼はもちろんこの言葉を子供たちに聞かせるためにいったのではなかった。子供たちの叫び声と笑いとはもうほかのこととはかかわりのないものになってしまっていたので、もうこれ以上のきっかけをつくったり、そそのかしたりする必要はなく、どんな言葉も子供たちの身にしみたり、彼らに影響を与えることはできなかった。女教師もこのKの侮(ぶじ)辱(ょく)に対してただちょっと横眼で答えただけで、そのほかは猫にかまいつづけていた。つまり、最初の怒りはKの手に血を流させるという仕置きでおさまったようだ。で、Kはフリーダと助手たちを呼び、仕事が始った。
Kが汚れ水の入ったバケツをもち去り、きれいな水を運んできて、今度は教室の塵を掃(は)き出し始めたとき、およそ十二歳ばかりの少年が長椅子から立ってやってきて、Kの手にさわって、この大さわぎのなかで何のことやらまったくわからぬことをいうのだった。そのとき、いっさいのさわぎがぴたりとやんだので、Kは振り返った。朝からずっと恐れていたことが起ったのだった。ドアのところに例の教師が立ち、この小柄な男はそれぞれの手で一人ずつの助手の襟首をつかんでいた。彼はおそらく助手たちが薪をもち出しているところをつかまえたのであった。というのは、力強い声で次のように叫び、一語一語に間をおいて区切っていうのだった。
﹁だれが薪小屋へ入りこもうなどとしたのだ? そいつはどこにいるんだ? ひねりつぶしてやる!﹂
そのとき、フリーダは女教師の足もとで懸命に床にぞうきんがけをやっていたが、ふと立ち上がってKのほうを見た。まるでKから力を授けられたというふうであった。そして、次のようにいったが、そういいながらも彼女の以前からの落ちつき払った様子がまなざしと態度とに表われていた。
﹁わたしがしたんです、先生。ほかにどうしたらよいのか、わからなかったんです。朝早く教室に火を焚くようにということだったので、小屋を開けなければならなかったんです。夜分、鍵をあなたのところからいただいてくることはできなかったし、私の婚約者は紳士荘へいっていて、夜はそこにずっといることになるかもしれなかったのです。で、わたしはひとりでどうするかきめなければなりませんでした。もしまちがったことをやったのなら、わたしが不慣れで未熟なためとお許し下さい。婚約者がわたしのやったことを見たとき、わたしはもうさんざどなりつけられたんです。それどころか、あの人は朝早く火を焚くことをわたしに禁じました。それは、あなたが小屋を閉めておくことで、あなたご自身がやってくるまでは火を焚いてもらいたくないということをお示しになろうとしているのだ、とあの人は思ったからです。そこで、火を焚いてないのはあの人のせいですが、小屋をぶち開けたのはわたしのせいですわ﹂
﹁だれがドアをぶち開けたのだ?﹂と、教師は助手たちにたずねた。助手たちはまだ教師のつかんでいる手を振りほどこうとむだな試みをつづけていた。
﹁あの人です﹂と、二人はいって、疑いの余地のないように、Kを指さした。フリーダは笑ったが、この笑いは彼女の言葉よりもいっそう事実を証明しているように見えた。次に彼女は、床をふいていたぞうきんをバケツのなかでしぼり始めた。まるで、この彼女の説明でこの突発事が終わり、助手たちのいうことはあとからつけた冗談ごとにすぎない、とでもいうようであった。仕事をつづける構えになって、ふたたび床に膝をついたときになってやっと、彼女はいった。
﹁わたしたちの助手は、いい年をしているくせに、まだここの生徒さんたちの長椅子に坐ったらいいような子供なんですのよ。つまり、わたしはきのうの夕方、ひとりでドアを斧で開けたんですの。とても簡単でしたわ。助手なんかそのためにはいらなかったし、手伝わせたって、どうせじゃまになっただけでしょう。それから夜になって婚約者がやってきて、小屋の損害をよく見て、できるなら修理しようとして、出ていきますと、助手たちもいっしょに走っていきました。おそらくここに自分たちだけ残っているのが恐ろしかったんでしょう。そして、わたしの婚約者が破り開けたドアのところで修理の仕事をしているのを見たんですわ。そこであの人たちは今、あんなことをいっているんです。――まあ、子供なんですわ﹂
助手たちはフリーダの説明のあいだじゅう、たえず頭を振って否定する様子を見せ、Kを指さしつづけ、無言のまま顔の表情によってフリーダに意見を変えさせようと努めてはいた。ところがそれが自分たちにうまくいかないとわかると、とうとう折れてしまい、フリーダの言葉を命令と受け取って、教師の新しい問いに対してはもう答えなかった。
﹁そうか﹂と、教師はいった。﹁では、君たちは嘘をいったのだね? あるいは少なくとも軽はずみに小使に罪をなすりつけているんだね?﹂
二人はまだ黙っていたが、彼らが身体をふるわせ、不安げなまなざしをしていることは、罪の意識を示すもののように見えた。
﹁それじゃあ、君たちをすぐ鞭でぞんぶんにたたいてやろう﹂と、教師はいい、一人の子供を別な部屋にやって籐(とう)の棒をもってこさせた。次に彼がその棒を振り上げたとき、フリーダが叫んだ。
﹁助手たちはほんとうのことをいったんです﹂そして、絶望してぞうきんをバケツのなかへ投げこんだので、水が高く跳ね返った。彼女は平行棒のうしろへ駆けこむと、そこに身を隠してしまった。
﹁嘘(うそ)つきの人たちねえ﹂と、猫の脚の繃(ほう)帯(たい)をちょうどし終えて、猫を膝の上に抱き上げていた女教師は、いった。彼女の膝には猫はほとんど大きすぎるくらいだった。
﹁それじゃあ、小使さんはここに残ること﹂と、教師がいった。そして、助手たちを押しのけると、Kのほうに向きなおった。Kはそのあいだじゅう、箒(ほうき)で身体を支えたまま、彼らの話に耳を傾けていたのだった。﹁この小使さんは卑怯なため、事実を曲げて他人に自分自身の卑劣行為がなすりつけられるのを、平気でながめているわけだね﹂
﹁まあ﹂と、Kはいったが、フリーダがあいだに入ったことで教師の最初のとめどもない怒りがやわらげられたのを、見て取っていた。﹁助手たちが少しぐらい鞭で打たれたところで、私には心苦しくなんかなかったことでしょうよ。十回も当然なぐられていい動機を見逃がしてもらったんだから、一回ぐらい正当でない動機でその罪ほろぼしになぐられたっていいんですよ。でも、そうでなくとも、先生、あなたと私とのあいだの直接の衝突が避けられたとすれば、それはおそらくあなたにとっても好ましいことにちがいありませんからね。ところで、フリーダが助手たちを救おうとして私を犠牲にしたんですから――﹂ここでKはちょっと間をおいた。あたりの静けさのなかに、囲いの毛布のうしろでフリーダがすすり泣く声が聞こえた。﹁もちろん、今は事に決着をつけなければならないわけです﹂
﹁なんていうことを!﹂と、女教師がいった。
﹁私も完全にあなたと同じ考えですよ、ギーザ先生﹂と、教師がいった。﹁小使さん、あんたはむろんこの恥ずべき職務怠慢のためにこの場ですぐ解雇です。まだこれにつづくべき罰は保留しておきます。だが、今はすぐあなたの品物をみんなもってここから出ていってもらいます。これで私たちはほんとうに気が軽くなるというものですよ。授業もとうとう始められますしね。さあ、急いでくれたまえ!﹂
﹁私はここから動きませんよ﹂と、Kはいった。﹁あなたは私の上役ではあるけれど、私にこの地位を与えた人じゃありません。この地位を与えてくれたのは村長さんで、ただ彼の解雇通知だけを私は受け入れます。ところで村長さんは、私がここで私の妻や助手たちといっしょに凍えるために、この地位を私に与えたのではなくて、――あなたご自身がいわれたように――私が絶望のあまり考えのないことをしでかすことを防ぐためだったんです。だから、今、突然、私をくびにすれば、村長さんの意図にも反しますよ。これと反対のことを村長さん自身の口から聞かない限りは、あなたのいうことなんか信じません。それに、あなたの軽率な解雇通知に従わなければ、おそらくあなたにとっての大きな利益となることでしょう﹂
﹁それじゃあ、いうことをきかないというんですね﹂と、教師はたずねた。Kは頭を振って、そのとおりだと示した。
﹁よく考えてみることですね﹂と、教師はいった。﹁あなたの決定は、いつも最善のものだとはきまっていません。たとえば、あなたが事情聴取を受けることをことわったきのうの午後のことを考えてみたまえ﹂
﹁なぜあなたは、今、そんなことをいうんです?﹂と、Kはたずねた。
﹁いいたいからいうんだ﹂と、教師がいった。﹁で、私は最後にもう一度いうが、出ていきたまえ!﹂
ところが、これも全然効果がなかったので、教師は教壇のほうへ歩みよって、女教師と低い声で話し合っていた。彼女は警察というようなことをいったが、教師はそれをことわった。とうとう意見が一致して、教師は子供たちに、先生の教室へ移りなさい、そこでむこうの子供たちといっしょに授業をするから、と命じた。子供たちはみんなこの変換を悦んで、すぐ笑ったり叫んだりしながら、部屋を空(から)にした。教師と女教師とがしんがりで子供たちのあとを追って出ていった。女教師はクラス名簿と、その上にのせられたまるまると肥った何くわぬような顔をしている猫とを運んでいった。教師は猫をここに残していきたかったが、それについてのほのめかしの言葉を、Kが残忍だから置いていけないといって女教師はきっぱりとこばんだ。そこで、Kはひどく腹を立てながらも、猫を教師に背負わせてやったのだった。これは、教師がドアのところでKに向っていった次のような最後の言葉にも影響したものらしい。
﹁女の先生は子供たちといっしょにやむなくこの部屋を出ていきましたよ。あなたが強情に私の解雇通知に従わないし、また若いお嬢さんのあの先生に向って、あなたがたの汚らしい世帯のまっただなかで授業をやるように、などとだれだって求めることはできないからです。それじゃあ、あなたがただけがここに残りなさい。まともな見物衆たちの反感にじゃまされずに、好きなだけここにのさばっていることができますよ。しかし、長くはつづきませんよ。それは保証します﹂
そういうと、彼はドアをぴしゃりと閉めた。
みんなが立ち去るやいなや、Kは助手たちにいった。
﹁出ていきたまえ﹇#﹁いきたまえ﹂は底本では﹁いきまえ﹂﹈!﹂
この思いがけない命令に呆然として、二人はKのいうままになった。だが、Kが彼らの出ていったあとのドアを閉めてしまうと、もどってこようとして、ドアの外で泣きわめき、ドアをたたくのだった。
﹁君たちはくびだ!﹂と、Kは叫んだ。﹁二度と君たちなんか使わないぞ﹂
もちろん、二人はそんなことを承知しようとはしなかった。そして、手と足とでドアをどんどん打った。
﹁あなたのところへもどりたいんです、旦那?﹂と、彼らは叫んだが、まるでKこそ乾いた土地であり、自分たちは今にも洪(こう)水(ずい)のなかに溺(おぼ)れようとしているとでもいうかのようだった。だが、Kは同情はせず、この我慢できないさわぎで教師がやむなく介入しないではいられなくなるのを、落ちつかぬ気持で待っていた。まもなく、予想したとおりになった。
﹁いまいましいこの助手たちを入れてやりたまえ!﹂と、教師が叫んだ。
﹁この連中はくびにしたんですよ!﹂と、Kはどなり返した。
この言葉は欲しなかった副作用をもたらした。つまり、ただ解雇通告を出すだけでなく、それを実行するだけの力をもっているならば、その結果がどうなるか、ということを示したのだ。今度は教師は助手たちをやさしくなだめようとし、ここでおとなしく待っているように、しまいにはKが君たちをまた入れてくれるだろう、というのだった。そして、彼はいってしまった。もしKが助手たちに向って、君たちはこれで最後的にくびにしたのだ、また使うなんていう望みはほんのちょっとでもないぞ、などと叫び始めなければ、きっとそのまま静かになっていたことだったろう。Kの言葉を聞いて、二人はまたさっきのようにさわぎ始めた。また教師がやってきたが、今度はもう助手たちと交渉なんかしないで、おそらくは恐ろしい籐(とう)の棒をふるって、彼らを建物から追い出してしまった。
まもなく二人は体操場の窓の前に現われ、窓ガラスをたたいて、叫ぶのだった。だが、その言葉はもう聞き取れなかった。けれども、二人もそこに長いあいだはとどまっていなかった。この深い雪のなかでは、彼らの不安な気持が求めるままに跳び廻ることはできなかったのだ。そこで彼らは校庭の格(こう)子(しべ)塀(い)のところへ急いでいき、そこの石造の土台の上に跳びのった。そこでは、ただ遠くからだけではあるが、部屋のなかを前よりもよくのぞくことができた。二人は格子塀にしっかとつかまりながら、石の土台の上をあちこちとかけ廻り、次にまた立ちどまって、哀願するように両手を合わせてKのほうへのばすのだった。自分たちの努力の無益なことを考えようともせずに、彼らはそんなことを長いあいだやっていた。まるで眼がくらんでしまったようだ。彼らを見ないでもすむようにと思って、Kが窓のカーテンを下ろしたときにも、二人はまだそれをやめなかった。
今は薄暗くなった部屋のなかで、Kはフリーダを見るため、平行棒のところへいった。Kの視線の下で彼女は立ち上がり、髪を整え、顔をふくと、黙ったままコーヒーをわかし始めた。彼女はいっさいのことを知ってはいたが、Kははっきりと、助手たちを追い出してしまったことを彼女に知らせた。彼女はうなずくだけだった。Kは生徒用の長椅子の一つに腰かけて、彼女のものうげな動作を見守っていた。彼女のつまらぬ肉体を美しくしていたものは、いつでもあの新鮮さときっぱりした態度とであった。ところが今は、この美しさも消えてしまっていた。Kといっしょの生活をしたわずか何日かが、そんなふうな変化を起こすのに十分だったのだ。酒場での仕事はたやすくはなかったが、おそらくそのほうがぴったりしていたのだろう。それとも、クラムと離れたことが、彼女のやつれのほんとうの原因なのだろうか。クラムの近くにいることが彼女をあのようにばかげたほど魅力的にし、この魅力のなかで彼女はKを自分にひきつけたのだが、彼の腕のなかでしおれてしまったのだ。
﹁フリーダ﹂と、Kはいった。彼女はすぐコーヒーひきを手放して、Kのいる長椅子のところへやってきた。
﹁わたしのことを怒っているの?﹂と、彼女はたずねた。
﹁いや﹂と、Kはいった。﹁君はほかにしようがないのだと思うよ。君は紳士荘で満足して暮らしていた。私は君をあそこにあのままにしておくべきだったのだ﹂
﹁ええ﹂と、フリーダはいって、悲しげにぼんやりと前を見ている。﹁あなたはあたしをあそこにあのままにしておくべきだったんだわ。わたしには、あなたと暮らす資格はないのよ。わたしから解放されれば、あなたはおそらく望むことをなんでもできるのよ。わたしのことを考えて、あなたはあの横暴な教師に屈伏し、こんなみじめな地位を引き受け、苦労してクラムと一度話をしようと望んでいるんだわ。みんなわたしのためなのに、わたしのほうはそれに何もむくいることができないのよ﹂
﹁いや﹂と、Kはいって、慰めるように片腕を彼女の身体のまわりに廻した。﹁そんなことはみんなつまらぬことで、私はちっとも悲しんでなんかいないさ。それに、クラムのところへいきたいのは、何も君のためばかりではないんだ。そして、君は私のためになんでもやってくれたね! 君を知る前には、私はこの土地でまったく途方にくれていたんだ。