今度私が泉鏡花氏の﹃日本橋﹄を映画化するに当つて、それが諸々方々から大分問題にされたものであつた。 ﹃もんだいに﹄と云ふと、話しは大きくなるが、鳥ちよ渡つとした言葉のはしくれにも、 ﹃どうだい君、溝口君が芸者物を撮るさうぢやないか。日頃の唯物論は何処へケシ飛んで仕舞つたんだ!﹄ ﹃いや、あの人間は、以前からあゝ云つた下町情話ものが得意なんだ。だから、つまりは昔にかへつたわけなんだ。﹄ と、噂し合ふ有様である。 だが、それは両方とも私にとつて、擽つたい、むしろ迷惑な話しで、なまじい、色眼鏡をもつて見られる事は、心苦しい次第である。 然し、一般の人々の立場から考へて見ると、私は余程、しばしばと作品の方向を変へるやうに思はれてゐるかも知れぬ。 そして、嘗かつてものした愚作﹁紙人形春の囁き﹂とか﹁狂恋の女師匠﹂とか云ふ、所いは謂ゆる下町情話物が、私の作品の中では割合に強い記憶を与へてゐるので、人々は、それを土台として、今度の﹁日本橋﹂に対して、とやかく云ふのかも判らない。 そこで私は、それらの人々に対し、そして又一時私が凝つた︵と称せられる︶下町ものから脱けて、思想的の陰影の強いものへと興味を向け、今更に再び下町物へと帰つた事に対して、一通りその理由を語らねばならないと思はれる。 私をして、昔の下町物へと戻らせた動機と云ふのは外ほかでもない、此の夏、実に思ひがけぬ事であるが、私の﹁狂恋の女師匠﹂のプリントを仏フラ蘭ン西スからわざ〳〵買ひに来た人があつた。 その人は、日仏協会の人で、絶えず彼我の文明の交換に就いて努力してゐる人であるが、仏蘭西の芸術の当局者の人々よりの依頼を受けて、日本映画を買込みに来たものである。 それは、現在欧州を風靡してゐる東洋趣味からの要求が第一であらうが、嘗かつて村田君が持つて行つた﹁街の手品師﹂や、松竹の﹁萩寺心中﹂が巴里で上映され、或あるひは、岡本綺堂氏の﹁修善寺物語﹂がそのまゝに日本劇として向うの劇場に、上演されたのに依より、日本の演劇、日本の映画と云ふものに対する愛好心が刺激された事も、主なる理由として挙げねばなるまいと思はれる。 ところが、仏蘭西の観客にとつては、今の所日本の映画は、たゞ彼等の異国趣味を満足させるに過ぎないであらう。日本の風景、日本の風俗、広重の錦画ゑを見、ピエル・ロチの﹃お菊さん﹄を見る心持ちを以つてのみ、日本映画に愛着を感じてゐるのでなからうか? それでもよい。それに美を感じ、それを愛して呉れる事は、あながち我等にとつて、恥のみではないのだ。 しかし乍ながら――、彼等の憧れる瓦葺の屋根の下に、彼等の愛する絹の衣の下に、優れた日本の﹁美を感ずる魂﹂を含める事が出来たら、よりよき事ではなからうか。 いや、われらは、彼等をして絹の衣の美しさを感ぜしむると共に、その衣の下にある、﹁日本の心﹂を感じさせなければならないのだ。 嘗つては、一介の漁奇的な骨董品として輸出された歌麿の美人画は、仏蘭西の後期印象派に革命的な衝動を与へた。それは何故だ。日本の優れた魂が、その絵の中に秘められてゐたからである。 日本人の美に対する感覚、それは数あま多たの歴史を経、多くの時代を通り、様々な変化をして、或は天才の発見に依り、或は名工の技に依つて長い〳〵時間の中に、洗練され磨き上げられて来たものである。 それが日常生活の末端までにも、一挙手一投足のうちにまでも、深く〳〵浸み込んでゐるのである。此処に、日本の生活があるのだ。 私は此の夏頃――即ち、仏蘭西よりプリントの註文があつた頃、次に製作すべき作品の方向に就いて、悩み且つ迷つてゐた。 計らずも、此の交渉を受けた私は、それが動機となつて、再び、日本の古来よりの美に対する愛着が強められた。 労農露国の歌舞伎劇の研究、更にまた、築地小劇場の国性爺合戦、これらは現在の美が、明日の美への飛躍すべき段階である。 私は、之等の運動が無意味でない事を知つてゐる、何故ならば、私自身にも、それと同じき慾求が生れて来たのであるから―― 私は、所謂下町物の中でも、最も純粋な泉鏡花氏の﹃日本橋﹄を作るに至つた気持は、其処にあるのである。昨日の美をして、明日の美をなし得るならば、望みは之これに越したことはない、古きを温たづねて新しきを知ると云ふ諺である。 そして万が一にも柳の下に鰌どぜうがゐて、此の映画が再び洋行する事が出来たなら、その時こそ、多少なりとも、日本の美しい心が判つて貰へるやうにと、願ひ且つ心掛けてゐるのである。 しよせん、私は放浪者かも判らない。東へ西へと際限なく流れ行くであらうが………… しかし今はしばし、此の日本の美の上に、錨を下ろす考へである。 ︵'29年1月1日号︶