盧弁
経歴
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北魏の太常丞の盧静の子として生まれた。范陽盧氏は代々儒学を修めた家柄であった。盧弁は若くして学問を好み、経書に広く通じ、秀才に挙げられ、太学博士となった。﹃大戴礼記﹄にはじめて注釈をつけた。
531年︵普泰元年︶、北魏の前廃帝が即位すると、盧弁は中書舎人に任じられた。532年︵普泰2年︶、高歓が韓陵の戦いで爾朱氏を破り、洛陽に向かって軍を進めると、前廃帝は盧弁を高歓のもとに派遣した。高歓は盧弁に対して後廃帝への拝礼を強く迫ったが、盧弁はこれに従わなかった。高歓は盧弁の節を曲げない態度をみて、それ以上の強要はしなかった。
同年︵太昌元年︶、孝武帝が即位すると、盧弁は広平王元賛の師となった。534年︵永熙3年︶、孝武帝が関中に向かうと、突然の出来事であったため、盧弁は家に帰って身辺を整理する暇もなく、馬ひとつで従った。孝武帝が長安に入ると、盧弁は給事黄門侍郎に任じられ、著作を兼ねた。儒学の見識によって宇文泰に礼遇され、西魏の朝廷の重要な議論では、必ず顧問として召し出された。538年︵大統4年︶、趙青雀の乱が起こると、西魏の皇太子元欽が渭水の北にいたため、盧弁は太子に随従し、そのことを家人に告げることもなかった。ほどなく太常卿・太子少傅に任じられた。西魏の太子や諸王たちは、みな盧弁を師と仰いで、その講義を受けた。爵位を范陽公に進め、少師に転じた。驃騎大将軍・開府儀同三司の位を受け、尚書令に累進した。
宇文泰が周制に基づく官僚制度を定めようと、まずは蘇綽にその策定を任せたが、蘇綽が546年︵大統12年︶に死去したため、盧弁に後任が委ねられて完成させた。556年︵恭帝3年︶、﹃周礼﹄に基づいて六官が建てられ、公・卿・大夫・士が置かれ、漢・魏以来の朝儀や車服が改められた。盧弁は師氏中大夫に任じられた。
557年、北周の明帝が即位すると、盧弁は小宗伯となり、位を大将軍に進めた。明帝が諸公とともに盧弁の邸に行幸すると、儒者はこのことを栄誉とみなした。盧弁は宜州刺史に任じられたが、病のため赴任しなかった。ほどなく死去した。
子に盧慎・盧詮があった。