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{{Otheruses|元大相撲力士・年寄|本名が森田武雄の元アマチュアレスリング選手|森田武雄}}
'''藤ノ川 武雄'''(ふじのかわ たけお、本名・森田 武雄→祥玄→武雄、[[1946年]][[9月26日]] - )は、[[北海道]][[河東郡]][[音更町]]出身で[[伊勢ノ海部屋]]所属の元[[大相撲]][[力士]]。身長178cm、体重108kg。得意手は突き、押し、右四つ。最高位は西[[関脇]]。[[拓殖大学第一高等学校]]卒業。
{{infobox 力士
|名前=藤ノ川 武雄
|画像=
|説明=
|四股名=森田 武雄 → 藤ノ川 武雄 → 藤ノ川 豪人
|本名=森田 武雄→祥玄→武雄
|愛称=今・牛若丸<ref name="catalog"/>
|生年月日={{生年月日と年齢|1946|9|26}}
|没年月日=
|出身=[[北海道]][[河東郡]][[音更町]]
|身長=178cm<ref name="catalog"/>
|体重=108kg<ref name="catalog"/>
|BMI=34.40
|所属部屋=[[伊勢ノ海部屋]]
|得意技=突き、押し、右四つ
|現在の番付=引退
|最高位=西[[関脇]]
|生涯戦歴=403勝378敗31休(69場所)
|幕内戦歴=209勝240敗16休(31場所)
|優勝=幕下優勝1回
|賞=[[殊勲賞]]1回<br>[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]2回<br>[[技能賞]]4回
|初土俵=[[1961年]]5月場所<ref name="catalog"/>
|入幕=[[1966年]]11月場所<ref name="catalog"/>
|引退=[[1972年]]11月場所<ref name="catalog"/>
|引退後=[[伊勢ノ海部屋]] 師匠
|他の活動=日本相撲協会理事(4期)<br/>2002年2月 - 2010年1月<br/>日本相撲協会評議員(1期)<br/>2018年3月 -
|備考=[[金星 (相撲)|金星]]4個([[佐田の山晋松|佐田の山]]1個、[[大鵬幸喜|大鵬]]1個、[[玉の海正洋|玉の海]]1個、[[北の富士勝昭|北の富士]]1個)
|作成日時=[[2018年]][[3月26日]]
}}
 
'''藤ノ川 武雄'''(ふじのかわ たけお、[[1946年]][[9月26日]] - )は、[[北海道]][[河東郡]][[音更町]]出身で[[伊勢ノ海部屋]]に所属した元[[大相撲]][[力士]]。本名は'''森田 武雄'''→'''祥玄'''→'''武雄'''。身長178cm、体重108kg。得意手は突き、押し、右四つ。最高位は西[[関脇]]。[[拓殖大学第一高等学校]]卒業<ref name="catalog">ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p28</ref>。小柄さと機動型の相撲から土俵のキャッチフレーズが取り分け多かったことで知られており活字になったものだけでも今・[[源義経|牛若丸]]<ref name="catalog"/>、ちびっ子ギャング、[[小さな巨人]]、[[鉄腕アトム]]、土俵のクレイ、[[南ベトナム解放民族戦線|ベトコン]]、[[忍者]]、土俵の[[魔術師]]など多数確認される<ref name="ref6">お相撲さん -その世界.野崎誓司(著).恒文社.1979年.</ref>{{Refnest|group="注釈"|四股名『藤ノ川』は伊勢ノ海部屋伝統の四股名であり本名も「森田」という平凡なものであったため、先達の『藤ノ川』と区別をつけるためにたくさんの異名を付けられるようになったという<ref name="fujinokawa" />。}}。
 
== 来歴 ==
[[拓殖大学]]に在籍していた次兄(のち[[警視庁]][[柔道]][[師範]]の[[森田祥業]]<ref>「時代の証言者 藤ノ川豪人5」読売新聞2022年1月17日付朝刊</ref>)から話を聞いた伊勢ノ海親方のスカウトを受けて上京し、東京の[[墨田区立両国中学校]]在籍中の[[1961年]](昭和36年)5月場所、伊勢ノ海部屋より[[初土俵]]。[[前相撲]]では一番出世で、さらに[[1962年]](昭和37年)1月場所では史上初の中学在籍中に[[三段目]]昇進を果たした<ref name="yomi8">「時代の証言者 藤ノ川豪人8」読売新聞2022年1月20日付朝刊</ref>。両親の意向を師匠も汲んで中学卒業後に拓大一高へ進学し、高校時代は拓大相撲部でも稽古を積んだ<ref name="yomi8"/>。幕下下位にいた頃に「小柄だから相撲は無理だ。高卒後は拓大へ入れてやる。」と次兄から打診されたことで学業を選び相撲を辞めることも考えたが、帰郷した際に[[引退#大相撲|廃業]]を申し出ると母が泣き出したため思いとどまった<ref name="yomi9">「時代の証言者 藤ノ川豪人9」読売新聞2022年1月21日付朝刊</ref>。結果として、高校は出席日数が足りずに1年留年したものの卒業を果たし、さらに[[1965年]](昭和40年)11月場所では幕下7枚目で全勝優勝を果たし高校在籍中に新十両を決めた<ref name="ref1"></ref><ref name="ref2"></ref><ref name="yomi9"/>。[[1966年]](昭和41年)1月場所新[[十両]]、同年11月場所に[[戦後]]生まれの力士として初の[[入幕|新入幕]]を果たした。入幕3場所目で同門の[[大関]]・[[豊山勝男|豊山]]、[[横綱]]・[[佐田の山晋松|佐田の山]]を下した星などで12勝3敗の好成績をあげ[[三賞|殊勲・技能賞]]をダブル受賞、翌場所入幕4場所目にして[[関脇]]に昇進<ref name="catalog"/><ref name="fujinokawa">『[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|大相撲ジャーナル]]』2017年6月号108-109頁
[[1961年]](昭和36年)5月場所、伊勢ノ海部屋より[[初土俵]]。[[1966年]](昭和41年)1月場所[[十両|新十両]]、同年11月場所新[[入幕|新入幕]]を果たし、[[戦後]]生まれの力士として最初の[[幕内]]力士となる。入幕3場所目で12勝3敗の好成績をあげ[[三賞|殊勲・技能賞]]をダブル受賞、以後[[横綱]][[柏戸剛]]の弟弟子でもあり「今[[源義経|牛若]]」「ちびっ子ギャング」などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマートな体型や渋い容姿から人気を博し、[[三賞]]を全て取る活躍をする。ちなみに[[大鵬幸喜|大鵬]]の45連勝目の相手([[1969年]](昭和44年)3月場所初日)でもある。
</ref>。以後横綱[[柏戸剛]]の弟弟子でもあり「今[[源義経|牛若]]」「ちびっ子ギャング」などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマート<ref name="ref1">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35069720V20C11A9000000/ 角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く] 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 </ref>な体型や渋い容姿から人気を博し、[[三賞]]も7回受賞する活躍をした。一方で恥ずかしがり屋でも知られ、「土俵は別だけど大勢の人の前に出るのは嫌。マゲをつけてジロジロ見られるのが嫌」などと語るような人物であったため土俵外の話題には乏しかった<ref name="ref6"></ref>。ちなみに[[大鵬幸喜|大鵬]]の45連勝目の相手([[1969年]](昭和44年)3月場所初日)でもある。当初はただ頭からぶつかるように指導されたことで新三役の時期まで本人が「右の耳がわいている(耳がこすれて変形すること)のを見ればわかるように、私は典型的な右四つ、右差し」と認識する相撲ぶりに徹していたが、稽古場で頸椎を痛めてしまったことで自信があった握力が神経の圧迫で失われてしまい、以降は動き回る相撲に変わっていった<ref name="ref2">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35069720V20C11A9000000/?df=2 角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く] 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 </ref>。
 
[[1969年]](昭和44年)7月場所では[[前頭]]5枚目で12勝3敗の成績を挙げ、大関・[[清國勝雄|清國]]と[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=BGO0ZK_JesU 大関・清國との優勝決定戦]</ref>を行い敗れはしたが、[[三賞|敢闘・技能賞]]を手にする活躍を見せた<ref name="catalog"/>。[[1971年]](昭和46年)7月場所6日目、前頭7枚目[[義ノ花成典|義ノ花]]戦で左足を負傷して7日目より休場してからは、持ち前の動き回って取る相撲が取れなくなり、幕内下位と十両を低迷するようになった<ref name="fujinokawa"/>{{Refnest|group="注釈"|この藤ノ川の負傷が[[公傷制度]]導入の切っ掛けとなったとされる。}}。結局[[1972年]](昭和47年)7月場所幕内に返り咲いたものの、11月場所で十両に陥落し場所前に引退を表明。[[年寄]]・[[立川 (相撲)|立川]]を26歳という異例の若さ{{Refnest|group="注釈"|当時の大相撲においても、26歳以降に初めて十両もしくは幕内に昇進することも珍しくなかった。尚、1992年に当時27歳で妻帯者の高校教諭[[智乃花伸哉|成松伸哉]]が入門した際には藤ノ川の引退時の年齢が引き合いに出されたとされる。}}で襲名した<ref name="fujinokawa"/><ref name="catalog"/>。
 
退[[1982]]5712[[]][[]][[|]][[|]][[|]]5[[]]<ref name="ref3"></ref>
 
[[2002年]](平成14年)から[[日本相撲協会]]の[[理事]]に選出され、総合企画部長としてファンサービス企画の総責任を負っていたが、[[2007年]](平成19年)に[[八百長]]疑惑や横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]問題、[[時津風部屋力士暴行死事件]]など空前の難問が一挙に噴出するという難局に見舞われ[[北の湖敏満|北の湖]]理事長の参謀として窮地に立たされた。この問題で記者会見等で北の湖に代わり報道陣に対し協会としてのコメントを発表する場面が度々見られ、年寄時代晩年期は各不祥事の「再発防止検討委員会」など委員長職を任され事件の根絶に忙殺された<ref name="ref1"></ref>。[[2010年]](平成22年)1月の任期満了をもって理事を退任した。停年直前には「敢闘精神評価」のアンケートを取り入れ、これが2018年3月場所現在でも館内での名物として存続している<ref name="ref3">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35069720V20C11A9000000/?df=4 角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く] 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 </ref>。同年2月から[[2011年]](平成23年)1月まで[[相撲博物館]]館長代行。
[[1969年]](昭和44年)7月場所では[[前頭]]5枚目で12勝3敗の成績を挙げ、[[大関]][[清國勝雄|清國]]と[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=BGO0ZK_JesU 大関・清國との優勝決定戦]</ref>を行い敗れはしたが、[[三賞|敢闘・技能賞]]を手にする活躍を見せた。[[1971年]](昭和46年)7月場所6日目、前頭7枚目[[義ノ花成典|義ノ花]]戦で左足を負傷して7日目より休場してからは、持ち前の動き回って取る相撲がとれなくなり、幕内下位と十両を低迷するようになった。このことが[[公傷制度]]導入の一因とされた。結局[[1972年]](昭和47年)7月場所幕内に返り咲いたものの、11月場所で十両に陥落し場所前に引退を表明。26歳の若さで[[年寄]][[立川 (相撲)|立川]]を襲名した(この年齢以上で新十両・新入幕する力士も珍しくなく、過去には27歳で入門という[[智ノ花伸哉|智乃花]](現[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]])の例もあった)。
 
停年を前に下の名前を「裕己茂」から初代伊勢ノ海親方、中断を挟んで7代目から10代目に当たる先代の伊勢ノ海親方が引退後、数年間名乗っていた「五太夫」に改名{{Refnest|group="注釈"|番付の表記では「伊勢ノ海、五太夫」と間に[[読点]]が入っていたが、これは藤ノ川本人の話によると「字画の関係」とされる。}}。
引退後は、伊勢ノ海部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、[[1982年]](昭和57年)12月に先代師匠(元[[前頭]][[柏戸秀剛]])が死去したことに伴い、伊勢ノ海部屋を継承した(立川の株は後に土佐ノ海、に売却するまで引き続き所有)。これまでに関脇[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]](現立川)らを育てている。
 
[[2011年]](平成23年)9月25日(9月場所千秋楽)、弟子の[[幕下]]・[[勢翔太|勢]](当時)が新関取昇進の内定を得たことを見届けながら日本相撲協会を[[定年|停年]]退職。伊勢ノ海部屋は弟子の北勝鬨の[[勝ノ浦]]親方が12代伊勢ノ海の名跡と同時に継承した。なお、この日のみ12代伊勢ノ海と名跡を交換して勝ノ浦となっていたため、停年後もしばらく勝ノ浦の名跡を所有していた{{Refnest|group="注釈"|事実、勝ノ浦の名跡を北勝鬨に売却するまでは藤ノ川が管理していた}}。
[[2002年]](平成14年)から[[日本相撲協会]]理事に選出され、総合企画部長としてファンサービス企画の総責任を負っていたが、[[2007年]](平成19年)に[[八百長]]疑惑や横綱[[朝青龍明徳|朝青龍]]問題、[[時津風部屋力士暴行死事件]]など空前の難問が一挙に噴出するという難局に見舞われ[[北の湖敏満|北の湖]]理事長の参謀として窮地に立たされた。この問題で記者会見等で北の湖に代わり報道陣に対し協会としてのコメントを発表する場面が度々見られた。[[2010年]](平成22年)1月の任期満了をもって理事を退任した。同年2月から[[2011年]](平成23年)1月まで[[相撲博物館]]館長代行。
 
[[2018年]](平成30年)3月26日、日本相撲協会の評議員に就任<ref>{{Cite news |title=現職7人と新任3人 10人の親方を理事に選任 |newspaper=毎日新聞 |date=2018-03-26 |url=https://mainichi.jp/articles/20180327/k00/00m/050/119000c |accessdate=2018-03-26}}</ref>。
停年を前に下の名前を「裕己茂」から初代伊勢ノ海親方、中断を挟んで7代目から10代目に当たる先代の伊勢ノ海親方が引退後、数年間名乗っていた「五太夫」に改名。親方の話では字画の関係で番付表記は「伊勢ノ海、五太夫」と間に「、」が入るという。
 
== 敢闘精神評価アンケート ==
[[2011年]](平成23年)9月25日(9月場所千秋楽)停年により日本相撲協会を退職。伊勢ノ海部屋は弟子の[[北勝鬨準人|北勝鬨]]の[[勝ノ浦]]親方が12代伊勢ノ海の名跡と同時に継承した。なお、この日のみ12代伊勢ノ海と名跡を交換して勝ノ浦となっていたため、現在も勝ノ浦の名跡を所有している(実際、北勝鬨に売却するまでは藤ノ川が管理していた)。
大相撲八百長問題の再発防止策を検討する「大相撲新生委員会」が2011年3月9日に両国国技館で第1回の会合を開いた際、敢闘精神評価アンケートの原型とも言うべき案が議論された。当初の案としては、土俵下の「たまり席」を利用する300人の維持員に対しマークシート方式のアンケート用紙を配布し、敢闘精神あふれる相撲には5点満点、逆に無気力相撲と言われても仕方ない内容には1点、という具合に5段階の点数を付けてもらい、その点数を集計して発表するというものであった。実際に2011年9月場所から伊勢ノ海が導入したものは1000人の来場者にアンケート用紙を配り、十両以上の力士を対象として見ごたえのある取組に1点から4点までのポイントを付けてもらう方式である。2012年3月場所からは携帯電話での投票方法に変更され、それ以来アンケート用紙の代わりにQRコードつきの投票方法案内書が配布されるようになった。同時にアンケート対象者は来場者だけでなく、日本相撲協会公式携帯サイト「大相撲」の有料会員も加えられることになった。<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/03/10/kiji/K20110310000397810.html “砂かぶり”から300人が八百長監視!? ] Sponichi Annex 2011年3月10日 06:00 </ref><ref>[http://www.tfm.co.jp/trend/index.php?itemid=44289&catid=1110 『敢闘精神にあふれる力士』評価ランキング] リポビタンD TREND EYES (2011/9/26)</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20120310-915224.html 「敢闘精神」投票方式がケータイに変更] nikkansports.com 2012年3月10日8時30分 紙面から</ref>現在本場所中はその日ごとに敢闘精神評価アンケートのポイントを集計し、幕内・十両部門それぞれにおけるポイント上位3力士が日本相撲協会の公式サイトで発表され、場所後には得票上位力士の票数が雑誌『相撲』に掲載される形となっている。
 
== 主な成績 ==
20 ⟶ 57行目:
* 幕内在位: 31場所
* 三役在位:7場所(関脇2場所、小結5場所)
* 三賞:7回<ref name="catalog"/>
* 優勝同点:1回
* 三賞:7回
**殊勲賞:1回 (1967年3月場所)
**敢闘賞:2回 (1968年5月場所、1969年7月場所)
80 ⟶ 116行目:
{{Sumo record year start|1967}}
{{Basho|m|6|e|8|7}}
{{Basho|m|4|e|12|3|||T|O|T|*}}
{{Basho|s||w|7|8}}
{{Basho|hk||w|2|13}}
98 ⟶ 134行目:
{{Basho|k||w|8|7|||T}}
{{Basho|k||w|3|12}}
{{Basho|m|5|e|12|3<ref>{{Refnest|group="注釈"|[[清國勝雄|清國]]と優勝決定戦</ref>}}|||T|F|T}}
{{Basho|k||w|5|10}}
{{Basho|m|2|w|5|10|||*}}
114 ⟶ 150行目:
{{Basho|k||e|5|10}}
{{Basho|m|2|e|3|12}}
{{Basho|m|9|w|3|4|8<ref>{{Refnest|group="注釈"|左腓骨骨折により7日目から途中休場</ref>}}|||F|T}}
{{Basho|J|3|w|4|4|7}}
{{Basho|J|7|w|6|9}}
123 ⟶ 159行目:
{{Basho|J|1|w|10|5}}
{{Basho|m|11|e|8|7}}
{{Basho|m|10|e|2|5|8<ref>{{Refnest|group="注釈"|右足外踝部挫傷により7日目から途中休場</ref>}}|||F|T}}
{{Basho|INTAI|rank=J|r-no=6|tozai=e}}
{{Sumo record year end}}
{{Sumo record box end}}
=== 幕内対戦成績 ===
 
{|class="wikitable"style="text-align:center,"
|-
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数
|-
|[[青ノ里盛|青ノ里]]||3||3
|[[朝岡勲|朝岡]]||0||1
|[[浅瀬川剛也|浅瀬川]]||3||1
|[[朝登俊光|朝登]]||3||1
|-
|[[旭國武雄|旭國]]||1||1
|[[追風山裕邦|追風山]]||0||1
|[[扇山民雄|扇山]]||2||0
|[[大位山勝蔵|大位山]]||1||0
|-
|[[魁傑將晃|魁傑]]||0||1
|[[魁罡功|魁罡]]||1||1
|[[海乃山勇|海乃山]]||3(1)||6
|[[開隆山照壽|開隆山]]||0||2
|-
|[[和晃敏朗|和晃]]||0||1
|[[北瀬海孝之|北瀬海]]||1||0
|[[北の湖敏満|北の湖]]||0||1
|[[北の花勝利|北の花]]||1||1
|-
|[[北の富士勝晃|北の富士]]||3||16
|[[清國勝雄|清國]]||3||17*
|[[黒姫山秀男|黒姫山]]||4||2
|[[高鉄山豊也|高鉄山]]||10||5(1)
|-
|[[琴櫻傑將|琴櫻]]||9||11
|[[金剛正裕|金剛]]||1||0
|[[佐田の山晋松|佐田の山]]||1||3
|[[錦洋幸治|錦洋]]||2||1
|-
|[[大麒麟將能|大麒麟]]||8||14
|[[大豪久照|大豪]]||1||0
|[[大受久晃|大受]]||0||2
|[[大心昇|大心]]||1||0
|-
|[[大雪芳男|大雪]]||1||0 
|[[大鵬幸喜|大鵬]]||1||16
|[[大文字研二|大文字]]||0||1
|[[大雄辰實|大雄]]||3||4
|-
|[[大竜川一男|大竜川]]||1||2
|[[貴ノ花満|貴ノ花]]||2||4
|[[高見山大五郎|高見山]]||5||5
|[[玉の海正洋|玉の海]]||2||17
|-
|[[鶴ヶ嶺昭男|鶴ヶ嶺]]||1||0
|[[時葉山敏夫|時葉山]]||9||3
|[[栃東知頼|栃東]]||8||3
|[[栃勇義治|栃勇]]||0||1
|-
|[[栃王山裕規|栃王山]]||4||2
|[[栃富士勝健|栃富士]]||2||0
|[[豊國範|豊國]]||4||0
|[[羽黒岩智一|羽黒岩]]||4||6
|-
|[[長谷川勝敏|長谷川]]||9||6
|[[花光節夫|花光]]||4||3
|[[廣川泰三|廣川]]||3||0
|[[福の花孝一|福の花]]||3||7
|-
|[[富士錦章|富士錦]]||7||0
|[[二子岳武|二子岳]]||5||3
|[[双津竜順一|双津竜]]||0||1
|[[前の山太郎|前の山]]||6||14
|-
|[[牧本英輔|牧本]]||0||1
|[[増位山昇吾|増位山]]||0||1
|[[三重ノ海五郎|三重ノ海]]||2||3
|[[禊鳳英二|禊鳳]]||2||2
|-
|[[明武谷保彦|明武谷]]||2||4
|[[陸奥嵐幸雄|陸奥嵐]]||9||8(1)
|[[豊山勝男|豊山]]||5(1)||3
|[[吉王山修|吉王山]]||1||0
|-
|[[義ノ花將城|義ノ花]]||3||5
|[[琉王優貴|琉王]]||2||1
|[[龍虎勢朋|龍虎]]||6||6
|[[若杉山豊一|若杉山]]||1||0
|-
|[[若秩父高明|若秩父]]||2||0
|[[若天龍祐三|若天龍]]||2||0
|[[若浪順|若浪]]||10||5
|[[若鳴門清海|若鳴門]]||1||0
|-
|[[若ノ海正照|若ノ海]]||1||0
|[[若乃洲敏弥|若乃洲]]||0||2
|[[若二瀬唯之|若二瀬]]||5||6
|[[若見山幸平|若見山]]||5||1
|-
|[[若吉葉重幸|若吉葉]]||2||1
|||||
|}
{{注|※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。}}
*他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]で清國に1敗がある。
 
== 改名歴 ==
135 ⟶ 270行目:
 
== 年寄名歴 ==
* 立川 大祐豪人(たてかわ だいす)1973と)1972111月-197619721112
* 立川 大祐(たてかわ だいすけ)1972年12月-1976年11月
* 立川 裕己茂(たてかわ ゆきしげ)1976年11月-1982年12月
* 伊勢ノ海 裕己茂(いせのうみ ゆきしげ)1982年12月-2010年11月
* 伊勢ノ海 五太夫(いせのうみ ごだゆう)2010年11月-2011年9月
* 勝ノ浦 武雄(かつのうら たけお)2011年9月(定年退職)
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 関連項目 ==
149 ⟶ 287行目:
* [[関脇一覧]]
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:ふしのかわ たけお}}
[[Category:北海道出身の大相撲力士]]
[[Category:伊勢ノ海部屋]]
[[Category:日本相撲協会の役員]]
[[Category:拓殖大学第一高等学校出身の人物]]
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:1946年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:日本相撲協会の役員]]