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'''藤ノ川 武雄'''︵ふじのかわ たけお == 来歴 ==
[[拓殖大学]]に在籍していた次兄︵のち[[警視庁]][[柔道]][[師範]]の[[森田祥業]]<ref>﹁時代の証言者 藤ノ川豪人5﹂読売新聞2022年1月17日付朝刊</ref>︶から話を聞いた伊勢ノ海親方のスカウトを受けて上京し、東京の[[墨田区立両国中学校]]在籍中の[[1961年]]︵昭和36年︶5月場所、伊勢ノ海部屋より[[初土俵]]。[[前相撲]]では一番出世で、さらに[[1962年]]︵昭和37年︶1月場所では史上初の中学在籍中に[[三段目]]昇進を果たした<ref name="yomi8">﹁時代の証言者 藤ノ川豪人8﹂読売新聞2022年1月20日付朝刊</ref>。両親の意向を師匠も汲んで中学卒業後に拓大一高へ進学し、高校時代は拓大相撲部でも稽古を積んだ<ref name="yomi8"/>。幕下下位にいた頃に﹁小柄だから相撲は無理だ。高卒後は拓大へ入れてやる。﹂と次兄から打診されたことで学業を選び相撲を辞めることも考えたが、帰郷した際に[[引退#大相撲|廃業]]を申し出ると母が泣き出したため思いとどまった<ref name="yomi9">﹁時代の証言者 藤ノ川豪人9﹂読売新聞2022年1月21日付朝刊</ref>。結果として、高校は出席日数が足りずに1年留年したものの卒業を果たし、さらに[[1965年]]︵昭和40年︶11月場所では幕下7枚目で全勝優勝を果たし高校在籍中に新十両を決めた<ref name="ref1"></ref><ref name="ref2"></ref><ref name="yomi9"/>。[[1966年]]︵昭和41年︶1月場所新[[十両]]、同年11月場所に[[戦後]]生まれの力士として初の[[入幕|新入幕]]を果たした。入幕3場所目で同門の[[大関]]・[[豊山勝男|豊山]]、[[横綱]]・[[佐田の山晋松|佐田の山]]を下した星などで12勝3敗の好成績をあげ[[三賞|殊勲・技能賞]]をダブル受賞、翌場所入幕4場所目にして[[関脇]]に昇進<ref name="catalog"/><ref name="fujinokawa">﹃[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|大相撲ジャーナル]]﹄2017年6月号108-109頁 </ref>。以後横綱[[柏戸剛]]の弟弟子でもあり﹁今[[源義経|牛若]]﹂﹁ちびっ子ギャング﹂などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマート<ref name="ref1">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35069720V20C11A9000000/ 角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く] 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 </ref>な体型や渋い容姿から人気を博し、[[三賞]]も7回受賞する活躍をした。一方で恥ずかしがり屋でも知られ、﹁土俵は別だけど大勢の人の前に出るのは嫌。マゲをつけてジロジロ見られるのが嫌﹂などと語るような人物であったため土俵外の話題には乏しかった<ref name="ref6"></ref>。ちなみに[[大鵬幸喜|大鵬]]の45連勝目の相手︵[[1969年]]︵昭和44年︶3月場所初日︶でもある。当初はただ頭からぶつかるように指導されたことで新三役の時期まで本人が﹁右の耳がわいている︵耳がこすれて変形すること︶のを見ればわかるように、私は典型的な右四つ、右差し﹂と認識する相撲ぶりに徹していたが、稽古場で頸椎を痛めてしまったことで自信があった握力が神経の圧迫で失われてしまい、以降は動き回る相撲に変わっていった<ref name="ref2">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35069720V20C11A9000000/?df=2 角界の伝統、どう次代に…定年の伊勢ノ海親方に聞く] 日本経済新聞 2011/9/27 7:00 </ref>。 49行目:
== 敢闘精神評価アンケート ==
大相撲八百長問題の再発防止策を検討する﹁大相撲新生委員会﹂が2011年3月9日に両国国技館で第1回の会合を開いた際、敢闘精神評価アンケートの原型とも言うべき案が議論された。当初の案としては、土俵下の﹁たまり席﹂を利用する300人の維持員に対しマークシート方式のアンケート用紙を配布し、敢闘精神あふれる相撲には5点満点、逆に無気力相撲と言われても仕方ない内容には1点、という具合に5段階の点数を付けてもらい、その点数を集計して発表するというものであった。実際に2011年9月場所から伊勢ノ海が導入したものは1000人の来場者にアンケート用紙を配り、十両以上の力士を対象として見ごたえのある取組に1点から4点までのポイントを付けてもらう方式である。2012年3月場所からは携帯電話での投票方法に変更され、それ以来アンケート用紙の代わりにQRコードつきの投票方法案内書が配布されるようになった。同時にアンケート対象者は来場者だけでなく、日本相撲協会公式携帯サイト﹁大相撲﹂の有料会員も加えられることになった。<ref>[ == 主な成績 ==
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{{Sumo record year end}}
{{Sumo record box end}}
=== 幕内対戦成績 ===
{|class="wikitable"style="text-align:center,"
|-
!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数!!力士名!!勝数!!負数
|-
|[[青ノ里盛|青ノ里]]||3||3
|[[朝岡勲|朝岡]]||0||1
|[[浅瀬川剛也|浅瀬川]]||3||1
|[[朝登俊光|朝登]]||3||1
|-
|[[旭國武雄|旭國]]||1||1
|[[追風山裕邦|追風山]]||0||1
|[[扇山民雄|扇山]]||2||0
|[[大位山勝蔵|大位山]]||1||0
|-
|[[魁傑將晃|魁傑]]||0||1
|[[魁罡功|魁罡]]||1||1
|[[海乃山勇|海乃山]]||3(1)||6
|[[開隆山照壽|開隆山]]||0||2
|-
|[[和晃敏朗|和晃]]||0||1
|[[北瀬海孝之|北瀬海]]||1||0
|[[北の湖敏満|北の湖]]||0||1
|[[北の花勝利|北の花]]||1||1
|-
|[[北の富士勝晃|北の富士]]||3||16
|[[清國勝雄|清國]]||3||17*
|[[黒姫山秀男|黒姫山]]||4||2
|[[高鉄山豊也|高鉄山]]||10||5(1)
|-
|[[琴櫻傑將|琴櫻]]||9||11
|[[金剛正裕|金剛]]||1||0
|[[佐田の山晋松|佐田の山]]||1||3
|[[錦洋幸治|錦洋]]||2||1
|-
|[[大麒麟將能|大麒麟]]||8||14
|[[大豪久照|大豪]]||1||0
|[[大受久晃|大受]]||0||2
|[[大心昇|大心]]||1||0
|-
|[[大雪芳男|大雪]]||1||0
|[[大鵬幸喜|大鵬]]||1||16
|[[大文字研二|大文字]]||0||1
|[[大雄辰實|大雄]]||3||4
|-
|[[大竜川一男|大竜川]]||1||2
|[[貴ノ花満|貴ノ花]]||2||4
|[[高見山大五郎|高見山]]||5||5
|[[玉の海正洋|玉の海]]||2||17
|-
|[[鶴ヶ嶺昭男|鶴ヶ嶺]]||1||0
|[[時葉山敏夫|時葉山]]||9||3
|[[栃東知頼|栃東]]||8||3
|[[栃勇義治|栃勇]]||0||1
|-
|[[栃王山裕規|栃王山]]||4||2
|[[栃富士勝健|栃富士]]||2||0
|[[豊國範|豊國]]||4||0
|[[羽黒岩智一|羽黒岩]]||4||6
|-
|[[長谷川勝敏|長谷川]]||9||6
|[[花光節夫|花光]]||4||3
|[[廣川泰三|廣川]]||3||0
|[[福の花孝一|福の花]]||3||7
|-
|[[富士錦章|富士錦]]||7||0
|[[二子岳武|二子岳]]||5||3
|[[双津竜順一|双津竜]]||0||1
|[[前の山太郎|前の山]]||6||14
|-
|[[牧本英輔|牧本]]||0||1
|[[増位山昇吾|増位山]]||0||1
|[[三重ノ海五郎|三重ノ海]]||2||3
|[[禊鳳英二|禊鳳]]||2||2
|-
|[[明武谷保彦|明武谷]]||2||4
|[[陸奥嵐幸雄|陸奥嵐]]||9||8(1)
|[[豊山勝男|豊山]]||5(1)||3
|[[吉王山修|吉王山]]||1||0
|-
|[[義ノ花將城|義ノ花]]||3||5
|[[琉王優貴|琉王]]||2||1
|[[龍虎勢朋|龍虎]]||6||6
|[[若杉山豊一|若杉山]]||1||0
|-
|[[若秩父高明|若秩父]]||2||0
|[[若天龍祐三|若天龍]]||2||0
|[[若浪順|若浪]]||10||5
|[[若鳴門清海|若鳴門]]||1||0
|-
|[[若ノ海正照|若ノ海]]||1||0
|[[若乃洲敏弥|若乃洲]]||0||2
|[[若二瀬唯之|若二瀬]]||5||6
|[[若見山幸平|若見山]]||5||1
|-
|[[若吉葉重幸|若吉葉]]||2||1
|||||
|}
{{注|※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。}}
*他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]で清國に1敗がある。
== 改名歴 ==
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