ヒコ
古代の男子首長や貴族
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3 - 6世紀にかけて地域の男性首長や貴族の尊称として使われた[1]。魏志倭人伝に3世紀の対馬国および壱岐国の首長として卑狗︵ヒコ︶が見える[2]。垂仁天皇紀二年条に旧伊都国の首長・﹁イトツヒコ︵伊都都比古︶﹂が見える。他に伊賀彦、伊勢津彦、磐城彦、宇佐津彦命、長髄彦など地名をおったヒコがしばしば見られるが、それぞれの地域の男子首長と考えられる。同じく首長の称号として3世紀から4世紀にかけて使われたネやミミおよびミと並立しているが、天孫・天神系の英雄にはヒコ、地祇系の英雄にはネが多く使われている。ヒコの方はカバネ制度が確立した後の6世紀まで使われた。ただし、地方の首長ばかりでなく、身分の高い男子を表す尊称となった。こうした使い方は崇神天皇時代以降に現れる、仲彦、弟彦、清彦などである。
ヒメヒコ制
編集ヒコ神社
編集脚注
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(一)^ 溝口睦子﹁記紀神話解釈の一つのこころみ﹂﹃文学﹄1973-4年、太田亮﹃日本上代における社会組織の研究﹄443ページ、1921年
(二)^ ヒコは﹁ヒク﹂︵卑狗︶や﹁ヒキ﹂︵比垝、比跪︶と呼ばれたが、のちに﹁ヒコ﹂︵比古︶に転じたと思われる。大彦︵オオヒコ︶は稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に﹁意富比垝︵オオヒキ︶﹂と記され、 千熊長彦︵チクマナガヒコ︶は百済記に﹁職麻那那加比跪︵シマナナカヒキ︶ ﹂と記されている。
(三)^ 高群逸枝﹃母系制の研究﹄359ページ
(四)^ マックス・ウェーバー﹁支配の社会学﹂
(五)^ 後世でも徳川家康の東照宮、乃木希典の乃木神社、東郷平八郎の東郷神社などが知られている。