祓
神道の宗教行為
(修祓から転送)
位置づけ
編集目的
編集祓所(はらえど)
編集大祓
編集詳細は「大祓」を参照
お祓い箱
編集歴史
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本来、神事における浄化の儀式としては、禊︵みそぎ︶と祓とがあり、禊が身体の穢れを除去して浄める行為を指すのに対し、祓は罪や災いをとり除く行為を指していた[1]。だが、両者は機能が近いこともあり、記紀の時代には既に、﹁ミツギハライ﹂と複合した言い方もされるようになっていた[1]。
法制史の世界においても、本来の祓には穢れを除去する要素は含まれておらず、天津罪・国津罪などを犯した者が財物を献上することで神に祈謝・贖罪を行う一種の財産刑であったとする見方がある。実際に中世の神社関係の文書では穢れの存在を理由として祓が一定期間延期・中止されたとする記述が確認され、祓は穢を除去するものではなく、反対に穢を忌避するものと認識されていたことが知られている[3]。
祓は、最も古い文献においては、記紀の須佐之男命を描く部分に登場する[1]。須佐之男命が高天原で暴れたことを恐れた天照大御神が天岩戸に隠れてしまった際、須佐之男命は、その罪︵大祓にある天津罪・国津罪︶について、多くの贖いを科され、髭と手足の爪を切られ、高天原から追放されてしまう[1]。﹃日本書紀﹄では、この贖いを﹁解除︵はらえ︶﹂としている[1]。
これより前には、伊弉諾が死んだ伊奘冉に再会しに行った黄泉から帰ってきた後に、禊を行った。
律令国家成立以後は、大祓が国家儀式として行われるようになった。﹃古事記﹄仲哀天皇の段では、天皇の崩御により国の大祓を、﹃日本書紀﹄では天武天皇のころに諸国の大祓を、それぞれ行った記載がある[1]。大祓は中世に入ってから断絶したが、1871年︵明治4年︶に再興され、現在は、全国の諸社のほか、宮中や伊勢神宮でも行われるようになり、非常に重要な神事と認識されるようになった[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 『神道行法の本―日本の霊統を貫く神祇奉祭の秘事』学研(原著2005-2-25)。ISBN 9784056037753。