大道筋
(甲斐町西1丁付近)
大道筋(だいどうすじ)は、大阪府堺市堺区の中心市街地を南北に縦断する道路。
概要
編集歴史
編集(市之町東1丁付近)
(九間町東1丁付近)
大坂の陣で灰燼に帰した後に実施された元和の町割によって、住吉・大坂に通じる道路かつ堺市街地における南北方向︵縦筋︶の基幹道路として整備され、東西方向︵横筋︶の基幹道路である﹁大小路﹂に対して﹁大道﹂と呼ばれたことに由来する。当時の道幅は4.5間で、土居川と呼ばれる環濠を渡る南北端にはそれぞれ﹁南之橋﹂﹁北之橋﹂が架けられ、高札場が設置されていた。大阪湾の海岸線に合わせる必要もあって、町割の当初から綾之町と錦之町の境界︵現・綾之町交差点︶で南から南西方向へ屈折している。元禄年間には紀州街道の一部区間となり、文政年間には環濠外となる大和橋 - 北之橋間も並松町として堺市街地に組み込まれた。
1872年︵明治5年︶には環濠内の市街地の町名が大道筋沿いの町名に統合され、東西ともに大道筋と同じ表筋沿いの両側町として﹁○○町東1丁﹂﹁○○町西1丁﹂といった具合に、大道筋に近いほうから1丁・2丁・・・となった[3]。なお、大道筋沿いは以前と同じ町名・町域で、東西の別も丁界もなかった。
1945年︵昭和20年︶の堺大空襲で焼け野原となった後、戦災復興事業によって縦筋・横筋ともに防災に主眼を置いた幅員50mの大通りが計画され、縦筋では従来からの基幹道路である大道筋を拡幅することになった。その際、空襲による焼失を免れた綾之町以北は用地買収が困難で、拡幅区間は綾之町交差点以南に留まった。
また、環濠内は南北に細長い短冊形の街区であるため、大道筋と隣の筋を合わせる、すなわち2本の道路とその間の街区を束ねて1本の道路にする方法が取られることになった。その際、大道筋の東側は宿屋町以北において空襲による焼失を免れていたため、全焼状態にあった西側の街区を用地買収し、大道筋と西隣の西六間筋を合わせる形で拡幅された。大道筋︵4.5間︶、大道筋 - 西六間筋間の街区︵21間︶、西六間筋︵2間︶を合わせて27.5間、約50m幅の大通りが誕生し、1957年︵昭和32年︶に阪堺線の大通り中央への移設が完了して、ほぼ現在の姿となった。
以降、大道筋という名称は綾之町交差点以南の大通り区間を指すことが多いが、同交差点以北の旧来の4.5間幅区間︵堺市道並松綾之西1号線︶も大道筋であることに変わりはない。また、同交差点では、拡幅された大道筋が旧来の大道筋と西六間筋の2本の道路を使用していることがよく見て取れる。
1959年︵昭和34年︶には錦之町以南において、1969年︵昭和44年︶には綾之町以北において、それまでの両側町の丁界から道路を境界とする丁界に変更され[4]、江戸時代から続いた大道筋沿いの町も大道筋を境に東西に分かれるようになった。
1989年︵平成元年︶に市制100周年記念事業の一環として、綾之町交差点以南の大通り区間に大道筋の道路愛称が堺市から与えられた。
交差する主な道路
編集- 大阪府道187号大堀堺線(綾之町交差点)
- 大阪府道12号堺大和高田線
- 大小路筋(堺市道大小路線)(大小路(堺警察署前)交差点)
- フェニックス通り(国道26号・大阪府道2号大阪中央環状線)(宿院交差点)
- 御陵通り(堺市道出島海岸通西湊1号線)(御陵前交差点) - 御陵前交差点以東は大阪府道197号深井畑山宿院線が御陵通りとなる。
周辺の名所
編集参考文献
編集脚注
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(一)^ 小学館 日本国語大辞典 第二版 第八巻 2001-8-10
(二)^ 福井敏隆﹁<史料紹介>慶安二年八月五日成立の﹁大道筋︵奥州之内南部領海陸道規帳︶﹂︵岩手県立図書館蔵︶﹂﹃弘前大学國史研究﹄第78号、弘前大学國史研究会、1985年3月、41-61頁、CRID 1050282677526875904、hdl:10129/2996、ISSN 0287-4318。
(三)^ ただし、北端の北半町は、北半町と北半町西1丁だけで北半町東はなし。
(四)^ ただし、北端の北半町東と北半町西は丁界なし。