天守
概略
編集表記と呼称
編集機能
編集- 城内を見渡せる
- 城外を見晴らせる
- 遠方を見望できる
- 城内の武士の配置の自由
- 城内に気を配れる
- 守りの際の下知の自由
- 敵の侵攻を見渡せる
- 飛び道具への防御の自由
- 非常の際に戦法を自在にできる
- 城の象徴
歴史
編集起源
編集発展
編集衰退
編集明治以降
編集明治維新の後は、城郭や陣屋にあった建物は天守も、民間によってあるいは、軍事施設・土地としての接収によってほとんどは払い下げ、破却されたが、中には市民運動や公人・軍関係者などの保存の働きかけなどによって保存された天守がある。保存される経緯に、城主がそのまま所有者となったため保存されることになった犬山城天守や、民間(個人)では解体工事にかかる費用が払えないという理由で残ったといわれる姫路城の建造物群のような事例は稀である。そのように保存された天守は、沖縄の首里城正殿(天守ではない)を含んでも21城だけであった。
その後、西南戦争などの内乱や太平洋戦争末期には日本本土空襲や沖縄戦によって首里城を含む8城が焼失又は倒壊し、戦後に松前城天守が失火により焼失して、現在は12城の天守が残る。太平洋戦争などで焼失した旧国宝の天守をコンクリート造りなどによって外観復元する事業が戦後活発に行われ、現在でも各地で天守などを当時の工法によって城跡を旧状に復興・復元しようとする運動がある。
平面構成
編集独立式
編集複合式
編集連結式
編集連立式
編集その他
編集形式
編集望楼型
編集望楼型は、入母屋造りの櫓上に小型の望楼を載せたような形式である。おもに、入母屋造の平櫓の上に望楼を載せたようなものや、入母屋造の重箱櫓に望楼を載せたような形のものがある。入母屋造の櫓の上に望楼を別構造で載せているので、初重平面が歪んでいても、上重の矩形は整えることができる。基部の屋根に「入母屋破風」が必ずできるので、堂々としたデザインとなる。
特にこの望楼型は、初期望楼と後期望楼に分けられることがある。
初期望楼型
編集後期望楼型
編集関ヶ原の戦い以降に造られた姫路城天守のような、屋根の逓減率が小さくなり、望楼部分の物見の要素が減少したものを後期望楼型という。
層塔型
編集外観上の分類
編集構造上の望楼型と層塔型以外にも、外観上では、多彩に分けられている。ただし、このような分類は特に定められたものではなく、研究者や学者によっては、特殊な呼び方をする場合もある。
復古型
編集復古型は、外観を旧観・旧式のものに近づけた天守のこと。江戸中期から後期に幕府の許可を得て再建された天守である。江戸中期頃には層塔型が主流となっていたが、構造は望楼型のもの層塔型のものどちらも存在する。中でも高知城は焼失以前の望楼型天守を忠実に復興し再建したといわれているものであり、また、松山城大天守は、江戸時代以前の軍事施設として最後に再建された層塔型天守である。
など
構造が確認できる現存天守
- 高知城天守
- 松山城大天守
張出・跳出造
編集構造
編集階層
編集特徴
編集階層の数え方
編集外壁
編集屋根
編集屋根材
編集破風
編集妻壁・破風板などを含む屋根の意匠のことを破風(はふ、はふう)という。装飾性が高くまた、内部に造られた小部屋(破風部屋)は防御・攻撃上でも重要な構造ともなる。
鯱
編集井戸
編集便所
編集姫路城天守には便所が設けられた[8]。
天守を欠く城
編集御三階櫓と天守代用
編集明治以降の天守
編集明治以降の城の、天守の扱いについては歴史 - 明治以降に前述したとおりである。天守の一覧も参照。
現存天守
編集近・現代の天守建設
編集復元天守(復原天守)
編集木造復元天守
編集外観復元天守
編集復興天守
編集模擬天守
編集天守閣風建築物
編集城自体が実在しなかった例
編集城は実在したが場所や意匠が史実を無視している例
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 日本のお城- 現存天守12城
- 城と城下町めぐりのススメ/現存天守閣のある12城
- 発見!ニッポン城めぐり
- あやしい城 模擬天守や天守閣風建築物の紹介