摂津 (標的艦)
大日本帝国海軍の戦艦
摂津︵せっつ︶は、日本海軍の戦艦[6][7]。日本海軍の法令上は旧字体の攝津であり[6][8]、旧字体を用いる文献・資料もあるが[9]、本項目では摂津とする。本艦は大正天皇と貞明皇后、双方の御召艦になったことがある[10]。
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艦歴 | |
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計画 | 明治40年度補充艦艇費[1] |
発注 | 1907年 |
建造 | 呉海軍工廠 |
起工 | 1909年1月18日 |
進水 | 1911年3月30日 |
竣工 | 1912年7月1日 |
最後 | 1945年7月24日擱座 |
除籍 | 1945年11月20日 |
要目 | |
排水量 | 基準:21,443 t 標的艦時:20,650t |
全長 | 160.6m |
全幅 | 25.6 m |
吃水 | 8.5 m |
機関 | 宮原式石炭・重油混焼水管缶16基 +ブラウン・カーチス式直結タービン2基2軸推進 |
出力 | 25,000hp |
速力 | 20ノット(37 km/h) 17.4ノット(標的艦時) |
燃料 | 石炭:2,300トン 重油:400トン |
乗員 | 986名 |
兵装 | アームストロング 1905年型 30.5cm(50口径)連装砲2基4門 アームストロング 1904年型 30.5cm(45口径)連装砲4基8門 エルジック 1908年型 15.2cm(45口径)単装速射砲10基10門 エルジック 1908年型 12cm(40口径)単装速射砲8基8門 エルジック 1894年型 7.6cm(40口径)単装速射砲8基8門 45cm魚雷発射管5門 |
装甲 | 戦艦時 舷側:12in(304.8mm)-4in(101.6mm)[2] 甲板:1.2in(30.5mm)[2] 砲塔:11in(279.4mm)[2] 司令塔:10in(254mm)[2] |
信号符字 | GQHN(竣工時)[3] JWWD(1933年~)[4] JFDQ(1941年~)[5] |
概要・艦歴
編集艦型
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河内型戦艦︵摂津、河内︶は、日本海軍最初の弩級戦艦である[16][注1]。河内と摂津の外観上の相違点は艦首部で[18]、河内は垂直型、摂津はクリッパー型であった[19]。
河内型戦艦は、30cm連装砲塔6基12門を装備する[20][21]。
主砲の配置は亀甲型であり、右もしくは左舷に主砲を撃つとき反対舷の主砲が使用できなかった[22]︵片舷へ主砲8門発射可能︶[注2]。
そのうえ前後の砲2基が50口径、中央舷側の4基が45口径と、射撃指揮に問題がでるものであった[24]。同時の軍令部長東郷平八郎元帥が﹁前後の砲はより強化すべし﹂と主張したためであった[25]。実際の運用では12インチ50口径砲に減装薬を使用することで、性能を12インチ45口径砲に統一していた[26]。また日本海軍は次世代戦艦にひきつづき50口径12インチ砲を搭載する予定だったが、イギリス滞在中の加藤寛治中佐が12インチ50口径砲の欠陥と13.5インチ口径砲新開発の情報を掴み、緊急報告をおこなう[27]。この情報をもとに日本海軍は12インチ50口径砲を搭載予定だった扶桑型戦艦と金剛型巡洋戦艦の設計を変更し、14インチ45口径砲を搭載することになった︵当初の秘匿名称は43式12インチ砲︶[28]。
「戦艦」摂津
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1909年︵明治42年︶1月18日、摂津は呉工廠で起工した[10][29]。
同年2月12日、日本海軍は横須賀海軍工廠の伊号戦艦を﹁河内﹂、呉海軍工廠の呂号戦艦を﹁摂津﹂と呼称することを内定する[30]。
1911年︵明治44年︶3月30日、摂津は進水した[29][31]。明治天皇皇太子︵のち大正天皇︶は戦艦﹁鹿島﹂[32][注3]︵供奉艦﹁薩摩﹂︶に乗艦して呉軍港に到着[34]、摂津進水式に臨席した[35][注4]。
同日附で呂号戦艦は制式に攝津と命名される[6]。戦艦に類別された[7][36]。
1912年︵明治45年︶7月1日、摂津は竣工した[10][29]。竣工時、摂津国一宮の住吉大社より、同神社の約1/40模型が﹁摂津﹂に寄贈された[37]。
1914年︵大正3年︶3月下旬、大正天皇皇太子︵当時13歳の裕仁親王。のち昭和天皇︶および弟宮︵雍仁親王、宣仁親王︶は江田島に行啓することになった[38]。3月20日、三宮は御召艦﹁薩摩﹂に乗艦、﹁摂津﹂は先導艦、﹁石見﹂は供奉艦を務めた[注5][注6]。航海中の3月22日には軍艦3隻︵筑波、金剛、周防︶が合流し、御召艦以下と演習をおこなった[41]。
1918年︵大正7年︶7月12日、徳山湾には艦艇多数︵山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦︶が停泊していた[42][43]。この日の午後3時57分、姉妹艦﹁河内﹂が爆沈した[44][42]。
1919年︵大正8年︶10月下旬、横浜沖合で観艦式が行われ、同式典で﹁摂津﹂は大正天皇の御召艦となる[45][46]。10月23日午前、大正天皇は横浜港で摂津に乗艦、館山湾で仮泊する[注7]。10月24日、大正天皇︵御召艦摂津︶は海軍特別大演習を統裁するが[48]、戦艦﹁日向﹂で砲塔爆発事故、駆逐艦﹁浜風﹂で艦橋損傷事故が発生した[49][注8]。10月25日、大正天皇は横浜港で﹁摂津﹂を退艦、お召し列車で東京に戻った[50][51]。10月28日午前8時45分、大正天皇は横浜港に到着[注9]。御召艦﹁摂津﹂に乗艦した[52][53]。
式典にあたり、皇太子︵当時18歳。のち昭和天皇︶は戦艦﹁扶桑﹂から﹁摂津﹂に移乗し、天皇を出迎えた[54]。供奉艦は平戸・香取・筑摩・満州[55]。午後2時30分、﹁摂津﹂は横浜港に到着し、天皇・皇太子は退艦した[55][注10]。
「標的艦」摂津
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1921年︵大正10年︶11月からはじまったワシントン海軍軍縮会議当時、アメリカは日本海軍の長門型戦艦2番艦﹁陸奥﹂を未完艦とみなし︵会議中、日本側主張により既成艦と認める︶、日本が保有可能し得る主力艦に計上していなかった[57][58]。日本側は強く反発し[59]、﹁摂津﹂を犠牲にして﹁陸奥﹂を復活させる意向であった[60][61]。
1922年︵大正11年︶2月6日、各国はワシントン海軍軍縮条約締結に至る[62]。
日本海軍の保有主力艦︵戦艦︶は10隻であった。すなわち金剛型︵金剛、比叡、榛名、霧島︶、扶桑型︵扶桑、山城︶、伊勢型︵伊勢、日向︶、長門型︵長門、陸奥︶と定められ、﹁陸奥﹂の代艦として﹁摂津﹂は退役させられることとなった[63][64]。だが廃艦にする主力艦のうち1隻は標的艦に変更することが出来たため、日本側は﹁摂津﹂をあてた[63]。
同年3月、大正天皇皇后︵貞明皇后︶は香椎宮に参拝する[65]。﹁摂津﹂は皇后の御召艦となるが、これは艦内に余裕があったこと、関門海峡を通過しやすかったこと、先に﹁摂津﹂が大正天皇の御召艦になった事がある、などの観点から決められたという[66]。3月9日に葉山を出発した皇后は、19日以降香椎宮・筥崎宮・大宰府天満宮を参拝する[65]。23日、皇后は門司港から駆逐艦﹁萩﹂に乗艦、つづいて﹁摂津﹂に移乗した[65]。皇后は3月24日から26日にかけて、江田島の海軍兵学校に行幸する[65]。当時、兵学校︵校長鈴木貫太郎中将︶には高松宮宣仁親王︵大正天皇三男︶が生徒として在籍していた[67]。26日朝、皇后︵摂津︶は江田島を出発[68]、神戸港で退艦した[69]。
1923年︵大正12年︶10月1日、摂津は軍艦籍および艦艇類別等級表より除籍された[70][71][72]。標的艦︵特務艦︶に類別変更される[73][74]。
この類別変更にともない、主砲や装甲など戦闘艦としての装備を全廃した[10][64]。同時期、海岸要塞砲の整備計画をすすめていた日本陸軍は、日本海軍に要塞砲の製造を依頼していた[75]。陸海軍の調査と協議の結果、﹁保転砲﹂として数隻分の艦載砲を陸上要塞砲に転用することが決まる[75]。摂津の50口径12インチ連装砲2基︵前後砲︶は陸軍クレーン船﹁蜻州丸︵せいしゅうまる︶﹂によって長崎県対馬要塞まで運搬される[76]。同要塞の竜ノ崎砲台に設置され[77]、一号︵後部砲塔︶は1929年︵昭和4年︶に、二号︵前部砲塔︶は1935年︵昭和10年︶に完成した[78]。45口径12インチ砲連装砲4基︵舷側砲︶は予備品として分解保存された[79]。
なお、12センチ砲1門が福岡県の香椎宮に寄贈され、いまなお保存されている。
標的艦となった当初の﹁摂津﹂は、自身が標的となるのではなく標的となる目標を曳航するのが任務であった[64]。一例として、摂津は標的艦土佐︵加賀型戦艦2番艦︶を自沈地点まで曳航する任務にも従事した。標的艦となった﹁摂津﹂であったが、数年後には予備艦となり呉軍港で係留された[80]。
一方、日本海軍はドイツで戦艦の無線操縦に成功したとの情報を1921年に得て研究に着手[80]。1928年には電動機と電池を用いたシステムで駆逐艦﹁卯月﹂での実験に成功した[80]。
またアメリカ海軍は戦艦ユタを標的艦に改造し、ドイツ海軍の戦艦テューリンゲンも標的艦に改造されていた[81]。これらは無線操縦・無人航行が可能であったが、そのためにはボイラーの自動制御が必要であった[82]。日本海軍はドイツ海軍からボイラーの自動燃焼装置︵制御装置︶を輸入[82]。舞鶴海軍工廠で試作品をつくり、同工廠で建造中の初春型駆逐艦夕暮︵1934年5月6日進水、1935年3月30日竣工︶に装備して実験を重ねた[83]。完成品は呉海軍工廠に送られ、摂津に装備された[83]。
爆撃標的艦への改造
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1936年︵昭和11年︶に摂津の無線操縦爆撃標的艦への改造が決まり、呉海軍工廠において1937年︵昭和12年︶1月から約半年間をかけて改造がおこなわれた[84]。本格的な無人操縦装置を取り付ける[64]。すなわち駆逐艦矢風を操縦船とし[9]、10キロ演習用爆弾の高度4000メートルからの投下に耐えられるよう甲板・艦橋・煙突等の防御を強化した[64]。標的艦への改造にあたり、機関部に大きな変化があった。主機は直結式タービン2基2軸25,000馬力のままだが、宮原式混燃ボイラ16基の大部分を撤去する[85]。かわりに呂号艦本式重油専燃ボイラー4基を搭載、このうち2つに自動燃焼装置を装備した[85]。ボイラーの減少により、3本あった煙突のうち第2煙突を撤去した。残った2つのボイラーを換装し少しでも速力低下を防いだが、速力は20ノットから16ノットに低下した。﹁摂津﹂の遠隔操作命令は針路管制14種、速度管制8種、煙幕展開などその他15種の合計37種があった[80]。
1939年︵昭和14年︶11月15日、日本海軍は有事を想定した艦隊編制を実施する[86]。当時の軍令部は、翌年3月頃から摂津と矢風を連合艦隊に加える予定であった[87]。
1940年の改造
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その後1939年︵昭和14年︶から1940年︵昭和15年︶にかけて第二次改造工事を実施した[64]。重巡クラスの砲撃訓練、及び航空機の雷・爆撃訓練を航空機側のみならず操艦側の回避訓練にも使用可能なように、防御をさらに強化した[64]。軍縮条約によって取り外していた舷側装甲を復活する[64]。また航空攻撃に対応して、艦上部構造物や水平面の防御を強化した[64]。すなわち10キロ演習爆弾の高度6000メートルからの投下、30キロ演習爆弾の高度4000メートルからの投下、射距離22000メートルからの20センチ演習砲による砲撃、射距離5000メートルからの14センチ演習砲による砲撃などに耐えられるようにした[64]。回避操船訓練のため速力が求められるため、休止していた第2ボイラーを戦艦金剛の陸揚罐と換装する[64]。第2煙突を復活させ速力は17.4ノットに向上した。
艦橋安全区画からの着弾観測の妨げにならないよう、第一煙突の高さが短縮された[64]。
砲撃訓練時、乗組員は摂津より退艦する︵無人状態︶[64]。爆撃訓練時、乗組員は摂津防禦区画に退避して操艦する[64]。この訓練は、爆撃回避行動の訓練も兼ねた[64]。これらの改装により航空機部隊の練度や艦長の操艦技術向上に繋がり、戦果向上の一助となる。一例として、摂津艦長時代に航空攻撃回避術を研究、後の捷一号作戦で第四航空戦隊司令官として、激しい米軍機の攻撃から指揮下の﹁日向﹂﹁伊勢﹂を無事生還させた松田千秋が特に有名である。
なお摂津及び﹁矢風﹂を初めとする標的艦やそれに従事する艦には、煙突部分に算盤玉のようなキャップが装着された。これは砲弾や爆弾が開口部から進入し、機関を破壊するのを防止するための装甲化された覆いである。排煙はキャップと開口部の隙間から出るようになっていた。
その後
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1940年︵昭和15年︶5月1日、2隻︵摂津、矢風︶は連合艦隊に編入された[88]。同年10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式では、矢風と揃って第二列に配置された[89]。
1941年︵昭和16年︶12月8日の太平洋戦争開戦後も特に日本周辺から離れることはなく呉を母港として過ごした。
1944年︵昭和19年︶2月1日、城英一郎大佐は連合艦隊司令部附となり[90]、瀬戸内海西部の摂津で操艦の訓練を積んだ[91]。2月15日、城大佐は正式に空母千代田艦長に任命され、千代田に着任した[90][91]。
同年3月1日、摂津は第一航空艦隊附属となり、瀬戸内海で訓練に従事した[9]。
1945年︵昭和20年︶7月24日、摂津はアメリカ軍機による呉軍港空襲を受け大破する[9]。着底し、そのまま終戦を迎えた。1945年11月20日、除籍。
無人操縦装置の原理
編集各電信によって稼働するスイッチを持ち、発信する電波を、800・930・1100・1300ヘルツの4種類(それぞれ、W・X・Y・Zという符号が付いている)とし、その内の3種を組み合わせ(たとえば、ZWWと発信すれば右10度変針、YXZで前進14ノットなど)が一命令となる。信号の組み合わせは、最大64通りとなるが、うち37通りに実際の命令が割り当てられた。命令により速力や進路の変更が行なわれる。
ただし本艦の操縦は全て無人というわけではなく、艦船による砲撃訓練時のみが無人で、訓練海域までは艦橋にて操艦し、到着すると僚艦である駆逐艦矢風に全員移動しそこからコントロールされる。航空機の爆撃訓練の際は、艦内の安全防御区画で待機し、一般航行時や出入港時は乗員がそのまま乗り込み操艦した。
逸話
編集艦長
編集※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艦長
編集- 田中盛秀 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日 *兼呉海軍工廠艤装員(- 1912年7月1日)
- 山中柴吉 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 木村剛 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 永田泰次郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 川原袈裟太郎 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 本田親民 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 犬塚助次郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
- 内田虎三郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年6月10日
- 古川弘 大佐:1919年6月10日 - 1919年11月20日
- 今泉哲太郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年6月3日
- 横尾尚 大佐:1920年6月3日 - 1920年11月20日
- 武光一 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
- 小山田繁蔵 大佐:1921年11月20日 - 1922年11月10日
- (兼)松平保男 大佐:1922年11月10日 - 1923年1月20日
- 武富咸一 大佐:1923年1月20日 - 1923年10月1日
特務艦長
編集- 武富咸一 大佐:1923年10月1日 - 1923年11月20日
- 松本匠 大佐:1923年11月20日 - 1924年12月1日
- 右田熊五郎 大佐:1924年12月1日 - 1925年4月20日
- 山本土岐彦 大佐:1925年4月20日[93] - 1926年12月1日[94]
- 瀬崎仁平 大佐:1926年12月1日 - 1927年9月28日
- (兼)今川真金 大佐:1927年9月28日[95] - 1927年12月1日[96]
- 津田威彦 大佐:1927年12月1日[96] - 1929年11月30日[97]
- 千谷定衛 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 伊佐卓弥 大佐:1930年12月1日[98] -
- 原田文一 大佐:1931年2月1日[99] - 1931年4月1日[100]
- 白石邦夫 大佐:1931年4月1日[100] - 1931年12月1日[101]
- 石井順三 大佐:1931年12月1日[101] - 1932年12月1日[102]
- 井上幸吉 大佐:1932年12月1日[102] - 1933年11月15日[103]
- 大橋五郎 中佐:1933年11月15日[103] - 1934年11月15日[104]
- 小林三良 大佐:1934年11月15日[104] - 1935年4月18日[105]
- 水崎正次郎 大佐:1935年4月18日 - 1935年11月15日
- 楢橋憲基 中佐:1935年11月15日[106] - 1936年12月1日[107]
- 左近允尚正 大佐:1936年12月1日 - 1938年7月20日
- 鈴木長蔵 大佐:1938年7月20日 - 1939年11月15日
- (兼)原田覚 大佐:1939年11月15日 - 1940年3月10日
- 小暮軍治 大佐:1940年3月10日 - 1940年11月1日
- (兼)伊崎俊二 大佐:1940年11月1日 - 1940年11月28日
- 森徳治 大佐:1940年11月28日 - 1941年9月1日
- 松田千秋 大佐:1941年9月1日 - 1942年2月10日
- 石井敬之 大佐:1942年2月10日 - 1942年5月20日
- 島本久五郎 大佐:1942年5月20日 - 1942年10月1日
- 長井満 大佐:1942年10月1日 - 1943年2月2日
- 長谷真三郎 大佐:1943年2月2日 - 1943年4月12日
- 佐藤勝也 大佐:1943年4月13日 - 1943年6月25日
- 三浦艦三 大佐:1943年6月25日 - 1943年8月4日
- 相馬信四郎 大佐:1943年8月4日 - 1944年8月10日
- 大藤正直 大佐:1944年8月10日[108] - 1945年8月15日[109]
脚注
編集注釈
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(一)^ (前略)次の戰艦は河内、攝津(明治四十五年竣工)でありまして主砲として十二吋十二門副砲として六吋砲十門・七吋砲八門速力二〇節と云ふ威力を有し防禦も又敷島以降安藝に至るまでは水線甲鐵の厚さ九吋でありましたが本艦に至って十二吋になりました 尤防禦配置が異なって居る結果防禦力が九と十二の比になって居るとは申せませんが前よりは優って居ることは事實であります 此二艦が我海軍に於ける最初の純然たる弩級艦であります(以下略)﹂[17]
(二)^ (前略)此英國の﹁ドレッドノート﹂にては主砲十門の中六門は艦の中心線上に据付けられ左右兩舷に打てる様になって居り残り四門丈が片舷二門づつ配備されて居りまして總數十門中八門迄は片舷に打てる様になって居ります 河内級にては圖面にて御覧の通り砲數十二門あるに拘はらず片舷に打てる砲は矢張り八門丈でありました 此には種々理由もありましたのですが今より考へれば少しく割の惡い配置であった様に思はれます 其後の弩級戰艦は日、英、米とも主砲は其全部が兩舷に打てる様に配備されて居ります 茲に河内級で自慢してもよかろうと思ひますことは﹁ドレッドノート﹂では中口經砲を廢しましたのですが河内級では依然之を存して置きましたと云ふ點であります 英國海軍でも後に至り驅逐艦を撃破するには小口經砲丈では滿足出來ないと見へまして我海軍の例に倣ひ再び中口經砲を備ふることになりました。(以下略)﹂[23]
(三)^ ﹁○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十七日午前十時十分葉山御用邸御出門同十時四十五分逗子停車場御發車同十一時橫須賀停車場御著車軍艦鹿島ヘ御乗艦正午十二時橫須賀軍港御發艦アラセラレタリ﹂[33]
(四)^ ﹁○東宮臨御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午前七時宮島御發艦同八時三十分吳軍港御著艦同九時三十分軍艦攝津進水式ニ臨マセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨三十日午後二時吳軍港御發艦アラセラレタリ﹂[31]
(五)^ ○(大正三年三月)二十日 金曜日(軍艦薩摩にて神戸出港)午前九時十分二条離宮を御出門、江田島に向かわれる。これより御服装は海軍通常礼装となる。京都停車場を御発車になり、途中、大阪停車場において勅任官以上に謁を賜う。神戸停車場より直ちに人力車にて米利堅波止場へ御移動になり、御召艦薩摩に御乗艦、第一艦隊司令長官加藤友三郎・同参謀長佐藤鉄太郎・薩摩艦長吉島重太郎・摂津(先導艦)艦長木村剛・石見(供奉艦)艦長小林恵吉郎以下乗組将校に謁を賜う。午後零時三十分、御召艦は出港する。航海中は上甲板において兵員の作業や艦隊航行などの御覧になる。六時三十分香川県高松沖に御箸艦、御仮泊になる。御夕餐後、甲板においてサーチライトを御覧になり、乗組員による﹁軍人勅諭﹂などの軍歌をお聴きになる。[39]
(六)^ ﹁○東宮御發艦 皇太子殿下ハ雍仁親王、宣仁親王兩殿下御同伴御豫定ノ如ク本月二十日午前九時十分二條離宮御出門同九時四十分京都停車場御發車同十一時二十分神戸停車場御著車軍艦薩摩ニ御乗艦午後零時三十分御發艦アラセラレタリ|○東宮御著艦竝御假泊 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ本月二十日午後六時三十分高松沖御著艦御假泊一昨二十一日午前九時十分御上陸栗林公園御覽同十一時四十五分御歸艦午後零時三十分御發艦同四時五十分愛媛縣來島沖御著艦御假泊アラセラレタリ﹂[40]
(七)^ ﹁◎軍艦御假泊 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク一昨二十三日午前九時二十五分御發輦同九時四十分東京驛御發車同十時二十分橫濱驛御著車横濱港ニ於テ軍艦ニ乗御御發航午後四時五十五分館山灣ニ御假泊アラセラレタリ﹂[47]
(八)^ ﹁◎演習御統裁 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク本月二十四日午前六時館山灣御發航演習地ニ臨御演習御統裁終テ午後三時四十五分横濱港ニ向ケ御發航アラセラレタリ|◎還御 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク一昨二十五日午前九時橫濱港ニ著御上陸同十時四十分橫濱驛御發車同十一時二十分東京驛御著車同十一時三十五分還幸アラセラレタリ﹂[50]
(九)^ ﹁◎行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨二十八日午前七時四十五分御出門同八時東京驛御發車同八時四十分橫濱驛御著車橫濱港外ニ於テ海軍特別大演習觀艦式御親閲續テ海軍軍令部部長ヲシテ講評セシメラレ訖テ大演習参加ノ海軍将校其他ヲ賜饌ニ召サセラレ午後三時五十五分橫濱驛御發車同四時三十五分東京驛御箸車同四時五十分還幸アラセラレタリ|◎皇族差遣 昨二十八日橫濱港外ニ於テ海軍特別大演習觀艦式御親閲御賜饌ノ際依仁親王殿下ヲ軍艦榛名ニ博恭王殿下ヲ軍艦金剛ニ差遣ハサレタリ﹂[52]
(十)^ ﹁◎東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十八日午後三時十分橫濱港御上陸 聖上ニ御扈從同五時十分還御アラセラレタリ|◎皇族御發著 依仁親王殿下ハ一昨二十八日御出發海軍特別大演習地ヘ御出張即日御歸京、博恭王殿下ハ同演習地ヘ御出張ノ處同日御歸京、博義王殿下ハ同上ノ處同日海軍砲術學校ヘ御歸校相成リタリ﹂[56]
出典
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(一)^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
(二)^ abcd#日本の戦艦(上)2001p.220
(三)^ ﹁明治44年 達 完/10月﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070062800 画像1﹁達第百九號 軍艦河內外四隻ニ左ノ通信號符字ヲ點付ス 明治四十四年十月三日 海軍大臣 男爵齋藤實 信號符字 艦名 GQHM 河內 GQHN 攝津 GQHP 筑摩 GQHR 矢矧 GQHS 平戸﹂
(四)^ ﹁昭和8年 達 完/10月﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070097400 画像40﹁達百二十七號 左記艦艇ノ信號符字ヲ各頭書ノ通リ改正ス 本達ハ昭和八年十二月二十八日ヨリ之ヲ實施ス 昭和八年十月十八日 海軍大臣 大角岑生 新符字 舊符字 艦艇名 … JWWD GQHN 攝津 …﹄
(五)^ ﹁昭和16年7月~12月 達/12月(1)﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070111200 画像11﹁海軍艦︵船︶名及海軍通信隊名略符號 … 特務艦 JFDQ 攝津﹂
(六)^ abc#達明治44年3月p.10︹達第三十三號 呉海軍工廠ニ於テ製造ノ呂號戰艦ヲ攝津ト命名セラル 明治四十四年三月三十日 海軍大臣男爵 齋藤實 ︺
(七)^ ab#達明治44年3月p.10︹達第三十四號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内﹁河内﹂ノ次ニ﹁攝津﹂ヲ加フ 明治四十四年三月三十日 海軍大臣男爵 齋藤實 ︺
(八)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200﹁◎戰艦攝津命名ノ件 明治四十四年三月三十日(達三三)﹂
(九)^ abcd補助艦艇奮戦記、284頁﹁攝津(せっつ/標的艦)﹂
(十)^ abcdefgh幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ89(原本140頁)﹁攝津(せっつ)︻二代︼
艦種戰艦 二檣(三脚式)(信號用)河内と姉妹艦なり
艦名考初代﹁攝津﹂の項(p.10)参照
艦歴明治42年1月18日起工、同45年7月1日竣工。大正3年乃至9年戰役(日獨)從軍(第一艦隊第一戰隊司令長官中将加藤友三郎旗艦、艦長大佐木村剛)、同8年特別大演習中御召艦となる(艦長大佐古川弘)、同13年大演習、14年、15年小演習統監艦となる。同12年10月1日軍艦籍より除き、特務艦(標的艦)と定む。
(備考)本艦は海軍々備制限に關する華府條約に由り、同條約第二章第二節中、軍艦を専ら標的用に變更することの規定に循ひ其處分を了し、戰闘任務に堪へざるものと爲したる上、茲に標的艦に編入せられたるものなり。
―要目― 長500呎/幅84呎/吃水28呎/排水量20,800噸/機關 パーソンスタルビン4軸 宮原罐16/馬力25,500/速力20.5/乗組人員960/船材 鋼(クルップ甲鐡12吋)|兵装 12吋12/6吋10/4.7吋8/3吋16/機砲4/發射管5/竣工 明治42-1-18/進水 同44-3-30/竣工 同45-7-1/建造所 呉工廠﹂
(11)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53c.
(12)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, pp. 217–218.
(13)^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ189(原本284頁)﹁攝津(せっつ)︻再出︼ 艦種特務艦 艦名考 艦歴︸﹁日清戰役以降、日露戰役迄の艦艇﹂の部参照︵p.140︶ ―要目― 長152.40米/幅25.60米/吃水7.09米/排水量16,130噸/速力21/竣工 明治42-1-18/進水 同44-3-30/竣工 同45-7-1/建造所 呉工廠﹂
(14)^ ab幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ17(原本10頁)﹁攝津(せっつ)︻初代︼ 艦種砲艦 三檣﹁シップリグ﹂型
艦名考國名(畿内五箇國の一)に採る。
艦歴明治元年(1864)3月外國人より購入(製造所米國、竣工年月日及び原不名詳﹁攝津﹂と命名す。明治2年9月廣島藩に管せしむ、同4年4月同藩より返納、同9月﹁一番貯蓄船﹂と改稱す、同5年7月機關を撤去し、同7月再び﹁攝津﹂と改名す。同11年12月兵學校所属練習艦と爲る。同19年2月除籍、船體を兵學校に属し、術業練習の用に供し同10月授業船と稱す。同22年9月船體を賣却せり。(要目略)﹂
(15)^ #軍艦摂津へ住吉神社模型寄贈の件p.5
(16)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 127.
(17)^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3.
(18)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 140.
(19)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53a﹁河内﹂と﹁摂津﹂の相違点
(20)^ 帝国軍艦発達 1937, p. 01﹁(前略)次で明治四十五年に攝津、河内が出來12吋砲12門で巨砲單一主義の最初の艦でありますが、同時代の英のドレッドノートの様に砲塔を中心線上に背負ひ式にはなって居りません。(以下略)
(21)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 52b遅れてやってきたド級艦﹁河内﹂型
(22)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 52a﹁河内﹂型の防御配置と機関形式
(23)^ 帝国軍艦発達 1924, p. 4.
(24)^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 51a-522種の砲身長混載の問題について
(25)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 129.
(26)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, pp. 132–140ことなる口径砲の使い方
(27)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 152.
(28)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 153.
(29)^ abc決定版、日本の戦艦 2010, p. 52c.
(30)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200﹁◎戰艦河内及攝津命名ノ件 明治四十二年二月十二日(内令二二)新造軍艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部內限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 伊號戰艦 河內|呉海軍工廠ニ於テ製造 呂號戰艦 攝津﹂
(31)^ ab明治44年3月31日官報第8329号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ12
(32)^ 大正天皇実録第三 2018, p. 243横須賀軍港より軍艦鹿島に御搭乗
(33)^ 明治44年3月28日官報第8326号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9
(34)^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244a呉軍港御著
(35)^ 大正天皇実録第三 2018, p. 244b軍艦摂津進水式に御臨場
(36)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ55﹁明治四十四年三月三十日(達三四)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄﹁河内﹂ノ次ニ﹁攝津﹂ヲ加フ﹂
(37)^ #軍艦摂津へ住吉神社模型寄贈の件p.11
(38)^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 106.
(39)^ 昭和天皇実録二巻 2015, pp. 15–16.
(40)^ 大正3年3月23日官報492号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ13
(41)^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 108.
(42)^ ab﹁大正7年7月13日(土)海軍公報第1755号 p.22﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070258600 ﹁○軍艦沈沒 軍艦河內ハ德山灣碇泊中七月十二日午後三時五十七分中央部ニ爆發ヲ起シ約四分ノ後沈沒セリ﹂
(43)^ ﹁大正7年7月12日(金)海軍公報 第1754号 p.26﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12070261300 ﹁○艦船所在○七月十二日午前十時調︻徳山︼(旗艦)山城、扶桑、伊勢、攝津、河内、(旗艦)利根、(司令)榎、檜、(司令)槇、欅、桑、(司令)濱風、磯風、天津風﹂
(44)^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 53b明暗を分けた﹁河内﹂と﹁摂津﹂
(45)^ 大正8年10月24日官報2167号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2﹁◎逓信省告示第千三百六十四號 海軍特別大演習観艦式記念品トシテ左ノ特殊通信日附印ヲ使用ス 大正八年十月二十四日逓信大臣野田卯太郎﹂
(46)^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本87頁)﹁〃(大正)八-一〇-二八|(場所)横濱沖|(名稱)大演習観艦式|(御召艦)摂津|(隻籔)一一一|(噸數)六二四,一八〇|(同航空機)飛行機一二|(外國軍艦)﹂
(47)^ 大正8年10月25日官報2168号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3
(48)^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)﹁〃(大正)八-一〇-二三 二五|海軍特別大演習御統裁|軍艦摂津|横濱及東京灣外﹂
(49)^ 昭和天皇実録二巻 2015, pp. 511–512(大正八年十月)二十四日 金曜日(演習地へ向け航行/御観戦/演習中の事故)
(50)^ ab大正8年10月26日官報2169号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7
(51)^ 昭和天皇実録二巻 2015, pp. 512–513(大正八年十月)二十五日 土曜日(千葉沖に御到着)﹂
(52)^ ab大正8年10月29日官報2171号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4
(53)^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)﹁〃(大正)八-一〇-二八|横濱港にて海軍特別大演習観艦式|軍艦摂津|﹂
(54)^ 昭和天皇実録二巻 2015, pp. 514a-515(大正八年十月)二十八日 火曜日(軍艦摂津に御移乗/観艦式御覧)
(55)^ ab昭和天皇実録二巻 2015, pp. 514b-515.
(56)^ 大正8年10月30日官報2172号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5
(57)^ 戦史叢書91 1975, pp. 184a-186加藤寛治首席随員らの考え方﹂
(58)^ 戦史叢書91 1975, pp. 186a-188加藤友三郎全権の考え方
(59)^ 戦史叢書91 1975, pp. 184b-186.
(60)^ 戦史叢書91 1975, pp. 186b-188.
(61)^ 戦史叢書91 1975, pp. 188a-190暗号被解読と六割受諾と防備制限
(62)^ 戦史叢書91 1975, pp. 190a-192条約の成立
(63)^ ab戦史叢書91 1975, pp. 190b-192.
(64)^ abcdefghijklmno日本補助艦艇物語237-239頁﹁標的艦 (1)摂津﹂
(65)^ abcd高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 184.
(66)^ #皇后、経緯(1)pp.12-13(別紙2号)
(67)^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 168.
(68)^ #艦船行動大正11年3月(1)p.49(3月24日項)﹁攝津|江田島|安下庄|江田内|午前七時発﹂/#艦船行動大正11年3月(2)p.7(3月25日項)﹁攝津|江田内|呉|宇治|午前八-五五発﹂
(69)^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 186.
(70)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ60︹ 大正十二年十月一日(達二〇五)艦艇類別等級表中軍艦ノ欄内﹁攝津、﹂ヲ削ル ︺
(71)^ #達大正12年10月p.1︹達第二百四號 軍艦 攝津 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年十月一日 海軍大臣財部彪 ︺
(72)^ #達大正12年10月、p.1︹ 達第二百五號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内﹁攝津、﹂ヲ削ル 大正十二年十月一日 海軍大臣財部彪 ︺
(73)^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ72﹁大正十二年十月一日(達二〇六)特務艦類別等級別表中測量艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|標的艦| |攝津| ︺
(74)^ #達大正12年10月、p.1︹達第二百六號 特務艦類別等級表中測量艦ノ欄ノ次ニ左ノ一欄ヲ加フ 大正十二年十月一日 海軍大臣財部彪 |標的艦| |攝津| ︺
(75)^ ab石橋、大口径艦載砲 2018, p. 218.
(76)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 243.
(77)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 229陸軍保転砲塔配置一覧
(78)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 225.
(79)^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 230.
(80)^ abcd歴史群像太平洋戦史シリーズ37 帝国陸海軍補助艦艇、24ページ
(81)^ 舞廠造機部 2014, pp. 97–99ボイラの自動制御で苦労
(82)^ ab舞廠造機部 2014, p. 98.
(83)^ ab舞廠造機部 2014, p. 99.
(84)^ 舞廠造機部 2014, pp. 121–123ボイラ制御装置の後日談
(85)^ ab舞廠造機部 2014, p. 122.
(86)^ 戦史叢書91 1975, pp. 432–435三コ遣支艦隊の新編と第四艦隊の独立 ― 昭和十四年十一月十五日
(87)^ 戦史叢書91 1975, pp. 434a-435新艦隊編制の意義
(88)^ 戦史叢書91 1975, pp. 434b-435.
(89)^ ﹁紀元二千六百年祝典記録・第六冊﹄、369頁
(90)^ ab城英一郎日記373-374頁﹁城英一郎履歴﹂
(91)^ ab城英一郎日記10-11頁
(92)^ ﹃月刊歴史街道﹄ 平成20年6月号 PHP研究所97頁
(93)^ ﹃官報﹄第3796号、大正14年4月21日。
(94)^ ﹃官報﹄第4283号、大正15年12月2日。
(95)^ ﹃官報﹄第227号、昭和2年9月29日。
(96)^ ab﹃官報﹄第279号、昭和2年12月2日。
(97)^ ﹃官報﹄第878号、昭和4年12月2日。
(98)^ ﹃官報﹄第1179号、昭和5年12月2日。
(99)^ ﹃官報﹄第1226号、昭和6年2月2日。
(100)^ ab﹃官報﹄第1275号、昭和6年4月2日。
(101)^ ab﹃官報﹄第1478号、昭和6年12月2日。
(102)^ ab﹃官報﹄第1778号、昭和7年12月2日。
(103)^ ab﹃官報﹄第2064号、昭和8年11月16日。
(104)^ ab﹃官報﹄第2364号、昭和9年11月16日。
(105)^ ﹃官報﹄第2486号、昭和10年4月19日。
(106)^ ﹃官報﹄第2663号、昭和10年11月16日。
(107)^ ﹃官報﹄第2976号、昭和11年12月2日。
(108)^ ﹁昭和19年8月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1563号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072100500
(109)^ ﹁昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072107000
参考文献
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●国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
●海軍有終会編﹃幕末以降帝国軍艦写真と史実﹄海軍有終会、1935年11月。
●海軍大臣官房﹃海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)﹄海軍大臣官房、1939年。
●海軍大臣官房﹃海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)﹄海軍大臣官房、1940年。
●海軍大臣官房﹃海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)﹄海軍大臣官房、1940年。
●海軍研究社編輯部 編﹃ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版﹄海軍研究社、1935年5月。
●海軍研究社編輯部 編﹃ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版﹄海軍研究社、1937年2月。
●海軍研究社編輯部 編﹃日本軍艦集 2600年版﹄海軍研究社、1940年7月。
●田路坦﹃歐洲大戦の艦艇の計書及艤装に及ぼせる影響に就て﹄造船協會、1920年8月。
●藤田定市編﹃戦袍余薫懐旧録.第3輯﹄財団有終會、1928年1月。
●山本開藏﹃過去二十五年間に於ける帝國軍艦の發達に就て﹄造船協會、1924年9月。
●山本開藏﹃過去四十年間に於ける帝國軍艦の發達﹄造船協會、1937年6月。
●アジア歴史資料センター︵公式︶︵防衛省防衛研究所︶
●﹃明治44年 達 完/3月﹄。Ref.C12070062100。
●﹃明治44年 達 完/10月﹄。Ref.C12070062800。
●﹃大正7年 達 完/9月﹄。Ref.C12070074400。
●﹃大正12年 達完/10月﹄。Ref.C12070082600。
●﹃大正11年 公文備考 巻18 儀制(防衛省防衛研究所)経緯(1)﹄。Ref.C08050411200。
●﹃大正11年 公文備考 巻18 儀制(防衛省防衛研究所)経緯(2)﹄。Ref.C08050411300。
●﹃大正11年 公文備考 巻18 儀制(防衛省防衛研究所)準備関係(1)﹄。Ref.C08050411600。
●﹃大正11年 公文備考 巻18 儀制(防衛省防衛研究所)準備関係(2)﹄。Ref.C08050411700。
●﹃大正11年 公文備考 巻18 儀制(防衛省防衛研究所)準備関係(3)﹄。Ref.C08050411800。
●﹃人事関係(便乗者活動写真班を含む)﹄。Ref.C08050411900。
●﹃大正11年1月3日~11年7月24日 艦船行動簿(防衛省防衛研究所)・艦船行動簿大正11年3月分(1)﹄。Ref.C10100088700。
●﹃大正11年1月3日~11年7月24日 艦船行動簿(防衛省防衛研究所)・艦船行動簿大正11年3月分(2)﹄。Ref.C10100088800。
●﹃軍艦摂津へ住吉神社模型寄贈の件﹄。Ref.C08020127800。
●﹃昭和8年 達 完/10月﹄。Ref.C12070097400。
●﹃昭和16年7月~12月 達/12月(1)﹄。Ref.C12070111200。
●石橋孝夫﹃日本海軍の大口径艦載砲 戦艦﹁大和﹂四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史﹄潮書房光人社︿光人社NF文庫﹀、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8。
●泉江三﹃軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上﹄グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
●岡本孝太郎﹃舞廠造機部の昭和史﹄文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3。
●海軍歴史保存会﹃日本海軍史﹄第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
●宮内庁 編﹃昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年﹄東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2。
●宮内庁図書寮 編﹃大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年﹄株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6。
●城英一郎著 著、野村実 編﹃侍従武官 城英一郎日記﹄山川出版社︿近代日本史料選書﹀、1982年2月。
●軍艦メカ開発物語―海軍技術かく戦えり ISBN 476980394X
●﹁高松宮宣仁親王﹂伝記刊行委員会編﹃高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年﹄朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1。
●寺崎隆治ほか﹃補助艦艇奮戦記 縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情﹄潮書房光人社、2016年6月。ISBN 978-4-7698-1620-1。
●戦史研究家伊達久﹃日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争
●福井静夫﹃福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語﹄光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで﹄ 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(1) ―開戦まで―﹄ 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。
●歴史群像編集部編﹁第2章 ド級戦艦の誕生と日本戦艦﹂﹃決定版日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス﹄学習研究社︿歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5﹀、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2。
●帝国陸海軍補助艦艇―総力戦に必要とされた支援艦艇群の全貌︿歴史群像﹀太平洋戦史シリーズ(37) 学習研究社 ISBN 9784056027808 P22-25 ﹁標的艦 摂津﹂三木原慧一
●﹃官報﹄
外部リンク
編集- USA-5M391-75 1945/8/7 広島県江田島市江田島町大須付近 航空写真 大須近くの海岸に、大破着底した摂津が小さく写っている (最初、トップページ又は「同意する」ボタンのページが表示されるので、クリック後リロードしてください)
- USA-M312-2-176 1947/5/1 呉港付近 航空写真 戦後、解体途中の標的艦 摂津 が写っている航空写真
関連項目
編集- 戦艦一覧
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- ワシントン海軍軍縮条約
- ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧
- つがる型巡視船 - 海上保安庁の巡視船。9番艦が「せっつ」である。