旧軽井沢ゴルフクラブ
長野県軽井沢町にあるゴルフ場
旧軽井沢ゴルフクラブ(きゅうかるいざわゴルフクラブ)は、 長野県北佐久郡軽井沢町に広がるゴルフ場である。
旧軽井沢ゴルフクラブ Kyu-Karuizawa Golf Club | |
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所在地 |
![]() 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢字長尾1372-3番地 |
座標: 北緯36度21分30.97秒 東経138度37分30.84秒 / 北緯36.3586028度 東経138.6252333度 | |
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開業 | 1919年(大正8年)8月1日 |
運営 | パブリックコース |
設計 |
トム・ニコル J・M・ポーレット |
運営者 | 任意団体 旧軽井沢ゴルフクラブ |
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概要
編集
軽井沢は1886年︵明治19年︶、英国人宣教師であるアレクサンダー・クロフト・ショーによって、リゾート開発されたことに始まる[1]。その後、1893年︵明治26年︶、碓井線の横川駅︵現、信越本線︶から軽井沢駅まで開通し、別荘地の開発が盛んに行われるようになった[1]。
1919年︵大正8年︶、徳川慶久、細川護貞らと田中實、川崎肇など東京ゴルフ倶楽部駒沢コースのグループで、軽井沢にゴルフ場を造ろうとの話が盛んになり、新たなゴルフ場建設に向け﹁軽井沢ゴルフ倶楽部﹂が設立された[1]。ゴルフ場用地は、神田鐳蔵と野澤源次郎の所有地・離山の麓、長尾原の土地を借地契約し、9ホール規模のコースを計画、設計はセントアンドリュースのプロのトム・ニコルに依頼した[1]。1921年︵大正10年︶6ホールが、翌年の1922年︵大正11年︶9ホールが完成し、﹁軽井沢ゴルフクラブ﹂が誕生した。日本では第7番目に開場したコースで、現存のゴルフ場では第4番目の歴史のあるゴルフ場である[1]。
軽井沢で最も古いゴルフ場であるが、宣教師アーサー・ロイドの著書によれば、1909年時点でゴルフ場がある[2]と記されているため、以前から外国人が自分達専用のゴルフ場を所有していた可能性が高い[3]。
1929年︵昭和4年︶9月、コース建設発起人会が結成され、軽井沢町成沢地区南ヶ丘の土地を買収、翌年の1930年︵昭和5年︶、コース移転と新コースの建設を開始した[1]。1932年︵昭和7年︶、18ホールが完成した[1]。移転後、跡地の旧軽井沢の9ホールは、地主の野澤組がパブリックコースとして運営し、1943年︵昭和18年︶、戦況悪化で閉鎖するまで経営が続いた[1]。敗戦後、米軍が接収し、飛行場や乗馬に使用された[1]。
1947年︵昭和22年︶、鹿島建設株式会社・鹿島守之助が9ホールを買収し、1949年︵昭和24年︶4月、会員制の﹁旧軽井沢ゴルフクラブ﹂を設立し運営した[1]。その後、1955年︵昭和30年︶、アウトコース6ホール、インコース6ホール、計12ホールに拡張された[1]。また、1989年︵平成元年︶から1995年︵平成7年︶にわたり、米国人のJ・M・ポーレットに設計を依頼してコース改造が行われ、12ホールとなった[1]。
公表されている直近の理事長は、元鹿島建設代表取締役相談役の鹿島昭一。
コースの三方が山に囲まれた高原コースで、コース全体には白樺や落葉松などこの地特有の樹木に囲まれ、各ホールは樹齢を経たうっそうとした樹木によってセパレートされ、独特の雰囲気のもとにプレーを楽しむことができる。プレーで注意したいのは、フェアウエイの幅が狭いことで、ショットがラフへ行きやすく、しかも、O・Bラインがあるため、距離よりも方向性を重視したい。フェアウエイは、各ホールとも微妙なアンジュレーションに仕上げられており、技巧派プレーヤーが楽しめる造りになっている。グリーン周りは、比較的にバンカーが多く、グリーンは砲台グリーンで、アンジュレーションに富んでおり難しい。プレー方法は、アウトコース・インコース・アウトコース、または、インコース・アウトコース・インコースと周り18ホールをプレーする[4]。
所在地
編集〒389-0102 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢字長尾1372-3番地
コース情報
編集- 開場日 - 1919年8月1日
- 設計者 - トム・ニコル、J・M・ポーレット
- 面積 - 277,000m2(約8,37万坪)
- コースタイプ - 高原コース
- コース - 12ホールズ、パー48、3,986ヤード、コースレート70.9(OUT-IN-OUT)
- グリーン - 1グリーン、ベント
- プレースタイル - 歩いてのラウンド、全組キャディ付き、1組4人が原則だが、状況によりツーサムも可
- 練習場 - 6打席 15ヤード
- 休場日 - 毎週火曜日(7月初旬 - 9月初旬無休)、11月下旬 - 4月中旬クローズ[5][6][7]
HOLE NO. | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | OUT | HOLE NO. | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | IN | TOTAL |
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Par | 5 | 3 | 4 | 3 | 4 | 5 | 24 | Par | 4 | 3 | 4 | 5 | 4 | 4 | 24 | 48 |
Back T. (Yard) | 495 | 158 | 315 | 171 | 346 | 512 | 1,997 | Back T. (Yard) | 306 | 152 | 352 | 434 | 359 | 386 | 1,989 | 3,986 |
Reg. (Yard) | 465 | 125 | 293 | 153 | 315 | 487 | 1,838 | Reg. (Yard) | 280 | 121 | 313 | 415 | 345 | 364 | 1,838 | 3,676 |
交通アクセス
編集エピソード
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a3/Kyu-Karuizawa_Golf_Club.jpg/240px-Kyu-Karuizawa_Golf_Club.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b7/Fumitaka_Konoe_playing_golf_circa_1931.jpg/240px-Fumitaka_Konoe_playing_golf_circa_1931.jpg)
脚注
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(一)^ abcdefghijklmno﹃美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である﹄、ゴルフダイジェスト社﹁美しい日本のゴルフコース﹂編纂委員会編、﹁雲仙ゴルフ場﹂、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2020年12月6日閲覧
(二)^ Arthur Lloyd, Every-day Japan, London, New York, Toronto and Melbourne: Cassell and Company Limited, 1909, p.208
(三)^ 上田卓爾﹁第二次世界大戦以前の日本のリゾート︵外人避暑地︶について﹂︵名古屋外国語大学現代国際学部 紀要 第5号 2009年3月︶p.109
(四)^ “旧軽井沢ゴルフクラブ”. ゴルフホットライン. 2020年12月6日閲覧。
(五)^ ab“旧軽井沢ゴルフクラブ”. ゴルフダイジェスト、ゴルフ場詳細. 2020年12月6日閲覧。
(六)^ “旧軽井沢ゴルフクラブ”. ゴルフホットライン. 2020年12月6日閲覧。
(七)^ “旧軽井沢ゴルフクラブ”. ゴルフダイジェスト、コースレイアウト. 2020年12月6日閲覧。
(八)^ ﹃全国ゴルフ・コース案内 関東篇 第2集﹄、水谷準著、﹁旧軽井沢ゴルフクラブ﹂、東京 ベースボール・マガジン社、1961年、 2020年12月6日閲覧
(九)^ ab﹃祖父野澤源次郎の軽井沢別荘地開発史 源次郎と3人の男たち﹄、岡村八寿子著、中島松樹・大久保保監修、﹁大正11年 軽井沢に初のゴルフ場誕生﹂、東京 牧歌舎東京本部、2018年8月、2020年12月6日閲覧
関連文献
編集- 『全国ゴルフ・コース案内 関東篇 第2集』、水谷準著、「旧軽井沢ゴルフクラブ」、東京 ベースボール・マガジン社、1961年、 2020年12月6日閲覧
- 『ゴルフ場ガイド 東版』2006-2007、「旧軽井沢ゴルフクラブ(長野県)」、東京 ゴルフダイジェスト社、2006年5月、2020年12月6日閲覧
- 『美しい日本のゴルフコース BEAUTIFUL GOLF CULTURE IN JAPAN 日本のゴルフ110年記念 ゴルフは日本の新しい伝統文化である』、ゴルフダイジェスト社「美しい日本のゴルフコース」編纂委員会編、「旧軽井沢ゴルフクラブ」、東京 ゴルフダイジェスト社、2013年12月、2020年12月6日閲覧
- 『祖父野澤源次郎の軽井沢別荘地開発史 源次郎と3人の男たち』、岡村八寿子著、中島松樹・大久保保監修、「大正11年 軽井沢に初のゴルフ場誕生」、東京 牧歌舎東京本部、2018年8月、2020年12月6日閲覧