細川護貞
日本の政治家
細川 護貞(ほそかわ もりさだ、1912年(明治45年)7月17日 - 2005年(平成17年)10月3日)は、旧肥後熊本藩細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。
細川 護貞 | |
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生誕 |
1912年(明治45年)7月17日![]() (現:東京都区部) |
死没 | 2005年(平成17年)10月3日(満93歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
職業 | 内閣総理大臣秘書官 |
配偶者 | 細川温子 |
子供 |
細川護熙(長男) 近衞忠煇(次男) |
親 |
細川護立(父) 細川博子(母) |
生涯
編集
1912年︵明治45年︶、細川侯爵家第16代当主・細川護立と博子︵侯爵池田詮政の長女︶の長男として生まれる。曾祖父に島津忠義と鍋島直正。旧制学習院高等科を経て京都帝国大学で狩野直喜博士の教えを受ける。京大法学部卒業後、企画院嘱託。
1940年︵昭和15年︶、第2次近衛内閣で首相秘書官に就任する。1943年︵昭和18年︶、昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王の御用掛となり宮中グループを中心に各方面の有識者から情報や意見を収集し、海軍グループで同郷出身の高木惣吉海軍少将に協力して東條英機暗殺未遂事件や終戦工作の一翼を担い、戦時中の動静を﹁細川日記﹂として戦後発表している。
戦後は政治から一線を引き、細川家当主として、伝来の書画茶道具などの工芸美術品を管理するため設立された財団法人永青文庫の理事長に就任。また、1922年に旧軽井沢ゴルフクラブで初めてゴルフを体験して以降のめり込んだ護貞は、日本ゴルフ協会会長なども務めた。さらに神社本庁統理、日本工芸会会長なども務めた。 1996年から1998年まで弘世現︵任期‥1983年-1996年︶の後任として伊勢神宮崇敬会第5代会長[1]。また、美術愛好家として著書を多く出している。
1969年︵昭和44年︶、長男の護熙が政界入りを希望すると反対し、﹁そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない﹂と勘当を言い渡した。
なお、護熙は1969年の第32回衆議院議員総選挙に立候補し落選はしたが、1971年の第9回参議院議員通常選挙に当選、以後1983年には熊本県知事に転じた。1993年︵平成5年︶、護熙は日本新党代表として第40回衆議院議員総選挙で当選し、55年体制以降では自民党以外で初めて首相に就任している。その際のインタビューで護貞は息子の首相就任を喜ぶこともなく﹁あれの性格ではいずれ投げ出すだろう﹂という趣旨の発言をし周囲を唖然とさせた。しかし結果的に翌年4月に護熙は電撃辞任しており護貞の予見は当たることになった。
晩年は、高齢で病気がちで表には出なかった。2005年︵平成17年︶10月3日、心不全のため死去。93歳没。
爵位について
編集家族
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最後の熊本藩主・細川護久の孫で、父は侯爵細川護立。母は池田博子︵池田詮政の長女。また、同じ熊本県となった肥後人吉藩相良家の血筋も引いている[2]︶。戦前は、先祖伝来の熊本県内に加え朝鮮半島の大地主となり、事業経営も順調であったことから、護立が美術品収集に散財してもなお数千万円の資産を有する家であった[3]。
2度の結婚歴がある。初婚の相手は公爵近衛文麿元首相の次女・細川温子︵母方の曽祖父に最後の宇土藩主・細川行真がいる︶。温子との間に2男を儲けた。
●長男‥護煕︵元熊本県知事・元日本新党代表・第79代内閣総理大臣︶
●次男‥護煇︵近衛家の養子となり、近衞忠煇と改名。日本赤十字社社長、2009年︵平成21年︶に国際赤十字会長︶
護煕・忠煇兄弟の幼少時、妻の温子は結核により早世した。
2度目の結婚は、旧熊本藩筆頭家老であった松井家から、松井薫子︵松井明之の娘、2006年︵平成18年︶に死没︶を後妻に迎えた。薫子との間に1女を儲けた。
細川日記
編集著書
編集脚注
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