木村吉清
木村 吉清 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長3年(1598年) |
別名 | 弥一右衛門尉(通称) |
官位 | 伊勢守 |
主君 | 明智光秀→羽柴秀吉→蒲生氏郷→豊臣秀吉 |
氏族 | 木村氏 |
妻 | 慶寿院(郡宗保四女)[1][注釈 1] |
子 |
清久 養子:郡慶成[1][注釈 2] |
生涯
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吉清は初め明智光秀に仕え、丹波亀山城の城代を務めたという[2][6]。天正10年︵1582年︶の山崎の戦いの際、吉清は城を堀尾吉晴へと明け渡し、羽柴秀吉に降ったとされる[2][6]。
天正11年︵1583年︶1月、秀吉は柴田勝家と対立する上杉景勝との連携を図っているが、吉清は石田三成や増田長盛と共にその交渉に携わった[7]。同年2月、吉清と三成・長盛は連名で上杉氏の使僧・西雲寺に宛て覚書を発給し、景勝が越中に出馬して佐々成政を牽制することを求めるなどしている[8][9]。天正14年︵1586年︶5月には、吉清ら3名は景勝家臣・直江兼続に対し、景勝の上洛を促す書状を送っている[10]。同年9月、景勝と新発田重家の争いへの対応のため、吉清は秀吉の命で越後へと赴いた[11]。
こうした上杉氏との関わりの一方で、天正12年︵1584年︶、小牧・長久手の戦いに参陣している[2][6]。天正17年︵1589年︶には、美濃国土岐多良で検地奉行を務めた[2]。天正18年︵1590年︶の小田原征伐では武蔵岩槻城攻めに加わっており[2][6]、その一方で伊達政宗に小田原参候を促した[6]。同年7月には秀吉の会津下向に先立ち、その準備のため会津を廻国している[5]。なお、これらの事績や上杉氏との交渉は木村弥一右衛門尉清久の名で行われており、当時その名を名乗った吉清によるものとされているが、吉清の子の清久が行ったとも考えられる[注釈3]。
同年8月に行われた奥州仕置により、吉清は旧大崎・葛西領を与えられ[12]、禄高は30万石となっている[2][6][注釈4]。吉清は登米郡登米城︵寺池城[14]︶へと入り、子・清久は志田郡古川城を居城とした[2][6][15]。なお、葛西晴信がこれ以後も旧領で一定の勢力を保っていることが確認でき、吉清の領国は旧葛西・大崎領の全域ではなかったともみられる[16]。
吉清の元の知行は5千石[2]や1万2千石[17]、3万石といわれており[6]、突如大領を与えられたことから家臣も急遽集められることとなった[6]。吉清に登用された家臣たちの中には上方の大名の家中から転身した者たちが含まれ、彼らは中間や小者などをにわかに侍に仕立てたが、その又家来たちは新領地で乱暴狼藉を働いたという[18][19]。こうしたことに加え、秀吉の命で行われた検地や刀狩への反発などもあったことから、領内で一揆が勃発した︵葛西大崎一揆︶[20]。
同年10月、一揆への対策のため清久が吉清のいる登米城に向かった際、一揆勢により岩手沢城が落とされ、古川城も攻められた[21]。古川城への帰還を妨げられた清久は佐沼城に籠城し、その救援に駆け付けた吉清も佐沼城で一揆勢に包囲されることとなる[21]。翌11月、援軍に駆け付けた蒲生氏郷と伊達政宗により吉清父子は救助されたが[22]、一揆発生の責任を問われて領地は没収された[23]。
天正19年︵1591年︶、吉清は蒲生氏郷の与力[2][6]、または家臣となり[23]、信夫郡5万石を与えられた[23]。当初は山城である大森城を居城としたが、文禄元年︵1592年︶から同2年︵1593年︶にかけて、平城の杉目城へと移った[24]。またこの頃、氏郷あるいは吉清により杉目城は福島城へと改称され[25]、これが現在の福島県の名の起源となっている[26]。
文禄3年︵1594年︶以前[27][17]、または慶長3年︵1598年︶1月[28]に蒲生氏が宇都宮に転封された際に[2]、吉清は豊臣秀吉の直臣となって豊後国に1万4千石を与えられた[2]。慶長3年︵1598年︶春、伏見城の普請に参加し[2]、同年7月、秀吉の遺物・国光の刀を拝領した[2][17]。この年の12月に死去[2]。晩年、キリスト教に帰依したという[2][17]。
脚注
編集注釈
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(一)^ 木村家改易後、三淵光行に再嫁した[1]。
(二)^ 郡宗保の姪と萱野長政の子として生まれる[1]。慶寿院が吉清の子を死産したことに伴い、その養子となった[1]。筑前黒田家に仕える[1]。
(三)^ ab吉清は天正18年︵1590年︶8月9日に﹁弥一右衛門尉清久﹂から﹁伊勢守吉清﹂に改名したとされ[4]、元の名を子に譲ったともいわれる[5]。それに対し熊谷隆次は、﹃稗貫家譜﹄所収の天正18年と推定される7月25日付木村清久書状写に﹁伊勢守吉清家嫡﹂とあり、それが後筆と考えにくいことから、天正18年8月9日より前に見える﹁木村清久﹂を吉清の前身ではなく吉清の子としている[4]。
(四)^ 吉清の所領は葛西旧領8郡で、残る大崎旧領5郡は子の清久のものともされる[13]。
出典
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(一)^ abcdef柏木 2018, pp. 302, 325.
(二)^ abcdefghijklmnop高柳光寿; 松平年一﹃戦国人名辞典 増訂版﹄吉川弘文館、1973年、86頁。全国書誌番号:73005849。
(三)^ 福島市史編纂委員会 1972, p. 16; 柏木 2018, p. 302.
(四)^ ab熊谷 2014, p. 64, 註14.
(五)^ ab福島市史編纂委員会 1972, p. 16.
(六)^ abcdefghij池内昭一 著﹁蒲生氏郷家臣人名事典﹂、高橋富雄 編﹃蒲生氏郷のすべて﹄新人物往来社、1988年、238頁。ISBN 4-404-01524-0。
(七)^ 中野 2017, pp. 13–15.
(八)^ 中野 2017, p. 15.
(九)^ 尾下成敏﹁天正十年代初頭の羽柴秀吉の東国政策をめぐって―秀吉・家康の﹃惣無事﹄を中心に―﹂﹃史林﹄第92巻、第5号、2009年。doi:10.14989/shirin_92_862。
(十)^ 中野 2017, pp. 34–36.
(11)^ 中野 2017, pp. 39–41.
(12)^ 福島市史編纂委員会 1972, p. 7.
(13)^ 熊谷 2014, p. 56.
(14)^ 大類伸 監修﹃日本城郭全集2﹄人物往来社、1967年、108頁。全国書誌番号:53001967。
(15)^ 福島市史編纂委員会 1972, p. 8.
(16)^ 竹井英文 著﹁葛西晴信―秀吉の奥羽仕置で大きく狂った運命﹂、竹井英文; 遠藤ゆり子 編﹃戦国武将列伝1東北編﹄戎光祥出版、2023年、197–198頁。ISBN 978-4-86403-440-1。
(17)^ abcd柏木 2018, p. 302.
(18)^ ﹃伊達日記﹄。
(19)^ 福島市史編纂委員会 1972, pp. 17–18.
(20)^ 福島市史編纂委員会 1972, pp. 8–9.
(21)^ ab福島市史編纂委員会 1972, p. 9.
(22)^ 福島市史編纂委員会 1972, pp. 9–10.
(23)^ abc福島市史編纂委員会 1972, p. 18.
(24)^ 福島市史編纂委員会 1972, pp. 18–19.
(25)^ 福島市史編纂委員会 1972, pp. 22–23.
(26)^ “県名の由来”. 福島県ホームページ. 福島県 (2016年4月15日). 2023年9月4日閲覧。
(27)^ ﹃当代記﹄。
(28)^ 福島市史編纂委員会 1972, p. 41.
参考文献
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●柏木輝久﹃大坂の陣 豊臣方人物事典﹄北川央 監修︵2版︶、宮帯出版社、2018年。ISBN 978-4-8016-0007-2。
●熊谷隆次﹁奥羽仕置と稗貫氏―﹃稗貫家譜﹄の分析から―﹂﹃弘前大学國史研究﹄第137号、2014年。
●中野等﹃石田三成伝﹄吉川弘文館、2017年。ISBN 978-4-642-02934-6。
●福島市史編纂委員会 編﹃福島市史 第2巻 近世I︵通史編2︶﹄福島市教育委員会、1972年。全国書誌番号:73008449。