本田明彦
来歴
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東京都出身。立教高等学校︵現・立教新座高等学校︶3年︵17歳︶だった1965年7月3日、父が死去し後継会長に就任。マネージャー長野ハルの庇護を受けながら、1970年3月に立教大学を卒業[1][3][4]。
英語とスペイン語の語学力を活かし、ドン・キング、ボブ・アラムらの大物プロモーターとも直接交渉ができる。1988年と1990年には東京ドームでマイク・タイソンの防衛戦2試合を開催しただけでなく、ともに興行が成功したことで信頼関係を築いた[1][3]。それ以降、交渉が至難だった人気王者らも本田のパイプを活かし続々と日本のリングに上がるようになっただけでなく、対戦した日本人選手のレベルアップにも繋がったことで、井上尚弥のような強い日本人選手が生まれるようになった[5]。
1991年から始まったWOWOWのエキサイトマッチ製作にも尽力。日本テレビ・スポーツ報知の後援を得て毎月数回︵主に後楽園ホールにて︶開催されるダイナミックグローブの窓口プロモーターとして統括。
1990年代半ばには網膜剥離を患った大阪帝拳所属辰吉丈一郎の復帰に尽力し、日本ボクシングコミッションに特例での復帰やルール改正を実現させた。
2008年9月23日、世界ボクシング殿堂・関係者部門への殿堂入りが決定。日本人の同殿堂入りはファイティング原田、ジョー小泉以来3人目である[3][6][7]。11月15日にロサンゼルスのマリオットホテルにて殿堂入りのセレモニーが行われたが、本人は欠席した︵帝拳ロサンゼルス支部のヘナロ・エルナンデスが代理として出席した︶。2009年には国際ボクシング名誉の殿堂博物館にも展示。
出典
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(一)^ abc“Akihiko Honda” (英語). 国際ボクシング名誉の殿堂博物館. 2011年2月3日閲覧。
(二)^ GONG ︻ボクシング︼帝拳・本田会長、那須川天心を﹁間違いなく自信をもって送り出せる﹂﹁どこまで伸びるか。限りなく期待できます﹂ 2023/04/06
(三)^ abcd日刊スポーツ ﹃帝拳の本田会長がボクシング殿堂入り﹄ 2008年12月10日
(四)^ 信太のボクシングカフェ ﹁本物と闘いたい﹂願いは叶うか。村田諒太、帝拳魂の正統後継者。-Part1- ﹃帝拳ジムの歴史﹄ 2020年4月24日
(五)^ “﹁令和の時代に日本人の世界ヘビー級王者が誕生するかも﹂今はふに落ちる大橋会長の予言”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2023年12月27日) 2023年12月27日閲覧。
(六)^ ﹃ボクシング・ワールド 競馬最強の法則11月号増刊﹄、KKベストセラーズ、2008年11月20日、76頁。
(七)^ 名門ジム会長が果たした日本人3人目の殿堂入り。 Number Web 2009年1月6日