皇別摂家
歴史
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平安時代後期より御堂流の嫡流として摂政・関白・藤氏長者を継承してきた摂家は、中世においてはたびたび後継者を欠くことがあった。多くの場合は同じ家の親族が相続するが、適当な候補者がない場合には同流の摂家から迎えることもあった。九条家・一条家・二条家は同じ九条家流の家系であり、二条家から九条経教・一条経嗣が養子となって相続している。しかし中世においては公家でも適当な候補者が見られない場合には絶家となることもあった。摂家においても鷹司家は1552年に継承者がないまま当主が没し、1579年に二条家より養子を迎えて再興するまでの間絶家となっている[3]。
江戸時代初頭、近衛家と一条家が後継者を欠く事態が生まれた。このため後陽成天皇の第4皇子が近衛信尋として近衛家を継ぎ、第9皇子が一条昭良として一条家を継いだ[4]。近衛信尋や一条昭良の相続は母親が近衛前子であったことから認められた特殊な事例で、江戸時代の朝廷や幕府にとっては前例とすべきではないと認識され、実際には皇室の血の引く摂家が生まれることを望ましくはないと考えられていた可能性がある。後陽成の子である後水尾天皇の在世中は、近衛家と一条家は﹁内々の摂家﹂として扱われ、その他の﹁外様の摂家﹂と区別された[5]。ただしこれらは両者が後水尾の実弟にあたるための一代限りの待遇であり、その子孫はあくまで藤原氏として扱われた[5]。
摂家は明らかな血縁者が存在しても、摂家より下の家からの養子を迎えることは決してなかった[5]。こうした貴種性を重んじる養子縁組の考え方は江戸時代に家格に基づく公家間の身分統制が強化されるとともに摂家の間で理念として確立されていくことになる[6][7]。ただし、これは当時の朝廷を主導・統制してきた摂家の主張・論理であり、天皇や他の公家の間で共有されていたわけではない。寛保3年︵1743年︶、鷹司家当主の鷹司基輝が急死し、桜町天皇は閑院系清華家である西園寺家には鷹司家からの養子が入って男系子孫が続いていることを理由として同家から養子を取るように提案した。この案を支持する公家もいたが、摂家側は激しく反発して提案としても認めなかった[8]。
また同年には九条家においても後継者が不在となる事態が発生した。桜町天皇の弟である政宮︵後の遵仁法親王、中御門天皇第六皇子にあたる︶にいずれかもしくは二条家[注釈1]を相続させようと言う案が浮上したものの、天皇は親王の養子縁組が安易に行われることは皇室の威信︵﹁王威﹂︶を傷つけるとした上で政宮が病弱であることを理由に最後まで反対し、また摂家や武家伝奏の間では﹃禁中並公家諸法度﹄第6条にある養子縁組は同姓から迎えるという規定との兼ね合いで幕府から許可が得られるかも問題視されている。最終的には天皇・摂家・幕府との調整の結果、天皇の実子である政宮の相続は回避され、閑院宮直仁親王の子である鷹司輔平が鷹司家に養子に入ることとなった[9]。
江戸時代において皇族が摂家の養子となったのはこの三例である。﹁皇別摂家﹂という語が用いられる場合にはこれらの家を指す。これらの家は各公家家に養子を出しており、血統的にはその男系子孫となる家も多く生まれた。
また、江戸時代には天皇に近い皇族が清華家家格の家を創始ないし継承した例が2例ある。八条宮智仁親王︵正親町天皇子︶の第3王子は広幡忠幸として広幡家を創始し、有栖川宮韶仁親王︵霊元天皇曾孫︶の第4王子は西園寺公潔として西園寺家を相続した。しかし両者ともに男子がなく、男系では存続していない。
血統が皇統につながった公家の家は、従来の家と同じ扱いを受け、血縁によって扱いが変わることはなかった。明治時代に華族の同族連携を目的に設けられた宗族制でも、該当する摂家およびその男系子孫の家はいずれも本来の家祖の後裔として扱われており、藤原氏系の家はいずれも﹁神別﹂として扱われている[2]。また近代以降は旧摂家などの養子に対する制限も行われなくなり、摂家は他の華族から養子を迎えることもあった。﹁皇別摂家﹂であった3家も養子を迎えており、後陽成天皇以降の﹁皇別﹂ではなくなっている。このうち近衛家と鷹司家は清和天皇の後裔を称する皇別氏族の旧大名華族から養子を迎えている。
平成時代以降、皇室の安定的な継承が問題となる中で、これら皇別摂家の男系男子による皇族復帰を検討するべきであるという意見が存在している[1]。
名称
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﹁皇別摂家﹂という語は、氏族・系図研究の大家であった太田亮が1920年︵大正9年︶刊行の﹃姓氏家系辞書﹄において近衛信尋を﹁皇別摂家の鼻祖﹂と呼んだのが初出であるが、一条家や鷹司家に対しては﹁皇別摂家﹂の語は使われなかった。太田が1934年︵昭和9年︶にまとめた畢生の大著﹃姓氏家系大辞典﹄は、信尋以後の近衛家を﹁皇胤近衛家﹂と呼んでそれ以前の近衛家と区別している。ただしここでは近衛・一条・鷹司3家のいずれにも﹁皇別摂家﹂を使っていない。このあと、丹羽基二なども稀に近衛家を指してこの語を用いたが、いずれにせよ広く用いられるには至らず、歴史学者が使う学術用語としても、在野の系図研究家が使う専門用語としても、この言葉が定着することはなかった。
以上のように﹁皇別摂家﹂の語は、もっぱら五摂家筆頭とされる近衛家の貴種性を表現する修辞の一つに過ぎなかったが、のちに用法を拡大し、摂家︵近衛・一条・鷹司︶にとどまらずその男系血統の子孫たち、つまり本家に加えて分家や他家の養子として分かれた系統についても、男系の実親子関係をたどって近世の皇室以来の血統を保持している子孫まで含んで用いられるようになった[1]。
系図
編集継承・存続状況
編集近衛系
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信尋-尚嗣-基熙-家熙-家久-内前-経熙-基前-忠熙-忠房-篤麿-文麿-文隆と血統を伝え、明治期には公爵家となった。
特に、後陽成天皇の男系12世子孫にあたる近衛家第30代当主の文麿は昭和初期に3度にわたって内閣総理大臣を務めたが︵第34、38・39代︶、日中戦争︵支那事変︶を泥沼化させ︵第1次近衛内閣︶、日米開戦直前に政権を投出し︵第2次・第3次近衛内閣︶、第二次世界大戦︵太平洋戦争/大東亜戦争︶後にGHQのA級戦争犯罪人指定︵極東国際軍事裁判︶により出頭命令を受けて自殺した。敗戦の際に旧満州︵現‥中国東北部︶でソ連軍に捕らえられてシベリア抑留にあった文隆が1956年︵昭和31年︶に夫人との間に子供を儲けること無く死去した後、文麿の末娘︵二女︶温子の二男忠煇︵旧名は護煇︶を当主に迎えている。忠煇の実父は旧熊本藩主家の細川護貞であり、細川氏は清和天皇の後裔を称する皇別氏族である。
文麿の弟秀麿が分家した旧子爵近衛家と、常磐井家を相続した堯猷︵忠房の子︶の男系子孫が現存する。忠房の弟忠起が興した男爵水谷川家は、文麿・秀麿の弟忠麿が相続し、さらに秀麿の子忠俊が継いでいる。
小説家西木正明の著したドキュメンタリー小説﹃夢顔さんによろしく﹄では、文隆には旧満洲国領の牡丹江市の芸者である妾の東美代子との間に誕生した非嫡出子が存在したことを紹介している。この人物は元俳優の東隆明である。美代子の証言以外にその真偽を確認する術はないが、同書によれば美代子・隆明母子は一般には非公開の近衛家墓所で文麿・文隆の墓参をすることが許容されていたという。また、隆明のブログによれば、隆明は通隆︵文隆の弟︶夫妻の居住する荻外荘を毎月のように訪問していたという[10]。
一条昭良系
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昭良-教輔-兼輝と継承された後、兼香︵鷹司房輔の子︶が養子に入って継ぎ、昭良の男系はいったん途切れた。
昭良の次男冬基は醍醐家を興して清華家に列せられ、冬基-冬熙-経胤-輝久-輝弘-忠順-忠敬-忠重と継承し、男系子孫が現存する。忠重は明治に海軍軍人となり、潜水艦の専門家として名を馳せて海軍中将まで昇進した。
慶応4年︵1868年︶には醍醐忠順の三男が一条忠貞となって一条家を継いだが廃嫡された。その後醍醐輝久の孫四条隆平︵戸籍上の父は四条隆謌︶の子一条実輝が継いだが、実輝には男子がなく、大炊御門師前の長男が継いで一条実孝となり、再び藤原系となっている。
鷹司輔平系
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江戸時代中期に閑院宮家から鷹司家を継いだ輔平に始まる。輔平の甥は第119代光格天皇となり、以後直系・男系による皇位継承がなされて第126代今上天皇まで続いている。﹁皇別摂家﹂の中では現在の皇室に男系で最も近い系統となる。
輔平-政熙-政通-輔熙と継承されたが、輔熙の子輔政が急逝したため九条尚忠の子熙通が輔熙の養子となった。この時点で鷹司家は藤原系となったが、1966年に養子となった鷹司尚武は大給松平家の出身であり、男系血統では宇多天皇の後裔を称する鍋島氏の後裔である。
輔平は多くの子を儲け、旧華族公爵徳大寺家をはじめ、鷹司家から養子を迎え現在までその血統を受け継いでいる家系は少なくない。急逝した鷹司輔政の実弟脩季は旧侯爵菊亭家を継ぎ立憲政友会幹事長を務めた。徳大寺公純は鷹司輔熙の密子であり、その子には戦前2度にわたり内閣総理大臣を務め、最後の元老であった西園寺公望、内大臣・公爵となった徳大寺実則、住友財閥の継承者となった住友友純。
現在の「皇別摂家」
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同姓同系譜の分家は各項目参照(爵位持ちで分家した徳大寺男爵家と一条男爵家と四条男爵家を除く)
●近衛信尋の子孫
●東家(近衛文隆の庶子の東隆明が母方の姓を名乗り成立)
●常磐井家︵真宗高田派法主、旧男爵、養子に入った堯猷は忠房の子︶
●近衛家︵旧子爵、公爵近衛家の分家、近衛秀麿が興す︶
●長井家(秀麿の四男・雅楽が母に従い近衛家から離籍したことで成立[11])
●水谷川家︵旧堂上格、旧男爵、公爵近衛家の分家︶︵断絶見込︶
●森本家(水谷川忠起の長男忠順が森本六兵衛の養子に入る[12]、詳細不明)
●一条昭良の子孫
●醍醐家︵旧堂上、旧侯爵︶
●四条家 醍醐輝久の次男隆生が四条家を継ぎ成立するも隆徳に男子なく
●四条家 隆生の三男隆平が男爵家を起こし成立するも男子なく、二条家からの養子が継承
●土佐一条氏︵旧男爵、土佐一条氏を再興した一条実輝の長男實基に子なく一代限りで断絶︶
●南部家︵旧盛岡藩主、旧伯爵、養子に入った利英は一条実輝の子︶
●大塚家(利英の次男利博が大塚寛一の養子になって成立[13])
●佐野家︵旧伯爵、佐野常羽の養子に入った常光は一条実輝の子︶
●鷹司輔平の子孫
●華園家︵真宗興正派門主、旧男爵︶
●大谷家(華園澤称次男の称心が大谷勝彦の養子に入り成立[14]、詳細不明)
●梶野家︵旧永世華族、旧男爵︶
●日下家(華園澤称八男の称が日下俊隆の養子に入り成立[14]、詳細不明)
●徳大寺家︵旧堂上、旧公爵︶
●西園寺家︵旧清華、旧公爵︶徳大寺公純の子西園寺公望が継承。男子がなく、毛利氏︵神別︶から養子を迎える。
●徳大寺家︵旧男爵、公爵徳大寺家の分家︶
●室町家︵旧堂上、旧伯爵、旧四辻家︶
●北河原家︵旧堂上格、旧男爵︶
●大西家(北河原公憲の次男の又が大西志加の養子に入り成立[15]、詳細不明)
●千秋家︵旧熱田大宮司、旧男爵︶
●東儀家︵楽家︶
●芝亭家(室町公大次男の公同が芝亭愛古男爵家に養子入りするも男子なく[16]男系断絶)
●山本家︵旧堂上、旧子爵︶
●中院家︵旧堂上、旧伯爵︶︵断絶予定︶
●住友家(中院通富の次男富壽[17](改め理助[18])が住友保丸に養子に入りするも男子なく[18])男系断絶)
●末弘家(詳細不明)
●住友家︵旧財閥、旧男爵︶-徳大寺公純の子住友友純が15代当主として養子となる。
●大塚家(住友寛一の孫修が(大塚家の養子となり故大塚常次郎の孫のり子(1948年11月1日生)と結婚[19]して成立、詳細不明)
●高千穂家︵英彦山神宮宮司、旧男爵︶
徳大寺家系図
皇位継承問題との関連
編集この節は大言壮語的な記述になっています。 |
詳細は「皇位継承問題」を参照
﹁皇別摂家﹂が脚光を浴びるのは、現在の皇室︵全員が大正天皇の子孫︶の男系︵父系︶の血統が断絶する可能性が具体的に意識されるようになった21世紀になってからである。
小泉純一郎首相が、皇位の女系︵母系︶継承による﹁女系天皇﹂︵これは、日本史上8代10人存在した﹁女性天皇﹂とは異なる︶を容認する皇室典範の改正を提起した2004年︵平成16年︶11月ごろから皇位継承問題への国民的関心が高まり、1947年︵昭和22年︶のGHQによる占領政策の一環で、皇族の身分を離脱した11宮家の男系子孫︵いわゆる﹁旧皇族﹂︶による皇位継承を想定した議論が起こった。
2006年︵平成18年︶に悠仁親王が誕生し、小泉の提起した女系継承を容認する議論は下火となった。
また、2019年︵令和元年︶10月現時点で在位している第126代の今上天皇︵徳仁︶からの親等が﹁旧皇族﹂よりも近い﹁皇別摂家﹂から皇位継承者を輩出することを模索する意見も提起された。(しかし皇別摂家は、非皇族となってからの期間は旧皇族よりはるかに長い) 河野太郎衆議院議員も皇位継承問題の中で、皇族復帰の検討の必要性を自身のブログで訴えている。
脚注
編集注釈
編集出典
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(一)^ abc岩波祐子 2019, p. 162.
(二)^ ab﹃華族類別録﹄1878年。
(三)^ 木村修二 1994, p. 40.
(四)^ 木村修二 1994, p. 41-42.
(五)^ abc木村修二 1994, p. 53.
(六)^ 久保貴子﹁系譜にみる近世の公家社会-養嗣子の出自を中心に-﹂﹃大倉山論集﹄第47輯、2001年
(七)^ 木村修二﹁近世公家社会の︿家格﹀制ー﹁摂家﹂と﹁清華家﹂を中心にー﹂薮田貫 編﹃近世の畿内と西国﹄清文堂出版、2002年。
(八)^ 長坂良宏﹁近世摂家相続の原則と朝幕関係﹂﹃近世の摂家と朝幕関係﹄吉川弘文館、2018年︵原論文:﹃日本歴史﹄第721号、2008年︶ 2018年、P30-40.
(九)^ 長坂良宏﹁近世摂家相続の原則と朝幕関係﹂﹃近世の摂家と朝幕関係﹄吉川弘文館、2018年︵原論文:﹃日本歴史﹄第721号、2008年︶ 2018年、P20-43.
(十)^ 東隆明ブログ CHANCE!﹁もう一つの戦争 番外12﹂ http://ryu-mei.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/12-b6d9.html
(11)^ 平成新修旧華族家系大成上p607
(12)^ 平成新修旧華族家系大成下p701
(13)^ 平成新修旧華族家系大成下p289
(14)^ ab平成新修旧華族家系大成上p368-369
(15)^ 平成新修旧華族家系大成上p490
(16)^ 人事興信録第14版し34
(17)^ 中院通規 ﹃人事興信録﹄データペース、第4版 [大正4(1915)年1月]
(18)^ ab人事興信録第14版上ス91
(19)^ 人事興信録第28版す39
(20)^ abcd八幡和郎﹁今上天皇に血統の近い知られざる﹃男系男子﹄たち﹂﹃新潮45﹄36巻1号、新潮社、2017年1月18日、42頁。
参考文献
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●霞会館華族家系大成編輯委員会編 ﹃平成新修旧華族家系大成﹄上・下 霞会館、1996年。
●近藤敏喬編 ﹃宮廷公家系図集覧﹄ 東京堂出版、1996年。
●下橋敬長述・羽倉敬尚注 ﹃幕末の宮廷﹄ 平凡社︿東洋文庫﹀、1979年。
●太田亮著・丹羽基二編 ﹃新編姓氏家系辞書﹄ 秋田書店、1974年。
●太田亮著 ﹃姓氏家系大辞典﹄全3巻 角川書店、1963年。
●岩井忠熊﹃西園寺公望﹄ 岩波書店︿岩波新書﹀、2003年。
●﹁本朝皇胤紹運録﹂ 塙保己一編 ﹃群書類従﹄第5輯 続群書類従完成会、1999年。
●西木正明﹃夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯﹄上・下 文藝春秋︿文春文庫﹀、2002年。
●木村修二﹁近世公家社会の﹁家﹂に関する一試論 : 養子縁組をめぐって﹂﹃史泉﹄第79巻、関西大学史学・地理学会、1994年、ISSN 03869407、NAID 120007152704。
●岩波祐子﹁﹁安定的な皇位継承﹂をめぐる経緯 : 我が国と外国王室の実例﹂﹃立法と調査﹄第415巻、参議院常任委員会調査室・特別調査室、2019年。