肥田真幸
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肥田 真幸︵ひだ さねゆき、1919年︵大正8年︶3月21日 - 2012年︵平成24年︶9月12日︶は、元大日本帝国海軍軍人、海上自衛官。海兵第67期卒業。第9代航空集団司令官︵海将︶。鹿児島県出身。
肥田 眞幸 | |
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![]() 海上自衛隊(1等海佐)時代の肥田真幸 | |
生誕 |
1919年3月21日![]() |
死没 |
2012年9月12日(93歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 |
1939 - 1945(日本海軍) 1954 - 1954(警備隊) 1954 - 1975(海自) |
最終階級 |
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指揮 | 航空集団司令官 |
除隊後 |
川崎重工業 日本会議 |
略歴
編集
●1919年︵大正8年︶3月‥鹿児島県日置郡串木野村生まれ。戸籍上の氏名は﹁肥田 眞幸﹂である[要出典]。
●1939年︵昭和14年︶7月25日‥海軍兵学校︵第67期︶卒業、任海軍少尉候補生、﹁八雲﹂乗組[1]。兵学校同期には中村悌次︵元海上幕僚長︶がいた。
●1940年︵昭和15年︶
●5月1日‥海軍少尉に任官[2]、重巡洋艦﹁愛宕﹂乗組
●11月25日‥海軍練習航空隊飛行学生[3]
●1941年︵昭和16年︶
●10月15日‥海軍中尉に進級[4]
●11月17日‥大村海軍航空隊附兼教官[5]
●1942年︵昭和17年︶1月25日‥霞ヶ浦海軍航空隊附兼教官[6]
●1943年︵昭和18年︶
●6月1日‥海軍大尉に進級[7]
●7月1日‥第331海軍航空隊分隊長[8]
●9月1日‥第551海軍航空隊飛行隊長兼分隊長[9]
●1944年︵昭和19年︶
●3月4日‥攻撃第251飛行隊長[10]。トラック島空襲を経験。同年のマリアナ沖海戦では、トラック島からグアム島に出撃し、グアム島からトラック島に生還した。その後、空路にて内地に帰還する。
●8月5日‥戦闘第162飛行隊長[11]
●11月15日‥第601海軍航空隊飛行隊長[12]
●1945年︵昭和20年︶
●2月20日‥攻撃第254飛行隊長兼分隊長[13]。菊水作戦における天山の夜間雷撃作戦に携わる。
●9月15日‥予備役に編入[14]。
●1954年︵昭和29年︶6月1日‥保安庁警備隊入隊︵3等警備正︶[15]
●1958年︵昭和33年︶
●2月‥2等海佐に昇任
●7月‥海上幕僚監部総務部人事課補任班長兼経歴班長
●1961年︵昭和36年︶9月1日‥第51航空隊司令
●1964年︵昭和39年︶1月1日‥1等海佐に昇任
●1966年︵昭和41年︶7月7日‥海上幕僚監部防衛部教育第2課長
●1969年︵昭和44年︶4月16日‥航空集団司令部幕僚長
●1970年︵昭和45年︶7月1日‥海将補に昇任、第4航空群司令
●1971年︵昭和46年︶7月5日‥第1航空群司令
●1972年︵昭和47年︶12月16日‥教育航空集団司令官に就任
●1973年︵昭和48年︶12月1日‥海将に昇任、航空集団司令官に就任
●1975年︵昭和50年︶7月1日‥退官。川崎重工業顧問に就任
●1989年︵平成元年︶4月29日‥勲三等瑞宝章受章[16]
●2009年︵平成21年︶‥日本会議・日本協議会の活動に参加
●2011年︵平成23年︶‥NHK製作のドキュメンタリー番組﹁﹃証言記録 兵士たちの戦争﹄トラック諸島 消えた連合艦隊﹂に出演し、自身の戦争体験を証言した。肥田の証言を収録したビデオが同社によってインターネット上に設けられたサイト﹁NHK戦争証言アーカイブス﹂に掲載されており、誰でも視聴することが可能である。
●2012年︵平成24年︶9月12日‥肺炎のため、鹿児島県鹿屋市の病院で死去︵享年93歳︶[17]
参考文献
編集- 肥田真幸「青春天山雷撃隊 ヒゲのサムライ奮戦記」光人社(1983年)
脚注
編集- ^ 「昭和14年7月25日 海軍辞令公報(部内限)第362号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000
- ^ 「昭和15年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第471号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078000
- ^ 「昭和15年11月25日 海軍辞令公報(部内限)第559号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079700
- ^ 「昭和16年10月15日 海軍辞令公報(部内限)第727号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082700
- ^ 「昭和16年11月17日 海軍辞令公報(部内限)第749号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083100
- ^ 「昭和17年1月26日 海軍辞令公報(部内限)第801号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084100
- ^ 「昭和18年6月1日 海軍辞令公報(部内限)第1127号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091200
- ^ 「昭和18年7月1日 海軍辞令公報(部内限)第1162号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092000
- ^ 「昭和18年9月3日 海軍辞令公報(部内限)第1206号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092800
- ^ 「昭和19年3月4日 海軍辞令公報(部内限)第1359号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096500
- ^ 「昭和19年8月11日 海軍辞令公報 甲 第1560号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500
- ^ 「昭和19年11月27日 海軍辞令公報 甲 第1653号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000
- ^ 「昭和20年2月26日 海軍辞令公報 甲 第1731号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103500
- ^ 「昭和20年12月6日 第二復員省辞令公報 甲 第5号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162000
- ^ 『官報』本紙第8290号(昭和29年8月20日)
- ^ 『官報』号外第61号(平成元年5月1日
- ^ 肥田真幸氏死去(元海上自衛隊航空集団司令官、元海将) 時事通信 2012年9月13日閲覧