金井清 (諏訪市長)
人物
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長野県諏訪郡上諏訪町︵現在の諏訪市上諏訪︶に生まれる[3]。諏訪郡立実科中学校︵現長野県諏訪清陵高等学校︶、東京府立第一中学校︵現東京都立日比谷高等学校︶を経て、1903年に第一高等学校に入学。3年次在学中の1905年、市河三喜に代わって動物学者のアンダーソンと行動をともにし、1906年にも協力する[3]。1905年にアンダーソンに随行した際に、奈良県東吉野村鷲家口で、最後のものとされるニホンオオカミの捕獲個体︵ただし猟師によりすでに殺されていた︶に立ち会っている[注1]。
1907年、第一高等学校 を卒業し[3]、東京帝国大学法科大学に入学。1911年、法科大学政治学科を卒業した[1]。同年、高等文官試験に合格し、鉄道院︵1920年より鉄道省︶に入省して書記となった[1]。その後、鉄道院副参事、鉄道院参事を歴任した[1]。
1923年、鉄道省参事官だった金井は関東大震災からの復興を目的として設立された帝都復興院に出向、帝都復興院書記官総裁官房事務取扱[4]、復興局文書課長に任じられた[1][注2]。1925年に鉄道省に復帰して書記官・監督局業務課長を務めた[1]。その後、朝鮮総督府鉄道局参事を兼任し、6年にわたって北京・上海に駐在した[5]。1932年、鉄道監察官を最後に退官した[6]。
退官後は南満州鉄道株式会社哈爾浜建設事務所長、哈爾浜取引所理事、日仏対満事業公司常務理事、中支那振興株式会社理事、太平洋協会参与を歴任した[5][6]。
戦後、1945年︵昭和20年︶10月、諏訪市長に就任し市政の立て直しに尽力したが[7]、公職追放となり[8]、1947年︵昭和22年︶2月に市長を退任[7]。追放解除後、1951年︵昭和26年︶4月、現職塚原葦穂に勝って諏訪市長に再選され、諏訪郡中洲村・湖南村の諏訪市への編入に尽力し、1955年︵昭和30年︶4月1日に編入された[9]。同年同月15日に市長を退任し、市長に通算2期在任した[9]。
市長退職後は再び鉄道界に入り、1966年4月26日に没した時は社団法人世界貿易センター理事であった[3]。
論文
編集- 金井清「日本で捕れた最後の狼」『満洲生物学会会報』第2巻、第2号、満洲生物学会、19-20頁、1939年。[3]
親族
編集脚注
編集注釈
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(一)^ 金井は1938年に中支那振興株式会社の理事に就任して立川飛行場から軍用機で上海に向かう途中、﹁奈良県の上空でふと下を見下すと杉林の密林である。その時33年前此の杉林の中の鷲家口の宿に、M.P.アンダーソンと共に二週間ばかり滞在して多くの動物を採集した事を思い出した﹂(金井清 1939)という(上野益三 1969)。
(二)^ 金井と同じ鉄道省参事官であった十河信二︵戦後、第4代日本国有鉄道総裁︶も同時に帝都復興院書記官(三等) ・総裁官房に任じられている(大阪朝日新聞 1923)。﹁従って、復興局の要職中、整地部・建築部以外は殆んど鉄道省出身に占められて仕舞った。中にも大田(太田?)、十河、金井﹂のコンビ勢力が最も強大、という状態であった(松浦茂樹 2012)。1924年8月の復興局疑獄事件で十河信二が逮捕され、再審で無罪となるも1926年に退職し、南満州鉄道理事、興中公司社長を歴任した(満州日報 1935)。疑獄事件ではほかに太田圓三が自殺する事態となった。
出典
編集参考文献
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●大阪朝日新聞 (1923), 1923.9.30(大正12)復興院幹部二十九日の閣議にて確定, 大阪朝日新聞 2013年5月22日閲覧。
●満州日報 (1935), 1935.8.2(昭和10)満鉄の対支投資会社"興中公司"の設立認可. 社長に十河信二氏起用, 満州日報 2013年5月22日閲覧。
●松浦茂樹 (2012), “直木倫太郎と帝都復興事業 : 大阪都市計画事業から東京震災復興事業へ”, 国際地域学研究 (東洋大学国際地域学部) 15: 197-234, ISSN 1343-9057, NAID 40019326558
●上野益三 (1969), “鷲家口とニホンオオカミ”, 甲南女子大学研究紀要: 89-108
●帝国秘密探偵社編﹃大衆人事録 第3版﹄帝国秘密探偵社、1930年。
●人事興信所編﹃人事興信録 第11版︵上︶﹄人事興信所、1937年。
●人事興信所編﹃人事興信録 第13版︵上︶﹄人事興信所、1941年。
●﹃日本の歴代市長 第2巻﹄歴代知事編纂会、1984年。
●﹃全国歴代知事・市長総覧﹄日外アソシエーツ、2022年。
関連項目
編集- マルコム・プレイフェア・アンダーソン
- 市河三喜: 金井清と同時期に旧制第一高等学校に在籍
- 十河信二
- 太田圓三