「クリート・ボイヤー」の版間の差分
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本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが[[1971年]]、在籍していた[[アトランタ・ブレーブス]]の首脳陣に対する批判を行い解雇され、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため独立リーグのハワイ・アイランダースでプレーしていたところ、大洋の[[牛込惟浩]]スカウトが声をかけアメリカを見返すために入団した。なお、この時アイランダースにはのちにボイヤーとともに大洋へ入団することとなる[[ジョン・シピン]]も在籍していた。 |
本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが[[1971年]]、在籍していた[[アトランタ・ブレーブス]]の首脳陣に対する批判を行い解雇され、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため独立リーグのハワイ・アイランダースでプレーしていたところ、大洋の[[牛込惟浩]]スカウトが声をかけアメリカを見返すために入団した。なお、この時アイランダースにはのちにボイヤーとともに大洋へ入団することとなる[[ジョン・シピン]]も在籍していた。 |
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[[1972年]]に大洋に入団。打撃は外国人としてみれば低い方だが、その打撃を補って余りある守備力を持ち、[[1973年]]・[[1974年]]には連続して[[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]を獲得している。当時、セ・リーグ三塁手には[[長嶋茂雄]]という絶対的スターが |
[[1972年]]に大洋に入団。打撃は外国人としてみれば低い方だが、その打撃を補って余りある守備力を持ち、[[1973年]]・[[1974年]]には連続して[[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]を獲得している。当時、セ・リーグ三塁手には[[長嶋茂雄]]という絶対的スターがおり、その長嶋を差し置いて選出されたが、その守備は日本球界に強い印象を与え、高く評価されていた。
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当時、ボイヤー・シピン・[[米田慶三郎]]・[[松原誠]]の内野陣は12球団でも屈指の堅守を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、自身よりもはるかに格上な名門ヤンキースのレギュラー選手であったボイヤーの言うことにだけは絶対に逆らわなかったという。
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当時、ボイヤー・シピン・[[米田慶三郎]]・[[松原誠]]の内野陣は12球団でも屈指の堅守を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、自身よりもはるかに格上な名門ヤンキースのレギュラー選手であったボイヤーの言うことにだけは絶対に逆らわなかったという。
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[[1975年]]に引退した後も守備コーチとして大洋に残り、[[山下大輔]]や[[田代富雄]]を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋・横浜を通じて鉄壁の内野陣が代々継承されている。一部のファンからは﹁ボイヤーがいなければ[[石井琢朗]]や[[進藤達哉]]が球界を代表する堅守の内野手になることはありえず、彼らが中心的な役割を果たした[[1998年]]の横浜の日本一はなかったかも知れない﹂と |
[[1975年]]に引退した後も守備コーチとして大洋に残り、[[山下大輔]]や[[田代富雄]]を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋・横浜を通じて鉄壁の内野陣が代々継承されている。一部のファンからは﹁ボイヤーがいなければ[[石井琢朗]]や[[進藤達哉]]が球界を代表する堅守の内野手になることはありえず、彼らが中心的な役割を果たした[[1998年]]の横浜の日本一はなかったかも知れない﹂と言われており、球団の育成方針に絶大な影響を与えた。
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[[1976年]]に守備コーチとして日本に残っているが、その年自分の後継者として[[ゲーリー・ジェスター]]を入団させている。ジェスターは1975年に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]へ入団し、'''ジェスター'''の登録名でプレーしていたが、打率.242、9本塁打、45打点と成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかし、ボイヤーの﹁'''俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない'''﹂との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名は'''ゲーリー'''。ゲーリーは大洋では18本塁打とホームランこそ前年から倍増したものの、打率は.236とさらに低迷。加えてボイヤーが育てた田代が三塁手として成長したために退団となった。こうしてボイヤーもゲーリーと共に退団した。
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[[1976年]]に守備コーチとして日本に残っているが、その年自分の後継者として[[ゲーリー・ジェスター]]を入団させている。ジェスターは1975年に[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]へ入団し、'''ジェスター'''の登録名でプレーしていたが、打率.242、9本塁打、45打点と成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかし、ボイヤーの﹁'''俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない'''﹂との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名は'''ゲーリー'''。ゲーリーは大洋では18本塁打とホームランこそ前年から倍増したものの、打率は.236とさらに低迷。加えてボイヤーが育てた田代が三塁手として成長したために退団となった。こうしてボイヤーもゲーリーと共に退団した。
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当時無名の選手であった[[高木由一]]が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた。高木の素質を見ぬいていたボイヤーは、退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。
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当時無名の選手であった[[高木由一]]が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた。高木の素質を見ぬいていたボイヤーは、退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。
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金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず﹁君らの評価通りの金額を書き込んでくれ﹂と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある |
金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず「君らの評価通りの金額を書き込んでくれ」と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある。 |
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2007年6月4日、脳内出血のためアトランタの病院で逝去。70歳だった。 |
2007年6月4日、脳内出血のため[[アトランタ]]の病院で逝去。70歳だった。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
2008年12月22日 (月) 18:01時点における版
クリート・ボイヤー︵Cletis Leroy "Clete" Boyer、1937年2月9日 - 2007年6月4日︶はメジャーリーグと大洋ホエールズで活躍したプロ野球選手。
来歴・人物
メジャーリーグでも名前の知られた選手で、1969年にはナ・リーグのゴールドグラブ賞︵三塁手︶を獲得している。1960年から1964年にかけてヤンキースがア・リーグ5連覇をしたときの正三塁手。ボイヤー家は野球一家で、クリートの兄のクロイド・ボイヤーとケン・ボイヤーもメジャーリーガーで、その他の兄弟も6人全員がプロになっている。 本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが1971年、在籍していたアトランタ・ブレーブスの首脳陣に対する批判を行い解雇され、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため独立リーグのハワイ・アイランダースでプレーしていたところ、大洋の牛込惟浩スカウトが声をかけアメリカを見返すために入団した。なお、この時アイランダースにはのちにボイヤーとともに大洋へ入団することとなるジョン・シピンも在籍していた。 1972年に大洋に入団。打撃は外国人としてみれば低い方だが、その打撃を補って余りある守備力を持ち、1973年・1974年には連続してダイヤモンドグラブ賞を獲得している。当時、セ・リーグ三塁手には長嶋茂雄という絶対的スターがおり、その長嶋を差し置いて選出されたが、その守備は日本球界に強い印象を与え、高く評価されていた。 当時、ボイヤー・シピン・米田慶三郎・松原誠の内野陣は12球団でも屈指の堅守を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、自身よりもはるかに格上な名門ヤンキースのレギュラー選手であったボイヤーの言うことにだけは絶対に逆らわなかったという。 1975年に引退した後も守備コーチとして大洋に残り、山下大輔や田代富雄を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋・横浜を通じて鉄壁の内野陣が代々継承されている。一部のファンからは﹁ボイヤーがいなければ石井琢朗や進藤達哉が球界を代表する堅守の内野手になることはありえず、彼らが中心的な役割を果たした1998年の横浜の日本一はなかったかも知れない﹂と言われており、球団の育成方針に絶大な影響を与えた。 1976年に守備コーチとして日本に残っているが、その年自分の後継者としてゲーリー・ジェスターを入団させている。ジェスターは1975年に日本ハムへ入団し、ジェスターの登録名でプレーしていたが、打率.242、9本塁打、45打点と成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかし、ボイヤーの﹁俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない﹂との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名はゲーリー。ゲーリーは大洋では18本塁打とホームランこそ前年から倍増したものの、打率は.236とさらに低迷。加えてボイヤーが育てた田代が三塁手として成長したために退団となった。こうしてボイヤーもゲーリーと共に退団した。 当時無名の選手であった高木由一が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた。高木の素質を見ぬいていたボイヤーは、退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。 金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず﹁君らの評価通りの金額を書き込んでくれ﹂と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある。 2007年6月4日、脳内出血のためアトランタの病院で逝去。70歳だった。略歴
通算成績
- メジャー年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955年 | OAK | 47 | 79 | 3 | 19 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 3 | 17 | .241 |
1956年 | 67 | 129 | 15 | 28 | 3 | 1 | 1 | 4 | 1 | 2 | 0 | 13 | 24 | .217 | |
1957年 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
1958年 | NYY | メジャー出場なし | |||||||||||||
1959年 | 47 | 114 | 4 | 20 | 2 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 1 | 8 | 23 | .175 | |
1960年 | 124 | 393 | 54 | 95 | 20 | 1 | 14 | 46 | 2 | 7 | 5 | 27 | 85 | .242 | |
1961年 | 148 | 504 | 61 | 113 | 19 | 5 | 11 | 55 | 1 | 3 | 7 | 69 | 83 | .224 | |
1962年 | 158 | 566 | 85 | 154 | 24 | 1 | 18 | 68 | 3 | 5 | 8 | 62 | 106 | .272 | |
1963年 | 152 | 557 | 59 | 140 | 20 | 3 | 12 | 54 | 4 | 2 | 2 | 46 | 91 | .251 | |
1964年 | 147 | 510 | 43 | 111 | 10 | 5 | 8 | 52 | 6 | 3 | 4 | 48 | 93 | .218 | |
1965年 | 148 | 514 | 69 | 129 | 23 | 6 | 18 | 58 | 4 | 2 | 4 | 51 | 79 | .251 | |
1966年 | 144 | 500 | 59 | 120 | 22 | 4 | 14 | 57 | 6 | 4 | 6 | 50 | 48 | .240 | |
1967年 | ATL | 154 | 572 | 63 | 140 | 18 | 3 | 26 | 96 | 6 | 0 | 6 | 44 | 81 | .245 |
1968年 | 71 | 273 | 19 | 62 | 7 | 2 | 4 | 17 | 2 | 0 | 0 | 21 | 32 | .227 | |
1969年 | 144 | 496 | 57 | 124 | 16 | 1 | 14 | 57 | 3 | 4 | 3 | 65 | 87 | .250 | |
1970年 | 134 | 475 | 44 | 117 | 14 | 1 | 16 | 62 | 2 | 3 | 5 | 50 | 71 | .246 | |
1971年 | 30 | 98 | 10 | 24 | 1 | 0 | 6 | 19 | 0 | 1 | 1 | 10 | 11 | .245 | |
通算 | 1725 | 5780 | 645 | 1396 | 200 | 33 | 162 | 654 | 41 | 37 | 53 | 569 | 931 | .242 |
- 日本年度別成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1972年 | 大洋 | 4 | 99 | 347 | 38 | 99 | 12 | 0 | 18 | 165 | 51 | 0 | 1 | 0 | 24 | 38 | .285 |
1973年 | 6 | 86 | 306 | 22 | 69 | 13 | 0 | 14 | 124 | 39 | 0 | 1 | 2 | 24 | 43 | .225 | |
1974年 | 118 | 432 | 44 | 122 | 16 | 1 | 19 | 197 | 65 | 0 | 1 | 2 | 23 | 48 | .282(12) | ||
1975年 | 116 | 401 | 38 | 92 | 10 | 1 | 20 | 164 | 63 | 1 | 2 | 1 | 22 | 52 | .229(31) | ||
通算成績 | 419 | 1486 | 142 | 382 | 51 | 2 | 71 | 650 | 218 | 1 | 5 | 5 | 93 | 181 | .257 |
タイトル・表彰
- ゴールドグラブ賞 1969年(三塁手)
- ダイヤモンドグラブ賞 1973,1974年(三塁手)