「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の版間の差分
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{{Infobox person |
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[[画像:Vauban.jpg|right|200px]] |
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|name = セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン |
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|caption = ヴォーバンの肖像(18世紀初頭) |
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|birth_place = [[File:Royal Flag of France.svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[Saint-Léger-Vauban]] |
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|title = [[フランス元帥]]<br /> |
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[[リール (フランス)|リール]]知事(1668-1707)<br /> |
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要塞長官(1678-1703)<br /> |
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[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]会員 |
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|awards = Chevalier de l'ordre de Saint-Louis<br/> |
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Chevalier de l'ordre du Saint-Esprit |
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|footnotes = |
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'''ヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル'''('''Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban'''、[[1633年]][[5月15日]] - [[1707年]][[3月30日]])は、[[フランス王国|フランス]]国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に仕えた17世紀に活躍したフランスの軍人(技術将校)、建設技術者、[[建築家]]、[[都市計画家]]。軍隊技術者の中でもっとも有名な人物として知られる。150の戦場の要塞を建設あるいは修理し、53の城塞包囲攻撃を指揮したといわれる。近代的な稜堡式の[[要塞]]の築城法を体系化し、「落ちない城はない」と言われたほどの要塞[[攻城戦|攻城]]の名手であった。 |
'''ヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル'''('''Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban'''、[[1633年]][[5月15日]] - [[1707年]][[3月30日]])は、[[フランス王国|フランス]]国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に仕えた17世紀に活躍したフランスの軍人(技術将校)、建設技術者、[[建築家]]、[[都市計画家]]。軍隊技術者の中でもっとも有名な人物として知られる。150の戦場の要塞を建設あるいは修理し、53の城塞包囲攻撃を指揮したといわれる。近代的な稜堡式の[[要塞]]の築城法を体系化し、「落ちない城はない」と言われたほどの要塞[[攻城戦|攻城]]の名手であった。 |
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建設した要塞のうち12箇所は、2008年に[[ヴォーバンの防衛施設群]]として、[[世界遺産]]に登録された<ref name="Monde 70708">[http://www.lemonde.fr/culture/article/2008/07/07/douze-fortifications-de-vauban-au-patrimoine-mondial-de-l-unesco_1067454_3246.html#ens_id=1067459 ''Douze fortifications de Vauban au Patrimoine mondial de l'Unesco''] dans ''[[Le Monde]]'' du 7 juillet 2008.</ref><ref name="Le Figaro 80708">[http://www.lefigaro.fr/culture/2008/09/27/03004-20080927ARTFIG00001--sites-de-vauban-classesau-patrimoine-de-l-humanite.php ''Douze sites de Vauban classés au Patrimoine mondial de l'humanité''] dans ''[[Le Figaro]] du 8 juillet 2008.</ref>。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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17歳で[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]の軍隊に入隊し、[[フロンドの乱]]︵1648年 - 1653年︶に将校として参加する。その働きぶりがコンデ公の目にとまり、要塞の築城を任されることになった。しかし[[1653年]]にヴォーバンは国王軍に捕らえられ、[[ジュール・マザラン|マザラン]]のとりなしで[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に仕え、[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ]]元帥の連隊に配属された。こうして今度は自らが築城した要塞を自ら攻略する立場となった。
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17歳で[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]の軍隊に入隊し、[[フロンドの乱]]︵1648年 - 1653年︶に将校として参加する。その働きぶりがコンデ公の目にとまり、要塞の築城を任されることになった。しかし[[1653年]]にヴォーバンは国王軍に捕らえられ、[[ジュール・マザラン|マザラン]]のとりなしで[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に仕え、[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ]]元帥の連隊に配属された。こうして今度は自らが築城した要塞を自ら攻略する立場となった。
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フロンドの乱とそれに続く[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]]が[[1659年]]に終結するまでの間、ヴォーバンは10回の攻囲戦に参加、[[グラヴリーヌ]]の攻囲戦では技術士官団長に任じられ、たびたび負傷した。この間、[[1655年]]に王室侍従技術官︵技術士官︶に任命され、当時著名な軍事技術者であったルイ・ニコラ・ド・クレルヴィルに師事する。またこの時に歴史あるピカルディ連隊の中隊に配属され、軍事工学の専門家として勤務することとなる。同時期に従姉妹のジャンヌ・ドールネーと結婚している。
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フロンドの乱とそれに続く[[フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)|フランス・スペイン戦争]]が[[1659年]]に終結するまでの間、ヴォーバンは10回の攻囲戦に参加、[[グラヴリーヌ]]の攻囲戦では技術士官団長に任じられ、たびたび負傷した。この間、[[1655年]]に王室侍従技術官︵技術士官︶に任命され、当時著名な軍事技術者であった{{仮リンク|ルイ・ニコラ・ド・クレルヴィル|fr|Louis Nicolas de Clerville}}に師事する。またこの時に歴史あるピカルディ連隊の中隊に配属され、軍事工学の専門家として勤務することとなる。同時期に従姉妹のジャンヌ・ドールネーと結婚している。
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===領土拡張戦争=== |
===領土拡張戦争=== |
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オランダ侵略戦争終結後は築城最高責任者に就任し、一連の戦争でフランスが獲得した領土における防衛体制の整備にあたった。特に、平地の連続する[[フランドル]]では防衛のため要塞が必要と考えられ、ヴォーバンは[[ダンケルク]]から[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]に至る第一線要塞群15か所と、後方の要塞群13か所の築城を指揮した。
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オランダ侵略戦争終結後は築城最高責任者に就任し、一連の戦争でフランスが獲得した領土における防衛体制の整備にあたった。特に、平地の連続する[[フランドル]]では防衛のため要塞が必要と考えられ、ヴォーバンは[[ダンケルク]]から[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]に至る第一線要塞群15か所と、後方の要塞群13か所の築城を指揮した。
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[[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]に乗じて、フランスが[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]に侵攻した際には、ヴォーバンは[[1683年]]にコーリック、[[1684年]]に[[ルクセンブルク |
[[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]に乗じて、フランスが[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]に侵攻した際には、ヴォーバンは[[1683年]]にコーリック、[[1684年]]に[[ルクセンブルク市]]を攻略した。[[大同盟戦争]](1688年 - 1697年)ではフィリップスブルクや[[ナミュール]]の攻囲戦を指揮した。 |
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===多分野での功績=== |
===多分野での功績=== |
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この頃までにヴォーバンは、当時確立していた軍事技術と自らの実戦経験を合わせて、要塞攻城法と要塞築城法を確立した。攻城法としては、1673年のマーストリヒト攻囲戦で[[塹壕|平行壕]]を、[[大同盟戦争|アウクスブルク同盟戦争]]では坑道戦や跳飛射撃(砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法)を導入した。築城法としては、以下に述べる「第一方式」から「第三方式」と呼ばれる基本設計を体系化した。生涯で、新たに基礎から築いた要塞が37か所、改修に携わった要塞が300か所、攻略した要塞が53か所とされている。 |
この頃までにヴォーバンは、当時確立していた軍事技術と自らの実戦経験を合わせて、要塞攻城法と要塞築城法を確立した。攻城法としては、1673年のマーストリヒト攻囲戦で[[塹壕|平行壕]]を、[[大同盟戦争|アウクスブルク同盟戦争]]では坑道戦や跳飛射撃(砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法)を導入した。築城法としては、以下に述べる「第一方式」から「第三方式」と呼ばれる基本設計を体系化した。生涯で、新たに基礎から築いた要塞が37か所、改修に携わった要塞が300か所、攻略した要塞が53か所とされている。 |
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1677年に、陸軍大臣[[フランソワ=ミシェル・ル・テリエ|ルーヴォワ]]と、財務大臣[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]の親友として要塞総監に就任する。1703年1月14日に[[ |
1677年に、陸軍大臣[[フランソワ=ミシェル・ル・テリエ|ルーヴォワ]]と、財務大臣[[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]の親友として要塞総監に就任する。1703年1月14日に[[フランス元帥]]に叙せられる。同年、『[[要塞攻囲論]]』(''Traité de l'attaque des places'')を著す。だが[[スペイン継承戦争]](1702年 - 1713年)では、ヴォーバンが築城した要塞が攻略されるケースもあり、批判を受けることもあった。また、同時期に執筆した『[[要塞防御論]]』(''De la defense des places'')は芳しい評価を得られなかった。 |
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ヴォーバンは農林業や金融政策、植民地経営などに関する著作も残している。また[[フランス科学アカデミー]]の名誉会員でもあった。1690年代にはフランス各地の[[国勢調査]]を推進し、「フランスの[[ウィリアム・ペティ]]」とも綽名された。 |
ヴォーバンは農林業や金融政策、植民地経営などに関する著作も残している。また[[フランス科学アカデミー]]の名誉会員でもあった。1690年代にはフランス各地の[[国勢調査]]を推進し、「フランスの[[ウィリアム・ペティ]]」とも綽名された。 |
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彼はまた都市計画家として、[[ヌフ=ブリザック]]のように自分で生み出した新しい町を計画し、一方でおりにふれて建築家として、リールの司令官邸、教会、造兵廠やジグェ、プリアンソンの教会などの単独の建物も設計し、オーネやユッセの城も修復した。建築家としての長所がもっとも評価されるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁のマッシヴな簡潔さであり、列柱、[[エンタブラチュア]]、トロフィー、彫刻した羽目板で豊かにしたリールのパリ門のバロック的華麗さ、[[モブージュ]]のモン・ゲートの単純な壮大さまで範囲の広がるモニュメンタルな門である。これらにおいて実力が同時代の建築家リベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴な厳格さと壮大さに接近したとみられている。
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彼はまた都市計画家として、[[ヌフ=ブリザック]]のように自分で生み出した新しい町を計画した。他には内部を碁盤割にしたパターンの最初例である[[アラス]]、1679年の[[ロンウィ]] 、1680年の[[ザールルイ]]、1679年の[[ユナング]]、1681年の[[モン=ルイ]]、1692年のモン=ドー・ファンなどがある。一方でおりにふれて建築家として、リールの司令官邸、教会、造兵廠やジグェ、プリアンソンの教会などの単独の建物も設計し、オーネやユッセの城も修復した。建築家としての長所がもっとも評価されるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁のマッシヴな簡潔さであり、列柱、[[エンタブラチュア]]、トロフィー、彫刻した羽目板で豊かにしたリールのパリ門のバロック的華麗さ、[[モブージュ]]のモン・ゲートの単純な壮大さまで範囲の広がるモニュメンタルな門である。これらにおいて実力が同時代の建築家リベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴な厳格さと壮大さに接近したとみられている。
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ヴォーバンはルイ14世の尖兵となって働いたが、同時にルイ14世の政策を批判もしている。1685年の[[フォンテーヌブローの勅令]](ナントの勅令の廃止)には特に経済学的な観点から反対した。1707年には課税の平等と下層民の負担軽減を説いた『王室の十分の一税』(''Projet D'une Dixme Royale'')を著す。同書は[[重農学派]]の先駆的業績として知られているが、ルイ14世はこの書に怒り、焚書を命じたという。 |
ヴォーバンはルイ14世の尖兵となって働いたが、同時にルイ14世の政策を批判もしている。1685年の[[フォンテーヌブローの勅令]](ナントの勅令の廃止)には特に経済学的な観点から反対した。1707年には課税の平等と下層民の負担軽減を説いた『王室の十分の一税』(''Projet D'une Dixme Royale'')を著す。同書は[[重農学派]]の先駆的業績として知られているが、ルイ14世はこの書に怒り、焚書を命じたという。 |
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==ヴォーバン式要塞== |
==ヴォーバン式要塞== |
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{{See also|星形要塞}} |
{{See also|星形要塞}} |
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[[ファイル:Citadelle vue du ciel.jpg|サムネイル|リール要塞]] |
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[[画像:Fortbourtange.jpg|thumb|right|250px|稜堡式城郭の例。オランダのブールタング]]
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[[ファイル:Neuf-Brisach 007 850.jpg|サムネイル|ヌフ‐ブリザック]] |
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[[ファイル:Hakodate Goryokaku Panorama 1.JPG|thumb|right|250px|日本を代表する稜堡式城郭である[[函館市|函館]][[五稜郭]]]] |
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*[http://www.vauban.asso.fr/systemes.htm Association Vauban] - ヴォーバンの第一方式から第三方式の模式図がある。 |
*[http://www.vauban.asso.fr/systemes.htm Association Vauban] - ヴォーバンの第一方式から第三方式の模式図がある。 |
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軍事技術者としてのヴォーバンの素質は、新しい方法の発明よりむしろ伝統的方法を使用し適合させた機略縦横の点にあったといわれ、その巧妙さはピレネー山脈のモン=ルイ、そして[[サヴォイア公国]]領にあるモン・ドーファンやケイラ城のような困難な場所においてよく発揮されている。 |
軍事技術者としてのヴォーバンの素質は、新しい方法の発明よりむしろ伝統的方法を使用し適合させた機略縦横の点にあったといわれ、その巧妙さはピレネー山脈のモン=ルイ、そして[[サヴォイア公国]]領にあるモン・ドーファンやケイラ城のような困難な場所においてよく発揮されている。 |
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手がけた要塞のうちでもっとも有名なのは、リール要塞︵1668-1674︶、モブージュ要塞 |
手がけた要塞のうちでもっとも有名なのは、リール要塞︵1668-1674︶、モブージュ要塞︵1679年-1685年︶、そして[[ヌフ・ブリザック]]︵1697年-1708年︶である。彼の要塞のいくつか、とりわけ[[ロンウィ]]︵1678年建造︶は1914年-1918年の戦争にいたるまで効果的に軍用として用いられた。
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中世までの石積みで背の高い城壁は、[[ルネサンス]]期に[[ |
中世までの石積みで背の高い城壁は、[[ルネサンス]]期に[[攻城砲]]が出現すると格好の射撃目標となった。攻城砲の威力を減殺するために、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった<ref>榴弾の破壊力を柔軟な土塁で吸収させるため。また爆発直後の飛沫が兵士を傷つける事を防ぐことが可能。</ref>。一方で防御側としても、同時期に登場した[[銃]]の威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、死角がないように城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。こうして'''稜堡式城郭'''が発達していった。 |
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ヴォーバン式要塞は稜堡式城郭の完成形とも言える。ヴォーバンの築城法は、それまでにフランスやイタリアで定着していた方法と比べ独創的なものではない。ただし、それらを精緻な体系として作り上げたことにヴォーバンの功績がある。 |
ヴォーバン式要塞は稜堡式城郭の完成形とも言える。ヴォーバンの築城法は、それまでにフランスやイタリアで定着していた方法と比べ独創的なものではない。ただし、それらを精緻な体系として作り上げたことにヴォーバンの功績がある。 |
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==後世への影響== |
==後世への影響== |
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[[ファイル:Hakodate Goryokaku Panorama 1.JPG|サムネイル|五稜郭 末期の星型要塞]] |
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ヴォーバン以降のフランスでの要塞築城は必要性に基づいて進められたものであるが、国家財政にとっては重い負担となった。負担は国民に負わされ、やがて[[フランス革命]]につながっていく。だが皮肉なことに[[フランス革命戦争]]では、これらの要塞は旧式でありながら、国境の防衛に改めて効果を発揮した。
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ヴォーバン以降のフランスでの要塞築城は必要性に基づいて進められたものであるが、国家財政にとっては重い負担となった。負担は国民に負わされ、やがて[[フランス革命]]につながっていく。だが皮肉なことに[[フランス革命戦争]]では、これらの要塞は旧式でありながら、国境の防衛に改めて効果を発揮した。
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その後、野砲の射程が延びたことにより、中心都市そのものの周囲を稜堡式の城郭で覆うのではなく、中心都市から一定距離を置いた地点に小型のヴォーバン式要塞ともいえる[[堡塁]]を複数築き、そのネットワークをもって中心都市を防衛するという考え方が主流となった。日本においては、[[江戸]]と[[台場]]はこの関係にあると考えられるが、幕府の予算不足のためネットワークは未完成に終わった。[[函館市|函館]]と[[五稜郭]]もこの関係にあるという考え方もあるが、五稜郭はこの目的の城郭としては古い形式である(その一方で後述する塹壕線の原型が早くも持ち込まれており、戊辰戦争は西洋における新旧の戦法が混在する状況にあった)。 |
その後、野砲の射程が延びたことにより、中心都市そのものの周囲を稜堡式の城郭で覆うのではなく、中心都市から一定距離を置いた地点に小型のヴォーバン式要塞ともいえる[[堡塁]]を複数築き、そのネットワークをもって中心都市を防衛するという考え方が主流となった。日本においては、[[江戸]]と[[台場]]はこの関係にあると考えられるが、幕府の予算不足のためネットワークは未完成に終わった。[[函館市|函館]]と[[五稜郭]]もこの関係にあるという考え方もあるが、五稜郭はこの目的の城郭としては古い形式である(その一方で後述する塹壕線の原型が早くも持ち込まれており、戊辰戦争は西洋における新旧の戦法が混在する状況にあった)。 |
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20世紀に入ると、柔軟性がなく莫大なコストがかかる要塞([[要塞|永久築城]])は時代遅れとなり、[[野戦築城]]([[塹壕]])が主流となった。[[日露戦争]]においては[[ロシア]]軍が構築した重厚な要塞([[旅順要塞]])は当時出現した[[機関砲]]と併用することで絶大な防御威力を発揮した。それでも[[マジノ線]]のように、塹壕線と同規模のものを永久要塞の手法で建造するという野心的な試みもなされたが、無用の長物に終わった。ただし海岸砲台については、その特性上艦砲に比べて有利であったので、有効な防衛施設として機能した。なお、ヴォーバンが建設した[[ヴォーバンの防衛施設群|防衛施設群]]は[[2008年]]に[[世界遺産]]に登録された。 |
20世紀に入ると、永久な不動産故、柔軟性がなく莫大なコストがかかる要塞([[要塞|永久築城]])は時代遅れとなり、いつどこでも、都合のいい場所に作れる[[野戦築城]]([[塹壕]])が主流となった。[[日露戦争]]においては[[ロシア]]軍が構築した重厚な要塞([[旅順要塞]])は当時出現した[[機関砲]]と併用することで絶大な防御威力を発揮した。それでも[[マジノ線]]のように、塹壕線と同規模のものを永久要塞の手法で建造するという野心的な試みもなされたが、無用の長物に終わった。ただし海岸砲台については、その特性上艦砲に比べて有利であったので、有効な防衛施設として機能した。なお、ヴォーバンが建設した[[ヴォーバンの防衛施設群|防衛施設群]]は[[2008年]]に[[世界遺産]]に登録された。 |
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自身の築造理論はつとに有名で、彼の回想録『全建築家の遵守すべきいくつかの金言集 (''{{Lang|fr|Plusieurs maximes bonnes à observer par tous ceux qui font bâtir}}'')』は完全な建築論として著され、1968年にはG. A. ロートロックによる英訳版が刊行された。 |
自身の築造理論はつとに有名で、彼の回想録『全建築家の遵守すべきいくつかの金言集 (''{{Lang|fr|Plusieurs maximes bonnes à observer par tous ceux qui font bâtir}}'')』は完全な建築論として著され、1968年にはG. A. ロートロックによる英訳版が刊行された。 |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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{{commons|Sébastien Le Prestre de Vauban}} |
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*[http://www.vauban.asso.fr/ Association Vauban] |
*[http://www.vauban.asso.fr/ Association Vauban] |
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* [http://www.mablehome.com/montmedy/fr-montmedy01.htm Montmédy] |
* [http://www.mablehome.com/montmedy/fr-montmedy01.htm Montmédy] |
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* R.Blomfield Sebastian le Prestre de Vauban 1633-1707 |
* R.Blomfield Sebastian le Prestre de Vauban 1633-1707 |
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* M.Parent J.Verroust Vauban 1971 |
* M.Parent J.Verroust Vauban 1971 |
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2023年1月9日 (月) 00:14時点における最新版
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン | |
---|---|
![]() ヴォーバンの肖像(18世紀初頭) | |
生誕 |
1633年5月4日![]() |
死没 |
1707年3月30日 (73歳没)![]() |
死因 | 肺血栓塞栓症 |
墓地 | オテル・デ・ザンヴァリッド、バゾシュ |
国籍 | フランス |
著名な実績 | カマレの防衛、城塞建築 |
肩書き |
フランス元帥 |
受賞 |
Chevalier de l'ordre de Saint-Louis |
署名 | |
![]() |
生涯[編集]
ルイ14世への出仕[編集]
1633年、フランス、ブルゴーニュ地方のサン・レジェ・フォーシェレという小さな田舎町︵現在のヨンヌ県にあるこの町は、その功績を称えサン・レジェ・ヴォーバンと改名した︶の貧乏貴族の家に生まれた。10歳の時に孤児となり、農村社会での極貧生活を経験したが、幸運なことにカルメル会の保護を受けてスミュール=アン=ノーソワにて高等教育を受ける機会が得られ、数学、幾何学、理学など後の業績につながる知識を得ることができた。 17歳でコンデ公ルイ2世の軍隊に入隊し、フロンドの乱︵1648年 - 1653年︶に将校として参加する。その働きぶりがコンデ公の目にとまり、要塞の築城を任されることになった。しかし1653年にヴォーバンは国王軍に捕らえられ、マザランのとりなしでルイ14世に仕え、テュレンヌ元帥の連隊に配属された。こうして今度は自らが築城した要塞を自ら攻略する立場となった。 フロンドの乱とそれに続くフランス・スペイン戦争が1659年に終結するまでの間、ヴォーバンは10回の攻囲戦に参加、グラヴリーヌの攻囲戦では技術士官団長に任じられ、たびたび負傷した。この間、1655年に王室侍従技術官︵技術士官︶に任命され、当時著名な軍事技術者であったルイ・ニコラ・ド・クレルヴィルに師事する。またこの時に歴史あるピカルディ連隊の中隊に配属され、軍事工学の専門家として勤務することとなる。同時期に従姉妹のジャンヌ・ドールネーと結婚している。領土拡張戦争[編集]
和平後はダンケルクをはじめとするフランス国内の防衛拠点の築城に従事する。以後、ヴォーバンは平時においては要塞の築城、ルイ14世が行った一連の領土拡張戦争においては敵要塞の攻略を任されるようになっていき、生涯にわたって53の攻囲戦と33の築城を行い、また運河や水道橋も手がけている。ネーデルラント継承戦争︵1667年 - 1668年︶ではドゥエ、トゥルネー、リールなどを攻略。さらにオランダ侵略戦争︵1672年 - 1678年︶ではナイメーヘン、マーストリヒト、トリーア、ブザンソン、ヘントといった重要な攻囲戦を指揮した。 オランダ侵略戦争終結後は築城最高責任者に就任し、一連の戦争でフランスが獲得した領土における防衛体制の整備にあたった。特に、平地の連続するフランドルでは防衛のため要塞が必要と考えられ、ヴォーバンはダンケルクからディナンに至る第一線要塞群15か所と、後方の要塞群13か所の築城を指揮した。 オスマン帝国による第二次ウィーン包囲に乗じて、フランスがスペイン領ネーデルラントに侵攻した際には、ヴォーバンは1683年にコーリック、1684年にルクセンブルク市を攻略した。大同盟戦争︵1688年 - 1697年︶ではフィリップスブルクやナミュールの攻囲戦を指揮した。多分野での功績[編集]
この頃までにヴォーバンは、当時確立していた軍事技術と自らの実戦経験を合わせて、要塞攻城法と要塞築城法を確立した。攻城法としては、1673年のマーストリヒト攻囲戦で平行壕を、アウクスブルク同盟戦争では坑道戦や跳飛射撃︵砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法︶を導入した。築城法としては、以下に述べる﹁第一方式﹂から﹁第三方式﹂と呼ばれる基本設計を体系化した。生涯で、新たに基礎から築いた要塞が37か所、改修に携わった要塞が300か所、攻略した要塞が53か所とされている。 1677年に、陸軍大臣ルーヴォワと、財務大臣コルベールの親友として要塞総監に就任する。1703年1月14日にフランス元帥に叙せられる。同年、﹃要塞攻囲論﹄︵Traité de l'attaque des places︶を著す。だがスペイン継承戦争︵1702年 - 1713年︶では、ヴォーバンが築城した要塞が攻略されるケースもあり、批判を受けることもあった。また、同時期に執筆した﹃要塞防御論﹄︵De la defense des places︶は芳しい評価を得られなかった。 ヴォーバンは農林業や金融政策、植民地経営などに関する著作も残している。またフランス科学アカデミーの名誉会員でもあった。1690年代にはフランス各地の国勢調査を推進し、﹁フランスのウィリアム・ペティ﹂とも綽名された。 彼はまた都市計画家として、ヌフ=ブリザックのように自分で生み出した新しい町を計画した。他には内部を碁盤割にしたパターンの最初例であるアラス、1679年のロンウィ 、1680年のザールルイ、1679年のユナング、1681年のモン=ルイ、1692年のモン=ドー・ファンなどがある。一方でおりにふれて建築家として、リールの司令官邸、教会、造兵廠やジグェ、プリアンソンの教会などの単独の建物も設計し、オーネやユッセの城も修復した。建築家としての長所がもっとも評価されるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁のマッシヴな簡潔さであり、列柱、エンタブラチュア、トロフィー、彫刻した羽目板で豊かにしたリールのパリ門のバロック的華麗さ、モブージュのモン・ゲートの単純な壮大さまで範囲の広がるモニュメンタルな門である。これらにおいて実力が同時代の建築家リベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴な厳格さと壮大さに接近したとみられている。 ヴォーバンはルイ14世の尖兵となって働いたが、同時にルイ14世の政策を批判もしている。1685年のフォンテーヌブローの勅令︵ナントの勅令の廃止︶には特に経済学的な観点から反対した。1707年には課税の平等と下層民の負担軽減を説いた﹃王室の十分の一税﹄︵Projet D'une Dixme Royale︶を著す。同書は重農学派の先駆的業績として知られているが、ルイ14世はこの書に怒り、焚書を命じたという。 同年、パリにて死去した。遺体の一部は現在もオテル・デ・ザンヴァリッドに安置されている。ヴォーバン式要塞[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Neuf-Brisach_007_850.jpg/220px-Neuf-Brisach_007_850.jpg)
- Association Vauban - ヴォーバンの第一方式から第三方式の模式図がある。
後世への影響[編集]
脚注[編集]
- ^ Douze fortifications de Vauban au Patrimoine mondial de l'Unesco dans Le Monde du 7 juillet 2008.
- ^ Douze sites de Vauban classés au Patrimoine mondial de l'humanité dans Le Figaro du 8 juillet 2008.
- ^ 榴弾の破壊力を柔軟な土塁で吸収させるため。また爆発直後の飛沫が兵士を傷つける事を防ぐことが可能。
参考文献[編集]
- Association Vauban
- Montmédy
- 『戦略戦術兵器事典(3) ヨーロッパ近代編』, 学研, ISBN 4056007446
- Fortifications of Saint-Martin-de-Ré - île de Ré - France (in French)
- R.Blomfield Sebastian le Prestre de Vauban 1633-1707
- M.Parent J.Verroust Vauban 1971