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'''デイシュ'''︵'''Däišü'''、? - [[大徳 (元)|大徳]]9年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]︵[[1306年]][[1月3日]]︶︶は、[[元 (王朝)|元]]の成宗[[テムル]]の長男で、[[モンゴル帝国]]の[[皇族]]である。﹃[[元史]]﹄での漢字表記は徳寿、﹃[[集史]]﹄での[[ペルシア語]]表記はTāshī Ṭāīshīتاشی طایشی。テムルより[[皇太子]]︵ペルシア語-[[アラビア語]]ではvilāyat-ʿahd、﹁統治の代理者﹂の意 |
'''デイシュ'''︵'''Däišü'''、? - [[大徳 (元)|大徳]]9年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]︵[[1306年]][[1月3日]]︶︶は、[[元 (王朝)|元]]の成宗[[テムル]]の長男で、[[モンゴル帝国]]の[[皇族]]である。﹃[[元史]]﹄での漢字表記は徳寿、﹃[[集史]]﹄での[[ペルシア語]]表記はTāshī Ṭāīshīتاشی طایشی。テムルより[[皇太子]]︵ペルシア語-[[アラビア語]]ではvilāyat-ʿahd、﹁統治の代理者﹂の意{{sfn|杉山|1995|p=118}}︶に任ぜられていたが、テムルより早世したためカーン位を継ぐことはなかった。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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デイシュの母については史料間で違いがあり、『元史』后妃伝では[[コンギラト]]部出身の[[シリンダリ]]皇后とし、『集史』/『[[ワッサーフ|ワッサーフ史]]』では[[バヤウト]]部出身の[[ブルガン]]皇后としている。しかし、『元史』后妃伝の「大徳3年10月、(失憐答里)立為后。生皇子徳寿、早薨」という記述はまず皇后となった人物を取り違えている(実際に大徳三年に皇后となったのはブルガン)など問題があり、『[[山居新話]]』や『[[輟耕録]]』といった漢文史料でもデイシュの母をブルガン(卜魯罕)としていることなどから、ブルガン・ハトゥンがデイシュの母であると考えられている |
デイシュの母については史料間で違いがあり、﹃元史﹄后妃伝では[[コンギラト]]部出身の[[シリンダリ]]皇后とし、﹃集史﹄/﹃[[ワッサーフ|ワッサーフ史]]﹄では[[バヤウト]]部出身の[[ブルガン]]皇后としている。しかし、﹃元史﹄后妃伝の﹁大徳3年10月、︵失憐答里︶立為后。生皇子徳寿、早薨﹂という記述はまず皇后となった人物を取り違えている︵実際に大徳三年に皇后となったのはブルガン︶など問題があり、﹃[[山居新話]]﹄や﹃[[輟耕録]]﹄といった漢文史料でもデイシュの母をブルガン︵卜魯罕︶としていることなどから、ブルガン・ハトゥンがデイシュの母であると考えられている{{sfn|宇野|1999|p=63-64}}。
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『元史』によると、デイシュは[[大徳 (元)|大徳]]9年6月5日(新暦[[1305年]]6月27日)、テムルによって皇太子とされ、このことは詔によって天下に告げられた<ref>『元史』巻21成宗本紀4,「大徳九年六月庚辰、立皇子徳寿為皇太子、詔告天下」</ref>。『ワッサーフ史』ではブルガンの専横に反感を抱く重臣らの反対工作があったにもかかわらず、テムルにより「統治の代理者」に任ぜられたと記されている。 |
『元史』によると、デイシュは[[大徳 (元)|大徳]]9年6月5日(新暦[[1305年]]6月27日)、テムルによって皇太子とされ、このことは詔によって天下に告げられた<ref>『元史』巻21成宗本紀4,「大徳九年六月庚辰、立皇子徳寿為皇太子、詔告天下」</ref>。『ワッサーフ史』ではブルガンの専横に反感を抱く重臣らの反対工作があったにもかかわらず、テムルにより「統治の代理者」に任ぜられたと記されている。 |
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しかし、皇太子となって僅か半年後の12月18日(1306年1月3日)に、デイシュは亡くなった<ref>『元史』巻21成宗本紀4,「大徳九年十二月庚寅……皇太子徳寿薨」</ref>。皇太子とされた直後の死であり、テムルの死後に新しいカーン(武宗と仁宗)の母として実権を握ったダギが関与していたのではないかとする説もある |
しかし、皇太子となって僅か半年後の12月18日︵1306年1月3日︶に、デイシュは亡くなった<ref>﹃元史﹄巻21成宗本紀4,﹁大徳九年十二月庚寅……皇太子徳寿薨﹂</ref>。皇太子とされた直後の死であり、テムルの死後に新しいカーン︵武宗と仁宗︶の母として実権を握ったダギが関与していたのではないかとする説もある{{sfn|宇野|1999|p=41-42}}。
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デイシュが子をなす前に早世したためテムルの末裔から次のカーンを輩出することはできなくなり、テムルは親族の中から後継者を捜さなければならなくなった。正当性から言えばテムルの兄である[[カマラ (元朝)|カマラ]]と[[ダルマバラ]]の系統が最も帝位に近かったが、特にクビライから愛されていたダルマバラの息子達が有力視されていた。しかしダルマバラの妃のダギと反目していたブルガンはダルマバラの長男の[[カイシャン]]を[[カイドゥ]]との戦いの前線に送り込み、ダギと次男の[[アユルバルワダ]]を[[懐慶路|懐州]]に派遣して朝廷から遠ざけ、テムルの従兄弟に当たる安西王[[アナンダ]]を後継者としようとした<ref>ドーソン1971, 175頁</ref>。
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デイシュが子をなす前に早世したためテムルの末裔から次のカーンを輩出することはできなくなり、テムルは親族の中から後継者を捜さなければならなくなった。正当性から言えばテムルの兄である[[カマラ (元朝)|カマラ]]と[[ダルマバラ]]の系統が最も帝位に近かったが、特にクビライから愛されていたダルマバラの息子達が有力視されていた。しかしダルマバラの妃のダギと反目していたブルガンはダルマバラの長男の[[カイシャン]]を[[カイドゥ]]との戦いの前線に送り込み、ダギと次男の[[アユルバルワダ]]を[[懐慶路|懐州]]に派遣して朝廷から遠ざけ、テムルの従兄弟に当たる安西王[[アナンダ]]を後継者としようとした<ref>ドーソン1971, 175頁</ref>。
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しかし、かねてよりブルガンの専権に反感を抱いていたカラカスンらによって使者がカイシャンとアユルバルワダの下に送られ、アユルバルワダのクーデターによってブルガンとアナンダは捕らえられた。さらにモンゴリアで諸王の支持を得たカイシャンが戻ると正式にカーンに即位し、ブルガンとアナンダは処刑された<ref>ドーソン1971, 180頁</ref>。これによって、以後[[イェスン・テムル]]と[[アリギバ]]を除きモンゴル帝国︵元朝︶のカーンはダルマバラの子孫から輩出されるのが慣例となった。結果としてデイシュの早世がテムル死後の内紛の遠因を生み、同時にダルマバラ家の興隆をもたらすこととなった |
しかし、かねてよりブルガンの専権に反感を抱いていたカラカスンらによって使者がカイシャンとアユルバルワダの下に送られ、アユルバルワダのクーデターによってブルガンとアナンダは捕らえられた。さらにモンゴリアで諸王の支持を得たカイシャンが戻ると正式にカーンに即位し、ブルガンとアナンダは処刑された<ref>ドーソン1971, 180頁</ref>。これによって、以後[[イェスン・テムル]]と[[アリギバ]]を除きモンゴル帝国︵元朝︶のカーンはダルマバラの子孫から輩出されるのが慣例となった。結果としてデイシュの早世がテムル死後の内紛の遠因を生み、同時にダルマバラ家の興隆をもたらすこととなった{{sfn|杉山|1995|p=145}}。
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== 脚注 == |
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