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|strength1=歩兵 16,300<br/>騎兵 9,300<br/>大砲 54 |
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2007年8月30日 (木) 13:22時点における版
ネルトリンゲンの戦い︵Schlacht bei Nördlingen︶とは、三十年戦争中の1634年9月6日にドイツのネルトリンゲン郊外で行われた戦いである。スウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯のハイルブロン同盟と、皇太子フェルディナントを総司令官とする、神聖ローマ皇帝軍およびスペイン軍が交戦し、皇帝軍が勝利した。
経緯
カソリックの動き
1634年2月25日にヴァレンシュタインが皇帝によって暗殺されると、総司令官の座は空白となった。皇帝フェルディナント2世は、皇帝の嫡男であるフェルディナントを総司令官に任命した。皇帝による強引な人事であったが、フェルディナントが帝位継承者である事を帝国内に知らしめるものでもあった。しかしフェルディナントの地位はあくまで飾り物であったが、彼はネルトリンゲンにおける勝利によってその存在を知らしめる事に成功する事となる。
プロテスタント側の対応
一方、プロテスタント勢力は、英雄となったスウェーデン王グスタフ・アドルフの死によって士気が低迷していた。ヴァレンシュタイン暗殺後、スウェーデンでは宰相オクセンシェルナが5月18日にハイルブロン同盟を結んでいたが、結成当初からこの同盟関係はぎくしゃくしていた。スウェーデン軍の強大化を望まなかったザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世が、スウェーデンが同盟の盟主に立つ事を拒絶した上に、フランス王国宰相リシュリューが同様の理由から、条約違反を盾に同盟に横槍を入れたのである。結局、指揮はヴァイマルのベルンハルトとスウェーデン軍の将軍グスタフ・ホルンが取る事になったが、同盟はフランスの影響下に置かれる事となった。これがスウェーデン軍にとっては弱点となり、ベルンハルトとホルンには軋轢すら生まれつつあったのである。
両軍ネルトリンゲンへ
こうした状況下では、プロテスタント勢力は完全には劣勢を打開できなかった。それでも攻勢に出てバイエルンとボヘミアに軍を二手に分けて攻撃するも、戦況はどうにも芳しくない。この情勢を見た皇帝軍は着々と南ドイツを勢力下に収めていく。そして、とうとう皇帝軍はプロテスタントの帝国都市ネルトリンゲンを包囲した。ネルトリンゲンはハイルブロン同盟の重要な都市であった。皇帝軍が頼みとしていたスペイン軍は9月2日に到着。後方を突かれた同盟軍はネルトリンゲンへと取って返す。
開戦
9月6日、両者はネルトリンゲン郊外で開戦する。皇帝軍・スペイン軍は33,000人、対してハイルブロン同盟軍は25,000人。グスタフ・アドルフであったらこの程度の差は劣勢ではなかったかもしれない。しかし、同盟軍はベルンハルトとホルンの反目により統制がとれていなかった。
開戦当初は同盟軍が優勢に立つ。彼らの狙いは皇帝が陣を張る丘である。ドイツ人の兵はスウェーデン軍を恐れて攻勢に出られず、一方スウェーデン軍は我先にと皇帝の陣取る丘に突撃を繰り返した。結果として皇帝軍は丘から撤退、スウェーデン軍は丘を占拠したかに思われたが、統制の取れていなかったスウェーデン兵が火薬処理に失敗して死傷者が出るに至り、同盟軍に動揺が走った。そして、皇帝軍の後方に控えていたスペイン軍が投入され、丘は奪回される。その後も混戦が続いたが、スペイン軍の堅い守りに遮られ同盟軍は敗退した。
損害の大半はスウェーデン軍であった。スウェーデン軍の戦死者だけで17000人、捕虜は4000人にも上ったのである。そしてその捕虜の中にホルン将軍も含まれていたのである。
戦果
勝利の報を受け取った皇帝フェルディナント2世は、嬉し涙に咽んだと言う。
また、スウェーデンとハイルプロン同盟はこれ以降極度の不振に陥ってしまい、ドイツ中部や南部の帝国都市は次々と皇帝軍によって奪回された。ザクセン公は皇帝との単独講和を模索し始め、ハイルブロン同盟は形骸化し、スウェーデン軍は本国と切り離された所為で戦費を調達出来なくなって勢力が減退した。
そして翌1635年2月、ザクセン公は皇帝と休戦し、5月30日には﹁プラハ条約﹂で和睦したのである。