ハワイの歴史
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ハワイの歴史︵history of Hawaii︶
ハワイの語源
ハワイ︵Hawaii︶という名称に関しての由来は諸説あり、最初に発見したポリネシア人ハワイ・ロアから取ったとする説[1][2]、ポリネシア語で﹁小さな故郷﹂を意味する﹁ハワイキ﹂から来たとする説[1][2]、ポリネシアの西方にあるとされる伝説の地ハワイキに由来するとする説[1]、紀元前7世紀から3世紀にかけて形成されたポリネシア基語サワイキに基づくとする説[1]などがある。ハワイの神話クムリポ
ハワイには天地創造にまつわる神話としてクムリポがある。ハワイの王家に伝えられた伝承で、1700年ごろに作られたものとされ[3]、1881年[4]にカラカウアが公表し、1889年にリリウオカラニによって英訳された[4]。 ﹁この世は長い夜よりはじまり、珊瑚、フジツボ、ナマコ、魚、植物、爬虫類が誕生する。生物がいっぱいになると神々が生まれ、やがて昼がはじまり、人間が誕生する…﹂[4]というもので、森羅万象の神カーネ、農耕・豊穣の神ロノ、森・海・山・戦いの神クー、海の神カナロア、火山の女神ペレ、雪の女神ポリアフなどが登場する[5]。伝説ではハワイの最初の男︵クリムポ︶と最初の女︵ポエレ︶が生まれたとしている。先史時代
「太平洋島嶼史」も参照
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ハワイ諸島は250年ごろにカタマランやアウトリガーカヌーを操るマルキーズ諸島からやってきたポリネシア人によって発見されたと見られ、さらに数世紀後900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民が定着したのがはじまりとされている[6]。彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだ。この﹁大航海﹂は14世紀頃まで続いた[6]。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われた。ピウス・マウ・ピアイルグら17人の男女が乗り込んだ丸木舟﹁ホクレア号﹂は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明した[7]。
12世紀ごろには族長︵アリイ︶による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。アリイを頂点とし、神官︵カフナ︶、職人や庶民︵マカアイナナ︶、奴隷︵カウバ︶が続いた[8]。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の線を土地の基本単位とし、境界線には豚︵プアア︶をかたどった像︵アフ︶が備えられた[8]。
アリイはヘルメットをかぶり、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされた[8]。また、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者や他の土地の捕虜の階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた[8]。時にはカフナの行うまじない事の生贄とされることもあった。
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ジェームズ・クックの最期
1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が﹁発見﹂され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした[9]。クックは、航海事業のパトロンのひとりであった英国貴族サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名し、欧米にその存在を知らしめた。このとき先住民はクックを収穫の神ロノとして崇めたという[9]。
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ハワイ王カメハメハ1世
その後、同年11月にハワイを再訪したクックは、マウイ島を経てハワイ島へ上陸した。ここでもクックはロノとして崇められ、様々な儀式が行われたが、神殿の棚や木製偶像を船員らが燃料用にと持ち去ったことを受け、不信感を抱くようになった[10]。翌1779年2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとした。先住民たちは険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックは大族長カラニオプウを人質として拘束した。この諍いは乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った[10]。
このころのハワイ諸島には大族長︵アリイ・ヌイ︶による島単位での統治が行われていた[11]。ハワイ島を先のカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神︵クカイリモク︶という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成された[12]。
クックのハワイ諸島発見以降、交易を求める者や植民地主義の帝国からの来航が頻繁に発生していたが[注釈 1]、カメハメハは、外交手腕に優れ、欧米列国の領土的野心を封じる先見性も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーを懇意にし、1794年2月24日、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付けることに成功した。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手に1795年2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出し、同年4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧し、ハワイ王国を誕生させた。
1800年、残りの島の目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニイハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸島の統一を成し遂げた。
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ハワイ王国の隆盛
「ハワイ王国」も参照
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カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政︵クヒナ・ヌイ︶の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの妻であるケオプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度︵カプ︶の廃止を進めた[13]。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなった[14]。
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カアフマヌ
1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった[15]。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた[15]。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がって行った。
外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいった[16]。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴いた。しかし一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまった。リホリホの死を受け、若干10歳の弟、カウイケアオウリが翌1825年6月6日に大王に即位する。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した[16]。
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カウイケアオウリ︵カメハメハ3世︶
1827年、フランスよりカトリック系の神父が布教を目的としてハワイへ上陸したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じる。しかし1837年、再びカトリック系神父が来航したことから同年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続けた[17]。プロテスタントの宣教師らはまずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年にはアルファベットによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新聞﹃カ・ラマ・ハワイ﹄︵1834年6月、マウイ島︶、﹃クム・ハワイ﹄︵1834年10月、ホノルル︶が発行され、1839年には聖書が出版された[18]。徹底した文教政策が功奏し、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行した。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた[18]。
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アレクサンダー・リホリホ︵カメハメハ4世︶
1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し進め、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に﹁権利宣言﹂を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立した。1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他所に、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる[注釈 2]。こうした土壌で、1852年にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法にはエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなった[19]。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。1848年には土地法が制定され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された[20]。しかし1850年、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となり、生活の基盤を失うこととなった。
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ロト・カメハメハ︵カメハメハ5世︶
1854年、カウイケアオウリの没後、1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就いた。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、英国国教会をハワイに設立し、イギリス本土よりカトリック系の聖職者を招いた。この背景には息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる[21]。しかし、1862年に溺愛する息子を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡し、この目論見が未達に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。
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ルナリロ︵初の選挙選出によるハワイ王︶
ロト・カメハメハは王権復古を目指して1864年8月20日に新憲法を公布した。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧した[注釈 3]アメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画をはじめた[22]。こうした中、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝する。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされたが、ルナリロが結核にかかり、そのまま没したため、王位は再び議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫にあたるカラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。
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カラカウア︵第7代ハワイ王︶
カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げた。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として﹁ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない﹂との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車がかかることとなった[23]。有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づいた1883年、この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが[24]、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより、﹁その他の、より高次元な益がある﹂として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件[注釈 4]として1887年11月に条約の更新がなされた[24]。
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リリウオカラニ︵最後のハワイ王︵女王︶︶
1887年、野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが設立された。同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力し、カラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。その後、ホノルルライフルズらが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月6日に通称ベイオネット憲法[注釈 5]が成立し、王権の弱体化はさらに進んだ[25]。カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権の復古を試みたが[25]、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて客死した。1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹にあたるリリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続き、1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされた[26]。
リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した[27]。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画をはじめた[27]。
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革命の舞台となったイオラニ宮殿
1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された﹁公安委員会﹂を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけをおこなった[28]。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された[28]。目的はこの集会にてリリウオカラニによる﹁新憲法を公布しない﹂という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった[28]。翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた[28]。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン号艦長ギルバート・ウィルツへ﹁ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する﹂と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された[29]。かけつけたホノルルライフルズらによって政府庁舎および公文書館が占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは﹁暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない﹂と回答した[注釈 6]。これを受け、リリウオカラニはドールに対し、
私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。
……︵中略︶……
軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。
紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ
--中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄p.93-94
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アメリカ合衆国大統領グロバー・クリーブランド
との文書を送付した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された[30]。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったグロバー・クリーブランド大統領は、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索したが、それは不可能であり、次善策としての金銭的賠償しかないと結論付けた[31]。
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ハワイ併合で初代知事としての任命を受けるドール
こうした状況を知ったサーストンらは、併合に時間がかかると見て、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した[32]。初代大統領はドールが継いだ。1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱があり、鎮圧にあたった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名した。
1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる[33]。アメリカは既にハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった[33]。そして7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合の為の決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚がつくこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。
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ハワイ王国の崩壊
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Sanford_B._Dole_and_Harold_M._Sewall_%28PPWD-8-3-009%29.jpg/250px-Sanford_B._Dole_and_Harold_M._Sewall_%28PPWD-8-3-009%29.jpg)
軍事拠点としてのハワイ
アメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放された[34]。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされている[34]。こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へとつながった。1907年に転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされた。また、ハワイ本土においてストライキが法的に有効になったことを受け、これを挙行する労働者が増加した。 アメリカでの排日運動が活発化するにつれ、ハワイにおいても日本人に対する風当たりは日に日に厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こうした日本人の生活形態や日本人労働者やその子供に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げられ、日本人排斥論として世論を形成していった[35]。こうした批判からくる不信感はやがて共産主義者の陰謀論などと結びつけて日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となった[36]。そんな中で、第一次世界大戦が終結し、生産の機械化や合理化が労働を奪い、アメリカに不況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出てきた。1924年には移民数の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされた。 1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。すぐさま戒厳令が布かれ、多くの戦時規制がなされた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設された[37]。同時に、日系人に対する不信感はさらに高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男子は4C︵敵性外人︶に分類され、既に徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊させられた[37]。ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付し、日系人による軍事部隊、第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団︵V.V.V︶を結成した[37]。やがて第二次世界大戦が終結し、ハワイに平和が戻ると、ハワイの市民にアメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高まり、立州運動がにわかに叫ばれるようになった。ハワイ州の成立
「ハワイ州の歴史」も参照
そもそも、ハワイの立州化はハワイ王国、カメハメハ3世時代から幾度と無く持ち上がった意見であった[38]。この時は次王であるアレクサンダー・リホリホが併合反対の立場をとったことから、立ち消えとなった。次に話題となったのはアメリカ併合時で、初代知事のドールは就任演説でハワイの立州化について言及していた。その他、1919年にジョナ・クヒオが連邦議会に訴えるなどしたが、散発的であった。
戦後、ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけにより、また、ハリー・S・トルーマン大統領の支持もあったことから[39]、1946年連邦議会はハワイをアメリカ合衆国の正式な州とすべきかどうか、再度検討をはじめた。ファーリントンは翌年、ハワイ立州法案を連邦議会に提出したが、上院で廃案となり未達に終わった。しかし、これをきっかけとして立州化は共和党や民主党のマニュフェストに組み込まれるなど、大きな動きを持つようになる。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠点であると断じ、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険であるとした[40]。
1950年代に入ると公民権運動が活発化し、これに便乗するかたちで、ハワイおよびアラスカの立州化運動が行われ、1959年3月11日、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛成323、反対89で可決し、連邦議会はハワイ州昇格を承認した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1959年8月21日、宣言書調印を行い、正式にアメリカ合衆国の50番目の州に認められることとなった。﹁今や私たちは皆ハオレ﹂といった流行語が誕生するほど歓迎ムード一色となり、ハワイ市民は達成感と新たな期待に酔いしれた[41]。
注釈
(一)^ 1789年のロバート・グレー︵アメリカ︶、1791年のマヌエル・カンペル︵スペイン︶など
(二)^ 宣教師リチャード・アームストロング、1844年教育指導大臣就任、ニューヨークの弁護士ジョン・リコード、1844年法務大臣就任、スコットランドの医者ロバート・ワイリー、1854年外務大臣就任、アメリカの宣教師団付の医者のジェリット・ジュット、内務大臣就任、弁護士ウィリアム・リトル・リー、最高裁判所判事就任など。
(三)^ ハワイ駐在公使ジェームズ・マックブライドが国務長官ウィリアム・スワードに宛てた1863年10月9日の報告には﹁ハワイ諸島のために過去40年にわたり親身を尽くし文明を授けたというのに、イギリス人による支配を認めることはアメリカ人に対する不義である﹂と記されている。
(四)^ カラカウアは真珠湾の独占使用権に反対したが、ヘンリー・カーターらの働きかけにより、7年という期限付きでの独占使用が認められた。
(五)^ ベイオネットは﹁銃剣﹂を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった
(六)^ ﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄で中村は、この回答はスティーブンスの独断であり、正式なものではなかったが、アメリカが暫定政府側に付く事でもはや降伏しかできないという印象操作を行うためのものであったと解説している。事実、当該内容の報告を国務長官ジョン・フォースターが受け取ったのは1月28日であり、暫定政府を追認せざるを得ない状況になってからであった。
脚注
(一)^ abcd中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.17頁。ISBN 4-487-75396-1。
(二)^ ab石出みどり、石出法太﹃ハワイの歴史Q&A﹄大月書店、2005年、p.13頁。ISBN 4-272-50209-3。
(三)^ 延江俊輝 (2000年7月30日). “ハワイの神話と伝説-創世神話クムリポ”. 6月28日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
(四)^ abc石出みどり、石出法太﹃ハワイの歴史Q&A﹄大月書店、2005年、p.34頁。ISBN 4-272-50209-3。
(五)^ 石出みどり、石出法太﹃ハワイの歴史Q&A﹄大月書店、2005年、p.35頁。ISBN 4-272-50209-3。
(六)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.18頁。ISBN 4-487-75396-1。
(七)^ 石出みどり、石出法太﹃ハワイの歴史Q&A﹄大月書店、2005年、p.38頁。ISBN 4-272-50209-3。
(八)^ abcd中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.19頁。ISBN 4-487-75396-1。
(九)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.20頁。ISBN 4-487-75396-1。
(十)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.21頁。ISBN 4-487-75396-1。
(11)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.22頁。ISBN 4-487-75396-1。
(12)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.23頁。ISBN 4-487-75396-1。
(13)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.31頁。ISBN 4-487-75396-1。
(14)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.32頁。ISBN 4-487-75396-1。
(15)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.33頁。ISBN 4-487-75396-1。
(16)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.34頁。ISBN 4-487-75396-1。
(17)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.35頁。ISBN 4-487-75396-1。
(18)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.36頁。ISBN 4-487-75396-1。
(19)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.38頁。ISBN 4-487-75396-1。
(20)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.39頁。ISBN 4-487-75396-1。
(21)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.59頁。ISBN 4-487-75396-1。
(22)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.61頁。ISBN 4-487-75396-1。
(23)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.76頁。ISBN 4-487-75396-1。
(24)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.77頁。ISBN 4-487-75396-1。
(25)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.81頁。ISBN 4-487-75396-1。
(26)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.83頁。ISBN 4-487-75396-1。
(27)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.84頁。ISBN 4-487-75396-1。
(28)^ abcd中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.90頁。ISBN 4-487-75396-1。
(29)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.92頁。ISBN 4-487-75396-1。
(30)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.95頁。ISBN 4-487-75396-1。
(31)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.99頁。ISBN 4-487-75396-1。
(32)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.104頁。ISBN 4-487-75396-1。
(33)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.123頁。ISBN 4-487-75396-1。
(34)^ ab中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.148頁。ISBN 4-487-75396-1。
(35)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.160頁。ISBN 4-487-75396-1。
(36)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.164頁。ISBN 4-487-75396-1。
(37)^ abc中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.180頁。ISBN 4-487-75396-1。
(38)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.195頁。ISBN 4-487-75396-1。
(39)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.199頁。ISBN 4-487-75396-1。
(40)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.214頁。ISBN 4-487-75396-1。
(41)^ 中嶋弓子﹃ハワイ・さまよえる楽園﹄東京書籍、1993年、p.218頁。ISBN 4-487-75396-1。
略年表
先史時代 | 250年ごろ | マルキーズ諸島からポリネシア系住民がハワイに定住する |
900年ごろ | ソシエテ諸島からポリネシア系住民がハワイに定住する | |
1778年 | イギリスのジェームズ・クックがハワイに来航する | |
1779年 | ジェームズ・クックがハワイ島で殺害される | |
1789年 | アメリカ国籍の船がハワイ諸島へ初来航する | |
ハワイ王国 | 1795年 | カメハメハ大王が王位に就く |
1819年 | カメハメハ大王が没し、カメハメハ2世が即位する | |
1820年 | アメリカからタディアス号が到着する。宣教師団の影響がハワイへ広がる | |
1823年 | カメハメハ2世が没する | |
1825年 | カメハメハ3世が即位する | |
1834年 | マウイ島で初の新聞が発行される | |
1835年 | コロア製糖会社が設立され、製糖業が盛んになる | |
1837年 | カトリック禁止令発布 | |
1839年 | 権利宣言が発布される | |
フランスと不平等条約が締結される | ||
1840年 | ハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立する | |
1842年 | アメリカとの独立承認交渉によりジョン・タイラー大統領により独立が認められる | |
1843年 | ヨーロッパとの独立承認交渉によりイギリス女王・フランス国王により独立が認められる | |
1844年 | ハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められる | |
1845年 | 第一回ハワイ議会召集、基本法が制定される | |
ホノルルが首都となる | ||
1848年 | マヘレ法が制定される | |
1849年 | 初の平等条約となるアメリカ修好通商条約が締結される | |
1850年 | クレアナ法が制定され、外国人による土地所有が認められる | |
1851年 | フランスの武力占拠に対し、ハワイを米国保護領下に置くという声明を一方的に発表する | |
1852年 | 奴隷禁止などの革新的な条項が盛り込まれた新憲法が制定される | |
1854年 | カメハメハ3世が没し、カメハメハ4世が即位する | |
1863年 | カメハメハ4世が没し、カメハメハ5世が即位する | |
1864年 | 新憲法が制定される | |
1868年 | ユージン・ヴァン・リードが日本人153名を無許可でハワイ渡航させる | |
1871年 | 日布修好通商条約が結ばれる | |
1872年 | カメハメハ5世が没する | |
1873年 | ルナリロが選挙による初のハワイ王に就任する | |
1874年 | 新憲法が公布される | |
ルナリロが没し、カラカウアが即位する | ||
カラカウア訪米 | ||
1875年 | 米布互恵条約が締結される | |
1881年 | カラカウアが世界周遊を行う | |
1882年 | イオラニ宮殿が建設される | |
1886年 | 日布渡航条約が締結される | |
1887年 | 真珠湾の独占使用を盛り込み、米布互恵条約が更新される | |
秘密結社ハワイアンリーグ設立 | ||
ベイオネット憲法公布 | ||
1889年 | ウィルコックスの反乱 | |
1891年 | カラカウアが没し、リリウオカラニが即位する | |
ハワイ共和国 | 1893年 | 1月12日、リリウオカラニ新内閣に不信任決議が提出される |
1月14日、公安委員会結成 | ||
1月15日、公安委員会が市民集会の呼びかけを行う | ||
1月16日、公安委員会主導の市民集会が開催される。これを受け、米国海軍がハワイへ上陸 | ||
1月17日、サンフォード・ドールが暫定政府の樹立を宣言する | ||
1月19日、欧米諸国が暫定政府を承認する | ||
2月1日、米国公使が暫定政府の米国保護下の状態を承認する | ||
12月18日、グロバー・クリーブランドが米国公使の過ちを認め、王政復古を求める | ||
1894年 | 暫定政府がハワイ共和国誕生を宣言する | |
1895年 | ハワイ人王権派が武装蜂起、リリウオカラニらが逮捕される | |
1897年 | ウィリアム・マッキンリーによりハワイ併合が承認される | |
米国領土ハワイ | 1900年 | ハワイ領土府が設立される。ドールが初代知事となる |
1901年 | ジョナ・クヒオが共和党より連邦議会へ立候補し、当選する | |
1907年 | ハワイから米国本土への渡航が禁止される | |
1919年 | クヒオがハワイ州の立州を訴える | |
1931年 | マッシー事件が起こる | |
1935年 | ハワイ立州法案が連邦議会に提出される | |
1941年 | 真珠湾攻撃 | |
1945年 | 太平洋戦争が終結する | |
ハワイ州 | 1959年 | ハワイ立州法案が可決され、50番目の州としてハワイ州が誕生する |
1974年 | ハワイ州知事として初の日系人ジョージ・アリヨシが当選する | |
1978年 | ハワイ語が州の公式言語となる |