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上田自由大学

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 上田自由大学の講座の開講時期は、農村青年の時間的な余裕を考慮して、いわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月までとし、聴講料は聴講者が1講座3円程度を負担し、人文科学系の講座を中心に、1講座平均5日間、1日平均約3時間の講義を行っている。講師には、法律哲学の恒藤恭をはじめ、哲学概論の土田杏村、文学論のタカクラ・テル(高倉輝)、哲学史の出隆、社会学の新明正道、政治学の今中次麿など、学問の分野でも新しい機運を代表する人々が招かれた。その講義内容は、どの講師も普通の大学での講義と同様なものを講義していたと考えられており、現存する筆記ノートによればかなり高度であったことが知られる。今中次麿は「私の一番嬉しいのは私が学校に於けると同じい自由を与えられ同一程度の講義をしたにも係はらず御諒解下すった御様子を見出たことであります」と語っている(馬場直次郎ノート「上田自由大学講座筆記」)。また自由大学1週間の講義は大学1年間の講義に匹敵したといわれ、第2期に出講した山口正太郎は、「大阪商大の一年分の講義が五日目に終ってしまって、あわてて宿屋で翌日の講義の準備をし」たというエピソードも残っている(高倉テル「自由大学運動の経過との意義」『教育』第5巻第9号、1937年)。
 聴講者は、1講座当たり40名で、比較的富裕な中農層の農村青年と小学校教員が多かったが、なかには少数ながら芸妓や女教師など女性の参加も見られた。自由大学では、聴講者と講師とは学問への情熱によって結ばれ、たとえば、恒藤恭は「寒さにひきしまった空気の中に、静けさがみち渡り、あかるくたのしげに輝く電燈の下に、聴講の方々の熱のこもった瞳をみひらいて、じっと聴講して下さるのを眺めながら、私は時間のうつるのを気付かないでしゃべりました」と語り(前掲「信濃自由大学聴講者諸君!」)、出隆は「毎晩三時間あまりはみっちり講義をすることができたし、またその講義の前後にも、社務所に泊まりこみの熱心な青年もあって、いろいろ話し合ったが、みんな自分の気持ちをむきだしに話す真剣で実直な人々だった」と回想している(『出隆自伝』1963年)。自由大学の講師の中で最も人気のあったタカクラ・テルは、別所温泉に移住し、病気の土田の後を継いで自由大学を指導していった。

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 上田自由大学でも、1925年頃からさまざまの運営上の困難に直面するようになった。特に聴講者の減少にともなう財政上の困難は、自由大学の経営に大きな影響を与えた。この地域の養蚕業の停滞と不安定の傾向の継続にともなって 自由大学の聴講料は青年にとって負担となり、聴講者は減少し始めたのである。また、自由大学の講義内容が人文科学系の学問に偏っていることへの批判に加え、自由大学に熱心であった講師の海外留学による講師難、タカクラ・テルと猪坂直一との間の亀裂など問題が重なり、263月以降、ついに講座の中断を余儀なくされた。

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沿革

  • 1921年 信濃自由大学として開校
  • 1924年 上田自由大学と改称
  • 1931年 廃校(自然消滅)

関連項目

  • 土田杏村
    • 自由大学運動の提唱者。上田自由大学の理事の一人。
  • 北向観音
    • 北向観音の本坊である常楽寺の本堂が住職半田孝海の協力により講義・学習会場に提供された。講師を務めたタカクラ・テルは常楽寺境内にあった離れに居を構えていた。
  • 塩田町
  • 長野大学

外部リンク