「下妻藩」の版間の差分
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2008年6月10日 (火) 10:29時点における版
下妻藩︵しもつまはん︶は、常陸国︵現在の茨城県下妻市下妻甲︶に存在した藩。藩庁は下妻陣屋。
藩史
戦国時代、下妻は結城氏の家臣である多賀谷氏が治めていた。しかし小田原征伐後、結城晴朝の養嗣子として結城秀康が結城氏の当主になると、多賀谷重経は徳川氏に反発し、秀康の臣下になることを嫌々承諾し、その後も朝鮮出兵では秀康の出陣命令を病気と称して拒み、さらに佐竹義宣の弟・多賀谷宣家を養嗣子として迎えるなど、反徳川色をますます強めた。このため、慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いで重経は秀康に従わずに上杉景勝に応じ西軍に与したため、戦後に6万石を改易された。 その後の慶長11年︵1606年︶に徳川頼房が10万石で入るが、慶長14年︵1609年︶12月22日に水戸藩へ移される。代わって元和元年︵1615年︶に上総姉崎藩より秀康の次男・松平忠昌が3万石で入るが、翌年に信濃松代藩へ移封され、代わって下総山川藩から松平定綱が3万石で入るが、元和5年︵1619年︶には遠州掛川藩へ移封されるなど、短期間で藩主がめまぐるしく変わった。その後、正徳2年︵1712年︶までは天領となる。 正徳2年12月25日、井上正長が1万石で入ったことから、再び下妻藩が立藩する。正長は美濃郡上藩主・井上正任の三男であったが、父から3000石を分与されて交代寄合となり、徳川家宣が甲府藩主の時代からその家老を務め、家宣が将軍後継者となると西の丸御側衆となり、3000石を加増された。そしてその後も順調に加増されて8000石になり、家宣が死去するとその遺命により、正長は2000石を加増されて1万石の大名として諸侯に列し、下妻藩主となったのである。 この藩主家である井上氏は歴代藩主の多くが短命だったため、14人の藩主のうち、10人が他家から迎えられたという異例の藩である。第14代藩主・井上正巳のときに明治維新を迎え、正巳は明治2年︵1869年︶6月24日の版籍奉還で藩知事となる。そして明治4年︵1871年︶7月14日の廃藩置県により下妻藩は廃藩となって下妻県となり、同年11月には茨城県に編入されたのであった。 藩主の井上家は幕末期に浜松藩を領した、井上家の分家にあたり、他には上総高岡藩があり、みな、明治維新を迎えている。藩政
藩主家が井上氏に定着するまでは、あまり見るべきところはない。井上氏は小藩さながらの悲しさから、早くから藩財政の窮乏化が始まる。これに対して第3代藩主・井上正辰は領民に重税を課したため、宝暦9年7月に農民による愁訴事件が起こり、それが幕府にも知られて治世不良のために出仕を拒まれることになるほどであった。その後は領内で洪水・旱魃が起こるなど治世は多難を極めた。このため明和年間より倹約や治水工事などが行なわれたが、あまり効果は無かった。 幕末においては、第13代藩主・井上正兼は水戸藩の天狗党鎮圧を命じられた。このとき、天狗党鎮圧のための追討軍本営が下妻に置かれたため、下妻陣屋は天狗党との激しい戦いの末に焼かれてしまった。慶応4年︵1868年︶の戊辰戦争においては、最後の藩主である正巳は新政府軍に与しようとしたが、旧幕府からの圧力を受けて一部の藩士が会津藩との戦いで会津側に与したため、新政府からそれを咎められて改易に処されかけた。しかし藩の家老が懸命に弁明し、さらに佐幕派であった今村昇らを殺害したため、改易の危機を免れたのである。 歴代藩主の多くが若死にしていたため、藩政はその点においても不安定であった。歴代藩主
多賀谷︵たがや︶家
6万石。外様。 (一)多賀谷重経︵しげつね︶︻天正19年藩主就任-慶長6年改易︼徳川︵とくがわ︶家
10万石。親藩。 (一)徳川頼房︵よりふさ︶︻慶長11年藩主就任-慶長14年12月22日移封︼ ※1636年︵寛永13年︶7月以前は松平姓松平︵越前︶︵まつだいら︵えちぜん︶︶家
3万石。親藩。 (一)松平忠昌︵ただまさ︶<従五位下。伊予守>︻元和元年-元和2年1月15日移封︼松平︵久松︶︵まつだいら︵ひさまつ︶︶家
3万石。譜代。 (一)松平定綱︵さだつな︶<従五位下。越中守>︻元和2年藩主就任-元和5年移封︼天領︵てんりょう︶
●元和5年︵1619年︶-正徳2年︵1712年︶。井上︵いのうえ︶家
1万石。譜代。
(一)井上正長︵まさなが︶<従五位下。遠江守>︻正徳2年12月25日藩主就任-享保5年12月4日死去︼
(二)井上正敦︵まさあつ︶<従五位下。遠江守>︻享保5年12月25日藩主就任-宝暦3年6月20日死去︼
(三)井上正辰︵まさとき︶<従五位下。遠江守>︻宝暦3年8月12日藩主就任-宝暦10年5月27日死去︼
(四)井上正意︵まさむね︶<従五位下。遠江守>︻宝暦10年7月20日藩主就任-天明4年2月17日死去︼
(五)井上正棠︵まさき︶<従五位下。遠江守>︻天明4年2月19日藩主就任-寛政元年3月14日隠居︼
(六)井上正広︵まさひろ︶<従五位下。遠江守>︻寛政元年3月14日藩主就任-寛政12年7月4日死去︼
(七)井上正建︵まさのり︶<従五位下。左近将監>︻寛政12年8月25日藩主就任-文化13年9月14日隠居︼
(八)井上正廬︵まさとも︶<従五位下。内膳正>︻文化13年9月14日藩主就任-文政2年12月20日死去︼
(九)井上正民︵まさたみ︶<従五位下。遠江守>︻文政3年2月藩主就任-文政11年3月4日死去︼
(十)井上正健︵まさかた︶<従五位下。遠江守>︻文政11年藩主就任-弘化2年6月27日死去︼
(11)井上正誠︵まさよし︶<従五位下。遠江守>︻弘化2年藩主就任-嘉永5年6月17日死去︼
(12)井上正信︵まさのぶ︶<従五位下。遠江守>︻嘉永5年8月21日藩主就任-安永3年8月14日死去︼
(13)井上正兼︵まさかね︶<従五位下。伊予守>︻安政3年9月10日藩主就任-慶応2年11月23日隠居︼
(14)井上正巳︵まさおと︶<従五位下。伊予守>︻慶応2年11月23日藩主就任-明治4年7月14日藩知事免官︼